気がつくと、ひな乃は座敷牢の中で倒れていた。
どうやら気を失ったようだ。
「痛っ……」
動こうとすると背中や腕に痛みが走る。
こんなのは慣れている。
気に入らなければ鞭で打たれるのはいつものことだ。
そう思っていたはずなのに、ひな乃の目には涙が溢れてきた。
もう戻れない。
もう柊様に会うことは叶わない。
一度柊の優しさに触れてしまったひな乃は、以前のように心を無にすることができなかった。
「柊様……」
ひな乃の心は張り裂けそうだった。
お守りのペンダントも奪われてしまった。
もうひな乃には何も残っていない。
「私のことなんて拾わなければ良かったのに」
ヤツガミ様から酷い仕打ちを受けていないだろうか。
争いになっていないだろうか。
寂しさと心配が押し寄せて、涙とともに流れていく。
「どうかご無事で……」
ひな乃に出来るのは、柊の無事を祈ることだけだった。
ここに入ってから何日経ったのだろう。
食事や水を貰えない日もあり、ひな乃は日付の感覚がなくなっていた。
薄暗い座敷牢には時折当主がやってきて、ひな乃に鞭を打つ。
その回数すら、もう覚えてはいなかった。
――ああ、柊様。お礼を言えなかったのが心残りです。申し訳ありません。
ひな乃は心の中でただ柊への謝罪を繰り返す。
そんな時、誰かがやってくる音がした。
「よくこんな所にいられるわね。あーあ、着物が汚れてしまうわ」
「茜様……どうしてここに?」
「んー? あんたの姿を見に来たの。どんな惨めな姿をしてるのかしらって。予想通りね! ううん、それ以上だわ。ふふふっ」
茜はひな乃をじろじろと眺めると、満足そうに微笑んだ。
「お父様が直々に罰をお与えになってるんですもの。一度は見ておかないと。あんたはヤツガミ様を裏切って、月神なんかのもとにいた最低女の顔をね!」
ひな乃が黙っていると、茜は苛立ちのまま言葉を重ねた。
「月神も見る目がないわよねぇ。こんな女を連れて行くなんて。まあ、あんた達はお似合いだったわ。ほら、月神って名前のわりに何の力もないでしょう? 陰気臭いし、夜にしか活動できないって無能すぎるのよ。最近は罪人しか信者がいないって噂よ。お天道様の下を歩けない人が信仰するんですって! あはははは。もしかして月神もなにか罪を犯したのかしら? 」
「……柊様を悪く言うのは止めてください」
ひな乃は考える前に言葉が勝手に口から出ていた。
身体が熱くなり、手が震えだす。
ひな乃は初めての感情に身体を支配されていた。
怒りだ。
ひな乃は茜をまっすぐと見つめる。
「柊様は何も悪くありません。あのお方は私を助けてくれただけです!」
「はあ? あんたも母親と同じね。ヤツガミ様を裏切って、その上反省もしないんだから! 親子そろってロクデナシなのよ!」
「茜様のように他の神様の暴言を吐くのが正しいなら、私は間違いで良いです。裏切り者と呼ばれても構いません!」
はっきりと反論すると、座敷牢にシンとした静寂が訪れた。
茜はしばらくひな乃を睨みつけた後、顔を歪めた。
茜もこれまでに見たことがないほど怒りに震えている。
ガシャン――。
茜は閂を開けるとひな乃に近づいた。
「あんた、ちょっと見ない間に生意気になったのね。これも月神のせい? まだまだ罰が足りないみたいだから、私が罰してあげるっ!」
茜は思い切り振りかぶると、ひな乃の頬に強く振り下ろした。
バチンッ――。
渇いた音が座敷牢に響く。
それでもひな乃は茜から目を逸らさなかった。
「何度罰されても、私の考えは変わりません。私は、柊様が良い人だということを知っています。彼は毒ではなく温かい食事を与えてくださった。私は毒を与える神様より、柊様を信じます!」
ひな乃の言葉に茜の目つきが鋭くなる。
もう一度彼女が振りかぶるのが見えた。
あぁ、また叩かれる。
何度叩かれても構わないわ!
ひな乃は覚悟を決めて目を閉じた。
ところが痛みを感じることはなかった。
「すまない。遅くなった」
目を開けると、ひな乃の横に柊が立っていたのだ。
茜は手を振り上げたまま、目を丸くしている。
「柊様! どうしてここに?」
柊はひな乃の顔を見ると目を細めた。
そしてひな乃を庇うように茜の前に立ちふさがった。
「こいつに手を出したな」
「月神……。勝手に八久雲の屋敷の敷居を跨がないでちょうだい。ここはヤツガミ様のための場所よ!」
茜の言葉に柊はあざ笑うように口を歪めた。
「こんな趣味の悪い所、誰が好んで入るものか。ひな乃を取り戻しに来ただけだ。一度手放したのに惜しくなったのか? 本当にお前達は愚かだな。こいつはもう俺のものだ。二度とひな乃に近づくな! 次にひな乃に何かしてみろ。一族もろとも滅ぼしてやる」
怒りをあらわにした柊。
あまりの威圧感に茜が膝をついた。
「月神……。こんなことをして、ヤツガミ様が許さないわよ!」
悔しそうな茜を無視して、柊はひな乃に向き直った。
「動けるか?」
「は、はい」
「なら良い。怪我の具合は家に帰ってから診よう」
柊は「行くぞ」とひな乃の肩を抱き、そのまま天井を突き破って空へと飛び立った。
「きゃあっ!」
ひな乃が悲鳴を上げている間に、どんどんと柊は空へと上っていく。
憎々しげにこちらを睨む茜の姿が小さくなって、またたく間に見えなくなってしまった。
ひな乃は空を飛んでいることに身を固くしながら、必死で柊にしがみついた。
甘味処まではあっという間だった。
「大丈夫か? どこか痛むか?」
「大丈夫です。もう痛くありません。傷もほとんどありませんでした」
柊は甘味処に到着するなり、ひな乃の怪我の様子を心配していた。
だが不思議なことに身体の痛みは消え、傷も残っていなかった。
「そうか」
柊は短いため息をつくと、ひな乃に温かいお茶を淹れてくれた。
「飲んで一息つけ」
「ありがとうございます。いただきます」
礼を言ってからゆっくり飲むと、身体がじんわりと温かくなる。
ほぉっと息をつくと、目の前の席に柊が腰かけた。
「助けていただきありがとうございました」
「お前の気配が途中で途絶えたから、上手く追えなかった。八久雲め、小賢しいマネをしてくれる。遅くなって申し訳なかった」
頭を下げた柊に、ひな乃は飛び上がって自らも頭を下げた。
「どうかお止めください! 頭を上げてくださいませ。約束を破って勝手に出て行ったのは私です。私が悪いのです。どうか罰してくださいまし」
ひな乃は床に座り直し、頭を地面につけた。
どんな理由があっても柊の言いつけを破ったのだ。
罰を受けるのは当然。
ひな乃はそう考えていた。
けれど柊はひな乃に罰を与えることはしなかった。
「八久雲がお前を探しているのには気づいていた。それなのに対応できなかったのは俺だ。ヤツガミがあんなにお前に執着しているとは……。ほら、頭を上げろ」
「ですが……」
「罰することなど、あるはずがないだろう」
優しい声色に思わずひな乃が頭を上げると、柊は微笑みながらひな乃の頭を優しくなでた。
「少し、話をしよう。お前にかけられた呪いについて」
何故こんなことに……。
目の前に座る柊。
テーブルに置かれた甘味。
ひな乃はそれらを交互に見た。
「話をしよう」
そう言われたはずだったのに……。
綺麗で美味しそうな甘味を出され、ひな乃は混乱していた。
これではいつもの試食会と変わらない。
「あ、あの……これは?」
ひな乃がおずおずと尋ねると、柊はゆったりとお茶を飲みながら「食べてくれ」とひな乃にも食べるように促した。
「話をするには甘味が必要だろう? 今日のは自信作だ。ここの看板メニューになるものを考えている」
「看板メニュー? 確かに今までの甘味とは少し雰囲気が違いますね」
甘味は四角い寒天のようだが、深い青色で着色されている。まるで夜のような色合いだ。
中にはキラキラしたものが入っており、夜空のように見える。
「まるで星が輝いているみたい……。お店にぴったりだと思います! プルプルでとても美味しそうです。見る角度で景色が変わるので、星が瞬いているみたいですよ!」
いつものように感想を言ってしまう。
そしていつものように、一口食べては感想を言ってしまうのだった。
「今日の甘味もすごく美味しかったです! ……あっ」
話があるのだったと思い出したのは、甘味をペロリと食べ終えた後だった。
「呪いについて話すんだったな」
柊の言葉にひな乃の背筋が伸びる。
「八久雲の屋敷に送られてきた毒を飲んだだろう? あれはただの毒ではない。俺の心臓の一部なんだ」
「し、心臓? 柊様の?」
「あぁ、口にすれば猛毒となるが……送った奴もまさか飲み込んだとは思うまいよ」
甘味を食べてる最中に聞かなくて良かった。
思わぬ話にむせ返ってしまうところだった。
あの銀色のキラキラと輝いていたのが……?
柊様のお身体の一部なの……?
申し訳なさがこみ上げてくる。
「あれは代々月守家が守ってきたものだ。本来あれは、俺と月守家の契約の証だったんだ」
「月守家……? 私の家?」
それはひな乃にとって初めて聞く話ばかりたった。
月守家――。
それはひな乃の父の家系である。
「月守家は俺を崇める能力者の一族だ」
「え?」
「お前は知らなかっただろう。幼くして八久雲に拾われ、月守家との関係を絶っていたからな。八久雲は他の能力者の家系と昔から不仲なんだ。情報など渡らないだろう」
母だけでなく、父も能力者の家系だったとは思わなかった。
初めて聞く父方の話に、ひな乃は耳を傾けた。
柊の話によると、月守家は八久雲家よりも格上のようだった。
だから余計に目の敵にされていたのかもしれない。
「月守家は何代も当主を変えながら、長い間俺を崇めていた」
月守家の歴代当主は、月神と契約を交わしてきた。
月神は月守家に加護を、月守家は月神に信仰を――。
その証として互いの心臓の一部を交換する。
それが契約だった。
ところが新しく当主の座についた人物は、月神との契約を拒否したのだそう。
ならば心臓を返してもらうと柊が伝えると、彼らはそれを拒絶した。
「契約しなければ俺は月守家を加護出来ない。ところが長い歴史の中で、俺の心臓さえあれば加護が受けられると勘違いしたようだ。そして、月守家は加護を失った」
「そんなことが……」
ひな乃は呆然と呟いた。
自分の親族の話とは思えぬほど、遠い話だった。
「お前、月神が何の神格か知っているか?」
不意に質問されたひな乃。
「えっと、夜を司ると聞いています」
質問の意図が分からぬまま正直に答えると、柊が微笑んだ。
「そうだ。だがもう一つある。俺は人の世の『ツキ』、つまり運を司るんだ」
「それじゃあ月守家は……」
ひな乃が恐る恐る呟くと、柊が神妙な眼差しで頷いた。
月守家の人間は原因不明の病におかされ、子も成せなくなったそうだ。
一族は散り散りになり、ほとんどの者が命を落としたらしい。
生き残った者も姿をくらまし、どうなっているのか分からない。
「俺の加護で月守家はあらゆる災いから守られていた。契約が切れた時、その分の不幸が一気に訪れたのだろう」
柊はなんとも言えない表情をしていた。
悲しみのような、諦めのような、それでいて安堵しているような、不思議な表情だった。
「なぜ月守家当主は契約を拒否したのでしょうか」
契約上、月守家に損はないはず。
破棄する理由が見つからなかった。
だが柊には心当たりがあるようだ。
「最近はあやかしにも人にも、怪しい動きをしている者たちがいる。神々の勢力図をひっくり返したい者たちだ。月守家もそちらに傾いたのだろう」
神々の勢力図。
その言葉に恐れ慄いてしまう。
そんなものに、深く立ち入るべきではない。
月守家は何故そんな危険なことを……。
ひな乃には月守家が愚かに思えた。
それと同時に不安もよぎる。
「柊様は、何か危険な目に遭われたりしなかったのですか? 人やあやかしから追われたりしませんでしたか?」
柊は月神様なのだ。
他のあやかしから狙われる立場のはず。
ひな乃の心配を晴らすように、柊は笑って首を振った。
「小物に狙われたところで、何ともない。だか数が多いと相手にするのが面倒だ。だから人の姿となり、人の世をふらふらと気ままに彷徨っていた。そのうち人の食べ物に興味が湧いて、甘味処を始めたんだ」
人の世で過ごし、人の食べ物が気に入った柊。
自分でも作ってみようと料理を始めると、思いのほか面白かったらしい。
特に甘味が気に入った柊は、店を構えたのだ。
甘味処 月。
それは柊が思う存分に甘味を試すための場所だった。
「ここは結界が張ってあるから小物は入り込めない。八久雲のように人として入ってこられると面倒だがな」
柊はここで悠々と暮らしていたようだ。
それなのに――。
「申し訳ありません……。私……」
私が柊様の平穏を奪ってしまいました。
後半は言葉にならなかった。
涙が頬を伝ってポタポタとテーブルに落ちる。
すると柊は「違う」と強く言葉を吐いた。
柊がひな乃に手を伸ばす。
テーブルに乗っているひな乃の手に、そっと触れた。
「謝るのはこちらだ。お前に迷惑をかけた。まさか月守家の人間が、お前に心臓を送るとは思わなかったんだ。お前は巻き込まれただけだ」
申し訳なさそうに微笑む柊を見て、ひな乃の胸がキュッと痛んだ。
「私に柊様の心臓を送ってきたのは誰なのですか?」
「月守家も一枚岩ではない。誰かが当主から心臓を奪い、お前に送ったのだろう。月守家の血が絶える前に。なにせお前は、月守家最後の世代なのだからな」
「……」
送り主が生きているかも分からない今、確かめる術はない。
その人は、ひな乃に月守家を継がせたかったのだろうか。
月守家から縁を切られ、不幸から逃れたひな乃に――。
そこまでして家の血を守りたいものなの?
それは個人の意思よりも優先されるものなの?
ペンダントの送り主の気持ちが、ひな乃には分からなかった。
ひな乃には家族と呼べる人達がいない。
そのせいだろうか、血にこだわる人々の気持ちは理解しがたいものだった。
「……すまない」
考え込んでいたひな乃に柊の言葉が降り注いだ。
「なぜ謝るのですか? 柊様のせいではありません。柊様は私を助けてばかりですのに」
ひな乃の言葉に柊は黙り込む。
そして何かを決意したように口を開いた。
「実はもう一つ、言わなければならない事がある。月守家の初代当主に言われた言葉だ。『月神の心臓は人にとって猛毒。なれど定められた人間は、それを飲んでも息を吹き返し運命を伴にするだろう』と」
月神の心臓を飲んで息を吹き返す。
それはまさにひな乃のことだった。
ひな乃は目を丸くして柊を見つめる。
「戯れのような言葉だった。信じてはいなかった。だがお前が心臓を飲んだ瞬間、お前に呼ばれた気がしたんだ。そして八久雲の屋敷でお前を見た時、確信したんだ。あの言葉は真実だったと……」
柊の瞳には苦悩が見える。
「お前は俺のせいで人ではなくなった。お前の人生をねじ曲げてしまった。今のお前はあやかしのような存在だ。その上、俺に縛られている状態だ。俺が死ぬまでお前は死ねない……どんなに望もうと」
あぁ――。
ひな乃はようやく理解した。
これが柊の語る「呪い」の正体だったのだ。
今度はひな乃が柊の手に自分の手を重ねる。
「私が柊様の心臓を飲んでしまったせいで、ご迷惑をおかけしてしまいましたね。申し訳ありません」
ひな乃が微笑むと、柊は目を丸くした。
「俺を恨まないのか?」
ゆっくりと首振るひな乃。
「私は今、幸せなのです。甘味処で甘いものを食べられて幸せです。やわらかいお布団の中で眠ることが出来て幸せです。それに、柊様がそばにいてくださいます。これを幸せと呼ばすして、何と呼ぶのでしょう」
柊はひな乃の言葉にふっと力を抜いた。
「俺に呪われたのに、呑気な奴だ」
「ふふっ、そうかもしれませんね。ですが私は一度死んだ身。ならば何を恐れることがあるのでしょうか。どうぞ柊様のお好きになさってください。それが私の望みです」
柊とともに最期まで過ごせる。
ひな乃にとってそれは、もう一人ではないということ。
孤独ではないということだった。
「これからお前に迷惑をかけるかもしれない」
「構いません。その代わり、そばにおいてくださいませ」
二人は見つめ合い、笑い合った。
ひな乃が甘味処に戻って以降、柊は常にひな乃とともにいた。
ひな乃と同じ部屋で眠り、ひな乃と同じ時間に起きる。
料理も少しずつ教えてくれるようになった。
昼の間に出かけることもなくなったようだ。
「人の世で暮らすためにいくつか仕事をしていたが、必要がなくなった。後任に任せておけば、生活に困らないだけの金は手に入る」
ということらしい。
甘味処も辞めてしまうのかと思ったが、それは違うらしい。
「甘味は奥が深い。極めるまで辞めるつもりはない」
神格なのに甘味好きとは可愛らしい。
ひな乃は柊の意外な一面が好きだった。
すっかり平穏を取り戻したある夜――。
「え? もうお店を閉めるのですか?」
今日はもう終わりにしようと言われたひな乃は、時計を確認して首を傾げた。
「あぁ。今日はもう客が来ないだろうし……嫌な予感がする」
柊が窓の方を振り返る。
そこにはたくさんの星が浮かぶ夜空が見える。
けれど……。
「あら? 何かしら……雨雲?」
よく見ると、だんだんと分厚い雲が夜空に広がっていく。
まるで星を飲み込んでいくようだ。
さっきまで雲なんてなかったはず。
それに新聞の天気予報には晴天だと書かれていた。
ひな乃が夜空を確認していると、あっという間に三日月までも雲によって覆われてしまった。
夜空から光が消える。
「来る」
「え?」
柊の気配が鋭くなった。
その時――。
「こんばんはー。あんた達を制裁するために、わざわざ会いに来てあげたわよ!」
茜の声とともに甘味処の扉が乱暴に開かれた。
そこにいたのは茜と八久雲家当主、そして黒く大きな影だった。
ひな乃はその影を見た瞬間、全身が粟立つ。
ヤツガミ様だ。
神像よりもおぞましい姿……。
ひな乃はそのまま動けなくなってしまった。
こっちを見てる……!
恐ろしい影には目がなかったが、ヤツガミがこちらを見ているのが分かった。
影はシュウシュウと音をたて、ぐにゃぐにゃと形を変える。
ひな乃を見つけて喜んでいるようにも見える。
「嫌……」
ひな乃からか細い声が漏れた。
すると柊がパッとひな乃を守るように前に出る。
「ここは甘味を食べる場所。客人でないならお引き取りを」
重々しい柊の声には怒りが滲んでいた。
柊の怒りに茜は一瞬だけたじろいだが、すぐに甲高い声で笑い出した。
まるで柊の怒りを切り裂くように。
「あはははっ! 月神ってしょうもない冗談しか言わないのね。そんなこと言われて帰る奴がいる? 私たちはあんた達に罰を与えに来たの! ヤツガミ様と一緒にね!」
茜の言葉とともに黒い影がモゾモゾとひな乃達の方へ近づいてくる。
後ろで当主が何かを唱えると、黒い影が形を変え始めた。
「来られませ 悪しきを喰らう者 真なる姿となりて 夜を司る者を滅ぼせ!」
当主の声に応えるように黒い影から足が何本も生えてくる。
ギョロギョロと八つの目も飛び出してきた。
蜘蛛だ――。
ひな乃は初めてヤツガミの真の姿を見た。
八本の足と八つの目が不気味に蠢いている。
巨大なそれは、柊を見ると威嚇するように目を赤く光らせた。
「あぁヤツガミ様、我らに仇なす者達に罰をお与えください! 月神など滅ぼしてください!」
当主が叫ぶと、ヤツガミが柊めがけて鋭く尖った足を伸ばした。
「柊様!」
危ない、と思った時にはひな乃の身体は勝手に動いていた。
柊の前に立ち塞がると、彼を守るようにして両手を広げた。
「ひな乃!」
グサッ――。
柊の声と同時にヤツガミの足がひな乃の心臓を貫いた。
ひな乃から銀色の血がダラダラと流れ出る。
柊様の心臓と同じ色。
あぁ、私は本当に人ではなくなったのね。
ひな乃は痛みの中、ぼんやりと自分の血を見つめた。
「あんた……なんなの? 人間じゃない! 化け物!!」
茜が青ざめた顔でひな乃を指さす。
ヤツガミはキョロキョロとしている。まるで誰かを探しているようだ。
銀色の血によってひな乃の匂いが変わったせいで、見失ってしまったのだろう。
「ヤツガミ様! ひな乃はそれです! ヤツガミ様!」
後ろから八久雲家当主が叫ぶが、ヤツガミには届かなかった。
「本当に死にませんね。柊様の心臓のおかげです」
振り返って柊に微笑みかけるひな乃。
柊は怖い顔をしていた。
「何故前に出た? あの程度で俺が死ぬことはない!」
「でも、あれが刺さったら痛いでしょう? 私、痛いのは慣れていますから。……少しは柊様をお守り出来ましたでしょうか?」
「……あぁ。感謝している」
柊の声は少し掠れていた。
ヤツガミの毒が回ってきたのか、ひな乃の意識は朦朧とし始めた。
「良かった……。死なないのに、毒は……効くの、です、ね……」
安堵したひな乃は、そのまま気を失った。
柊はひな乃を優しく抱き上げると、ヤツガミを睨みつける。
「ひな乃は俺の一部だ。彼女を傷つけることは俺を傷つけることと同義。許しはしない!」
柊が怒りをあらわにすると、瞳が金色に輝き出した。
その強い光が甘味処を包み込む。
ヤツガミはその光を浴びると、ジュワジュワと音を立てて溶け始めた。
「ヤツガミ様!」
「あぁ……! ヤツガミ様があっ!」
茜と当主が悲鳴を上げる。
ヤツガミだった影は踊るようにその身をくねらせていた。
柊に攻撃しようと手を伸ばすが、その手も溶けて消えてしまう。
「自らを神だと偽る行為。あやかしの理にも反する。お前は消える運命だ」
柊の言葉にヤツガミが断末魔の叫びを上げる。
金属音のような、赤子のような声とともに、ヤツガミは跡形もなく消え去った。
「そんな……」
「ヤツガミ様?」
茜と当主はその場に立ち尽くしている。
柊はゆっくりと二人を見た。
「お前たちの崇める神は滅んだ。もともと奴は神格ではない。単なる『カミモドキ』だ。長年そんなことも気づかずに崇めていたとは、情けない一族だな」
「嘘よ! ヤツガミ様は、私達の神様だったわ! 消えるはず……ない」
「我が代で八久雲の一族が滅びるなど……ありえない」
膝から崩れ落ちる茜。
当主もぶるぶると青い顔で震えていた。
自分たちが一族で崇めていたあやかしが神格ではなかった。
それは能力者の家系としての終わりを意味している。
ヤツガミが生きていたとしても、もう八久雲家はお終いなのだ。
「さて、もうお前たちを守るものはない。後悔はあの世でするんだな」
柊が冷たく言い放つと同時に、二人は気を失ったかのように倒れこんだ。
そしてヤツガミと同じように溶けて消えていった。