「……仕合を、辞退?」
「そうですわ」
緑子は嫣然と微笑む。
「わたくし、朔哉様の妻となることを幼き日よりずっと夢見てまいりましたの。そのために、あらゆる鍛錬をいたしましたわ。剣術もその一つ」
スッと緑子が竹刀を構えた。その姿勢は完璧と言っていい。竹刀の先を向けられただけで、光乃は動きを封じられる。どちらかにわずかでも動けば、打ち据えられると感じた。
「あなた、朔哉様にお輿入れすることを望んでいらっしゃらないのでしょう? お金が欲しいだけなんですのよね?」
光乃のこめかみから、つぅと汗が流れた。
(そうだ、私は優勝賞金の一万円が欲しい。でも、侯爵家に嫁ぎたいとは思わない)
朔哉の妻になることを夢見る人間を押しのけてまで、その権利を奪い取るべきではない。ならば、緑子の申し出を受けるべきかもしれない。そう考え、光乃が口を開きかけた時だった。
「緑子くん、君ともあろう人が八百長を持ち掛けるとは感心しないな」
現れたのは、戒籠寺朔哉だった。
「朔哉、様……」
狼狽えながらも竹刀を下ろし、緑子は口元に綺麗な笑みを形作る。それに対し、朔哉もふんわりと微笑みを返した。
「冗談だよね、緑子さん?」
「え? えぇ、当然ですわ!」
緑子は動揺を押し隠し、胸を張る。
「戒籠寺家当主の妻ともなれば、このように惑わしにかかる者も大勢近づいてきますから。この方に、それをはねつけるだけの器量があるか、わたくし試しましたの」
(試した?)
朔哉は目を細め、うんうんと頷く。
「では、二人の正々堂々たる仕合を楽しませていただくよ」
朔哉が立ち去ると、緑子は細く息を吐き出した。
「あの、緑子さん、さっきの話……」
「なんのことかしら!」
緑子は強めの語気で、光乃の言葉を封じる。
「あぁ、さっきの冗談のことですの? まさか本気になさってませんわよね? さぁ、行きますわよ!」
スッと背筋を伸ばし、緑子は先を行く。
(朔哉様の妻になりたい一心で、あんな構えが出来るようになったんだ、あの人)
先程、自分の動きを封じた完璧な構えを思い出す。
(それだけ本気の人)
光乃は気を引き締めた。
仕合は互角だった。
「おぉ……」
朔哉は光乃と緑子それぞれの動きに目を輝かせる。
(緑子くんの動きは魅せる剣術だ。舞うように華麗でありつつも力強い)
それに対して光乃の動きは、一切の色気がない。ただ愚直に、勝利を目指して鍛えて来た者の剣筋だ。さりながら、たまにきらりと鋭く光る時がある。
(木漏れ日のようだ)
木々を見上げ油断をしていると、思わぬタイミングで目を射られることがある。光乃の動きは、木漏れ日のように昨夜の胸を不意打ちで射抜いた。
(あぁ……)
光乃の勝気な瞳を思い出すと、朔哉の胸は締め付けられる。
(いつまでも見ていたい)
草原を撫でる風、滝の飛沫、揺らめく炎。朔哉は光乃から、そういった類の魅力を感じていた。
接戦の末、仕合は光乃の勝利に終わった。
「ううっ……」
泣き崩れる緑子に、光乃は酷く申し訳ない気持ちになる。
(私が勝っちゃったから、彼女の恋が……)
「やぁ、光乃くん」
そこへいつものように笑顔の朔哉がやって来た。心なしか朔哉の瞳は潤み、頬が薄紅色に染まっている。朔哉は当然のように光乃の手を取った。
「準決勝勝利おめでとう、光乃くん。君の洗練された動きから、一時も目が離せなかったよ。君の戦う姿を見られるのがあと一度かと思うと、楽しみなような勿体ないような複雑な心境だね」
朔哉の目つきに、おや、と光乃は思う。この目は見たことがある。説明会の際に、参加希望者たちが朔哉に向けていた眼差しだ。
(なぜ侯爵家の人が、私なんかにこんな目を)
気づいた瞬間、光乃は畏れ多い気持ちになった。
「あの、私よりも緑子さんの所へ行ってあげてください」
「うん?」
「私はもう勝者として十分な言葉をいただきました。でも緑子さんはあなたのことが好きで、朔哉様を思う気持ちは私なんかと比べ物にならなくて。でも、結果はこうだから。だから今、あなたの言葉を本当に必要としているのは、緑子さんです」
「光乃くん……」
朔哉が少し傷ついた顔つきになる。だが、そこへ飛んで来たのは緑子の鋭い声だった。
「余計な事なさらないで!」
緑子は赤く濡れそぼった目で、それでも気丈に光乃を睨みつける。びっしょりと額に浮かんだ汗に彼女の髪が貼りついている様子は、緑子がどれだけ真摯にこの戦いに挑んだかを物語っていた。
「光乃さん、あなたごときの情けは要りません。わたくしは敗者で、あなたは目標に一歩近づいた、ただそれだけのことです」
そう言い残し、緑子は背筋を伸ばし立ち去った。
「あのっ……!」
後を追おうとした光乃の手首を、朔哉が掴む。
「朔哉様、緑子さんを……!」
「勝者が敗者にかける情けは、時に酷く残酷なものだよ。君は堂々と胸を張り、妬みや憎しみを笑って受けとめたまえ。それが敗れた者に対する礼儀だ」
朔哉の真剣な顔つきに、光乃は戸惑う。
「君は私の妻になるかもしれないのだから、今からこういったことにも慣れていきたまえ」
そう言って朔哉はふわりと表情を和ませた。
(妻……)
その言葉を反芻し、光乃は身震いする。
(朔哉様は私を本気で妻に迎えようとしている? でも私は、清一郎に対して責任を取らなきゃいけない。ここまで来てしまったけど、どうすればいいんだろう……)
「お呼びでしょうか、父上」
八条家の居間へ呼び出された清一郎は、顔を強張らせてた。いよいよ、家を追い出される日が決まったのかと、暗澹たる気持ちを抱えていた。
「座れ」
子爵八条家当主である父親に促され、清一郎は正面のソファへと腰を下ろす。八条子爵が手で合図すると、使用人が風呂敷包みを持ってきた。卓の上でそれが広げられる。
じゃら、と音をさせ中から出てきたのは、割れた家宝の大皿だった。
「そうですわ」
緑子は嫣然と微笑む。
「わたくし、朔哉様の妻となることを幼き日よりずっと夢見てまいりましたの。そのために、あらゆる鍛錬をいたしましたわ。剣術もその一つ」
スッと緑子が竹刀を構えた。その姿勢は完璧と言っていい。竹刀の先を向けられただけで、光乃は動きを封じられる。どちらかにわずかでも動けば、打ち据えられると感じた。
「あなた、朔哉様にお輿入れすることを望んでいらっしゃらないのでしょう? お金が欲しいだけなんですのよね?」
光乃のこめかみから、つぅと汗が流れた。
(そうだ、私は優勝賞金の一万円が欲しい。でも、侯爵家に嫁ぎたいとは思わない)
朔哉の妻になることを夢見る人間を押しのけてまで、その権利を奪い取るべきではない。ならば、緑子の申し出を受けるべきかもしれない。そう考え、光乃が口を開きかけた時だった。
「緑子くん、君ともあろう人が八百長を持ち掛けるとは感心しないな」
現れたのは、戒籠寺朔哉だった。
「朔哉、様……」
狼狽えながらも竹刀を下ろし、緑子は口元に綺麗な笑みを形作る。それに対し、朔哉もふんわりと微笑みを返した。
「冗談だよね、緑子さん?」
「え? えぇ、当然ですわ!」
緑子は動揺を押し隠し、胸を張る。
「戒籠寺家当主の妻ともなれば、このように惑わしにかかる者も大勢近づいてきますから。この方に、それをはねつけるだけの器量があるか、わたくし試しましたの」
(試した?)
朔哉は目を細め、うんうんと頷く。
「では、二人の正々堂々たる仕合を楽しませていただくよ」
朔哉が立ち去ると、緑子は細く息を吐き出した。
「あの、緑子さん、さっきの話……」
「なんのことかしら!」
緑子は強めの語気で、光乃の言葉を封じる。
「あぁ、さっきの冗談のことですの? まさか本気になさってませんわよね? さぁ、行きますわよ!」
スッと背筋を伸ばし、緑子は先を行く。
(朔哉様の妻になりたい一心で、あんな構えが出来るようになったんだ、あの人)
先程、自分の動きを封じた完璧な構えを思い出す。
(それだけ本気の人)
光乃は気を引き締めた。
仕合は互角だった。
「おぉ……」
朔哉は光乃と緑子それぞれの動きに目を輝かせる。
(緑子くんの動きは魅せる剣術だ。舞うように華麗でありつつも力強い)
それに対して光乃の動きは、一切の色気がない。ただ愚直に、勝利を目指して鍛えて来た者の剣筋だ。さりながら、たまにきらりと鋭く光る時がある。
(木漏れ日のようだ)
木々を見上げ油断をしていると、思わぬタイミングで目を射られることがある。光乃の動きは、木漏れ日のように昨夜の胸を不意打ちで射抜いた。
(あぁ……)
光乃の勝気な瞳を思い出すと、朔哉の胸は締め付けられる。
(いつまでも見ていたい)
草原を撫でる風、滝の飛沫、揺らめく炎。朔哉は光乃から、そういった類の魅力を感じていた。
接戦の末、仕合は光乃の勝利に終わった。
「ううっ……」
泣き崩れる緑子に、光乃は酷く申し訳ない気持ちになる。
(私が勝っちゃったから、彼女の恋が……)
「やぁ、光乃くん」
そこへいつものように笑顔の朔哉がやって来た。心なしか朔哉の瞳は潤み、頬が薄紅色に染まっている。朔哉は当然のように光乃の手を取った。
「準決勝勝利おめでとう、光乃くん。君の洗練された動きから、一時も目が離せなかったよ。君の戦う姿を見られるのがあと一度かと思うと、楽しみなような勿体ないような複雑な心境だね」
朔哉の目つきに、おや、と光乃は思う。この目は見たことがある。説明会の際に、参加希望者たちが朔哉に向けていた眼差しだ。
(なぜ侯爵家の人が、私なんかにこんな目を)
気づいた瞬間、光乃は畏れ多い気持ちになった。
「あの、私よりも緑子さんの所へ行ってあげてください」
「うん?」
「私はもう勝者として十分な言葉をいただきました。でも緑子さんはあなたのことが好きで、朔哉様を思う気持ちは私なんかと比べ物にならなくて。でも、結果はこうだから。だから今、あなたの言葉を本当に必要としているのは、緑子さんです」
「光乃くん……」
朔哉が少し傷ついた顔つきになる。だが、そこへ飛んで来たのは緑子の鋭い声だった。
「余計な事なさらないで!」
緑子は赤く濡れそぼった目で、それでも気丈に光乃を睨みつける。びっしょりと額に浮かんだ汗に彼女の髪が貼りついている様子は、緑子がどれだけ真摯にこの戦いに挑んだかを物語っていた。
「光乃さん、あなたごときの情けは要りません。わたくしは敗者で、あなたは目標に一歩近づいた、ただそれだけのことです」
そう言い残し、緑子は背筋を伸ばし立ち去った。
「あのっ……!」
後を追おうとした光乃の手首を、朔哉が掴む。
「朔哉様、緑子さんを……!」
「勝者が敗者にかける情けは、時に酷く残酷なものだよ。君は堂々と胸を張り、妬みや憎しみを笑って受けとめたまえ。それが敗れた者に対する礼儀だ」
朔哉の真剣な顔つきに、光乃は戸惑う。
「君は私の妻になるかもしれないのだから、今からこういったことにも慣れていきたまえ」
そう言って朔哉はふわりと表情を和ませた。
(妻……)
その言葉を反芻し、光乃は身震いする。
(朔哉様は私を本気で妻に迎えようとしている? でも私は、清一郎に対して責任を取らなきゃいけない。ここまで来てしまったけど、どうすればいいんだろう……)
「お呼びでしょうか、父上」
八条家の居間へ呼び出された清一郎は、顔を強張らせてた。いよいよ、家を追い出される日が決まったのかと、暗澹たる気持ちを抱えていた。
「座れ」
子爵八条家当主である父親に促され、清一郎は正面のソファへと腰を下ろす。八条子爵が手で合図すると、使用人が風呂敷包みを持ってきた。卓の上でそれが広げられる。
じゃら、と音をさせ中から出てきたのは、割れた家宝の大皿だった。