「お父さん、本当なの?」
 力なく頷くお父さんの背中はひどく小さく見えた。
「本当に、本当に倒産するの……?」
 私のほうを向き直ると口を開く。
「美波、すまない。力が足りなくて」
「それよりもこれからどうするの、みなさんの生活、どうなるの」
「……」
「お父さん……!」


 
 父が三代目として経営してきた酒蔵が、経営難で倒産に追い込まれてしまった。私は今まで経営のことなんて何も知らずに、お嬢様然、として生きてきた。大学だって文学部を選んだ。今思えばお金にならない学部ではなく、商学部とか経済学部とか。家業の危機に何か力になれることを学んでおけばよかった。
 まだなんとか首の皮が繋がっている状態だと言うが、銀行からの資金調達はおそらく厳しい。前年までの決算報告書、先月の試算表、見方はよくわからないけれどそれらを見て融資はないと判断されたのだから、もうだめなんだろう。
「ここでよく遊んだんだけどな……」
 会社の酒蔵の奥、大きな銀杏の木の下で。
 銀杏の葉っぱでおままごとをしたり拾ったぎんなんをぶつけ合って戦いごっこをしたり。 
 ああそうだ。本当に、「コウおにいちゃん」とはよく遊んで……。
 そんな昔のことを思い出して、鼻の奥がつんとした。
 「コウおにいちゃん」によく言われたっけ。『おまえ、泣き虫だな』って。そんなことを言ったって、ぎんなんをぶつけてきたり、おままごとでは私にいじわるなことをしたり。そういうの、コウおにいちゃんのほうだったのに。コウおにいちゃん、ずっと会ってないけど元気かな……。
 あ、また涙が出てくる。
 さっきから銀杏の葉っぱがひらひらひらひらと舞い落ちてくる。まるでダンスを踊っているみたいに。私の涙を隠すみたいに。
 その時。
『黄色い絨毯みたいやー』
 突然耳元で声が聞こえてきた。
「だれ?」
 はっと振り返ってみたけれど、誰もいない。銀杏の葉っぱが舞っているだけ。
『肩、肩におるよー』
「肩?」
 誰かの声はしている。自分の右肩、左肩をぐるっぐるっと見てみると──。
『おっ! やあっと目が合ったな』
 にこにこして私を見ている、着物をきた小さなイキモノがいて。
 それはそれは小さな、手のひらに乗ってしまうくらいの小ささの──。



 糀ちゃん。こうじちゃん。
 そのイキモノはそう名乗った。
 私、この子に見覚えがあるようなないような。
『美波、おまえほんとに我のこと忘れとんのか? さびしいのお』
 このサイズの子を忘れるわけがない。だから会ってない、と思うんだけど。でも。この子の着ている着物の柄には見覚えがある。
『おまえのこと、よう見とってやったのに。ボンちゃんと一緒に」
「ボンちゃん?」
 はっはーん、というように糀ちゃんは笑った。
 ほわほわとおかっぱの髪が揺れる。
 肩に乗ってるのって、見えづらい。
 私はそっと左手を出して、「ここに乗ってよ」と促した。
 糀ちゃんはにかっと歯を見せると(それはそれは小さな歯で、でも真っ白だった)手のひらに飛び乗ってきた。
 軽いけれど、羽毛ほどではなくて、ペットボトルほどの重さもない。
「ボンって誰?」
『おまえなあ。コウおにいちゃん言うてただろが、さっき』
「『コウおにいちゃん』?」
 小さな子みたいに糀ちゃんの言葉を繰り返す。
『そ。ほら、あのいじめっこ』



 大体、糀ちゃんって何よ。
 生来の素直さ?で全く疑問を感じずに会話をしていたけれど、あれって何よ。妖精? 糀ちゃんの着物の柄には見覚えがあるけど。一緒に遊んだとか見守ってもらったとか。そんな記憶は一切ない。たぶん。
 あのあと私を探しに事務員の真奈美さんがきてくれたので、すぐに家に戻ったのだけど。糀ちゃんは急にふっと消えてしまった。
 妖精? やっぱり妖精っていうのだろうか。
 家に帰ったら帰ったで暗くって。思わず部屋に閉じこもってしまった。
 暗くって。お父さんもお母さんもどんよりとしていて。
 ──それはそうか。だって倒産だもん。
 どうなるんだろう。
 私はこことは別の会社に就職して働いている。
 就職するときにお父さんに言われたのだ。
『おまえが気が向いて、お婿さん連れてくるって言ったら継いでもらうけれど。おまえは自由にしていたらいいさ』って。
 でも。
 このままだったら従業員の人たちはどうなるの? さっきの真奈美さんは? 昔から私のことをかわいがってくれて本当に優しいお姉さんで。
 杜氏さんたちは?
 どんなふうになっちゃうんだろう。
 考えて考えて私はベッドの上でバタバタと足を泳がせた。



「え、えむあんどえー?」
 次の日の夜、お父さんが突然そんな単語を出してきた。
「そうなんだよ、お父さんもよくわからないんだけれど銀行さんが言ってきて」
 知らない単語。私はネットでその単語を検索した。
 M&A。
 企業買収。
 事業承継。
 本来ならこんなに傾いている、というか風前の灯火の酒蔵にこんな話はこない。まったく将来性のない会社だから。それでもこんなふうにM&Aを申し出てくれる会社があるのだという。銀行からの提案だった。まあ体のいい買収ではあるのだけれど。
 うちの会社は白鷺という。
 看板商品の『白鷺の峰』は、結構な長寿商品で、いろんなお店で見かけていた。過去形なのが苦しい。こんなことになっていたなんて気づかなかった自分もいやだ。娘なのに。
「それで、条件なんだが」
「え?」
「もちろん正式な仲介をしてもらってM&Aをするのだけど。その前提条件があっておまえに」
「え? 私に?」
 お父さんの額に汗がにじんでいる。言いにくそうに口ごもる。
「私が、なに?」
「相手の会社に入社してほしいと」



 うちの『白鷺の峰』を守ってくれるかわりに、私が相手の会社の経理に入る……とかってどういう条件なんだ? 今勤めている会社では総務だし、経理について学んだこともない。
「……簿記とかきちんとやったこともないんだけど」
 ふうううううっと大きなため息がでてしまう。
 どうして私が。
 お父さんに渡された相手会社の業務案内に書かれた会社名は──。
「しらふじ、かあ」
 うちの会社が昔ながらの販路や製法を地道に守ってきたのとは対照的に新しく海外に販路を見いだしたり、新製品をとにかく開発したりと成長を続けている酒蔵『しらふじ』。同業、ということ。
 そのしらふじが、我が白鷺を吸収したいと申し出てくれたのだという。お父さんはものすごくありがたがっていて。だって自分たちはどうあれ、従業員や何より『白鷺の峰』を守れるというその一点が何者にもかえがたく、ありがたい、と。
 でも待って?
『白鷺の峰』は本当に守ってもらえるのかしら。
 製法とか、そのまま守ってもらえるのかしら。
『他のもんになったらそりゃ困るわな』
 ──どこからか、あの声がした。
「糀ちゃん、聞いてたの?」
『聞いてはおらんけど、糀ちゃんはなんでも知ってる』
 えっへんと胸をそらせて糀ちゃんが私の鼻先に乗ってきた。
 目が寄っちゃうからやめてよ。
 私は頬をぷくっと膨らませて糀ちゃんの着物をつまんだ。
 そうして机の上に糀ちゃんを乗せてあげると。
『おまえはあっちの会社にいって、ほれ、偵察してきたらよいがね』
「ていさつ?」
 糀ちゃんはひそひそと小さな声で言ってくる。大丈夫。ひそひそしなくてもちゃんと小さいのよ、糀ちゃんの声は。
『美波、おまえはなーんもおぼえとらんでいい』
「いい?」
『そうだ。なんもおぼえとらんくていいのだ』
 なんか、むううっとする言い方。
 糀ちゃんは何を言っているのだろう。
「……偵察って何を」
『そりゃほれ、あれだ。あっちの若社長とか糀ちゃんのライバルになるあっちの酒とか、ほれ、いっぱいあるじゃろ』
 若社長?
 あっちの酒?
「もーう……いいよー。こっちの従業員さん守れて白鷺の峰がおいしいままでいてくれるんならなんでも」
『おまえもそろそろあいつから振られるころだろうしなあ』
「こら! 振られるとか言わないでよ。こんなふうに転職するはめになったけど、大丈夫。桔平は私を捨てたりしないよ」
 おつきあいしてる小柳桔平。今勤めている会社の同期で、入社してから3年のつきあい。そろそろ次の段階にいきたいなーなんて。
 同棲とか。け、けっこん、とか。
『それはない』
 糀ちゃんがばっさりとタイミングよく呟いた。
「ねえ、糀ちゃん、もしかして私の心の声、聞こえてるの?」
 同棲とか結婚って夢なのに。
『ゆめのままでおれ』
「やーっぱり! 聞いてるの? ねえ聞こえてるの?」
『秘密じゃ』
 聞こえてるんじゃん。妖精? の能力なの?
『糀の妖精じゃ』
 聞いてるんじゃん。



 諸事情で転職することになってしまった、と告げたとき。
 桔平は『離れてももちろんつきあうよ。なんなら結婚を』
 ……とは言ってくれなかった。
「そっか……離れちゃったら会いづらいなあ」
「え?」
「俺、最近経理の新人ちゃんの愛実ちゃんが気になるんだよな」
「ええっとそれって……」
「ああごめん、うそうそ。離れてもずっと一緒。心は応援してるから」
 ええっと、これって。
「違う会社に行って、家業の立て直しの勉強、がんばって」
 そう言って桔平は手を振って休憩室から出て行った。
 あれ?
 おかしいな。
 もっとしっとりとこれからのことを励ましてくれると思ったんだけど? あっさりしすぎていて不思議なくらい。
 あんまりのことに呆然としていると、またまた耳元でささやく声がした。
『ほれ、言ったろ? まああんな男はやめといたほうがいい。結婚なんてもってのほか』
「でも」
『でも?』
 でも?
 でも、なんだろう。
 糀ちゃんに言い返せない。
 明日から、こんな気持ちで会社を変わるなんて。
 私、やっていけるんだろうか。



 急な転職、急な入社、急な経理。
 もうまったくよくわからない。
 何、この書類。売り掛け買い掛け未払い金。聞いたことはあるけどよくわからない。
 初めて聞く単語ばかりであたふたしてしまう。きっと私に教えてくれる目の前の原田さんだって、私の理解の悪さにあきれているに違いない。今日何度目かのため息をつかれてしまった。
 パソコンだけは使えるんだけど。書類整理とか文書作成とか主にそういうことを業務としてやって働いてきたからどうにもならない。
「ちょっと休憩しましょうね」
 原田さんが怒ったように呟いて、私を休憩室へ案内すると、ぷいっとどこかへいってしまった。15分休憩、と言い捨てて。
 なんだろう。
 どうして私、こんなことになってるんだろう。

 家業の倒産の危機。
 身売りのように転職させられて。
 彼と微妙な感じになって。
 わけわかんない仕事をさせられて。

「あーあ、もうやだよー。やめたい……」
 休憩室の椅子に座り込んで頭を抱えていたその時。
「白木美波さん。ようこそ『しらふじ』へ」
 男性の低い落ち着いた声が上から聞こえた。
 私ははっとして顔を上げる。
 目の前に立っていたのは、すらりと背の高い、光沢のある良質な生地のスーツを身にまとった人。切れ長の目が、眼鏡の奥で涼やかな光を放っている。
 だれだろう、この人。
「えっと……?」
「おぼえていない?」
 ふわりと笑った顔。残念ながら覚えがない。
「えっと………?」
 私の困惑が伝わったのか、目の前の人の目からすうっと光が消えた気がした。
「しらふじの副社長、白藤だ。白藤晃」
「はあ」
 沈黙。
 ん?
 ………副社長?
「あああ! えむあんどえー!」
 思わず大声が出てしまった。
 えむあんどえーだ。
 このひとだ!
「あの、なんで私ここの会社に」
「──同じようにただの酒蔵が始まりだったのに、今は全く違う。販路も、製法も。まだまだのびしろがある。こういうことをおまえが学んでくれば、あるいは白鷺は生き残っていけたかもしれないんだ」
 白藤副社長は私の言葉に答えずに続けた。
 聞けば聞くほど、私は胸が苦しくなった。
 私の、せいなんだろうか。お父さんたちの優しさに甘えてきた、私の。
「……だから、ここで?」
「そう。学べよ。おまえにかかっているんだろ? おまえはもっと学べるはずだろ?」
「だって今までこんなこと」
 私の前にすうっと手のひらが出された。
「ストップ」
 白藤副社長は低い声で私を遮った。
「いいか? だって、とか、でも、とか。言い訳の言葉は俺は嫌いだ。おまえの口から聞きたくない」
「でも」
 口から出てしまったその言葉で、またギロリと睨まれた。
「いいか? 立て直す、というか俺の会社の一部となって、『白鷺の峰』は生き残る。生き残れるようにするんだ。おまえにかかっている」
「だけど」
「いいか? 俺だって白鷺の峰をなくしたくない。おまえとの思い出、」
「え?」
「ああ、白鷺の峰はよい酒だからな。なくしたくないんだよ」
 白藤副社長は、そう言って休憩室を出て行った。
 15分は、あっという間に経ってしまっていた。



「ねえ、桔平聞いてる?」
 電話口で何も答えてくれない桔平がもどかしくて私は相づちを催促してしまった。転職する前からだけど、こういうこと、増えた。
 微妙な感じになって転職して、会えていないながらも電話だけはしているんだけど。──もちろん私から、電話をしているのだけど。
「あ? ああもちろん聞いてるよ」
 ──っていう割に、電話の向こうからはゲームのBGMのような音楽が聞こえてきている。もしかしてゲームしながら電話にでてるのかも。
『こりゃ聞いてないな』
 もう! また!
「糀ちゃん、心を読まないで!」
 小さく怒ったつもりが、こんな声には桔平は反応してきて。
「え? 誰かいるの?」
「いいい、いないいない。いるわけない」
 もう。ぷうっと頬を膨らませて糀ちゃんを睨む。
 ふわふわと浮かぶ糀ちゃん。いつも急に声が聞こえる。
 自宅だろうと、会社だろうと。
 だけど、私以外にこの姿と声は見えていないみたい。
 こんな糀ちゃんとの生活がすっかり普通になってしまった。
 普通と言えば。
 白鷺の峰は生産中止、とかそんな話はでてこないし。
 もちろん白鷺が倒産するというニュースもでてこない。
 この間にもM&Aの話は進んでいるらしく。
 白鷺の会社は普通に営業している。
「白藤副社長かあ」
「え? 副社長?」
 あ、まだ桔平と繋がっていたんだった。
「そう。白藤副社長。何か厳しいの。もう本当に私わかんないことばっかりだし怒られてばっかりで。毎日やだもん会社にいくの」
「へえ。美波に厳しくするの、そりゃ当たり前じゃない? 言ってみればライバル会社のお嬢様でしょ? いじめてみたいとか、そういう感じじゃないの?」
 ぐ。
 はっきり言われると、つらい。でも。
『おまえにかかっているんだ。学べよ』
 その言葉が胸によみがえる。こわいんだけど、確かにその通りで。
「あれは、やさしさ、のような気もするんだけど」
「ははっ」
 すると突然電話の向こうで桔平が大声で笑った。
「なあにいってんだよ、美波はほんと、お嬢様だなあ」
 なんか、その言い方。カチンとくるなあ。
「だって、厳しさって優しさじゃない?」
「ばっかだなあ。厳しさはただのいじめだよ。かわいそうになあ。家業の倒産でそんな転職までさせられちゃって。でもまあおまえには世間の荒波を感じるためによかったのかもなあ」
 んんんんん、ん。
 なんかトゲがある。トゲだらけだ。
『おまえ、こんな男がいいのか?』
「糀ちゃん……」
「? やっぱりそこに誰かいるの?」
『いるわい』
「だ、誰もいないよ、はははははは」
 私の乾いた笑い声に、桔平はあきれたように言った。
「美波、おかしいぞ、おまえ」



 隣の席で私の教育係になっている原田さんは。
 いつもむうっとした顔をしている。
「おはようございます」
 と丁寧に挨拶をしても、こっちをちらりとみて「おはよう」と言われるだけ。
『なによ、このしらふじって会社!!』
 言いたいけれど、ぐっとこらえる。
 だってその目の前にひろげられてるデスクトップの画面には、私が前日にやった仕事のファイルが開かれているのだ。それを目を皿のようにしてチェックしてくれている。そのことに気がついて、私はありがたいこと、と感謝するようになった。私の仕事を責任もって見直してくれている。しかも始業時間よりおそらくかなり前から出勤してきて。
 これ、いじめじゃないと思う。
 むしろ。
 迷惑をかけているのは、私だから。
「はやくおぼえよう。いろいろ……」
 原田さんの横顔をみているとそう思えてくる。
 だって本当に、これはいじめなんかじゃない。
 揚げ足をとられることはないし、修正箇所をまた丁寧に教えてくれるし。
 私は用意してきた包みをそっと原田さんの机に置いた。
「なに?」
「あの、いつものお礼、です」
「……ああ、はい、ありがと。いただくわ」
 あれ?
 少しだけ、ほんの少しだけ、原田さんの頬が赤くなった気がする。
 うわわわ。珍しい。
「いつも、いつも私の修正させてすみません。これ、はやくおぼえますから」
「まあこれも仕事だから。それに白藤副社長に」
「え?」
「あなたのこと頼むって言われてるから」



「やっぱりいじめじゃないから!」
 電話で桔平に強く主張してみた。
「いじめじゃなくて? じゃあなんだよ。おまえをそっちに連れてった理由って。ほら、なんだよ」
「それ、は」
 M&Aのことは口外できない。ただただ、家業の立て直しのために学ぶため、としか言いようがない。
「まあいいけど。おまえんち、ほんとにやばいんだな?」
「──まあ、そう、みたいだけど」
「じゃあさ、別れよう」
「え」
「もしかして逆玉にのれるかなーなんて期待してたりもしてたけど。おまえんち、経営難なら不良債権だもんな、おまえ」
「……」
 なんか。なんかひどいことを言われてる。
 私のこと。ふりょうさいけんって?
『ほれ、わかっただろ? 別れておけ』
「糀ちゃん……」
 桔平との電話中に急に出てくる糀ちゃん、私はすっかり慣れてしまったよ。
 鼻の奥がまたつんとしてきて、苦しい。
「ねえ、桔平。そういうの、苦しいよ? わかんない?」
「わっかんねーな。おまえなんか所詮お嬢様だろ? 何言われても笑っとけよ。てか」
 桔平が一呼吸おいた。
「ていうかさ、俺に指図するなら別れる」
 ──もういい。
 もういいよ、そんなの。もう。
『ほれ、別れないのか?』
 糀ちゃんの声。そうだね。うん、もう。
「じゃあ別れるよ」
「は?」
 糀ちゃんに向かって言ったのか、桔平に向かって言ったのか。
 自分でもわからなかったけど。
 口からするりと別れの言葉がでてきていた。



 私は酒蔵の奥の庭にいた。
 銀杏の葉っぱが黄色の絨毯になっている。
 こんな季節が私はとても好きで。
『おまえはいつもいつも葉っぱで滑って転んでおったぞ?』
「そか。そうだったかもね」
 糀ちゃんがずっと見守ってくれていたのは本当かもしれないな、と思う。
「別れろ別れろって、言い続けてくれたもんね。私、なかなか言うこと聞かなくてごめんね」
『しおらしいな』
 風がふわりと糀ちゃんを撫でて、私の肩に乗っていた糀ちゃんが体勢を崩して地面に落ちそうになった。私は慌てて糀ちゃんをつかまえる。手のひらにのせてまじまじと糀ちゃんの着物をみて──。
『なんじゃ』 
 糀ちゃんの着物に見覚えがある、と思っていた。その風でふわりと落ちる様子にも。
「ねえ、もしかして。その着物って。私の七五三のときの?」
『やっと思い出したか』
「あのとき、私、落ちたよね? あの、銀杏の木から」
『それは思い出さなくてもよいのに』
 糀ちゃんが苦虫をかみつぶしたような顔をした。 
 おかっぱの髪が、その表情をぱさりと隠す。
「あのとき、コウおにいちゃんがいて、助けて、くれた?」



 あの日、風が強かったのだ。
 でも私はいつものように銀杏の木に登って遊んでいて。
 向かい合わせの二本の銀杏の木の間に物干し竿のような棒を渡してそれによじ登って遊ぶという。そんなことをしていた気がする。
 あの日、風が強かったのだ。
 だから私は風にあおられて手を離してしまって。
 結構な高さから、地面に落ちて。
 あの日、風が強かったのだ。
 なのに私が木に登るのを止めなかったコウおにいちゃんは。
 きっと怪我をした私に責任を感じて。私の前から姿を消してしまって。
 ──だから、だから、だから。
 私の記憶は。その日の記憶はかなりぼんやりしてしまっているんだ。



「副社長、あの」
 私が休憩室にいるときに、副社長が入ってきた。
 転職して三ヶ月。私の休憩に合わせるように副社長も入ってくる。
 でも、何も言わない。ただ黙ってコーヒーを飲むだけ。
 気づいたのだけど、こういうとき、他に誰も入ってこない。
 多分、今日も誰もこないはずだ。
 無言で私の隣りに座る副社長に、思い切って声をかけてみる。
「副社長、あの。家を、両親や従業員のみなさんを守ってくださって、ありがとうございます」
 無言。
 でも、私は続ける。
 初めて聞いたM&Aなんて言葉。
 私が犠牲になればいいんだ、なんて思っていたけれど。
 ちがうなって気がついたから。
「おまえ、別れたんだって? 前の会社のやつと」
「え? あ、はい」
 唐突に聞かれて思わず頷いてしまった。
「それはよかった」
「え?」
「ああ、違う、間違えた。残念だったな」
「えええ?」
 なんだろう、歯に何かかぶせているような。かみ合わない会話の感じ。
『ばかじゃなあ、こいつは』
 糀ちゃんがまた私の肩に乗っていた。
「「ばかじゃない」」
 私と副社長の声が重なって。
 私と副社長はお互いの顔をぱっと見つめた。
「「もしかして聞こえてる?」」
 糀ちゃんは、うんうん、と頷くばかりだった。



「前におぼえてるか?って聞かれて。いえ、そのときは覚えていなかったんですけど思い出したっていうか」
 私が言いよどんでいると、副社長がぽつぽつと話し出した。
「あの日は風が強かったけど、でも、おまえが落ちるのを予測できなかったのは俺のせいだった」
 副社長の声は強くって。
 そうだ。
 でも、とか、だけど って言葉は嫌いだって言っていたっけ。
 そんなふうに自分の責任にするっていうのは重いことだ。
 言い訳をしないっていうのは、覚悟がいることだ。
「──コウおにいちゃん?」
「そう、だ。ほんとに思い出したんだな」
 白藤副社長は、コウおにいちゃんは、目を細めて私を見つめた。
 眼鏡の奥で優しく光るその目に私は急に恥ずかしくなってうつむいてしまう。
「あの糀ちゃんのこと。見えてるの?」
「見えてる。あの糀の精はな、白鷺の峰の妖精……というか、まあ白鷺の蔵についている妖精だ。あの着物をおまえが縫ってやったんだ。それは覚えがないか?」
 ああ、だから私の七五三の時の着物の柄で。
「初めて糀の精に会ったときも、ふたりであそこの銀杏で遊んでいた。あのときは違う着物だったがな。もっとかわいい柄の着物が着たいというから、おまえが親に言って切れ端を用意して」
 ふふっとコウおにいちゃんが笑った。
 あ。
 その顔、やっぱり覚えがある。
「ねえ、コウおにいちゃん。白鷺の酒蔵を守ってくれるのって、あの時の私への謝罪、なの?」
「ああ、まあそういうことでいい」
『ちがうじゃろが。あいつと別れさせたいというておっただろが』
「「は?」」
 また声が重なってしまった。
 コウおにいちゃんは頬を赤らめて、その顔を見たら私もなんだか顔が赤くなってしまって。
「おまえの前から消えたのは、悪かったと思ったのとそれから、俺の実の親が会社を立て直したからで。まあ、景気がよくなったから俺のことをちゃんと育てようと思ったんだろうさ」
 そうだ。
 コウおにいちゃんは、本当のお兄ちゃんではなかった。
 お父さんの友達の家の跡取り息子で。それがつまりはこの『しらふじ』だったということか。よく知らなかった。
 だから、突然消えてしまったように見えたのか。
「いいよ、もう。あの時の怪我も記憶ももういいよ。今、白鷺の峰を守ってくれるのが本当なら。それで、いいよ」
 胸が熱くなって涙がでてしまう。
 それを見ていたコウおにいちゃんが「やっぱりおまえ、泣き虫だな」と笑った。そして。
「もちろん守る。昔俺を育ててくれた思い出の家だからな。それに、あーそれにな。調子がよくなる」
「は?」
「おまえと休憩を一緒にとると調子がよくなる」
「……もしかして、この時間って原田さんに業務命令だしてます?」
 さっと顔が赤くなった。
 やっぱり。
 どおりで誰も来ないと思った。
 この副社長が誰も近づくなと各課にいいつけていたに違いない。
「はずかしい」
「……いやか?」
「いやじゃ、ないです」
 あの時のコウおにいちゃんがこの副社長。 
 そう思うと、すべてが懐かしく思えてくる。
『ほれ、そこでもっとちこうよれ』
「糀ちゃん?」
「こら、へんなこというな」
 糀ちゃんの着物がふうわりと浮き上がる。
 そうだこんなふうに私は昔から自由だった。
 木に登ったり、銀杏で遊んだり。
 自由だ。
 だから、なんでもできる。
 私はすすっとコウおにいちゃんの腕にくっついてみた。
「これくらい?」
 糀ちゃんは満足げに頷く。
『もっといいぞ』
「勘弁してくれよ」
 顔を真っ赤にさせたコウおにいちゃんが、糀ちゃんをむっと睨んだ。 
 でもその顔があんまり赤いから。
 私も糀ちゃんも、ふふって笑ってしまった。