壁から抜け出ると、そこにはごくふつうの街並みが広がっていた。
てっきり異世界にでも入るのかと身構えていた茜は、思わず拍子抜けして「え?」と声をあげた。
「なんだよ、ただの街じゃねーか」
「何を期待していたのか知らないが、ここも日本にある街の一つに過ぎない。出入りできるのは魔力を持つ人間に限るが」
「どーいう仕組みだよ。わけわかんねー」
「あとで話す。ここからは自分で歩いてくれ」
青年は茜を地面に下ろすと、さっさと歩き始めた。茜は知らない街並みにそわそわしながら、後をついて行く。
「ここにもあいつらいんの?」
「あいつら?」
「あの目のやつら」
「魔眼ならどこにでもいる。魔力を持つ人間がいる分、数はソトガワより多いだろうな」
「げえ……」
彼が魔眼と呼んだ一つ眼の奴らを対策してか、道路には均一の感覚で街灯が設置されていた。
しかし、建物と建物の間の薄暗い空間には、青年の言った通りうじゃうじゃと奴らが潜んでいるのが見えた。
不気味な眼たちが寄り集まってこちらを伺っている様は、下手なホラー映画より怖い。
奴らから逃げるどころか、より危険な場所に足を踏み入れてしまったのでは。不安になりながら、茜より30センチくらい身長が高そうな青年の後頭部を眺めつつ歩いた。
と、彼の頭ごしに一際大きな建物が見えた。
数キロ遠くに見えるそれは、明らかに一般的な日本の建築物とは雰囲気が異なっている。西洋の城のような見た目で、尖塔がいくつもそびえ立ち、中央には時計台のようなものが見えた。
「なあ、あれ何? あの向こうのでかいやつ。城?」
「第六魔法学校だ」
「マホー学校!?」
ファンタジックでワクワクする名称に、茜の声とテンションが飛び上がる。フィクションでしかお目にかかったことのないものが、現実に存在しているらしい。
「すっげー! じゃあお前もそこの生徒なのか? 学ラン着てるし、魔法使えるし」
「そうだ。……まったく、あとで話すと言ってるのに君は質問ばかりだな。少しは待てないのか?」
「だって気になんだもん。疑問はその場で解消した方がすっきりするだろ。答えを持ってる人間が近くにいんのに、悩むだけ無駄じゃん」
「堪え性がないのを正当化するな」
青年はため息をつくと、小さなアパートの前で立ち止まった。なんの変哲もない、ちょっと古びた集合住宅だ。
「ここがお前の家?」
「そうだ。近所迷惑だから静かにしろ」
言われて、茜は素直に口を閉じた。落ち着きがないとよく言われる茜だが、最低限の常識くらいは持ち合わせているつもりだ。
青年の部屋は二階の1番奥。205と書かれた扉の鍵を開けると、彼は無言で中へ入っていった。茜は若干緊張しながら、「お邪魔しまーす……」と小声で言って後に続いた。
部屋は、これまたよくあるワンルームで、部屋のレイアウトや内装も素朴な、有り体に言うとこれといった特徴のないものだった。
短い廊下を抜け、向かって左側にシングルベッド。右側に絨毯と四角いミニテーブルがあった。家具のデザインも非常にシンプルだ。
唯一、壁際にある本棚に装丁のしっかりした何やら難しい本が詰まっているところから、彼の人柄が見えるような気がした。
「気心の知れない他人の家を、あまりそうジロジロ見るものではないと思うが」
「え? あ、悪い。物珍しくてついな。てか、親は? もしかして一人暮らししてんの?」
「そんなところだ」
これ以上教える気は無いという意思が見える、短い返答。茜もそれ以上は詮索しなかった。かく言う自分は一人暮らしどころか家なき子なのである。誰にだって家庭事情に問題の一つや二つあるだろう。
「それより、君は……」
グー……。
青年が話し始めた矢先、大きな腹の虫が鳴いた。
途端、彼が脱力した顔で眉を寄せる。音の出どころである茜はお腹を押さえて「しかたねーだろ!」と彼の表情に抗議した。
「夕飯食いっぱぐれたんだよ! これでも相当我慢してたんだ!」
「わかった、わかった。俺も生理現象を止めろとまでは言わない。やけにでかい虫を飼っているなと思っただけだ」
「思ってんじゃねーか!」
恥ずかしくなって、茜は赤い顔で縮こまった。それを見て青年はキッチンスペース横の戸棚を漁ると、「ホラ」と何かを投げて寄越してきた。
反射的に受け取る。見ると、カップラーメンだった。
「悪いが、俺は夕飯を済ませている。この時間から何かを作る気にはならないからな、それで勘弁してくれ」
「……いいのか?あたし、金払えねーんだけど」
「カップ麺くらいでわざわざ請求する方が面倒くさいだろ」
青年は電気ケトルに水を入れて、「湯を沸かすから少し待ってくれ」と言った。
茜はその姿を見て、胸の奥がきゅんと痛むのを感じた。他人から、こんなにも自然な優しさをもらったのはいつぶりだろう。
「……なあ」
「なんだ」
「名前、教えて」
「……聞いてどうする」
「いつか絶対恩返しに来るから。名前知らないと、お前のこと見つけられねーだろ」
カップラーメンを両手で握りしめてジッと青年を見つめる茜に、彼は少し意外そうな顔で片眉をあげる。
そして、不意に小さく笑った。
その顔があんまり優しくて、茜は一瞬息をするのも忘れて見惚れてしまった。
「碧大だ」
「……え?」
「俺の名前。相良碧大」
「……アオ! アオな、わかった、アオ!」
茜はパアッと顔を明るくして、何度も名前を呼んだ。心の中でも繰り返す。アオ。サガラ、アオ。
茜の、ヒーローの名前。
「ありがとな、アオ。あたし、アオのこと好きだ。今日のこと、一生忘れないからな!」
茜の満面の笑みと言葉に、碧大は一拍置いてカッと顔を赤くした。
「な……き、君はいきなり何を言って、」
「なんだよ。好きだと思ったから好きだって言ったんだ。おかしいかよ」
「……あ、ああ、そういう意味の好きか。なんだ、驚かせないでくれ。俺はてっきり……」
「言っとくけどラブの方の好きだぞ」
「ゲホッ」
碧大はゲホゲホと激しくむせた。年頃の少女の告白を受けておきながら、失礼な男である。
「……ほ、ほら。湯が沸いたぞ」
「お前の顔の方が瞬間湯沸かし器みたいだけどな」
「揶揄うな!」
狼狽えた碧大の顔を見て、茜はご機嫌な様子で「わりーわりー」と言いながらカップラーメンのフタを開けた。
なるほど、意中の男の照れた顔というのはこんなにも気分が良くなるものなのか。少女漫画で幾度も見た胸キュンシーンを思い出しながら、茜はカップラーメンの容器に熱湯を注いだ。
ミニテーブルの上にカップラーメンと借りた箸を置くと、絨毯の上に座りスマホのタイマーで3分セットして待つ。
碧大も正面に座ると、居心地悪そうに茜から目を逸らして息をついた。必死に調子を取り戻そうとしているようだ。
そんなに綺麗な顔をしているのだから、いくらでも女にモテそうなのに意外な反応である。
「……君は、もともとそういう性格なのか?」
「そういうって?」
「惚れっぽいというか……少し優しくされたらすぐ好きになるというか……正直、心配になるんだが」
「失礼だな、ちげーよ。そもそも、あたしに優しくしてくれる人の方が少ねーんだから」
そう言うと、碧大はハッとした顔をした。照れた表情を引っ込めて、もとの真面目な顔つきに戻る。
「君はこれまでずっと、ソトガワで暮らしてきたのか?」
「お前の言うソトガワってやつが、壁を通り抜ける前にいた街のことなら、まあ、そーだな。壁を通り抜けるなんてファンタジー、あたしは今日初めて見たからな」
「なら、君に優しくする人が少ない理由は明白だ。その魔力だよ」
ピピピピ……
3分経過したことを告げるスマホのアラームが鳴り響く。
茜は音を止めると、「その魔力って、何のことだかさっぱりわかんねーよ」と言いながらカップラーメンのフタを開けた。
「実際魔法を使うお前はともかく、あたしは魔法なんか使えねーんだから。……っと、いただきまーす」
「それは使う術を知らないだけだ。君の魔力量は俺の比ではない。上級魔法使いのそれと比較しても多いくらいだろう。そんな君が、どうして今までソトガワで暮らしていたのか不思議でならないんだ」
フーフー、ずるずるずる……。
茜はラーメンをすすりながら、碧大の言葉の意味を考えた。
「……つーことは、魔力を持つ奴はこの街で暮らすのが普通ってことか?」
「そうだ。ソトガワは魔力を持たない人間が暮らす場所だ。魔力を持たない人間は、魔力を持つ者を本能的に避ける傾向にある。本人にも理由がわからないままに、恐怖を抱いてしまうようだ」
「マジか……」
そう言われると、納得できる点は多くあった。これまで関わった人間は皆、茜を一目見て顔をしかめるのだ。
中学のクラスメイトはみんな茜によそよそしく、出来れば関わりたく無い、といった様子だった。
親代わりの人間もそうだ。電話口では『大変だったね』とか『自分の家だと思って寛いでね』とか優しいことを言っていたくせに、実際に会うと態度が急変する。
やがて、『あなたが家にいるとおかしくなりそう』とか『頼むから出て行ってくれ』とか言われて追い出されるのである。
「だから我々は自分たちだけの街を作って、そこで暮らすことにしたんだ」
「なるほどな。そーしなきゃ、みんなあたしみてーに嫌われて生きていけなくなるもんな。納得だよ」
魔力を持つ人間にとって、このウチガワという街が生きるために必要であることは茜の頭でも十分理解できた。
それでも変わらず他人事のような顔でラーメンをすする茜に、碧大が呆れた顔で「ここからが問題なんだ」と言った。
「ウチガワの歴史はもう400年以上、魔力を持つ者が暮らしやすい環境は整っている。わざわざソトガワで暮らそうという物好きはそうそういない」
「だろーな。よっぽどハードモード好きのドMじゃねー限りな」
「そして魔力を持つ者は、魔力を持つ者からしか生まれない。だから君の親も、君も、本来はウチガワで暮らしていたはずなんだ」
「あー……なるほど。親、なあ……」
碧大が疑問を持った理由をようやく理解する。茜は6年前に亡くなった母親の顔を思い浮かべた。
「あの魔眼とかいう奴らは、魔力を持ってる奴にしか見えねーのか?」
「そうだ」
「なら、少なくともあたしの母親はただの人間だな。母さんは奴らが見えなかった」
「なら、父親か……」
「父さんは知らねー。あたしが4歳の頃にどっか行ったって話だ。正直全く覚えてねーよ」
碧大が難しい顔をして考え込む。
自分のために考えてくれるのは有り難いが、茜はすぐに答えの出ないことを考えるのは得意ではない。
どうやら自分の出自には謎があるようだが、当の親がいないのだ。考えても仕方がない。大事なのはこれからどうするかである。
茜はラーメンの最後の一口を食べ終わると、「ごちそーさんでした」と言って箸を置いた。
そしてセーラー服の胸ポケットに手を突っ込み、中のものを取り出す。
「なあ、アオに見てもらいてーもんがあるんだけど」
「なんだ」
「これ」
茜がテーブルの上に置いたのは、ふたつのヘアゴムだ。それぞれにビー玉のような赤い石がついているが、どちらも真っ二つに割れた状態である。
「これは……」
「母さんが生きてる頃から、ずっとこれで髪を結ぶように言われてた。だから母さんが死んでからもずっとつけてたんだけど……2年くらい前に片方が割れて、1年前、もう片方も割れた。そしたら、今まで見えるだけだった魔眼が、あたしを襲ってくるようになった」
「……!」
碧大は「触ってもいいか」と一言断ってから、ヘアゴムを手に取った。割れた玉を見て、気づく。
「これは……結界石だ」
「結界石?」
「魔眼を寄せ付けないようにする結界魔法が込められている石のことだ。流通しているのは主にウチガワだけのはずだが……なぜ、君の母親はこれを?」
「知らねー。物心ついたときからこれをつけろとしか言われてねーからな。どこで調達したかなんて聞いたこともねーよ」
毎朝、母親は必ず茜の髪を結んで、小学校へ送り出してくれた。だから母親が亡くなってからもつけ続けていたし、ヘアゴムが使えなくなった今も、習慣として毎朝髪をふたつに結んでいる。
碧大は茜の髪型と手元のヘアゴムを交互に見ると、母娘それぞれの思いに心を馳せるように、静かに目を伏せた。
「……少なくとも君の母親は、君が魔力を持っていることは知っていたようだな。君を守るために、これを身につけさせていたということか」
「……なあ。これ、直んねーかな」
茜は碧大の手の中にあるヘアゴムを見つめて言った。
「割れたところをテープで止めてみたりもしたけど、結界は戻んなかった。あたしじゃ直せねーんだ。ここなら、結界石に詳しい奴もいるんだろ? どうにか直してもらえねーかな。あたしがこの先も安全に生きるには、どうやらこれが必要みてーだし」
今日は運良く碧大が助けてくれたから良かったが、またあんな魔眼に襲われたら、今度こそ死ぬかもしれない。
なら、これを直すしか、この先も茜が無事に生きられる方法はないのだ。
母親がなぜソトガワで暮らしていたのか、魔力のことを茜に話していなかったのか、気になることは山ほどあった。もちろん、そのせいで茜が今人生ハードモードを余儀なくされていることへの恨み節も。
だが、今は何もわからない以上、これを持たせてくれたのがせめて母親の愛情だったと考え、それに頼るべきだろう。
「………わかった」
碧大は茜の顔をまっすぐに見つめ、返事をした。
「俺にはそういった知り合いはいないが、学校の理事長なら伝手があるはずだ。明日、魔法学校へ行ってみよう。いずれにしろ、君のことはウチガワの管理者に報告しなくてはならないからな。君がこれからどう生きるにしろ、ウチガワとの繋がりは持っておいた方がいい」
「何から何までわりーな。恩にきる」
「気にするな。これも魔法使いの仕事のうちだ」
「魔法使い?」
碧大は立ち上がると、「まだ見習いだがな」と言って押し入れの戸を開けた。
「見習いって、魔法使えるやつはみんな魔法使いなんじゃねーの?」
「ウチガワでの『魔法使い』とは、魔眼に対抗する攻撃手段を持つ者のことを言う。俺は、魔法学校でそれを学んでいるんだ」
「へ〜……。なんか、すげーな」
「……別に、すごくない」
最後の小さな呟きは、茜の耳に届くことなく空気に消えた。
碧大は押し入れからブランケットを取り出すと、茜に投げて渡す。
「いい加減、寝る時間だ。あとのことは明日話そう。俺はベッドで寝るから、君は適当にその辺で寝てくれ」
「……そこは、『俺は床で寝るから君はベッドで寝てくれ』じゃねーんだ?」
「……お望みなら、外で寝てもらってもいいが?」
「アハハ、ジョーダンジョーダン。あたしはあいつらに襲われずに寝れるならどこでもいーんだ。泊めてくれてありがとな、ほんと」
ケタケタ笑う茜を見て、碧大が気の抜けたようにため息をつく。
「君はなんというか……調子がいいというか。能天気というか、とにかく神経が図太いな」
「なんかすっげー悪口じゃね?」
「呆れを通り越して羨ましいよ。……洗面所とトイレはあっちだ。歯ブラシは予備のこれを使うといい」
「サンキュー。あ、ついでにシャワーとTシャツも貸してくんね?」
「早速図太さを発揮するな」
その後、それぞれに寝支度を済ませ、碧大はベッドに、茜はそのすぐ横の絨毯の上に寝転んだ。
「電気消すぞ」
「えっ」
照明のリモコンを持った碧大に、茜が驚いて声を上げた。
「なんだ。明るくないと寝れないのか? 見た目通りの子供だな」
「あたしが幼児体型なのは今カンケーねーだろ! てか、ちげーよ。暗くなったらあいつら来るじゃん」
「……ああ。その心配はない。ウチガワの建物には、結界石が埋め込まれてるからな。家の中に魔眼が現れることはない」
「マジかよ。すげーな、ウチガワ」
「そうしないと、全ての住宅が毎晩電気をつけたままになるだろう。そんなの電気がいくらあっても足りないからな」
言われてみると確かにその通りだ。ここには、魔力を持つ者しかいないのだから、それを前提とした生活基盤を築いているのだ。
知れば知るほど、茜はソトガワではなくウチガワで生きるべきではないかと思えてくる。それができたら、どんなにいいことか。
一年ぶりに、暗い部屋で目を閉じた。
だが、久しぶりすぎて寝つけない。茜にとって、暗い場所は危険な場所、という認識だったから。
目を開けて、隣を見る。碧大の顔は見えないが、ベッドの上でふくらんだ掛け布団が、そこに人がいることを感じさせた。
「……なあ」
「なんだ。早く寝ろ」
「もしさ、結界石が直って……あたしが、あっちでまた生きられるようになってもさ」
「………」
「たまに、遊びに来てもいい?」
返事は、すぐにこなかった。
数秒の間のあと、碧大が身じろぎして、掛け布団がガサ、と音を立てた。
「……ウチガワは、魔力を持つ者なら誰でも入れる。俺の許可なんか無くても、好きな時に来ればいい」
ぶっきらぼうな声色。
だけど、そこに確かな優しさがあることを、茜はもう知っている。
「……うん。そーだな。そうする」
嬉しくなって、茜は再び目を閉じた。
暗闇はもう、怖くなかった。