その日は一晩中……
浅い眠りをしていたような、ふわふわした感覚で朝を迎えた。
まだ暗い、日の出もない早朝に、目を覚まして。
ぼーっと、夢なのか……
記憶のかけらなのか……
わからないものを見ていた。
その時、枕元のスマホが振動して、我に返る―――。
「!!」
跳ね起きて、画面をスワイプさせ、耳にした ―――春見さんの声の意味を……
私は、きっと前から、予測していたから。
「すぐに行きます!」
自室を飛び出して、無我夢中に走って、何度もむせ返した呼吸のまま。
梶くんの元へ―――
倒れこみそうに駆けこんだ。
「っ梶くん!?」
「 真野さ……!」
あ、れ……?
いつもと、同じように……
ベットで眠ってるじゃない?
慌てて春見さんが駆け寄ってきて、ブランケットを肩からかける。
そのまま両肩を支えて、ベットの横まで連れてくれた。
荒々しい呼吸も、なぜか梶くんの顔を見たら、落ち着いて。
……梶くんの手を、私はそっと握った。
私の手は真っ赤に冷たくて、梶くんの手は白いけれど……温かい。
ほら! いつもと同じ!
春見さん何か勘違いじゃ……?
「注意して見回りしてたんだけど……
前ぶれもなく、誰もいないときに……」
……本当に?
だって、だって。
楽しい夢でも見てるかのような寝顔で―――
手だって、まだ温かいものっ。
春見さんの言葉が受け入れられずに。
私は半信半疑で、梶くんの胸に、耳を押し当てた。
・・・・・・
聞こえ…………ない。
梶くんの生きる音が、してない。
そこに、梶くんの鼓動だけが……ない ―――。
……っずるいよ、梶くん!
昨夜だって、私そばにいたのにっ。
ひとりのときに逝くって、決めてたんでしょう?
さよならを、ちゃんと……
言わせて欲しかったよ……
―――梶くんが逝ってしまった。
それを頭が理解して、自分だけが、まだ……この現実に取り残されてる。
実感したら……
私の時間が、いっとき止まった―――。
「ごめんね……」と春見さんが時を動かす。
「梶さんは解剖を希望されてるので……今から向かいます。明日朝、ここを出発して、火葬場へ。そして東京の墓地に行く、手はずです。
……真野さん、同行されますか?」
春見さんの声を、私は梶くんの顔を見たまま聞きとった。
「……はい。お願いします」
梶くんの手をぎゅっと握った。
このぬくもりを、ずっと記憶に刻みこんでおけるように。
ぎゅうっと握りしめた。
「いってらっしゃい。また明日ね」
そのやすらかな寝顔に語りかけて……
手をそっと離した。
春見さんは準備を始めて、ゆっくりと梶くんを動かした。
ベットに眠ったまま部屋を出て、病棟の廊下を進んで行く。
私はそれを、見えなくなるまで見送った。
きっと、この部屋に梶くんは、もう帰ってこない。
寂しさが辺りを漂っていたけど……
梶くんは最期まで、最期の一瞬まで、誰かの役に立つことを望んでいる!
その希望が、まだ……
私にちからをくれるんだ―――。
明日、梶くんをご家族の元へ送る。
それが私の務めだ。
最期まで、きちんと見届ける為に、今日をしっかり生きなければ!
明日、務めを果たすことができない。
――家に戻って支度をして、会社へ行った。
いつも通り、体は勝手に動くものだ。
けれど事情を説明すると早くに帰らされた。
先輩の姉さんは、半分キレ気味だったと思う。
「自分を労れ!」怒られた。
帰宅する足取りも、目に映る風景も、昨日と何も変わっていない。
今日が梶くんの命日だというのに……
日常は繰り返されている。
無常に時間が過ぎていくことが虚しかった。
悲しい事を、体の奥底から悲しんでいない、自分がもどかしかった。
ただ私は、使命感に捕らわれているようだ。
大事なものを失って、立ち止まりたい気持ちと……
明日の役割を果たすべき、責任感との葛藤。
ごちゃごちゃでパンパンだ……
今になってようやく……
梶くんの本当の悲しみの理由を、理解できた気がする。
まだ子供だった梶くんが、突如2つも大切な命を失くしたことは、どれだけつらかったことだろう。
涙を我慢しているひとのほうが、よっぽど苦しんでいることを知った。
朝そのまま掛けてきてしまったブランケットにくるまって、自分のベットにもたれかかる。
毎日こうして……
梶くんのベットで、ふたりのひとときを過ごした。
梶くんと私の匂いが染みついたケットも、いつもと同じなのに……
梶くんだけが、そばにいない―――。
翌朝。
頑丈な袋に包まれた梶くんと、救急車の中で再会した。
1日ぶりに見た梶くんの顔は、とても整っていて、髪もセットされていた。
「梶くん、カッコイイよ……」
いつもと変わらず語りかけたつもりが、触れることは、ためらわれて……
持ってきたブランケットをかけてあげた。
出発します―――
火葬場まで、春見さんは救急車の後を追う。
最後に……ふたりの時間を設けてくれた。
カタカタと小さな振動音が響く車内で、私達は沈黙し……
ゆらゆらとした揺れに身を委ねていた。
空虚な空間で私は息を殺し……
梶くんのそばで、何度も同じ言葉を、繰り返し唱えていた。
―――ちゃんと家族の元へ、 連れて行ってあげるからね。
静寂なまま目的地に着き、一旦離れた後、斎場の一室に戻ってきた梶くんは……
角々しく、白い、棺で囲まれていた。
ブランケットをかけ、ひっそりとおさまっている。
その様は、とてつもなく、私に悲痛を起こさせた。
本当に……
これで、
本物のお別れなんだ―――。
自然と手が棺の中に伸びる。
そっと髪に触れて……
指先で肩を撫でて……
ぎゅっと組まれた両手のミサンガに手を添えた。
冷たくて、もう、ぬくもりなど……
1℃の温度もないっ。
氷のような固い梶くんに、長く触れてはいられなかった。
「外しますか?」
春見さんが聞く。
「……いいえ、このままで」
私は梶くんが結び続けたミサンガを……
長く脳裏に焼き付けてから、瞼を閉じた。
最期まで、このまま、一緒に……。
ユニホームがかけられて、ご家族の遺影が添えられて。
棺を花でいっぱいに……
いっぱいっ。
なぜ……?
花が、こんなにたくさん―――
「っどうして、緑 の花ばかり……?」
「梶さんが自分で選んだんですよ。緑の花で埋め尽くして欲しい、と」
緑色は、グリーンは……
私の色だ!
《 真野グリーンが、いつでもお守りします 》
私の約束を、梶くんっ。
自ら果たしてくれようと……
……梶くんが、
緑色の花と供に、燃え尽きようと望むなら―――
私は、残りのひとつを、両手にそっと捧げた。
梶くんが、緑の花に守られている……
そして、棺が閉じられた―――。
ゆっくりと、梶くんが運ばれていく。
一歩、一歩。
最期の瞬間まで―――
この世界で、梶くんが存在していることを、踏みしめるように……
私もそばを、共に歩む。
「っ!!」
結構なちからで、後ろから春見さんに両肩をガシッとつかまれた。
「ここで見送りましょう」
あぁ、係員さんがさっき……
ここでお待ち下さい、と言った気がする。
でも、だって……
あの、あの炉の中に入ってしまったら!
……梶くんの体が、体がっ。
私、一緒について行く気に……
一瞬落ちいったのを、春見さんはつかまえてくれたんだ。
ぶ厚い壁の炉の中に、棺がおさまる。
ガシャン!!
鉄の音が火葬場に響き渡った。
係員が扉に向かって、深い一礼をすると、大きなブザーが鳴りわめいた。
ビイイィィッ―――
炉に火を熱する合図だ。
それは、まるで―――
“ 試合終了のホイッスル ”
梶くんの人生の終わりを告げる、絶命の音だ。
長いその悲鳴は、いつまでも耳に残り……
―― 終わったんだ ――
私の体を貫いた。
一歩も動けない。
ここから離れられない。
許させる一番近くに、居なきゃいけない気がして。
何時間……
ここに立ちすくんでいたのか、わからなかった―――。
「真野さん……梶さんの魂が、近くにいると思うので、暖かい場所へお連れしましょう?」
春見さんの優しい声が、私に届いて。
ようやく声を発することができた。
「そう……ですね」
こじんまりした部屋に、白い骨つぼが置かれ――。
私たちと同じく、彼の帰りを待っている。
これから梶くんを守り続ける、小さな器だ。
銀色の台車で現れた、梶くんの―――
白い粉砕されたそれは……
目にした瞬間、一層の喪失感が全身を包んだ。
春見さんとつぼへ納めようにも、手が震えて…‥
長い箸を持っているのもままならない。
「……大丈夫。大丈夫」
ささやいてくれる春見さんに、「すみません」息をもらすような声しかでなかった。
全てを見届けた後、梶くんは……
両腕にすっぽり抱えられるくらいに、小さくなってしまった。
その小さな箱を、私はひざの上にのせ、大事に大事に、羽で包むように抱き……
春見さんの車で墓地へ向かったのだった。
墓前に線香と花をたむけ、両手を合わせた。
これで……
もう、何もかも―――
終わって、しまったんだ……。
「……春見さん、私、何の役にも立てず……足手まといで……すみません」
頭を下げる。
「そんなこと!」頑なに春見さんは否定した。
「真野さんがいないと、梶さんが寂しいでしょ?」
「でも……何も。私の覚悟なんて、甘かった。もっと他に、してあげれること……もっと、もっと……私の全てを捧げて、愛してあげていたら――」
無気力にこぼすことができたのは、たった一粒の、絶望の涙だった。
「もう、今からは……梶くんを忘れていくことしか、できません……」
この場から離れてしまったら、梶くんが生きていた証しを……
どんどん失ってしまう―――。
私が日常を生きるだけで、大事にとどめておきたい記憶が……
上書きされていってしまう―――。
またここで、私は立ちすくんで、また春見さんが、諭すように声をかけてくれる。
「そこのベンチに座りましょう。大丈夫。ここが見えるから」
私を安心できる場所へ、誘導してくれた。
「僕の話なんですが……息子のお産が難しくなった時、僕がしてあげられた事って、何もなかったんです。ただ祈っただけ」
春見さんは苦笑いを浮かべる。
ただ祈るだけ……
そうだ、そんな時も、あった……
「一番愛してるからって、命を救う事まではできない。助けてくれたのは……同じ気持ちで戦ってくれた、同士の医師と看護師です。
愛情は大事だけど、同じ気持ちで……人と人が繋がり合える事こそ、生きる原点で。それに感謝する事が、幸せなんだと思います」
同じ気持ち……
あっ……
―― 俺も おんなじ ――
梶くんの声が、私の中によみがえる。
私……梶くんを、救えてた……?
「梶さんの最期、とても穏やかな顔だったでしょう?
どうしても、この世に未練や憎しみがあると、表情に出るんです。苦しむ人だっている。でも梶さんは……心残りがひとつもなかった。そう僕は感じました。
……幸せそうに見えました」
私の胸元から、じんわり……
温かいものがこみ上げてくるのを感じた。
「さてと……」春見さんは仕切り直しをするか、とばかりに私と向き合った。
「?」
春見さんはにっこりして見せる。
「梶さんから真野さんへ、伝言です」
「伝言?」
―――。
『 凜がいてくれたから、生きることを
あきらめないでいられた。
幸せなひとときだった。
だから、凜も絶っ対、幸せになって!』
「!!」
まるで、目の前に……
元気な梶くんが―――
茶目っ気ある笑顔の梶くんが、いるかのように―――。
……ちゃんと梶くんの言葉が、私の中に浸透していく。
体中がほぐされていく。
ね?
梶さんらしいでしょう?
春見さんの表情が、そう言ってるみたいだ。
そして、私に名刺をそっと手渡した。
「え?」
これ……優さんの……どうして!?
「一緒に手を合わせたいから、ここで、待っていて欲しいそうです」
「……っこれも、梶くんが?」
春見さんはうなずいた。
梶くんは死してなお……
私に優しさをくれる。
私に、生きるちからを、与えてくれる ―――。
「っほんと、最後までカッコつけ……じゃなくて、カッコイイですよね! あと、名前も!
息子の候補にしてたから、やっぱりカッコイイなぁ……」
「……はい。カッコイイです」
「しょうた、って」「はると くん」
「「 …………え?? 」」
「はると? しょうた、じゃないの?」
腑に落ちない春見さんの表情に、私はふとある日のワンシーンを思い出す。
―――……梶くん、これ名前ショウタってなってるよ。
うん。春見さんがさぁ、最初に「ショウタだよね?」って聞くからそうだよって。
それ、まだやってるの?
んー、ずっとしてきたぁ。たいがい読めないよ。翔大って漢字でハルトって名前。
でも……。
そのうち気付くでしょ?
あー、でも春見さん案外、天然だから〜そん時は真野よろしく! ……―――
「あて字なんです。梶くんの名前」
「うっそ! えぇ〜、何してくれちゃってんの、あのひとぉ」
ご乱心の春見さんを初めて見た。
ふっ。
顔がほころんでいくのが、自分でわかった。
今すぐ帰って手続きを見直すから、ここでちゃんと待っているように!
と念に念を押されて、挨拶もそこそこに、春見さんは慌てて走って行った。
―――梶くん?
私が役に立てることを、取っておいてくれたの?
目を閉じて、心の中で……
梶くんの笑顔を確かめた。
子供の頃の梶くんも、大人になった梶くんも……
笑ってる時が、一番キラキラしてたね。
その輝きが、私に勇気をくれたんだよ。
―――大丈夫。
もう胸がいっぱいだ。
上を向いて、空を見つめた。
今日の空も広くて清々しい……
いつもの空だ。
きっと、どこかに、梶くんの魂がいるはず……
心をこめて伝えよう―――。
「ありがとう、梶くん。
…………梶くん、さよなら―――」
どうか、あなたがもう悲しまないで。
痛くないように。
寂しい想いをしないで。
どうか、どうか。
あなたの生きる世界が、穏やかで……平和であって……
幸せに満ちあふれていますように。
―――私は、明日も。
この世界で、精一杯、生きていきます。
