満月の夜に烏 ~うちひさす京にて、神の妻問いを受くる事

 明けて次の朝。

 夢に酔いすぎたか、欠伸を噛み殺しながら朝餉を食したまではよかったのだが、午前(ひるまえ)に俄かに東対が賑わいに包まれた。その理由が既に骨身に沁みている茜子は、せめてもの反抗に、自分で髪に櫛を入れ、小袖袴に表衣(うわぎ)を着重ねる。

 程なく衣擦れが透廊を通り、乳姉妹を従えた梓子が東北対に現れた。断りもなく御簾の内に踏み込み、身支度とも言えない程度にしか身嗜みを整えられない茜子を挨拶代わりにこき下ろす。ばけものの矜持など、彼女にとっては風の前の塵も同然だ。

「御機嫌よう。相変わらず辛気臭い部屋、季節外れの衣だこと」
「…………」

 茜子は神妙に額づいて姉を出迎えた。その姿を鼻で笑い、梓子は命じる。

「顔をお上げなさい。幸運のお裾分けよ」

 東対が賑わい、梓子が東北対を訪れる理由。それは決まって、大社の若君から文や贈り物が届き、自慢しに来るときであった。父母のように完全に存在しないものとして扱われるのも(こた)えるが、事あるごとに嘲りを受けるのも同じくらい打ちのめされる。

「見てちょうだい」

 濃縹と薄縹を重ねた袖口から差し出されたのは、藤の花房に結びつけられた薄色の料紙。また恋歌を見せつけに来たのか、と茜子はできるだけ無表情を装って文を解き、短く息を呑んだ。

  おもふには しのぶることぞ まけにける まみえて()しき あかねさすきみ

 忍ぶ心が想う心に負け、一目見てしまったら、いっそうあなたが愛おしい――――

 どこかで聞いたような聞かないような歌だが、本歌取りは公に認められた技巧だ。「あかねさす」は「君」だけでなく「紫」にもかかる枕詞だから、紫の花と紙を選んだのだろう。

 それにしても。「君」を詠むために敢えて「あかねさす」を選んでいることといい、まるで千颯と茜子の二夜の逢瀬を詠んでいるかのような歌である。

 穴が空くほどに文面を凝視する茜子から、梓子は破れない程度に手荒に料紙を奪い取った。花房と共に胸に掻き抱き、ほうと艶めいた吐息を漏らす。

「きっと、先日の北祭に若君もいらしていたんだわ。そこで改めてわたくしを垣間見られたのよ」

 一宮の北祭は、春の終わりと夏の始まりを告げる京一の大祭。貴族たちが(こぞ)って見物に集まる華やいだ様子は、絵巻物や歌物語にも描かれている。

 梓子の弾んだ声に、茜子も一瞬にして現実に引き戻された。千颯との逢瀬も恋歌も、そもそも彼の存在自体が夢なのだから、冷静に考えるまでもなく、梓子の言うとおりに決まっている。

(しっかりしなさい。いくら悔しくても、夢幻と現実の区別がつかなくなったら終わりよ)
「もう三月近くも文を交わしているのだから、家人に声をかけてくださってもよろしかったのに。奥ゆかしい方ですこと」

 茜子が唇を噛み締め、必死に己に言い聞かせている様子をどう捉えたものか、梓子は妹を散々いたぶって満足したらしい。

「少しは浮ついた気持ちを味わえたかしら? ではさようなら」

 現実をまざまざと突きつけ、上品な高笑いと共に梓子は東北対を去った。あとに漂うゆかしき空薫の香は初めて聞くものだから、これも若君からの贈り物に違いない。

 ――――本当に、夢の逢瀬が素敵であるほど、現実の自分は惨めだ。

 栲領布(たくひれ)の白布の下、ばけものの左目から、静かに涙がこぼれた。
  さめぬれば わびしきものと しりてなほ うつつはゆめに まさらざりけり――――

 いくら夢に逃げても、現実が虚しいだけ。

 けれど現実は淋しすぎて、夢に縋りたくもなる。

 茜子はいつしか、三日と置かずに訪れる千颯の夢を心待ちにするようになっていた。

「本当は、毎晩でも来たいんだけどな。また乳母に怒られた、御左様はまだ昼の世に暮らしていらっしゃるんですよ、って」

 確かに、彼の夢を見た翌日は興奮冷めやらぬのか、朝寝坊や日中の転寝(うたたね)も珍しくなかった。このときばかりは、女房たちのいない暮らしでよかったと思ったものである。

「それで、あと何夜通えば、姫は俺を夫として受け入れてくれる?」
「せっかちですこと。とある公達は、京一の美姫に九十九夜通い詰めたそうですよ? 結局成就せず、百夜(ももよ)に命を落としたのですけど」
「手厳しいな」
「畏れ多くも、数代前の帝を曽祖父に持つ女王ですもの。婿がね相手とは言え、安売りはいたしません」
「だったら百夜でも千夜(ちよ)でも通うまでだ」
「まあ、女一人口説くのに千夜もかかるの? 待ちくたびれてしまうわ」
「待ちきれないとは、可愛いことを言ってくれる」

 母屋へ招くことは拒みつつ、そう間を置かず対面は蔀越しではなく妻戸の御簾を挟んでのものとなり、更に茜子は時折、端近まで膝をいざったり御簾の下より袙衣の裾を覗かせたりと、焦らすような振る舞いを見せた。こんな強気な行動に出られるのも夢なればこそ。時に躱し時に誘い、諦めていた恋のときめきに、茜子は有頂天になっていた。孤独な幽閉の身でも、この目眩(めくるめ)く夢があるから生きていられる。

 そして、山(よそお)う露霜の秋の夜長。

「ねえ。そろそろ外は寒いでしょう。……入って来てもいいわよ」

 夕暮れに小雨を降らせた雲も散り、(くだ)る弓張の月を眺めながらの会話の切れ間に、茜子は昼の壺庭から迷い込んだ紅葉(もみじば)蜻蛉(かげろう)の扇に載せて御簾の下から差し出す。意表を衝けたのか、千颯の反応は数拍遅れた。

「……いいのか?」
「風邪などひかれては申し訳ないもの。……天狗様もお風邪って召されるのかしら?」

 几帳の陰に下がった茜子は首を傾げたが、千颯は構わず、紅葉を挿頭(かざ)し御簾を揺らして母屋に入ってきた。几帳の裏に回り込もうとするのを、茜子はぴしゃりと押し留める。

「だめよ。それは、まだ駄目」

 茜子の制止に、ぴたりと千颯の動きが止まった。面白そうに問うてくる。

「まだ駄目、とは?」
「御簾の内に入ることは認めたけれど、まだ顔も肌も許す気はありません、ということ。しばらくはこうして、几帳越しにお会いいたしましょう」
「なるほど……」

 短く唸り、千颯は几帳の向こうに座り込む。してやったりと茜子は忍び笑ったが、千颯もまた、不敵な笑みを浮かべた。

「……でも、そろそろかと思ってた」
「え?」
「さすがに京の冬、特に夜の寒さは厳しいから」

 立地の関係か、京の夏は暑く冬は寒い。茜子が招かなくとも、山眠る頃、千颯はそれを理由に、茜子の良心に訴え入室を希ったに違いない。一本取ったつもりが、結局は千颯の算段どおりということである。

「だけどあかね姫は甘いな」
「え? ……っ」

 芸がなく同じ声を発した茜子は、不意に袖の中の指先に触れられて声を詰まらせた。几帳の隙間から千颯が腕を差し入れ、無防備だった茜子の指に己のそれを絡めてきたのだ。

「俺がその気になれば、こんな几帳(もの)、すぐに払いのけてしまえるのに」
「やっ……」

 袖の中で蠢く指に、茜子の首筋がぞくりと粟立つ。だが茜子が本気で怯える様子に、指先はパッと離れた。

「冗談だよ、冗談。姫が俺をからかうから、ちょっとからかい返しただけだ」
「あ…………、っもう、ちはや様!」

 今更腹を立てても遅い。茜子の怒りを笑い流し、千颯は茜子の指を辿った指で、几帳の脇、出衣(いだしぎぬ)の上に流れる黒髪を愛しげに浚う。

「まあいずれ、冗談ではなくなるけど」
「…………っっっ」

 感情の起伏が追いつかない。今夜は茜子の完全敗北を認めざるを得なかった。

 しかし続く千颯の言葉に、その考えすら甘かったと思い知る。

「だって、あかね姫はもう初花を迎えたんだろう? 俺の子を身籠る準備はできてるんじゃないか」
「!」

 一気に顔に血が上った。

 初花とは、その年に初めて咲く花、或いは若く美しい女性の意だが――――初潮の隠語でもある。

 実は、茜子のほうが梓子よりも一足先に初花が来た。だがそれと同時に左目がばけものになったため、裳着も行われず、茜子は未だに裾が短めの袙衣と濃袴を着ているのだ。

(なんだって、名前も知らないのに、そんなことは知ってる設定なのよ!)

 夢に整合性を求めるのも無理な話だが、自分で自分を殴りたい。

 茜子は大きく息を吸い、吐き、努めて平静に、几帳の向こうにいる千颯に語りかける。

「……ちはや様、ちょっとそこに座り直してください。いやもう本当、真剣に」
「?」

 千颯は茜子の意図が掴めない様子ながらも、素直に指示に従った。茜子も改めて端座し、重々しく口を開く。

「ちはや様。本当にわたしがほしいと仰るなら、女心の機微と言うか人間(じんかん)の常識と言うか、もっとこう、婉曲の美徳というものを学んでください。いいですか」
「は?」
「いいですね」
「……はい」

 畳み掛ける茜子の静かな迫力に、千颯は妙に畏まった面持ちで頷いた。

「わかったよ、取り敢えずこの話は棚上げだ。……しかし姫はどうして、こんな古くて殺風景な部屋に住んでるんだ?」

 ぐるりと首を巡らせた千颯は、また早速遠慮のない感想を述べる。いくら夢でも急な矯正は無理かと、茜子は溜め息と共に答えた。

「仕方がないの。寝殿は邸の主人(あるじ)、北対は妻君(めのきみ)、東対は、太子を東宮と言うように後継(あとつぎ)……この邸だと大姫様のご在所なの。ここには西対がないから、必然的にわたしの部屋はこの東北対になるの。姉妹でも、総領姫が優遇されるのは当然のことよ」

 勿論、最大の理由はばけものの左目なのだが、その事情は省略して説明する。千颯は「まあ人の世は血統と同時に長幼も重んじるようだし、姫は遠からず山に嫁入りするしな」などと勝手なことを呟いたあと、朗らかに言った。

「だったら、今度は何か調度品を贈ろうか」
「ありがとう。楽しみだわ」

 虚しさを押し隠して茜子は笑う。夢でいくら素晴らしい品を贈られても、現実の部屋には飾れない。

 一夜明けて格子を上げた室内は、当然変わらないみすぼらしさで、解ってはいるが茜子は落胆した。白い有明の片割れ月さえ、どこか淋しげに見える。紅葉も、朝餉の膳と共に片付けられてしまったようだ。

 千颯との語らいは至福のひとときではあるけれど、つい本音が古歌を借りてぽつりとこぼれる。

「……『(いめ)の逢ひは くるしかりけり (おどろ)きて かきさぐれども 手にもふれねば』」

 どれほど幸せな夢も、ひとたび目覚めてしまえばすべては幻、むしろ苦しみが残るばかり。絡めた指の感触さえ、胸の鼓動と共にありありと残っている気がするのに。

 しかし一月後。

「喜びなさい。この屏風、差し上げるわ」

 早朝(つとめて)、梓子が東対より家人たちに運ばせてきたのは、一隻六扇の屏風。基調はごく淡い朱色と藤色で、桔梗や撫子、女郎花など秋の七草が描かれている。

「昨日当岐大社から贈られたのですけど、わたくしの趣味ではありませんの。だいたい、もう冬になろうというのに秋の七草だなんて」

 よくよく見ると、七草に紛れ、小さく茜の花が描かれている。なるほどこれは、たとえ仲秋の頃であっても梓子のお気に召すものではないだろう。許婚からの贈り物を即座に処分するのも気が引けるが、女房たちに季節外れの調度を下賜するのは女主人の沽券に関わるということで、ばけものの妹への施しという妥協点に落ち着いたらしい。

 このところ、梓子はあまり機嫌がよろしくない。当岐の若君と文の遣り取りを始めて半年以上経つのに、未だ当人の訪いがないからだ。

(わたしのところには足繁く通ってくださる方がいるわよ。……夢でだけど)

 茜子は心の中で張り合ってみたが、虚しさが増しただけだった。

「それでも、ばけもののおまえには過分な品よ。ありがたく受け取りなさい」

 そう言い捨て、礼さえ待たず、梓子と家人たちは戻っていった。有無を言わさず押し付けられた逸品を、茜子はしげしげと眺める。

 茜子は秋の生まれだと聞いている。その季節に詠まれる草花に、こっそり紛れた茜の花。若君の意図は不明だが、確かにこれは、梓子よりも茜子に誂えたような品である。

 そうして思い出されるのは、一月前の夢の言葉。

『だったら、今度は何か調度品を贈ろうか』

(……わたしにも、姉様のように、未来を夢に見る通力が顕れた?)

 だとしても、突然の覚醒の理由が判らない。

 だが二日後、三日月の沈んだ夜に夢を渡ってきた千颯が、設えた屏風を見て嬉しそうに右目を細めていたから、とりあえずよしとしようと茜子は思った。
 それから一年、二年と夢の通い路は続き、千颯も烏帽子姿となったが、二人は未だ清い関係のままだった。

 二年もの間肌を許さない女など、普通の男は見限るだろう。しかしそこは夢、どこまでも茜子に都合のいいようにできているため、千颯の足が遠のくことも、無体を働かれることもなかった。

 千颯は辛抱強く、児戯(ままごと)に等しい逢瀬に付き合ってくれた。詩歌を詠み交わしたり、差し入れてくれた菓子や果物を楽しんだり。元が納戸だから、双六や碁で競ったり箏を爪弾き聴かせたこともあった。そんな他愛ないことで、茜子の心は充分満たされた。

 年が改まり、月日を重ね、そろそろ初夏も見えようかという風薫る夜。いつものように母屋に招こうとする茜子に、千颯は御簾の外から言った。

「たまには庭に出てみないか。満月の下、松にかかる藤が満開だ」
「でも……」

 屈託のない調子の誘いに茜子は逡巡する。築山の庭には、藤だけでなく花細(はなぐわ)し桜やさ()つらう(もみじ)など四季を彩る花木が植えられているが、東北対で暮らし始めてから、茜子は邸の外は勿論、南庭にさえ出たことがない。

「大丈夫だ、邸の中なら問題ない。これから長雨(ながめ)の季節になると、俺はあまり通って来られなくなるから」
「……そうね」

 夢も雨障(あまつつ)みするものなのか、言われてみると、雨や雪の夜に彼の夢を見たことはない。食い下がる千颯に、茜子も吹っ切れたように頷いた。どうせ夢なのだ、見咎められることもないだろう。

「ああでも、少し待って」

 立ち上がってなお襲の裾と共に床に広がるほど長い髪を、腰の辺りで輪に括る。右手で袿衣と単衣の裾を絡げ(初花前に仕立てた袙衣はこの頃さすがに寸足らずになり、梓子のお下がりの袿衣を着ていたが、袴は切袴ほどの丈が却って動き易くそのまま穿いている)、左手に扇の盾を翳し、茜子はそっと妻戸より簀子縁に出た。その抜かりない姿に、千颯は軽く苦笑いする。

「……相変わらず、守りが堅い」
「あら、淑女たるもの、そう簡単に顔は晒せないわ」

 花見の誘いが半分は口実であることを見越して、茜子は月宿る雲の扇の陰よりくすりと笑い返した。とは言え、ここまで来れば晒したも同然だ。抜かりなく準備された草履を履くときやさりげなく差し伸べられた手を取る際など、どうしても扇を下ろす瞬間が生まれる。

 糸桐殿の南庭は、枝葉や小石に至るまで計算し尽くされたような風雅な庭ではないが、あまり人の手が入らないことで、却って野趣に富んだ景観を生み出していた。梅(こぼ)れて桜散り、今は藤、間もなく紫陽花が続くことだろう。

 釣灯籠の火も遠く、天満(あまみ)つ月の下、()ら咲きの花弁が仄白く浮かび上がり、あるかなしかの夜風にさやぐ様子は、まさに優美の一言に尽きた。

 中島にかかる橋から望む、月と星と風と花と。この夜のすべてが(かぐわ)しい。

「……ねえ。番いって、いったい何」

 隣に立つ千颯を仰ぎ、茜子は今更のように訊ねた。座していると然程感じないが、こうして並び立つと、威圧感を覚えない程度には背が高い。

 不思議なもので、最初は茜子と同じ歳くらいだと思っていた千颯は、茜子が十六を数えた今、二十歳ほどに見える。それも以前訊ねてみたことがあるが、「鳥は雛の時期は短いが、成鳥すると、人の目には齢など知れないだろう? それと似たようなものだ」と、解るような解らないような回答が返って来た。

 加えて、普段は狩衣烏帽子という貴族の略装を完璧に着こなしているものの、実はあまり着慣れていない(という設定な)のか、たまに今夜のように髪を括っただけの姿で訪れることがある。茜子は彼を加冠前から知っているため目くじらを立てることもないが、本来とんでもなく非常識な格好だ。

 なのに不思議と気品は少しも損なわれず、花の香を運ぶ風に濡羽色の髪を遊ばせながら千颯が答える。

「要は妹背(いもせ)夫婦(めおと)のことだが……、俺たちの場合はまた少し違う。俺たちは、比翼だから」
「比翼?」

 聞き覚えはあるが耳馴染みのない単語に、茜子は眉をひそめた。大陸の伝説に語られる鳥。互いに片目、片羽しか持たないため、常に二羽並んで飛ぶのだと言う。……確かに、茜子も千颯も隻眼だ。しかし両腕は健在である。

「番いとなった比翼は比類なき力を手に入れる……そういう伝説が、各地の天狗たちの間で昔から語り継がれてきた。単なる言い伝えだと思われていたけれど、俺たちが産まれた」

 冠のない――――人ではない姿だからこそ、花誘う風に揺れる大振りの藤を背に立つ千颯は、さながら夜の精のようであった。

「俺と姫は、山と京で共に産まれた。そしてこれからは共に生き、共に死ぬ。俺は君なしでは翔べない、生きられない」
「…………」

 今まででいちばん熱の籠もった告白に、茜子は陶酔を通り越して若干たじろぐ。

(ちょっとこれは……設定が重すぎじゃない?)

 だが、垣間見の顔かたちや手蹟の人となりも知らないうちから虜となる理由として、番いというのはなかなか巧い説明だと思った。……やや空虚な設定でもあるが。

 ひたむきな金の瞳に気後れし、茜子はつい目を逸らしてしまう。しかしその困惑ごと包み込むように、千颯は肩越しに腕を回して来た。

「だから姫も――――俺なしでは生きられないんだよ?」
「!」

 夜に映える声の密語(ささめごと)に、茜子は思わず抱擁を拒む形で振り返ってしまった。それ以上無理強いはせず身を離した千颯は、耳まで赤くした茜子の反応に満足したように、長い長い髪を梳く。月の光の下で見るせいか、その指遣いはどこか艶めかしい。

「いずれは、姫の口からそう聞きたいものだ」
「……では、わたしがそこまで夢中になれるよう、ちはや様もお励みくださいませ」

 茜子もどうにか一矢報いようと、扇を口許に構え直し敢えてさらりと受け流した。だが千颯の口許に浮かぶ余裕の笑みは崩れない。

 しかし、右目からほろりと頬を伝った茜子の涙には、さすがに動揺を見せた。

「どうした、急に」
「……大丈夫、なんでもないの」

 緩くかぶりを振りながら、茜子は扇を広げたまま蝉羽重(せみのはがさね)の狩衣の袖に額を凭せる。瑞々しい薫衣香(くのえこう)は、山滴るこれからの季節にも彼自身にもよく似合っていた。

 千颯に求められるほど、茜子の胸に姉の言葉が甦る。

『茜子には一生、恋歌を贈ってくれる殿方なんて現れないもの』

 梓子の言うとおりだ。家族にも見放されたばけものの茜子をこれほど一途に溺愛してくれる相手は、羨望と孤独と憧憬が生んだ夢の中にしかいない。

 現実であればよかったのに、などと贅沢は言わない。夢でもいい。夢で構わないから――――せめて覚めない夢であってほしい。この夜が明けなければいい。

 叶わない祈りと知りつつ、茜子はそう願わずにいられなかった。
 照る月が中天に差し掛かる頃、御簾の下りた母屋の中、梓子は目を覚ました。胸元を軽く押さえながら身を起こすが、女房たちは熟睡しているのか、局から馳せ参じる気配はない。

 唐突な目覚めは、夢見のせいだ。

 熱病に侵される前夜、そして奇跡の快復を遂げたのち、梓子は時折、月夜の山中、巨大な鳥居の下に佇む人物の夢を見るようになった。

 最初は、梓子と同じか、少し年少の少年だった。それが季節の巡りと共に成長し、今では梓子よりも年長に思える、均整の取れた体躯の青年である。

 顔はよく判らない。彼はいつも後ろ姿で、稀に、振り向きかけた鼻筋が見える程度だ。だがその稜線の(あて)やかさだけで、自ずと造作の秀麗さが窺えた。

 最初の夢では、彼は梓子と対面し、しかも何かを告げてきたはずなのだ。しかし直後の熱病のせいで記憶は混濁し、向かい合ったこと語りかけられたこと自体は覚えていても、容貌や内容は思い出せなかった。以降その背は沈黙を貫き、一瞥も一言もない。

 そして彼の夢を見ると、決まって、胸元の羽根の形の痣が仄かに熱を帯びるのだった。

 夢解きするまでもなく、夢の訪ね人は、自分を恋い慕う者。裳着を待っていたかのように当岐大社から婚文(よばいぶみ)が届いたことでそれは確信に変わった。大社の若君こそが夢の君。三つ折れ羽は当岐の社紋、祀るのは翼持つ神である。

 この縁は山神にも認められたもの。それどころか、山神こそが審神者を通じて梓子を望んでいるのかもしれなかった。古来より、神と人との婚姻譚は枚挙に暇がない。

 ……そうでなければ、二年も訪いのない相手など、とうに切り捨てている。

 相変わらず文は頻繁に寄越すし、正月の卯杖(うづえ)卯槌(うづち)や端午の薬玉、重陽の茱萸袋(ぐみぶくろ)なども見事な品で、特に中秋には常にも増して、女房たちにもお裾分けできるほど大量の贈り物が届いた。

 けれど、こちらがどれほど思わせぶりな文を返しても、当人は一度も訪ねて来なかった。

 気に障るのはそれだけではない。暗闇の中、梓子は文箱(ふばこ)を見遣る。

 どういうわけか、若君の歌は、「あかねさす」という枕詞を詠み込んでいるものが多かった。確かに「日」「昼」「月」「君」など、かかる単語は多いが、数多ある中から、何故よりにもよってそれを選ぶのか。

 たとえば。

  あかねさす きみをみそめし かのよるの はなのかをこひ いまもかぐはし

 初めてあなたを見た夜を忘れられない――――今一度会いたい

 それに対し梓子は、敢えて己にゆかりある枕詞を用いた歌を返した。

  あづさゆみ はるにたまひし はなふみは いまもかぐはし たどりきたらむ

 春に初めて梅の枝と共に贈られた文を今も大切にしています、その残り香を辿り、訪ねてきてください――――

 勿論名を記してはいないが、薄様の色は葉の青、梓の枝に結んで送った。しかしそれ以降も「あかねさす」ばかり散見し、「あづさゆみ」を詠んだ歌は一首もない。そもそも文を記す薄様も紅や紫がかった紙が多く、反物なども同様の傾向にあった。

 しかも、「かの夜の 花の香を恋ひ」と焦がれていた歌も、次第に「(あした)をうらみ (ゆうべ)を恋ひ恋ふ」などと夢での逢瀬を喜ぶようになっては、奥手にも程がある。夢を壊さないよう返歌を詠むのも一苦労だ。

(早く結婚して、この家を継ぐ子を成さなければならないのに)

 幼い頃より「鬼祓う姫」として多少名が知れていたこともあって、若君のほかにも懸想文はいくつか届いた。けれどそれは、既に妻妾も子女もある公達のつまみ食いであったり、任地で私腹を肥やしただけの国司(くにつかさ)であったり、酷いものになると地下(じげ)判官(じょう)主典(さかん)だったりと、凡そ梓子の目に適うものではなく、枕を共にした相手もいたものの、本気で三夜通ってくれる者はいなかった。

 東北対で侘しく暮らすばけものの妹は、梓子ばかりが父母に愛され幸せだと思っているだろう。

 けれど梓子は知っている。両親の、特に父尚方の親心は、そんな無償の愛ではない。

 幼い姉妹が立て続けに熱病に倒れ、顔と胸に痕が残ってしまったとき、彼は嘆いた。揃ってこれでは婿取りも望めない、我が家はお終いだ、と。

 それでも父は父。だから梓子は、己の価値が失われることを怖れ、無能な妹を過剰に貶めもした。そうすれば自分は、自分だけが、父の自慢の娘でいられる。

 男にとって、所詮女は家のための駒。己の道具(もの)だと思うからこそ愛でるのだ。

 それでも、京に生きる以上、その呪縛からは逃れられない。

 目が冴えてしまい、梓子は褥を出た。衾としていた袿衣をしどけなく羽織り、黒髪の乱れもそのままに、御簾をくぐって枢戸から簀子縁に降り立つ。

 振り()け見た空には薄く棚引く雲も浮かんでいるが、(くま)のない月は皓々と庭の木々や池の水面を照らしていた。

 深まった夜の底に咲く藤の花群れに目を遣り、その手前に架かる反り橋で身じろぐ影に視線を向ける。

 月明かりの中、闇に隠れたるものどもを見通す梓子の目に、それは金色に光る目を持つ一羽の大柄な烏のように見えた。

 ……違う。二羽の烏が、一羽に見えるほど睦まじく寄り添い合っているのだ。

 傍ら寂しき一人寝の夜を幾つ数えたか知れない梓子は、互いを恋い番う烏に忌々しげに背を向け、枢戸の内へと戻っていった。
 番いの何たるかを知っても、茜子と千颯の間には後朝(きぬぎぬ)夜離(よが)れもなかった。そもそも彼はうつせみの人ではなくちはやぶる神(という設定)だから、人の世の三年も一年に満たない感覚なのかもしれない。

 日々並(かがな)べてまた季節は移ろい、糸桐殿の姉妹は未婚のままそれぞれ十八と十七を数えた。

「姫。……今宵の吾が妻は、なんだかおかんむりだな」

 妻戸の御簾をくぐり、几帳の陰に坐す茜子を灯台の仄明かりで一目見るなり、千颯は小さく苦笑した。図星をつかれた茜子は扇を広げてふいと顔を背ける。茜子とて貴族の端くれ、澄まし顔は得意なはずなのだが、婿がねにはどうやらお見通しらしい。せっかくの逢瀬なのだし、憂き世の愚痴は持ち込まないよう努めていたものの、三年も経つと気が緩む。

 律儀に几帳を挟んで腰を下ろし、千颯が訊ねる。

「どうかしたのか?」
「どうということもないわ。大姫様の旅の話に長々と付き合わされただけです」

 つい昨日、父母と姉は、京の辰巳、深見山(ふかみやま)に花見を兼ねた物詣に行っていたらしい。単なる物見遊山ではなく梓子の良縁成就の祈願も込めてのようだが、とにかく帰邸した梓子にまた滔々と問わず語りを聞かされた。降り()く桜のうららかさ、御稜威(みいつ)みなぎる朱塗りの社。物詣どころか単なる外出すらままならない妹への「土産話」を装いつつ、どう好意的に聞いても口調は「自慢話」である。

「庭に降りるか? 名所ほどではないが、桜がたけなわだ」

 笑い含みの声が不機嫌な妻がねをあやそうとするが、茜子は桜には苦い思い出があった。

 それは十年前の春、爛漫の桜が見える東対の南廂で、姉や乳姉妹たちと貝覆いに興じていたときのこと。羽音に誘われて茜子がふと首を夕映えの庭に向けると、満開の花枝に一羽の烏が羽を休めていた。

 烏は戌亥の鎮護、当岐大社の神使(みさき)だが、屍肉を喰む凶鳥(まがどり)でもある。そんな吉兆とも凶兆とも知れない鳥が花降る庭に迷い込み、御簾に隔てられることなく目と目が合った――――気がした。

 人の気配を察した烏は、花散らす東風(こち)に乗じ、暮れ(なず)(あま)(べに)の空へよたよたと飛び去った。だがやはりそれは神使ではなく疫神だったか、明くる日から姉妹は続けざまに病魔に魘され命運を分けたのだ。

 だから、代わりに茜子はこんな我儘を言ってみる。

「……庭の池ではなく、海を見てみたいわ」

 海を模して造られた池ではない、本物の海。連想のように閃いた言葉だったが、口にしてみると、なかなかいい案である気がした。背けていた首を千颯に向き直す。

「ちはや様、わたし、海を見てみたい。山を北に越えたずっと向こうに、椅子(はしご)のように伸びる浜のある海があるのでしょう?」

 京は盆地に築かれているが、辛うじて国の北端が海に面している。梓子も見たことのない歌枕の浜。春の夜の夢の(まにま)に、西へ東へ、どこへだって行けるはず。

 しかし、千颯は些か渋い顔をした。

「……邸の外に出るのは待ってくれないか。今結界の外に出ると、安全は保障しきれない」
「あら、守ってはくださらないの」
「勿論、命を懸けて守る。だが……」

 茜子が大仰に嘆くと、大真面目に返される。それでも煮え切らない語尾に、茜子は膝をいざって几帳から身を乗り出し、早蕨重(さわらびがさね)の狩衣の袖端をきゅっと握った。

「だめ……?」
「……!」

 敢えて舌足らずに、甘えた上目遣いで見つめる。

 吾妹子のおねだりに、千颯は瞠目し躊躇いを見せたが、結局折れた。

「――――わかった。今から行けば、十三夜の月に間に合うだろう」

 これが惚れた弱みと言うものか、なんのかんの言いながらも、やはり千颯は茜子に甘い。

 しかし、常ならば片道で三日はかかる道程を一晩のうちに往復できるとは、さすがはちはやぶる神、或いはうばたまの夢の為せる業だ。

 内心で舌を出しながら「ありがとう」と楚々と笑い、茜子はさっそく千颯を一足先に退室させて仕度に取り掛かる。やや不恰好ながら、女房の手も借りずに袿衣を壺折りに着込めるのも、ある意味幽閉生活の賜物である。

 妻戸を出て簀子縁から透廊を渡る。茜子はついそろそろと、反対に千颯は悠々とした足取りで中門廊を出た。だが門前で寝ずの番をする家人の姿が目に入り、あまりの再現度に茜子は思わずぎくりと足を止めたものの、二人に気づいた様子がない。千颯が軽く笑う。

「大丈夫だ。俺たちのことは、烏の羽ばたきや囀りとしか思われない。今までも、誰も俺たちが会っていることに関心を向けなかっただろう?」

 いわゆる隠形の術というものだろうか。夢なのだから、どんな不可思議も不思議ではない。

 車寄(くるまよせ)には見知らぬ網代車が停まっていたが、付き人の車副(くるまぞい)牛飼童(うしかいわらわ)どころか、牽く牛すらいない。しかし後簾を捲って二人が屋形に乗り込むと、車輪の軋む音と共に車はのっそりと動き出した。

 その軋みさえ僅かなもので、道を走るというよりも水面を滑るようななめらかさで進んでいく。ずっと幼い頃に乗車した際は、思いのほか揺れが酷く姉妹揃ってしたたかに酔った記憶があるが、今夜は醜態を晒す心配はなさそうである。

 何故か物見窓が開かないため、どの辺りをどの程度の速さで走っているのかも判らない。

 天井には鬼火、もしくは狐火、天狗火などと呼ぶべき焔が灯り、熱のない光で屋形内を照らしている。

 そんな奇しき灯火の中、御簾も几帳も挟まず千颯と相対していると、非の打ちどころのない貴公子そのものの姿に、今更のように茜子の胸は早鐘を鳴らした。

 たとえ夢でしかなくても、自分は彼に恋をしている。三年越しのこの夜はっきりと、茜子は自覚した。

 簾の帳や闇の帳といった遮るものがないためか、互いに邸よりも寛いだ様子で夜語りに花を咲かせながら、三刻(1.5時間)ほども過ぎた頃か。ごとんと大きく揺れて牛車が停まった。

 前簾を上げると、やはり牛の姿はなく、牛飼童たちもいないのに(しじ)が用意されている。互いに履物を履き、茜子は千颯の手を借りて屋形を降りた。

 辿り着いた場所は山中に拓けた一角で、眼下には黒く波打つ大きな湖――――否、(しおうみ)がある。

「わあ……っ」

 笠も垂れ衣もなく、夜風に顔を晒した茜子は、右目に映る光景に素直に感嘆した。

 那由多の星が瞬く空。やや中天を過ぎた十三夜の月が、暗い海に緩い弧を描く砂浜へほろほろと光をこぼしている。浜の先にたたなづく山々と月影揺れる波間、その見果てぬ彼方に、比翼の伝説を生んだ大陸がある。

 藤見の夜や今夜の中門でも感じたことだが、単なる夢と言うよりも、魂魄が抜け出て翔んできたかのよう臨場感だ。

 京人憧れの歌枕に興奮した茜子は牛車と千颯の傍を離れ、はしたなくも小走りで崖の縁まで向かう。

「おい、危ないぞ」
「大丈夫よ。だってわたしも比翼なのでしょう?」

 危惧する声に、茜子は軽やかに振り返って笑う。翼があるのだから、何より夢なのだから、危ないことも怖いものもない。

 ――――そう油断していた茜子を、崖の下から躍り出た影が羽交い絞めにした。

「!」
「姫!」

 血相を変え駆けつけようとする千颯を遮るように、また別のふたつの影が大きな羽ばたきと共に茜子と千颯の間に降り立つ。

 茜子の目に、それは漆黒の翼を背に持つ、まさしく天狗のように見えた。

 それぞれ、薙刀や太刀など、得物を手にしていることも。

「ん────!」

 武骨な手に背後から荒々しく口を塞がれ悲鳴を上げることも叶わず、茜子の足は崖を離れて宙空へと攫われた。目を見開いたまま崖から遠ざかり、つい先程まで眼下に望んでいた松並木の白浜にどさりと投げ落とされる。

 打ちつけた腕や肩の痛みを堪えながら顔を上げると、見下ろすようにみっつの影が茜子を囲んでいた。鳥の(かしら)に人の体、黒い翼……やはり天狗の類いだ。

 帯刀した直垂烏帽子姿の烏天狗たちは、茜子を前に、鳥の嘴で人の言葉を交わし合う。

「これが執心の『左』なのか? 人の目ではないか」
「たわけ、それは右目だ」
「左目を抉れ。羽を捥いでもいい」

 捕らえた獲物にとどめを刺すような口調。軽率に千颯の隣を、結界に護られた邸を離れた茜子は、まさに狩られた鳥なのだ。

「……っ!」

 無遠慮に伸ばされた手が、羽根を毟るようにして左目を覆う布を剥ぐ。露出した「ばけものの左目」に、三人は一様に息を呑んだ。

「……これはまさに」
「ああ。早くやれ」

 解放されたのに声も出ない茜子の青ざめた顔に、烏天狗の一人が目を眇める。

「いや、それより……」
「!」

 茜子を組み伏せるように天狗は膝をつき、袿衣を端折(はしょ)り上げていた結紐を乱暴な手つきで解いた。そしてその下から現れた袴の帯にも手がかかる。

「いや……!」

 あまりの悍ましさに、茜子の全身を悪寒が駆け抜けた。左目の奥で火花が爆ぜる。

 容赦なく帯が解かれる、その刹那。

 組み敷き組み敷かれた二人の間に、白い毛並みが割り込むように飛び込んできた。
 風の()の遠い彼方、十三夜の空を婚星が北へと流れていく様子を、尚方は宴席から離れた釣殿で酔いを醒ましながら見上げた。

 流るる星は、神の夜這う姿と趣深く眺める目もあれば、誰ぞの命の落つる兆しと声高に忌む口もある。どちらにせよすぐに興味の失せた尚方は、夜目にも華やかにそよぐ花弁から水鏡に落ちる花の影、浮かぶ花筏へと視線を滑らせた。

 ここは今をときめく藤波(ふじなみ)左大臣の大邸宅で、糸桐殿の倍ほども広い。このところ観桜の宴は様々な邸で開かれていたが、桜が散り透く前にと今宵開催された歌宴は、ひときわ大々的なものであった。

 そこに、尚方も招かれていた。左大臣と直接の繋がりはないが、伝手の伝手の伝手を辿って潜り込んだのだ。そしてその伝手は、尚方自身の縁よりも娘の「鬼祓う姫」梓子が結んだものが多い。

 政争に敗れた親王の、更に嫡妻腹ではない末子。そんな出生の尚方が、宮中の表舞台に立てるはずもなかった。父から引き継いだ邸は大内裏より遠く離れた八条。ようやく賜った官は長官(かみ)でこそあるが政治(まつりごと)に関わりのない神祇官で、その上実権は重代の次官(すけ)たちが掌握している。兄たちは僧籍に入り京を離れ、姉たちは後宮や公卿の女房として仕えている中、自分だけが二世王として朝廷に踏みとどまっている。

 娘の通力を頼り、朝廷の臣でしかない大臣(おとど)の機嫌を窺う。そのすべてが不愉快極まりない。玉鉾の道がひとつ違えば、今頃内裏よりこの(くに)に君臨し、栄華を極めていたのは自分であったかもしれないというのに。

 そう、たとえば。

「これは伯王様、いかがされました、このような離れた場所で」

 透廊を渡って釣殿へと単身やってきた小物など、世が世ならば、尚方に直接声をかけることすら許されなかったはずなのだ。しかし無視もできず、かと言って歓迎する気もなく、尚方はごく軽い目礼でその者を迎える。尚方の気難しさ、気位の高さは承知の上か、相手は気にする素振りもなく隣に腰を下ろした。

「藤波前壱予守(さきのいよのかみ)殿か」
「その節はお世話になり申した」

 左大臣と同じ藤波一族の出身だが、傍流も傍流、同じく藤波姓を名乗る公卿の家司を勤めている。一方で世渡りは巧みらしく、上国の国守を歴任し、五位の身ながら四位の尚方以上の財を成していた。次の司召(つかさめし)除目(じもく)では、いよいよ太政官や中務省などの京官を希望するのだろう。そのための縁故も進物も充分に持っている。

「噂に打ち聞きましたが、伯王様の大姫君には既に通う殿御がおいでとか」
「ええ、ありがたいことに」
「残念ですなあ。儂も帰京の暁には、かつての礼を兼ねて文をお送りしたいと思うていたのですが」
「それは申し訳ない」

「その節」「礼」も、任地へ赴く前に梓子が前壱予守を長年悩ませた頭痛を祓ったことであった。

 尚方は素知らぬ顔で応じながら、内心で激しく毒づく。自分よりも年嵩で、既に妻子持ちの、たかが国司風情を、誰が婿として迎えるものか。裳着前の三世女王を垣間見、美しく成長した姿を夢想していただけでも烏滸(おこ)がましい。

 だが、ここで少し風向きが変わった。

「そう言えば、伯王様にはもう一人、姫君がいらっしゃるのでは。弟姫様にももう、夫がおいでなのですか」
「……いえ、幼い頃に罹った疫病で、些か顔に傷が残ってしまいまして。ひっそりと暮らしております」

 三年前より梓子の妹を娘と見做していなかった尚方は、不自然でない程度に返答が遅れた。更に「弟姫」の響きに、強いて目を逸らしていた懸念が(うず)み火の如く燻り出す。

「ありがたいことに」と返したものの、当岐大社の婿がねからは文などが届くばかりで夜這いは一度もない。折々に高価な贈り物を寄越すから口を挟まないだけで、梓子が、その間隙を縫って別の文の送り主たちと火遊びをしていることも黙認している。

 大社の使いたちは、いつも「若君からオ()ヒメ様に」と口上を述べるらしい。だが糸桐殿に姫は梓子しかいないのだから、オ()ヒメ様の言い間違い、或いは聞き間違いだと、尚方も取り次ぐ下男下女も思い込んでいた。思い込もうとしていた。

 このことは、誇り高い梓子にはとても言えない。いや、言う必要もない。単なる言い間違い、聞き間違いなのだから。

 尚方の密やかな煩悶も知らず、前壱予守は酔いも手伝ってか上機嫌に続ける。

「しかし伯王様の女君(むすめぎみ)、大姫様の妹君でしょう。痘痕も笑窪、貴き麗しき姫に相違ない。……未だ夫がおらぬのならば、儂が名乗り出ても構わぬでしょうか?」

 姉が駄目だから妹。身の程知らずな上になんとも下衆な考えだが、激昂しかけた尚方は、それが顔と声に出る寸前で思い直す。

 最早息女(むすめ)でも下女(はしため)でもない、幽閉し持て余しているだけの少女(おとめ)だ。懐の温かい初老の国司が妾としてくれるのであれば、むしろありがたい話かもしれない。痘痕も笑窪どころではないばけものだが、敢えて明かすこともあるまい。どうせすべては帷の下りた暗い閨の中である。

 そもそも、ばけものと化した時点で、尚方は茜子を家から放逐するつもりだった。

 それを止めたのは、ばけものを退ける通力を持つ梓子だった。

 勿論、姉妹ゆえの憐憫などではない。戸惑いの表情で梓子は尚方に上申した。

『どんな(うら)を何度やっても、同じ卦が出ます。茜子に危害を加えては駄目。絶対に……!』

 告げる本人ですら納得の言っていない様子であったが、だからこそ鬼気迫る真実味があった。そのため尚方はばけものを追い出したり殺めたりはおろか、下女として使うことすらできず、ただ閉じ込めて飼い続けるほかなかった。

 だが、たとえ親より歳上かつ格下の相手でも、結婚は「危害」には当たらないだろう。家の、家長の都合による婚姻は当然のことだ。

「これは……。艶めいた話とは一生無縁かと憐れんでおりましたが、弟姫にも人並みに通ってくださる殿御がおれば、これほど嬉しいことはない」

 心にもないことを大袈裟に言って、尚方は「ただ……」と演技過剰なほどに声を曇らせる。

「そのように諦めておりましたゆえ、未だ裳着も済ませておりませぬ。前壱予守殿をお迎えする支度が整いましたらお声がけいたしますため、しばしお待ちを」
「ふむ。それではその間、不得手ながら歌詠みの練習などして待つことといたしましょう」
「歌だの文だのとまだるっこしいことは言わず、そのまま邸に来ていただいて構いませぬ。家族のほかに人付き合いのない娘も、前壱予守殿のお越しを待ち侘びることでしょう」
「なんと……」

 娘を慈しむ父とは思えない台詞だが、酒のためか、それとも色欲に負けたか、細い目を丸くしたものの、前壱予守は頷いた。

 小夜更けて月が西に傾き、宴席にお開きの空気が流れ始めた頃、尚方は早々に三条の左大臣邸を辞し、八葉車で八条の自邸に戻った。家人たちの出迎えも適当にあしらい、大股で東北対への透廊を進む。

 茜子に男が通ってくるのであれば、裳着より何より、やっておかなければならないことがある。

 自分や梓子では、茜子を傷つけることはできない。だから茜子自身でやってもらわねばならないこと。

「起きよ、茜子」

 妻戸の前に立ち、実に三年ぶりにその名を呼ぶ。しかし扉の内より応えはなく、腹立たしさを覚えながら妻戸に手をかけると、掛け金が下りていない。

「起きよ。話がある」

 断りも入れず御簾を捲り、尚方は母屋に足を踏み入れ、絶句する。

 蔀格子を閉ざした屋内に、単衣を着たばけものの姿はなかった。
 砂浜に茜子を守るように飛び出してきたのは、大きな一匹の獣だった。

 犬、いや大口真神(おおかみ)か。茜子の盾となるべく四肢を張った白い獣は、尖った牙を剥いて咆哮し烏天狗たちを威嚇する。茜子の上から突き飛ばされて無様に転がった一人が憎々しげに唸った。

「くそ、(あずま)(いぬ)が……!」

 その声を皮切りに三人は抜刀し、獣に躍りかかる。獣もまた跳躍し、或いは首や胴を振るって切っ先を躱し、鋭い爪や牙で彼らを切り裂かんと挑む。

「…………」

 獣に庇われた茜子はその場に縫い付けられたように動けなかった。松並木の陰まで後退ることも、緩んだ帯を直すことさえできず、(さざ)れ波打ち寄する浜を蹂躙する星月夜の乱闘を凝視するしかない。

 多勢に無勢。しかし獣は孤軍奮闘、獅子奮迅し、刀傷を負いながらも次第に烏天狗たちを凌駕していった。一人は首の骨ごと喉笛に喰らいついて仕留め、一人は顔の皮を剥いで薙ぎ飛ばす。

 とどめに顎を噛み砕く獣の背後で、残る一人が大きく刀を振りかぶった。

「危ない……!」

 ようやく声を絞り出せた茜子の叫びを、突如として巻き起こった旋風が掻き消した。獣に馬乗りになった烏天狗は、更に後ろをとられ、驚懼と共に振り返る。

「くっ……!」
「死ね」

 荒い息で短く吐き捨て、疾風と共に降り立った千颯は、左手の太刀を烏天狗の首めがけて閃かせた。

 風が止んだ。ごとんと鳥形の首が落ち、一拍置いて人形(じんけい)の体が倒れる。千颯は太刀を浜に投げ捨てると同時に右目に滾る殺気を消し、未だ立ち上がれない茜子にまっすぐ駆けつけた。

「あかね姫! 無事か!?」
「ちはや様……っ」

 千颯も無傷ではなく、烏帽子は失われ髻も解け、ところどころに裂傷を負っていたが、痛む素振りを見せることもなく膝をつき、左腕で茜子を強く抱き締める。茜子もまた両目から涙をこぼしながら両腕で千颯に縋りついた。

「ごめんなさい、ごめんなさい……! わたしが海を見たいなんて言ったから……っ」

 邸の中と、山の上と。二度も千颯の忠告を聞かなかったから、こんなことになってしまった。

「俺こそすまない。命を懸けて守ると言ったばかりなのに……」

 悔恨の声に、茜子は千颯の胸に顔をうずめてかぶりを振る。悪いのは調子に乗り過ぎた茜子だ、千颯が謝る必要はない。

 すべては夢のはずなのに、烏天狗たちに顔を暴かれ、その上肌まで暴かれそうになって、死にたくなるほどの恐怖と嫌悪を感じた。その吐き気を催す記憶に上塗りするように、茜子は千颯の腕にいっそう深く身を委ねる。

 千颯は茜子を安心させるように、或いは自身も茜子の無事を確かめるように、左手で茜子の髪を梳き、こめかみに頬を寄せる。

「立てるか」
「うん……」

 しばし互いに身を寄せ合っていたが、千颯に促され、茜子は袴の帯を締めて立ち上がった。まだ膝は覚束ないものの、歩けないほどではない。

「車まで歩けるか」

 山の上で降りたはずの網代車が、月光降る浜に忽然と停まっていた。やはり牛は繋がれておらず、茜子を守ってくれた白い獣も気づかないうちに姿を消している。

「ちはや様、腕……!」

 妙に右半身を庇うような千颯の挙動に目敏く勘づいた茜子は、力なく垂れたその右袖から滴る赤い雫に言葉を失う。

「たいした傷ではない。それより姫は」
「わたしなら大丈夫です! それよりちはや様こそ、早く。止血だけでも」

 深手を負ってなお吾妹子ばかりを気遣う千颯を声を張り上げて遮り、茜子は彼と連れ添って鬼火灯る屋形へと入った。片肌脱ぎになった千颯の右腕、肘よりも上に深く走る刀傷から血がたらたらと流れている。

 茜子はその傷口を懐紙で押さえ、懸帯できつく縛る。無我夢中であったが、応急処置を終えて自分の左目も白布で覆い直したところで、我に返って赤面した。

 狩衣姿では一見細身の千颯だが、剥き出しになった腕や胸はしなやかに鍛えられ、すらりとした文官よりもきりりとした武官のような印象を受けた。だが筋骨隆々と評するほどむくつけくはなく、髪を振り乱してなお飽くまでも優雅だ。

 慌てて顔を逸らしかけて、茜子は千颯の背中にあるものに気づく。

「これは……?」

 過不足なく精悍な背の右半分に、黒い羽を畳んだような絵、もとい刺青が刻まれていた。左にはない。右羽だけだ。

 かつて大陸から海を渡って来た人々や、天離(あまざか)る鄙の地には、刺青の風習があったと聞く。けれど本物を見たのは初めてだった。

 茜子の視線を察したか、千颯は首を巡らせて答える。

「……ああ。言っただろう、俺たちは比翼、天狗だと。翼があるのは当然だろう?」

 明朗に言い、千颯はにやりと笑うと、身を翻し抱擁するように茜子の右袖に己の左腕を差し入れた。突然のことに、茜子は甲高い悲鳴を上げる。

「きゃあっ、やっ、何っ」
「姫にもある。ほら」
「あ……っ」

 袖口から滑り込んだ手が、弱竹(なよたけ)の背中に回って左側をつと撫でる。小さく声が跳ねた。

 ばけものの左目が発現してからは、身体を拭き清めることも自分で行っていた。だから誰かに背中を見られることもなく、また自分で自分の背中は見られない。

 確かに左の肩甲骨(かいがね)を撫でられた。けれど、柔肌とはまた違うものに触れられた感覚がした。

 衣の下で、直に肌と肌が触れている。熱を感じる。そのことに堪らなく気恥ずかしさを覚え、茜子は声を震わせた。

「……あのっ、ちはや様」

 顔が真横にあるから、あえかな吐息は千颯の耳朶にかかる。

「……っ」
「!?」

 千颯が息を詰める気配がして、かと思ったら、茜子は床に引き倒されていた。辛うじて頭を打つ事態は避けられたが、そういう問題ではない。

「姫……っ」

 覆いかぶさる千颯の表情は近すぎるがゆえに見えない。熱を帯びた声が茜子の耳を甘く掠め、鼻先で器用に左目の白布を払い除けようとしてくる。

「やぁ……っ」

 左目の疼きに茜子が切ない声を漏らした、次の瞬間。

「――――ひとの背中で、何をするつもりだ、てめえらは!」
「!」
「きゃあぁっ」

 不意に屋形が消失し、二人は重なったまま夜の只中に放り出された。ただし直で砂浜に落ちたわけではなく、何か毛皮らしきものの上を滑って転がる。千颯は茜子ごと身を起こすと、思いきり顔をしかめて出し抜けの声の主に金色の目を向けた。

「無粋な奴だな、白縫(しらぬい)
「利き腕斬られたってのに、随分と余裕じゃねえか」

 千颯の声に応じたのは、先程茜子を助けてくれた白い獣だった。尖った耳がピンと立ち、揺れる尾は豊かな毛に覆われている。

「しらぬい……?」
「初めましてだな、お()い様」

 茜子が呆然と繰り返すと、目許を和ませた獣は挨拶するように鼻面を寄せてきた。渋々と茜子の袖から腕を引き抜いた千颯は雑に紹介する。

「これは白縫。東路(あづまじ)砂喰山(すなばみやま)で生まれた白狐だ」
「相棒をこれとはなんだ、これとは」

 ぞんざいな扱いに、白狐の白縫は不満げに鼻を鳴らした。間違いなく獣なのに、その表情も口調も、お高くとまった京人たちよりよほど感情豊かである。

「俺は比翼だから、番いにならなければ自在には飛べない。だから祖父が、砂喰に頼んで幼狐だった白縫を譲り受けたんだ。砂喰や一部の天狗たちは、白狐を従えて飛ぶ」
「じゃあちはや様は、しらぬい様に乗って山から京へ通っていたの?」
「三年も律儀なことだろ。そんでもって、毎回付き合わされるオレの苦労も解るだろ?」

 狐と言えば、人を化かすもの。「ひとの背中で」という台詞といい、あの牛の牽かない網代車は白縫が化けたものだったのか。道理で曇り夜は雨籠(あまごも)りとなるわけだ。

「だったら、あの烏天狗たちは……?」

 突如襲来した者たち。彼らは確かに、茜子だけでなく千颯や白縫にも敵意を漲らせていた。

 千颯は、今度は衣の上から、茜の左肩を抱き締める。

「……比翼の俺は、産まれてすぐに父の後継、次代の頭領(かしら)に定められた。だけど比翼は飽くまで伝説、前例がない。片割れが人として京で産声を上げたことさえ、俺も十年前(●●●)に君を見つけて初めて判ったくらいだ。だから」
「こいつが次の頭領になることが気に食わない連中も、山には少なからずいたってことだ」

 千颯が言葉を途切れさせた続きを、白縫の深く染み入る声が引き取った。

「確かに比翼の伝説がなけりゃ、こいつは単なる片目片羽の若造だからな。……とは言え、弱肉強食の山界で既に屈指の実力者なんだが」
「俺は父の子としては末の生まれ、しかも側妻の子だ。当岐山には天狗や御先烏だけでなく数多の物怪(もののけ)が棲んでいて、山という括りの統率はあるけど必ずしも一枚岩ではない。目や羽を損なったり、或いは番い以外で交わったりすれば、比翼は通力を失う。そんな根拠のない噂まで密かに流れている」
「さっきの連中は、千颯のすぐ上の兄とその一派だ。同じ側妻腹、同じ歳の千颯が後継に選ばれたのが気に喰わなくて、一泡吹かせようとお姫いさんを狙っていたらしい。素直に勧請先の分社に鎮まればよかったものを」
「兄君は……?」
「首を刎ねた。山の上で」

 苦いものの残る口調で千颯は簡潔に言う。山の上で対峙した二人のどちらかが彼の兄だったということだろう。先程、利き手ではない腕で烏天狗を一刀両断した手際を茜子は思い出し、まだ血の滲む傷口を沈痛な目で見つめた。

「本当は、山を鎮めてから姫を迎えに行くつもりだったんだ。だからひとまず媒介を通じて邸に隠形と加護の結界を施した。万一外から攻撃されればすぐに気づける半面、中の様子は伝わりにくいのが難点だが」

 それで千颯は幾度となく、「邸の中なら安全」「邸の外のことは保障できない」と言っていたのだ。しかし媒介とはなんのことだろう。

「だけど山の問題が片付く前に、姫に初花が来て比翼の左羽として覚醒したから、人に倣って妻問いという形を採った」

 比翼としての覚醒と言うのは、もしかして、このばけものの左目のことか。今夜は新たな設定が続々と出てくる。

 そして、未だにそんな設定を考える自分にほとほと呆れた。梓子が痣と共に通力を授かったように、この異形にも理由だけでなく意味があるのであればまだ自分を納得させられると、無様に足掻いてしまう。

「それでも十年で、あらかた落ち着いたはずなんだ。……ただ、番いになるのが人の子だと知れて、また多少ざわつき始めたことは否めないな」

 白縫が包み隠さず山界の内情を暴露すると、千颯も偽りの否定はせず誠実に訴える。

「……だからもう少し、京で待っていてくれ。それまで何夜でも通う。必ず迎えに行く」
「はい……」

 心苦しげに言われ、茜子も悄然と頷いた。「だから付き合わされるオレの身にもなれ」という白縫の苦情は悪いが聞き流させてもらう。

「――――邸に戻ろう。夜が明ける」

 天伝(あまづた)う月はまだ闇空に冴え冴えと明るい。けれども京の朝は早い。

 ひたひたと近づく曙を恨めしく思いつつ、千颯が右袖に腕を通すのを待って二人は白縫の化けた網代車に乗り込んだ。屋形の中では言葉もなく、ただ離れまいとするようにぴたりと身を寄せ合う。

 ずっとこうしていたい。けれどそれは叶わない。

 往路と同じ時間をかけて糸桐殿に戻り、車寄で屋形を降りた千颯は相棒を残して茜子を東北対まで送った。優しく髪を撫で、金の右目で黒の右目をひたと見つめて淋しげに笑う。

「また次の夜に」
「お待ちしています」

 二人を別つように妻戸が閉じた。明星(あかぼし)を待つ暁闇の屋内で、茜子は手探りで褥に伏す。様々な出来事が起こり、様々な話を聞いて、夢なのになんだか疲れた。

 旅装も解かず、茜子は夢の中で更なる眠りに落ちて行った。
 赤ら引く朝朗(あさぼら)け、茜子は夢の旅装そのままの姿で目を覚ました。

「……?」

 寝ぼけて着替えたのだろうか。しかし夢うつつの状態でできる芸当ではない。

 考え込む間はなかった。蔀を上げた簀子縁から、御簾を引き千切る勢いで父の尚方が入ってきたからだ。そして入ってくるなり、茜子の髪を鷲掴んで床板に叩きつける。

「うッ……」
「このうつけが! 邸を抜け出しどこに行っていた!?」
「……!?」

 押し殺した悲鳴に構わず、尚方は怒鳴り散らす。彼はやや癇性持ちのきらいがあり、虫の居所の悪いときに些細なことで相手を恫喝する声には、昔から茜子どころか梓子さえ萎縮してしまう苛烈さがあった。だが直截の暴力まで振るわれたのはさすがに初めてで、突然の言いがかりに茜子は目を剥いた。

「そんな、わたしはどこへも」
「偽りを申すな! 昨夜ずっと、この母屋はもぬけの殻だったではないか! その格好が何よりの証拠だ!!」
「そんな……!」

 必死の弁明を尚方は一蹴する。肩を怒らせ、取り付く島もない。

 十三夜の歌枕。あれは夢だ。夢のはずだ。

 三年間、ずっと夢だと思い込んでいた。――――けれど、まさか。

「その顔を人前に出すなと言っただろう、ばけものが! ……っ、まあよい」

 ひとしきり声を荒げ、いくらか気が落ち着いたようだった。一瞬顔を引き攣らせた尚方は、手にしていた長い棒状のものを打ち伏す茜子に向けて放り投げる。火桶の炭を挟む火箸だ。

 尚方は冷徹に告げる。

「喜べ、おまえの結婚が決まった。――――だからお相手の前壱予守殿が通って来る前に、それでばけものの目を潰せ」
「……!」

 左目を潰せという命令よりも、結婚が決まったという宣告のほうが、無慈悲に茜子を貫いた。

「二度と外へ出ようなどと考えるな。子は親のもの、黙って従え」

 凍りついた茜子を忌まわしげに一瞥し、尚方は東北対を後にした。

「…………」

 そこから終日(ひねもす)をどう過ごしたのか覚えていない。朝夕の膳も運ばれず、やがて蔀戸も閉ざされ、茜子はいつしか眠ってしまったらしい。

「あかね姫」

 妻戸を隔てて聞こえる愛しい声に、茜子は目を覚ました。だが精根尽き果てた身を脇息から起こすのがやっとのことで、足に力が入らない。

 僅かに扉一枚、けれど現実の茜子と夢幻の千颯の距離は、それより遥かに遠い。――――はずだった。

 いったいいつの間に、夢幻と現実の境はこれほど曖昧になっていたのだろう。

「あかね姫?」

 最初の夜這い以降、茜子の許しを得ずに彼が母屋に入ってくることはなかった。けれど姿を見ず声も聞かずとも妻がねの異変を感じたのか、掛け金がひとりでに外れ、千颯が御簾をくぐって来る。

 灯台に鬼火が灯り、幽鬼のような佇まいの茜子の姿を朧ろに浮かび上がらせる。

「どうした、昨日の格好のままではないか」
「……っ、ちはやさ、ま」

 泣き出す寸前の顔でふらふらと立ち上がった茜子は、倒れ込むように千颯の胸に身を預けた。千颯は突然の抱擁に一瞬硬直しながらも、まだぎこちない動きの右手で茜子の背を抱き、気を落ち着かせようとする。

「姫」
「……お別れにございます」
「……!?」

 人妻になってしまえば、夢幻であろうと現実であろうと、この逢瀬は許されなくなるだろう。血を吐くような心地で茜子は絞り出した。途端に回された腕が強張る。

「どういうことだ」

 千颯は茜子の両肩を掴んで引き剥がし、険しさを宿した瞳で見据えた。剣呑な金色を悲しく見つめ返し、涙を流しながら茜子は白状する。

「大殿様が……父が仰ったの。わたしを前何某守(さきのなにがしのかみ)殿と(めあわ)せる、だからその前に左目を潰せと」
「なんだと!?」

 ばけもののままでは人の婿など迎えられない。だから、その目を隠すのではなく完全に潰せと。家長の命令は絶対だ。茜子に抗う術はない。

 千颯は怒りを爆発させ、今度は両腕できつく茜子を抱き締めた。決して逃がさない、離さないと言うように。そこに悔いる声が続く。

「……こんなことなら、人真似の妻問いなどせず、最初から天狗らしく神隠しと称して攫ってしまえばよかった」

 千颯の悲愴な吐露に、茜子は首を振る。

「ううん、あなたが誠意と敬意を持って通い続けてくれたから、わたしは顔も名も心も許したのよ」

 あとは肌だけ、とは、さすがに茜子からは言えないけれど。

 茜子のすべてを捧げられるのは千颯だけだ。ほかの夫などいらない。

「あかね姫は俺のものだ。誰にも渡さない」
「……わたしは、やっぱり『所有物(もの)』なの?」

 千颯の言葉に、今朝の尚方の言葉が甦り、茜子の心が揺らいだ。その揺らぎを見透かしたか、今度は千颯が緩く首を振り、真摯に茜子の右目を覗き込む。

「だが俺も姫のものだ。俺たちは二人でひとつなのだから」

 一点の曇りもない眼差しに、茜子は、姉のものと思いつつずっと忘れられなかった恋歌の上の句を詠う。

「……『ちはやぶる かみのもたせる わがいのち』」
「『こころもすべて きみがためこそ』……俺が姫に初めて贈った歌だ」

 千颯が照れくさそうに笑う。

 もしも――――もしも初めから、「当岐大社の若君」が、大社の 宮司の(●●●)若君ではなく、大社の祭神の(●●●)若君だったとしたら。

 昨夜、烏天狗たちに砂浜に投げ落とされたときは痛かった。今夜、抱き締めてくれる腕には力強く熱が通う。恋歌や屏風や、思い当たる節は多々あれど、もう、何が夢幻で何が現実なのか判らない。

 それでも、京で生まれ育った茜子には京での暮らしこそが現実。ならば。

「わたしを攫ってよ。この現実から」

 京人が山神の妻として認められるかは判らない。それでも、千颯を失うことは耐えられない。千颯がほしい。――――彼なしでは生きられない。

「――――吾が妻の望むままに」

 こつんと額と額が重なり、鼻先と鼻先が触れる。

 このまま邸から連れ出してくれるのかと思った。けれど。

「一晩、今夜一晩だけ待ってくれ。明日の夜、正面から堂々と、姫を奪いに来る」
「待ってる。待っているから、必ず来て。絶対よ。お願い」
「勿論だ。約束する」

 互いの頬に指で触れ、切なく見つめ合う。それだけで名残惜しくも玉響の逢瀬は終わり、茜子はようやく旅装を解いて床に就いた。

 そして月が沈んで日が昇り、二日ぶりの倹しい朝餉の膳が下げられるのと入れ替わりに、今度は梓子が女房たちを引き連れ足取りも軽く東北対にやって来た。白布の下で健在のばけものの左目に目を留め、白々しさ満載で言う。

「おめでとう、縁談が決まったんですってね」
「……大殿様からお聞きしたんですか」
「でも三日は血の穢れを持ち込まないでちょうだい。せっかくの慶事が台無しですもの」
「と仰いますと」

 梓子は晴れやかな顔で告げる。

「大社からお父様に文が届いたわ。――――今宵、妻を娶りに邸を訪うと」
「――――」

 深窓の姫君らしくなく喜びを隠そうともしない高らかな声に、茜子はひくりと睫毛を震わせた。その僅かな反応を口端で笑い、梓子は続ける。

「わたくしとおまえ、揃って婿取りなんてめでたいことではないの。お父様も室礼を調えさせると仰っていらしたけれど、まずはわたくしから祝いの品よ」

 曲がりなりにも王家の一員としての体裁を取り繕わせようという「ご配慮」らしい。梓子が目配せを送ると、順に進み出た女房たちは、それぞれ捧げ持っていた漆塗りの打乱箱(うちみだりのはこ)とその中身を茜子の前に慇懃に置いた。畳まれた紅や青の狭衣と衵扇。二年前の冬に当岐大社から贈られ、しばらく梓子が好んで袖を通していた紅梅の匂の五衣(いつつぎぬ)だった。

 四季を問わず、また祝賀に用いられる色目ではあるのだが、梅の盛りを過ぎ桜を謳歌する今着るにはいかにも野暮、興醒めという(すさまじき)もの。当然、そうと解った上で梓子は、この衣で夫を迎えなさいと言っているのだ。祝いの皮を被った呪いである。

 だが、茜子は丁寧に床に指をつき深く(こうべ)を垂れ、強張った声で礼を述べた。

「……大姫様のご温情、勿体なくもありがたく頂戴いたします」

 その殊勝な態度を虚勢と受け取りそこそこ満足したか、これ以上ばけものに構っている暇はないのか、梓子は最後に嘲笑を浮かべ、女房たちと共に東対へ引き上げていった。

 姉の背中を見送った茜子は下げ渡された小葵紋の袿衣を一枚手に取り、昔読んだ歌物語の一首の下の句をそっと唇に乗せる。

「――――『ゆめうつつとは 今宵さだめよ』……」

 夢幻(ゆめ)現実(うつつ)か、寝てか覚めてか。

 重ねた可惜夜(あたらよ)の果て、白月の下、すべてを明らかにしよう。
 ついに。ようやく。

 待ちに待った許婚の妻問いに、梓子も、父母の尚方や小百合まで浮かれていた。女房たちでさえどこか浮き足立ち、(ゆする)で女主人の髪を梳ったり伏籠でとっておきの衣に香を焚き染めたりと、逸る心で様々な準備を調えつつ日が暮れるのを待つ。生きながら死んでいるような扱いの妹の存在は、いつもどおり念頭から吹き飛んでいた。

 梓子ではなく父の尚方にのみ文が届いたことは少々気になるが、懇ろに新枕(にいまくら)を交わせば、それも瑣末な話となるだろう。

 今夜は望月。まるで初の逢瀬を祝福するかのような、まさに(あめ)の足り()だ。

 慣習に則れば、亥の刻の頃、夫がひっそりと妻のもとに忍んで来る。邸の者たちは、それを素知らぬふりで夜を過ごす。

 贈られた白地に紫紋の二陪織(ふたえおり)の反物で誂えた小袿を色々襲の五衣に合わせ、あとは夜更けに訪れる許婚を迎え入れるだけ。

 しかし、まだ酉の刻も半ばの薄々時(うそうそどき)明月(しまぼし)は東天、夕星(ゆうづつ)は西空に輝き、蔀戸も下ろさないうちに、俄かに中門が騒がしくなる。

 母屋の畳に座した梓子は、下座の乳母と思わず顔を見合わせた。立ち上がった乳姉妹が南廂の御簾越しに外の様子を窺い、女房らしからぬ裏返った声で「姫様っ」と梓子を招く。

 さやさやと典雅に裾を引いて梓子が南廂に並ぶと、引き止めようとする家人に構わず、遣水(やりみず)を渡ろうと闊歩する直衣烏帽子の美丈夫が見えた。

 左目の眼帯に眉をひそめたが、それはまさに、梓子が長年夢に懸想し続けた月下の君に相違なかった。

 その端正な面差し、洗練された立ち姿に、女房たちも「まあ」と頬を赤らめる。その中で、梓子だけが彼の右目に気づいて戦慄した。

(あれは、あの()は――――)

 そして、なおも追い縋る家人に対し、躑躅重の夢の君は梓子の信じられない言葉を吐いた。

「お待ちを。大姫様の御座所は東対で」
「大姫? そんな者に用はない」
「!」

 御簾の内の空気が凍りつく。事実、夢の君は東対を一顧だにせず、小川(いさらがわ)を越えてまっすぐ寝殿の(きざはし)へと向かった。

「……ッ」
「あっ、姫様!?」

 咄嗟に梓子も動き、乳母の制止を無視して枢戸を出ると密かに寝殿へと渡った。南廂の手頃な几帳の裏に隠れ、状況を見定めようとする。

 騒ぎを聞きつけたらしく、御簾を巻き上げた南廂から簀子縁に降りた尚方は、鷹揚さを装った眼差しで闖入者を問い質す。

「これは……、そのほうが当岐大社の若君か」
「如何にも。して、あなたがこの邸の主人か」

 高圧的な尚方の態度に、若君も微塵も怯まない。尚方は不快げに眉根を寄せた。

「いくら鹿の住む京の乾にお暮らしとは言え、このように無粋な妻問いは感心しませんな」

 洛外に住まう若君をさりげなく鄙つ者と嘲ったが、そんな皮肉もものともせずに受け流される。

「吾が妻を迎えに来た。弟姫を呼んでもらおう」
「我が大姫なれば、東対に」
「大姫ではない、弟姫だ」

 夢の君は、またも梓子を全否定した。迷いのない声に、尚方が若干焦りを見せる。

「おそれながら、この邸に姫は一人しかおりませぬ」
「左様にございます!」
「梓子!?」

 それでも主張を譲らない尚方の声にかぶさるように、梓子は打ち靡く黒髪を乱して几帳の陰から飛び出した。女王にあるまじき暴挙に尚方が驚きの顔を見せるが構っていられる余裕はない。高欄から身を乗り出し、惜しげもなく顔を晒して切々と訴える。

「若君様。わたくしが、わたくしこそがあなた様の妻。三年もの間文を交わしていた者にございます。わたくしはずっと、ずっとあなたのことを」

 若君が隻眼の視線を尚方から梓子へと移した。そして梓子の告白を遮り口を開く。

「誰だ、あなたは」

 その言葉は、梓子の心を粉々に打ち砕いた。