マンションまでの道のりは、きっと時間にすれば五分ほどだったはずなのに、永遠にも思えるほど長く感じた。

 彼は奏多を猫のように肩で抱えたまま、自室の鍵を不器用そうに開ける。
 玄関で下ろしてくれるのかと思いきや、そのままリビングまで連れて行かれ、ソファの上にそっと下ろされた。
 スニーカーを脱がされ、彼がそれを玄関へと持って行くあいだに、また頭を撫でられる。

 彼がコンビニで買ったものを冷蔵庫に入れ、お湯を沸かし始めたのを横目で見ながら、奏多は部屋をぐるりと見回した。

 広さはあるが、典型的な独り暮らしの間取りだ。リビングにはソファとガラスのローテーブル。観葉植物。大きなデスクには複数台のモニターがあり、パソコンがロック画面のままつけっ放しになっている。

 以前からピアノを弾く人のような綺麗な手だと思っていたが、本当にピアノが弾けるらしく、部屋の隅には電子キーボードとギターが置いてあった。譜面台には鉛筆で何かの書き込みがある楽譜。

 猫を飼っているのかと思っていたがそういうわけでもないらしく、部屋に動物の姿はなかった。前回の誕生会のときに撮ったのだろうちょびの写真がデスクの上に飾ってあるだけだ。

 涼しげな氷の音とともに、彼がキッチンの方からグラスを持って戻ってくる。
 自分はコーヒーのグラスを手に取り、奏多にはもう一方の琥珀色のグラスを渡した。

「ありがとう、ございます……」

 彼は機嫌が良さそうにこちらをじっと見ているだけで、特に何か言うわけでもない。
 奏多は少しばかりの気まずさを覚えて、渡されたグラスに口をつけた。

 柑橘系の爽やかな香り。口に含むと、花のような優しい味の後に仄かな渋味が過ぎていく。

 アイスティーだ。それも、いつも奏多が好んで飲んでいるアールグレイのアイスティー。

「美味しい……」

 隣に腰掛けた彼を見上げると、ほっとしたように眉尻を下げて微笑んでいた。
 店長が彼のことを「わかりやすい」と評したのが、少しだけわかったような気がする。

「……よかった」

 彼は初めて声を聞いたあの日と同じような口調でそう言って、自分用のアイスコーヒーに口をつけた。
 そうして、ふたり黙々とコーヒータイムに興じていたのだが、グラスが半分になったところで、奏多は彼に会おうとした本来の目的を思い出した。

 そう。
 こんな風になごんでいる場合ではないのだ。

「……あの」

 グラスをテーブルの上にそっと置く。
 エアコンの効いた部屋なのに手がじっとりと汗ばんできた。

「先日は……すみませんでした。加賀谷さんの苦手なこと、知らなくって……」
 手を強く叩かれたときのことを思い出し、心に痛みが走る。

 加賀谷さんは、ショックを受けたみたいに軽く目を見開いてから、奏多の汗ばんだ手に急いで手を伸ばした。

「ごめんなさいは……僕の方が先に言わなきゃいけなかったのに」

 後悔の色が滲んだ声だった。その手は奏多と同じように汗で湿っていた。

「こちらこそ、手……叩いてしまって、ごめんなさい。本当に申し訳ない」

 そのまま深く頭を下げる。
 彼はそんなつもりもないのだろうけれど、加賀谷さんの姿勢が、猫たちが両手を下にしてうつ伏せで寝る、いわゆる「ごめん寝」ポーズにあまりにもよく似ていたので……奏多は思わず笑みを漏らしそうになった。
 
 彼はさっき自分のことを「かわいい」と言ってくれたけれど、自分よりも十五センチは大きい彼に対して同じ感情を抱くとは思わなかった。
 いつまでも頭を上げようとしない彼に、奏多は慌てて声を掛ける。

「あの……大丈夫、ですから。手はそんなに痛くなかったですし……。いつも、猫たちに引っ掻かれてますから」
「……本当に?」
「はい。本当に」

 ようやく顔を上げた彼の目は軽く潤んでいるように見えた。

 これで……仲直りってことで、いいのかな。

 加賀谷さんの手がそっと離れていくのを少し寂しいように感じながらも、奏多はおもむろに腰を上げる。
 パソコンが動いているということは、仕事中だったのかもしれない。
 長居するのも迷惑だと思った。

「あの……お茶、ごちそうさまでした。とても美味しかったです。じゃあ……また、お店にも遊びに来てください」
「待って」

 とっさに手を取られて、ソファの同じところに座らされた。勢い余ってバランスが崩れる。

「わっ」

 彼も慌てていたのか、手を取った拍子に前のめりに倒れ込んだ。

 気づけばソファに押し倒されたような形になっていて、鼓動が強く波打つ。
 彼の顔がすぐそばにあった。
 いつもは前髪に隠れて見えない憂いを帯びた切れ長の瞳も、すっと通った鼻梁も、形の良い薄い唇も。

 彼は手を取ったまま、しばらく戸惑った風にしていたけれど、やがて奏多の背中に手を回すと、ゆっくりと覆い被さってきた。

「……ごめんなさい」
「え、あ、あのっ」
「嫌なら突き飛ばすなり、引っ掻くなりしてくれていいから……」

 優しく抱きしめられながら、頭を胸にそっと押しつけられる。
 何をするでもなく、しばらくのあいだ、そのまま。

(……吸われている?)

 そういえば猫耳をつけたままだったことを思い出したが、真偽のほどは定かではない。
 緊張でどうにかなってしまいそうだったが、触れる体温は不思議と心地良かった。

(大きい猫にでも、懐かれているみたいだ……)

 勇気を出して背中にそっと手を回したが、彼が動く様子はない。
 しばらくのあいだ、ただそうして秒針が時を刻む音だけを聞いていた。

「……突然、こんなことを言ったら引かれると思うんだけど……」

 彼はふと、きまりが悪そうに顔を上げた。

「僕は、君ともう少しだけ仲良くなりたい」
「仲良く……」
「うん。……たぶん、その……そういう意味で」

 そういう意味……。
 
 それは以前に自分が考えたのと同じ、特別な意味ということでいいんだろうか。
 本当に……?

「せっかく仲直りできたのに、また嫌われてしまうようなことを言ってるのはわかっているんだけど……」

 そう言うなり、うつむいてしまう彼。

 ……夢のような話だった。
 
 信じてしまっても、いいのだろうか?
 奏多は自分の頬を思いきりつねってみたい衝動に駆られながらも、心の底にある気持ちをすくい上げるようにして言葉を紡いだ。

「僕も……加賀谷さんのこと、もっと知りたい……です」
「……本当に?」
「本当に」

 本心から、こくりと頷く。

「嫌じゃ……ないの」
「はい。……でも、加賀谷さん……僕なんかより、店長や大川さんの方が話しやすいんじゃないですか」

 そんなセリフが口をついて出た後で、しまった、と思った。
 
 なんて卑屈な言葉なんだろう。
 彼と積極的に話すことができなかったのは自分が悪いだけなのに、これじゃあただの嫉妬だ。
 
 膨らんでいく自己嫌悪に押し潰されそうになっていると、彼は奏多の固くなっていた頬をつまむようにして撫でながら、口元だけに小さく笑みを浮かべた。

「それは……そうかもしれない」
「えっ、それって……どういう……」
「奏多くんは、僕のお気に入りの猫がどの子かわかる?」

 突然の質問に、奏多は考えを巡らせた。
 ストレイキャッツの中で、ということなんだろうけど、加賀谷さんにいちばん懐いているのは間違いなくスコティッシュフォールドのたまごだ。

 いつもいちばんに迎えに行くし、加賀谷さんも頻繁にかまってあげている。
 もちろん、他の猫たちとも仲良くしてくれているけれど、いちばん甘えに来るのも、甘やかしているのもたまごのような気がする。

「……たまご、ですか?」
「ううん。正解は、三毛猫のちょび」
「ちょび?」

 意外な答えだった。
 たしかに、リビングのデスクに写真が飾ってあるのはそういうことなのかと納得はしたが、ちょびはいつも加賀谷さんと遊びたがっていることはあっても、加賀谷さんの方から積極的にかまっているイメージはあまりない。

「だって加賀谷さん、ちょびとはそんなに……」
「そう。だから、そういうこと」
 つまり、どういうこと……? と首をひねっていると、彼は指先で奏多の髪を梳くようにしてそっと頭を撫でた。