「――っ」
かすかな肩の痛みとともに、小姫は意識を取り戻した。
視界には、今にも雨が降り出しそうな曇天と、さっきまで立っていた崖が見える。小姫が落ちた衝撃で岩肌の一部が崩れ、あの白い花も巻き添えになったようだ。
(……ああ。これでもう、私は……)
小姫は、絶望的な気分で肩口に目をやった。
前触れもなく、また消えてしまった左腕。手をつないでいなかったからだろうか。側にいるだけではやっぱり駄目だったのだろうか。左足がまだ無事なのは、不幸中の幸いなのかもしれない。
地面が冷たい。山でこれ以上体を冷やすのはよくないだろう。小姫は起き上がろうとして、首をぐるりとめぐらした。
崩れ落ちた岩のかけらや、土や草などが散らばる中に、白いものが覗いている。その正体に気づき、小姫は思わず目を見開いた。
――あの、白い花だ。
「……くっ……」
小姫はうめきながら、右腕一本できしむ体を支えて起こした。立ち上がってみると、節々が痛むくらいで、左腕以外はどこも問題なく動く。
白い花は奇跡的に折れても枯れてもおらず、根っこごと地面に横たわっていた。傷つけないよう慎重にすくいあげ、手のひらにそっと乗せる。
ほっと息をついた。
触れてみてわかった。内側にあふれんばかりの力を蓄えていることが。
小姫に流れる妖怪の血のせいだろうか。使い方は、感覚でわかりそうな気がした。
(――そういえば、乙彦は……?)
周囲には見当たらない。
周りを見渡しながら少し歩くと、頂上へつながりそうな道を見つけた。ここから上って行けば、先ほどまでいた場所へ戻れそうだ。右手しか使えない上に、今にも雨が降りそうな天気。すぐにでも山を抜けなければ遭難してしまうかもしれない。
しかし、小姫はそこを通り過ぎて、木の影や岩の裏を覗きながら周囲を捜索した。
乙彦のあの様子からして、小姫を見捨てたのは間違いないだろう。山に連れてきたのも含め、乙彦の策略だったのかもしれない。
(……でも、花は、本物だった)
結果的に、小姫の傷は大したことなく、目的の物は手中にある。本気で彼女を殺そうとしたのであれば、あまりにも杜撰な計画だ。
「――どうして、ここまで来てしまったのです……?」
小さな洞窟を見つけ、中に入ろうか迷ったとき、奥から乙彦の声が聞こえた。小姫は一瞬ためらった後、意を決して暗闇に足を踏み入れた。
今度こそ命を奪われるかもしれない。だが一方で、そんなことにはならないという気も、確かにした。
乙彦は、洞窟の壁に背をもたせかけるようにして座り込んでいた。おそるおそる近づいていくと、彼の視線が、まだ消えたままの左腕をとらえ、次いで、白い花へと移動した。
花に視線を固定しながら、責めるような口調で付け足す。
「しかも、腕も治していない……」
「……このまま別れたら、二度と会えないような気がしたから」
小姫はまた一歩、近づいた。
「ねえ、教えて。あの時何があったの? ……本当は、私が乙彦に、ひどいことをしたんじゃないの?」
恨まれるような、ひどいことを。
事故の時、小姫が倒れていた地面には、おびただしい量の血液がしみこんでいたらしい。小姫自身も血まみれだったというが、そんなに大量に出血するような傷跡は彼女の体には見つからなかった。
だとしたら、重傷を負ったのは乙彦なのかもしれない。小姫は命を救ったのではなく、逆に、彼が傷を負うようなことをしてしまったのだ。それこそ、命の危機に瀕するような。
今日まで見てきた乙彦は、いたずらに人に害をなすような妖怪ではなかった。自分の傷をいやすために、やむなく小姫の腕と足を食らったのならば納得できる。
(……もっと、妖怪のこと、お母さんに聞いておくんだった……)
妖怪の体の仕組みなんて知らない。だからこれは、完全に小姫の憶測だ。
小姫が記憶を失ったのは、自分がしたひどい行為にショックを受けたためで、乙彦はそのせいで自分を恨んでいるのではないだろうか。さっき小姫を見捨てたのは、その時のささいな意趣返しだったのかもしれない。
決して、本気で小姫を殺すつもりはなかったのだ。
「…………」
小姫の話が終わると、乙彦は小さくうめいた。怒らせたのかと思って小姫は肩をすくめたが、どうやら笑っているようだった。
「小砂利の話は、全部的外れなのです」
しかし、次に聞こえた声は、むしろ悲しみの色をともなって洞窟に響いた。
「……あの時死にかけたのは、ヒメの方だったのです」
――あの夏の日。乙彦は少年たちが騒いでいるところに出くわした。
様子をうかがっていると、彼らの仲間の一人が川でおぼれているようだった。助けてくれと頼まれ、乙彦は得意の泳ぎでその子どもを岸辺へ運んだ。
だが、それは嘘だったのだ。
不意を突かれて背後から石で殴られた乙彦は、少年たちに取り囲まれた。最初の一撃で頭をやられていなければ、自力で逃れることができただろう。が、もうろうとしていた乙彦は、ろくに抵抗もできないまま、棒きれや鞄で叩かれ続けた。
その時、現れたのが小姫だった。彼女は母に言いつけるぞと彼らを脅し、蹴散らした。乙彦は無事に助けられたのだが――、運が悪かったのだろう。土手にうずくまっている二人に気づかずに、車が突っ込んできたのである。
小姫はとっさに乙彦を突き飛ばした。そうして、彼女が犠牲になった。
車はそのまま走り去ってしまい、その場には、二人だけが残された。
「……あなたはほぼ、虫の息だったのです」
小姫は左半身を強く打ち、特に、腕と足は見るも無残な状態だった。血はどくどくと流れ続けており、このままではほどなく命の灯(ともしび)が消える。そう判断した乙彦は、一か八か、欠損した部分を妖力で補うことにしたのである。
しかし、人一人分の命をつなぎとめるには、膨大な妖力が必要になる。自身の回復もままならない有り様の彼が残った力を振り絞っても、到底足りるわけがない。
小姫の腕と足を食らったのはそのためだ。残したところで修復できる状態ではなかった。それに、人間の体は妖怪にとって強力な栄養源になる。
力をつけた乙彦は、小姫にありったけの妖力を注ぎ込んだ。おかげで彼女は生命の危機を脱することができたのだ。
欠損した腕と足は、時間をかけて少しずつ人間の部分が修復されていくだろう。やがては以前の体に戻れるはずだと想定していた。
しかし、先日、乙彦が力の供給をやめたとたん、小姫の左腕は消えてしまった。同じく、左足もだ。
「まさか、十年たった今も、修復していないとは思わなかったのです」
なぜなのかはわからない。もともと妖怪の血が入っていた小姫の体に、予想以上になじんでしまったのか。それが自然すぎて、元の形を体が忘れてしまったのか。
「……だから、花を? でも、それだったら――」
なぜ、私を。
小姫が飲み込んだ言葉を、乙彦は正確に察したらしい。口元が笑みの形にゆがんだ。
「……あなたさえいなければ」
「……え?」
「あなたさえいなければと、思ったのです」
小姫は一瞬、呼吸を忘れた。暗闇の中で、乙彦の目が濡れたように光った。
「人間は、嫌いではないのです。ただ……あなたのことは憎んでいる。あの時、あなた以外は誰ひとり、私を助けなかった。見て見ぬふりをして、誰もが通り過ぎた。それなのに、あなたが……。あなた一人だけが、私を助けたせいで、私は人間を嫌いになれない……!」
「――……」
乙彦は投げ出していた右手を持ち上げようとし――、しかし、そのまま下におろした。大きく息を吐き、続ける。
「すべて、あなたのせいなのです。ここを離れようと思っても、あなたがいるから離れられない。だから、私の手で殺そうとした……。あなたが死ねば、……いなくなれば、他の土地に移り住んで静かに暮らせると思った。――けれど、それもできなかったのです……」
先日の土砂崩れをきっかけに、とうとう岩の神もこの地を見放した。生まれたときから友人だった神だ。乙彦もこれを機に、この村を見限るつもりだった。
それなのに、この心は、どうしてこうもこの地を離れることを厭うのか。
乙彦は気だるげに目をそらした。そこでようやく、小姫は彼が動かないのではなく、動けないことに気づく。
「乙彦……?」
慌てて側によってしゃがみこむ。洞窟の外から入るほのかな明かりで、うっすらと乙彦の体が浮かび上がった。
「こっちに……、来てはいけないのです……!」
着物で隠れてよく見えないが、足か腕、または両方とも折れているのかもしれない。しかも、着物ににじんだ血の量はかなりのものだ。荒い呼吸を繰り返し、ときおりうめき声を押し殺している。
「まさか……」
小姫が崖から落ちても大した怪我がなかったのは、乙彦がかばったせいだったのか。
愕然とする小姫から傷を隠すように、乙彦は体をずらした。そして、追い払うように左腕を振った。
「もう、あなたの体を補うほどの妖力も私にはない。その花をもって、さっさと家に帰るのです。……私も、これで、思い残すことはなくなった……」
小姫は乙彦の傷に視線を移す。
思い残すことはないと言いながら、小姫の左足は消えていない。小姫が山を抜けるまで、力を注ぎ続けるつもりなのか。
自分の命が尽きるとしても。
「……その傷、妖力があれば治せるの?」
「ヒメ。だから――」
「ごめん。私……、そんなに、乙彦が苦しんでるなんて知らなかった。お母さんの娘なのに、何にもしていなかった。もう、跡継ぎじゃないからって、妖怪のこと、何も知ろうとしなかった。……何ができるかわからないけど、これから、頑張るから……!」
小姫は、白い花を彼の胸に強く押し付けた。花弁が淡く光り始め、次第に輝きを増していく。
乙彦が驚きに目を見張る。
「何を……!」
「この花の力、先に使って」
彼は、静かに終わりを迎えたいのかもしれない。これ以上、人間に関わりたくないのかもしれない。
だが、小姫はそんな気持ちのまま、乙彦を死なせたくはないと思ってしまった。
(私は、乙彦の次でいい。花の力が残るかは、わからないけど……)
乙彦は慌てて、まだ動く左手で小姫を引き寄せた。力の向かう先を変えようというのだろうか、花もろとも小姫の体を抱きしめる。
「――ヒメ。私は――……!」
光に包まれ、乙彦の声も小姫の声も聞こえなくなる。
お互いのことも見えなくなって――……。
かすかな肩の痛みとともに、小姫は意識を取り戻した。
視界には、今にも雨が降り出しそうな曇天と、さっきまで立っていた崖が見える。小姫が落ちた衝撃で岩肌の一部が崩れ、あの白い花も巻き添えになったようだ。
(……ああ。これでもう、私は……)
小姫は、絶望的な気分で肩口に目をやった。
前触れもなく、また消えてしまった左腕。手をつないでいなかったからだろうか。側にいるだけではやっぱり駄目だったのだろうか。左足がまだ無事なのは、不幸中の幸いなのかもしれない。
地面が冷たい。山でこれ以上体を冷やすのはよくないだろう。小姫は起き上がろうとして、首をぐるりとめぐらした。
崩れ落ちた岩のかけらや、土や草などが散らばる中に、白いものが覗いている。その正体に気づき、小姫は思わず目を見開いた。
――あの、白い花だ。
「……くっ……」
小姫はうめきながら、右腕一本できしむ体を支えて起こした。立ち上がってみると、節々が痛むくらいで、左腕以外はどこも問題なく動く。
白い花は奇跡的に折れても枯れてもおらず、根っこごと地面に横たわっていた。傷つけないよう慎重にすくいあげ、手のひらにそっと乗せる。
ほっと息をついた。
触れてみてわかった。内側にあふれんばかりの力を蓄えていることが。
小姫に流れる妖怪の血のせいだろうか。使い方は、感覚でわかりそうな気がした。
(――そういえば、乙彦は……?)
周囲には見当たらない。
周りを見渡しながら少し歩くと、頂上へつながりそうな道を見つけた。ここから上って行けば、先ほどまでいた場所へ戻れそうだ。右手しか使えない上に、今にも雨が降りそうな天気。すぐにでも山を抜けなければ遭難してしまうかもしれない。
しかし、小姫はそこを通り過ぎて、木の影や岩の裏を覗きながら周囲を捜索した。
乙彦のあの様子からして、小姫を見捨てたのは間違いないだろう。山に連れてきたのも含め、乙彦の策略だったのかもしれない。
(……でも、花は、本物だった)
結果的に、小姫の傷は大したことなく、目的の物は手中にある。本気で彼女を殺そうとしたのであれば、あまりにも杜撰な計画だ。
「――どうして、ここまで来てしまったのです……?」
小さな洞窟を見つけ、中に入ろうか迷ったとき、奥から乙彦の声が聞こえた。小姫は一瞬ためらった後、意を決して暗闇に足を踏み入れた。
今度こそ命を奪われるかもしれない。だが一方で、そんなことにはならないという気も、確かにした。
乙彦は、洞窟の壁に背をもたせかけるようにして座り込んでいた。おそるおそる近づいていくと、彼の視線が、まだ消えたままの左腕をとらえ、次いで、白い花へと移動した。
花に視線を固定しながら、責めるような口調で付け足す。
「しかも、腕も治していない……」
「……このまま別れたら、二度と会えないような気がしたから」
小姫はまた一歩、近づいた。
「ねえ、教えて。あの時何があったの? ……本当は、私が乙彦に、ひどいことをしたんじゃないの?」
恨まれるような、ひどいことを。
事故の時、小姫が倒れていた地面には、おびただしい量の血液がしみこんでいたらしい。小姫自身も血まみれだったというが、そんなに大量に出血するような傷跡は彼女の体には見つからなかった。
だとしたら、重傷を負ったのは乙彦なのかもしれない。小姫は命を救ったのではなく、逆に、彼が傷を負うようなことをしてしまったのだ。それこそ、命の危機に瀕するような。
今日まで見てきた乙彦は、いたずらに人に害をなすような妖怪ではなかった。自分の傷をいやすために、やむなく小姫の腕と足を食らったのならば納得できる。
(……もっと、妖怪のこと、お母さんに聞いておくんだった……)
妖怪の体の仕組みなんて知らない。だからこれは、完全に小姫の憶測だ。
小姫が記憶を失ったのは、自分がしたひどい行為にショックを受けたためで、乙彦はそのせいで自分を恨んでいるのではないだろうか。さっき小姫を見捨てたのは、その時のささいな意趣返しだったのかもしれない。
決して、本気で小姫を殺すつもりはなかったのだ。
「…………」
小姫の話が終わると、乙彦は小さくうめいた。怒らせたのかと思って小姫は肩をすくめたが、どうやら笑っているようだった。
「小砂利の話は、全部的外れなのです」
しかし、次に聞こえた声は、むしろ悲しみの色をともなって洞窟に響いた。
「……あの時死にかけたのは、ヒメの方だったのです」
――あの夏の日。乙彦は少年たちが騒いでいるところに出くわした。
様子をうかがっていると、彼らの仲間の一人が川でおぼれているようだった。助けてくれと頼まれ、乙彦は得意の泳ぎでその子どもを岸辺へ運んだ。
だが、それは嘘だったのだ。
不意を突かれて背後から石で殴られた乙彦は、少年たちに取り囲まれた。最初の一撃で頭をやられていなければ、自力で逃れることができただろう。が、もうろうとしていた乙彦は、ろくに抵抗もできないまま、棒きれや鞄で叩かれ続けた。
その時、現れたのが小姫だった。彼女は母に言いつけるぞと彼らを脅し、蹴散らした。乙彦は無事に助けられたのだが――、運が悪かったのだろう。土手にうずくまっている二人に気づかずに、車が突っ込んできたのである。
小姫はとっさに乙彦を突き飛ばした。そうして、彼女が犠牲になった。
車はそのまま走り去ってしまい、その場には、二人だけが残された。
「……あなたはほぼ、虫の息だったのです」
小姫は左半身を強く打ち、特に、腕と足は見るも無残な状態だった。血はどくどくと流れ続けており、このままではほどなく命の灯(ともしび)が消える。そう判断した乙彦は、一か八か、欠損した部分を妖力で補うことにしたのである。
しかし、人一人分の命をつなぎとめるには、膨大な妖力が必要になる。自身の回復もままならない有り様の彼が残った力を振り絞っても、到底足りるわけがない。
小姫の腕と足を食らったのはそのためだ。残したところで修復できる状態ではなかった。それに、人間の体は妖怪にとって強力な栄養源になる。
力をつけた乙彦は、小姫にありったけの妖力を注ぎ込んだ。おかげで彼女は生命の危機を脱することができたのだ。
欠損した腕と足は、時間をかけて少しずつ人間の部分が修復されていくだろう。やがては以前の体に戻れるはずだと想定していた。
しかし、先日、乙彦が力の供給をやめたとたん、小姫の左腕は消えてしまった。同じく、左足もだ。
「まさか、十年たった今も、修復していないとは思わなかったのです」
なぜなのかはわからない。もともと妖怪の血が入っていた小姫の体に、予想以上になじんでしまったのか。それが自然すぎて、元の形を体が忘れてしまったのか。
「……だから、花を? でも、それだったら――」
なぜ、私を。
小姫が飲み込んだ言葉を、乙彦は正確に察したらしい。口元が笑みの形にゆがんだ。
「……あなたさえいなければ」
「……え?」
「あなたさえいなければと、思ったのです」
小姫は一瞬、呼吸を忘れた。暗闇の中で、乙彦の目が濡れたように光った。
「人間は、嫌いではないのです。ただ……あなたのことは憎んでいる。あの時、あなた以外は誰ひとり、私を助けなかった。見て見ぬふりをして、誰もが通り過ぎた。それなのに、あなたが……。あなた一人だけが、私を助けたせいで、私は人間を嫌いになれない……!」
「――……」
乙彦は投げ出していた右手を持ち上げようとし――、しかし、そのまま下におろした。大きく息を吐き、続ける。
「すべて、あなたのせいなのです。ここを離れようと思っても、あなたがいるから離れられない。だから、私の手で殺そうとした……。あなたが死ねば、……いなくなれば、他の土地に移り住んで静かに暮らせると思った。――けれど、それもできなかったのです……」
先日の土砂崩れをきっかけに、とうとう岩の神もこの地を見放した。生まれたときから友人だった神だ。乙彦もこれを機に、この村を見限るつもりだった。
それなのに、この心は、どうしてこうもこの地を離れることを厭うのか。
乙彦は気だるげに目をそらした。そこでようやく、小姫は彼が動かないのではなく、動けないことに気づく。
「乙彦……?」
慌てて側によってしゃがみこむ。洞窟の外から入るほのかな明かりで、うっすらと乙彦の体が浮かび上がった。
「こっちに……、来てはいけないのです……!」
着物で隠れてよく見えないが、足か腕、または両方とも折れているのかもしれない。しかも、着物ににじんだ血の量はかなりのものだ。荒い呼吸を繰り返し、ときおりうめき声を押し殺している。
「まさか……」
小姫が崖から落ちても大した怪我がなかったのは、乙彦がかばったせいだったのか。
愕然とする小姫から傷を隠すように、乙彦は体をずらした。そして、追い払うように左腕を振った。
「もう、あなたの体を補うほどの妖力も私にはない。その花をもって、さっさと家に帰るのです。……私も、これで、思い残すことはなくなった……」
小姫は乙彦の傷に視線を移す。
思い残すことはないと言いながら、小姫の左足は消えていない。小姫が山を抜けるまで、力を注ぎ続けるつもりなのか。
自分の命が尽きるとしても。
「……その傷、妖力があれば治せるの?」
「ヒメ。だから――」
「ごめん。私……、そんなに、乙彦が苦しんでるなんて知らなかった。お母さんの娘なのに、何にもしていなかった。もう、跡継ぎじゃないからって、妖怪のこと、何も知ろうとしなかった。……何ができるかわからないけど、これから、頑張るから……!」
小姫は、白い花を彼の胸に強く押し付けた。花弁が淡く光り始め、次第に輝きを増していく。
乙彦が驚きに目を見張る。
「何を……!」
「この花の力、先に使って」
彼は、静かに終わりを迎えたいのかもしれない。これ以上、人間に関わりたくないのかもしれない。
だが、小姫はそんな気持ちのまま、乙彦を死なせたくはないと思ってしまった。
(私は、乙彦の次でいい。花の力が残るかは、わからないけど……)
乙彦は慌てて、まだ動く左手で小姫を引き寄せた。力の向かう先を変えようというのだろうか、花もろとも小姫の体を抱きしめる。
「――ヒメ。私は――……!」
光に包まれ、乙彦の声も小姫の声も聞こえなくなる。
お互いのことも見えなくなって――……。