茜子を守るように飛び出してきたのは、大きな一匹の獣だった。
 犬、いや大口真神(おおかみ)か。四肢を張った白い獣は、牙を剥いて咆哮し烏天狗たちを威嚇する。茜子の上から突き飛ばされた一人が憎々しげに唸った。
「くそ、(あずま)の狗が……!」
 その声を皮切りに三人は抜刀し、獣に躍りかかる。獣もまた跳躍し、或いは首や胴を振るって切っ先を躱し、鋭い爪や牙で彼らを切り裂かんと挑む。
 獣に庇われた茜子は縫い付けられたように動けなかった。緩んだ帯を直すことさえできず、細れ波打ち寄する浜を蹂躙する月下の乱闘を凝視するしかない。
 多勢に無勢。しかし獣は孤軍奮闘し、刀傷を負いながらも次第に烏天狗たちを押していった。一人は首の骨ごと喉笛に喰らいついて仕留め、一人は顔の皮を剥いで薙ぎ飛ばす。
 とどめに顎を噛み砕く獣の背後で、残る一人が大きく刀を振りかぶった。
「危ない……!」
 ようやく声を絞り出せた茜子の叫びを、突如巻き起こった旋風が掻き消した。獣に馬乗りになった烏天狗は驚懼と共に振り返る。
「くっ……!」
「死ね」
 荒い息で短く吐き捨て、疾風と共に降り立った千颯は、左手の太刀を烏天狗の首めがけて閃かせた。
 風が止んだ。ごとんと鳥形の首が落ち、一拍置いて人形(じんけい)の体が倒れる。千颯は太刀を浜に投げ捨てると同時に右目に滾る殺気を消し、茜子にまっすぐ駆けつけた。
「あかね姫! 無事か!?」
「ちはや様……っ」
 烏帽子は失われ髻も解け、ところどころに裂傷を負っていたが、千颯は迷いなく膝をつき、左腕で茜子を強く抱き締める。茜子もまた両目から涙をこぼしながら両腕で千颯に縋りついた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……! わたしが海を見たいなんて言ったから……っ」
 邸の中と、山の上と。二度も千颯の忠告を聞かなかったから、こんなことになってしまった。
「俺こそすまない。命を懸けて守ると言ったのに……」
 悔恨の声に、茜子は千颯の胸に顔をうずめて首を振る。悪いのは調子に乗り過ぎた茜子だ、千颯が謝る必要はない。
 すべては夢のはずなのに、烏天狗たちに顔を暴かれ、その上肌まで暴かれそうになって、死にたくなるほどの恐怖と嫌悪を感じた。吐き気を催す記憶に上塗りするように、茜子は千颯の腕にいっそう深く身を委ねる。
 千颯は茜子を安心させるように、或いは自身も茜子の無事を確かめるように、左手で茜子の髪を梳き、こめかみに頬を寄せる。
「立てるか」
「うん……」
 しばし互いに身を寄せ合っていたが、千颯に促され、茜子は袴の帯を締めて立ち上がった。
「車まで歩けるか」
 山の上で降りたはずの網代車が、月光降る浜に忽然と停まっていた。やはり牛は繋がれておらず、茜子を守ってくれた白い獣も気づかないうちに姿を消している。
「ちはや様、腕……!」
 妙に右半身を庇うような千颯の挙動に勘づいた茜子は、力なく垂れたその右袖から滴る赤い雫に言葉を失う。
「大した傷ではない。それより姫は」
「わたしなら大丈夫です! ちはや様こそ、止血だけでも」
 深手を負ってなお茜子ばかりを気遣う千颯を声を張り上げて遮り、二人連れ添って鬼火灯る屋形へと入った。片肌脱ぎになった千颯の右腕に深く走る刀傷から、血がたらたらと流れている。
 茜子は傷口を懐紙で押さえ、懸帯できつく縛る。無我夢中であったが、自分の左目も白布で覆い直したところで赤面した。
 一見細身の千颯だが、剥き出しになった腕や胸はしなやかに鍛えられ、すらりとした文官よりもきりりとした武官のような印象を受けた。だが筋骨隆々と評するほどむくつけくはなく、髪を振り乱してなお飽くまでも優雅だ。
 慌てて顔を逸らしかけて、茜子は千颯の背中にあるものに気づく。
「これは……?」
 過不足なく精悍な背の右半分に、黒い羽を畳んだような絵、もとい刺青が刻まれていた。左にはない。右羽だけだ。
 かつて大陸から渡来した人々や天離る鄙の地には、刺青の風習があったと聞く。けれど本物を見たのは初めてだった。
 茜子の視線を察し、千颯は首を巡らせて答える。
「……ああ。俺たちは比翼、天狗だからな。翼があるのは当然だろう?」
 明朗に言い、千颯はにやりと笑うと、身を翻し抱擁するように茜子の右袖に己の左腕を差し入れた。突然のことに、茜子は甲高い悲鳴を上げる。
「きゃあっ、やっ、何っ」
「姫にもある。ほら」
「あ……っ」
 袖口から滑り込んだ手が、華奢な背中に回って左側をつと撫でる。小さく声が跳ねた。
 ばけものの左目が発現してからは、身体を拭き清めることも自分で行っていた。だから他人に背中を見られることもなく、自分で自分の背中は見られない。
 衣の下で肌と肌が触れている。その気恥ずかしさに、茜子は声を震わせた。
「……あのっ、ちはや様」
 顔が真横にあるから、あえかな吐息は千颯の耳朶にかかる。
「……っ」
「!?」
 千颯が息を詰める気配がして、かと思ったら、茜子は床に引き倒されていた。辛うじて頭を打つ事態は避けられたが、そういう問題ではない。
「姫……っ」
 覆いかぶさった千颯の熱を帯びた声が茜子の耳を掠め、鼻先で器用に左目の白布を払い除けようとしてくる。
「やぁ……っ」
 左目の疼きに茜子が切ない声を漏らした、次の瞬間。
「――――ひとの背中で、何をするつもりだ、てめえらは!」
「!」
「きゃあぁっ」
 不意に屋形が消失し、二人は重なったまま夜の只中に放り出された。ただし直で砂浜に落ちたわけではなく、毛皮らしきものの上を滑って転がる。千颯は茜子ごと身を起こすと、顔をしかめて出し抜けの声の主に金色の目を向けた。
「無粋な奴だな、白縫(しらぬい)
「利き腕斬られたってのに、随分と余裕じゃねえか」
 千颯の声に応じたのは、先程茜子を助けてくれた白い獣だった。尖った耳がピンと立ち、揺れる尾は豊かな毛に覆われている。
「しらぬい……?」
「初めましてだな、お()い様」
 目許を和ませた獣は挨拶するように鼻面を寄せてきた。渋々と茜子の袖から腕を引き抜いた千颯は雑に紹介する。
「これは白縫。東国生まれの白狐だ」
「相棒をこれとはなんだ、これとは」
 ぞんざいな扱いに、白狐の白縫は不満げに鼻を鳴らした。間違いなく獣なのに、その表情も口調も、お高くとまった京人たちよりよほど感情豊かである。
「俺は比翼だから、番いがいなければ自在には飛べない。だから祖父が、幼狐だった白縫を譲り受けたんだ」
「じゃあちはや様は、しらぬい様に乗って山から京へ通っていたの?」
「三年も律儀な話だろ」
 狐と言えば、人を化かすもの。「ひとの背中で」という台詞といい、あの牛の牽かない網代車は白縫が化けたものだったのか。道理で曇り夜は雨籠りとなるわけだ。
「なら、あの烏天狗たちは……?」
 突如襲来した者たち。彼らは確かに、茜子だけでなく千颯や白縫にも敵意を漲らせていた。
 千颯は、今度は衣の上から、茜の左肩を抱き締める。
「……比翼の俺は、産まれてすぐに次代の頭領に定められた。だけど比翼は飽くまで伝説、前例がない。だから」
「こいつが頭領になることが気に食わない連中も、少なからずいたってことだ」
 千颯が言葉を途切れさせた続きを、白縫の深く染み入る声が引き取った。
「確かに比翼の伝説がなけりゃ、こいつは単なる片目片羽の若造だからな」
「目や羽を損なったり、番い以外と交わったりすれば、比翼は通力を失う。そんな根拠のない噂まで密かに広まっていた」
「さっきのは最後まで千颯と競っていた兄の一派だな。番いを襲って一泡吹かせようと機会を狙っていたらしい」
「兄君は……?」
「首を刎ねた。山の上で」
 苦い口調で千颯は簡潔に言う。山で対峙した二人の片方が彼の兄だったのだろう。利き手ではない腕で烏天狗を一刀両断した手際を茜子は思い出し、まだ血の滲む傷口を沈痛な目で見つめた。
「だからひとまず、邸に隠形と加護の結界を施した。外から攻撃されればすぐに気づける半面、中の様子は窺えないのが難点だが」
 それで千颯は繰り返し、邸の中なら安全、外は危険と言っていたのだ。
「姫に初花が来て番いとして覚醒して、妻問いの傍ら山を鎮めて……あとは姫が俺を受け入れてくれるのを待つだけだったのに」
 番いとしての覚醒と言うのは、もしやこのばけものの左目のことか。今夜は新たな設定が続々と出てくる。
「十年であらかた平定して、さっきの連中が最後の懸念だったんだ。もう滅多なことはないだろうよ」
 白縫はそう言うが、茜子は頷けなかった。間近に浴びた悪意はそれほど恐ろしかった。その不安を痛感しているのだろう、千颯も言い繕いはせず、淡々と切り出す。
「……邸に戻ろう。夜が明ける」
 天伝う月はまだ闇空に冴え冴えと明るい。けれども京の朝は早い。
 心残りを覚えつつ、千颯が右袖に腕を通すのを待って二人は白縫の化けた網代車に乗り込んだ。屋形の中では言葉もなく、ただ離れまいとするようにぴたりと身を寄せ合う。
 八千種第に戻り、千颯は相棒を車寄に残して茜子を東北対まで送った。優しく髪を撫で、金の右目で黒の右目をひたと見つめて淋しげに笑う。
「また次の夜に」
「お待ちしています」
 二人を別つように妻戸が閉じた。明星(あかぼし)を待つ暗い屋内で、茜子は手探りで褥に伏す。様々な出来事が起こり、様々な話を聞いて、夢なのに疲れた。
 旅装も解かず、茜子は夢の中で更なる眠りに落ちて行った。