これはA君が小学二年生の時の話だ。
 両親が共働きだったA君は、学校が終わると同居している父方の祖母に面倒を見てもらっていた。とはいえ花の先生だった祖母は毎日家にいるわけではなく、その日も公民館の生け花サークルで不在にしていた。
 帰宅したA君はいつもどおり自分の鍵を使って家に上がり、リビングで祖母の用意してくれたおやつを食べながら宿題をしていた。それも夕方には終わり、一日一時間までと決められていたゲームをこっそりしていると、チャイムが鳴った。

ピンポーン、ピンポーン。

 客が来ても一人の時は、出なくていい。
 母や祖母から常々そう言われているA君は始め、知らんふりをした。だが、あまりにしつこく鳴るので根負けして、この日は玄関に向かった。祖母がいないのをいいことにゲームをしていた後ろめたさもあった。A君は後にそう語っている。
 とはいえ来客の相手は、小学二年生のA君には少々荷が重かった。
 諦めて帰ってしまえばいいのに。
 そう思いながらA君は、廊下を殊更ゆっくりと進んだ。

ピンポーン ピンポン ピピピピピンポーン

 その間もチャイムはしつこく鳴っていた。よほど急用なのか、玄関の戸をガタガタ鳴らす音まで聞こえてきた。
「はーい」
 なんだか怒っているようだ。焦ったA君は返事をして、玄関に急いだ。

ピンポーン、ピンポーン、ガタガタ。

 音に合わせて擦り硝子の向こうで黒い影が揺れる。
「今開けます」
 A君は慌てて玄関戸に手を掛けた。その時、
「開けちゃダメ!」
 留守のはずの祖母の声が、背後から聞こえてきた。
だがA君は戸を開けてしまった。
戸の隙間から白い女が覗いていた。女はにやあぁと笑った。
「閉めてっ!」
 祖母が叫びながら戸を閉める。
 ぴしゃん。ガチャッ。
 カギまで閉めた祖母は、ぜえぜえと息を切らしながら言った。

「Aちゃん、あなた××に目をつけられたのね」

 祖母は見たことが無いような怖い顔をしていた。ひっつめた白髪を乱し、薄紫の着物をはだけさせて走ってきた祖母に、A君は子供ながらに異様な雰囲気を感じた。いつもニコニコしてまあるい祖母が、まるで別人のようだった。
 よっぽどまずいことをしてしまったのだと、A君は怖くなった。謝らなければと思っているうちに祖母は奥の座敷に引っ込んでしまい、夕食の時間になっても出てこなかった。
「お義母さん、体調でも悪いのかしら」
 事情を知らず首を捻る母に、A君は「さぁ」と蚊の鳴くような声で言った。
 その夜はなんとなく、玄関のチャイムが突然鳴りだすのではないかと気になって、中々寝つけなかった。
 
 翌日からA君の家で、奇妙なことが起こるようになった。
 飼い猫のミーコが時折じっと、襖や障子の向こうを見つめているのだ。
「ミーコ、ごはんだよ」
「ミーコ、遊ぼうか」
 普段ならそう声をかければ、金色の瞳を輝かせて飛んでくるのに、絶対に動こうとしない。耳を伏せ眼を鋭くして、じっと襖の向こうを窺っている。尻尾や体の毛を膨らませ、うっかり触ると「シャー」と跳びかかってくる。
 そのうち誰もいないはずの廊下や階段から、足音が聞こえてくるようになった。

ぱたぱたぱた。
ずっずっず。

 その時によって音はバラバラだが、とにかく何かが動いている気配がする。次第にそれは派手な音になり、続き間になっている和室を、何かがドタバタと走り回ったりするようになった。
 関係があるかは分からないが、廊下を歩いていたら頭上から大きなムカデが落ちてきたこともあった。

「この家、何かいるよ」

 A君は堪らず母に訴えた。
「屋根裏にイタチが住みついたのかしら。そのうちお父さんに見てもらうわね」
 母は暢気に笑うばかりで、真剣に取りあってくれなかった。怪異が起こるのは決まってA君が一人の時か祖母と二人きりの時で、仕事で留守にしがちの両親は、おかしなことが起こっているのに気づいてすらいないようだった。
 白い女が訪ねてきたことを話せば、両親ももう少し真剣に取りあってくれたかもしれない。でも、留守番中にゲームをしていたことや、約束を破って来客に応じたことがばれるのが怖くて話せなかった。祖母も同居の身で肩身が狭かったのか、あの夕暮れ時の出来事を、父や母に相談する様子はなかった。
「大丈夫、ばあばがなんとかするから」
 祖母は不安がるA君を励まし、盛り塩をしたり神社でお札をもらってきたり、色々な対策をしてくれた。 だが怪奇現象は一向に治まらない。そのうちそれは、両親のいる夜や土日の昼間にも起こるようになった。
 
 家鳴り、足音、ふっと過る白い影。
 一つ一つはなんてことのない現象だ。部屋や廊下や、洗面所の蛇口の上に、たびたび現れるムカデにはさすがに参ったが、鈍感な人なら気にも留めない出来事の数々。
 だが、ふと気を緩めた隙にずっずっと音が響いたり、ムカデが毒々しい色をした硬い体をくねらせたりしていると、余計に驚くのだ。
 A君も家族もそのうち、異変の兆しが無いかと、常に神経を尖らせるようになった。
 みんな日に日に言葉少なになって、家中どこも薄暗い雰囲気が漂っている。父と母の口論が増え、祖母もA君もあまり笑わなくなった。

 そんなある日、A君は学校の帰り道に白い女を見た。
 からりと晴れていた午前が嘘のように、どんよりと曇った午後だった。いつも一緒に帰っている友達が風邪で休みだったので、A君は一人で下校していた。
 灰色にけぶる景色の向こうに、ぼんやりと白い影が佇んでいた。
 影はちょうど、子供が落書きで描いたような人の形をしていた。なんとなく嫌な感じがしたが、雨が降ってくる前に帰りたくて、A君は先を急いだ。
 近づくにつれ、影の正体が見えてきた。白い服を着た髪の長い女の人だった。
 どうしてこんな所で立っているんだろう。
 長い髪が遮り女の顔は見えない。ただ、色の悪い唇がブツブツ動いているのが見えた。なんとなく薄気味が悪く、A君はぴたりと止まり、あたりを見回した。  だが通りにはA君しかいなかった。
 女の前を通り過ぎなければ、家には帰れない。
Aくんは俯いて早足で歩いた。通り過ぎざま、女と目が合った気がした。その瞬間、女が物凄い勢いでA君に向かってきた。
「○×$×◎☆」
 女は意味不明な叫びを上げながら、A君の腕をつかんだ。ゴムのような感触だった。どす黒く変色した爪が二の腕に食い込んだ。
「痛っ」
 思わず叫ぶと、女がにいぃと笑った。
 黒髪がバサッと広がり、青黒く罅割れた唇から、尖った汚い歯が覗く。
 瞳は真っ黒な穴みたいで、迂闊に覗き込めば吸い込まれてしまいそうだ。
 A君は悲鳴をあげて、女の手を振り払った。そのまま脇目も振らず走りだす。
「○○×××◎☆××」
 女が意味不明な叫びを上げ、追いかけてくる。
 ぽつぽつと雨が降り出した。雨は瞬く間に轟音を立て、アスファルトを叩きつけた。
 冷たい雨に打たれながら、A君は全力で家まで走った。

「あらあら、可哀想に。こんなに濡れちゃって」
 びしょぬれで帰ってきたA君に、祖母は目を丸くした。近頃、家に帰るとすぐに部屋に籠っていたので、祖母と話すのは久しぶりだった。ほっと気が弛み、A君は泣き出してしまった。
「どうしたの、Aちゃん。ほら泣かないで。ばぁばに話してごらん」
「あのね、おばあちゃん……」
 急いでバスタオルを持ってきてくれた祖母に、A君は先ほどの出来事を話した。話し終えたA君は、祖母が物凄く怖い顔をしていることに気づいた。
「おばあちゃん?」
「大丈夫よ」
 恐る恐る声をかけたA君に蒼ざめた顔で笑いかけると、祖母は大雨のなか飛び出していった。A君が止める間もなかった。
 急に心細くなって、A君は玄関の上がり框にぺたんと座り込んだ。
 どうして僕を置いて出掛けちゃうんだろう。
 なぜだかもう祖母には会えなくなるような気がして、A君はしゃくりをあげた。そのうち右腕が物凄く痛くなってきた。見ると、紫色の手形がくっきりと浮かんでいた。
 大きな手だ。お母さんよりも、いやお父さんよりもずっと大きいかもしれない。尖った爪が刺さったのかミミズ腫れになっていて、ズキンズキンと熱を持ったように痛んだ。
 A君が玄関でしくしく泣いていると、しばらくして祖母が帰ってきた。手には砂の入ったビニール袋を持っている。
 祖母は砂を廊下に撒くと、裸足で踏むようにA君に言った。
「踏むって砂を? 裸足で?」
「そうよ。ほら、早くね」
 まだびしょ濡れのままのA君を急かす。
 あまりの突拍子の無さに涙が引っ込んだ。意味は分からなかったが、A君は言われた通りに砂の上に乗った。足の裏でこわごわと、細かい粒子を踏みしめる。
「そうそう、匂いをつけるようににじり踏んでね」
「どうして?」
「匂いをつけた砂をね、こうやってAちゃんの一番お気に入りの靴下に入れて、封をするでしょう。これを余所に置いていくとね、匂いにつられて余所に行ってくれるから」
 A君には、祖母が何を言っているのか分からなかった。
 だがそれ以来、奇妙な現象はぱたりと止み、白い女を見ることもなくなった。

 それからも間もなく、祖母に認知症の症状が出始めた。
 祖母は華道の先生をやめて、家に籠りがちになった。
 おやつと言って石ころをカゴに入れて出したり、ときどき急に叫びだしたりするので、A君は大好きだった祖母に、だんだん寄りつかなくなった。そのうち夕食も一緒に食べなくなり、同じ家に暮らしているのに、顔を見ない日が増えた。
 クッキーを作ってくれたりオセロの相手をしてくれたりと、家にいる時は何かとA君の世話をしてくれた祖母の顔を数日見なくても、A君はもちろん母も気にしなくなった。
 二か月後の冬の寒い日、祖母が亡くなった。朝食後しばらくして和室の窓辺で倒れたようだが、家族が気づいたのは翌朝だった。
 心臓発作だった。まだ死ぬということがよく分かってなかったA君だが、負ぶってくれた時の丸く温かい背中や、着物に染みついた柔らかなお香の匂いを思い出し、急に切なくなった。
「おばあちゃん、どこに行っちゃうの」
 A君は棺にしがみついて泣いた。顔を見て謝りたかったが、大人たちに止められてできなかった。
A君の祖母は物凄い顔で死んでいたらしい。出棺前の顔みせが無かったくらいだから、よほど酷い死に顔だったのだろう。
「棺に、あの日砂を入れたお気に入りの靴下が入っていたことだけは、やけにはっきり覚えています」
と、A君は締めくくった。