どこから見ても白蛇にしか見えないけど、意思疎通ができるなら神聖な存在であるのは確かみたいだ。

「龍神様は実体化できるものですか? 今はお祖父様に降りていると聞きましたが」
「あんな老いぼれ、ずっと俺を降ろしていたらコロッと逝っちまうぞ。休ませるついでに馴染みの気配を探したら、お前がいたって訳だ」
「老いぼれ……」

 お祖父様は、一度尸童の役目を終えている。たしかに現役時代のように、龍神様をその身に降ろし続けるのは負担が大きいのかもしれない。今もお父様が生きていたら……お祖父様は悠々自適に暮らしているはずだった。この国も私たち双子も……運命を歩んでいるはずだったのだろうか。

「ははーん。なるほどな……双子か。お前の兄だか弟が神力を与えたんだな。しかし、なぜ男のふりをする必要がある?」

 文机にのぼってきた白蛇がたずねてきた。頭のなかに直接響く声は、鈴の音みたいに凛とひびく。話の内容も違和感がないし……本当に龍神様なのかもしれない、と私の心は信じる方へゆれはじめる。
 
「兄様は神力が多すぎるため、物心つく前から寝たきりで……」
「ふうん。どうせもうすぐ成人だろ? 龍降ろしの儀で俺を降ろせば問題ないな」

 龍降ろしの儀まで知っている。私の天秤は信じるに傾いて動かなくなった。

「……本当に龍神様なのですね」
「わざわざ声にだすとは、失礼な奴!」

 文机の上でとぐろを巻いた龍神様は、わははと豪快に笑う。

(龍神様って意外と気さくな方なんだ)

 白蛇姿でうごく様子も威厳があるというより可愛いらしい。かたく握ったままでいた私の両手が解けていく。

「龍神様……一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
「どうした?」
「龍降ろしの儀が終わったら、兄の意識はどこへいくのですか。消えて……しまうのですか」

(体が健康になったとしても、兄様の意識が消えてしまうのは、嫌だ)

 兄様に聞いてから、ずっと私の胸にはびこる不安の種だった。私の気持ちを知ってか知らずか、龍神様は「はっ」と鼻で笑った。

「消えるわけないだろう。だるま落としとは違うんだぞ。俺を降ろしたからといって、元いた人格が消えるわけじゃねぇ」

 教鞭で黒板をたたく先生のように、龍神様は尻尾でトントンと机を叩いた。

「俺は肉体を間借りして、家賃代わりに俺の加護を使わせてやるだけだ。体の主は自分の意思で動けるし話せる。……あんの老いぼれ、後継者になんも伝えてないのかよ」
「私が知らないだけで、兄様は聞いているかもしれません。私は後継者でないので……お祖父様とお話ししたことがありません」

 もしかして、兄様もなにか勘違いしているのかもしれない。

「龍降ろしの儀が済んでも兄様の意識は消えず、体調は良くなる……それなら安心です。教えてくれてありがとうございます」
「お前の兄貴、ね」

 まるで口元に手を置いて考えるように、龍神様は尻尾を顔の前で静止させた。だけどそのうち「ま、いいか」と伸びをした。

「それより、散歩に行くぞ」
「散歩?」
「ああ。老いぼれは引きこもってばかりだからな。兄貴も当てにできないなら、お前に頼むしかないだろう」 
「もう日が暮れます。食事に呼ばれますし……散歩はちょっと……お一人では無理ですか」
「これでも神力の届く範囲でしか動けねえんだ。今だとこの屋敷の外は難しい。なあ頼むぜ。ちょいと川で水浴びさせてくれたらいいから」
「お風呂ではいけませんか?」
「川の水がいいんだよ」

 けろりと龍神様は言った。もう冬に片足をいれている時期に水風呂は寒くないだろうか。ただ私もお風呂は好きだから、水浴びしたいという希望はなるべく叶えたいと思う。

(女の私に龍神様が見えて、会話まで可能なのは最初で最後かもしれない)
 
 少なくとも、龍降ろしの儀のあとは無理だろう。若く多大な神力を持つ兄様の体は居心地が良くて、私なんか見向きもされなくなるだろうから。
 そもそも兄様からもらわなければ、私の体から神力は抜けていく。神力がなければ龍神様を私の五感でとらえることはできない。男装する機会もなくなれば、夕闇から夜にかけての時間を出歩くなんて叶わなくなるだろう。そう思うと、この誘いがどんどん魅力的に感じてくる。

「分かりました。お供します」
「そうこなくっちゃな! なら行くぞ」

 シャツ姿の私は学ランをとバンカラマントを羽織る。龍神様がしゅるりと近づいてきたと思ったら、あっという間に私の両肩をまたぐように乗り、マントの襟より外側にゆるく巻きついた。とても細くて白い襟巻きをしたみたいだ。
 指でそっと触れた龍神様の肌は鱗のせいか案外かたくて、ひんやりとしていた。
 
 屋敷から一番近い川の欄干の近くに腰をおろし、「生き返るなあ!」とはしゃぐ龍神様を見守る。
 目の前には収穫を終えた田んぼが広がり、その先は真っ赤な夕空が夜にのまれていくのがありありと見えた。屋敷からは見たことがなかった景色だ。

「綺麗……」
「初めてか」
「はい。こんなに広い夕焼けは初めて見ました。吸いこまれそう」
「お前も引きこもりか」

 また笑いはじめた龍神様に言い返そうとして、反論が思い浮かばず押し黙る。たしかに、私は家と学校を往復する日々しか送っていない。

「……自分の意思で出かけたのは初めてかもしれません」
「ふうん。……なら聞く。お前の望みはなんだ」
「望み?」
「龍降ろしが終われば、お前は自由だろう。なにをする」
「……分かりません」

 自問自答なら何年もしている。けれどいくら考えても、答えは出ないのだ。

「だったら何でもいい。思いつくことを話してみろ。どんなに拙くてもいいから」
「……兄様が元気になれなら、私はそれで」
「それは兄の話だろう。自分の未来だけを考えろ」

 自分の未来だけ。その一言が、すとんと腑に落ちた。
 私の未来、希望――なりたい姿。

「…………あたたかい家庭をもちたいです」

 言い終えてから、そうなのか、と心のなかで問い直してしまう。そんなの今まで考えたこともなかったから。なのに、不思議としっくりくる。

 神力で男を装う私は、月のものが来ない。十五までは周期が乱れながらも、年に数回は来ていた。けれど成長に伴い受け取る神力を増やしたら、完全に止まってしまったのだ。
 最初はそんなものだと思い納得しようとした。けれど――
 
「十五を過ぎてから女学院をやめて結婚、出産する顔見知りがふえました。忙しなくも充実した日々を過ごしている様子が……羨ましくて。……そうでした。どうして忘れていたんだろう」

 まるで導かれたように本音がポロポロとこぼれ落ちていく。
 私の願い、私の未来。宙ぶらりんだった綾紀という私自身が、今初めて地に足をつけたような気がする。
 
「なんだ」

 水に沈ませていた全身を、龍神様は頭からゆっくり持ち上げた。まるで片頬を上げるようにしてクククと笑った龍神様は、こともなげに言った。

「なら、俺の嫁に来るといい」