(ふぅ……)
 初めて口にした洋食があまりにも美味しかったため、つい食べ過ぎてしまった光乃は、戒籠寺邸の庭園を散歩していた。
 噴水の所まで辿り着き、縁に腰を下ろす。そこへ足音が近づいてきた。
「隣、いいかな」
「朔哉様……」
 朔哉は並んで腰を下ろすと、光乃を見つめた。
「おめでとう。君が優勝してくれてとても嬉しいよ」
「ありがとう、ございます……」
 朔哉の優美な指先が、光乃の小さな(おとがい)を掬い上げる。光乃は至近距離で真正面から、朔哉の整った顔を見る羽目になった。
(ひぇ)
「光乃くん、私の妻になってくれるね?」
 魅了の力でも持っているのだろうか。朔哉の甘い声に脳がとろかされ、つい光乃は頷きそうになってしまう。
「ま、待ってください!」
 ギリギリで踏みとどまった光乃は、慌てて少し距離を置いた。頬の熱さと胸の高鳴りを感じながらも。
「わ、私には侯爵夫人なんて務まりません。それに、朔哉様のことが本当に好きな人は別にいらっしゃいます!」
「……」
「わ、私は賞金が欲しかっただけです。栄誉ある立場は、どうか朔哉様を愛する他の方に」
「私を愛する他の者?」
 朔哉は寂しげに笑った。
「いるのだろうかね。皆、侯爵夫人の地位が欲しいだけじゃないかな」
「え……」
「私が何も持たぬ男でも、今と同じように思いを捧げてくれただろうか?」
「それは、わかりませんけど……」
 光乃の言葉に朔哉は笑う。
「素直だね、君は。そこは『朔哉様が何者でも、きっと皆は愛します』と返すところだよ?」
「す、すみません!」
「いいんだ。君のその素朴さが、私にはとても心地よいのだから」
 朔哉が星を見上げた。
「君がこの大会へ参加するきっかけとなった、八条家への借金は無くなったそうだね」
「え? あ、はい」
 決勝戦の後すぐ、正宗から知らされた。
「家宝のお皿、無事に八条家へ戻ってきてよかったです」
「怒らないのかい? 君は騙されて、大金とその身を彼に奪われようとしていたのだよ?」
「借金もなくなったし、清一郎が追い出されることもなくなったんだから、もういいかなって」
「寛大だね」
 光乃も夜空を見上げる。
「もう少し早く分かっていればな。そしたらお金を稼ぐ必要がないから、途中で辞退も出来た。朔哉様の妻になりたい人の邪魔をせずに済んだ」
「まだ、そんなことを言うんだ。私には君が必要だと言うのに」
 言って朔哉は立ち上がり、そして光乃の足元へ跪いた。
「えっ? 朔哉様!」
 童話の王子がするように、朔哉は光乃の手をそっと取る。そしてそこへ唇を落した。
「ふぉ!?」
「光乃くん、君に話しておかなければならないことがある。……大事な話だ」
「大事な話?」
「あぁ、君のその強さを見込み、他の者に頼めないことをやってもらいたい」
 その時光乃の脳裏をよぎったのは、かつての正宗との冗談だった。

――女が血みどろで戦う姿に興奮するとか?
――……強い女に組み敷かれたい願望があるとか?」

「無理です!」
 慌てて手を引いた光乃に、朔哉は怯まず迫る。
「君でなければならないんだ!」
「いや、でも!」
「この国の民の命がかかってる、頼む!」
 朔哉の真剣な眼差しに、光乃は息を飲む。
「……民の命?」

 朔哉から聞かされたのは、光乃にとって驚くべき内容だった。
 戒籠寺家は侯爵であると同時に、この国の守護龍を祀る立場でもあると言う。守護龍は霊山の結界の中にいて、普段は人の目につかない状態にあるらしい。だが、人の世の厄災を吸い上げ続けた守護龍はやがて、毒霧のような穢れ『澱』にその身を覆い尽くされてしまう。そして毒気を浴び続ければ、守護龍の魂は人々に災いをもたらす荒魂に変じてしまうのだそうだ。
「この所、地震が頻発しているだろう? あれは荒魂になりつつある守護龍様が暴れておられる証だ」
「あの地震にそんな理由が?」
「今は少し足元が揺れる程度で済んでいる。神官たちが祝詞で防いでいるからね。けれど明日にも大勢の命を奪う大災害が起きたとて、不思議ではない状況なんだ」
 光乃がごくりと喉を鳴らした。
「戒籠寺家当主は数年おきに澱祓いの儀式を行い、災害を防いでいる。しかし今回は、我々の手に負えないことが分かったんだ」
「手に負えない?」
「今の守護龍様は、雌だ」
 ぽかんとなる光乃へ、朔哉は言葉を続ける。
「どういったわけか守護龍様へは、同性でなければ干渉できない。そしていつの間にか守護龍様の代替わりが行なわれたらしく、霊山にいたのは前回の澱祓いの時とは違う龍だったんだよ」
 朔哉は噴水に目をやり、言葉を続ける。
「はるか昔、千年ほど前にも一度尾に銀青色の筋を持った龍が現れたそうだ。男たちが手も足も出ない状態となり、儀式は失敗するかに思われた。その時、夫を守護龍様に傷つけられたことに激昂した一人の女丈夫が、たまたま夫の代わりに剣を奮い、無事儀式を成功させたと文献に残されている」
「そんな記録があったなら、常に戒籠寺家の女性にも準備をさせてておくべきだったのでは?」
「もっともだ。だが、千年前にたった一度だけ起きた例外だったため、その伝説の真偽は疑われていた」
(なのにそれが、現実に起こってしまった……)
 朔哉は真剣な瞳で光乃を見つめる。
「光乃くん。守護龍様を鎮める浄力と優れた身体能力が共に備わった、君の力が必要だ」
(……今回の催しは、儀式を完遂させる力を持つ女を探し出すのが目的だったんだ)
 朔哉は更に、初日に書かされた短冊についても説明する。最初のふるいわけが一万円の使い道でなく、浄力の有無で行われたことを光乃はここに来て知った。
「ここまで話した以上、君には協力してもらわなくちゃならない。ね? お願いするよ。次期侯爵夫人の座を、約束するから」
「要りません」
 光乃はすげなく言って立ち上がる。
「光乃くん」
「朔哉様が、どんな理由で私を必要としているかは解りました。だからその役目はお引き受けいたします。でも」
 光乃は朔哉を振り返る。
「いくら人材が必要だからって、朔哉様が気に染まぬ相手を妻に迎えるような、そんな自分を犠牲にするような真似は駄目です! そして私も、仕方なく迎え入れられてもうれしくありません」
 光乃の言葉に、今度は朔哉がぽかんとなった。
「え? いや、君のことは気に入って……」
 その時、噴水そばの茂みがガサガサと蠢き、人影が二つぬっと姿を現わした。