「……仕合を、辞退?」
「そうですわ」
緑子は嫣然と微笑む。
「わたくし、朔哉様の妻となることを幼き日よりずっと夢見てまいりましたの。そのために、あらゆる鍛錬をいたしましたわ。剣術もその一つ」
スッと緑子が竹刀を構えた。その姿勢は完璧と言っていい。竹刀の先を向けられただけで、光乃は動きを封じられる。どちらかにわずかでも動けば、打ち据えられると感じた。
「あなた、朔哉様にお輿入れすることを望んでいらっしゃらないのでしょう? お金が欲しいだけなんですのよね?」
光乃のこめかみから、つぅと汗が流れた。
(そうだ、私は優勝賞金の一万円が欲しい。でも、侯爵家に嫁ぎたいとは思わない)
朔哉の妻になることを夢見る人間を押しのけてまで、その権利を奪い取るべきではない。ならば、緑子の申し出を受けるべきかもしれない。そう考え、光乃が口を開きかけた時だった。
「緑子くん、君ともあろう人が八百長を持ち掛けるとは感心しないな」
現れたのは、戒籠寺朔哉だった。
「朔哉、様……」
狼狽えながらも竹刀を下ろし、緑子は口元に綺麗な笑みを形作る。それに対し、朔哉もふんわりと微笑みを返した。
「冗談だよね、緑子さん?」
「え? えぇ、当然ですわ!」
緑子は動揺を押し隠し、胸を張る。
「戒籠寺家当主の妻ともなれば、このように惑わしにかかる者も大勢近づいてきますから。この方に、それをはねつけるだけの器量があるか、わたくし試しましたの」
(試した?)
朔哉は目を細め、うんうんと頷く。
「では、二人の正々堂々たる仕合を楽しませていただくよ」
朔哉が立ち去ると、緑子は細く息を吐き出した。
「あの、緑子さん、さっきの話……」
「なんのことかしら!」
緑子は強めの語気で、光乃の言葉を封じる。
「あぁ、さっきの冗談のことですの? まさか本気になさってませんわよね? さぁ、行きますわよ!」
スッと背筋を伸ばし、緑子は先を行く。
(朔哉様の妻になりたい一心で、あんな構えが出来るようになったんだ、あの人)
先程、自分の動きを封じた完璧な構えを思い出す。
(それだけ本気の人)
光乃は気を引き締めた。
仕合は互角だった。
「おぉ……」
朔哉は光乃と緑子それぞれの動きに目を輝かせる。
(緑子くんの動きは魅せる剣術だ。舞うように華麗でありつつも力強い)
それに対して光乃の動きは、一切の色気がない。ただ愚直に、勝利を目指して鍛えて来た者の剣筋だ。さりながら、たまにきらりと鋭く光る時がある。
(木漏れ日のようだ)
木々を見上げ油断をしていると、思わぬタイミングで目を射られることがある。光乃の動きは、木漏れ日のように昨夜の胸を不意打ちで射抜いた。
(あぁ……)
光乃の勝気な瞳を思い出すと、朔哉の胸は締め付けられる。
(いつまでも見ていたい)
草原を撫でる風、滝の飛沫、揺らめく炎。朔哉は光乃から、そういった類の魅力を感じていた。
接戦の末、仕合は光乃の勝利に終わった。
「ううっ……」
泣き崩れる緑子に、光乃は酷く申し訳ない気持ちになる。
(私が勝っちゃったから、彼女の恋が……)
「やぁ、光乃くん」
そこへいつものように笑顔の朔哉がやって来た。心なしか朔哉の瞳は潤み、頬が薄紅色に染まっている。朔哉は当然のように光乃の手を取った。
「準決勝勝利おめでとう、光乃くん。君の洗練された動きから、一時も目が離せなかったよ。君の戦う姿を見られるのがあと一度かと思うと、楽しみなような勿体ないような複雑な心境だね」
朔哉の目つきに、おや、と光乃は思う。この目は見たことがある。説明会の際に、参加希望者たちが朔哉に向けていた眼差しだ。
(なぜ侯爵家の人が、私なんかにこんな目を)
気づいた瞬間、光乃は畏れ多い気持ちになった。
「あの、私よりも緑子さんの所へ行ってあげてください」
「うん?」
「私はもう勝者として十分な言葉をいただきました。でも緑子さんはあなたのことが好きで、朔哉様を思う気持ちは私なんかと比べ物にならなくて。でも、結果はこうだから。だから今、あなたの言葉を本当に必要としているのは、緑子さんです」
「光乃くん……」
朔哉が少し傷ついた顔つきになる。だが、そこへ飛んで来たのは緑子の鋭い声だった。
「余計な事なさらないで!」
緑子は赤く濡れそぼった目で、それでも気丈に光乃を睨みつける。びっしょりと額に浮かんだ汗に彼女の髪が貼りついている様子は、緑子がどれだけ真摯にこの戦いに挑んだかを物語っていた。
「光乃さん、あなたごときの情けは要りません。わたくしは敗者で、あなたは目標に一歩近づいた、ただそれだけのことです」
そう言い残し、緑子は背筋を伸ばし立ち去った。
「あのっ……!」
後を追おうとした光乃の手首を、朔哉が掴む。
「朔哉様、緑子さんを……!」
「勝者が敗者にかける情けは、時に酷く残酷なものだよ。君は堂々と胸を張り、妬みや憎しみを笑って受けとめたまえ。それが敗れた者に対する礼儀だ」
朔哉の真剣な顔つきに、光乃は戸惑う。
「君は私の妻になるかもしれないのだから、今からこういったことにも慣れていきたまえ」
そう言って朔哉はふわりと表情を和ませた。
(妻……)
その言葉を反芻し、光乃は身震いする。
(朔哉様は私を本気で妻に迎えようとしている? でも私は、清一郎に対して責任を取らなきゃいけない。ここまで来てしまったけど、どうすればいいんだろう……)
「お呼びでしょうか、父上」
八条家の居間へ呼び出された清一郎は、顔を強張らせてた。いよいよ、家を追い出される日が決まったのかと、暗澹たる気持ちを抱えていた。
「座れ」
子爵八条家当主である父親に促され、清一郎は正面のソファへと腰を下ろす。八条子爵が手で合図すると、使用人が風呂敷包みを持ってきた。卓の上でそれが広げられる。
じゃら、と音をさせ中から出てきたのは、割れた家宝の大皿だった。
「この皿のことだが」
父の厳しい声に、清一郎は膝の上でぐっと拳を固めた。
「……覚悟はできております」
「偽物だ」
(えっ?)
思わぬ言葉に清一郎は顔を上げる。八条子爵は頭痛を起こしたかのように、額に手を当て深いため息をついた。
「にせ、もの?」
「そうだ」
子爵は欠片を拾い上げ、軽く振る。
「割れてしまったとはいえ、ご先祖が帝から賜った家宝だ。金継ぎをさせようと職人に見せたところ、断面からこの皿が偽物であることが分かった」
「そんな……。では、本物の皿は?」
八条子爵の合図で、桐の箱が運ばれてくる。蓋を開けばその中から現れたのは、件の大皿だった。
「ど、どうして……」
「蝶子の仕業だ」
父の口から出たのは、清一郎を邪険にしていた継母の名だった。
「あの女は浪費を繰り返し、私の知らぬ場所で借金を抱えていた。それを返すため、この皿を売り払ったそうだ」
「家宝の、皿を……」
「しかし、これが八条家の家宝であることに気付いた骨董屋の主人が、すぐに私の元へ問い合わせて来たのだ。そこで明らかになった」
(そう言うことか)
あの日光乃が言っていた。大皿は縁側に不安定な状態で置かれており、引き戸を開けばそれに押されて落ちる仕組みになっていたと。あれも全て継母の仕業だったのだろう。清一郎は日頃からあの縁側で読書をしていた。最も引き戸を開ける可能性の高い清一郎に偽の皿を割らせ、それを理由に追い出すと言う計画を立てて。
言葉を失う清一郎の肩に、八条子爵の手が伸びる。
「すまなかったな、清一郎。仕事で家を空けがちだったため、お前が蝶子から嫌がらせを受けていることに、私は気付けずにいた。あの者からの報告も、鵜呑みにしてしまっていた」
「いえ、父上は何も悪くありません」
「蝶子は、遠くの別荘へやった。二度とこの屋敷の敷居は跨がせん」
「あ、あのっ、悠次郎は?」
生まれて間もない幼い弟を心配する清一郎を、子爵は驚いたように見る。
「心配いらん。悠次郎は引き取った。この家で立派に育てよう」
清一郎はほっと息をつく。その存在に家督を脅かされたとはいえ、赤子に罪はない。そして清一郎自身、これからもこの家で暮らせることに、崩れ落ちそうなほどの安堵を味わっていた。
(あ……)
問題が片付いたと同時に、一つのことを思い出す。
(これでもう、光乃を縛り付ける理由がなくなった……)
皿は割れるように仕掛けられたもので、そもそも偽物だった。それを教えてやれば、きっと光乃は安心する。責任や罪悪感から解放され、自由になれるはずだ。
(嫌だ……)
己の卑劣さに吐き気がする。それでも、光乃を自分に縛り付ける理由が欲しい。光乃が自主的に寄り添ってくれるほど、自分に魅力がないことを清一郎は理解していた。
(このことは黙っていよう)
清一郎は膝の上で、もう一度ぐっと両こぶしを握り締めた。
戒籠寺家の朔哉の部屋。朔哉は銀のトレイの上の短冊を眺めていた。
「いつ見ても素晴らしい浄力だ……」
光乃の短冊はひときわ輝いている。この時点で最有力候補ではあったが、例の任務を負わせるには身体能力の高さも重要だった。だが、決勝戦にまで勝ち上がった彼女であれば、全く問題はなさそうだ。
「日吉光乃……」
小柄で勝気な眼差しの少女。生命力にあふれ、戦う姿は猛々しく、そして……。
「ふふ……」
抱きしめた時の初心な反応を思い出すと、朔哉の口元には思わず笑みがこぼれる。そのいじらしい仕草もまた、朔哉の胸を打った。
欲しい、と感じた。自分の妻としても、戒籠寺家の子々孫々のためにも。
「朔哉様」
家令が書類を手に入室してきた。
「どうだった?」
「はい、日吉光乃様について調べてまいりましたが……」
家令の口から、調査報告書の内容が告げられる。
光乃は特に名のある一族の子孫でも、異能の家系でもない、そんな内容だった。
「あれだけの力を持ちながら、何の特別な血も継いでいないだと?」
「さようでございます。突然変異と申しましょうか」
朔哉は深いため息をつく。光乃がどこか名のある家や神聖なる血筋に繋がっていれば、妻に迎える際に周囲に対して説得力が増す。平民風情と、誹りや妬みを受けることも避けられる。思惑の外れた朔哉は落胆した様子で窓の外へと目を向けた。
「……それでも私は、光乃が欲しい」
決勝戦の日がやって来た。
「よっ、日吉光乃。アタシは迫塚時緒ってんだ。今日はよろしくな」
目の前に立った人物に、光乃と正宗は目を丸くする。
時緒は光乃より頭二つ分ほど背が高く、正宗と並んでもほぼ変わらない。その上肩幅もあり、がっちりした体つきであった。太めの黒髪を頭の高い部分で束ねており、頭を揺らすごとにそれは鞭のようにしなる。これまで彼女の存在に気付かなかったことが、不思議なくらいであった。
「負けるつもりはないよ」
濃い目の眉の下から、ぎょろりとした目が光乃を見下ろしている。握手を求められ手を差し伸べると、厚みのある掌が光乃の小さな手を覆い隠した。
「やー、結婚なんてすっかり諦めてたんだけどさぁ。ここに来てツキが回って来たねぇ」
時緒は喉の奥を見せ、ゲラゲラと笑う。
「ほら、アタシみたいなのはまともに嫁取りしちゃもらえないだろ?」
「えっ? いや、それはなんとも」
「けど、ここでアンタに勝てばアタシは侯爵夫人様だ! さんざアタシを見下してた奴らの吠え面が見られるぜ」
腰に手を当て、喉を逸らして豪快に笑う時緒に、光乃はただ圧倒される。
「それにさ」
時緒はグイと身をかがめ、光乃の耳元へ囁いた。
「アタシはこんなでも、昔から細っこい美少年が好きなんだよね。朔哉様みたいな。ガラじゃないのは解ってんだけどさ」
「え」
「侯爵夫人になれば、朔哉様とは王子様とお姫様みたいに暮らせるのかねぇ。はは、夢みたいだ」
少し照れくさそうに言う時緒を、光乃は可愛らしいと思った。
時緒が去ると、正宗が口を開いた。
「俺と同じくらいの上背だったな」
「そうだね。あれだけ恵まれた体格だと、仕事も色々やりやすいんだろうな」
家事の際、しょっちゅう踏み台を必要とする光乃にしてみれば、時緒の身長は羨ましい。
「……俺、女装して出場してもばれなかったんじゃねぇか?」
真面目腐った正宗の声音に光乃は吹き出した。
「まだ諦めてなかったの? 侯爵夫人の座」
「違ぇ」
「じゃあ、賞金の一万円だ」
「そっちは欲しいけど、そうじゃなくてよ」
正宗が光乃へ向き直る。
「俺が出場すれば、お前が勝ち上がるのを阻止することができる。後は適当に俺も辞退すればいい」
光乃の顔から笑いが消えた。
正宗の言葉を、光乃は怪訝に思う。
「確かにこれまで正宗に勝てたことないけど。なんでそんな意地悪言うの?」
「意地悪じゃねぇよ。お前がこの大会に出たのは、八条の坊ちゃんに償うためなんだろ?」
「……うん」
「それは俺が代わりに払ってやるって言ってんだ」
正宗が光乃の小さな体を引き寄せ、抱きしめた。
「あいつはお前の優しさに付け込み、お前を支配する気だ。大切な妹分に許せねぇよ」
「だけど、清一郎は私の罪を被って、家を追い出されるんだよ?」
「知るか。それはあいつが自分の意思で勝手にやったことだ。光乃が責任を感じる必要はねぇ」
「だけど!」
光乃を抱く正宗の腕に力がこもる。光乃の肺が押しつぶされ、息が漏れた。
「それに今日勝利をすればお前は、朔哉殿の妻になる。それも嫌だ」
「そこはきっと何とかなるよ。侯爵様が私みたいな平民を、本気で選ぶわけないじゃない」
「行かせたくない、お前を他の誰の所にも」
「正宗……」
その時、足音が聞こえた。
「こんなところで何をしているんだい、光乃くん。もう仕合が始まるよ」
(あ……)
光乃は慌てて正宗から身を離す。
「光乃!」
「行ってくるね、正宗!」
光乃は朔哉へ一礼すると、仕合場へと駆け去った。
「……」
睨みつける正宗へ、朔哉は満開の桜のような微笑みを向ける。
「安心してくれたまえ。君の妹分は大切に扱おう」
正宗の歯が、ギリッと鳴った。
正宗の手が触れた部分が今も熱い。
(集中!)
光乃は頭を一つ振り、竹刀を構えると対戦者に目を向けた。
(正宗と向き合ってるみたい)
剣術道場で幾度も打ち合った相手に似た体格。ならばこそ。
(この間合いなら、少しは慣れてる)
速さや攻撃の仕方は正宗と異なる。けれど、相手の攻撃がどの辺りまで届くか、そして自分はどこまで踏み込めば相手に届くか、その辺りは大体わかった。
(ぐっ、重い!)
時緒の攻撃を防げたものの、恵まれた体格から繰り出された一撃は、光乃の腕を痺れさせる。
(防戦のままでいれば、こちらの体力が先に削がれる)
ならば攻勢に出るしかない。
(だけど彼女の攻撃範囲が広くて、なかなか懐に入れない!)
苦戦する光乃の様子を、朔哉は落ち着かない様子で見ていた。隣に立つ正宗も、似た表情をしている。
「光乃くんに負けてほしいかい?」
「いや」
朔哉に問われ、正宗は仕合場を睨みつけたまま即座に答える。
「そうかい? 君は、可愛い妹分を私の元にやりたくないのだろう? それは負けを望んでいるのではないかな?」
「勝ってほしくない気持ちはある。だが、光乃が勝利を求めている以上、俺はそれを否定せん」
ふぅんと頷き、朔哉も戦う光乃に目を向けた。それを正宗は横目で睨む。
「随分とうちの光乃にご執心だな」
「君の妹分は魅力的だからね」
「なら、あの対戦相手が勝ったらどうするんだ」
「当然、彼女を妻に迎えるさ」
朔哉の返事に、正宗は少し驚く。
「そうなのか?」
「その約束で始めた大会だからね。だけど……」
朔哉が光乃へ注ぐ視線は、やわらかく優しい。
「……出来れば好きになった相手を娶りたいね」
その時、地面が大きく揺れた。
「うお!?」
会場から悲鳴が上がる。
「地震だ!」
「大きい!」
朔哉の目が、険しく細められる。
「明日まで、耐えてくれ……」
その言葉は、どこへ向けたものだったのか。
「うわっ!」
地震の影響は、仕合にも出ていた。大きく前に踏み出そうとした時緒は、重心をかけた右足を宙に浮かせた状態だったのだ。片足立ちの状態で大きな揺れを受け、その体が僅かに傾ぐ。光乃はそれを見逃さなかった。
パァンと小気味の良い音をたて、光乃の竹刀が時緒の胴を薙ぐ。
一本を示す旗が上がった。
「よしっ!」
朔哉と正宗が同時に声を上げる。それは二人の素直な気持ちから出たものだった。
だが正宗はすぐに気付く。これで光乃が朔哉に奪われてしまうと。
「くそっ……」
朔哉の元を離れ、正宗は人波をかき分けて光乃の元へ進む。その時、自分と同じような動きをしている人物を、正宗は見つけた。
「清一郎、殿……」
「大嶽の……」
顔を見合わせる二人に、一人の男が声を掛けて来た。
「おぉ、八条のお坊ちゃま! 皿の件は良かったですなぁ」
清一郎がぎくりとなる。
「皿って、家宝のあれか? 良かったってのはどういうこった」
「ま、待て、今その話は……!」
清一郎が焦って制止するも男はそれに気づかず、正宗へ人のいい顔を向ける。
「家宝の皿を割っちまったって、お坊ちゃまは家から放逐されそうになっておられたんですよ。ところが真犯人はあの後妻さんだと判明したそうで。お坊ちゃまの濡れ衣は無事晴れたってわけですわ」
正宗が首を巡らせ、清一郎を見る。
「本当か?」
「……あ、あぁ」
「光乃には?」
「まだ……」
清一郎の卑屈な表情から、正宗は彼が真実を隠すつもりだったことに気付いてしまう。怒鳴りつけようと眉を吊り上げた正宗だったが、何とか怒りを押さえこみ清一郎へ言った。
「もう光乃を縛る理由はないよな?」
「……」
清一郎が唇を噛みうなだれる。正宗は清一郎から冷たく視線を切ると、光乃の元へと急いだ。勝者へ祝いの言葉を届けるために。
光乃が優勝を収め、数日間に及んだ『武闘会』は幕を閉じた。
その夜、戒籠寺侯爵家では参加者たちを慰労するためのパーティーが執り行われた。
(ふぅ……)
初めて口にした洋食があまりにも美味しかったため、つい食べ過ぎてしまった光乃は、戒籠寺邸の庭園を散歩していた。
噴水の所まで辿り着き、縁に腰を下ろす。そこへ足音が近づいてきた。
「隣、いいかな」
「朔哉様……」
朔哉は並んで腰を下ろすと、光乃を見つめた。
「おめでとう。君が優勝してくれてとても嬉しいよ」
「ありがとう、ございます……」
朔哉の優美な指先が、光乃の小さな頤を掬い上げる。光乃は至近距離で真正面から、朔哉の整った顔を見る羽目になった。
(ひぇ)
「光乃くん、私の妻になってくれるね?」
魅了の力でも持っているのだろうか。朔哉の甘い声に脳がとろかされ、つい光乃は頷きそうになってしまう。
「ま、待ってください!」
ギリギリで踏みとどまった光乃は、慌てて少し距離を置いた。頬の熱さと胸の高鳴りを感じながらも。
「わ、私には侯爵夫人なんて務まりません。それに、朔哉様のことが本当に好きな人は別にいらっしゃいます!」
「……」
「わ、私は賞金が欲しかっただけです。栄誉ある立場は、どうか朔哉様を愛する他の方に」
「私を愛する他の者?」
朔哉は寂しげに笑った。
「いるのだろうかね。皆、侯爵夫人の地位が欲しいだけじゃないかな」
「え……」
「私が何も持たぬ男でも、今と同じように思いを捧げてくれただろうか?」
「それは、わかりませんけど……」
光乃の言葉に朔哉は笑う。
「素直だね、君は。そこは『朔哉様が何者でも、きっと皆は愛します』と返すところだよ?」
「す、すみません!」
「いいんだ。君のその素朴さが、私にはとても心地よいのだから」
朔哉が星を見上げた。
「君がこの大会へ参加するきっかけとなった、八条家への借金は無くなったそうだね」
「え? あ、はい」
決勝戦の後すぐ、正宗から知らされた。
「家宝のお皿、無事に八条家へ戻ってきてよかったです」
「怒らないのかい? 君は騙されて、大金とその身を彼に奪われようとしていたのだよ?」
「借金もなくなったし、清一郎が追い出されることもなくなったんだから、もういいかなって」
「寛大だね」
光乃も夜空を見上げる。
「もう少し早く分かっていればな。そしたらお金を稼ぐ必要がないから、途中で辞退も出来た。朔哉様の妻になりたい人の邪魔をせずに済んだ」
「まだ、そんなことを言うんだ。私には君が必要だと言うのに」
言って朔哉は立ち上がり、そして光乃の足元へ跪いた。
「えっ? 朔哉様!」
童話の王子がするように、朔哉は光乃の手をそっと取る。そしてそこへ唇を落した。
「ふぉ!?」
「光乃くん、君に話しておかなければならないことがある。……大事な話だ」
「大事な話?」
「あぁ、君のその強さを見込み、他の者に頼めないことをやってもらいたい」
その時光乃の脳裏をよぎったのは、かつての正宗との冗談だった。
――女が血みどろで戦う姿に興奮するとか?
――……強い女に組み敷かれたい願望があるとか?」
「無理です!」
慌てて手を引いた光乃に、朔哉は怯まず迫る。
「君でなければならないんだ!」
「いや、でも!」
「この国の民の命がかかってる、頼む!」
朔哉の真剣な眼差しに、光乃は息を飲む。
「……民の命?」
朔哉から聞かされたのは、光乃にとって驚くべき内容だった。
戒籠寺家は侯爵であると同時に、この国の守護龍を祀る立場でもあると言う。守護龍は霊山の結界の中にいて、普段は人の目につかない状態にあるらしい。だが、人の世の厄災を吸い上げ続けた守護龍はやがて、毒霧のような穢れ『澱』にその身を覆い尽くされてしまう。そして毒気を浴び続ければ、守護龍の魂は人々に災いをもたらす荒魂に変じてしまうのだそうだ。
「この所、地震が頻発しているだろう? あれは荒魂になりつつある守護龍様が暴れておられる証だ」
「あの地震にそんな理由が?」
「今は少し足元が揺れる程度で済んでいる。神官たちが祝詞で防いでいるからね。けれど明日にも大勢の命を奪う大災害が起きたとて、不思議ではない状況なんだ」
光乃がごくりと喉を鳴らした。
「戒籠寺家当主は数年おきに澱祓いの儀式を行い、災害を防いでいる。しかし今回は、我々の手に負えないことが分かったんだ」
「手に負えない?」
「今の守護龍様は、雌だ」
ぽかんとなる光乃へ、朔哉は言葉を続ける。
「どういったわけか守護龍様へは、同性でなければ干渉できない。そしていつの間にか守護龍様の代替わりが行なわれたらしく、霊山にいたのは前回の澱祓いの時とは違う龍だったんだよ」
朔哉は噴水に目をやり、言葉を続ける。
「はるか昔、千年ほど前にも一度尾に銀青色の筋を持った龍が現れたそうだ。男たちが手も足も出ない状態となり、儀式は失敗するかに思われた。その時、夫を守護龍様に傷つけられたことに激昂した一人の女丈夫が、たまたま夫の代わりに剣を奮い、無事儀式を成功させたと文献に残されている」
「そんな記録があったなら、常に戒籠寺家の女性にも準備をさせてておくべきだったのでは?」
「もっともだ。だが、千年前にたった一度だけ起きた例外だったため、その伝説の真偽は疑われていた」
(なのにそれが、現実に起こってしまった……)
朔哉は真剣な瞳で光乃を見つめる。
「光乃くん。守護龍様を鎮める浄力と優れた身体能力が共に備わった、君の力が必要だ」
(……今回の催しは、儀式を完遂させる力を持つ女を探し出すのが目的だったんだ)
朔哉は更に、初日に書かされた短冊についても説明する。最初のふるいわけが一万円の使い道でなく、浄力の有無で行われたことを光乃はここに来て知った。
「ここまで話した以上、君には協力してもらわなくちゃならない。ね? お願いするよ。次期侯爵夫人の座を、約束するから」
「要りません」
光乃はすげなく言って立ち上がる。
「光乃くん」
「朔哉様が、どんな理由で私を必要としているかは解りました。だからその役目はお引き受けいたします。でも」
光乃は朔哉を振り返る。
「いくら人材が必要だからって、朔哉様が気に染まぬ相手を妻に迎えるような、そんな自分を犠牲にするような真似は駄目です! そして私も、仕方なく迎え入れられてもうれしくありません」
光乃の言葉に、今度は朔哉がぽかんとなった。
「え? いや、君のことは気に入って……」
その時、噴水そばの茂みがガサガサと蠢き、人影が二つぬっと姿を現わした。
「そのお役目、わたくしもご協力いたしますわ! 人数は多い方がよろしいでしょう?」
「み、緑子くん!?」
「ふるい分けで残ったってこたぁ、アタシにも浄力ってやつがあるんだろ? なら、アタシだって両方の力が備わってるってことじゃねぇか!」
「時緒くん……」
朔哉は二人の言葉に一瞬喜色を浮かべたが、すぐに残念そうに首を横に振る。
「君たちの気持ちは嬉しい。だが、与えられる妻の座は一つしかない」
「あら、光乃さんは御辞退されるのでしょう?」
「うん」
あっさりと頷いた光乃へ、朔哉が慌てる。
「光乃くん!?」
「なら、この儀式でよりいい働きをした奴がいただくってことでどうだ?」
「いいですわねぇ、時緒さん。わたくし、負けませんことよ」
バチバチと火花を散らす緑子と時緒に、朔哉は普段の落ち着き払った仮面を失い、ただ途方に暮れて肩を落とす。その様子に、光乃はつい笑ってしまった。
「朔哉様、ことは一刻を争うんですよね? これから守護龍様を鎮めに向かいませんか?」
光乃たち一行は朔哉に率いられ、明け方に瑞岳の結界へ到着した。
「朔哉様!」
疲労困憊状態の男たちがボロボロになったしめ縄の前で、しわがれた声で祝詞を挙げていた。その足元には、千切れた紙垂がいくつも落ちている。結界が破られるのを、交代で食い止めていたことが一目でわかった。
「協力してくださる女人は見つかったのですね」
「あぁ。待たせてしまってすまない」
朔哉から光乃は剣を手渡される。
「これは澱祓いの儀における三種の神器の中でも、最も重要な剣だ。鞘はつけたままで守護龍様の澱に触れてほしい」
「わかりました」
緑子と時緒もそれぞれ勾玉の首飾りと銅鏡を手渡される。
「本来ならこれは神官の役割なのだが、頼んだよ二人とも」
「お任せ下さいまし」
「侯爵夫人の座はアタシのもんだぁ!」
時緒が雄叫びを上げながら結界内へ飛び込んでいく。
「あっ、抜け駆けはさせませんわよ!」
そう言い残し緑子の姿も結界内へと消えた。
(って、肝心の私が出遅れてどうする!)
剣を持った光乃も後に続こうとした時、朔哉が腕を掴み引き留めた。
「何ですか?」
「光乃くん、私は君が好きだよ」
「えっ?」
「責務のために仕方なく君を受け入れるわけじゃない。君の戦う姿、誰かを思いやる姿、欲のないところ……。いや、理由なんて本当はないのかもしれない。ただ私は君に惹かれている」
光乃は朔哉の真剣な眼差しを受けとめる。
「朔哉様、私は……」
刹那、足音が轟いたかと思うと大きな人影が草陰から飛び出し、光乃を小脇に掻っ攫った。
「ひぇ!」
「光乃! ほら、行くぞ!」
「ま、正宗!?」
「こっちの攻撃は通らなくても、お前を守ることなら俺にもできそうだからな。俺も行くぜ!」
ニッと白い歯を見せ、兄貴分は光乃を抱えたまま結界内へと突進していった。
唖然とその後ろ姿を見送る朔哉の横を、また一人若者が駆け抜けていく。
「僕はまだ貴様に謝っていないぞ、日吉光乃!」
清一郎もしめ縄を飛び越え、結界内へと身を躍らせた。
「……いつからどこで盗み聞きをしていたのだ、君たちは」
朔哉も皆に続き、結界内への侵入を試みる。
「おやめください。危のうございます、朔哉様! 今回は、我々男に出来ることは何も……!」
「いや、大嶽正宗の言った通りだ。たとえ守護龍様にこの手が届かなくとも、愛しい娘を守ることは出来ると思わないかい?」
結界内では、黒い靄に覆われた山のごとくそびえるものへ、三人の乙女が果敢に打ちかかっていた。
「せやっ!」
身軽に飛び回り剣を振り回す光乃は、確実に澱を薙ぎ払って行く。
「おらよっ!」
時緒は銅鏡を振り回し、暴れる黒い塊へ殴りかかっていた。
「ち、違うぞ、時緒くん! 鏡はそう使うものではない。面で陽光を受け、その光を澱に向けて照射するのだ」
しかし意外にも時緒の攻撃は効いているように見える。
「全く、野蛮な方には困ったものですわね」
緑子は弓でも引くように、勾玉の首飾りを引き絞る。不思議なことに緑子の手元に光の矢が生じ、それが黒い靄に覆われた守護龍へ向かって飛んで行った。矢の当たった部分の澱が、雲散霧消する。
「朔哉様、わたくしの華麗な弓捌き、ご覧になって?」
「あ、あぁ……」
それは見事な百発百中ではあったが、朔哉は内心こう思っていた。
(そんな使い方をする人間、初めて見るのだが。時緒くんといい女性が神器を使うと、いつもと違う効果が出るのだろうか)
「光乃、危ねぇっ!」
正宗が、光乃に襲い掛かる尾を正面から受ける。そのまま丸太のようなそれへ、がっきりと組み付いた。
「正宗、危ないからどいて!」
「俺は大丈夫だ! 捕まえといてやるから、今のうちどんどん祓っちまえ!」
光乃は頷き、尾の周辺の澱を祓いきる。輝く純白の体に、銀青色の筋が浮かんでいるのがはっきり見えるようになった。
「上の方はどうしよう、頭の辺りとか」
「尾から背へ駆け上りたまえ」
助言を与えたのは朔哉であった。
「守護龍様を踏みつけにしちゃっていいんですか?」
「構わない。そうしなければ剣が届かないからね」
「わかりました」
だが正宗が押さえてくれているとはいえ、守護竜の体はうねうねと抵抗し、尾の上によじ登るのには難儀する。朔哉も押さえるのを手伝ったが、踏ん張れども正宗と共に地面を引きずられた。
「日吉光乃、僕を使え!」
光乃の耳へ、聞きなれた声が届く。見れば清一郎が片膝をつき、立てた方の膝の上で手を組んでいた。
「そこから走って、僕の手に足を掛けろ。上へ放り投げてやる」
「え? あんたの手を踏めってこと?」
「そうだ」
清一郎の返事に、光乃は顔をしかめる。
「……ぇえ~、やだなぁ。後からねちねち文句言いそう」
「言わないから、早くやれ!」
「清一郎ヒョロいから、私が乗ったらこけそうだし」
「貴様くらい僕でも持ち上げられるわ! さっさとやれ!」
促され、光乃は清一郎へ向かって全力で走ると、その綺麗な手へぐっと足を掛ける。
「ふっ!」
光乃が踏み切るのと同時に清一郎は立ち上がり、小柄な体を放り上げた。
「うわっと!」
バランスを崩しながらも光乃は、守護龍の背へと着地する。
「ありがとう、清一郎!」
「ふん」
光乃が自分に背を向け剣を振り回し始めたのを確認し、清一郎は踏まれて擦り剝けた己の手を愛し気に見つめた。
半時後、澱祓いの儀は無事終了した。
「……すんげぇ綺麗だな」
「えぇ、まるで宝石のようですわ」
皆の見上げる先には、すっかり澱の払われた守護龍の純白の体があった。穏やかな青い瞳が、一行を見下ろしている。そこに敵意はまるでなく、ただ慈しむような眼差しだけがそこにあった。
「終わったぁ……」
走り回り剣を振り続けた光乃の体がぐらりと傾ぐ。それをいち早く受け止めたのは朔哉であった。
「お疲れ様、光乃くん」
「あ、朔哉さ……ふぎゅ!?」
思いがけず強い力で抱きしめられ、光乃の口から妙な声が絞り出される。
「よくやってくれたね。本当に、ありがとう光乃くん」
(ひ、ひえぇ……)
整いすぎるほど整った玉面が、目の前にある。くらくらと一層の眩暈を覚えた光乃を、横合いから出て来た大きな手が奪い取った。
「あー、朔哉殿? 大切な妹分に手を出さねぇでいただけますかねぇ?」
「おや、これは失敬」
ふんわりと微笑みながらも、朔哉はその双眸に油断ならない光をたたえる。
「いずれ私の妻となる光乃の兄君には、気を使うべきでした。側にいられる残り少ない時間を、私が奪ってしまってはいけないからねぇ」
「やりませんよ? 光乃本人が納得してないんで」
緑子もまた額を押さえ、膝からくずれおちる。
「あぁ、朔哉様。わたくしも眩暈が」
「おっと」
自分に寄りかかって来た緑子を受けとめ、朔哉が顔を覗き込む。
「確かに顔色が悪いね。浄力を消費しながら動き回ったのだから無理もない。すぐに山を下り、私の家で休もう」
「ううっ、朔哉様……」
続けて時緒も朔哉へと寄りかかる。自分より上背のある時緒を、朔哉は何とか受け止めた。
「だ、大丈夫かい時緒くん?」
「すみません、アタシもさっきから眩暈が」
「わかった。そう言えば昨夜は皆一睡もしていなかったね。少し休んでから下山することにしよう」
二人の乙女を抱きかかえて足を踏ん張る朔哉の姿に、光乃は思わず笑みをこぼす。
ふと視界の端に、清一郎の姿が入った。
「清一郎」
光乃に呼びかけられ、清一郎がびくりと肩を動かした。
「……なんだ、日吉光乃」
「さっきはありがとうね。手、痛かったんじゃない?」
清一郎は反射的に擦り剝けた自分の手を見る。そして慌てて背の後ろへ隠した。
「ふん、この程度。これでも僕は、かつて守護龍様を鎮める際に尽力したことで帝より地位をいただいた先祖を持つ、八条家の人間だぞ」
「あ、八条家も守護龍様絡みの家だったんだ……」
「そうとも! だからその……」
清一郎はうっすらと頬を染め、光乃から視線を逸らす。
「こういった形で貴様と共闘できたのも、何かの縁と言うか、運命と言うか……」
「あー、八条のお坊ちゃん。口の中でもしょもしょ言われても聞こえませんなぁ」
正宗が容赦なくぶった切ると、清一郎は露骨にムッとなった。
「い、いつまでそうやってベタベタしているのだ大嶽の! 兄妹同様に育ったとは言え、日吉光乃はもう立派な大人であろうが」
「他人に口出しされるいわれはありませんなぁ。俺たちは家族なんで、この先もず~っと。それよりちゃんと光乃に『ごめんなさい』できましたかぁ?」
「なっ、そ、それは……」
清一郎が、ちらっと光乃に視線を送る。
「……わ、悪かったな」
清一郎の態度に、正宗はすかさず攻勢に入る。
「え? 今のは何すか? もしかして謝ったつもりなんですかね、八条のお坊ちゃん?」
「う、うるさい大嶽の! 正式なものは、日吉光乃と二人になってからにする!」
「は? 大切な妹分と、二人きりになんてさせるわけねぇだろうが」
(はは……)
周りで飛び交うけたたましい声を聞きながら、光乃は正宗の腕の中、とろりとした心地の良い気怠さに身を任せる。
(これで、大災害は防げたんだよね……)
光乃が意識を手放す寸前、純白の竜が優しく自分を見下ろしているのが見えた気がした。
――終――