旅館に戻ると藤間が、愛想よく迎えてくれた。すぐにでも夕食が始められるというので部屋に荷物だけ置き、広間に移動した。
 宿泊客はどうやら筆者一人らしい。そこそこ広い和室の真ん中にポツンと一膳、黒塗りの膳が用意されていた。
 山菜や山女魚など地元の食材をふんだんに使った料理は、素朴だが美味だった。

「どうですか、お口にあいますか」
 汁物を椀によそいながら、女将が笑いかけてくる。

「はい、とても。宿泊客は私一人なんですか?」
「ええ。紅葉のシーズンにはまだ早いし、平日の真ん中ですからね。昼間は近所の人がお風呂に来たり、登山客の方が来たりしてますけど宿泊はお客さまだけです」
「なるほど」
「うちのお風呂はリュウマチにも効くって、湯治にみえるお客さんもいるんです。お客さんも湯治ですか?」
「いえ、私は調べもので」
「調べもの、ですか?」

「はい。あの、このあたりに白い女にまつわる話はありますか」

 とたんに、女将の顔がすっと固まった。

「あの……」

「あぁ、いえ。すみません、少しぼうっとしてしまいまして。ここらは山の女神さまの土地ですから。そういう話もあるかもしれませんね。図書館なら、そういう古い話を集めた本があると思いますよ」

 誤魔化すように微笑んで、慌ただしく櫃や小鍋を片づけ始める。

「あんまり、面白い話じゃないと思いますけどね。そうそう、お風呂は何時に入っていただいても大丈夫ですから。ではごゆっくり」

 女将は軽く会釈すると、和室の襖をそっと閉めた。
パタパタと小走りの足音が遠ざかっていく。取り繕ってはいたが、明らかに不自然な反応だった。女将の年齢は化粧のせいではっきりしないが、運転手と同じが少し若いくらいだろう。なのに「白い女」というワードへの反応に、やや差がある。女将の方が過剰、拒否反応に近いものがあった。
 運転手は山から離れた場所に住んでいると言っていたので、住む地域の差かもしれない。山を切り拓いた土地に古くから住んでいる住民にとって「白い女」はイコール「山の女神」で、荒御霊、すなわち祟り神に近い存在なのかもしれない。

 しばらく見聞きした内容を部屋でまとめ、深夜すぎ、筆者は宿の露天風呂に向かった。筆者は極度の人見知りなので、風呂場で他人と鉢合わせるという状況が、どうしても我慢できないのだ。それに、白い女について考え始めたら止まらなくなってしまって、すっかり遅くなってしまった。

 細い月明かりが射しこむ暗い夜だった。このあたりは民家も少ないので、夜の露天風呂はかなり暗く、ぬばたまの闇に白い煙がもうもうと立ち込めていた。
 お湯の温度は熱くもなく、温くもない、ちょうどいい湯加減で長湯には最適だった。ときおり涼しい風が吹くのが、なんともいえず心地いい。

 ちゃぽん、ちゃんぽん。

 自分が立てる音がやけに大きく響く。静かだ。虫の音も、民宿の従業員たちの気配もない。しばらくぼうっと浸かっていると、贅沢な気持ちになった。会社員だったらこうはいくまいと思うと、不安定な今の立場も悪くない気がしてくる。

 これで星でも浮かんでいたらな。

 湯に首までつかり、竹垣に切り取られた空を見上げる。生憎の薄曇りで、黒雲の隙間からわずかに青白い月光が射すばかりだった。このあたりは暗いので、晴れていたらさぞ美しい星空が拝めただろうと思うと、少しばかり残念だ。

 それにしても静かだ。まるで世界に一人取り残されたような。

 なんだか急に寒気がしてきた。思わず「おおーい」と暗闇に向かって叫ぶ。

「おおーい」
 すぐさま低い声で返ってきた。

 木霊だろうか。竹垣に跳ね返って? ありえない。いやありえるのか。混乱した頭で考えていると、なにやら湿った音が聞こえてきた。

 ぺちぺち ぺちぺち

 竹垣のほうから聞こえる。湿り気のあるものが竹垣の表面にあたっている。そんな音だ。なんとなく嫌だなと思っていると、

 ぺたぺたぺた ぺたぺたぺた 

 急に音が激しくなった。

 ぺたぺたぺた ぺたぺたぺた

 音はどんどん上がってきている。一瞬、四足歩行の生き物が、竹垣に平たく張りついて登ってきている図が浮かんだ。
 しばらくすると、竹垣のてっぺんからにゅぅっと白い手が現れた。
 女の手だ。ゴムのような肌に青白い血管が走っている。竹垣の高さは三メートルほど。どんなに長身の人間が背伸びしても、脚立が無ければまず上から手を出すことはできない。
 心臓が弾みだす。怖い話は好きだ。だが霊感は無く幽霊や妖怪を見たことは一度も無い。正直、見えなくてよかったと思う。

 ばさっ。

 黒い髪が竹垣の上から垂れ下がる。黒髪は徐々に伸びていく。
 何者かが竹垣の向こうから、頭を出しているのだ。
ぬらぬらとした黒い髪の束に、生理的嫌悪感が込み上げる。このまま覗かれたらどうしよう。恐怖で体が震えだした。

 これはまずい。

 筆者はとっさに竹垣に背を向け、聴覚だけで様子を窺った。
 なんの音も聞こえない。竹垣の向こうのアレに動きはない。
 こういう時は気分転換が必要だ。音を立てないよう注意を払いつつ、筆者は湯で何度も顔を洗った。柔らかい湯がぬるぬると顔に纏わりつく。凝りや冷え、筋肉痛にも効き、肌にもいいと女将は言っていた。まさに浸かる薬といったところだ。
 そんなどうでもいい事を考えているうちに、狂ったように弾んでいた心臓が少しずつ落ち着いていった。
 恐る恐る顔を上げ、竹垣を振り返る。

 何もいない。どうやら気のせいだったらしい。

 ほっとして視線を戻して、危うく叫びそうになった。
 いつのまにかすぐ隣に誰かいた。長い黒髪の女だ。俯き加減に湯に浸かっている。肌の色は白いを通り越して青く見える。
 黒い髪が、濁った湯に蜷局を巻いている。黒髪に隠れて女の表情は見えない。だが、紫色に乾いた唇が、細かく動いているのは見えた。

 ぶつぶつぶつ ぶつぶつぶつ
 ぶつぶつぶつ ぶつぶつぶつ

 言葉を喋っているというよりは、そうとしか聞こえなかった。女の呟きに合せるように、肌が粟立っていく。髪の毛や毛穴が一本一本開いていくのを感じるようだった。

 あの人形のせいかもしれない。きっとなすりつけられたのだ。

 筆者は人形を持って帰ってきた事を後悔した。とにかくこのままここに居てはまずい。ゆっくりと女に背を向ける。刺激したら襲われるかもしれない。死、いや、最悪の場合、この夜よりも深い闇の向こうへ連れて行かれるかも……。
 どきん、どきんと心臓が弾む。想像しただけで恐ろしかった。
 とにかく女を刺激しないよう、ゆっくりと風呂から上がる。
 女はまだ俯いて湯に浸かっている。相変わらず何かを呟いているのが、こんなに離れていても聞こえてきた。

「ひいっ」

 限界だった。短く叫ぶと、筆者は脱衣所に走った。黒く濡れた石の床に足をとられ転びそうになりながらもなんとか姿勢を保ち、脱衣所に飛び込むと戸を閉めた。

 バンッ

 ホッとしたのも束の間、ガラス戸に白い掌が張りつく。

 バンッ、バンバン バンッ、バン

 女が髪を振り乱して戸を叩いていた。慌てて鍵に手を伸ばす。指先が震えて中々閉められない。やっとのことで鍵をかけた瞬間、女の姿は消えていた。
 筆者は裸同然の格好で、床にへたり込んだ。せっかく温泉に浸かったのに、全身すっかり冷えてしまっていた。

 部屋に戻っても生きた心地がしなかった。明かりを点けたまま、布団を頭から被り目をきつく閉じる。
 今にも誰かが襖を揺らすのではないか。窓の向こうに白い影が映るのではないか。
 恐怖から眠ることもできず、朝を迎えた。