さよならをちゃんと言わせて。

 ―――いつものコーヒー……全く味がしない。

 空気さえ鋭くて、簡単に吸い込めない。

 出張後も、報告書に打合せに、追われてたはず……

 疲れもたまって、やっとの休日だと思う。

 少しでも休息を、って……
 私には、そんな心配する権利はない。

 追い打ちをかけて、彼に心労をかけてるのは私だ。

 素っ気ない返事に、短い通話、ごめんを続けて……
 大事な話がしたいと告げた。

 応じてくれたからには、察しがついてると思う。

 いつも利用していた駅のカフェ。

 テーブル上のリングケースと合鍵を、じっと……優さんは見ていた。


 私が梶くんを選んだ。

 出会って今まで、惜しみない愛情をくれた……この人に、さよならを告げる。

 終わらせるのは、私だ。

「……私、もう、これを持っていられない」
「……持って……か。お荷物に、なっちゃったのか」

 優さんの視線は、変わらない。

 私たちが愛し合っていた証しを、ずっと見つめている。

「私に婚約者でいる資格がないの」
「梶くんと、何かあった?」
「私が、私が全部悪い」
「おれのこと、嫌いになった?」
「優さ……」
「凜のこと大事に……
 梶くんに、何ができるの!?」

 ばっちり、目が合う。

 ちゃんと見て、私! 
 目を反らすな!!

 優さんをこんな風に……
 苦しんだ顔をさせてるのは、私のせいだっ。

 言葉で、はっきりと伝えなきゃいけない。


「私が、梶くんのそばにいたいの。片時も離れたくないの」
「……それ、おれが一番、欲しかったセリフ」


 グッサリ、突き刺さった。

 心を、動ずるな。私!

 今…世界一、サイテーな女だから!

 優さんとの約束を放り出す。
 私が嘘つきで浮気者な罪人なんだ。
 涙なんて、流せる権利もない。

「そんな冷たい顔……初めて見た。でも、おかしいんだ、おれ……。まだ知らない凜を見ると、愛おしい……」
「……もう、会いに来ないよ」
「……わかってる。好きとか嫌いとか、そんなのじゃなく。君らは、魂で惹かれ合ってる。ってわかってて……大見栄切ったのは、おれだから」

 優さんはケースと鍵を、手の中にしまった。

 はっ!
 これで最後に……

「優さん」
「凜……さよならは言わないで。
 今は手離すけど、おれに自信がついたら、今度こそつかまえに行く」

 どんな優さんより、一番男らしく……去って行く。

 店を出て見えなくなるまで、彼の背中を……視線で追いかけた。

 最後まで、甘やかさなくていいのに……優しくなんて……
 もう十分、愛してもらったから。

 ごめんね……

 ちゃんと、優さんだけを一番に愛してくれる人と、幸せになって――。


 彼の背中を、目に焼き付けておきたくて、両手で視界をさえぎった。

 深い呼吸をひとつ。

 ……会社、辞めなくちゃ。
 優さんが戻って来づらくなる。

 それだけじゃないか……
 来年、正気を保ってられるか、自信がない。


 梶くんのいない世界で、私……


 会社の姉さんになんて伝えよう……
 お父さんお母さんになんて説明すれば……

 なんて私、こんなにも弱い人間なんだろう。
 今、気を抜いたら、泣きそうだ。

 私が勇気を振りしぼれたのは、強くいられたのは、大切な人達が私を……いつも支えてくれてたからでしょう?

 その人たちを悲しませるなんて。
 本当に私は、よっぽどの大馬鹿もんだ。


 暫く後に店を出た。
 思い出の店も、これが最後だ。

 今日は雨で良かった。構内の雑音もいっぱいする。
 改札を抜けて、私の帰る所へ。

 私を待つ人の元へ戻るまで、雨が情けない心を洗い流してくれるのを願った。

 それは小春日和の昼下がりのこと。
 梶くんは突然言い出した。


―――凜、お願いあるんだけど。
   はい。何でしょう?
   添い寝してくんない?
   ……は? 
        

 病院の裏庭まで車椅子を押してきた。

 梶くんはゆっくり、芝の地面に下りる。そして、ゴローンと寝転がった。

「あ〜、ちょーひさしぶりっ」

 あー、言い方〜。ほんと、茶目男。芝生でって話ね、からかってぇ。

「もう動けねーって、見上げる空がいつも……幸せだったな」

 なつかしい……梶くんのその姿。

 大の字になって、空を見上げて……
 切らした息を満足そうに届けとばかりに。

 私は昔を思い出す。中学の時も、よくグラウンドでそうしてた。

 とても和やかな光景に浸っていると、梶くんが私を見た。

「ん?」

 梶くんは私に笑いかけ、芝をトントンて叩く。
 おいで、って。

「ふふっ。えーい」

 梶くんの隣に、同じようにして寝転んだ。

 芝が少しくすぐったいのと、草の匂い……こんな風に空が、広く近くに見えてたんだ。

 子供の時、梶くんの横でこうしたいって思ってた……

 またひとつ、願いが叶ってる。

「……あんとき、隆平が空まで高く蹴ってみて、って。最後に、本当にラストのつもりで……したら足つって、凜にあたった。はは 」
「あー、 思い出した」

 10年越しの再会は、ここから始まって……

 人生が大きく揺れ動いたけど、今は……隣から聞こえる梶くんの声が、とても心地いい。


「ずっと後悔してた……凜を呼びこんだみたいで」
「梶くん?」
「俺が忘れてたから。体の奥で根っこみたいに、もう自分の一部になってたんだよ。いつも支えになって、倒れないでいられたのは、そのおかげなのに……」

 梶くんが私を見て、くすっと笑った。

 え?
 私のこと……?

「全部ケリつけた気だったけど、大事なもん忘れてんぞって。
 俺が、凜を呼んだんだ……ごめんな」

 私は首を振った。

 全部、俺のせいだ。
 凜は悪くないよ。

 そうゆう風に言われてるみたいだった。


 梶くんが右手を空に突き出した。

 手のひらで空に描いた何かを、捉えるように見つめてる。

「ここに来て、俺、後悔ばっか……。なのに凜は、大切なもん、次々くれるから……俺はもう大丈夫。だから凜は、いつでも……!」

 ぐっと伸ばした。
 私も左手を。

 ちょうど梶くんの手首に届くくらいに。
 手のひらをそっと重ねた。



「今、ちゃんと届いてるから……。10年、長かったけど、また同じ空の下で手が届くなら……何度でも伝えられるから。そばにいられるから。私も大丈夫!」

 もう後悔なんて、ひとつもない。

 過去のわたしが追い続けた梶くんは、こうして私の隣にいる。

 私が今、守りたいものも……すぐここにある。

 どんな梶くんでも……今、このとき―――
 そばにいられることが、幸せだ。


 あ、れ……?

 梶くん、手が……震えてない??

「うわっ」

 ガシッと梶くんの手が、私の手をつかんで引き寄せる。

 ふたり向き合う格好になって―――
 梶くんのおでこと私のおでこが繋がった。

「凜、ありがとう」

 梶くんの優しい声が響いてくる。

 まるで、柔らかく撫でられてるように、胸の中までほぐされた気分だ。

「私も。梶くん、私を呼んでくれて、ありがとう」

 あたたかい陽の光に包まれながら、自然のベットの上で、ふたり寝そべって。

 何もかもが穏やかな、ひとときだ。

「もう少し、このまま眠ろう」
「うん」

 あぁ――
 このまま、こうしていられたら……

 梶くんのぬくもりを感じて。

 ずっと……どうか……一緒に……

 この世界で眠りにつきたい ――。


 まぶたを通って、優しく明るい光が降り注ぐ。

 この夢のような中で、神様に祈りを捧げるように、安心して目を閉じた。


 ―――。
 現実の時間は、無情に刻み続ける 。

 この幸せの戯れが……
 ただの儚いひとときだと、後に知らせる。

 私達が後悔をしなくなったから?

 誰かを犠牲にして得た幸せを、永遠に願ったから?

 ……最期のときが、近づいていることを、梶くんは感じていたの?

 だから、命が1つ1つ消え逝くあの棟から、たった数百メートルの逃避行に……

 私を連れ出してくれたの?

 梶くんが、私の手を……強く握りしめるのは―――

 自分の順番が訪れたことを……
 受け取ったサインだったんだね―――。

☆☆☆

 窓際のソファで梶くんが眠ってる。

 暖房の効いた室内に、少し開けた窓からひんやりした風が通り……はだけた毛布を、そっと梶くんの胸までかけ直した。

「……ん?」
「あ、ごめん、起こした?」
「あー、寝ちゃってた……」

 梶くんはまだうつろな目で、天をあおいでいた。

 調子悪いのかな?
 喉乾いてるよね……。

 私が水を取りに行って戻ってくると、起き上がった梶くんが言った。

「凜、仕事休みなの?」
「え?」
「だって、まだ昼なのにいるから」
「え??」

 梶くんは可笑しな事を口走っている。
 窓の外はもう真っ暗だ。

「梶くん、今は夜の8時だよ。私、仕事終わってから来た……」
「あれ? 夢見てた? すげー明るかったから」

 梶くんはモゾモゾと目を擦ったりして。

 寝ボケてる?
 なんか寝起き悪い子供みたいで……かわいい。

「ふっ。梶くん今日、検査疲れなんじゃない? はい、お水」

 ペットボトルを梶くんに差し出す。

「サンキュ」

 と受け取ろうとした時、梶くんの手からボトルがすり抜けて、床に落ちた。

「「 !!!! 」」

 梶くんの動きが止まってる。

 私はボトルを拾い上げて、ソファに腰かけた。

 ボーッと手の動きを確かめてる梶くんを、覗きこむようにして、「大丈夫?」と声をかけた。

「ごめん」

 小さな声で梶くんの返事がする。

「起きたばっかで力入らないよね」 
「あぁ、そっか」

 まだボーッとしてる梶くんが、何だか、赤ちゃんみたい……

「っ!」 
「いいこ、いいこ」

 髪をそっと、なでなでしてあげた。

「ついに俺の母ちゃんまで、こなすようになったの?」
「ぷっ、ははっ!」

 マネージャーのつもりだったんだけど、お母さんね。
 うん、それもいいかも?

 梶くんが私の肩に、おでこを乗せてきた。

 私は優しく梶くんの髪を撫でて……

「今夜はいい夢が見れますように」

 おまじないをかけた。

「……うん」

 梶くんの小さな声が聞こえた。


 どうか、ひとりのときも寂しくならないように―――願いをこめて。

☆☆☆

 秋が深まり、紅葉した木々が色付いた葉を落とす。
 病棟の庭にも、落ち葉が色とりどりの模様をつけて。

 移りゆく季節の情景を、私はロビーの椅子から眺めていた。

 今度は落ち葉拾いしなくちゃ……。

 暇つぶしに考えを巡らせていたところ。

 春見さんに車椅子を押してもらって、梶くんが戻って来た。

 私が先に視線を送ると、梶くんも私を見て微笑んだ。

「凜!」

 嬉しそうに私を呼ぶ声。

 検査結果が良かったのかな?

「おかえ……」
「いつ来たの? 外寒くなかった?」
「!?」

 ―――っ……。
 ふいに嫌な予感がまとって、声が出ない。

 梶くんをまじまじ見つめても、その言葉を……
 なんのおかしさもなく言ったんだ、と感じとれた。

「??」

 私が返事をしないことに、梶くんはキョトンと不思議がっている。


 これは―――。

 私は確信をもって、梶くんの背後にいる、春見さんの顔を思わず確認した。

 あぁ……。
 春見さんも私と同じ顔をしている。

 悪い知らせを感じたんだ。


《 外寒くなかった? 》

 梶くん、私はその言葉を……
 1時間前に一度聞いたよ―――。

 ここで待ってる、ってふたりを見送ったの……


 忘れた??

 そんな風にいつもみたく、笑って私を出迎えてくれるの……
 今日は2回目だよ――。


 梶くんの中の時計が逆戻りを始めた、瞬間だった。



 冬を告げる木がらしが、枯れ葉をさらっていってしまうように……

 梶くんの記憶が、途切れ途切れ、失くなり始めた―――。

 おはよー。こんにちは。今晩は。
 関係なくなって……

 梶くんの世界で、私は……
 1日に何度も訪問をした時もある。

 初めは戸惑った。

 でも梶くんが、その度に……
 笑顔で私を呼ぶから。

 まるで、ママのお迎えが来た園児みたいに、ぱぁっと、顔を明るくするから。

 私もその顔を、何回でも見たくなって。

 梶くんの時計に針を合わせ……
 ふたりの始まりを、また新しく再現した。


 いつ、この笑顔を見れなくなる……かわからない。

 私も同じように、梶くんに見せておきたかった。

 それを繰り返すうちに、何日分も時間が増えた気分になって。

 小さな幸せを見い出したものの……

 隣り合わせに、強烈な不安もつきまとった。


 梶くんの中の病魔が、梶くんの体を支配し始めている。

 見せつけるように、梶くんの一つ一つを奪っていく……。

 私の帰り道はいつも、しかめっ面で唇を強く結んでいた。

 後ろ髪を引かれる思いで、何度も……
 梶くんのいる丘を見上げる。


 涙がこぼれないように―――。


 拳を握りしめて、自分を鼓舞しなければ明日の希望を信じることさえ……難しくなってしまった。


 梶くんは日に日に……動きが鈍くなり、会話も少なくなった。

 外出も禁じられてしまって……
 最近は、窓から入る外気を頼りに、ソファで過ごす時間が多くなった。

 音楽を聞いたり、私が本を読み聞かせたりして。

 支えがなければ、体を起こしているのも……つらそうな梶くんを、私は隣で受けとめている。

 梶くんは私の肩にもたれて、静かに息をして……。

 梶くんの呼吸を、体温を、確かめながら……
 こうして読む本は、2冊目になった。


 もう、12月。 
 時間を、止めてしまいたかった―――。


「……ん。り、ん……」

 梶くんのかすかな声がした。

「ん?」

 梶くんの口元に耳を近づけた。
 何か、言おうとしてる。


 『・・・・・・』


 っ!! 
 ―――私の耳が聞き取った言葉は……


―― ぜんぶ 忘れて ――



 梶くんは苦しそうな吐息とともに、そうつぶやいた。

 いっきに全身の血の気が引いて、こみ上げてきた熱いものを……
 こぼさないよう、私は必死で耐えた。


 梶くん、梶くん……ごめん。

 私、本当に、梶くんを…… 
 忘れてしまう―――。

 10年前、あんなに強く梶くんを想っていたのに。

 この間まで、忘れてしまっていたの……

 梶くんの全てを覚えておきたいのに。

 自信がないの……それが怖いの!

 梶くんがいなくなったら……
 また忘れてしまう!

 もう二度と、再会する望みもなかったら……
 
 いつしか、思い出すことさえしなくなってしまう!

 私が梶くんの、梶くんが生きていた証しを、忘れてしまったら……

 悲しいでしょう?


 ……そう、思うのに。


 “ 忘れられない悲しみ ” 


 梶くんは、して欲しくないんだね……

 イイ事ばかり覚えてるわけじゃないから、つらい事も一緒についてくる。

 長い間、梶くんは―――

 そうゆう悲しさの痛み、味わってきたんだもんね……。

 自分が同じ想いを、与えたくないんだよね?

 残されて生きなくてはいけない……
 私のために、私の事を考えてくれてるんだよね?


「……うん。梶くん、わかってるよ」

 私がしぼり出した答えに、

「… 凜、ありがと」

 梶くんは優しい声でささやいた。
 そして……そっと小指を、私の小指に、からませる。


―― 約束な ――


『ぜんぶ 忘れて ―― 約束な ――』


 梶くんが、私のもとから、
 いなくなろうとしている。

 私の記憶からも、消えたいと、願っている。


 命は、なぜ、こんなにも儚いのだろう―――。


 私は涙をこらえ、梶くんの手をぎゅっと握りしめた。



「梶くん、ベットに戻る?」

 ソファにうなだれて座っている彼に、声をかけた。

 目の前にひざまずいて、梶くんの顔を覗きこむ。

 梶くんがゆっくり目を開けて、私を見た。

 こうやって見つめ合って……梶くんが何を思っているのか、何を望んでいるのか、読みとってみる。

 梶くんの声は……しばらく、聞いていない。

 声だけじゃない。

 梶くんが自分の意志で、出来る事が……ほとんどない。

 今は梶くんと見つめ合うひとときが、私にとって何より大事になっていた。

 少しだけ動く顔の表情で、意思を図る。

 うん。
 梶くんはうなずいた、と思う。

「春見さん呼んでこよっか」

 私の問いかけに、梶くんが、かすかに微笑みかけた……

 そのとき―――

「はっ!!」

 一瞬で梶くんの意識が落ちた!

 ダラーンと倒れこんできたのを、両腕で抱えとめた。

「梶くん! 梶くん!?」

 完全に脱力してる。
 何の反応もない。

 しっかりぎゅっと支えてないと倒れちゃう!

 どうしよう!?

 梶くんが……
      梶くんが!!


「はっ、春見さん!  春見さん!!」

 私は梶くんを上半身で抱えながら、春見さんを呼ぶ。

 お願いっ。

 早く!
 早く、梶くんを……


「はぁ、
    はぁっ、
        っ春見さぁあん!!!」


 狂気の混じった叫び声だったと思う。
 ちからいっぱい大声をあげた。


 助けて!
 お願いっ、梶くんを助けて!!

 ぎゅうぅっー……。


「あ!春見さ……」
「ベットに」

 気付いたときには、春見さんが梶くんを支えてくれてた。

 ふたりで梶くんをベットまで運ぶ。

 他の看護師さんも入ってきて、私は邪魔にならないよう、隅にゆらゆらと離れた。

 何もできずに……。

 ただ祈るしか、見守るしかできない。

 黙って、息を荒らげに吸っては吐き、息を止めてた場面もあったかもしれない。

 慌ただしかった光景が、ゆっくりと動き始めた頃。

 意識がもうろうとしてきて……
 私は立っているのがやっとだった。

 そうして、春見さんの声が近くで……

「大丈夫。気を失っただけ。
 呼吸も心拍も安定してるから―――」

 途中まで聞こえていたのに……

 あ……ダメ。
 これだけはしたらいけないって……

 私の張りつめていた糸が……
 プツン、と切れた――。


 ―――お願い、梶くんを助けて……


☆☆☆


「梶くん!」

 パチッ。
 自分の声で目が覚めた。

 どこ? ……ここ?
 はっ!
 梶くんは!?

 起き上がろうとして、横から押さえつけられた。

「ストップ!」
「……お母さん!?」
「点滴うってもらったから、動いちゃダメ!
 じっとして、もぉ少し横になってなさい!
 まったく、いつも言ってるでしょ!?
 ごはんはしっかり食べなさいってぇ!!」

 あー、お母さんだ。
 お母さんを引っぱり出してしまった……。

 梶くんは眠ってるから安心して、って。
 母の弾丸は、それで締めくくられた。

「はぁー……良かった……」

 じんわり涙が出そうだ。

「凜。あんたが付き添いしてる、ホスピスの同級生って……梶くんなの?
 中学の時、ご両親亡くなった梶くん?」
「……うん」
「……だから、優一さんと別れた?」
「知ってたの?」
「なんとなくね……」
「……ごめん。話しずらかった」

 「馬鹿ねぇ……」ボソッとつぶやく母の声がした。

 恥ずかしくて、お母さんの顔……まともに見れない。

 きっと残念がると思った。
 婚約までして別れるなんて。

 色々期待させるだけさせて……親不孝の大馬鹿でしかない。

 「はぁっ」母が短いため息をひとつ。
 お説教の合図だ。

「私ね……中学の頃、あんた頑張って忘れようとしてたから、話せなかったんだけど……
 梶さんと学校の役員してて、よく話をしてたの。お葬式も行ったわ」

 ……え?
 怒ってるんじゃ、ないの?

「……今でも覚えてる。
 “ 息子が生きがいなの ” って梶さんの言葉。すごいと思った。堂々と他人に言えることじゃないもの。なかなか、いくら親でもね。
 ……梶くんは、とっても愛されてたのよ。
 ご両親に大事にされてたの」
「……うん。うん」

 顔を手で隠して、うなずくしかできない。

「お母さん、最後までお見送りしたけど、梶くん立派だったわ。おばあちゃん支えてさ……あんな、いい子が……なんで息子さんまで……」

 お母さんの声はかすれて、私の涙も、流れるのを止められなかった。

「ご両親のぶんまで、最期まで、大切にしてあげなさいよ……」

 母が鼻をすすりあげて言った。

「……いいの? 私、婚約までして、恥かかせること……」
「恥なんてかいてナンボよ! 言っとくけど! 凜のこと、恥だなんて思ったこと一度もないわ! お父さんのことだって、どれだけ頼りになったか……。凜の選んだ道を、私は応援するから。いつだって味方よ」

 ……ボロボロで、ぐちゃぐちゃだ。

「ありがと……ありがとう」

 何回言えば、お返しになるんだろう……
 母が私の腕をさすった。

「梶くんが、凜の “ かけがえのない人 ” なのね」

 ……かけがえのない? 

 そうか!
 だから、誰とも比べられない、たったひとりの特別なんだ。

「……昔も今も、梶くんは大事なひと」
「わかった。梶くんのところに、戻るのよね?」

 私は大きくうなずいた。

 梶くんはもう、ロスタイム……
 時間は限られている。

 早く、早く会いに行きたい!

 お母さんは、後のことは任せてと、ぎゅっと腕をつかんで私のもとを離れた。

 勇気をもらって、元気をもらって、私は涙をふいて起き上がる。

 さぁ、また走らなくちゃ……

 今のこの想いを届けに。
 梶くんにちゃんと届けるんだ!


 部屋に戻り、一直線に梶くんを目に入れる。

 梶くんは静かにベットに横たわっていた。

 まだ少し緊張している足で、ゆっくり近づいて、顔を覗きこむ。


 すぅー。 

 ……良かった、本当に良かったっ。
 梶くんの呼吸を確認した。

 そっと、手をとって……じんわり―――。

 ぬくもりを貰い受ける。

 梶くんの体温を感じたら、ガチガチだった私の体がようやくほぐれた気がした。

 床にひざまずいて、しっかり梶くんの手を、両手で包み込む。

 目を閉じて、祈りを捧げた―――。

 私の想い、この気持ち、梶くんにうまく届けられるように……

 どうか、届きますように!


「梶くん、どうしても……伝えておきたいことがあります」

 いっぺんに溢れそうな想いをこらえて、ひとつ、ひとつ、丁寧に告げたい。


「……梶くんは、誰かの為に精一杯走ること。人の為に自分のちからを発揮できること。私に教えてくれました」

 ベットで眠る梶くんを見つめる私の視界に、ぼやけた記憶のスクリーンが重なる。

 次々に映し出されるのは、10年前の梶くんだ。

「情熱も、思いやりも。家族の大切さ、深い悲しみに、別れの痛み……」

 今、ちゃんと、伝えておかなきゃ。

 もう聞こえないまま、届かないまま、梶くんは……

 この世界を去ってしまうかもしれないっ。

「生きることの難しさ。あたり前の日常が贅沢なこと。ありふれた生活が輝いていること。命の尊さ。
 ……全部、教えてくれたのは、梶くんです」

 梶くんの背中を追いかけて、走って、私はたくさん知ることができたの。


「梶くんは、私に…… “ 一生懸命 ” を教えてくれる、かけがえのないひとです!」


 ―――かけがえのない大切なひとです。

 大切なんです…… 

 梶くんの生きる時間が!

 ぎゅうっ、両手に力をこめた。

「いつだって、梶くんの全てが、私にちからを与えてくれるから―――だから、私は信じる。
 梶くんのちからを、信じています」

 これは、私の誓いの言葉だ。

 あきらめない!

 最期まで、希望を持ち続けたい!


「まだ、共に、生きたいです!」

 一緒に、生きていたいんです―――。

 どうか。
    どうかっ…………!


「はっ!!  梶くんっ!?」

 ふいに手を引かれた感覚が!

 口元をかすかに、動かしている。
 梶くんが何かを……

 身を乗り出して、梶くんの声に耳を傾けた。


・・・・・・


 ぶわっ。
 涙が、溢れ出た。

 聞こえたよ、ちゃんと聞こえたっ。
 梶くんのか細い声を!


―― 俺も おんなじ ――


「っ梶くん……」

 “ 生きたい ” 

 梶くんの想い、届いてるよ……
 私にも、ちゃんと、伝わってるよ……

 弱々しい梶くんの指が、私の手を握り返そうとしている。

 私、今も、梶くんからちからをもらってる。

 気持ちが通じ合うって、こんなにも温かい ……。

「ありがとう、梶くん……ありがとう」

 1日でも長く、この世界で生きていよう―――。



 どこもかしこもクリスマスで色めいて、なんどきもクリスマスソングが流れてる。

 キラキラ、やたらと眩しすぎるし、鈴の音も、うるさくて耳を塞ぎたくなる。

 クリスマスを迎えられたら……嬉しい、けど。

 梶くんの期限が切れるようで……怖い。

 ダメだ、怖い……怖すぎる……。

 早く、ここから逃げ出したいっ。

 気持ちと一緒に早足になって……そのうち、いつの間にか走り出している。


 1秒でも長く、梶くんのそばにいたい!

 ひたすらに病院を目指す。

 愚かな姿だ。余裕なんて全然ない。

 梶くんに触れていないと、生きたここちがしない……。


 息を整えながら、梶くんの部屋に入れば、変わらずベットに横たわる姿がある。

「梶くん、今晩は」

 その寝顔にむかって、あいさつをする。


―― 凜! 外寒くなかった? ――


 けれど、返事はない。

「ごめん。手冷たいけど……」

 梶くんの手を握りしめて、体温を確認する。

 ……うん。あったかい。

 その次はベットに顔を伏せ、梶くんの胸に耳を近づける。


・・・・・・トク トク トク。


 あぁ、鼓動が聞こえる。

 梶くんの生きる音だ―――。

 やっと私も心が温まる。

 このパターンを続けて、たぶん……
 今日で6日目だと思う。

―― 俺も おんなじ ――

 確かにあのとき、梶くんのかすかな声を聞きとった。

 それ以来、もう―――
 今は声を聞いていない。

 時折感じた、手を動かす力も、もう……ぴくりともしない。

 握りしめた梶くんの手は体温が低いのか、寒い外から来たばかりの私が、冷たいと思ってしまう。

 梶くんの重たい腕を、私の肩に回した。

 少しでも私の体温を分けてあげたい……

 梶くんの腕の中に、私は自らおさまる。

 お互いのぬくもりを、少しでも伝え合えたら――。

 それしか、それだけしか……

 もう、できることが、ない。

「梶くん、外は寒いよ……もう手袋をしなくちゃ」

 私の声は届いているのかな……?
 もう一度、梶くんの声が聞きたいな……。

トク トク トク・・・・・・

 こうして、静かに、私達はこの世界で生きている―――。

 ―――あ、凜がいる……。

 あぁ、俺の腕の中にいるのか。
 あったかい。

 目を開けることはできそうになくて。
 気配を感じとった。

 体の中がぽわんて、ほんのりする。


―― 外、寒かったろ?
   今日も会いに来てくれて ――


 もう、声が出せないな。

 たくさん話したいことはあるんだけど……


 今、どんな顔してる?

 疲れてる?

 泣いて……ないよね?


 もう、まぶたも開けられないんだ。

 凜とアイコンタクトしたいけど……
 それは、夢の中で。

 呼んだら、すぐ会いに来てくれるだろう?

 また笑った顔を見せて。

 いつも眠くて……
 夢の中にいることが多いんだ。

 凜と寝転がった、芝生の上みたいに、温かい光の中で過ごしてる。

 とてもイイところでさ。

 そこに、寂しい夜なんてないんだ。
 明るく照らされてる。

 もう何も怖くない……

 凜がいつも、そばにいてくれるから。

 それだけで、俺は幸せなんだ。

 幸せ、なんだよ―――。


 こうして、俺がたどり着いた夢の世界は、温かい光の降りそそぐ、心地よい処だった。

 柔らかな陽射しに包まれた芝生の上で、いつも眠っているような。

 誰かの膝枕で、優しく髪を撫でて貰って。
 夢心地の中で生きた。

 現実を遠のいても……
 温もりだけは感じながら。

 最後の……
     ひとときを……
         
      ――最愛の人に包まれて……。



 ここは……?

「……スタジアム! え? 海外の……俺プレイしたかったトコじゃん!」

 ピッチの真ん中に、気付いたら突っ立ってた。

 ?? 
 なんで……


「あれ? 声も出る……ヤッベ、俺、まさか……転生した?」

 ガシガシッ。
 スパイクで芝の感触を確かめる。

 足の感覚もあるし、自由に走れる!

「スゲェ、夢みてー」

 ?? 
 ……あー、そっか。


 ここは、夢と魂の……世界の狭間だな。

 きっと、そうだ。 

 ……はっ!!


「……父さん、母さん」

 フィールド外に、ボールを持った父と母の姿があった。

 久しぶりに現れた気がする。

「……迎えに、来て、くれたの?」

 ふたりはじっと俺を見ている。


 ポツ、ポツ、ポツ……

 雨だ。
 ……雨が降ってきた。


 ―――もう、 逝く時か……。


 いや、ダメだ!

「父さん、母さん! あんときはちゃんと、さよなら言えなくて、ごめん!
 もしかして…… 俺の、俺の病気の、 身代わりになってくれたの――?」

 サッカー続けられるように。
 だから、今まで小児難病おさえられた?

 ただ、父さんと母さんは…… にっこり笑ってる。

 朗らかな笑顔で見つめてくれる。

「……あり・・・ありがとう! でも、ごめん! 一緒に行きたいけど、先に行ってて。俺、まだやりたいことあるから」

 ふたりはゆっくり、うなずいてくれた。

 父さんがサッカーボールをほおる。

 コロコロとパスされたボールが、俺に向かってきた。

 はっ!! 
 消えて……

「父さ……母さ……」

 優しい笑顔のまま、うっすら残像になって。

 ふたりの形をしていた、小さな光の粒子は…‥

 空へ、飛んで行った―――。


《 また、家族で暮らそうね 》


 空に想いを届けて、俺は自然と目元がゆるんだ。


 足元に残されたボールをじっくり見た。

 まだ俺の体に残ってる闘志が、ジワジワと湧き上がってくる。

「これが、ほんとのラストだ」

 ッポーン! 
 キック音。ボールは放たれた。

 さぁ追うぞ!

 芝を刻む足音。
  ボールのタップ音。
   爽快に流れるピッチの風。 

 苦しい時も、寂しかった時も、全部!
 楽しかった時も、幸せな時も、全部!

 一緒に駆け抜けた―――

 最期のシュートだ!!

 捉えたゴールに向け、大きく蹴り放つ。

 パシュッ! 
 ゴールネットが綺麗に波うった。

「……っしゃ!!」

 拳を固く、余韻まで握りしめた。

 渾身の想いで、芝の上に寝転ぶ。


 いつもの空だ…… 

 どこまでも広くて、澄みわたる青い空。

 いつしか雨は止んで、変わりに光の粒が降ってくる。

 あたたかな陽に包まれて、天から舞い降りてくるのは……

 俺の、女神だ―――。


「……会いたかったよ」

 手を伸ばせば、微笑んで……その大きな翼で、俺を抱えこんでくれる。

 あたたかくて、心地いい―――
 ずっと、こうしていたい―――

「このまま、眠らせて……」

 女神は俺の願いを、必ず聞き入れてくれる。

 そうして、しっかり俺を包んで、空へ連れてゆく…………

 ふわふわと優しく抱きしめて―――。


「ありがとう。いつも、ありがとう……
  ―― 凜 ありがとう ――  」



 ある冬の冷たい早朝。
 静かに、梶くんは……旅立った―――。


 その日は一晩中……

 浅い眠りをしていたような、ふわふわした感覚で朝を迎えた。

 まだ暗い、日の出もない早朝に、目を覚まして。

 ぼーっと、夢なのか……

 記憶のかけらなのか……

 わからないものを見ていた。

 その時、枕元のスマホが振動して、我に返る―――。

「!!」

跳ね起きて、画面をスワイプさせ、耳にした ―――春見さんの声の意味を……

 私は、きっと前から、予測していたから。

「すぐに行きます!」


 自室を飛び出して、無我夢中に走って、何度もむせ返した呼吸のまま。

 梶くんの元へ―――

 倒れこみそうに駆けこんだ。


「っ梶くん!?」 
「 真野さ……!」

 あ、れ……?

 いつもと、同じように……
 ベットで眠ってるじゃない?

 慌てて春見さんが駆け寄ってきて、ブランケットを肩からかける。

 そのまま両肩を支えて、ベットの横まで連れてくれた。

 荒々しい呼吸も、なぜか梶くんの顔を見たら、落ち着いて。

 ……梶くんの手を、私はそっと握った。

 私の手は真っ赤に冷たくて、梶くんの手は白いけれど……温かい。

 ほら! いつもと同じ!
 春見さん何か勘違いじゃ……?

「注意して見回りしてたんだけど……
 前ぶれもなく、誰もいないときに……」

 ……本当に?

 だって、だって。
 楽しい夢でも見てるかのような寝顔で―――

 手だって、まだ温かいものっ。

 春見さんの言葉が受け入れられずに。

 私は半信半疑で、梶くんの胸に、耳を押し当てた。


・・・・・・  


 聞こえ…………ない。

 梶くんの生きる音が、してない。


 そこに、梶くんの鼓動だけが……ない ―――。


 ……っずるいよ、梶くん!

 昨夜だって、私そばにいたのにっ。


 ひとりのときに逝くって、決めてたんでしょう?


 さよならを、ちゃんと……
 言わせて欲しかったよ……


 ―――梶くんが逝ってしまった。


 それを頭が理解して、自分だけが、まだ……この現実に取り残されてる。

 実感したら……
 私の時間が、いっとき止まった―――。


 「ごめんね……」と春見さんが時を動かす。

「梶さんは解剖を希望されてるので……今から向かいます。明日朝、ここを出発して、火葬場へ。そして東京の墓地に行く、手はずです。
 ……真野さん、同行されますか?」

 春見さんの声を、私は梶くんの顔を見たまま聞きとった。

「……はい。お願いします」

 梶くんの手をぎゅっと握った。

 このぬくもりを、ずっと記憶に刻みこんでおけるように。

 ぎゅうっと握りしめた。

「いってらっしゃい。また明日ね」

 そのやすらかな寝顔に語りかけて……
 手をそっと離した。


 春見さんは準備を始めて、ゆっくりと梶くんを動かした。

 ベットに眠ったまま部屋を出て、病棟の廊下を進んで行く。

 私はそれを、見えなくなるまで見送った。

 きっと、この部屋に梶くんは、もう帰ってこない。

 寂しさが辺りを漂っていたけど……

 梶くんは最期まで、最期の一瞬まで、誰かの役に立つことを望んでいる!

 その希望が、まだ……
 私にちからをくれるんだ―――。

 明日、梶くんをご家族の元へ送る。

 それが私の務めだ。

 最期まで、きちんと見届ける為に、今日をしっかり生きなければ!

 明日、務めを果たすことができない。


 ――家に戻って支度をして、会社へ行った。

 いつも通り、体は勝手に動くものだ。

 けれど事情を説明すると早くに帰らされた。

 先輩の姉さんは、半分キレ気味だったと思う。
 「自分を労れ!」怒られた。

 帰宅する足取りも、目に映る風景も、昨日と何も変わっていない。


 今日が梶くんの命日だというのに……

 日常は繰り返されている。

 無常に時間が過ぎていくことが虚しかった。

 悲しい事を、体の奥底から悲しんでいない、自分がもどかしかった。

 ただ私は、使命感に捕らわれているようだ。

 大事なものを失って、立ち止まりたい気持ちと……

 明日の役割を果たすべき、責任感との葛藤。

 ごちゃごちゃでパンパンだ……


 今になってようやく……
 梶くんの本当の悲しみの理由を、理解できた気がする。

 まだ子供だった梶くんが、突如2つも大切な命を失くしたことは、どれだけつらかったことだろう。

 涙を我慢しているひとのほうが、よっぽど苦しんでいることを知った。


 朝そのまま掛けてきてしまったブランケットにくるまって、自分のベットにもたれかかる。

 毎日こうして……
 梶くんのベットで、ふたりのひとときを過ごした。

 梶くんと私の匂いが染みついたケットも、いつもと同じなのに……

 梶くんだけが、そばにいない―――。


 翌朝。
 頑丈な袋に包まれた梶くんと、救急車の中で再会した。

 1日ぶりに見た梶くんの顔は、とても整っていて、髪もセットされていた。

「梶くん、カッコイイよ……」

 いつもと変わらず語りかけたつもりが、触れることは、ためらわれて……

 持ってきたブランケットをかけてあげた。

 出発します―――
 火葬場まで、春見さんは救急車の後を追う。

 最後に……ふたりの時間を設けてくれた。

 カタカタと小さな振動音が響く車内で、私達は沈黙し……

 ゆらゆらとした揺れに身を委ねていた。

 空虚な空間で私は息を殺し……
 梶くんのそばで、何度も同じ言葉を、繰り返し唱えていた。


 ―――ちゃんと家族の元へ、 連れて行ってあげるからね。


 静寂なまま目的地に着き、一旦離れた後、斎場の一室に戻ってきた梶くんは……

 角々しく、白い、棺で囲まれていた。
 ブランケットをかけ、ひっそりとおさまっている。

 その様は、とてつもなく、私に悲痛を起こさせた。


 本当に……
   これで、
      本物のお別れなんだ―――。


 自然と手が棺の中に伸びる。

 そっと髪に触れて…… 

 指先で肩を撫でて……

 ぎゅっと組まれた両手のミサンガに手を添えた。

 冷たくて、もう、ぬくもりなど…… 
 1℃の温度もないっ。

 氷のような固い梶くんに、長く触れてはいられなかった。

「外しますか?」 

 春見さんが聞く。

「……いいえ、このままで」

 私は梶くんが結び続けたミサンガを……
 長く脳裏に焼き付けてから、瞼を閉じた。

 最期まで、このまま、一緒に……。


 ユニホームがかけられて、ご家族の遺影が添えられて。

 棺を花でいっぱいに…… 
 いっぱいっ。

 なぜ……? 
 花が、こんなにたくさん―――


「っどうして、緑 の花ばかり……?」
「梶さんが自分で選んだんですよ。緑の花で埋め尽くして欲しい、と」

 緑色は、グリーンは……

 私の色だ!


《 真野グリーンが、いつでもお守りします 》


 私の約束を、梶くんっ。

 自ら果たしてくれようと……


 ……梶くんが、
 緑色の花と供に、燃え尽きようと望むなら―――

 私は、残りのひとつを、両手にそっと捧げた。


 梶くんが、緑の花に守られている……

 そして、棺が閉じられた―――。





 ゆっくりと、梶くんが運ばれていく。

 一歩、一歩。

 最期の瞬間まで―――

 この世界で、梶くんが存在していることを、踏みしめるように……

 私もそばを、共に歩む。


「っ!!」

 結構なちからで、後ろから春見さんに両肩をガシッとつかまれた。

「ここで見送りましょう」

 あぁ、係員さんがさっき……
 ここでお待ち下さい、と言った気がする。


 でも、だって……

 あの、あの炉の中に入ってしまったら!

 ……梶くんの体が、体がっ。

 私、一緒について行く気に……
 一瞬落ちいったのを、春見さんはつかまえてくれたんだ。

 ぶ厚い壁の炉の中に、棺がおさまる。


 ガシャン!!

 鉄の音が火葬場に響き渡った。

 係員が扉に向かって、深い一礼をすると、大きなブザーが鳴りわめいた。


 ビイイィィッ―――

 炉に火を熱する合図だ。

 それは、まるで―――

 “ 試合終了のホイッスル ”

 梶くんの人生の終わりを告げる、絶命の音だ。

 長いその悲鳴は、いつまでも耳に残り……


―― 終わったんだ ―― 


 私の体を貫いた。

 一歩も動けない。
 ここから離れられない。

 許させる一番近くに、居なきゃいけない気がして。

 何時間……
 ここに立ちすくんでいたのか、わからなかった―――。


「真野さん……梶さんの魂が、近くにいると思うので、暖かい場所へお連れしましょう?」

 春見さんの優しい声が、私に届いて。
 ようやく声を発することができた。

「そう……ですね」


 こじんまりした部屋に、白い骨つぼが置かれ――。

 私たちと同じく、彼の帰りを待っている。
 これから梶くんを守り続ける、小さな器だ。

 銀色の台車で現れた、梶くんの―――

 白い粉砕されたそれは……

 目にした瞬間、一層の喪失感が全身を包んだ。

 春見さんとつぼへ納めようにも、手が震えて…‥
 長い箸を持っているのもままならない。

「……大丈夫。大丈夫」

 ささやいてくれる春見さんに、「すみません」息をもらすような声しかでなかった。


 全てを見届けた後、梶くんは……

 両腕にすっぽり抱えられるくらいに、小さくなってしまった。

 その小さな箱を、私はひざの上にのせ、大事に大事に、羽で包むように抱き……

 春見さんの車で墓地へ向かったのだった。



 墓前に線香と花をたむけ、両手を合わせた。

 これで…… 
 もう、何もかも―――
 終わって、しまったんだ……。


「……春見さん、私、何の役にも立てず……足手まといで……すみません」

 頭を下げる。
 「そんなこと!」頑なに春見さんは否定した。

「真野さんがいないと、梶さんが寂しいでしょ?」
「でも……何も。私の覚悟なんて、甘かった。もっと他に、してあげれること……もっと、もっと……私の全てを捧げて、愛してあげていたら――」

 無気力にこぼすことができたのは、たった一粒の、絶望の涙だった。

「もう、今からは……梶くんを忘れていくことしか、できません……」


 この場から離れてしまったら、梶くんが生きていた証しを……
 どんどん失ってしまう―――。


 私が日常を生きるだけで、大事にとどめておきたい記憶が……
 上書きされていってしまう―――。


 またここで、私は立ちすくんで、また春見さんが、諭すように声をかけてくれる。

「そこのベンチに座りましょう。大丈夫。ここが見えるから」

 私を安心できる場所へ、誘導してくれた。


「僕の話なんですが……息子のお産が難しくなった時、僕がしてあげられた事って、何もなかったんです。ただ祈っただけ」

 春見さんは苦笑いを浮かべる。

 ただ祈るだけ…… 
 そうだ、そんな時も、あった……

「一番愛してるからって、命を救う事まではできない。助けてくれたのは……同じ気持ちで戦ってくれた、同士の医師と看護師です。
 愛情は大事だけど、同じ気持ちで……人と人が繋がり合える事こそ、生きる原点で。それに感謝する事が、幸せなんだと思います」

 同じ気持ち……
 あっ……


―― 俺も おんなじ ――


 梶くんの声が、私の中によみがえる。

 私……梶くんを、救えてた……?

「梶さんの最期、とても穏やかな顔だったでしょう?
 どうしても、この世に未練や憎しみがあると、表情に出るんです。苦しむ人だっている。でも梶さんは……心残りがひとつもなかった。そう僕は感じました。
 ……幸せそうに見えました」

 私の胸元から、じんわり……
 温かいものがこみ上げてくるのを感じた。


 「さてと……」春見さんは仕切り直しをするか、とばかりに私と向き合った。

「?」

 春見さんはにっこりして見せる。

「梶さんから真野さんへ、伝言です」
「伝言?」

 ―――。

『 凜がいてくれたから、生きることを
  あきらめないでいられた。
  幸せなひとときだった。
  だから、凜も絶っ対、幸せになって!』 

「!!」




 まるで、目の前に……
 元気な梶くんが―――

 茶目っ気ある笑顔の梶くんが、いるかのように―――。


 ……ちゃんと梶くんの言葉が、私の中に浸透していく。
  体中がほぐされていく。


 ね?
 梶さんらしいでしょう?

 春見さんの表情が、そう言ってるみたいだ。

 そして、私に名刺をそっと手渡した。

「え?」

 これ……優さんの……どうして!?

「一緒に手を合わせたいから、ここで、待っていて欲しいそうです」
「……っこれも、梶くんが?」

 春見さんはうなずいた。

 梶くんは死してなお……
 私に優しさをくれる。


 私に、生きるちからを、与えてくれる ―――。


「っほんと、最後までカッコつけ……じゃなくて、カッコイイですよね! あと、名前も! 
 息子の候補にしてたから、やっぱりカッコイイなぁ……」
「……はい。カッコイイです」

「しょうた、って」「はると くん」


「「 …………え?? 」」

「はると? しょうた、じゃないの?」

 腑に落ちない春見さんの表情に、私はふとある日のワンシーンを思い出す。


―――……梶くん、これ名前ショウタってなってるよ。

 うん。春見さんがさぁ、最初に「ショウタだよね?」って聞くからそうだよって。

 それ、まだやってるの?

 んー、ずっとしてきたぁ。たいがい読めないよ。翔大って漢字でハルトって名前。

 でも……。

 そのうち気付くでしょ?
 あー、でも春見さん案外、天然だから〜そん時は真野よろしく! ……―――


「あて字なんです。梶くんの名前」
「うっそ! えぇ〜、何してくれちゃってんの、あのひとぉ」

 ご乱心の春見さんを初めて見た。

 ふっ。 
 顔がほころんでいくのが、自分でわかった。

 今すぐ帰って手続きを見直すから、ここでちゃんと待っているように!

 と念に念を押されて、挨拶もそこそこに、春見さんは慌てて走って行った。


 ―――梶くん?

 私が役に立てることを、取っておいてくれたの?

 目を閉じて、心の中で……
 梶くんの笑顔を確かめた。

 子供の頃の梶くんも、大人になった梶くんも……
 笑ってる時が、一番キラキラしてたね。

 その輝きが、私に勇気をくれたんだよ。


 ―――大丈夫。

 もう胸がいっぱいだ。

 上を向いて、空を見つめた。

 今日の空も広くて清々しい……
 いつもの空だ。

 きっと、どこかに、梶くんの魂がいるはず……

 心をこめて伝えよう―――。


「ありがとう、梶くん。
 …………梶くん、さよなら―――」


 どうか、あなたがもう悲しまないで。

 痛くないように。

 寂しい想いをしないで。

 どうか、どうか。

 あなたの生きる世界が、穏やかで……平和であって……

 幸せに満ちあふれていますように。


 ―――私は、明日も。
  この世界で、精一杯、生きていきます。




 ―――中学を卒業して、ちょうど10年後の今日。

 桜咲く母校を訪れていた。

「わかった。私が明日立ち会っておくね」

 優さんから電話がきて、私は騒がしい輪から抜け出した。

「凜は何を埋めてたの?」
「んー、生徒手帳……」

 卒業式の後、皆でタイムカプセルを埋める事になって。10年後、開ける約束をした。
 今日が記念の日だ。

「このあと同窓会でしょ? 僕、迎えに行こうか? 心配だなぁ。羽目外す奴とか絶対いるから」
「いいから! 優さんは早く荷造りして!」
「ネチネチ……ネチネチ……ネチネチ……」
「はいはい、わかったわかった。大丈夫だから! じゃあね」

 ふぅ、と息をついて。

 気付くと……校庭までふらふら来てしまっていた。

 !!
 部室が目に入って、思わず……
 足はそこを目指し、歩き出していた。

 当時のまま、けど古びた外観になってしまっている。

 サッカー部の入口の前で、私は立ち止まった。

 この中は、思い出が詰まってる。

 懐かしすぎて……時間までも止まりそうだった。

 今、手元にある、この宝物は……

 私が中学を卒業するまで、ずっと胸に持ち続けたお守りだ。

 目を閉じて―――
 遠い記憶を探りに、気持ちを集めた。



「わっ!」
「に"ゃぁっ!?」

 ビックリして変な声出た。
 部室の前でコソコソしていた所、突然声をかけられた。

 今は静かにしないとなのに!
 振り返るとイタズラ顔の男子が後ろに居て……

「何か声しなかった?」

 はっ!
 いとこのお姉の声が部室からして、男子を引っ張り急いで木の陰に隠れる。

 猫じゃない? 
 中から聞こえてきた。ホッ……

「何してんの?」
「しっ!」

(あれ!部室!)
 ヒソヒソ、私は指さして視線を促す。

(あー、マネージャーと部長じゃん。
 何か……ラブい感じ?)

 コクコク。
 えっと、この男子はサッカー部の……

(梶……しょうた、くん? だよね?)

(梶は合ってるけど……
 何か書くもん持ってる?)

 制服をさぐって生徒手帳とペンを渡した。

(どうせカバン取り行きづらいから、暇つぶししよっ。)

 すごい、空気読んでる!

(俺は梶翔大って書いて……はるとって読む。)

(へぇ。あたしは真野凜です。)

(知ってる、はは。ここに俺のケー番とメアド書いておくから、後で真野も送って。)

(はい。)

 どこ小?って話から……
 丘の方だね、俺は反対方向で……って地図まで私の生徒手帳に書いて。

 梶くんて……コミュ力高すぎない?

(ぷっ!)

(え? ウケてる?)

(だって、犬のフン情報いらない!)

(アホ! 俺2回もヤられてんぞ!)

「あはは!」
「激レア情報だかんな!」

 いつの間にか、桜の木の下でふたりくっついて、夢中になって……

「「 !?!? 」」
「お前ら、付き合ってんの?」

 気付いたら部長がすぐ横にいて、私達を見下ろしている。

 梶くんと目を合わせて、同時に吹き出した。

「ぶはっ」 「ぷっ」

「違うしっ。こっちのセリフだっつの!」


 微笑ましい、春のひとときだった―――。





 ―――梶くんと初めて話した日の記憶だ。

 手帳をめくって、梶くんのその筆跡を眺めた。

 少し薄くなった字に、月日がだいぶ流れた事を実感する。


 私は、あの日……

〈 ぜんぶ 忘れて 〉

 梶くんと指切した約束を……守れていない。


「ごめんね……もう少し時間かかるかも……
 でも、私……ちゃんと幸せだから。知ってるよね?」

 手帳の次ページをめくって、自分の書き残しに驚いた。


〈 大丈夫。
     離れても、想いは届いてる! 〉


 ―――うん。届いてたよ。


 パタンと……思い出は閉じた。

「……これは、新居に持って行くべきかな?」

 りーん! 結婚するってホント!?
 来週! 誕生日入籍だって!

 キャーキャー声が聞こえてきた。
 賑やかなとこに戻る前に……

「もう、行くね」


 バイバイ―――

 私は大切な場所に手を振って、“ さよなら ” を。


 最後に笑顔を残して、もう振り返らない。

 私の心は、希望でいっぱいだ。


 いつの日の空も、私達を照らしてくれるから。

 変わりゆく春も、凍えそうな冬も。
 明日も未来も。

 温かい光は、決して消えたりしない―――。






『さよならをちゃんと言わせて。』END.

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