僕は、人と話すことが苦手でならないんです。
仮にあなたに対してただならぬ興味を持っていたとしても。
仮にあなたに対して……好意を抱いていたとしても。
夏は日が落ちてもまだ空が明るい。
いつもならとうに電気を点けている時間だったけれど、窓の景色を眺めていた白石奏多は壁のスイッチにかけた手をそっと下ろした。
カウンター上の座布団で猫が寝ている。
明かりのせいで起こしてしまうのも気が引けたし、それにこういう夏の薄明りが奏多は好きだった。月も星もなく、どこまでも果てしなく続く群青色。日没後のこの特別な時間を『ブルーアワー』と呼ぶのだと、前に雑誌か何かで見たことがある。
後ろ髪を引かれつつ受付まで戻ろうとすると、下から見上げてくる視線に気づいて足を止めた。耳の垂れた、クリーム色のスコティッシュフォールド。宝石のような瞳を丸くして、じっとこちらを見つめている。
「どうしたの? たまご」
名前を呼ぶと、たまごは甘えたような声音で鳴いた。そして反動をつけてから、思いきり高くジャンプする。
「わっ」
肩にずしりとのしかかる五キロの重み。首筋にあたるふさふさの毛をくすぐったいと思っていると、同じくらいの大きさの三毛猫、ちょびがキャットタワーの上からいまにも飛び乗りたそうにこちらを見ていることに気がついた。
「いや、いまは無理だよ……」
肩にしがみつくたまごを落とさないようにしながら、ちょびの顔をそっと撫でてやる。
ちょびは目を細め、気持ちよさそうに喉を鳴らしていた。
奏多が店員として働く『ストレイキャッツ』は東京郊外に位置する、古い一軒家を改装した保護猫カフェだ。広々とした空間に仕切りは無く、どこにいても猫たちのいる店内をひと目で見渡せるようになっている。
柔らかいカーペットの敷かれた床、トイレ用の小さな猫トンネル、壁の高い位置に取りつけられた遊び場の数々……。
店内には他にも猫たちが過ごしやすいよう様々な工夫がされていて、奏多がこの店を気に入り、働きたいと思った理由のひとつがそれだった。この店はオーナーであり店長でもある、桝田辰巳の猫への愛で溢れている。
「奏多くーん。ちょっと、いいかな」
バックヤードから店長の呼ぶ声がして、奏多は受付のカウンター奥にあるドアを開けた。
癖のある黒髪に黒縁眼鏡。黒のTシャツに身を包み、どこか黒猫のような出で立ちの店長が太い眉尻を下げ、困ったような顔を覗かせている。
「何か?」
「ちょっと手が離せなくってさ。これ、奥のソファ席に持って行ってくれない? オーガニックコーヒーとソイジンジャーティー」
「……わかりました」
顔がこわばる。平静を装ったつもりだったが、声はしっかりとうわずっていた。
急に手指が冷たくなり、トレイの上のカップがかたかたと激しい音を立てる。
「大丈夫?」
「大丈夫、です」
片手でドアを閉め、深呼吸をひとつした。
覚悟が揺らがないうちに、と奥のソファ席へ向かい、足早に注文の品を届ける。
「ありがとう。奏多くん」
笑顔でお礼を言ってくれる、品の良い常連の女性客がふたり。
(……怖いわけじゃ、ないんだけどな)
でも、目を合わせることだけはどうしてもできない。
奏多は女性の着ているシャツのボタンを眺めながら、ぺこりと曖昧に頭を下げる。
その場をあとにしようと踵を返したところで、後ろを着いてきた猫たちの背中を思いきり踏んづけてしまいそうになった。
「びっくりしたぁ! そこにいたんだ……ごめんね!」
あおむけに転がった猫のお腹を撫で、熱い視線で催促してくる猫の尻尾のつけ根あたりをぽんぽんと軽く叩く。
指先から伝わってくるのは、温かい体温と手触りのいい和毛の感触だ。
緊張が解け、嫌な汗が引いていくのがわかる。
それと同じような感覚でじわじわと、今度は自分の腹の底から重い自己嫌悪が頭を擡げてくるような気がして、奏多は固く目をつむると、思考を外に追いやるように軽くかぶりを振った。
猫は好きだ。
……なのに、人間は苦手。
自分でも、笑ってしまうほどシュールな話だと思う。人間として生まれてきたくせに、同族とはまともにコミュニケーションも取れやしない。
幼い頃からずっとこんな感じだった。緊張するせいかあまり上手に話すことができず、声が上ずったり裏返ったりするのが恥ずかしくて、学年が上がるごとに口数は減っていった。
友だちと呼べるような人もいなければ、恋人なんてもってのほか。
これでも少しはましになったほうで、店長や他の同僚たちとは同じ猫好きということもあってか短い会話くらいならできるようになっていた。
それも、途方もないくらいの時間を費やしたのだけれど。
目を合わせて話せるのは猫とだけ、なんて……人としても社会人としても、どうなんだろうと思ってしまう。
(猫と同じように、人とも上手く話せればいいのに)
甘え上手なたまごをふたたび肩に乗せながら、奏多は先ほどの女性客ふたりに目を遣った。
水野さんと吉田さん。
聞こえてくる会話の端々から、もう名前も憶えてしまった。よくお店を利用してくれる、どの猫にも優しい、いいお客さんだ。
(……いつか、目を見てお礼が言えたら)
接客マニュアルしか口にできない自分にとっては、そんなことですら見果てぬ夢だ。
大きすぎる願いなど、抱いたところで気持ちが沈むだけ。
奏多は自分の感情に蓋をすると、店内を歩き回る猫たちの様子に気を配りながら、最近になって店長に頼まれたSNSの更新作業に取り掛かった。
普段の業務を淡々と進めていくことで、気持ちは少しずつ落ち着いていく。
群青だった空が紫色になり、やがて濃い藍色に染まっていった。
店の電気を点け、そろそろ猫たちのご飯の時間だと時計を眺めていた頃だ。
彼はいつもの調子でやってきた。
仮にあなたに対してただならぬ興味を持っていたとしても。
仮にあなたに対して……好意を抱いていたとしても。
夏は日が落ちてもまだ空が明るい。
いつもならとうに電気を点けている時間だったけれど、窓の景色を眺めていた白石奏多は壁のスイッチにかけた手をそっと下ろした。
カウンター上の座布団で猫が寝ている。
明かりのせいで起こしてしまうのも気が引けたし、それにこういう夏の薄明りが奏多は好きだった。月も星もなく、どこまでも果てしなく続く群青色。日没後のこの特別な時間を『ブルーアワー』と呼ぶのだと、前に雑誌か何かで見たことがある。
後ろ髪を引かれつつ受付まで戻ろうとすると、下から見上げてくる視線に気づいて足を止めた。耳の垂れた、クリーム色のスコティッシュフォールド。宝石のような瞳を丸くして、じっとこちらを見つめている。
「どうしたの? たまご」
名前を呼ぶと、たまごは甘えたような声音で鳴いた。そして反動をつけてから、思いきり高くジャンプする。
「わっ」
肩にずしりとのしかかる五キロの重み。首筋にあたるふさふさの毛をくすぐったいと思っていると、同じくらいの大きさの三毛猫、ちょびがキャットタワーの上からいまにも飛び乗りたそうにこちらを見ていることに気がついた。
「いや、いまは無理だよ……」
肩にしがみつくたまごを落とさないようにしながら、ちょびの顔をそっと撫でてやる。
ちょびは目を細め、気持ちよさそうに喉を鳴らしていた。
奏多が店員として働く『ストレイキャッツ』は東京郊外に位置する、古い一軒家を改装した保護猫カフェだ。広々とした空間に仕切りは無く、どこにいても猫たちのいる店内をひと目で見渡せるようになっている。
柔らかいカーペットの敷かれた床、トイレ用の小さな猫トンネル、壁の高い位置に取りつけられた遊び場の数々……。
店内には他にも猫たちが過ごしやすいよう様々な工夫がされていて、奏多がこの店を気に入り、働きたいと思った理由のひとつがそれだった。この店はオーナーであり店長でもある、桝田辰巳の猫への愛で溢れている。
「奏多くーん。ちょっと、いいかな」
バックヤードから店長の呼ぶ声がして、奏多は受付のカウンター奥にあるドアを開けた。
癖のある黒髪に黒縁眼鏡。黒のTシャツに身を包み、どこか黒猫のような出で立ちの店長が太い眉尻を下げ、困ったような顔を覗かせている。
「何か?」
「ちょっと手が離せなくってさ。これ、奥のソファ席に持って行ってくれない? オーガニックコーヒーとソイジンジャーティー」
「……わかりました」
顔がこわばる。平静を装ったつもりだったが、声はしっかりとうわずっていた。
急に手指が冷たくなり、トレイの上のカップがかたかたと激しい音を立てる。
「大丈夫?」
「大丈夫、です」
片手でドアを閉め、深呼吸をひとつした。
覚悟が揺らがないうちに、と奥のソファ席へ向かい、足早に注文の品を届ける。
「ありがとう。奏多くん」
笑顔でお礼を言ってくれる、品の良い常連の女性客がふたり。
(……怖いわけじゃ、ないんだけどな)
でも、目を合わせることだけはどうしてもできない。
奏多は女性の着ているシャツのボタンを眺めながら、ぺこりと曖昧に頭を下げる。
その場をあとにしようと踵を返したところで、後ろを着いてきた猫たちの背中を思いきり踏んづけてしまいそうになった。
「びっくりしたぁ! そこにいたんだ……ごめんね!」
あおむけに転がった猫のお腹を撫で、熱い視線で催促してくる猫の尻尾のつけ根あたりをぽんぽんと軽く叩く。
指先から伝わってくるのは、温かい体温と手触りのいい和毛の感触だ。
緊張が解け、嫌な汗が引いていくのがわかる。
それと同じような感覚でじわじわと、今度は自分の腹の底から重い自己嫌悪が頭を擡げてくるような気がして、奏多は固く目をつむると、思考を外に追いやるように軽くかぶりを振った。
猫は好きだ。
……なのに、人間は苦手。
自分でも、笑ってしまうほどシュールな話だと思う。人間として生まれてきたくせに、同族とはまともにコミュニケーションも取れやしない。
幼い頃からずっとこんな感じだった。緊張するせいかあまり上手に話すことができず、声が上ずったり裏返ったりするのが恥ずかしくて、学年が上がるごとに口数は減っていった。
友だちと呼べるような人もいなければ、恋人なんてもってのほか。
これでも少しはましになったほうで、店長や他の同僚たちとは同じ猫好きということもあってか短い会話くらいならできるようになっていた。
それも、途方もないくらいの時間を費やしたのだけれど。
目を合わせて話せるのは猫とだけ、なんて……人としても社会人としても、どうなんだろうと思ってしまう。
(猫と同じように、人とも上手く話せればいいのに)
甘え上手なたまごをふたたび肩に乗せながら、奏多は先ほどの女性客ふたりに目を遣った。
水野さんと吉田さん。
聞こえてくる会話の端々から、もう名前も憶えてしまった。よくお店を利用してくれる、どの猫にも優しい、いいお客さんだ。
(……いつか、目を見てお礼が言えたら)
接客マニュアルしか口にできない自分にとっては、そんなことですら見果てぬ夢だ。
大きすぎる願いなど、抱いたところで気持ちが沈むだけ。
奏多は自分の感情に蓋をすると、店内を歩き回る猫たちの様子に気を配りながら、最近になって店長に頼まれたSNSの更新作業に取り掛かった。
普段の業務を淡々と進めていくことで、気持ちは少しずつ落ち着いていく。
群青だった空が紫色になり、やがて濃い藍色に染まっていった。
店の電気を点け、そろそろ猫たちのご飯の時間だと時計を眺めていた頃だ。
彼はいつもの調子でやってきた。