ドンッ!
自転車から放り出され太一は道路に転がされてしまった。バックしていた白いセダンの扉が開き、グレーの背広姿の中年男性が降りて来た。男性はセダンの後部ボンネットを確認してから、太一に向き直った。
「大丈夫?ごめんねぇ、ちょおっと不注意だった。」
太一は両手でコンクリートの地面を押して、半身を起こしながら言った。
「だ、大丈夫です。」
何しろ車にぶつけられるのは初めてのことだ。何が駄目で何が大丈夫なのかが分からないが、とりあえず身体に痛みは無い。柔道をしているので、上手く受け身が取れたのかもしれない。
白いセダンは自宅の駐車場からバックで出てくるところだったようだ。唐突に現れたので避けようがなかった。
「ちょっと家に行きましょうか。少し様子を観た方がいいから。」
自宅を指さして見せる男性。太一は僅かに躊躇してしまう。知らない人だし何せ自分を轢いた人だ。悪気は無かったのだろうが、信用するのはいかがなものか。
同じ高校の生徒達が自転車で通り過ぎながら、興味深げにこの光景を見て行く。太一はクラスで浮いてしまっているので、知っている生徒には見つかりたくなかった。立ち上がって尻を叩き、自転車を起こそうとすると、その自転車が歪んでしまっているのが分かる。
「ああ、これは駄目だね。ごめんね。ちゃんと弁償するから。」
男性は太一から自転車を受け取り、自宅の壁に立てかける。玄関に向かい扉を開けた。
「ママ?ママァ!」
玄関に首を突っ込んで声を高める。誰かの足音が聞こえ、男性は二言三言言葉を発した。振り向いたその人は太一に向かって手招きして見せる。少し離れた所に自転車に乗ったクラスメイトの顔が見え、太一は慌てて玄関に向かった。
リビングに通されるとそこの椅子を勧められた。その家の主婦らしい女性が、座った太一の顔を覗き込んで来る。
「大丈夫?何処も痛くない?」
「ええ、大丈夫、だと、思います。」
改めて聞かれると太一は自信が無くなってきてしまった。
「ほんとに大丈夫?」
男性からも聞かれ、どう答えようかと迷ってしまう。その場の雰囲気からなんとなくだが、大丈夫だと言えと言われているように感じてしまう。
「はい、大丈夫です。」
ほっとしたような顔を見せた男性は、太一の肩に手をおいた。
「その制服は北高だよね?何年生?」
「二年生です。」
答えた太一に更に男性の質問が被さって来る。
「名前は?何君かな?」
「あ、あの、山上です。山上太一と言います。」
男性は背広のポケットからスマホを取り出して、何かを検索し始めた。
「ああ、あった、これだな。」
スマホをタップして耳に当てる。
「あ、どうも。わたくし小出と申しますが、そちらの生徒さんで二年生の山上太一君の自転車とわたくしの自動車が接触致しましてね。」
接触?そういう言い方になるのかな?
疑問に思った太一だが、男性はスマホを手で押さえて太一に聞いて来た。
「山上君、クラスは?何組?」
「B組です。」
反射的に太一は答えた。スマホから手を放し、小出さんは再びスマホを耳に当てる。
「B組だそうです。ええ、本人はいたって元気です。ただちょっと遅刻してしまいそうで。ええ、お願いします。では失礼いたします。はい、はい、どうぞぉ。」
そこで太一に向き直り小出さんは言った。
「少し休んで行きなさい。電話しておいたから大丈夫だから。」
小出夫人がグラスに入った水を太一の前に出してくれた。緊張した為か太一は喉がカラカラだったので、礼を言ってグラスを煽る。
「高校二年生か。じゃあうちの娘と同い年だな。ねぇママ。」
言いながら車の鍵をテーブルの上に置いた。そこに何やら小さなぬいぐるみのような物が付いている。太一の視線に気が付いて、小出さんは笑顔を向けて来る。
「これかい?娘がくれたんだ。“殺さない彼と死なない彼女”って映画に出て来るマスコットさ。観たことあるかい?」
太一は首を振って答える。
「いい映画だよ。その映画の中で彼氏が彼女にプレゼントするんだ。」
自慢げに持ち上げて見せてくれたが、可愛いとは思えない。猫に見えるが足の部分が波打っている。架空の生き物なのかもしれない。
「僕はね。映画会社に勤めているんだ。映画はいいぞぉ。古いのも新しいのも。」
そんな話をしながら小出さんが太一の顔を覗き込む。
「山上君さ。電話番号を教えておいてくれよ。自転車も弁償しなくちゃならないし。」
紙とペンを奥さんが持って来てくれた。ペンを手には取ったのだが、そこでまた太一は躊躇してしまった。
知らない人に電話番号なんか教えてもいいものだろうか?
太一は小出さんの態度が何処か引っかかっていたのだ。初めて会ったのに妙に馴れ馴れしく感じていた。それに仮にも太一は被害者で、小出さんは加害者なはずだ。完全に下に見られている感じがする。そこに大切な何かが欠けているようにも感じていた。
なんだろうか?
「どうしたの?もしかして思い出せない?」
夫人から聞かれ太一は思考を止められてしまった。山上家はそれほど裕福ではない。また自転車を買って欲しいとは言い辛かった。
ままよ。
自分のスマホの番号ではなく自宅の固定電話の電話番号をメモに書き、そのまま差し出した。小出さんはそれをポケットにしまい、大げさだな仕草で腕時計を見た。
「もう授業は始まっているな?」
ハッとした太一は腰を浮かせた。小出さんにはもう太一を引き留める意思は無さそうだ。それを確認して太一は頭を下げて玄関へと向かう。
「お父さんは夜には帰えられるよね?私から電話するから。」
「分かりました。」
靴を履いて玄関を出る。壁に立てかけてある自転車を確認するが、やっぱり乗れそうにはない。動くことは動くので、仕方なく自転車を押しながら学校へと向かった。

「おう、大丈夫か?」
先ずは職員室に行くと、担任の三枝先生から声を掛けられた。一時間目は歴史の授業が無かったらしい。
「はい。身体の方は大丈夫です。」
答えた太一に三枝先生が確認する。
「それで警察には連絡したのか?」
警察?そうか警察か。
ずっと何か足りない感じがしていたのがそれだと分かる。
「いえ、してないんですが…。」
「おいおい大丈夫か?後でなんかあったら大変だぞ。」
先生にその意図は無かろうが、脅されているように感じてしまう。二時間目から出席するように指示を受け、少し職員室で時間を潰してから教室に向かった。
「おっと、自動車と戦う男の登場だ!」
教室に入るなり、クラスの中心人物という位置に居る塩島が大きな声を上げる。彼は身体は小さく帰宅部である。このクラスは彼を中心に回っている。本人に何か良さがあるのか、取り巻き連中がそうしているのかは分からない。少なくとも太一には彼の良さが理解出来ない。誰が告げたのか知らないが、事故にあったことを知り、揶揄ってきたのだ。太一は彼とまともに話したことは一度も無い。
「おいおい、睨まれちったよ。怖いねぇ柔道部は。」
チラッと顔を向けただけだが、塩島は太一のことを自身の勝手な固定観念で見ている。太一の事は何も知らないはずなのに、自分勝手なイメージで他人の事を決めつけている。高校二年生と言えばそろそろ大人への自我が芽生える年頃なのだが、彼にそれを求めるのは困難なようだ。この年代だと女子の方が圧倒的に精神年齢が高い。
太一にとって少ない友人の一人、吉坂が席を立って傍らに立った。
「山さん、大丈夫なんすか?」
我が校バレー部のエースで、身長が180センチもある。
「大丈夫だよ。」
笑顔で返すと吉坂もニッと笑う。吉坂には女子高に通う彼女がいる。バレー部の吉坂は背が高く、女子にも結構人気があるのだ。いつものろけて見せる吉坂が少しだけ羨ましい。クラスに可愛いと思う女子は居るが、今のクラスでの立ち位置で告白なんて出来っこない。太一自身は彼女を作ることなど考えてはいなかった。

その日の授業を終えるまでは特に体調に変化は無かった。家に帰り母の帰りを待ってから、事の次第を報告した。
「何よ、本当に大丈夫なの?」
母から聞かれた時も太一はただ頷いて見せた。帰って来た父には母が説明してくれた。太一から母へ、母から父へと伝わる内に話は簡略化され要点だけに削ぎ落される。
「交通事故?」
眉間に皺を寄せた父は、太一を上から下まで眺め回す。
「大丈夫なのか?病院には?」
太一が答えようとした時、固定電話が鳴った。山上家で固定電話が鳴ることなどは滅多にない。震災でもあった際には便利だろうという父の判断で残しているが、太一がスマホを持ってからは止めてしまおうかという話も家族の話題としては上がっている。
「お父さん、ちょっと出てよ。」
母が父に頼んだが、未だ全容を理解していない父はそれを嫌がった。
「とりあえず母さん出てくれよ。」
顔を顰め母が受話器を取った。
「はい、山上でございす。ええ、そうです。太一はうちの息子です。あ、小出さんですね?ええ、太一から聞いています。ええまあ私も聞いたばかりですので。はい、はい、そうですね。自転車はもう乗れないみたいですね。ああ、はい、ではこちらで買ってしまってよろしいですね?あ、はい、領収書ですね。ええ、分かりました。はい。では失礼します。」
振り向いた母は父と太一に向かって言った。
「自転車はこっちで買っちゃっていいんだって。」
「それだけか?太一のことは何か言ってなかったのか?」
頷いて見せた母に父は訝しんで見せる。
「おかしいんじゃないか?人の家の子供を車で轢いておいて。常識があるなら、お子さんは大丈夫でしょうかって聞くのが筋だろうに。」
父の顔が怒りに染まって来る。
「まあとりあえず自転車を買ってこないと。学校まではどう?歩いたら30分は掛かるでしょう?」
頷いた太一に母は重ねて聞いて来た。
「自転車はママチャリでいいの?」
「うん、おんなじでいいよ。」
頷いて答えた太一に母は頷き返す。母は食事の支度を再開し、父は晩酌のビールを冷蔵庫から取り出した。太一は一旦自分の部屋へと戻って行った。

翌日。太一は起きてからなんだか調子が悪く思えた。少し吐きそうな感じがする。それを伝えると母の顔が曇る。
「どうする?学校休んで病院に行こうか?」
自覚していなかったことに戸惑いながら、太一はだんだん心配になって来た。
「うん、そうしようかな。」
学校を休むことにし、母も仕事を休んでくれた。母に付き添われて近所の総合病院に行き、受付で昨日車にぶつかって今日になって気分がすぐれないのだと母が代弁してくれた。
「気持ちが悪いの?」
受付の人に聞かれ太一は短く答えた。
「ちょっと吐きそうな感じで。」
内科を受診するように言われ、指示された診察室の前に行く。空いていた椅子に座り名前を呼ばれるのを待った。
「山上さん、2番の診察室へどうぞ。」
スピーカーから声が聞こえ、母に促されその診察室の扉を開けた。デスクトップパソコンの画面に見入ったまま、医師が声を掛けて来る。
「どうぞ、座って下さい。」
振り向いた医師は患者が二人なのに気づき、看護師に指示して丸椅子を持って来させた。太一は医師の前に、母はその後ろに腰かけた。
「自動車にぶつかったって?」
医師に対しては太一から説明した。
「自転車で走ってたんですけど、駐車場から突然車がバックで出て来たんです。それに自転車の前輪が当たってしまって倒れました。」
「身体には当たってない?その時頭は打ったかな?」
太一は首を振ってから答えた。
「それは無かったと思います。」
「警察には連絡したの?」
太一はそれには黙ったまま首を振って見せる。
「ダメだよ。連絡しないと。もう高校生だろ?事故証明を取っておかないと、先方に治療費を請求出来ないよ。」
事故証明?なんだ、ソレ?
山上家には自家用車が無い。家族で車の話をしたことも無く、事故の際にどうするべきかなど全く知らなかった。もちろん学校でもそんなことは教えてくれない。
「CTを撮っておこうか。」
テレビでしか聞いたことのないその言葉に、太一の緊張感が増した。
太一の目を確認し、胸と背中の音を聞いてから廊下で待つように言われる。診察室を出て廊下の椅子に母と並んで座った。
「事故証明ってなに?」
「あたしも良く知らない。」
そんな会話をしながら待っていると、看護師から名前を呼ばれた。その人に誘導され病院の奥へと向かった。CT室と書かれた部屋の前で待っているように指示される。少ししてその部屋から男性が顔を見せた。
「山上太一さん?どうぞお入りください。」
一人でその部屋に入った太一は固まってしまった。SF映画のような機械が目の前にある。ベットと円形の穴が空いた機械の組み合わせだった。ベットの上に寝るように言われ、恐る恐る太一は仰向けで横になった。
少し待っているとへんな機械音が聞こえて来た。
「頭のCTを撮りますからね。」
ベッドが太一を乗せたままゆっくりとスライドする。
なんかちょっと怖いな。
だが逃げる訳にもいかない。緊張感に包まれたまま太一はじっと我慢する。
しばらくして解放された太一は、同じ廊下の並びの部屋を指し示された。カルテを渡され次はレントゲン室だと教えられる。そこに行くと小窓が有って、プラスチック製の書類入れがあった。小窓の向こうに人が居た。
「あの、ここでいいんですか?」
「レントゲンですね?はい、ここに入れて下さい。」
書類入れにカルテを入れるとすぐに名前を呼ばれた。
レントゲン室は太一も経験がある。流石に先ほどのような緊張感は感じない。Tシャツを脱いで上半身裸になり、レントゲンの機械の前に立った。顎をそこに乗せて胸を機械に着ける。別室から出て来たさっきとは別の男性に姿勢を直される。
「そのまま我慢して下さいね。」
男性は言い置いてまた別室に戻って行った。今度はスピーカーから声が聞こえた。
「はい、息を吸って…ハイ、止めて!」
ウッ。
一瞬の苦しみの後、スピーカーから許可が下りた。
「はい、いいですよぉ。」
また診察室の前で待つように言われ、母と二人で移動する。

レントゲン写真、CT写真がパソコンの画面に映っている。
「うーん、特に問題はないようですね。」
写真を眺めていた医師が言葉を発する。だが太一は自身を写したはずのCT写真にくぎ付けになっていた。自分の頭部の断面図というのを生まれて初めて見た。目玉が本当に丸いのだとよくわかる。
「じゃあ様子をみたらいいでしょうか?」
母の質問に医師は笑いながら答えてくれた。
「車は凶器ですからね。なにせ1トンはあるんだから。君の体重は?」
「えっと72キロです。」
答えた太一に医師がこんな話をして聞かせる。
「だろ?14倍くらいだ。そんなもんにぶつかられたら、ちょっとやそっとの衝撃じゃないからね。人間の身体は何某か反応してしまうさ。交通事故の場合はすぐに症状が出ないこともあるからね。」
「あの、警察へは届けた方が良いんでしょうか?」
母が質問を重ねる。少し考えてから医師は母を見た。
「そうね。届けるなら早い方がいいでしょう。本来はすぐに届けるべきなんですがね。」
最後の方は太一の方を見ながらだった。太一は頭を下げて席を立つ。

近くの交番に行き事情を説明した。警察官は書類を取り出してそこに書き留めて行く。叱られるのかと思ったが、極めて事務的に質問されただけだった。小出さんの住所が分からず、出された地図で場所を指し示す。
「フルネームは分かりますか?」
警察官から聞かれたが、聞いていませんと太一は答える。その時に母が持っていたバックからメモ紙を一枚取り出した。
「電話番号なら分かります。」
どうやら昨日電話があった時に、固定電話の画面に表示された電話番号をメモしておいてくれたらしい。
よく考えたら小出さん、聞くばっかりで肝心なことは教えてくれなかったな?
今更ながら思い起こすと、小出さんの連絡先とかは一切教えてもらってはいない。太一の情報は聞きたがったが、自らの情報は肝心のことは話さなかったように思える。奥さんと娘が居て映画会社に勤めている。その他の個人情報は苗字だけだ。
「ではこちらの交通事故証明書を郵便局から郵送して下さい。もしくはインターネットでも可能ですから。」
警察官が母に対して説明している。
なんだ、さっきのがその申請じゃないんだ。
そんなことを思いながら太一と母は交番を後にした。

その日の夜。また山上家の固定電話が鳴り響いた。近くに居たので反射的に太一が受話器を取る。
「はい、山上です。」
すると受話器の向こうから聞き覚えのある声が聞こえて来た。
「あ、山上君?小出です。」
あ、しまった。取っちゃった…。
「ねえ、山上君。君警察に届けたのかい?」
「ええ、まあ…。」
あいまいに答えながら太一は父と母に顔を向ける。誰からか気づいたらしい父が立ち上がる。
「ショックだなぁ。僕はショックだよ。君がそんなことをするなんて思わなかった。」 
自称が僕に変わっている。父が右手を出して受話器を要求してくる。太一は素直に手渡した。
「お電話変わりました。父親です。小出さんですね?ええ、ええ、そうですね。病院に行きまして、そこでも勧められたもんですから。はぁ、しかしですね。ええ、いやあのちょっと待って下さい。そもそもそちらの方で警察に届けるべきだったんじゃないですか?」
顔をしかめた父は受話器を耳から外して、それを不気味そうに見つめている。その受話器から声が漏れ出ている。
「ショックだなぁ、僕はショックだなぁ。僕はね、無事故無違反なんですよぉ。」
しばらくそのままにしておいてから、父は再び受話器を耳元に戻した。
「あなたの気持ちは知りませんよ。ともかく正式に届け出ましたんで。後は自転車を買ったら請求書を送りますから。」
「お父さん、住所、住所。」
母が小声で伝える。
「小出さん、それでそちらのご住所なんですが……あ、切りやがった。」
しかめっ面のまま、父は受話器をフックに戻した。
「届け出たのがなんで分かったのかしら?」
不思議そうな顔をした母に、父は椅子に戻りながら告げた。
「大方警察から確認の電話が入ったんだろう。」
父は太一の方に顔を向ける。
「でも家は分かってるんだ。そこのポストにでも放り込んでおけばいいさ。」
そう言った父は晩酌を再開する。たった今してしまった嫌な思い出を消したいのか、いつもなら2本で終わる缶ビールが3本目までいってしまった。母は小さいコップを取り出して父の前に置いた。
「なんだ?飲むのかい?」
母は父の隣に座り黙ったままグラスに手を添えている。父はそこにビールを注ぎ込み、自分のグラスにもビールを注ぎ入れた。
「恵比寿様から福でももらうさ。」
父は自分のグラスを母のグラスに軽く当てて、グイッと一口飲んだ。
「福をくれればいいんだけど。」
母は一口飲んで、グラスを手に取ったままシンクへと向かう。
「ご飯にしましょ。今日はカレーライスよ。」
香りで分かってはいたが、言葉にされると嬉しさが増す。太一はカレーが大好物なのだ。
「明日は休みなんだろ?じゃ自転車屋さんに行って買ってきたらいい。」
父の言葉を受けて、太一は椅子に座って母の方を向いた。
「今の自転車っていくらしたんだっけ?」
カレーを盛り付けていた母は、振り向いて首を傾げる。
「そうね。家計簿見てみるけど…たしか3万円くらいだったと思う。」
「明日休みだろ?じゃ3万円以内で明日自転車屋さん行って買っといで。もっと高く吹っ掛けてもいいかも知らんが。」
笑った父を母が軽く睨む。軽く舌を出してみせた父は、手を伸ばし母からカレー皿を受け取った。

翌日太一は昼頃自転車屋に赴き、自分の自転車に近い物を探した。太一は5段変速機付のママチャリだったので同じ物を探したのだが、3段変速のものしかない。
まあいいか。坂道で使うくらいだもんな。
値段を見ると28,800円となっている。消費税込みだと予算オーバーだが、致し方ない。気になっていたことを店員さんに尋ねてみる。
「あの、古い自転車の引き取りとかは…。」
「あ、やってないです。」
あっさりと返されて太一は諦めた。
前の奴は粗大ごみか。いくらかかるんかな?
購入したい旨を伝え支払いを済ませると、サドルを調節してくれてから引き渡しになった。そこで太一は大事なことを思いだした。
「あ、あの、領収書ってもらえますか?」
確か領収書という言葉が出てきたはずだ。
「あて名はどうします?上で宜しいですか?」
太一にはウエが何だか分からない。咄嗟に頷いた太一に領収書が差し出された。
ああ、上ってこういうことか。
領収書には上様とある。金額も書かれハンコも押してある。まあこれとレシートが有れば大丈夫だろう。
「お客様、レシートの方を頂きます。」
ありゃ?持ってかれちゃうのか?
そうなると手書きの領収書より、印字されたレシートの方が格が上に思えて来る。ちょっと迷ったが自分の耳で聞いたことの方を優先させることにした。レシートを渡し、領収書を財布に仕舞う。

家に戻ってから両親の前に領収書を差し出し、他に粗大ゴミ代も掛かることを伝えた。
「まあそれくらいはこっちで負担してもいいけど。」
母の言葉に父も頷いて見せる。
「百ゼロってことはないかもしれんしな。」
「百ゼロ?」
尋ねた太一に父は告げた。
「交通事故の場合にはさ。責任が片方だけってことには成りにくいんだってさ。」
会社の同僚からそんな話を聞かされたのだと言う。
「それってこっちにも責任があるってこと?それは無いんじゃない?」
抗議した太一に父は笑って見せる。
「世の中に出たら理不尽なことだらけさ。まあ社会勉強だと思っておけばいいさ。」
釈然としない太一を置いて、父は固定電話へと向かう。母の取ったメモはそこに置いてある。受話器を手に父は間違えない様にゆっくりとプッシュボタンを押した。
「夜の方が良いんじゃない?」
声を掛けた母をちらりと見て父は呟いた。
「知ってるだろ?嫌なことは早く終わらせる主義なんだ。」
受話器を耳に当て父は相手が出るのを待っている。
「ん?」
不可解だと言う顔をして父は受話器を耳から離す。
「出ないの?」
太一が聞くと受話器を元に戻し、父は首を振った。
「出かけてるんじゃない?」
母の言う通りかもしれない。父もそう思ったのだろう。諦めてリビングの椅子に座った。だがその後何度か掛けてみたものの、一向に相手は出ない。
「なんだ?旅行にでも行ってるのか?」
だがその翌日も電話が繋がることは無かった。

月曜日。父は夜の8時に電話を試みる。
「なに⁈」
父の声に怒気が籠る。受話器を叩きつた父は一言吐き捨てた。
「解約してやがる。」
「解約?」
問いかけた母に父は怒りの顔を向ける。
「ああ、この電話は使われておりませんとさ。」
「そんな…。」
絶句した母に父は首を振った。
「もう関わるのを止めようか。」
「警察に訴えたら?」
太一の提案に父は笑って答えた。
「警察は民事不介入だよ。何もしてはくれないさ。」
「じゃ裁判所に訴えたら?」
母の提案には父は目を丸くして答える。
「裁判だなんて弁護士費用がいくらかかるか。幸い太一に大事は無いんだ。変な人間とはもう関わらなくていいんじゃないか?」
「でも悔しいじゃない?請求書だけでもポストに入れておきましょうよ。」
諦めきれないらしい母に父も折れた。
「まあダメもとでそれくらいやってもいいけど。じゃサクッとワードで作ってみるか。」
10分後。カタカタと音を立てたプリンターから現れたのは簡単な内容の一枚の請求書だった。父はそれを折り畳み、領収書と共に封筒に入れようとする。
「ちょっと待って。書き換えてよ。」
止めた母に父は怪訝な顔を向ける。
「書き換える?どういう風に?」
「弁護士に相談中ですって一文入れて。」
呆れ顔の父は怖そうに肩をすくめて見せる。
「やれやれ。女の執念はおっかないね。」
直ぐにプリンターがまた音を立て始めた。そちららを手に取り父はさっきの紙と入れ替えた。
「じゃ太一、明日にでも小出家の郵便受けに入れといてくれ。」
少し気が引けるがそれをやれるのは自分だけだろう。仕方なく太一は封筒を受け取り、自室にあるカバンの中に入れた。

翌日はいつもより少し早めに家を出て、新しい自転車に乗って学校へと向かう。もうすぐ夏休みに入るこの時期は、正直制服はきつい。その日は朝から陽差しが強く、昼間を迎えるのが怖いほどだ。今日はクラブのある日だから、大量の汗を搔くだろう。10分ほど走ったところで、事故現場である小出家が見えて来た。この時間帯だと通学しているのは後輩が多い。これは太一の感覚だが、一年生の方が通学時間帯が早く、三年生は遅刻ギリギリに学校に来ているイメージがある。小出家に立ち寄るのを同級生に見られたくなくてこの時間を選んだのだ。
前回は気にも留めなかったが、小出家のポストは何処にあっただろうか。壁にでも付いていてくれれば理想的だ。通りしなにそれとなく入れることが出来る。近づいて壁を見たが、それらしきものは見当たらない。仕方なく自転車を止めると、小出家のポストは駐車スペースの奥にあった。目論見が外れた太一は、自転車を降りて道路の端でスタンドを立てた。例のセダンの横をすり抜け、ポストに封筒を差し入れた。
終わった終わった。
ほっとして何気なく上を見上げた時、二階の窓に誰かが立っているのが分かった。見覚えのある女性が二階の窓からジッと太一を見つめている。小出夫人だった。その顔には何の感情も浮かんでいない。慌てて振り向いた太一は車にぶつからない様に気をつけながら、駐車スペースを出て自転車のスタンドを外す。
頭でも下げるべきだったかな?
思いはしたが無表情の夫人の顔を不気味に感じてしまい、思わず避けてしまった。家の方を見ない様にしながら、自転車に跨り再びペダルを漕ぎ始めた。

練習を終えた太一は、同じ柔道部の伊藤と一緒に学校を出た。方向が同じ二人は駄弁りながら、並んで自転車を漕ぐ。今日の練習で太一が三年生の主将を見事な背負い投げで投げたことが話題になると、太一にその時の感覚が蘇り話に夢中になってしまう。
「いやあれは凄かったよ。」
「たまたまだよ、たまたま。」
実際普段は主将にはまったく敵わない。主将は大内刈りが得意で、いつも簡単に投げられてしまう。調子づいた主将が前に出て来た時、サッと身を翻して掛けた背負い投げが見事に決まってしまっただけだ。
「あれが試合で出たらな。」
伊藤の言う通りああいう技が自在に仕掛けられれば、大会でもいい所に行けるかもしれない。
「まあ試合では難しいだろうけど。」
そこで会話が途切れてしまい、太一は伊藤の方に顔を向ける。伊藤は黙ったまま前方を見つめている。
「なんだ?他所見して漕いだら危ないぞ。」
注意した太一には答えずに伊藤は独り言を呟いた。
「なんだろう?あの人…。」
あの人?
伊藤の見ている方に顔を向けた太一は、思わずブレーキを握りしめた。
キキ!
話に夢中で気が付かなかったが、そこは小出家に差し掛かるところで、壁の向こうに小出家の二階が見えている。そこに誰かが立っている。窓の向こう、此方を見つめた小出夫人が無表情にただ立っている。
キキィーィーー‼
伊藤が自転車を止めたのは小出家の正面だった。だが小出夫人は其方には顔を向けようとしない。夫人の視線は太一を射止めて離さない。
「山上、どうしたんだ?」
伊藤に声を掛けられて我に返った太一は、二階から顔を背けた。太一の足が何度かペダルを空振りしてから、ようやくそれを捉え回転運動を再開させる。
「おいって。どうしたんだよ?」
伊藤の声が追いかけてきたが、それを無視して懸命に自転車を漕ぎ続けた。

母の得意な冷製パスタを食べながら、太一は見たことを両親に報告した。
「朝も夕方もそこに突っ立ってたってのか?」
尋ねた父に太一は頷きながら声を荒げた。
「そうなんだ。顔だけはずっとこっちを見ててさ。もう気持ち悪くって。」
「たまたまなんじゃないの?」
母は麦茶を飲みながら呑気そうに言う。
「そんな訳ないじゃない。ずっと俺の事だけ見てたんだから。」
母の言葉を訂正しようと試みた太一に、母は言い返してきた。
「だって太一が何時に学校に行って、何時に帰るかなんて知るわけが無いじゃない?第一今日はいつもより早く家を出たんだし、クラブで遅かったでしょう?」
確かにそれはその通りだ。今日はいつもより20分早く外に出たし、週に3日のクラブの日を部外者が知る訳が無い。でもだからこそ不気味なのではないか?
その時固定電話が鳴った。ビクッとした太一は母と目を見合わせる。立っていった父は、画面を見て呟いた。
「携帯だな。」
それをメモしてから父が受話器を手に取った。
「もしもし?」
受話器に問いかけた父は、ウッと呻いて受話器を耳から離す。受話器から男性の声が漏れている。相当な大声で何か言っている。
「なんですか⁈ありゃなんですか⁈」
受話器を通して聞くその声は少しくぐもっているが、間違いなく誰の声だか分かる。独特なイントネーションは間違いなく小出さんのものだ。父は嫌そうに受話器を耳に戻し、だがまた耳からは離してしまう。受話器を斜めにした格好で、受話器に向かって大声を上げた。
「落ち着いて下さいよ、小出さん。何が何だっていうんです?」
更に大声が受話器から漏れて来る。仕方なくしばらく相手の話すに任せ、相手が息継ぎをした瞬間に父は再び大きな声を上げる。
「高くなんかありませんよ。貴方が壊した自転車だって、それくらいしたんですから。一万?そりゃあそんな自転車もあるでしょうけど…息子のはもっといいやつだったんです。弁償すると言ったのは貴方の方でしょう?振込先?何を言ってるんです!住所書いといたんだから、現金書留で送ってくればいいでしょう?ええ、弁護士の話は本当です!私の大学時代の友人が、」
受話器を耳から離した父は、そのまま乱暴にフックに戻した。
「また切りやがった。」
「なんて言ってるの?」
問いかけた母に苦虫を噛み潰した顔の父が答える。
「3万円もする自転車は贅沢だとさ。」
「何を勝手な。」
母の顔も太一の顔も歪んでしまう。
「それにさ。」
言い難そうに父は太一を見つめた。
「なに?」
黙っている父が何だか怖くなって、太一は先を促した。
「上様って誰ですか!だと。高校生になって一般常識も無いのかってさ。」
一般常識も無い?
頬を赤くした太一は両手の拳を強く握りしめた。悔しくて涙が出そうになる。父が太一の肩を叩く。
「もう忘れろ。ちょっと度を越した社会勉強だ。」
「一般常識が無いのはあっちじゃないの。」
母も頬を赤く染めて、太一の顔を心配そうに見つめる。母に心配を掛けたくない太一は、一つ深呼吸してから手を振って自室へと戻った。「

一週間後に夏休みを迎え、太一の心は軽くなった。あれ以来小出さんからは何の連絡もない。当然だがお金も送ってこない。父は社会勉強だと言っていたが、ああいう大人も居るのだと知った太一は自分の未来が暗く感じてしまう。クラスメイトの塩島みたいなのは、大人になったら居なくなるのだと思っていた。ところが現実はそうでもないらしい。子供の意識のまま、大人になってしまう。そんな大人も居るのだ分かってしまった。年齢を重ねれば大人になるという訳にはいかないようなのだ。
やれやれ。
だが夏休み中は殆どのクラスメイトと合わなくて済む。クラブも夏合宿が学校内で二泊三日あるだけだ。嫌なことは忘れてのんびりと過ごせばいい。まだ大学受験のことなど考えたくも無かった。

ん?あれ⁈
自室のカーテンを開けた時、家の下の道路に変な者を見とがめた。一人の男性が家の下に立っている。太一の家は団地の二階なので、その下で他人がこちらを見詰めていると言うのは違和感しかない。
小出さん?
その顔には何の表情も無く、ただジッと此方を見詰めている。
同じだ。あの時の奥さんと同じだ。
身体が固まってしまい太一は動けなくなった。だがいたたまれない気持ちが、自分の尻をモジモジとさせる。自分の尻に神経を集中させると、僅かに恐怖感が引っ込んだ。その瞬間、一瞬の隙に右手を動かしカーテンを閉めた。
なんで家を知ってるんだ?
だがその疑問の答えは自身の中にあった。小出さんに自宅の住所を伝えたのは自分自身だ。自分が投函した封書の中に、父が書いた自宅の住所が記載されていた。だがそれは当然自宅に招くためではなく、自転車の購入費を送って貰うためだった。
自室を飛び出し、リビングに向かうと父がそこで新聞を読んでいた。父を見た瞬間、父に向かって怒鳴り声を上げていた。
「父さん、あの人が来てる!」
「あの人?」
新聞から目を上げた父は、太一の顔を見て信じられないという顔になった。
「あの人って小出さんか?」
頷いた太一の横をすり抜け、父が太一の部屋に向かう。母がその後を追い、太一は母の背を追った。
シャ。
雑にカーテンを引き開けた父は顔を左右に向けてから、鍵を開けガラス窓を開けた。
「ん?」
母と太一に振り返り父が呟く。
「誰も居ない。」
母は父の横に立ち、窓の下を見下ろす。
「そうね。誰もいないね。」
父も母も同じことを言う。だが太一自身は恐怖感から動くことが出来ない。自分は確かに見たのだ。自分が顔を出すと小出さんの顔が、窓の横からヒョイッと覗き込んで来るような気がしてならない。
「嫌な思いをしたからだろう。」
父は言いながら腕時計を確認する。
「あ、いけね。もう出かけなくちゃ。」
「あたしもだわ。ゆっくりしてられない。」
既に二人とも着替えは終わっている。だが太一には小出さんが何処かに隠れているように思えてならない。隠れるとするなら団地の階段なら好都合じゃないのか。先に出て行こうとする父を呼び止めた。
「ちょっと待って。家を出るなら母さんと一緒に出てよ。」
靴を履いた父は呆れ顔で振り向いたが、太一の顔が余りに真剣なのでフッと吐息を吐いた。
「じゃ、母さん。急いで支度して。」
「大丈夫。バックを持てば直ぐに出れるから。」
母はリビングからバックを取って来る。太一に向かって軽く手を振り、靴に手を掛けた。父は扉を開け自分は先に外に出た。やはり気になったのか階下の方に顔を向けている。靴を履いた母がその横に並んだ。太一に向かって頷いた父は階下へと降りて行く。母はもう一度手を振ってからその後に続いて行く。太一は閉まった玄関の扉に飛びつき、もどかしく鍵を閉めた。
確かに居たんだけど。
そうは思うものの父の言う通り幻覚だったものか?
ピンポン、ピンポン、ピンポン。
その時家のベルが鳴った。ギョッとした太一はまた身体が固まってしまう。
ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン。
再び気ぜわしく玄関のベルが鳴る。意を決した太一は鍵が掛かっていることを改めて確かめてから。扉のドアスコープを覗き込んだ。果たしてそこにはレンズによって歪んだ小出さんの顔があった。ドアスコープの方を無表情に見つめている。
ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン。
何だよ、何だってんだ⁈
「アナタ、何してるんですかっ!」
扉の向こうから声が聞こえた。隣の三上さんの奥さんの声だ。
「山上さんに何の御用?」
ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン。
「警察、警察を呼びますよっ!ちょっと、ちょっと何処行くのよっ。」
足音が聞こえて来た。太一は自室に行ってそっとカーテンを開けてみる。小出さんらしき人物が振り向きもせずに建物から出て行くところだった。
太一は急いで玄関まで戻り、扉を開けた。
「あら、太一君。居たのね?」
三上さんの奥さんに頭を下げ、簡単に経緯を説明した。三上さんとの近所付き合いは深い。太一が事故に合ったことは母から聞いているはずだ。
「まあ、じゃあの人は犯人じゃないの。やっぱり警察に電話した方が良いかしらね?」
三上さんはもう自分のスマホをタップしようとしている。
「いえ、大丈夫です。ってか大丈夫ではないですけど…。父と母が帰ってきたら相談してみますから。」
三上さんは何故か残念そうにスマホを下した。
「そうなの?じゃあ仕方ないわね。」
いい人なのだが噂好きなので、もしかすると自分も当事者に入りたいのかもしれない。いっそ自分と変わってくれたならとも思うのだが。まあそんなことは叶わない。礼を言って扉を閉めた。

先に帰って来た母に今日あったことを報告する。疲れた顔をしていた母が、怒りの表情に変わる。
「間違いなく小出さんなのね?」
太一が頷くと母は踵を返して玄関へと戻っていった。外へ出て隣のベルを一度鳴らしたようだ。扉の開く音が聞こえ、三上さんの奥さんの声が高らかに響き始める。もうこうなると今晩の晩飯は一時間くらい遅れるだろう。月に二、三度訪れる長話タイム。父は三上家山上家の首脳会議と名付けている。
きっちり一時間遅れた夕食の際、父は食事の手を止めて腕組みして考え込んでしまった。
「異常だな。」
それは問いかけでは無かった。ハッキリとした断言だと太一は受け止めた。
「今朝はきっと3階辺りに潜んでたんでしょうね?」
母の推測を父は黙ったまま聞いている。
「やっぱり警察に連絡するか?」
それは問いかけだった。太一にではなく母にと思われ、太一も母の顔を見詰めた。
「でも何かされた訳でもないしね。警察ってストーカーには甘いらしいじゃない?」
太一もいくつかニュースで聞いたことはある。ストーカー被害を訴えた女性が、警察の初動捜査が遅れて重篤な被害に合った事件は一つ二つではない。
「確かに警察に話しても何もしてくれないんじゃない?」
警察に期待していないのは本音だが、これ以上面倒に巻き込まれる方が太一にはしんどく思えた。今日みたいに家に来られても、家から出なければ済む話だ。
「まあ少し様子を見るか。向こうだって仕事もあるだろうしな。何時までも太一に付きまとっている暇もないだろう。」
食事を再開した父は、もうそのことには触れようとしなかった。母は少し不満そうだったが、諦めたように太一に目を向ける。母に笑顔を向けた太一は、納豆のパックを一つ取って、憂さを晴らすように箸で思い切り掻き混ぜた。

それからは何事も無く日々が過ぎて行った。数少ない友人の一人、吉坂と合うことはあったがほとんどは家で過ごした。その日も吉坂の家で話し込んでしまい、帰るのが夜の八時を過ぎてしまった。食事をして行くように誘われたが、辞退して帰途に付いた。腹が減っているので自転車を漕ぐ足に力が入る。だが自宅前の角を曲がったところで、太一は急ブレーキをかけた。
ま、まさか…小出?
その人物はいつかのように路上で二階を見上げている。その横顔は確かにあの男だ。家庭内ではもう話題に上ることは無かったものの、思い出すときにはもう敬称は外している。何しろ相手は異常者なのだ。
ブレーキ音で気づいたらしく、小出はこちらを振り向いた。暗闇で良く見えないが、その目は虚ろで光を帯びていない。身体ごと此方に向き直り、スタスタと歩いてくる。身を固くして構えた太一の横を、そのまま通り過ぎて行った。振り返るともう角を曲がるところだった。
何しに来たんだろうか?
道路に自転車を止めて一旦スタンドを下す。自分だけ自転車置き場に入り、他の自転車を移動させ隙間を開けた。外に出て自転車を持ち上げてその方向を変える。自転車が丁度道路を塞ぐ形になった時、自動車のエンジン音が聞こえて来た。
へ?
角を曲がって来たのは白いセダンだった。それがライトを煌々と照らし、猛スピードで此方に向かってくる。
ヒッ⁉
太一は咄嗟に左側に飛んだ。幸いそこは芝生になっている。空中で身体を回転させるのと、破壊音がしたのはほぼ同時だった。柔道の前回り受け身をとった時、路上でガシャガシャと音がした。セダンが自転車を跳ね、更に追い込んで前輪を自転車の上に乗せた処だった。
何してんだ⁈コイツ?
セダンがバックする。前輪の重みから解放された自転車が、路上で僅かに跳ねる。だがそこに再び猛然とセダンが突っ込んで行く。車体を上に揺らし、またバックして自転車を解放する。自転車はもうグシャグシャだ。
再び自転車に乗り上げた時、右側の窓が開いて小出が顔を覗かせる。
「分かるかい?これが車に轢かれるってことだよ。」
小出の顔が歓喜に染まる。茫然とした太一は、半身を起こしその光景を見つめる。
「分かんないのかな?じゃあもう一度やってあげようね。」
車をバックさせてから、前進してまた自転車の上に乗り上げる。
「ほら、ほら、ほら!」
次第に残骸と化して行く自転車の上で小出が叫ぶ。喧しく悲鳴を上げる元自転車は、価値の無いアートのようだ。
「ちょっと、何してるんですかっ⁈」
階段から母が走り降りて来る。その後ろには三上さんの奥さん、父、三上さんも続いてくる。周辺の家の窓も灯りが灯り、何軒かは窓を開けて住人が顔を覗かせている。
ガッガッガガ。
前輪と後輪の間に自転車を挟み込み、動けなくなってしまった自動車の中で小出が絶叫する。
「分かったかっ?分かったのかっ!」
それは太一ただ一人に向けられている。セダンの後ろを回って母と父が太一の元に駆けつけて来た。
「大丈夫?怪我はないの?」
母に両肩を揺すられて、諤々と首を振る太一。後ろから父が母の両肩を押さえてそれを止めた。
「何してる?止めんかっ!」
角を曲がって警察官が一人走って来た。誰かが百十番通報したのだろう。すぐそこにある交番から駆け付けたものと思われる。空回りするエンジン音が唸りを上げる自動車の後ろで、警察官も立ち往生している。制服に装備した無線に何かを叫び始めた。増援を求めながら数字をいくつか叫んでいる。恐らくは車のナンバープレートの数字だろう。
車の右側に移動した警察官は、運転席のドアを開けようとするがロックされておりビクともしない。警察官がロックを外そうと腕を伸ばすと、フロントのガラスが引き上げられていく。手を挟まれそうになった警察官は手を引っ込めてそれを回避した。
パトカーのサイレンが聞こえるまで、その状況は変わらなかった。パトカーに後ろを阻まれ、更に二人の警察官が増員されてようやくエンジン音が止まった。小出が連行されて行く。彼は此方を一顧だにしない。その瞳は虚ろで凡そ生気が無い。警察官から事情を聴かれ、それには父が対応してくれた。母に促され太一は家に戻る。帰って来た父が言うには、自動車はレッカー車で引かれていったとのことだった。
後日刑事が尋ねて来て、太一は知っていることを全て答えた。
「なるほどですね。」
刑事は頷きながら、予想もしなかった言葉を口にした。
「小出啓介は減点だらけでしてね。免許取り消し寸前だったんですわ。」
年かさの刑事に胸を叩かれ、若い刑事はそこで口をつぐんだ。
そうなんだ。無事故無違反なんて嘘っぱちだったんだ。
それを聞いた太一の心はようやく平穏を取り戻した。
あの人はやっぱりおかしな人だったんだ。もう関わらないでいいはずだ。

二日後。太一は柔道部の合宿に参加した。公立高校で予算も無いので、校内にレンタルで布団を持ち込んで行われる。午前と午後に行われる練習は少々キツイものの、気持ちを紛らわせるには丁度いい。汗を流す行為は今の太一には望ましかった。
「たりゃ!」
また主将の大内刈りで倒されてしまった。今日はもう五度目だ。見事に背負い投げで投げてから、以来主将からは目の敵にされている。
「止め!」
顧問の先生から乱取り稽古の終了が告げられる。礼をして下がり皆で横に並んで正座し、正面に正座した先生に向かって一礼して終了となる。その後は部員全員で畳を体育館の倉庫に片付ける。道場なんて贅沢なものは無くて、体育館の半分ほどのスペースに畳を引いて練習しているのだ。
合宿中くらいは引きっぱなしでもよさそうなものだが、他の部が使う日もあるので毎回片付けるのが恒例になっている。これが結構きつい。一人一人畳を背に負って、体育館内の倉庫に仕舞いに行く。それが百畳ほどあるのだ。僅か八名の部員で行うので、一人十枚以上片付けなくてはならない。えっちらおっちらと倉庫まで運ぶ。倉庫と反対側に畳を敷いた時は結構な重労働になる。
「ふぅ~。」
最後の一枚は太一が運んだ。部員の内三年生が二人。九月には引退してしまうので、それ以降は一人当たりの負担が増えてしまう。
「来年は新入部員をもっと入れないとな。」
そう呟いた瞬間、太一のこめかみを何かが掠めて行った。
ドンッ!
畳に当たった物が音を立てる。一瞬見えたの物は金属の塊に見えた。それがすぐに見えなくなる。思わず振り向いた太一の目に、柄が異常に長いハンマーを振りかぶる小出夫人の姿が飛び込んで来た。
「ウワッ。」
ドンッ!
屈み込んで避けた太一の頭上で、またハンマーが畳を打った。
「生意気に避けるんじゃないよっ!」
叫んだ夫人がまたハンマーを振りかぶる。太一は横っ飛びに倉庫から踊り出た。
「待ちやがれっ!」
太一の目は先生や仲間を求めたが、すでに皆体育館には見当たらなかった。
ガンッ!
太一の股の間にハンマーが落ちて来た。柄は長いが付いている金属自体は大きなものでは無い。だが殺傷能力を持っているのは間違いない。意思を持って振るわれると二、三キロのものでも凶器に変わる。
「あんたなんか、あんたなんかあの時頭でも打って、死んじまえば良かったのよっ‼」
ガンッ!
またハンマーが体育館の床を打った。そこは太一が居た場所で、正確に太一の頭を狙って来たのが分かる。
なんで、なんでこんな⁈
「逃げるんじゃないよ。あんたの運命は決まってんだから。」
ニヤニヤしながら近づいてくる。
このままじゃ殺される。
身構えた太一は、ハンマーを振りかぶった相手に向かって跳ねた。相手の両ひざの裏に両手を回し、思い切り引きながら全体重を相手に預けた。柔道の奇襲技、双手刈だ。
ダンッ!
技が見事に決まった。部員や先生にはかからないが、心得の無い人間にはこうも見事に決まる。新入部員でそれは経験済みだった。
「どうした⁈」
なかなか体育館から出て来ない太一を心配したのだろう。先生と伊藤が体育館の入口から走って来た。頭を打ったらしく、小出夫人は体育館の床の上で伸びている。ハンマーの重みも加わって、技の効果を上げてくれたようだ。
「誰だ?この人。」
先生が太一と小出夫人の顔を見比べている。
「まさかこの人が例の?」
同級生の伊藤には全て話している。
「知ってるのか、伊藤?」
「ええ、たぶんですけど。」
伊藤が先生に説明しようとした時、太一の足に強烈な痛みが走った。
「ぎゃっ!」
太一が足元を見ると、小出夫人がそこにしがみついている。柔道着をめくり太一の右足に爪を立てている。
「分かったかっ、分かったかっ!」
ギリギリと爪が食い込んで来る。初めて味わう種類の痛みだ。尻もちをついた太一の右足を、執拗に相手は攻め続ける。
「これでもかっ、これでも分からないかっ!」
更に食い込んだ爪が、太一の皮膚を割ってそこから血を滴らせる。
「止めないかっ!」
先生が夫人の後ろに回り、両脇の下から手を差し入れて引き離そうとする。伊藤が太一の足に絡まった両手の平を掴み、足から外してくれた。
騒ぎを聞きつけた他の部員達も走って来た。先生に羽交い絞めにされた夫人が絶叫した。
「離せっ!コイツに分からせてやるんだっ!分からせてやるんだからっ!」

そんな事件の事も、太一の記憶からは薄れてかけている。もう十年も前の話だ。あの後警察に引き渡した小出夫人は、半狂乱のまま連行されて行った。夫婦揃って傷害罪で掴まって起訴された。以来太一に付きまとわれることも無くなった。
今日は太一の結婚式だ。妻になる坂崎弥生とは一年前に知り合った。付き合って日は浅いものの、可愛らしくて気立ての良い女性だ。高校時代の友人は、吉坂と伊藤を呼んでいる。二人に会うのはもう何年ぶりだろう。
式が始まり父親に腕を組まれた彼女が、バージンロードを静々と歩いて来る。吉坂と伊藤が彼女を見て驚いているのが分かる。彼女の可愛らしさが我ながら誇らしくなる。特に今日の彼女はメイクもばっちりで絶品なのだ。吉坂がいつまでも彼女の顔を目で追っている。吉坂が口を開けて何か言おうとする。横の伊藤がそれを手で制している。
おいおい。俺の嫁さんだぜ。惚れるんじゃないよ。
そんな風に思いながら彼女を待つ。式が進み誓いの言葉の後、指輪を交換し誓いのキスへと移って行く。太一は弥生の顔を覆うベールを引き上げる。
「弥生?」
客席から誰かの声がした。チラッと見るとそれは吉坂だった。
おいおい、馴れ馴れしいぞ。今から俺の嫁さんだってこと、分からせてやっからな。
瞳を閉じた弥生のぷっくりとした唇に、自分の唇を重ねた。その瞬間弥生の舌が潜り込んで来る。
へ?そこまでするもんなの?
少々照れ臭いが受けて立つことにした。太一も舌を差し入れる。その時太一を激痛が襲う。
ハ、ハガッ!
弥生の歯が太一の舌を捉えている。誰かに背後から身体を捕まえられた。その腕は四本あるように感じられた。弥生の両親の顔が、太一の顔の左右から現れた。
「分からせてあげる。」
その声には聞き覚えがある。
まさか…整形したのか?
そこで太一は思い出した。吉坂が告白された女子高生は、弥生という名前では無かったろうか?
そういうことか…。よく分かったよ。
太一の情報を漏らしていたのは吉坂だろう。勿論故意では無かったのだろうが…。
ブチュ!
異音と共に太一の口の中に液体が溢れかえる。息を詰まらせた太一の目に、口の周りを真っ赤に染めた弥生の顔が映る。
「ぺッ!」
弥生が吐き出した物が太一の顔面に当たる。柔らかくベタッとした感覚は、恐らく太一の舌だろう。
「分かったかい?」
義理の父の問いかけにはもう答えることも出来ない。そのまま太一の意識は遠のいて行った。