脳みそって、こんな感じなんだ。
 足元に転がる死体を見下ろしながら、名取慎二(なとりしんじ)はそんなことを考えた。
 
 もっと、何と言うかぎゅっと、固まっているモノかと。
 でも今この人から出てきたのは、豆腐みたいに柔らかくて、べちゃっと崩れてしまっていて。
 あ、でも、それは俺のせいか。
 いっぱいいっぱい、叩いちゃったから。
 
 ぽたぽたと、手にした鉄の棒の先から、血が滴る音が響く。
 目の前の頭の割れ目から、その中身が覗けてしまっているのを見ると、我ながら見事なフルスイングだったようだ。
 人を一人、殺してしまった。
 だというのに、恐怖も、後悔も、悲しみも、不思議と感じていない。
 今は、期待で一杯だった。

 ──生き残れるかもしれない。
 ライバルを蹴落とし、無事にここから脱出できるただ一人に、なれるかもしれない。

 じわりじわりと、遺体の頭から溢れ出る大量の血が、通路でその領土を拡大している。
 同じ様に、慎二の胸中では、希望が広がっていっていた。
 
 







 
「名取慎二、二十二歳です。新入社員として、この店舗に配属されました。
 精一杯頑張るので、よろしくお願いします」
「あれ、なとりさんって言うんね?この店で、なとり……、ふふ。紛らわしいねえ」
「面接の時にも、結構それ言われました」
「多分お客様にも言われるよ」

 けらけらと笑うパートさん達の前で、慎二がそんな風に自己紹介をしたのは、もう一年半も前になる。
 有名な全国チェーンの家具店に新卒として採用された慎二は、最初に佐賀県の店舗に配属された。
 初めて知ること、すること、されること。
 多くの事を経験しながら、慎二は新入社員として懸命に働いた。元々素直で染まりやすい性格だから、皆が真面目に働くこの店舗で、同じく真面目に働くことは、彼にとっては当たり前のことだった。
 そしてそんな彼を、パートさん達はすぐに受け入れてくれた。
 先輩方が、パートさんとの関係構築が最も大変だと初日の研修で言っていたから、慎二は優しいパートさん達の存在が有難かった。
 生まれも育ちも東京で、この地方に友達など一人も居ない。
 もちろん同期はいるが、店舗同士の距離が離れているため、簡単に会えるわけではない。
 だから慎二は、パートさん達とはコミュニケーションが取れるこの職場を、気に入っていた。
 加えて仕事内容も多岐に渡っていて、毎日が新鮮。
 結論として、この一年と半年、時には厳しい目に遭いながらも、慎二は楽しく働いていたのだった。

 研修だらけの夏を超え、出来る事が少し増えた秋と冬を超え、激務の春を超えた。
 そして、長袖の制服を半袖に着替えてかなり経った頃──。

 慎二は、人生を狂わせられる事となる。

「十月なのに、まだ暑かねえ」
「本当ですね、入荷作業してると汗が出てきます」
「この気温のせいで、温かい敷きパッドも毛布も、少しも売れとらん」
「本部も年間計画の見直し、そろそろしても良さそうですけどね」
 午前十一時。一階の倉庫で、慎二はパートの主婦さんと、そんな会話をしていた。
 大量の荷受けもひと段落して、少し落ち着いた時間帯の、ちょっとした気分転換だ。
「じゃあ僕は、家具売り場に戻りますね」
「はいはい、ありがとねえ」
 ひらひらと手を振るパートさんを残し、慎二は二階へと続く非常階段を上った。
 その家具店では、一階のフロアでは食器や掃除用具などの生活雑貨、いわゆるホームファッションを、二階のフロアではソファやベッドなどの大型家具を販売している。
 慎二は主に家具を担当している為、基本的には二階で仕事をしている。
 だが、今日は、受け取る予定の入荷商品の量が平常時より多かった為、荷受けのヘルプに入っていたのだ。
 カンカン、と足音を鳴らして階段を上り切り、二階のバックヤードへと続くドアを開ける。
 と、一人の男性のパートさんが、三人掛けソファの梱包をしているのが目に入った。
「ああ、東川さん、僕もやります」
 慎二はそこへ慌てて駆け寄り、手伝いを申し出る。
 三人掛けともなると、横幅が180㎝程にもなる。それを幾度もひっくり返し、梱包材を巻くのはかなりの重労働だ。
 しかし東川さんはそんな俺を片手で制した。
 そして、ぶっきらぼうに言う。
「別によかよ、一人で出来るけん」
 去年の春は、東川さんの、この口調に戸惑った。嫌われているのかとさえ思った。
 だが、慎二はもう知っている。
 一見怖そうに見えるこの人は実は、とても優しいことを。
「でも、大きいソファですし……。それに、僕が売った現品なので」
 慎二は、東川さんが手を掛けているソファに見覚えがあった。
 数日前に、とあるお客様に販売したお値下げ品だ。
 お店で展示として使用していた商品は、現品限りではあるが、お客様は少し安く買うことが出来る。
 しかし、それをお客様の家に届けるには一度、店から営業所へ引き渡す必要があり、その前には店舗で傷が付かないように処置を施さなければならないのだ。
 引き下がる慎二を、東川さんはじっと見つめる。それからぼそりと、呟くように慎二に尋ねた。
「そんな暇あるんね?自分の仕事は」
 言い方こそ冷たい。が、その内には自分への気遣いが含まれていることに、慎二はすぐに気付いた。
 だから、首を横に振り、笑顔で言う。
「何とかなります。元々、このソファの梱包は僕がしようと思っていましたし」  
「そう。じゃあ」
 くるりと背を向け、作業に戻る東川さん。
 だが先程より少し、左側に移動している。
 慎二のために、スペースを開けてくれたのだ。
 それが嬉しくて、慎二は彼の隣に走っていった。

 数十分後。
「後は僕がやっときます。東川さんは、別の仕事に入ってもらって大丈夫ですよ」
 ほとんど梱包作業は終了し、後は説明書や予備パーツを準備するだけだった。
 慎二の提案に、東川さんはこくりと一つ頷くと、一階のバックヤードへと向かって行った。
 一人残った慎二も、残りの作業を進める。
 しかしそれはものの数分で完了した為、慎二は少し考え、一度、メールを確認することにした。
 何か追加の作業が本部から下りてきているかもしれないし、来週の作業一覧が見られるようになっているかも。
 二階のバックヤードを後にし、一階の端にあるパソコンルームに足を運ぶ。
 ドアを開け、幾つかあるパソコンの中で、空いている物を使おうとすると、
「名取さん宛てに、メール来てるよ」
 と、別のパソコンを使用していた店長から声を掛けられた。
 期別研修はもう少し先のはずだけどな、と思いながらメールボックスを開くと、確かに本部から一通、メールが届いている。
 慎二はすぐに開いて、内容を確認した。
「特別、研修……?」
「一体何だったの?」
 一回り年上の男の店長も、興味津々、といった様子で慎二に聞いてくる。
「東京の超大型店舗で行われる研修に、参加できるみたいです。なんでも、選抜されたみたいで……」
「何それ何それ、そんな研修初めて聞くんだけど」
 店長と一緒に、詳細を見ていく。
 内容としては、企業内最新店舗の見学や、他店研究など、当たり障りのないものだった。
 しかし、参加者リストに目を通すと、その特殊さに気が付く。
 役職も期も所属店舗も、ばらばらなのだ。
 全員で三十人程度だが、慎二のような若手から、店長クラスと幅広く、さらに、所属店舗も北海道から沖縄まで、全国津々浦々だ。
 リストを見ながら、店長は目を瞠って言った。
「これ、店舗所属の社員全員が選抜対象なんじゃないか……?だとしたら、かなりの少数精鋭選抜だぞ……!やったな、名取さん!」
「名取さん、すごいじゃない!」
 近くで話を聞いていたパートさんも、一緒になって褒めてくれる。
 店長は興奮して、慎二の肩をばんばんと叩いた。
「名取さん、売り上げ成績すごく良いからな。特に今年の五月以降は、毎月個人予算1000%達成してるし、そういうのが認められたのかもな」
「いえ、家具の現品が偶然、良く売れるだけですよ」
 慎二は何が何だか分からず、そう謙遜するのが精一杯だった。
 だが内心では、かなり有頂天になっていた。

 もしかして俺、本当に優秀だったり……?同期内昇進、一番乗り出来るかもしれないのか?
 
 妄想が膨らんでいく。
 口角が上がりそうになるのを抑えるのに必死だった。
 理由は何であれ、選ばれたのだという事実が、慎二に限りない喜びをもたらした。
「せっかくの機会だ、沢山学んで来いよ!」
 にこにこと笑う店長の言葉に、
「はい!」
 慎二も気合の入った返事をした。

 だから、わくわくして臨んだ研修の一発目、集められた会議室の中でこんなアナウンスが響いた時は、仰天した。

「これから皆さんには、殺し合いをして頂きます」
 と。 
 

 ……コロシアイ?
 参加者がざわつく会議室の中で、慎二もまた、動揺していた。
 
 新しいレクリエーション?それにしては、余りに不謹慎すぎるネーミングだけれど。
 コロシアムに行ってもらいます、を聞き間違えたのかな。でもそんな名前の同業他社、あったっけ。

 色々と、自分の中で納得が出来る説を考える。
 だがそんな努力の甲斐も虚しく、スピーカー越しの無機質な声は冷酷に告げる。 
「ここにお集まり頂いた皆様には、殺し合いをしてもらいます。開始時刻は、今から一時間後です」
「何をふざけているんだ」
 がたん、と椅子が立てた音に、慎二はびくりと肩を震わす。
 五十代位の男性社員が立ち上がり、スピーカーに向かって声を発した。
「我々は忙しい中を縫って、ここに来ているんだ。遊んでいる暇が無いのは、本部も重々承知だと思っていたが?」
「そうだ!」
「用が無いなら帰らせてもらう!」
 男性の重い、尖った声に、次々と他の社員も続く。
 恐らく、店長やフロアマネージャーのような役職者たちだろう。堂々とした振る舞いだ。
 しかし、
「お座り下さい。反抗するなら、今すぐに処分致します」
 冷徹なアナウンスが、彼らに降り注ぐばかりだった。
 残念ながらここに、その発言の主は居ない。話しているのは女性なのだろうが、物理的に置かれた距離が、彼らを無力にした。
 怒りのぶつけ先が無く、渋々、といった様子で初めに発言した男性が、席に着く。
 それに倣い、他の社員も大人しく椅子に座った。
 ただ一人を除いて。
「理解できない!俺は帰る!」
 先程、最後に席を立った若手の男性社員がそう怒声を上げ、すたすたと会議室のドアへと歩いていく。
 そういう人が居ても不思議ではない、と慎二は思った。慎二たちを制限するものは何もないのだから。
 しいて言うなら、本部からの評価が下がること、位だろうか。

 俺も帰れるなら帰ろうかな。なんか想像していたのと違ったし。
 
 期待してきた分、肩透かしを食らったような、がっかりしたような思いに慎二は囚われた。
 ぼーっと、扉に向かって行くその背中を眺める。
 そして彼がドアノブへと手を掛けた──

 その瞬間。

 バァァァン!!
 
 途轍もない金属音が、鼓膜をつんざいた。
 だが慎二には、耳を塞ぐ余裕なんて無かった。
 目の前の光景を、視覚情報として処理するのに、精一杯だったから。

 真っ赤に染まったドアと、床と、目玉と、歯と、あと、あれは何だろう。
 大きな、割れたトマト、みたいな、もの。
 歪な赤黒い塊で、まだちょっと、所々脈打ってて、でもなんか、手と足、の様なものがついていて。
 ……さっきの、人は、どこ?

「お、おい……!!」
「ぐっ、お、え……!!」
「誰か、誰か、救急車と警察を!!いや、スマホは没収されている……!」
 騒然となる会議室。
 たちまち充満する鉄錆の臭気に、慎二も嫌でも現実を理解した。

 彼は、死んだ。
 上から落ちてきた何かに、潰された。  
 
 慎二は恐る恐る、血で塗れた現場に目をやる。
 見るに堪えがたい遺体から、少し離れた所に落ちている、大きな板。間違いなくこれが彼の命を奪った物だ。さらに、この会社の社員なら、これは、誰もが触ったことがある。
 それは、900㎜×1200㎜の大きなスチール棚。
 ごくまれに、店舗の商品を並べる棚として使われる、10㎏程の、重い鉄の板。
 慎二は、視線を上へと向ける。
 ドアの少し手前の天井から、暗闇が広がっている。
 空洞だ。不自然な程に、その部分だけ、高く吹き抜けになっている。
 
 恐らくあそこから、スチール棚が、彼の真上に落ちてきたのだ。

「10mの高さから落下するので、凡そ、1.5トンの衝撃でしょうね。当たれば即死は免れませんが……、まあ、それを見れば誰でも分かりますか」
 騒めきが収まらない会議室に、機械的な声が響く。
 そんな彼らに、とどめを刺すかのような、事実だけを告げる声。
「慌てなくてもスチール棚は、まだ山程ありますよ」
 ──処分。
 先程のアナウンスが、脳裏に蘇る。
 あれは、ただの脅しや比喩では無くて。
 事実、人間としての、処分だったのだ。
 そして慎二は思い出す。店舗から、全ての900㎜丈のスチール棚が回収された時の事を。
 その時は、今後、店舗で使用することがないからという理由だった。
 それも事実なのだろうが、そうして全国から集められたこの巨大なスチール棚が、この場に用意されているのだとしたら。
 今の言葉に嘘はない。
 慎二を含め、ここに居る全員分のギロチンは、容易に準備できているということだ。
 全員が途端に口を噤み、大人しく席に着く。
 生臭い香りが漂う中、どこの部署かも、誰かも知らない女性の司会は、引き続き行われる。
「──改めまして、これから皆様には殺し合いをして頂きます。開始は四十五分後。この店舗にある全ての物を利用して、生き残れる一名の座を奪い合って下さい」
 皆、黙って聞いているが、脳内は混乱しきりっぱなしだ。
 人を殺す。生き残る。
 到底、無理難題だ。だって、これまで「普通」に生きてきたのだから。
 ……何で、誰を、どうするというのだ?
 そんな思いが、この場に集っている人々の胸に渦巻く。
 それでも否応なしに、慎二たちにはルール説明がなされる。
「ついでに言っておきますが、外に脱出しよう、などとは考えない方が良いでしょうね。至る所に、非常口等の脱出路はありますが、いずれにしても、誰かさんと同じ目に遭うので」
 脳裏に焼き付いた、誰かさんの憐れな末路。
 つまり、この超大型店舗からは逃げられない。逃亡を試みる勇気も、さらさら湧かない。
 かといって、他人を殺す度胸があるかと言えば、決してそんなことは無い。
 だが勝ち残らなければ、ここから出られないという。

 ……俺は、どうしたらいい?

 慎二が己の振る舞い方を悩んでいる間にも、話は続く。
「一分後に、扉が開きます。そこから出て、準備を開始してください」
 トントン拍子に進んでいく状況に、会議室は再びざわつき出す。
 そんな室内の動揺とは裏腹に、しばらくすると開く扉。
 だがそこに近付く者は、誰も居なかった。
「今はスチール棚は落ちてこないので、安心してくださいね」
 理由も、意図も、何も示さないくせに、そんな、どうでもいい情報は与えてくれる。いやまあ、どうでも良くはないけれど。
 誰もが互いの様子を窺い、その場から動けずにいた。
 そんな中、

「なあ皆。話を聞いてくれ」

 大きな声が、会議室の空気を震わせた。 
 先程、真っ先にこの状況に否を唱えた、五十代の男性だった。
 全員の注目が集まったことを確認すると、彼は口を開いた。
「私は札幌西店で店長をしている、大川田だ。私から提案なのだが、皆で協力して、ここから脱出するというのはどうだろう。そうすれば、殺し合いなんて馬鹿な真似をしなくて済む」
 なるほど、と慎二はその案に感心した。
 殺し合いを望む者など、狂人以外は居ないだろう。だから最初から、全員で協力すれば良いのだ。
 大川田は、演説し続ける。
「そもそも殺し合いなど、可能なはずがない。殺人の罪はどうなる?仮に殺し合いが行われるとして、この大型で最新の、売り上げが取れる店舗を、いつまで営業停止に出来る?家族や知人に、我々の死亡をどう説明する?」
 この言葉に、慎二も含め、多くの社員がはっとなった。
 言われてみれば、色々と現実的で無さすぎる。人が一人、異様な死に方をしたせいで冷静な思考が出来ず、ただ言われるがまま、この状況を受け入れていた。だが、よく考えれば、簡単に解決できないことが山ほどあるのだ。
「我々の力で、こんな事を仕組んだ連中を突き止め、討伐し、ここから出よう。そして、彼を殺した罪を償ってもらうのだ」
 そう言って彼は、ドアの手前に転がる最初の犠牲者へ視線を送った。
「ああ、そうだ……、その通りだ!」
「協力して、ここから脱出しよう!」   
 大川田に賛同する社員が、次々と彼の近くに集まる。
 淀んだ空気が払拭され、全体の士気が上がったのだ。
 慎二も、先行きが明るくなった気がした。

 きっと彼は、実力のある店長に違いない。
 このまま彼に付いていけば、何もしなくても無事に帰れるかも。
 いやむしろ、そうであれ……!

 そう、慎二が切望した、
 ──その矢先。
「盛り上がっているところ申し訳ないですが、この後、三十分が経過しても殺し合いが起きなかった場合は、この場で全員を処分します」
 冷酷なアナウンスが、全員の鼓膜を揺らす。
「何だと?」
 最早、皆のリーダーとなりつつある大川田が、眉間にしわを寄せる。
 それに答えるように、女性の声が室内に響く。
「こちらとしては、別に即座に皆殺しにしても良いのです。温情措置で、一人だけ見逃してあげようと言っています。それが不服なら、『清掃員』をすぐに投入しますが」
「……死体や死因はどうするんだ?まさか世間に正直に説明する訳ではあるまいが」
「そんなものはどうとでもなります。事故死でも、病死でも、自死でも、何でも。会社に傷が付かないようなありとあるゆる言い訳を、法務部が作成してくれているので」  

 会話が成り立っているということは、カメラかマイクかを通して、どこかで誰かがこの会話を聞いているのだろう。
 だから必ず、生身の人間が絡んでいるはずなのだが。
 慎二たちは彼ら、もしくは彼女らに歯向かうこともできず、言われた通りにするしかないのが現状だ。 
 寸刻、打開策に沸いていた会議室が、またまた静まり返る。
 どう足掻いても、殺し合いをするしかない。
 その事実を、改めて突き付けられた。 

 と、一人の若い男性社員が、すたすたと、扉に向かって歩き出す。
 ぐちゃぐちゃの死体をひょいと跨ぎ、するりとドアを潜り抜けていった。
 
 呆気に取られる、残された社員たち。
 だが、慎二は察知した。
 彼はこの中の誰よりも早く、自分がすべきことを理解し、行動を起こしたのだ、と。
 
 彼が消えて数秒後。
 他の社員たちも一斉に、ドアへ向かって駆け出していく。
「まじか……!」
 事態が急に動き出して、慎二も流石に焦る。
 早く行動しなければ、良い場所や武器が取られてしまうかもしれない。
 
 俺は、あくまで普通の人間だ。
 そんな俺が生き残るには、隠れ場所をさっさと見つけて、時間を凌ぐ事しか出来ない。
 考えるよりもまずは、動こう。

 慎二も考えを変え、他の社員に引けを取らないよう、会議室を後にした。

「はあっ、はあっ、はあ…っ!」
「君いっ……、もう、諦めなさい!」

 慎二は涙目になりながら、家電の売り場を走り回っていた。
 洗濯機、冷蔵庫、炊飯器。
 色んな種類の家電製品を目にしながら、これでは何も出来ないと絶望する。

 大の男が情けないって?
 だって、後ろから、男の人が、包丁構えて追いかけて来てるんだ。仕方ないだろ?

 それに対し、慎二は何も持っていない。
 年齢差のおかげで今のところ彼との距離は取れているが、このままではろくな対抗策も無く、背後の男に殺されてしまうだろう。
 どうしてこうなった。いや、今は原因を追究している場合ではない。
 とにかく今は。生き残ることだけを。
 己を迂闊さを呪うが、こうして命を狙われてしまっている以上、もうどうしようもない。
 見本照明の眩しい明りに網膜を焼かれながら、慎二はひたすら売り場を逃げ惑っていた。

 ──一時間前のことだ。
 会議室を出た慎二は、ひとまず六階のソファ売り場に足を運んだ。
 慎二たちが集められた店舗は、全部で八フロアからなる超大型店だ。
 下の階では主に生活雑貨、上の階に行くにつれて、大型家具の展示が増える構造になっている。
 そんな中、慎二がなぜ六階に向かったかというと、とある物を探していたからだった。
 慎二はきょろきょろと、見慣れない売り場を見渡し、尚且つ誰にも見つからないように、こっそり歩く。
 そして、広い売り場の奥まった場所に、念願の見本群を見つけた。
 収納家具。
 所謂、箪笥やクローゼットなどの箱物家具だ。
 その中の、大きめのサイズのクローゼットに、慎二は入り込む。
 そして、内側から扉を閉めた。
 この殺し合いを少しでも生き延びるために慎二が取った行動は、隠密だった。
 慎二は武術を習ったことが無い。ましてや喧嘩なんて、人生で一度もしたことが無い。
 だから、積極的に他人をどうこう出来る訳も無く。
 そんな自分が出来るのは、ひたすら隠れる事。
 そう結論付けた慎二は、次に、どこに身を隠すか悩んだ。
 カーテン売り場や、ベッド売り場など、様々な選択肢が思い浮かんだ。
 だが、それは誰もが思い付きそうで、ばったり鉢合わせ、なんて事になったら目も当てられない。
 そして、昔見た、ある映画を思い出した。
 クローゼットの奥と繋がった先の異国で、兄妹がライオンと共に雪の女王と戦う物語。
 ああ、これだ、と。
 何となく、そこなら誰にも気が付かれない気がしたのだ。

 慎二はクローゼットの中で身体を小さくし、息を潜める。 
 後は、ここでひたすら時間が経つのを待ち、その間にあわよくば殺し合いが終われば良い。 
 そうすれば自分の手を汚さずに、勝ち抜ける。
 安易に、そう考えた。
 だがその15分後、油断しきって半ばうたたねしていた慎二の耳に、こんな音が届く。
 ……きぃ。ぱたん。
 ともすれば聞き逃してしまう様な、幽かな音。
 しかしそれは、慎二を叩き起こし、その心臓を跳ねさせるのに、十分な音量だった。
 冷や汗を流しながら、耳をそばだてる。
 きぃ。ぱたん。



 きぃ。ぱたん。


 きぃ。ぱたん。

 慎二は目を瞠る。

 初めは遠かったその音が。

 きぃ。ぱたん。
 どんどん、
 どんどん、
 近付いてくる。
 誰かが、全てのクローゼットを、開けて回っている。
 それに気が付き、慎二はさあーっと血の気が引いていくのを感じた。
 このままでは、確実に見つかる。
 そして見つかれば、ここに逃げ場はない。まさしく、袋の鼠だ。
 クローゼットを開けて回っている人が、どういうつもりでこの行動をしているかは分からない。
 だが慎二が無事で済む確率は、かなり低い。それだけは分かる。
 何故なら今は、殺し合いの渦中なのだから。
 さらに、慎二は何も武器を持っていない。
 もちろん最初に、包丁などの刃物を、ホームファッションのフロアに探しに行くことも考えた。
 何でも使ってよいとは言われたが、ここはただの生活雑貨も取り扱う家具店。
 殺傷能力がある商品なんて、それ以外にない。しかしそれは、全員同じ考えだろうと思い、慎二は敢えて避けたのだ。
 だが今は、その決断が裏目に出ている。
 扉が開いた瞬間、ぐさりと鋭い何かに刺される自分の姿が容易に想像できた。
 指先が冷たい。震える。
 ぎゅう、と両腕で自分の身体を抱き締め、縮こまる慎二。
 その耳に、扉の開閉とは別の音が聞こえた。
「~~~♪」 
 ……歌?
 リズムに乗って、音程のある声がする。

 きぃ。ぱたん。
「かごめ♪ かごめ♪
 籠の中の鳥は♪ いついつでやる♪」

 クローゼットを開けて回っているのは、どうやら若い男だというのが分かった。
 だがそれが分かる程に、少しずつ、はっきりと聞こえてくる歌声に、戦慄する。
 見つかるまで、もう間もない。

 きぃ。ぱたん。
「夜明けの晩に♪」 

 既に、彼との距離まで三mもない。
 慎二は息を詰める。

 きぃ。ぱたん。
「鶴と亀が滑った♪」

 隣のクローゼットが開いた。
 次は────。
 緊張で、みぞおちが引っ張られる感じがする。

「後ろの正面──」

 扉の目の前で、歌が止まる。
 慎二はぎゅっと、目を瞑り、両手を組む。

 だが、一向に扉は開かない。

 慎二はじっと、様子を窺う。
 一分が経ち、二分が経ち、三分が経った。
 それでも、慎二が居るクローゼットが開かれる気配が無い。

 ……居なくなった?
 これまでの全ての扉を開けておいて、ここだけ開けない事なんて、有り得るか?
 
 気でも変わったのだろうか。それとも、別の人間が現れて、そいつから逃げている、とか。
 何にせよ、難は逃れたようだ。
 慎二はほうっと胸を撫でおろす。
 だがすぐに、いやいや、と気を引き締め直した。
 ここはだめだ。場所を移さないと。また別の奴に見つかるかもしれない。
 慎二はとんっと扉を押し、外へ出──





「だ あ れ♪」





 目の前に、男が居た。
「──────っ!!」
 慎二は衝撃で、ぴくりとも動けない。
 にこにこと、ただ目の前で笑う男。
 刃を向けるでも、拘束するでもなく、ひたすら笑みを浮かべている。
 そして徐に、口を開いた。
「怖かった?」
「……え?」
 唐突な、脈絡もない質問に、戸惑う慎二。
 だが、関西弁の彼は、変わらず慎二に聞き続ける。
「なあ、怖かったやろ?」
 困惑しきりの慎二は、こくこくと、ただ頷くことしか出来ない。
「そうかあ。ほんなら、良かったわあ」
 ますます目を細めた男は、くるりと踵を返した。 
「ここ、スポットライトが当たって目立ってんで。気ぃ付けなあよ」 
 それだけを言い残し、すたすたと下の階へと歩いて行ってしまった。
「……ええ」
 一体何だったんだ。
 クローゼットの中で慎二は思わずへたり込み、これまでの分を取り戻すかの様に、深く、深く息を吐いた。
 ただの嫌がらせ?こんな時に?
 意味が分からない。
 だが、アドバイスをくれたのは助かった。
 慎二はクローゼットを出て、自分が隠れていた場所を振り返る。
 初めは気が付かなかったが、確かに個別にスポットライトが当たっていて、遠目からでも、その存在を主張している。 
 新商品だから光を当てて、アピールしているのだ。
 殺し合いを楽しんでいる人間だったら、何となくで中身を確認してもおかしくない。
 
 もし俺を見つけたのが彼じゃなかったら、今頃は……。

 そう思うとぞっとした。
 だが、別に彼も気が置けない訳ではない。
 先程の振る舞いは、変質者そのものだった。

 こうなるとやはり、包丁やナイフやハサミの一つでも欲しい所だ。
 自分の身を守れるのは、自分だけだ。
 ほんの少しでも対抗策を手に入れるべく、慎二は忍び足で、階下へと向かった。

 
 


 二階。キッチン、ダイニング用品のフロア。
「ひどい有様だ……」
 包丁・まな板の売り場を目にして、慎二はぎょっとした。
 刃物系は根こそぎ持って行かれており、空のゴンドラが残るのみ。
 そして、近くに転がる、複数の遺体。
 恐らく、ここに殺到した人々の間で、武器の奪い合いが起こったのだろう。
 慎二がすぐにここに来なかったのは、賢明だったようだ。
 下手をしたら、早々に死んでいたかもしれない。
 だが肝心の武器は、勝ち残った者や、タイミングよくここを訪れた人々に、全て先取りされてしまっていた。 
 危険を冒したのに、収穫は、ゼロ。
 仕方がないとは納得しつつ、慎二は肩を落とす。
 だがそこで、ぴかり、と閃いた。
 倉庫に、在庫が残ってるんじゃないか、と。
 ここまで大きな店舗だ。在庫も大量に入って来て、余りもあるだろう。
 後はもう、それに賭けるしかない。
 慎二はそう考え、従業員専用のスイングドアをくぐる。
 大きな音を立てては、誰かに見つかってしまう。
 慎重に、こっそりと、倉庫の中を漁る。
 だが倉庫にも、刃物の類の過剰在庫は無かった。
 ────やっぱり、もう何も残ってないのか。
 一瞬落胆しかけるが、慎二はぶんぶんと頭を横に振る。
 もしかして、別の階の倉庫にならあるかも。
 まだ、諦めない。
 そんな思いから、二階の倉庫から三階の倉庫へ続く階段を上がる。
 そして、三階の倉庫もくまなく探した。
 しかし。

 ……………………無い、何も。

 そもそも、三階は家電や清掃用品がメインのフロアだ。収納場所をそこまで取らない刃物を、わざわざ一つ上の階に格納する理由も無い。
 慎二は落ち込みながら、余り深く考えず、倉庫からドアを通って売り場へと出た。

「……あ」
「……え」
 倉庫を出てすぐは、家電の売り場。
 そこには、一人の男性社員が居た。
 会議室で、皆の中心になりかけていた、大川田さんだ。
 別に、ここに彼が居ることは不思議ではない。
 だが一点、どうしても解せないことがある。
 慎二は、彼の手元から目が離せなかった。
 えーと、あれは、どこからどう見ても。
 出刃包丁。
 それが二本。両手に握られたそれは、血に塗れていて。
 何故そんな状態なのかは、本人に聞かなくても明白で。
「ええと、あの、お久し、ぶりですね」
「ええ、どうも……」
 ほとんど面識がないもの同士の、曖昧な挨拶を、とりあえず交わしてみる。
 今のところ、大川田さんは襲い掛かってくる様子は無い。
 至って通常運転の彼に、慎二は一安心する。
 握られている出刃包丁は、ただの護身用で、拾った刃物を持っているだけかもしれない。
「じゃあ、はは、それでは……」
 それでも油断しまいと、慎二は一度頭を下げ、その場を立ち去ろうとする。
 そしてじっ、とこちらを見ている壮年の社員に背を向け、歩き出した。
「待ちなさい、君!」
 慎二が五歩進んだ所で、掛かる声。
「え……」
 戦々恐々、振り返ると、
「君、大人しく、死んでくれないかね?」 
 包丁をカマキリの様に頭上に構えた大川田が、真顔で慎二に問いかけてきた。
 慎二の脳はこの時、フル稼働していた。
 「大人しく」と「死ぬ」という単語の意味を一旦ウェルニッケ野で処理し、理解した後、その二つを何とか納得の行くよう組み合わせ────。
 
 いや、納得出来るかよ!
 
 ここまでで、三秒経過。
 その直後、
「絶対に、お断りします!!」
 慎二は辛うじてそれだけ答え、脱兎のごとく駆け出した。
  




 ────そして、現在に至るという訳なのだが。
 走りながら、後ろを振り返る。
 依然として大川田は、表情無く追いかけて来ていた。
 そこまで平静なのが、逆に狂気を感じて、慎二は恐怖する。
 家電の売り場では対抗不可能と判断した慎二は、逃げ場を変え、組み立て家具のゾーンへと向かう。
 そこには、背の高いカラーボックスややスチール棚の見本が乱立していた。
 少しでも行方を眩ませられると思って、慎二はそこへ駆け込む。
 それから、カバー付きのワードローブの見本の陰に、身を潜めた。
 大川田との距離は稼げていたおかげで、姿を隠す時間は悠にあった。
「あれえ、どこに行ったのかなあ」 
 そうぶつぶつ呟く大川田は、きょろきょろと周囲を見渡しながら歩いていく。
 上手に彼の死角に居た慎二は、どこかへと去っていくその背中を横目に、忍び足で彼が来た道を逆行した。
 灯台下暗し。
 自分が確認した所にはもう居ないだろうという心理を逆手に取るのだ。
 なるべく音を立てずに組み立て家具の売り場手前まで戻る。

 一先ずの脅威は去った。さて、次はどこに逃げるべきか……。

 早歩きをしつつ、慎二は落ち着いて考える。

 いっそ最上階まで行って、ベッドの展示の毛布の中に潜って隠れるか……?
 子どもっぽくて、一周回ってばれないんじゃないだろうか。

 とんとん。
 てくてくと、カラーボックスの見本の側を通る慎二の肩を、誰かが叩く。
 絶賛作戦会議中の慎二は、その手を振り払う。
 とんとん。
 またも叩かれる慎二の肩。
「なんだよしつこいな!」
 少し苛つき、カっとして、ばしん、と強くその手を払う。
「────ッッッ!」
 熱と、痒さが伴う痛みが、手の甲に走る。
 驚いて見れば、細く、赤い線が一つ、描かれていた。
 そこから、待ち針のようにぽつぽつと赤い球が滲む。
 切り傷だ。
 
 ……何で?
 いや、よく考えれば、そもそも肩を叩かれること自体がおかしい。
 この場に、他に誰が居るというのだ────?

 慎二はばっ、と振り返り、自分を呼び止めた人物を確認する。
「どこに行ったのかと思ったよ」 
 相も変わらず真顔で、右手の包丁をふりふりとかざす大川田。
 その包丁には、鮮血が付いていた。
 慎二の血だ。
 慎二の肩を叩いていたのは手ではなく包丁で、それを叩いた折に、切ってしまったのだろう。
「まじか……」
 手の甲を抑えながら、慎二は驚愕の面持ちで大川田を見る。
 もう気付かれたなんて。
 ちゃんと撒いたはずなのに。
 そんな慎二の内情を察したのか、大川田は言った。
「伊達に店長してないんだよ。人の気配や足音なんて、何年気にかけていると思っているんだい」
「……御見それしました」
 一歩、後ずさる慎二。
 だがそれに追随し、距離を詰める大川田。
「さあ、覚悟は出来たかい」
 大川田はずい、と慎二の首元に刃先を突き付けてくる。
「んー、あーえーと……」
 慎二は視線を彷徨わせ、何か、せめてもの反抗は出来ないかと、策を案じる。
 そして、とりあえず目に入った物に手を伸ばしつつ、
「嫌です、かね!」
 そう叫び、見本のカラーボックスを倒した。

 ……つもりだった。
 ガチン!!
 白いベルトが引き延ばされ、カラーボックスは30度程は傾いたものの、それ以上は倒れなかった。
 転倒防止ベルト……!
 店舗に展示されている比較的大きな商品の見本は、地震が起きた時でも被害が出ないように、倒れないような細工がしてある。
 その一つとして、ボックスの裏側とゴンドラを繋ぐ、太い白いベルトがあり。
 もちろん最新の店舗だから、しっかりコンプライアンス対策はされていて。
 だから簡単にカラーボックスが倒れるはずも無かった。
 そんなことは当然、知っていたのに────!
 
 ザシュッ!
「いっ……!!」
 ボックスに伸ばしている慎二の腕を、躊躇なく切り裂く大和田の出刃包丁。
 出来た傷はそこまで深くはないものの、慎二の心身にダメージを与えた。
 痛い、痛い……っ!
 気が動転した慎二は、浅い呼吸を繰り返しながら、大川田の表情を盗み見る。
 ほんの少し、口角が上がっていた。
「う、うわあああああああ!!!」
 慎二は堪らず、駆け出す。
 もう、計画や作戦など、何も無かった。
 ただがむしゃらに、走る。走る。走る。
「待ちなさい。もう逃げ場なんて、ありはしないよ」
 背後から聞こえる中年の声を、若さならではの体力で無視し、駆け抜ける。
 慎二は気が付けば、清掃用品の通路に来ていた。
 よりによって、武器になりそうな物が何もない所に……っ!
 歯噛みしながらそれでも、逃げ続けた。
 が、
 ずさあああっ!
 何かに躓いて、慎二は派手に転ぶ。
 
 ~~~~!この忙しい時に!

 自分の足を引っ掛けたものを睨むとそれは、普段はゴンドラの下に隠しているはずの脚立だった。
 それが少しはみ出していて、慎二の足を止めたのだ。
「おやおや、危ないねえ。この店舗のコンプラ担当はどうなっているんだろう。後でここの店長に言っとくよ」
 かつん、かつん、と、大川田が足音を鳴らしながら、慎二に近づいてくる。
 こけた反動で足がもつれて動けない慎二は、死に物狂いで目についたたわしやスポンジを、それらがぶら下がっている鉄製のフックごと大川田に投げつけた。
 だが、一つとして当たらない。
 ほんのちょっとだけ、彼の進路を妨害するに過ぎなかった。
「いいかい。君みたいな若造より、私の様な者が生き残った方が、会社にとっては利益になるのだよ」
 一歩、また一歩と、優しく語りかけながら、慎二ににじり寄る大川田。
「分かったら、黙って死んでくれるね?」 
 彼が慎二の腹部に向かって大きく振りかざした両手の包丁は、ぎらりと、照明の輝きを反射した。

 ────万事休す。
 慎二は、もうだめだと思った。
 何となく、自分が手当たり次第に放った商品があった棚に目を向ける。
 一部が空になったゴンドラ。フックを掛けるために設置されている鉄のバーが、露わになっている。
 ……いいや、まだだっ!
 ガツンッ!
 とんでもない勢いで振り下ろされた包丁を、ごろ!と身体を横回転させて慎二は避けた。
「~~~っ!」
 大川田が、包丁を地面に打ち付けた反動の痺れに苦しんでいる隙に、慎二は起き上がった。鉄のバーに手をかける。
 ガチャリ。
 ゴンドラに引っ掛かっている爪を外し、こうなってはただの如意棒と化した鉄の棒を手に入れる。
 そしてそれを、
 思い切り、
 大川田の頭に振りかぶった。
「がっ!?」
 まさか什器で反撃されるとは思っていなかったのだろう。突然の衝撃に、大川田は横に吹っ飛ぶ。
 こめかみを抑えて、のたうち回る大川田を、慎二は冷静に見下ろした。
 そして、思う。

 そっか、俺が殺しても、別にいいんだ。

 その後は、無意識だった。
 何度も、何度も、120㎝弱の長さの鉄棒を、大川田の頭に叩きつける。
 何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。
 そうしていつしか、彼が動かなくなった時に、気が付いた。
 ああ、俺の勝ちだと。
 びくびくと、関節を跳ねさせつつも、絶対に生きてはいない有様を披露している死体を見て、慎二は安堵する。
 そして、足元に散らばった赤茶色の物体に、こんな感想を抱いた。
 
 脳みそって、こんな感じなんだ。   
  

「~~~♪」
「お前……」
 慎二は、目の前の光景に、言葉を失っていた。
 これをどう処理するか。それに、今後の生き残れる確率が掛かっている。
 そんな局面に、慎二は出くわしていた。

 大川田を倒し、三階を後にした慎二は、上の階を目指した。次にどこへ行こうかと考えた際、まだ行っていないフロアにしようと思ったのだ。
 訪れた四階は、カーテンやラグ、テーブル等の商品が展示・販売してあるフロアだ。
 血が滴る鉄のバーをずるずると引きずりながら、慎二は折りたたみチェアの通路を彷徨う。
 
 誰か他に、居ないかな。
 俺にも殺せそうな奴。
  
 そんな事を思案しながら、きょろきょろと辺りを見渡していた。
 と、
「…………♪」
 リズムに乗った、小さな声が聞こえた。
 慎二はどこか既視感を得たが、獲物の発見に浮かれつつ、そちらへと足を向けてみる。
 だが、

 ────やばすぎるだろ、こいつ。
 
 頭を抱えたくなるような場面を見てしまい、堪らず瞼を閉じる。
 しかし、
「行きはよいよい♪ 帰りはこわい♪」
 歌声が、確実に慎二の耳に届いている。
 つまりこれは、現実だ。
 密かに溜息をつく慎二の心は、だが暗い思いばかりではなかった。

 ともすれば、己の有利になるかもしれない。

 そんな直感があった。
 慎二は眩暈を覚えながら、勇気を出して、一歩、また一歩と、その現場へと近付いていく。
 
 そこは、こたつや座卓の売り場。
 様々な種類のローテーブルの見本品が置かれている所で。

「こわいながらも通りゃんせ♪」
 男が童謡を口ずさみながら、

 死体を、こたつの展示に座らせていた。
 幾つも。幾つも。

「通りゃんせ♪」
 ゴトッ。
 目を大きくかっぴらき、舌をだらりと垂らした誰かの頭が、慎二の方を向きながらこたつの天板に置かれる。

「お前……、何してるんだ?」 
 背筋に冷たいものを感じながら、慎二は作業に夢中になっている男に、慎重に話しかける。
「ああ、まだ君、生きてたんやね」
 声を掛けられて、初めて慎二の存在に気が付いたかのようにこちらを振り返る、にこにこと笑う関西弁の男。
 そいつは、クローゼットの扉を開けて回り、謎に慎二を怯えさせた奴だった。
 なんとなく予想はついていた、その知った顔に、
「あ、ああ……、お互いな」
 慎二は頷きを返しつつ、言葉に迷いながら、尋ねてみる。
「それで今、お前は、何してたんだ……?」
 男はその質問に、途端にぱあーっと顔を輝かせ、
「おお。あんなあ、展示にリアリティを持たせてるんやで。せっかくこないにお人形さんが落ちてるんやもん。活用せな、損やで損」
 と、誇らしげに答えた。
 まるで褒めてくれ、と言わんばかりの自信ありげな様子に、慎二は内心震撼していた。
 ────サイコパス。
 その五文字が、頭の中をぐるぐると回り続ける。
 だが、それをおくびにでも出せば、次に展示されるのは、自分の死体かもしれない。 
 そう思って、慎二も作り笑いを貼り付けながら、
「へ、へえ……。いいんじゃないか……」
 そう、無難に返した。
「せやろせやろ!お兄さん、分かってんなあ」
 男は嬉しそうに答えると、今度は別の歌を歌いながら、作業の続きに取り掛かった。
 近くに転がっている死体を両腕で抱え、ずるずると引っ張って移動させる。
 慎二は忙しそうな彼に、再び問いかけた。
「なあ、この死体って……」
「お人形さん、な」
「ひっ」
 突如、男の鋭い眼光に刺され、心臓の縮む思いをする。
 彼なりのこだわりがあるのだろう。そこは、超えてはならないラインのようだ。
「このお人形たちって、どうしたんだ?まさか、全部お前が自分で調達したのか……?」
 慎二は言われた通り、大人しく言い換え、再度問い直す。
 すると彼は、今度は何も口を挟まず、ただ首を横に振った。
「ちゃうよお。みーんな、落ちとったんや。一階からこのフロアまでで落ちてたやつ、ぜんぶ僕が拾ったんよ」
 見ると、すでにディスプレイされている遺体が六体。
 まだ山積みにされている遺体(現在進行形で運ばれているのも含めて)が三体。
 合計九人。それが、殺し合いが始まって、一階から四階までで殺された人たちの数なのだろう。
 彼の言葉を信じるのであれば、だが。
 それに、
「運ぶの、大変だったんじゃないか……?途中で誰かに襲われたりとかは……」
 脱力しきった成人男性の身体など、到底楽に運べるものではない。  
 仮に運べたとして、その間の無防備な姿を誰も狙わないはずは無いと、慎二は男の発言を訝しんだ。
 しかし彼は、またも、いやいやと手を横に振る。
 そして、ある物を指をさした。
「これ使おたら、楽勝やったで!エレベーターにも乗ったし、なんや誰にも会わへんかったわ」
 ……台車。なるほど。
 持ち帰りが出来る大きな商品を運べるようにと、お客様が使える台車が、売り場には至る所に設置されている。
 それに乗せたなら、あまり労力をかけずとも、「お人形さん」を運べる。

 こいつはかなり頭が良い。
 頭は良いが────。
「一回やってみたかってんよ、人間も交えた展示を作るん。まだだいぶ先の夢や思とったけど、入社二年目で叶って幸せやわあ」 
 夢見心地で、独り言ちる男。

 こいつ、どうやってこの会社に受かったんだろう。
 こんな事態を起こしてはいるが、基本は大手の家具チェーン会社だ。
 一目で異常者だと分かるような人間が採用されるとは思えないが……。
 
 ん?二年目?
「お前、俺の同期か?」
 思わず素で聞いてしまう。
「せやで。あと、この子も」
 そう言って彼は、90㎝幅のこたつに一人、座らされている遺体を指さした。
 数少ない女性社員。
 男性ばかりのこの状況では、生き残るのは難しかったのだろう。
「あの子は同じ店舗で働いてたんよ。それなのに、残念やわあ」
 と、全く残念そうに思っていない口調の男の顔を、慎二はまじまじと観察した。

 耳にかかる位のさらさらの黒髪。
 常に笑っているような細い目と、その下にある印象的な黒子。  
 通った鼻筋と、形の良い輪郭。
 いわゆる、イケメンという部類。

 そしてはっとした。
 見覚えがある。確か、内定式だ。
 慎二の近くに居た女子社員たちが、騒いでいたのを思い出した。
 確かに、間違いなく、慎二の同期だ。
 だがあの時は、至って普通に女子たちと会話をしていた。
 だったら、普段は真人間に擬態しているのだろう。
 そしてこの、殺し合いという異常な状況においては、素の自分を晒け出し、好き勝手しているのだ。

 ここまで気が付いた所で、慎二の脳内に、一つの案が思い浮かぶ。

 これだけ肝が据わっていて、尚且つクレイジーであるのなら、人を殺す事にも躊躇いはないだろう。
 ここで彼を仲間に引き入れられれば、戦力が二倍にも、三倍にもなり得る。
 効率や生存確率を考えれば、彼と組むのは現状における最適解だ。

 だから慎二は彼に向き直り、
「なあ」
 と、声を掛けた。
「んー?」
 彼は変わらず遺体を運びながら、返事を寄越す。
「俺と、組まないか?」
 慎二は単刀直入に、提案する。
 だが、
「いやや」
「え?」
 即答、しかも拒否され、つい間抜けな声が出てしまった。
「いややで、協力なんて。いつ寝首掻かれるか、知れたもんやないわ」
 手刀を首元でスライドさせ、べーと舌を出す男。
 言われてみれば、そう思うのも当たり前だ。
 むしろ初めから組んでくれるという方が無理がある。

 うーん、どうしよう。
 だが絶対に逃したくない人材だ。

 慎二は少し考え込み、それから、もう一度口を開いた。
「一緒にお人形さん、沢山作らないか」
 言い方を、変えてみる。
 彼にとって何よりも大事なのは、お人形さん遊びをすることだろう。
 だったらそれを、利用する他ない。
 そしてその作戦は上手くいったようで、
「うーん……」
 と、男はようやく手を止め、悩み始めた。

 よし、効果てきめん。
 もう一押しだ。

「それで沢山作ったお人形を、お前の好きなように、好きな場所に、飾ろう。俺も手伝うから」
「ほんまに?」
 男は途端に目を煌めかせ、手にしていた「お人形」から手を離し、慎二に詰め寄る。
 その勢いに気圧されつつも、慎二はああ、と頷きながら、さらに付け加えた。
「それで、二人で生き残ったら、主催者にお願いしてみよう。これだけ良い展示を作ったのだから、見逃してくれって。きっと、許してくれるはずだ。なんたって、最高の展示が幾つも増えるんだ」
「なるほど!やったらええで!」
 満面の笑みを浮かべる男に、慎二も微笑みを返す。
 
 大嘘だ。慎二は背中で人差し指と中指をクロスする。

 隙を見計らって、最後の最後に殺してやる。
 それまでこの化け物を、使えるだけ使うのだ。

「よろしゅうな!僕、西京院 照亜(さいきょういん てりあ)言います!」
 そう述べ、手を差し出してくる照亜。
「よろしく。俺は、名取慎二だ」
 慎二たちはにこやかに、握手を交わした。




────池 アレンの場合。

 アレンはうずくまり、ただ震える事しか出来なかった。
 ここは七階。ダイニング家具やシステムキッチン、ホームオフィス類等の大型家具を備えるフロア。
 それらの中の一つ、学習机のゾーンにおいて。
 アレンは机の下に、その身を潜めていた。

 隠れ始めて、何時間になるのだろう。
 一時間?二時間?全然、分かんないよ。
 ……ああどうして、こんなことに。
 いや、薄っすらとは、分かっている。
 恐らく、あれだ。あれをしてしまったからだ。
 でも、なんで、こうなると分かっていたら。

 後悔が胸中を渦巻き、涙が滲む。
 アレンは元より、気の弱い性格だった。
 頭は良かったが不器用で、最初に配属されたホームファッションを担当する仕事では、パートさん達と上手くいかなかった。
 見かねた店長により、三か月後には家具の仕事を、主に担当することになる。だがこちらはマイペースに仕事が出来て、自分に合っていると思っていた。
 苦手だった接客にも慣れ、ほんの少し、家具の現品の売り上げが好調になったばかりだったのに────。
 その矢先の、これだ。
 
 せっかく、大手企業に新入社員として入社出来たのに。
 帰りたい。
 お父さんと、お母さんに、会いたい。
 
 涙がぽろぽろと溢れる。
 鼻水が垂れそうで、一度、鼻をすすった。
 その直後。
「なあ照亜。それはどう配置するんだ?」
「うーん、どないしよ。せっかくやし、キッチンに立たせてみよか?」
「いいんじゃないか?でも、どうやって自立させる?」
「せやなあ……。見栄えは悪うなるけど、広告用のスタンドに縛り付けてみる?」
「ああ、名案だな。俺、倉庫から取って来るよ」
「おおきにな、慎二」
 そんな会話が聞えてきた。
 驚いて、アレンの身体が小さく跳ねる。
 
 ……どういう状況?
 どうして、こんな所で、仕事の話をしているの?
 だって今は殺し合い中で、仲良くしている人たちなんて、居るはずないのに。

 アレンは混乱した。
 そして次第に、自分にとって都合の良い方へと解釈が進む。

 もしかして、この馬鹿げたゲームが、僕の知らないうちに終わったのかも!
 この店舗も通常営業に戻って、従業員が出勤してきたのかもしれない!

 実際、今が何時かなど、分からなかった。時計や携帯の類は、研修の開始時に没収されていたからだ。

 一人歓喜したアレンは、そっと身体を机の下から出し、楽し気な二人の様子を覗く。

「~~~~~~~~っっっ!!」
 
 そして即座に身をひっこめ、口を両手で塞いだ。
 叫びそうになるのを、必死に堪える。
 今見た光景が、信じられなかった。
 というか、信じたくなかった。

 ────は?
 何してたの? 
 え?あれは、死体?女性の、死……?
 死体にエプロンを着せて、スタンドに縛り付けて、どうしてシンクの前に立たせているの?
 分からない。全く、理解不可能だ。

 アレンはこみ上げる悪寒に、背筋を震わせた。

 きっと、狂った人たちなんだ。
 こんな所に居て、おかしくなっちゃったんだ。
 だったら絶対、関わらない方が良い。
  
 アレンは必死に身を固くし、ばれないように努めた。
 ワイワイと騒がしい声を黙って聞き、彼らがどこかへ去るのをひたすら待つ。
 そうして十数分後。
「ええ感じやな。よっしゃ、次どこ行こか」
「そうだな……、八階はまだ行ってないから、八階行くか」
「せやな」
 そんなやり取りをしながら二人の男性社員が歩いて行く。

 ああ、やっと消えてくれる。

「あ、ちょっと待って、」

 脅威が去る。

「僕、忘れもんしてるわ」

 ほっとして、アレンは胸を撫で下ろし────。  





「聞こえたで、ずびって、鼻すする音。かくれんぼするんやったら、泣いたらあかんよ」

 学習机を覗き込む男と、目が合った。
 そう言ってにたりと笑う、整った顔の男は、まるで悪魔の様に見えた。

「放して!放して!」
 羽交い絞めにされて、そう叫ぶアレンの手首と足を、てきぱきと洗濯ロープで縛っていくもう一人の男性社員。
 アレンを見つけた方とは対照的な、短髪で体格の良いそいつはアレンの拘束を終えると、手押しカートにアレンを押し込んだ。
 スーパーなどの物よりは一回り大きいそのカートに、小柄なアレンの身体はすっぽりと収まってしまう。
「良く見つけたな」 
「僕、耳ええねん。でも、どないしよか。何も持って来とらんよ」
「うーん、そうだなあ……」
 身動きが取れないアレンは、不安と恐怖で内臓を吐き出しそうだった。

 どうなっちゃうんだろう。
 怖いよ。死にたくないよ。

 再び瞳が潤み始めるアレンの目に、
「ああ、いや、あるぞ照亜。ほら」
 短髪の男の指が映る。
 その先は、
 非常口。
 この店舗から、出られる扉。
 でも今は、そこから出ることは出来ない。
 なぜなら。
 二つに裂けた上半身。飛び散った身体の欠片。ごぼごぼと、溢れ出る赤黒い血。露出した内臓。
 一番最初に死んだ男性の姿を思い出す。
「い、いやだ……」
 怯えた声が、アレンの口から零れる。
 だが、
「名案や、慎二」
「だろう?じゃあ行くぞ、せーの!」
 二人は構わず、カートをそちらに向かって押し始めた。
「いやだいやだいやだ!!」 
 じたばたと両手両足で暴れるアレン。だが、カートにシンデレラフィットしてしまっており、抜け出すことが出来ない。
 スピードが増す。
 途轍もない速度で、カートが非常口へと進んでいく。
 そして、彼らは自分たちに被害が及ばないぎりぎりの所で、
 カートのハンドルから、手を離した。
 だが、勢いに乗って、前へと進み続ける、アレンを乗せたカート。
 じきに、アレンの目前へとドアは迫り、

「いやだってばああああああぁぁぁあああ────!」
 ガシャン!
 バシィィン!

 アレンの断末魔と、カートがドアにぶつかる音と、スチール板が落下する音。
 悲惨な三重奏が開演し、そしてすぐに幕を下ろした。 
     
「慎二、このお人形さん、壊れてもうたで」
「あー悪い、流石にぐちゃぐちゃすぎるな……。どうする、捨てていくか?」
「うーん……。いや、使えそうなパーツだけでも持ってくわ。耳とか手とかなら、飾り位にはなるやろうし」
「おっけー。じゃあ拾えるように買い物かご持ってくるな。照亜はパーツ選別しといて」
「了解や!」 

 そんな会話がなされていたことを知る者は、最早この場には居なかった。   





────椎名 風子(しいな ふうこ)の場合。


 風子は、勢い勇んでありとあるゆる売り場を巡回していた。
 その右手には、物干しざおが握り込まれている。
 風子は薙刀を幼い頃から習っており、その甲斐あって、有段者だった。
 その為、自分の腕に自信があった風子は、果敢に殺し合いの場に乗り込み、襲い来る男性社員たちの頭蓋骨をかち割っていた。

 ────それにしても。
 どうしてこんなことに巻き込まれなきゃならないの?
 面倒だし、一銭にもならないじゃない。

 怒り心頭、さっさと帰って仕事をしたい風子は仏頂面で歩を進める。
 入社五年目。家具課のフロアマネージャーに着任して、半年。
 階級は上がったものの、給料があまり上がらなかったことに苛々していた風子は、商品をとにかく売って実力を示し、賞与の増額に全力を尽くしていた。
 風子は、お金が好きだった。
 お金があれば何でもできるし、何でも買える。
 その思考は、社会人になって自由に使えるお金が増えてから、ますます強固なものになっていった。

 最近では、現品限りの家具を売りさばく術も身に着けたというのに。
 もう、私はこんなことしてる場合じゃないの! 
 
 ぴちゃ。
「……うん?何?」
 無我夢中で八階へと続くエスカレーターを上っていた風子は、足元から何か音がした気がした。
 突如、立ち込める強烈な香り。
 それは、エスカレーターを上り切ってすぐの場所だった。
 エレベーターは稼働しているが、エスカレーターは何故か止まっていた為、歩いて上るしかなかったのだが、そこで何かを踏んでしまったらしい。
「何、床が濡れてるの……?ていうかこの香り、どこかで……うっ」
 香りの原因を確かめようと、地面に顔を近づけようとしたが、濃く、強い芳香に頭痛がした。
 風子はこめかみを抑えつつ、だが、口角をにっと上げた。
 
 何故床が濡れているのか、これは何なのか。
 気になることは幾つかあるが。
 確実に言えるのは、
 ────ここに、誰かが居る。
 これは、誰かが故意に行ったことだ。そして風子はまだ、このフロアを見て回っていない。
 元より、三十人程度で始まった殺し合い。時間も経ったし、風子自身も、随分と殺した。
 残るは、この階に潜む奴だけだ……!
 
 そうあたりを付けた風子は、悠々とフロアを見て回る。
 八階は、ベッドルームの見本が広がる、比較的視界の開けたエリアだ。
 だから、隠れられる場所なんて、ほとんどない。
「さー出てきなさい。大人しく出てきたら、楽に殺してあげるから!」
 もう間もなく、帰れる。お金を稼げる。
 風子は期待に胸を膨らませ、広い売り場を練り歩いた。

 それから三十分。
 マットレスの下やフレームの下など、成人が身体をねじ込めそうな隙間は全て見て回った。
 それでも、ハエ一匹、見つからない。
「どこに居るのよ!」
 期待した分落胆も大きく、風子のイライラは臨界点を突破していた。
 だがこの売り場のどこかに居るのは、間違いないのだ。
「もう許さない……!見つけた瞬間、まずは歯から、ボキボキにへし折ってやる……!」
 ぶんぶんと物干し竿を振り回す風子の目に、ふと、倉庫へのスイングドアが目に入った。
 基本的にベッドは、お客様の目につく売り場に見本を置くだけで、本体の在庫を店舗内に置いておくことはほとんどない。 
 故に、倉庫内に隠れる場所などないと思ってスルーしていたが。
「あそこだな……?」
 売り場はさんざん見た。でも居なかった。
 だから残る、あの倉庫内に、まだ見ぬ誰かは身を潜めているのだ。
 それしかない。
 風子は確信を持って、ずんずんと一直線に倉庫に向かって行く。
 そして、バアン!とスイングドアを開いた。

 中は真っ暗だった。
 他の階では電気が点いていたから、ここに隠れた誰かが消したのだろう。
 ────小賢しいまねを。
 ぶん、と物干し竿を一振りし、中へと入っていく。
 うろうろと、広い空間を歩き回る。

 こんな暗さ、いずれ慣れれば目が効くようになる。 
 どこに隠れているのかは知らないが、その姿を見つけた瞬間、ぐちゃりと────。

 ズンッ!!
 ぐちゃり。
「………………………………??!?」
 風子は突然、息が出来なくなった。
 それどころか、動けない。指先一つ、ぴくりともしない。
 というか、全身が、熱い。
 熱くて暑くて厚くて篤くてアツクテアツクテ○×△※@¥$~~~~~!
「────────────────────────────!!!!!」
 身体全体を駆け回る地獄の痛みに、絶叫を上げた、つもりだった。
 しかし、気管が潰されていて、声すら出ない。
 息が、喉から漏れるだけだ。
 目から血涙を流しながら悶絶する風子の耳に、ふいに会話が聞こえてくる。

「ふいー、重かったあ」
「堪忍な、あんまり力になれへんくて」
「いやいや、十分なってたよ。ありがとう」
「それにしても、プレス作戦、おもろかったなあ。二人でベッドを吊り上げて、誰かが来たら落とすなんて」
「ああ。倉庫に、展示予定の新品のダブルサイズベッドが置いてあって運が良かった」
「一人なら持ち上げるの大変やけど、二人おればなんとかなったな」
「そうだな、洗濯ロープ様様だ。でも、照亜の、匂いでタイミングを計るっていうのも良かった」
「せやろ?アロマディフューザーなあ、匂い全部混ぜたらすごいことなんねん。それが靴の裏に付いたままやから、暗闇でも、誰かが入ってきたら分かるんよ」
  
 ぐるりと風子が白目を剥き、息絶えた瞬間。
 二人の悪魔は、ハイタッチをしていた。



 

「…………壮観だな」
「感無量やで…………!」 
 頬を引きつらせる慎二と、子供のようにはしゃぐ照亜は横に並び、六階の売り場を俯瞰していた。
 初めに慎二が隠れ場所として選んだこのフロアには、リビングや子供部屋などを模したルーム展示が沢山ある。
 人を配置するのならここが最も映えそうだと二人で決め、目いっぱい「お人形さん」を飾ったのだ。
 確かに、展示にぐっと現実味が増している。よりリアルな生活が垣間見え、使用感も想像しやすそうだ。
 ────そこにあるのが死体でなければ、の話だが。 
 「写真撮れれば良かったんやけどなあ……。残念やわ」
 隣で本気でしょんぼりしている照亜をまあまあ、と宥めつつ、

 ……あれ、もしかして。

 と、慎二はあることに気が付いた。
「なあ照亜、お人形さん、全部で何体飾ったっけ?」
 慎二にそう問われた照亜は、んーと人差し指をあごに当て、数を数え始める。
「ここに十五人でしょ。四階に九人、七階に二人、八階に潰れたのが一人と……」
「あと一階のアウトドアの所にも五人置いたよな」
「せやな」
 慎二も付け加える。
 合計すると、お人形さんは三十二人。
 確かこの研修の参加人数は、全部で三十四人だったはず。
 つまり、
「あれ、もう残ってるの、僕らだけ?」
「そう、みたいだ」
 同じ事に気が付いた照亜が、頓狂な声を上げる。
「なんや、もう仕舞いかあ」
 落胆の表情を浮かべる照亜の横で、慎二はひっそりと緊張感を高めていた。

 ……ついに、この瞬間が来た。
 こいつは完全に、俺を信頼している。油断しきっているから、
 後は、タイミングを間違えさえしなければ、だ。

「なあ、どこに行けば首謀者はんと話せるんやろか」
 ふい、とそのきれいな顔を慎二に向け、無邪気に尋ねてくる、残念なイケメン。
「ん、え、ああ、そうだな…………。とりあえず、会議室に、戻ってみるか?」
 思案を巡らせていた最中に声を掛けられ、少々動揺しながら、慎二はそう提案した。
「おん、せやね。あっこなら、お話出来そうや」
 素直に賛成する照亜にだろ?と微笑みながら、慎二は脳内で段取りを組んでいた。
 二人で並んで、一階の、最初に集められていた会議室を目指す。
 
 ──そう、ここまでは、ずっと横並び。
 隣り合って、ただ、歩く。
 微塵も、びた一文も、裏切りそうな雰囲気は見せない。
 俺がこいつの後ろに回るのは最後の最後、会議室に入る時だけだ。
 先に照亜に部屋に入ってもらう振りをし、俺の前に来た瞬間、これをこいつの首にかけ、絞め上げる。
 なんだかんだ、役に立つもんだな、これも。   
 
 慎二はこっそり、ポケットの中の洗濯ロープに指先で触れた。
「なあなあ、僕、君のこと気に入ったわあ。帰ってからも、仲良うしよな」
 エレベーターの中で、にこにこと、それを見た人の心を溶かしそうな甘い笑みを浮かべながら、照亜は言った。

 ああ、これが普通の状況だったら、どんなに嬉し……、

 いや、無いわ、こいつ異常者だし。
  
「ああ、もちろんだ」 
 本音はもちろん隠し、慎二も微笑みを返す。
 フオン、とエレベーターのドアが開いた。
 連れ立って、降りる。
 会議室がある倉庫に続くスイングドアへと、真っ直ぐ歩く。
 そのスイングドアを通れば、会議室はすぐそこだ。

 いよいよだ。
 ドキドキと、心臓が早鐘を打つ。
 その鼓動のせいで、胸に痛みすら覚える。

 トン、と慎二が扉を押して、スイングドアを、揃って抜ける。
 入口が開きっぱなしの、会議室が目に入った。
 ついでにその真下に転がる、死体も。

 胃が、押し潰されそうだ。
 でも、ここまでこれた。
 俺は生き残った。

 会議室の、入口に立つ。
「お先にどうぞ、照亜」
「おおきにな、慎二」

 手で先を示した慎二に向かってにこっと笑い、照亜は一歩、慎二の前へと足を踏み出す。

 やっと、やっと────!
 俺の勝ちだ!

 慎二はポケットからロープを取り出すと、両端を素早く両手に巻き付け、

 紐を照亜の首へ掛けようと────────────。
 








「貴方は一体、どなたでしょうか」
 
「…………は?」
 聞き馴染んだ女性の、だが初めて聞く戸惑った機械越しの音声に、慎二も動きを止めた。 
「どなたって、僕は、四十六期社員、南大阪店ホームファッション担当の西京院照亜ですが」
 すらすらと、自己紹介をする照亜。
 ────だが。

「貴方は、この研修の参加者ではありませんよね?」
「え……?」
 慎二はロープを隠すのを忘れ、照亜の隣に立ち、その表情を窺う。
「ひっ……」
 か細い悲鳴が、慎二の喉から漏れた。

 照亜は細い目をさらに細く吊り上げ、にたりと笑って答えた。



「せやで」



 


「はっ……!?呼ばれてないって、どういうことだよ、照亜!」

 慎二は、思わず大きな声を出してしまった。
 
 呼ばれていないのだったら、ここに居るはずもないし、そもそもこんな殺し合いに参加する必要なかった。
 それに、参加人数に変わりは無かったはずだ。
 慎二とて参加者全員を把握していた訳ではないが、絶対に有り得ない事態に、首謀者サイドの確認ミスを疑う。
 だが、

「当たり前やん、慎二。僕が呼ばれるはず、ないで」
「え……?」
 照亜は冷然と、慎二に言葉を返す。
 さらに続けたその内容に、慎二の脳内は、混迷を極めた。







「だって僕、薬物の仲介、してへんもん」





「………………………………は?なに、言って」

 本当に、言葉の意味が分からない。
 薬物?仲介?
 一体急に、何を言い出したんだ?

 言葉に詰まる慎二に、照亜は目を丸くした。
「え、慎二、気付いてへんかったん?ここにおったの、みーんな薬物販売に加担しとった人達ばっかりやで」
「……………いやいや、だから、薬物って、何の話────」
「しらばっくれんでもええで、慎二。なあ、首謀者はん」
 と、照亜は唐突に、会議室のスピーカーに向かって、話しかけた。
 束の間、室内は静かになった。
 対応に困っていたのだろう、が、間を置かず、いつもの声が流れ始める。
「そうですね。今日集められた皆様は、店舗を利用して違法薬物の仲介をしていた方々です」
「っ……!」
 慎二は、驚きの余り、一歩後退った。
 





 ────なぜ、ばれた?
 いつ、どこで?
 ていうか、ここに居た人達、皆?
 だとしたらこのままここに留まるの、やばいんじゃ?
 早く、逃げ────。

「今更逃亡しなくて、結構です。一応貴方は、勝ち残ったので」
「はあ?」 
 背を向けかけた瞬間、聞こえたアナウンスに、慎二は面食らう。
 足を止め、怪訝な顔をする慎二に、どこかから見ている誰かが、説明してくれた。
「社内の至る店舗で横行していた犯罪を、一挙に解決するために行ったのが、今回の殺し合いです。こんなに大量の犯罪者が居るなんて公表したら、社の名前が地に落ちますので」
「事故ってことにして、まとめて始末する方が、楽やんなあ」
 照亜も、うんうんと頷きながら会話に混ざる。
 続き、慎二に問いかけた。
 とんでもない話をしているというのに、一切の笑みを崩さないまま。
「現品販売の大型家具に、誰かからもろた違法薬物、隠しててんやろ?現品は発送前に店舗で点検とかするもんなあ。粉の入った小さい袋、忍ばすなんて訳ないやんねえ?それで、慎二から現品買うたお客さんは、薬物を手に入れると」
「お前、どこまで知って…………」
 顔を強張らせる慎二に、くすくすと笑いを零しながら、照亜は言う。
「ぜえんぶ、知ってんで。だって同じ店舗の女の子が教えてくれたんやもん」
 だとしても、ここに照亜が存在している理由は不明のままだ。
「……それでなんで、わざわざこの研修に」
 照亜に対する警戒心を強める慎二に、照亜はこてん、と首を傾げて答えた。
「チャンスや思て」
「…………」
「その子が突然呼ばれた研修、なんやあやしい思て、参加者リスト見てみたんよ。そしたら、色んな店舗の色んな階級の人らがおるやん。ああ、薬の件での、お仕置きやてぴんと来てん」
「…………照亜が抜群に頭が良いことは分かった。でもそれと、お前がここに居ることと何が関係ある?」
「もしかしたら、お人形さん遊び、出来るんちゃうかなって。沢山のお人形が、勝手にできそうやん?」 
「そんなことのために、危険も顧みず…………?」
 信じられない。
 慎二は、目の前の男に、慄然とした。
 だがそんな心情もつゆ知らず、照亜は呑気に語り続ける。
「僕は、お人形さん遊びさえ出来れば、もし死んでしもても満足やったんよ。でも途中で、イカレた仲間が出来たから、なんや生き残れたなあ」
「イカレ……!?お前にだけは言われたくない!」
 流石に聞き捨てならないと、くわっと目を開き、慎二は反論する。
 だが照亜はきょとんと、不思議そうな面持ちで言い返してきた。
「ほうかあ?慎二も大概やったで、人殺すのにノリノリやったやん、君全然、普通やないよ」
「く……っ!ていうか、合計の参加人数が変わってないし、呼ばれてないお前が居たら、同じ店舗の女の子は怪しんだだろ」
「おん、だからずっと隠れとったで。そんで、最初に出てきた人さくっと殺して、人数でばれへんようにした」
 そういえば、と、慎二は記憶を巡る。
 飾り付けた人形たちの中に、いの一番に会議室を出て行った彼のものは無かった。

 ……だめだ、常軌を逸している。
 これ以上話を続けても、こいつの思考回路を理解することは出来ない。

 慎二はそう諦め、スピーカーに向かって声を発した。
「…………なあ。この場合、どうなるんだ、こいつ」
「そうですね。研修に勝手に忍び込んだという件に関してはペナルティが必要ですが、そもそも彼は無罪の身。ここで犯した罪も、貴方共々問われませんので、罰するまでもないでしょう」
「そうか……」

 よくわからないが、俺はなんとか無事に帰れそうだ。

 安堵から、ほう、と慎二は息を吐いた。
 が、その直後、
「ただ、」
 と、不穏な接続詞が聞こえてきた。
 嫌な予感に包まれる。
「生き残りが二人は多いという意見も、現在出ています。ここで起きたことの情報が外部に漏れかねないと。処分するとすれば必然的に、犯罪者の方にはなりますので…………」

 そこまで聞いた慎二は、頭が真っ白になった。

 せっかく、せっかく、ここまで生き残ったのに?

 全身に、汗が噴き出る。

 帰れるという夢を、見せたくせに?
 嫌だ、嫌だ、俺は、死にたくない…………っ!

 ああ、そうだ、二人が多いというのなら────。

 慎二はばっと、顔を照亜の方に向けた。
 彼はにこにことしながら、バタフライナイフの刃先を、慎二に向けていた。
 きっと、予め持ち込んでいたものだ。

 ────敵うはずがない。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう……っ!

 慎二は、パニックに陥った。

 もうこうなったら、取れる手段は────!

「ゆ、許してください!もう二度と、二度としませんから!」
 慎二は床に頭をこすり付け、見事な土下座を披露した。
「割の良いアルバイトがあるってどこかから聞いて、一回やってみたら簡単で、ばれないし、お金も沢山貰えるし!それで、調子に乗ってしまいました…………!本当にごめんなさい!どうか、どうか、殺さないで…………」
 泣きながら、懸命に謝罪を繰り返す。
「確かになあ、警察にもばれにくいわ。一見、皆が家具の買い物してるだけやもん。売り手も買い手も接触せんで済むから、リスクを限りなく抑えられるし。その仲介してもばれにくいよなあ、ただ家具店で働いていただけやから」
 慎二の無様な姿を見かねたのか何なのかは不明だが、照亜もフォローらしきものを入れてくれる。 

「どないします?彼、結構反省してるみたいやけど。一応僕、彼のこと気に入ってますねん」
「そうですね。少し、審議の時間を頂きます」
 照亜の言葉に、ぶつっと小さくマイクの電源が切られた音がした。
 それから、再び訪れる沈黙。
 静かな室内に、慎二のすすり泣く音だけが響いた。

 慎二は、心の底から反省していた。
 ちょっとした小遣い稼ぎの感覚だった。
 ばれなければ、誰にも迷惑をかけないと。
 だが、ばれた時のことを全く考えていなかった。
 慎二自身が捕まることももちろんだが、勤めている会社の信用を落とす。
 それがどれだけ重罪か。
 今更になって、分かったのだ。
 もう遅いかもしれないけれど。
 出来る事なら、もう一度。
 名誉挽回の、生きるチャンスを────。

 慎二にとっては無限にも思えるような時間ののち、でも実際はたった数分後に。
「決まりました」 
 唐突に、おなじみの女性の声が頭上から降ってきた。
 慎二も照亜も、はっ、とスピーカーを見上げる。

 ……頼む、頼む、どうか────。
 慎二は固く、祈るように両手を握りしめた。







「西京院さん、あなたに、名取さんの監視を命じます」



「僕?何で?」
 冷静に、疑問を投げかける照亜。
 そんな彼に、女性は告げる。
「常に側に居て、二度と犯罪を起こさないよう、見ていて下さい。そしてもし再度、名取さんが何らかの犯罪に手を染めた事を発見した場合は、」
「場合は?」
 ……場合は。
 慎二も息を呑んで、続きを待つ。
「即刻、名取さんを『お人形』にして下さって、構いません。その後の事は今回同様、対処しますので」
「ほんま!?ええで、やるやる!」

 わーいと諸手を上げて、喜ぶ照亜。
 慎二もはらはらと涙を流しながら、ぺたりとその場に座り込んだ。

 ────助かった。
 ああ、生きられる。
 死ななくて済む。

 心の底から湧き起こる喜びに、慎二は涙を止められなかった。
 
「これからもよろしくな!慎二!」
 爽やかな笑顔と共に、照亜は手を差し伸べてきた。
 その笑みに、

 ……いや、これ、助かってる、のか?

 そんなことをふっ、と思いながら、
「あ、ああ……。よろし、く」
 慎二は彼の手を取った。
 
 


 

「名取さん、こっちの入荷、お願い出来る?」
「はい!」
「ありがとうねえ。ホームファッションの担当になってくれて、助かってるよお。東川さんは寂しそうにしとるばってん……」
「ああ……、まあ、はは……」
 慎二は倉庫で、パートの主婦と、入荷作業をしていた。
 地獄の研修から佐賀の店舗に戻り、一か月後。
 慎二は店長に頼み込み、家具担当から生活雑貨の担当社員に変えてもらったのだ。
 元々、パートさん全員と仲が良かった為、仕事内容の移行に、比較的問題は無かった。
 今ではもう、立派なホームファッション社員だ。
 だが、家具接客は、とんと出来なくなってしまった。
 殺し合いの記憶が徐々に薄れゆく中でも、大型家具への恐怖心は、消えなかった。
 特に売れ残った現品は、見る事すら出来ない。

 だが、記憶とは風化していくものだ。
 慎二はいずれ、再び家具販売が出来るようになりたいと画策していた。
 売り上げが取れなければ、社員として失格だし、認めてもらえないから。

「ああ、そういえば、今日から異動の人が来るんやったよねえ」
「そうですね、抜けた穴の補充でしょうか」
 二週間前に、この店舗の先輩社員の一人が異動になり、社員が一人減ってしまっていたのだ。
 その代わりに、別の店舗から異動になった社員が一人、この店舗に着任する。
「えらい変わった名前やばってん、忘れちゃったわ。いやあねえ、歳って」
「まだ十分、若いですよ」
 そんな会話を交わしたが、慎二も戻って来てからばたばたしっぱなしで、まだ名前を確認していなかった。
 と、その時。
『店長です。名取さん名取さん、パソコンルームまで来れますか?』
 出勤している人が全員使えるトランシーバーから、慎二を呼び出す店長の声がした。
「あら、名取さん、呼ばれたね。行っといで」
「はい、ありがとうございます」
 慎二はぺこりとパートさんにお辞儀をし、倉庫を出て、パソコンルームへと向かった。
 
 何の用だろう。

 歩きながら、慎二は色々考える。

 なんか、前にもこんなことあったような。
 研修だったら、もうしばらくは、こりごりだ。

 一分と経たず、慎二はパソコンルームに辿り着いた。 
 扉のドアノブに手を伸ばしながら、そういえば、とふと思う。

 変わった名前ってどんなだろ。 
 
 ノブを回し、ぎいとパソコンルームの扉を開くと、店長の背が目の前に広がっていた。
「ああ、来た来た、名取さん。今日着任の社員が来たからね、紹介しようと思って」
 こちらを振り返り、簡潔に用件を伝えてくる店長。
「そうだったんですね。どうも、僕は、」
 慎二は呼び出された理由に納得し、店長の前に歩み出て、今来たばかりの社員と顔を合わ────。



「同期みたいだね。これから仲良くやっていきな、二人とも!」

 陽気な店長の声など、最早、慎二の外耳の地点で全て弾かれた。


 パソコンルームの中。



 そこには────。



 柔和な笑みを称えた、泣きぼくろが特徴的な、イケメンの、






「初めまして。西京院照亜と言います。どうぞよしなに」 

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