あやかし婚活姫と霊感従者の恋結び

「これより、駆け落ちするあやかしを募集する!!」

 宇治。貴族の別荘地。その一室で、やんごとなき姫君は叫んだ。
 端近(はしぢか)に控えていた従者は胡乱げな顔をする。

「は? 結姫(ゆいひめ)。いまなんと?」
「聞いてくれ一縷(いちる)くん。父上がついにやりおったのじゃ。私を帝に入内(じゅだい)させるとか言ってきたのじゃ!」
「はあ……今上帝(きんじょうてい)といえば、すでに姫の姉君が入内(じゅだい)されて、お子も大勢いらっしゃる仲睦まじいと評判の間柄」
「しかし、()()がおらんからのう……そこで末娘の私も追加しようという魂胆よ。姉妹で一緒に嫁ぐとかありえなくない? 姉上は中宮(ちゅうぐう)だし、子ができたら姉上の養子にするらしいし、私の立場なくない?」
内大臣(との)さまはなんというか、こう……分かりやすく権力者しぐさしていますね……」

 事情は分かりました、と一縷(いちる)は呟いた。しもべの者とも思えないほど、端正な顔立ち。童装束のため冠は身につけていないものの、艶やかな黒髪を後頭部で高く結い上げている。赤い髪紐を面白くなさそうにいじくる。

「それで──なぜ、駆け落ちなのです? それもあやかし相手などと」
「なあに、簡単よ。人間相手だと連れ戻される可能性が高いじゃろ? あやかし相手なら父上も帝も諦めると思うのじゃ」

 御簾(みす)の向こうから、ちょいちょい、と手招きされる。

「そこでは遠い。こっちに来い一縷(いちる)くん」
「ちょっと、みだりに異性を招き入れるものではないと何度も」
「な~に。私と一縷くんの仲ではないか~よいではないか~(あるじ)の言うことが聞けんのか~」
「姫も充分権力者しぐさしてますよ!!」

 一縷は胸元から人形(ひとがた)を取り出し、ふっと息を吹いた。途端に、一縷そっくりの式神ができる。偽物の自分に見張りをさせ、いつも通り、御簾の中に入ると結姫(ゆいひめ)は好奇心旺盛な瞳を輝かせていた。

「いつ見ても、摩訶不思議な術じゃ。面白いの~」

 小柄で豊かな髪。重ね着した小袖は花開くように鮮やか。そんな結姫は左のこめかみの髪を赤い飾り紐で結わいていた。自分と同じ飾り紐。一縷は思わず緩んだ口元を引き締めた。

「それ、狐の妖術なんじゃろ。いいなあいいなあ。私も使いたいなあ」
「姫には使いこなせませんよ。私だって、天狐(てんこ)から術を授かっただけで、現世(うつしよ)ではそんな長く使えません」
「でも、霊感あるし。一縷くん」
「鬼も霊も、見えていいことなんかありません姫」
「だってなんかかっこいいじゃん~」

 それより、本題は! と一縷が一喝すると、おおそうじゃった、と結姫は文箱から和歌を綴った紙を取り出した。

「と、いうわけで、こちらの恋文。幽世(かくりよ)に届けてくれんかのう。狙い目は鬼か狐か天狗か。私的には美男子で高身長のあやかしがいいのう」
「あやかし相手にナンパする気ですか!? というか、人のこと、霊界通信に使わないでもらえますか!」
「だって、一縷くん、幽世(かくりよ)にも渡れるし。あやかしにも顔が利くし。幼少期、神隠しにあったそなたを拾ったのはこの日のため……」
「あやかしとの婚活のために!? 知りたくなかったなー!」

 一縷が頭を抱えると、うるうると結姫は懇願した。

「お願いじゃ一縷くん。父上の道具になるのは嫌じゃ。帝と姉上の仲を壊す真似もしたくない。駆け落ちするしかないのじゃ」
「……っだったら! なにもあやかし相手と駆け落ちしなくたって……っ」

 思わず語気を荒げた一縷は、じっと結姫を見つめた。

「じゅ、従者とだって、よいではありませんか……?」

 目を見開く結姫の瞳の中、真っ赤になった一縷の顔が映る。まじまじと見つめ合い、そうして、結姫はフッと肩をすくめて笑った。

「身分違いは嫌じゃぁ……」
「無駄に矜持(プライド)が高いなあ!」




 幽世(かくりよ)。あやかしや土地神が住まう、人ならざるモノの世界。幽世(かくりよ)への道は古神社の鳥居や山の洞窟、古ぼけた橋の上など、いろんなところから通じている。逢魔(おうま)(どき)幽世(かくりよ)現世(うつしよ)の境で、一縷(いちる)は道行くあやかしに声をかけていた。

「内大臣の末姫が、あやかし相手に婿探しですかあ?」
烏天狗(からすてんぐ)どの、ご興味がおありか?」
(わし)は男色ですのでなあ……」

 ほっと、一縷は安堵した。「それは失礼しました」と烏天狗を見送り。

「俺は考えてもいいよ。小柄な姫ならなおいい」
「赤鬼どの、お気持ちはうれしいのですが、姫君に手荒な真似はしないでくださいね」

 大きなツノを二本生やした赤鬼は鼻で笑った。

「それはお約束しかねる。手荒なことが好きなのでね。女子(おなご)の泣き叫ぶ顔はそそるものだ」
「こちらからお断りしますっ! ケダモノっ! 人でなしっ! 鬼畜っ!!」
「鬼だしね」

 豆を投げつけて鬼を追い返すと、川辺からざばりと河童が上がってきた。

「僕は? きゅうりくれるなら考える。女の子にもやさしーよ」
「河童かあ……姫、好きかなあ」
「そのお姫様、お嫁さんになったら、一緒に泳いでくれるかな? うふふ」
「あっ今姫の裸体を想像したな! すけべめ! 姫の柔肌を晒すなんて真似できません!! なしで!!」
「ええっ婿探しなのに!?」

 あーでもないこーでもない。
 ひっきりなしにやってくるあやかしたちに声をかけては難癖をつけ、結姫の婿候補を破談にしていった。そんな一縷を見て、呆れたような声が降ってくる。

「幽世の境で騒ぎがあると聞いてきてみれば。いったいなにしてるんだい? 一縷」

 黄昏の空に、にょろりと細長い管狐(くだぎつね)が浮かんでいた。
「成果なしです。結姫(ゆいひめ)になんと報告すればいいのやら」

 幽世(かくりよ)でも有数の名所。狐の御殿に訪れた一縷(いちる)は盛大にため息をついた。

「う~ん、まあ、一縷が全然、姫君の婿探しをする気がないからでしょ」

 向かい合う天狐(てんこ)は畳の上で胡坐をかいて、こめかみを抑えていた。
 千年の歳月をゆうに超えた化け狐なれど、今は麗しい貴公子の姿に化けている。ふさふさの狐耳と尻尾を生やし、黄金の長い髪をしどけなくおろしている姿は絵になった。どういうわけか、この天狐は一縷の保護者気どりで、幽世での昔馴染みである。

「……だって、あやかし風情が結姫の駆け落ち相手だなんて。想像しただけで腸が煮えくり返りそうです」
「それ堂々と我の前で言える一縷はすごいと思うよ~」

 天狐は気にした様子もなく、扇で笑みを隠した。

「そんなに納得がいかないのなら、お前が攫ってくればいい。幼き頃からの想い人だろう? いい機会じゃないか。それに」

 扇をぱちりと閉じて、一縷の胸に向けた。

「お前は幽世の──我の大切な吾子(あこ)。お前の想い人と知れば、名乗りを上げるあやかしなんていないよ」
「……姫君は、身分違いは嫌だと仰せなのです」

 天狐は狐目をまんまるくさせた。

「それこそ問題ないではないか! 一縷にはあやかしたちの加護が憑いている。現世では無位無官だろうが、幽世では皇子様のようなもの! 姫君だってイチコロだって!」
「皇子って……あなたが勝手に私を神隠ししたのが原因ですけどね」

 再び扇を広げた天狐は不服そうに、言い返した。

「不服か? 〝あやかし憑き〟と蔑み、一縷を捨てていった両親のほうが恋しいと? こんなに可愛がっているのに我は悲しい。養父(パパ)と呼んでもくれてもいいのに。養母(ママ)でもいいよ」
「いえ、私は人間なので。狐の子になる気はありません」

 すげなく断る一縷に、「かわいくない」と天狐は唇を尖らせた。

「ま、そこが一縷の稀有なところ。これほど幽世に渡っておいて〝惑わされぬ〟神隠しに合った人間は、気がふれるのが常だというのに」

 にんまり、と狐は妖しく笑った。

「我ら人ならざるモノは、人間と近すぎても遠すぎてもいけない。我らの存在を見る、伝えるモノを選ぶため。ときには神隠しを行って人間の幼子を幽世に誘う。たいていは、幽世にとらわれるか、現世にはじき返されるか……お前はどっちつかずのまま。人ならざるモノを見ながら、人間として正気を保っている。幽世と現世を渡り、結ぶ。まこと、幽世の大事な吾子だ」

 天狐は善良な狐といえど、野狐や妖狐など人間に害をなす化け狐も多い。狐だけではなく、鬼や天狗、あやかし、物の怪、土地神や祟り神の住まう幽世は、倫理も時間も感覚も現世とは異なる。何度も境界を踏み越えては、普通の人間なら気がふれる。けれど、一縷は正気を保ったまま、あやかしたちと平然と会話する。幽世の住人から可愛がられ、面白がられている理由でもある。

 一縷はそっと、自らの髪を結わいている赤い髪紐に触れた。

「……結姫のおかげなのです。神隠しにあい、心も身体も揺らいでいた私を繋ぎとめてくださった。大切な私の姫君。結姫が私を望んでくだされば、すぐにでも攫ってしまうのに」
「なおさら分からない。だったら、なぜ力づくで攫ってこない? 我が授けた妖術を使えば、人さらいなど造作もないぞ」

 ぽ、と赤く頬を染めて、一縷は甘いため息を吐いた。

「内大臣の姫君とか。幽世の皇子様とか。あやかしの妖術とかそんなことじゃなくて、長年姫のおそばに仕えた幼馴染として──ただの人間としての私を、好きになってもらいたいのです。身分や肩書になんかに惑わされずに」

 天狐はきょとんと眼を見開いた後、肩をすくめて笑った。

「なるほど、幽世にとらわれぬわけだ。恋に惑っているのだな、一縷は」
 幼いころ。
 一縷(いちる)は迷子になったことがある。
 幽世(かくりよ)現世(うつしよ)の境で、道に迷った。

 暮れなずむ黄昏時。薪拾いの帰り道。古い橋の上で、うっかり転んだ。なにもない場所で、盛大に躓いた。首を傾げながら、次に顔をあげたときには(うつつ)とは思えぬ豪華な御殿の中にいた。御簾(みす)が翻り、几帳(きちょう)が揺れる。風もないのにゆらゆらと──

 どこぞ貴族の屋敷に迷い込んだのかと、慌てて外に出ようとしたが、一向に出口が分からず屋敷の中を彷徨い歩いた。そうこうしている内に夜の帳が落ち、狐火が灯される。鬼たちが酒を飲みかわし、天狗が踊り狂っていた。

 幽玄に滲む桜。雨に濡れる紫陽花。たわわに実る稲穂。雪化粧の椿。
 それらが同時に存在する豪華な庭園。不思議と恐ろしさは感じず、極楽浄土のような世界を、一縷は食い入るように見入っていた。

「おや? 迷い子だ。こちらへおいで。お菓子をやろう」

 ふらりと、狐耳を生やした美しい男が声をかけてきた。甘ったるくて優しい声。頭を撫でられ、(たちばな)の実を一縷に差し出してきた。

「可愛いぼうや。我は子を亡くしたばかりで今とても寂しい。ここが気に入ったなら、我の吾子(あこ)にならないかい? 食うモノも着るモノも困らない。イイところだろう?」

 手渡された橘の実は、今まで食べたどんなお菓子や果実より旨そうに見えた。ごくりと、一縷は喉を鳴らす。一粒、口に運ぼうとした瞬間。

「──そなた、だれと話しておるのじゃ?」

 甲高い、幼い女の子の声がした。一縷は驚いて、橘の実を地面に落としてしまった。その瞬間。波紋のように視界が波打ち、幽玄の世界が崩れた。

「つまらん、邪魔が入っては興ざめだ。吾子、気がふれたらまたおいで」

 不貞腐れたような狐の声。ぐるり、と世界が反転し、
 
「そんなに身を乗り出しては川に落っこちてしまうぞ!」

 その言葉で、一縷は今、古い橋の欄干に身を乗り出していることに気がついた。少女は、そんな一縷の袖を一生懸命引っ張っていたのだ。ごうごう流れる川。顔に水しぶきが跳ね、目を見開く。

「うわっ!!」
「──んぎゃっ!!」

 一縷が驚いて、欄干から飛び引く。少女も勢いあまって、ずでんとひっくり返った。二人そろってころころと橋の上で転がる。

「あ、あれ、ここは? おれは、いったい……」
「痛いんじゃが〜!」
「あ、ごめん。あなたは……」

 差し出した手をぺしり、とはたかれる。身なりからして高貴な姫君に見えた。

「一人でぶつぶつ喋りながら、川面に飛び込もうとしていたぞ。危ないじゃろ!」
「……すみません。どうも、寝ぼけていた、ようです」
「ふーん、歩きながら寝ていたのか? 変なやつ。狐にでも化かされたのかのう?」

 一縷は未だにめまいを起している頭を押さえた。
 肌を撫ぜる秋風も、雑草だらけの川辺も、烏の声も、いつもと同じ殺風景の光景。あの極楽浄土のような世界はやはり夢だったのかと、首を振った瞬間。ぞわりと背筋に悪寒が走った。木々の影に、水面の中に、黄昏の空に、低級霊や動物霊がたくさん浮かんでいた。

「うわああ!! お化け! お化けがいる!!」
「こ、今度はなんじゃあ!!」

 目の前の少女にしがみつく。一縷は両方の目玉を懸命にこすった。何度、まばたきしてみても亡霊たちが消えることはなかった。
 何の変哲もない現世。ただひとつ、幽世に見入ってしまった一縷の目だけは、このときから異形を捉えるようになる。
 本気で怯えている一縷を見て、少女は首を傾げた。

「……お化け? そんなものおらんが」
「え、そこ、そこにいっぱい、男も女も、犬も猫も、浮かんでる!」
「ここには私しかおらん。気をしっかり持て」
「で、でも、確かにそこに!」
「あ~も~動じるな! そんなんだからあやかしに化かされるんじゃ!」

 青ざめた一縷を、少女は一喝した。
 躊躇なく、一縷の頬に両手を添える。小さく、柔らかく、血潮の通った温かい手。
 生きている人間の温度。一縷を幽世から引き戻した手。

「どうしても怖いのなら、私だけを見ておればよい!」

 ぼやけていた焦点が少女に合った。
 美しい重ねも、丸い頬も、大きな瞳も、一縷の眼球に焼け付く。
 亡霊たちがふらふらと通り過ぎていく。げっそりとやせこけた者。傷だらけの者。腐食した者。見るも無残な死に際の人間や動物が恐ろしく、震えが止まらなかったが、その声とその手に、ほんの少し落ち着きを取り戻す。
 少女はその小さな身体で一縷を抱き留めていたが、「結姫様(ゆいひめさま)!」と遠くで叫ぶ声に、びくん、と身体を跳ね上げさせた。

「しまった! そなたが川面に飛び込もうとするから、牛車から飛びだしてしまったのじゃった! すまぬが、私はもういかねば」
「ま、待ってください。もう少しだけ、お願いです、ここに。こんな恐ろしいところに一人で置いていかないでください!」

 今思えば──自分より年下の少女に。しかも、縁もゆかりもない高貴な姫君に縋り泣いていたかと思うと。思い出すだけでも情けないが、その時の一縷は必死だった。ぬくもりのある、生きた人間である存在は、目の前の少女しか実感できなかったから。少女は困り果てていたが、両方のこめかみの髪を結わいている赤い髪紐のひとつを解くと、一縷の手首に巻き付けた。

「ええい、わがまま言うな。これをやるから! そなたもちゃんと家に帰るのだぞ! 怒られちゃうからな!」

 そうして、少女は駆け出していった。急激に体温が冷え込む心地がした。けれど、左手首に巻き付いた赤い飾り紐。まだそこに少女の温かいぬくもりが残っているようで、なんとか気持ちを奮い立たせた。日常の中の非日常。生者の中の亡霊。それを見続けても気がふれないでいられた理由。

 そのときから、何の変哲もない赤い糸が、一縷の頼みの綱になった。

 そのあとは散々だった。
 亡霊たちは一縷に危害を加えるようなことはなかったものの、妙なことを口走るようになった一縷を両親は不気味がった。理解できないものに怯え、見えないものに悲鳴をあげる日々。ある程度は妙な視界との折り合いはつくようになったものの両親とは不仲になり、一縷はまともに働くことをあきらめて、物盗りをして一人で生きるようになる。霊感は使いようによれば気配察したり、勘を鋭くさせることもできた。霊や鬼がたくさん集まる場所は幽世へと通じると気づいて、追手から逃れるために飛び込んだことすらある。天狐に再会したのもそのときだ。幽世に行くたびに護身の妖術を授けてくれた。そのたびに、霊感は強まったものの、もう一縷は現世で人並みに生きることは半ば諦めていた。幽世のあやかしたちは見慣れてしまえば、怖くも恐ろしくもない。むしろ一縷を面白がって、可愛がってくれた。そのうち、この世界の一員になるのも悪くないとすら、思い始めた。そんな折、再び少女と再会する。

「なんじゃ、そなた。家に帰りそびれたのか。仕方ないのう」

 ふらふらと、導かれるように物盗りに入った寂しい宇治の屋敷に、彼女はいた。一縷の顔を見た途端、動じることもなく、気安く声をかけてきた。

 生きた人間の声を、久々に聞いた気がした。

 その髪には赤い髪紐が片方だけ結ばれていた。必ず会えるのではないかと、ひそかに願っていた。一縷のただひとつの現世での未練。

「そなたと縁を結んでしまったのは私だしな。私の従者になるなら面倒見てやる。その霊感も面白い」

 人間としての生活を諦めていた一縷に再び人間としての生活を与えてくれた。
 頼みの綱。拠り所。
 内大臣家の末姫。お転婆で、変わっていて、度胸があって、矜持(プライド)が高くて──温かい。
 結姫の存在そのものが、一縷の希望に思えた。
「──と、いうわけで鬼にも狐にも天狗にも、結婚は断られました。姫と駆け落ちするあやかしはいません」
「うそ~!? 私ってばモテない!? 血筋だけ!? 高慢ちき!? 変な口調!?」
「そこまで言ってません! でも、そんな投げやりな駆け落ち、あやかし相手だってうまくいきませんよ」

 まっすぐに一縷(いちる)が告げると、結姫(ゆいひめ)はしょんぼりと頭を下げた。

「分かっておるわ。現実逃避なことくらい。所詮は戯言。けれど、道具のように父上に使われるのは私の矜持が許せないのじゃ」
「姫……」
「かくなるうえは、出家するしかないのか。姉上の形代として子を産む道具にされるくらいならそのほうがましじゃ!」

 胸元から短刀を出し、結姫は艶やかな髪の毛に刃先をあてた。一縷がぎょっとして、その短刀を叩き落す。

「姫! なにもそこまで! そんな覚悟があるのなら、私と一緒に逃げましょう!」

 勢いあまり、結姫の身体を掻き抱いた。びくん、と震えた身体から立ち上る香の匂い。豊かな髪。ぬくもり。いつも触れたいと願っていたもの。もう一度、手にしたいと焦がれていたもの。

「一縷くん」
「あやかしと駆け落ちなんてやめて、私を見てください。この命に代えても姫をお守りいたします。幼少のころ。神隠しにあった私が正気でいられたのも姫のおかげ。あなたとなら、私はどこまでも逃げられます」

 幼い頃、縋りついた小さな身体は、今は一縷の胸の中にすっぽり収まった。

「私の気持ちにとっくに気づいておいでなのでしょう? なのに平然と御簾を超え、顔を晒すのはなぜですか? 私のことを、物の数に入らない下賤(げせん)だと。そう思っているからですか。それとも──姫も私を、」
「そうじゃ、飼い犬に顔を隠しはしないじゃろう?」

 ぎくり、と一縷は強張った。結姫から、冷ややかな視線。

「私はこれでも内大臣の姫じゃ。従者などと、だれが行くものか。離せ、無礼者」

 熱く火照った一縷の想いに冷や水が浴びせられた。温度を失ったように、指先が動かなくなる。簡単に組み敷けそうな細い身体にすら、触れられなくなり、呆然と手を離した。結姫は強いまなざしで、臆せず一縷を睨み上げた。

「そなたの言うとおり、顔を晒したのも、そなたが物の数に入らん存在だからじゃ。戯れを真に受けおって、恩知らずの犬が。私を思うなら、鬼でも狐でも相手を連れて来い。それが出来ぬのなら、髪を下ろしてくれそうな僧か尼を探してこい。そのほうがまだ役に立つ」

 思い出した。彼女の強さは動じないこと。一縷が川面に飛び込もうとも、一縷の目が普通でなかろうと、妖術を扱おうと。彼女は態度を変えなかった。普通の人間であるならば腫物のように遠ざける。〝あやかし憑き〟とあざけられる一縷を、平然と受け入れた。

「自分自身を見てほしいなどというが、そなたになにができる。なんの位もない従者などと逃げれば、野垂れ死にするのが落ちじゃ。世の人の笑いものになろう。そなたは私をそんなに落ちぶれされたいのか」

 彼女の動じなさ。そして、気高さ。一縷の最も好きな部分が、鋭利な刃物となって、一縷自身を突き刺した。

「そなたと逃げるくらいなら、死んだほうがましじゃ」

 幽世(かくりよ)。狐の御殿で、一縷(いちる)はうなだれていた。

結姫(ゆいひめ)は私のことなど、何も見てくださっていなかった。あの方がいたから、私は現世(うつしよ)で生きて行けたのに」

 天狐(てんこ)は一縷をよしよしとなだめる。お菓子やご馳走、美女や絹をいくら与えても一縷は見向きもしないので、しょんぼりと狐耳を下げた。

「その姫君とは縁が薄かったのだろう。一縷、現世と幽世を行き来するのはもうやめよ。現世と幽世を結ぶ役目は充分果たしてくれた。姫君への未練を捨てて、これからは幽世で我の吾子(あこ)として、狐の子として、幽世のあやかしたちを取り纏めてほしいんだよ。あやかしたちにお前は気に入られている。皆もお前に傅こう。それに我もお前がそばにいてくれたほうが嬉しい」

 父のように、母のように、天狐は諭したが、一縷はその手を振り払い、ぐっと膝の上で拳を握った。

「……できません。たとえ私の恋が叶わなくても。結姫があまりにおいたわしい。入内(じゅだい)しても出家しても、生きたまま死ぬようなもの。姫を置いていけません」

 う~んと、天狐は唸った。一縷が後頭部に結わいている赤い髪紐を、ちらりと一瞥し。

「……致し方ない。一縷、これを」

 天狐は懐から白い狐の面を取り出した。

「これを被れば、狐のあやかしに化けられる。ひとまずこれで姫君を攫っておいで。少なくとも帝や姫の父君はあやかしにさらわれたと思い、入内を諦めるだろう」
「……でも、こんなまやかしを使ったところで、結姫は私なんかと一緒になっては、」

 いまだに迷う一縷に、天狐は声を低くくする。

「そのときは、一生狐面をつけて、正体を明かさず姫を娶ればよい。お前は姫君と一緒になれるし、姫君もあやかしを婿にできる。それなら万事うまくいくだろう?」

 真実、結姫を想っているのなら、一生化けの皮をかぶって生きろという天狐の言葉に、一縷は傷ついた顔をした。
 そんな一縷を見て、再び優しい笑みを浮かべた。

「その前に、もう一度ちゃんと話をしてくるんだよ。どうしても困ったときはこれをお食べ。これを食べれば真実、お前は幽世の住民。借り物ではなく、あやかしの加護をその身にすべて受け入れられる。我は一縷の味方だからね」

 天狐が差し出した木の実。初めて幽世に迷い込んだ際、手渡されたものと同じ、(たちばな)の実だった。
「まったく、父上も用心深いのう。普段は捨て置いているくせに。帝が入内(じゅだい)を許した途端、自分の屋敷に連れ帰ろうなどと」

 宇治。貴族の別荘地。寂しい荒野に、今日はたくさんの篝火が灯されていた。今上帝(きんじょうてい)が内大臣の提案に折れて、結姫(ゆいひめ)の入内を許したのだ。帝自身も姉妹を娶るのは渋っていたようだが、婚姻と(まつりごと)は密接に絡みついている。自分一人の気持ちを優先させるわけにもいかない。それが帝であっても、中宮(ちゅうぐう)であっても、誰も幸せにならなくとも。

(でもきっと、姉上はいつか帝の()()を産むだろう。そうなれば私は──)

 飼い殺しのまま、帝と姉の情けだけを頼りに、生きていくのか。それがこの世の貴族の娘の宿命だとしても。

 結姫はため息をついた。
 周りにはたくさんの女房や武者が警邏(けいら)し、髪を下す隙もなさそうだった。駆け落ちどころか、自分で世を去る機会すら、失われた。

「さあさ、姫や。牛車に」

 久方ぶりに会った父に促され、結姫は御簾(みす)の外に出る。父親はしばらく見ないうちに老け込んでいた。あとにひとり残された結姫のことを思っての入内であることも分かっている。分かっているから、やるせない。

 美しい月夜の晩。遅咲きの桜が舞い散る。扇で顔を隠しながら、結姫は一度だけ宇治の別荘を振り返った。いつかいい婿を見つけて迎えに来るという父親の言葉を信じて、待ち続けた場所。物寂しくも慣れ親しんだ住処を後にする。篝火に照らされる舎人(とねり)や女房、武者の中に、いつも一緒にいた従者の姿は見当たらない。もう一度ため息をついた。それは安堵か、失望か、結姫自身にも分からなかった。結姫は再び前を向き、諦めのような覚悟を決めて牛車に乗り込もうとしたが。

「待て。姫君の行く先は、そちらではない」

 突如、声が響いた。月夜を背に、桜の木の上で、狐面の青年が立っていた。