柚月(ゆづき)は自室の窓を開け、意味もなく景色を眺める。20年近く見慣れた景色に今更新鮮味を感じないが、もう見ることもないと思うと目に焼き付けておこうという気にもなった。柚月は窓から身を乗り出して下を見下ろす。ここは2階だから当然ながら高い。落ちたら大怪我を負いながらも助かるかもしれないし、打ちどころが悪ければ死ぬかもしれない。柚月は後者を望んでいた。

母が死んでから柚月は自分なりに努力し続けた。父親が自分を気まずそうに見ることも、再婚相手の義母が余所余所しいことも、3歳違いの妹にのみ両親の関心が向けられることも仕方がないと諦めた。それでも彼だけは柚月を見てくれるのだと、自分と同じ感情を抱いていないことは分かっていたけれどそれで良かった。結婚して、家族になればいつかはと淡い期待を抱いていた。だというのに、彼は柚月を裏切った。柚月を1番絶望に突き落とす方法で。

もっと早く打ち明けて欲しかった。恨み言の1つや2つ、いや自分の語彙力の限りを尽くし罵詈雑言をぶつけただろうが柚月の当然の権利であり、彼らは甘んじて受けるべきだ。しかし、今さっき告げられた事実は柚月の中からありとあらゆる気力を奪うには十分だった。そして彼が告げた一言。

「柚月は1人でも生きていけるだろ?美月(みつき)には俺が居ないと…」

その瞬間心がポキリ、と折れる音がした。甘えるのが下手で人に頼るのが苦手な人間、それが柚月だ。しかし、好きでそうなった訳ではない。そうならざるを得なかっただけだが、言ったところで無駄だと黙りこくった。その後も彼らが何かを話していたが耳には入らなかった。方々への説明と報告を彼らに押し付け、柚月は部屋に閉じこもっている。

もう、疲れてしまった。この後柚月に向けられる憐憫や同情の眼差し、そして嘲笑の眼差しを想像するだけで身体が勝手に震えてくる。彼らには非難の目が向けられるだろうが、元々柚月よりもお似合いだと言われていた2人だ。意外と早く周囲に受け入れられるかもしれない。それも柚月には耐えられない。

すると襖をノックする音が聞こえる。既にあのことは邸中に知れ渡っているだろう。好き勝手使用人達が噂する中、唯一柚月に付いてくれている侍女が心配して様子を見に来たのだ。柚月は不意に、とても残酷なことを思い付く。彼女に証人になってもらうのだ。これから起こることは決して事故ではなく、柚月による意思なのだと。

「…柚月様、失礼致します…っ!何をなさっているのです!危ないからこちらにお戻りください!」

侍女の栞が叫び、窓に駆け寄ろうとする。柚月は無理矢理作った笑みを顔に張り付けると、何の躊躇いもなく窓から飛び降りた。栞の耳を劈くような悲鳴、あっという間に近づいてくる地面。

身体が地面に叩きつけられ、全身に凄まじい痛みを感じた。走馬灯が頭の中に流れていき、ふとある人の顔が浮かんだ。話したのは1度きり。それからは遠目で見かけただけ。それでも彼のことは柚月の記憶に深く残っていた。

死ぬ前に思い出すのが幼い日の記憶なんて自分の人生はなんと虚しいものだったのだろう。もしやり直せるなら、自分を捨てる婚約者も無関心な家族も捨てて好きなように生きていきたい。

柚月の意識は段々と闇へと消えていく。東雲柚月の22年の人生はこうして幕を閉じた、はずだった。


「…ん」

目を覚ますと視界には見慣れた自室の天井が広がる。柚月はパチパチ、と目を瞬かせると勢いよく起き上がった。

(…何?私、死んだんじゃ…)

悪夢でも見たとかと思ったが柚月には地面に叩きつけられた時の激しい痛みの記憶がしっかりと残っている。そして、その選択を取るに至った忌まわしい記憶も全て残っていた。夢を見たのだと、全て笑い飛ばすには難しい状況だった。

(けど、ありえない。死んだと思ったらベッドで寝ていたなんて)

柚月は枕元に置いたスマホを手に取り、「え…」と困惑の声を上げた。スマホが柚月が死ぬまで使ってた最新機種ではなく、かなり古い型…柚月が中学生の時買ったものだったからだ。今はこの型は中古でも売ってないはずだ。柚月はスマホのロックを外し、中を調べると…信じられない事実が浮き彫りになった。

(2014年、10年前⁉︎何どういうこと)

柚月は驚愕の表情のまま、部屋を見渡した。記憶にある柚月の部屋とはやはり違う気がした。勉強机も高校卒業時に処分したものだし、本棚も昔使ってた小さいもので高校生の時に買い替えて処分したのだ。

(…私、10年前に戻ってる?)

柚月は頬を力一杯引っ張ると痛みが走る。夢ではないようだ。しかし、ありえない。非現実すぎる。だって柚月は死んだのだから。

すると襖をノックする音が聞こえ、失礼します、と人が入ってくる。柚月は目を見張った。入って来たのは栞だが、明らかに若い姿だったのだ。彼女は30近かったはずだが、今の彼女は20代前半に見えた。

「柚月様、おはようございます。朝食の準備が出来ておりますが部屋にお運びしても?」

「…おはよう栞。ねぇ、今って西暦何年か教えてくれない?」

「え…?2014年ですよ…柚月様大丈夫ですか?」

突然おかしなことを尋ねた柚月に怪訝な顔をしつつも栞は答えてくれる。冗談を言ってるようには見えなかった。柚月は顔が引き攣りそうになるのを何とか堪えて「ううん、ちょっと変な夢見ちゃっただけ」と適当に誤魔化すと、一応納得したらしい栞は朝食の準備をするために出て行った。

柚月はベッドから抜け出すと部屋にある鏡の前に立つ。そこに写っていたのは22の柚月よりもずっと幼い少女だ。もう疑いようがない。柚月は死んで、10年前に戻ったのだ。

何故こんな奇跡のようなことが起こったのか。若い命を散らした柚月を憐れんだ神がもう一度人生をやり直させてくれているのだろうか。柚月はあり得ない、と笑い飛ばせなかった。

この世界には人間の他にあやかしが存在し、そして共存している。いつからなのか詳しい記録は残ってないが、平安時代辺りからあやかしが人間社会に溶け込むようになり、人間もまた人地を超えた力を持つあやかしを頼りにすると共に、畏怖の念を抱いてきたらしい。

あやかしは人間よりも頭脳、身体能力、見た目の全てにおいて上回り妖術と呼ばれる不思議な術を使う。とはいえ、あやかしが人間社会で生きるにあたり様々な制限を課せられており状況によっては、人間を妖術で害すると処罰の対象となるという。

最も、あやかしが人間に力で負けるなどあり得ないため妖術を使うことはほぼ無い。姿は人間と変わらないあやかしもいれば、耳や尻尾が生えている人、中には身体全体を変えられる者もいる。そういった者が存在する世界、時を戻す術があったとしても不思議では無いのだが…。

(誰が時を戻したの…雄一…な訳ないわよね。そもそも彼は血が薄いしそんな強力な術は使えないはず)

柚月の婚約者だった高峰雄一(たかみねゆういち)は鬼の血を引く一族、その分家の跡取りで柚月はいずれ嫁ぐはずだった。高校に入る前に親同士の話し合いで決まった関係だったが、柚月は2つ年上の彼を兄の様に慕い、その感情が恋愛感情に変わるまで時間はかからなかった。雄一は柚月をそういう風に見てないことは分かっていたが、まさか妹の美月と思い合い、妊娠までさせてしまうなんて思いもよらなかった。

美月はいつも柚月が欲しいものを何でもない顔をして、さらっと奪っていくのだ。向こうには奪った自覚はない。周囲が勝手に彼女に惹きつけられるのだ。柚月と美月、同じ父親の血を引いているのに何故こうも違うのか。

(…2014年なら私は初等部で来年には中等部、雄一との婚約が決まるのは15の時だったはず)

同じ人生をやり直しているのなら、雄一との婚約を回避しなければならない。かつて本当に好きだった相手だが、流石に実の妹と浮気をしたと知ると100年の恋も覚める。今にして思えば、雄一と美月に裏切られたからといって死を選ぶべきではなかった。当てつけで死んだとしても何にもならないのに。

さて、と柚月は頬をパンと叩いて気合を入れる。目標を頭の中で整理し始めた。

(雄一との婚約は回避、家族とは前以上に距離を取って、もしもの時に頼れる味方を作る、東雲の家にも愛着なんてないから跡を継ぐのもお断りよ)

前の人生、美月が雄一の子を孕ったと両親が知った場合何とか醜聞を最低限にしようと奔走しただろう。その皺寄せは必ず柚月に来たはずだ。柚月には無関心な癖に都合の良い時だけ「姉」であることを強要した両親。恐らく思い会う2人を祝福して身を引いた柚月は美月の代わりに美月の婚約者と結婚して東雲を継ぐ、といったそういった筋書きになっていたと思う。想像しただけでゾッとする。何が恐ろしいかと言えば、前の柚月なら両親に頼られたら頷いていたかもしれないことだ。

柚月は愛情に飢えていた。両親からの愛が得られないと分かると雄一に依存したが素直に好意を表に出すことが出来ず、雄一から見たら愛想の無い可愛げのない婚約者だったのだろう。だから雄一は柚月を切り捨てた。両親に対しても未練はない。政略結婚だった母と当主だった祖父が立て続けに亡くなると、喪が開けてすぐに義母と再婚した父。元々愛し合っていたのに、家のために引き裂かれた悲劇の2人。両親にとって大事なのは美月だけで、柚月には無関心だった。かつては縋っていたが、今は何も思わない。

せっかく与えられたやり直しの人生は好きな様に生きていくのだ。


柚月は早速行動に移した。今日は母方の祖父母に会いに行くつもりだ。祖父母は母の葬式で会ったきりで、前の人生では交流がほぼなかった。今にして思えば実家に居づらいのなら真っ先に頼るべき人達だったのに没交渉だった。

(使用人が、祖父母は嫁いだ母にもその娘にも関心が全く無いと私に散々吹き込んだのよね。両親に構ってもらえないからと向こうに行ったって迷惑なだけだから辞めろと)

母は物心つく前に亡くなったので、祖父母のことや生家でどう過ごしていたか知らない。前の人生で柚月は両親や使用人にすら軽んじられていたせいか、誰からも必要とされないと思い込んでいた。だから使用人の話を聞いて、祖父母も味方にはなってくれないと頼ることを諦めた。

当然柚月は祖父母に真偽を確かめたことはない。顔を合わせても事務的な会話をして終わっていた。今にして思えば、使用人の話を鵜呑みして殻に閉じこもるなんて愚かであったと自嘲する。

(お祖父様たちが私に無関心かどうかなんて、聞かなければ分からないのに)

今回はそれを確かめるべく母の生家である影山(かげやま)家を訪ねる。栞の協力を得て影山家に大事な話があるので会いたい、と手紙を書いて送り一昨日その返事が来た。そして今日会う約束を取り付けたのだ。電車を乗り継ぎ、バスに乗って少し歩くと影山邸が見えてくる。東雲邸と同じくらい立派な日本家屋だ。門の前に立っている警備員に話しかけて名前を告げると「お待ちしておりました」と門を開けて柚月を中に入れてくれた。

玄関には家令らしき年配の男性が待っていた。


「ようこそお越しくださいました柚月様。お一人で来られたのですか?」

「はい、電車とバスを乗り継いできました」

「何とご立派な…ですが、お車で来られなかったのですか」

小学生で1人で電車やバスに乗るのは普通のことだが、東雲家は名家だ。車で送り届けるくらいするだろう、と考えて当然。

「…車を出すとお父様に怪しまれるので…」

モジモジと俯きながら答え、やんわりと父との関係が良好でないこと、今回の訪問が極秘であることを匂わせる。美月がどこかに行くのに車を出させても何も言わないのに、柚月の場合根掘り葉掘り聞かれるのだ。それが面倒でどうしても電車やバス、徒歩で無理な場合を除いて車を使わなくなった。無関心を貫いている癖に柚月が好き勝手に行動するのは嫌なのだろう。全くもって理不尽だ。家令は柚月が普段どの様な環境で過ごしているのか察したようで、痛ましげな表情を一瞬見せると「大旦那様達がお待ちです、こちらへ」と邸の奥へと案内してくれた。

連れてこられたのはこの邸で1番大きな客間。家令が襖を開けると真ん中に置かれたソファーに年配の男性と女性…幼い頃に会ったっきりの祖父母が座っていた。祖母が柚月の姿を認めると立ち上がる。

「柚月…!大きくなって。会うのは沙織のお葬式以来よね…あの子の子供の頃にそっくりだわ」

沙織とは母の名だ。母の話を聞く機会がほぼなかったので嬉しい。母方の親戚との交流がなかったのだから当然だ。隣でどっしりと構えている強面の祖父も口を開く。

「…1人でよく来たな。覚えてないもしれんが儂は柚月の祖父だ。取り敢えず座りなさい」

柚月は促されて向かいのソファーに座る。

「手紙をもらった時は驚いたわ。柚月は私たちに会いたくないと言ってると聞いていたから」

「え?私そんなこと言ってません」

祖母がポロリと溢した言葉に柚月は反応した。すると祖母と祖父は困惑を露わにしている。

「…儂らが何度も柚月に会わせろと言っても、本人が会いたくないと拒否していると取り合わなかった」

「誕生日プレゼントも送っていたのだけど、私たちからのプレゼントなんて要らないと壊して癇癪を起こしたと聞かされて…」

「私そんなこと言ってませんしプレゼントも渡されてません!」

「…謀られたか」

柚月の反論に祖父は不愉快そうに告げる。

「東雲の言い分を鵜呑みにし孫を放置していた儂らに責める資格はないな。もっと早く人をやって調べておくべきだった。家族の問題だと言われればこちらは強く出れんかったが、騙していたとなれば話は別だ」

「…お祖父様達は私のことをどうでも良いと思ってたのではないのですか」

「そんなわけなかろう!沙織が亡くなり、あの男は喪が開けてすぐ再婚した。後妻はあの男の幼馴染で柚月を蔑ろにするのではと心配していたのだ。定期的に釘を刺して、柚月の顔も見たかったが本人が拒否していると聞かされれば無理強いも出来んかった。こんな体たらくでは柚月が失望しても仕方ない」

「失望なんてしてません。ただ迷惑をかけたくないから何も言わなかったんです」

「迷惑?私達が柚月を迷惑がっていると誰かに言われたの?どこの誰?こんな子供に嘘を吹き込むなんて、抗議するわ」

おっとりしているように見える祖母の目が据わっていた。怒らせると怖い人らしい。

「…うちの使用人です」

「…なんてこと。使用人が雇い主の娘に嘘を吹き込むなんて。東雲さんは把握してないの?」

「した上で放置してるのかもしれんな。柚月をどう扱ってるか儂等に知られたくないのだろう。頼れる人間はいないと思い込ませたかったのか…」

柚月は前の人生での違和感や色んなことが腑に落ちた。祖父母が関わらなかったのは、柚月が拒否しているからと聞かされていたから。柚月も祖父母に関心を持たれていない、迷惑をかけるわけにはいかないと距離を取った。互いに拒否されていると思い込んでいたのだ。前の人生、妹と雄一の裏切りを明かして泣きつけば2人は助けてくれたかもしれない。今更後悔しても遅いが。

「だから儂は東雲の若造との縁談に反対だったんじゃ」

「仕方ありません。亡き先代はやり手でこちらに断る術はありませんでしたわ」

「先代は死に息子はボンクラ、こんなことならさっさと引き取るべきであったわ」

祖父は深く後悔してるようで溜息を吐いた。

「ご飯はちゃんと食べているの?まさか暴力を受けているなんて…」

勝手に柚月の境遇を想像した祖母の顔が青ざめる。柚月はそういったことはされていない、ただひたすらに無関心で美月が柚月に構いたがったり、物を欲しがった時に断ったりすると姉なら優しくしろ、と叱責されるくらい。顔を合わせると父も義母も気まずそうな顔をするから、柚月の方から食事は1人で摂っていると告げると祖父の表情が険しくなった。

「あの小僧…よし柚月、儂らの子になれ。あんな家にはもう帰らんで良い」

「あなた、流石に性急過ぎますわ」

「性急も何もあるか、こっちはずっと騙されとったんじゃ。そもそもあの後妻と再婚するのも早すぎると反対したのを押し切って再婚した挙句、嘘をついて儂らを遠ざけ孫を孤立させた。向こうに文句は言わせん」

柚月が切り出す前に祖父が話を進めてくれそうな勢いだ。祖父が自分を案じてくれているのは分かるが、父が簡単に自分を手放すとも思えない。父の思惑を全て理解したわけではないが、恐らく孤立させた柚月を自分達の思うように利用したかったのだ。美月が何かした場合尻拭いをさせるつもりだったのだろう。美月は天真爛漫と言えば聞こえは良いが、甘やかされて育ったせいか我儘で自分の思い通りにならないと機嫌が悪くなることや自分の欲望を抑えられないことがある。その結果が前の人生のあれでありそんな美月を宥めるのが「姉」である柚月の役目であった。祖父も父の思惑が想像ついたのか表情が恐ろしいものになっている。祖母が怒りのあまり父に連絡しかねない祖父を宥めにかかった。

「だから落ち着いてください…そうそう柚月、手紙に書いてあった大事な話ってなんなのかしら?やはり家に居づらいと相談したかったの?」

優しい顔で問う祖母に柚月は神妙な顔で頷く。

「それもあるのですが…お祖父様お祖母様、実は…」

柚月は22年生きた記憶があることと、婚約者と妹の裏切りに絶望し自ら命を断ち何故か10年前に戻っていたことを明かした。悪夢を見たとかそれらしい理由で誤魔化すことも考えたが、包み隠さず告げることにしたのだ。祖父母に限らず上流階級の人間は大なり小なりあやかしとの付き合いがある。荒唐無稽な話だと笑い飛ばされ虚言癖がある、と眉を顰められる可能性は低いと考えたし柚月の目的のためには隠すのは得策ではないと判断した。

2人は最初は怪訝な顔をしていたが、婚約者が妹を妊娠させた件で顔面蒼白になり祖母は口に手を当てて震えていた。12歳の子供の口から出てくる言葉ではないし、柚月の口調も表情も真に迫っていたからだろう。未だ動揺している祖母に代わり険しい顔の祖父が口を開いた。

「俄には信じられんが、お前がこんな与太話を聞かせるとも思えん」

「…そうね。とても嘘を吐いているようには見えないわ。でも…」

信じたいと思ってるようだが疑いは消えないようで祖母の歯切れが悪い。

「信じていただけなくて当然です。私ですらあれは悪い夢だったのではと思う時があるのですから。でも…あの時の絶望と…死んだ時の苦しさや悲しみが時折蘇るんです。あれは夢じゃない、本当に自分の身に起こったことなのだと訴えてくるんです」

柚月は自らの肩を抱いた。あれから数週間経つが未だにあの時の絶望は柚月の心を苛む。夜中飛び起きることも多々あった。あれは柚月の中でトラウマとして根を張っているのだ。2人はそんな柚月の様子を見て絶句している。これは嘘や冗談でないのだ、と確信しているように見えた。

「…だから私はかつての惨めな人生を歩まないために、今度は幸せな人生を歩むために行動に移すことにしました。それで2人に手紙を出したのです。確実に高峰雄一との婚約を避けるため、いずれ東雲の家から離れるために力を貸していただきたいと」

「高峰…鬼の一族の分家の長男か。確か柚月の2つ上だったな。あの男が用意したにしては家柄は申し分ない」

「でも婚約者の妹と浮気するなんて最低の下衆よ。人間性が分かっているのなら避ける以外の選択肢はありません」

「あの男が話を持ってくるのは3年後。その前に高嶺が口出しできん相手と婚約させれば穏便に済むだろうが…」

祖母は雄一の所業に怒り、祖父は落ち着いた口調で婚約回避の策を口にする。柚月は恐る恐る尋ねた。