朝日が昇る――。
月守(つきもり)ひな乃は庭掃除をしながら明るくなっていく空を眺めた。
ふぅっと吐いた息が白くなって消えていく。
――いけない。ぼんやりしていたら終わらないわ。
ひな乃はかじかむ手で箒を握り直した。
ひな乃の一日は、夜明け前の庭掃除から始まる。
広い屋敷の庭を一人で掃除するのは重労働だが、日が昇る前に終わらせなければならない。
『いいか、絶対に外の人に姿を見られるんじゃないぞ』
屋敷の主である八久雲(やくも)家当主にきつく言われたのを思い出す。
ひな乃はいそいそと掃除道具を持って、物置小屋へと向かった。
この国では古来よりあやかしと人が共存している。
人ならざるもの達の力は人々に大小の影響を与えており、人々はそれを利用して生きていた。
しかし人にとって良いあやかしもいれば、悪いあやかしもいる。
人々を呪ったり、この世から隠したり、心を乗っ取って悪さをしたり――。
人々は悪意あるあやかしから身を守るために、『神格』と呼ばれるあやかしを信仰していた。
神格は強い力を持つが、滅多に人前に姿を現さない。
そのため神格と会話が出来る能力者たちが神官となり、人々と神格を繋げてきたのだ。
悪しきあやかしが増えている近年、能力者の家系は世の中への影響力を強めていた。
ひな乃の仕える八久雲家もその一つ。
八久雲家は、財運の神格に仕える由緒正しき家系だ。
ヤツガミ様と呼ばれる神格の加護により、莫大な富を築いたとされている。
ひな乃にも八久雲の血が流れていたが、彼女の立場は「使用人以下」だった。
掃除を終えたひな乃は、昨日の残り物のかけらを食べる。
そしてすぐに屋敷内の掃除へと向かうのだった。
「いつまで同じ所を掃除しているつもり? グズグズしてんじゃないわよ! お客様が来ちゃうじゃない」
広いお屋敷の階段に鋭い声が響き渡る。
階段の踊り場で雑巾を握りしめて這いつくばっていたひな乃は、そのまま頭を下げた。
「申し訳ありません、茜様。あと少しで終わります」
「こんな簡単な階段掃除も出来ないなんて、本当に愚図ね。あなたにも八久雲の血が流れているなんて、最悪!」
八久雲茜(やくもあかね)――八久雲家当主の娘であり、ひな乃と同い年の能力者だ。
いつもひな乃の姿を見ると怒鳴り散らすから、「茜様の声を聞けばひな乃の居場所が分かる」と他の使用人たちが噂していた。
「もうっ! 掃除はいいから出ていってちょうだい。大切なお客様と鉢合わせでもしたら、八久雲の恥だわ」
「はい。失礼します」
ひな乃は一礼をすると、立ち上がろうとした。
ところが――。
「痛っ」
手に痛みが走った。
ひな乃が下を見ると、茜に手を踏まれている。
おずおずと茜の顔色を窺うと、茜は顔をしかめた。
「なによその目は。反抗的ね。気に入らないわ!」
「申し訳……あっ!」
ドンッ――。
鈍い音とともに、ひな乃は下に突き落とされた。
階段にあちこちぶつけながら下へと転がる。
幸いなことに、数段落ちたところで床に頭がぶつかった。
低い位置で良かった。
もう少し高かったら……。
勝手に溢れてくる涙で視界が歪む。
よろよろとひな乃が上を向くと、その瞬間、頭上に冷たい水が降ってきた。
「きゃあっ!」
「まあ、汚い。あはははは!」
茜の笑い声が響く。
どうやらバケツの水をかけられたようだった。
ひな乃が寒さに身を震わせると、「ドブネズミみたいね」という声が降ってくる。
「汚いわねぇ。あんたのせいで屋敷が汚れちゃったじゃない! もう別の人に掃除させるから、さっさと物置小屋に帰りなさい!」
「し、失礼、します」
ひな乃は言い返すことなく、その場を立ち去ることしか出来なかった。
ひな乃は八久雲家の人間には逆らえない。
天涯孤独の身なのに、置いてもらえるだけでもありがたい。
彼らの鬱憤はもっともで、受け入れるのも仕事の一つなのだ、と心を殺す術を身に着けていた。
こうしないと生きられない。
ひな乃はそれをよく分かっていた。
月守ひな乃は、母親が八久雲の一族だった。
しかし父と駆け落ち同然で結婚をし、八久雲と縁を切ったのだそう。
だがひな乃が生まれて間もなく、両親ともに流行病で亡くなってしまった。
父方の月守家はひな乃を引き取ることを拒絶したらしく、仕方なく八久雲家に拾われたのだ。
『拾われた恩を感じるのなら、死ぬまで八久雲に尽くせ』
物心つく頃からそう言われて育ったひな乃。
せめて能力者としての力が発現すれば、少しは扱いが変わったのかもしれない。
しかしひな乃には能力が発現しなかった。
『両親にも能力にも見捨てられた娘』
などと呼ばれることも少なくない。
最初は孤独や絶望、寂しさを覚えていたが、いつしかそんな気持ちは忘れ去ってしまった。
「あんなところに裏切り者がいるわ。また茜様とやり合ったみたい」
「びしょ濡れじゃない。みっともないわねぇ。あれでも一応八久雲の一族なんだから」
「いくら半分は八久雲の血っていってもね……裏切り者の血だもの」
この屋敷の人々は皆、ひな乃の出自を知っている。
だからひな乃やその両親は、堂々と裏切り者と呼ばれるのだった。
「茜様が苛立つのも無理ないわ」
「本当ね」
「あんな子、物置小屋だってもったいないのに……当主様は優しすぎよ!」
使用人たちの声がひな乃の背中に突き刺さる。
ひな乃は何も言わずに物置小屋へと入っていった。
裏庭のじめじめした場所に、ひっそりと建っている古めかしい物置小屋――それがひな乃に与えられた居場所だった。
――寒い。
着替えなければ凍えてしまうほどの寒さだ。
ひな乃は、ぶるぶると震える身体をボロボロの手ぬぐいで拭き、なんとか服を着替える。
それでも透けるほど薄く古ぼけたの着物は、ひな乃の身体から熱を奪っていく。
濡れた髪の毛も凍ってしまいそうだった。
そばにあった薄汚れた布切れで髪を拭く。
そうしてなんとか身体の水分をふき取ると、藁の上で身を丸めた。
小さく丸まって、なんとか寒さを凌ぐ
この物置小屋の端が、ひな乃の唯一の居場所だった。
物置小屋にはよく分からない荷物がたくさん置いてあり、ひな乃が使える場所は僅かだ。
荷物を動かして隙間風が通り抜けていくのを防ぐのが、精一杯の防寒方法だった。
幸いなことに、物置小屋の荷物は誰も管理していない。
ひな乃は時間を見つけては、中から色々な物を探し出して役立てていた。
藁だけではこの寒さを凌げない。
夜になったら厚手の布を探さないといけないわ。
お客様が頻繁に出入りするからという理由で、日中は外に出ることも物音を立てることも許されない。
夜明け前の庭掃除と朝の屋敷掃除が終わると、この暗く湿った物置小屋で眠って過ごすのがひな乃の日課だった。
けれど夜になれば少しは自由に動くことが出来る。
月明かりを頼りに、服に空いた穴を繕ったり、こっそりと残り物を食べることが出来る。
物置小屋の荷物や捨てられたゴミの中から着物や布団の代わりになるものを探すことが出来る。
夜は唯一の自由時間だった。
だからひな乃は夜が好きだった。
――早く夜にならないかしら。今日は食べ物を手に入れられなかったし、夜になんとかしなくちゃ……。
疲れたひな乃はいつの間にか眠ってしまったようだ。
「おい、起きろ。時間だ」
小屋の外から呼ぶ声に、ひな乃はぶるりと身を震わせた。
今日は夜だというのに月明かりがない。
あぁ、今日は新月なんだ。
微かな失望感を噛みしめる間もなく、ひな乃は物置小屋の外に引っ張り出される。
「当主様がお待ちだ」
ひな乃のもう一つの仕事――毒巫女の時間がやってきたのだ。
ひな乃は血のように赤い着物を着せられ、化粧まで施されていた。
土色だった顔色は陶器のように白く塗られ、ボサボサだった髪も艷やかにまとめ上げられている。
痩せこけた頬は隠しようがなかったが、遠目から見れば美しい巫女の姿となっていた。
今日はひな乃が月に一度、湯浴みが出来る日。
だか苦痛に耐えねばならない日でもあった。
「毒巫女様、本殿で当主とヤツガミ様がお待ちです」
使用人が恭しく頭を下げる。
ひな乃は薄暗く細い廊下を渡り、本殿へと歩みを進めた。
これから毒巫女による神事が始まるのだ。
ひな乃は本殿の中央に座り、目の前に置かれたガラス瓶を見つめる。
「ヤツガミ様に礼を」
少し離れたところから発せられた当主の声に従い、目の前の神像に礼をする。
ヤツガミ様の神像は、手が何本もある不思議な像だ。
ギョロリとした八つの目がこちらを見ている気がする。
なんとも居心地の悪い場所だ。
何度見ても恐ろしい。
これが本当に神様なのだろうか。
神は神でも邪神ではないだろうか。
ひな乃は心の奥底にその疑問をずっと抱えていた。
けれどそれを表に出すことは許されない。
ここではヤツガミ様が絶対神なのだから。
ひな乃は恐怖心を紛らわすため、神像を見ないように俯いていた。
今から行われる神事は、神像を見るよりはるかに恐ろしいのだけれど――。
当主がヤツガミ様に祝詞を述べている。
「来られませ 来られませ 毒を喰らい財を吐く者 我らの声に応じ、黄金を降らせたまえ!」
あぁ、もうすぐ時間だ。
ひな乃の心音がドクドクと音を立てている。
逃げられないと分かっていても、この瞬間が大嫌いだった。
「ヤツガミ様! 今宵も良い毒をお持ちしました。我ら八久雲家にご加護を! ほら、飲め」
「はい……」
ひな乃はガラス瓶に入った毒を一気に飲み干した。
「うぅっ……!」
吐き出してしまいそうな苦みを飲み込むと、程なくして全身が痺れて動かなくなる。
座っていられずに倒れこむと、当主は嬉しそうに神像に語りかけた。
「毒巫女をご覧くださいヤツガミ様。今宵の毒は、しびれ毒です。今日この素晴らしい新月の夜に、新たなる毒を捧げましょう。どうか我らに繁栄を!」
薄れゆく意識の中で、ひな乃の目の前にキラキラと輝く物がポタポタ落ちてくるのが見えた。
砂金だ。
どうやら今日の神事も成功らしい。
ヤツガミ様は満足したのだろう。
あぁ、もう目を閉じることも出来ない。
涙が溢れていくのを感じる。
――早く終わって。
薄れゆく意識の中で、ひな乃はぼんやりと月を思い浮かべた。
ひな乃は、新月の夜が大嫌いだった。
ヤツガミ様は毒を好む。
だからヤツガミ様の活力がみなぎる新月の夜、こうして毒を捧げるのだ。
その際に『毒巫女』と呼ばれる巫女が、ヤツガミ様の前で毒を飲むのが神事となっている。
この供物が本物なのだと示すためらしい。
毒巫女が飲まされる毒は多種多様だ。
今日のように痺れ毒の時もあれば、目が見えなくなる毒や吐き気が続く毒もあった。
昔は薄めた毒を飲んでいたらしい。
だがひな乃が毒巫女を任されてから、薄まった毒など飲んだことがない。
「あれ、この毒は薄めないのか?」
「いいんだよ。新しい毒巫女は、ほら……」
「そうだったな」
と使用人達が話しているのを聞いたことがある。
その話の通り、いつも必ず気を失うような濃い毒ばかりだった。
本来ならば神聖な毒巫女は、当主の娘である茜の役目だ。
だが愛娘を苦しませたくないという当主の思いから、ひな乃があてがわれたらしい。
ひな乃が毒巫女であることは、当主と一部の人間のみしか知らない。
茜は毒巫女の存在すら知らないのかもしれない。
最初からひな乃は、この毒巫女の役目を果たすために拾われたのだ。
当主に毒巫女の役目を担うよう迫られたのは、ひな乃が十歳になった頃だった。
『誰が裏切り者の娘を拾いたがる? お前は喜んでこの役目を果たすだろう? この八久雲家に多大な恩があるんだからな!』
その言葉にひな乃はただ頷くことしか出来なかった。
それからもう八年。
毎月やってくる新月の日は、地獄の日だった。
茜や他の使用人にされる意地悪など、この苦しみに比べたら些細なことだった。
気がつくと、ひな乃は物置小屋にいた。
あぁ、終わったのだ。
ひな乃は長いため息をつく。
ご丁寧に赤い着物ははぎ取られ、いつものボロボロの着物を着せられていた。
そろそろと身体を動かしてみると、まだ少し痺れが残っている。
もう少し時間がたたないと痺れはとれないだろう。
だか休んでいる暇はない。
小屋の窓の外を見ると、空が明るくなっている。
もう庭掃除の時間をとうに過ぎている。
お屋敷内の掃除に向かわなければならない。
ひな乃はうまく動かない身体を引きずって、よろよろと屋敷の本邸へと向かう。
どんな毒を飲まされても、日々の仕事が減らされることはないのだから。
こうして、またひな乃の日常が始まるのだった――。