妖怪村の異類婚姻譚

 その日の帰り道のことだ。いつものように手をつないで川沿いを歩いていると、やおら、乙彦が足を止めた。何気ない素振りで扇子を川へ向ける。

 すると、突如として水柱が激しく立ち上った。水しぶきを浴びた子どもたちが悲鳴を上げて、雲の子を散らすように逃げていく。

「お、乙彦!?」

 妖怪お得意のいたずらか?

 呆気に取られているうちに、乙彦はつないでいた手を離し、河原の方へ降りていく。小姫もあわてて後を追った。
 先ほど水柱がたったそこには、小さな妖怪が残されていた。鼠のような外見をしており、体中傷だらけで泣いている。

「わ、ひどい……。どうしたの、これ……?」
窮鼠(きゅうそ)なのです。最近はよくあることなのです」

 乙彦は当たり前のことのようにすげなく言った。

 思えば先日も、道すがら知らない子どもに石を投げられた。乙彦が素早く扇子で振り落としたのだが、いかにも日常茶飯事といった様子だった。母親もときおり愚痴(ぐち)る現状を、彼と過ごすこの数日間で小姫は痛切に感じていた。

 乙彦が何度か撫ぜると傷が消えていき、窮鼠はしゃくりあげながら頭を下げた。

「助けていただいて、ありがとうございます。ただ、水浴びをしていただけなのに……」
「ただ生きているだけで迫害されるのが私達なのです。慣れるしかないのです」

 乙彦は淡々とそれだけ言うと、あとは振り返りもせず土手を登っていく。

「ちょ……、ああもう、乙彦がごめんね! 今度何かあったら、私のお母さんに言って!」

 乙彦に待ってくれる気配はない。小姫は眉を吊り上げて追いかけていき、急いで横に並んだ。

「乙彦! なんであんなこと言うのよ。慣れろなんてひどいじゃない」
「事実なのです。慣れなければ……、ここでは生きていけないのです」

 その声がいつもより冷たく聞こえて、小姫は彼の顔を覗き込んだ。彼はすぐに笑みの形に目を細めたが、奥にくすぶる剣呑(けんのん)な光を隠しきれていないように見える。

 そう言えば、石を振り払った時も、こんな目をしていなかったか。登下校中は手をつなぐ約束だが、手を伸ばしたら振り払われそうで、小姫は腕を背中に回した。

「――乙彦も、やっぱり人間が嫌いなの?」

 今までになく冷え切った空気が耐えられず、小姫は思い切って口に出した。
 妖怪と人間との間に横たわる大きな溝。そんなものが、目を凝らせば二人の間にもあるのかもしれない。

「……嫌いではないのです」
「それ、嘘でしょ」
「嘘ではないのです。妖怪は、人間とは違って明らかな嘘はつけないのです」

 皮肉なのか、乙彦はそんな風に言うと、また小姫の手を取って歩き出した。歩みは速く、小姫は小走りでないとついていけない。乙彦の表情が見えないせいで話しかけることもできず、ただ黙って足を動かす。

「――ヒメの体、治す方法が他にもあるかもしれないのです」

 乙彦がそんなことを口にしたのは、あと数分で家に着くというときだった。唐突な言葉に、小姫は驚きの声を上げる。

「え!? ほんと!?」
「本当なのです。知りたければ、明日の午後、ついてくるのです」

 ただし、他の人には内緒で。
 乙彦はそう付け足した。

 明日は土曜で学校は休みだ。結婚しなくていい方法があるならば、知りたいに決まっている。
 乙彦の意味深な言葉に、一瞬、あの噂が頭をよぎったが、小姫は文字通り首を振ってその考えを振り払った。

 妖怪が言葉に縛られるのだとしたら、体を治す方法が他にあるというのは嘘ではないはず。誰が流したかもわからない噂に行動を制限されるなんて、ばかばかしい。
 小姫は大きくうなずき、乙彦が目を細めてそれを見やる。

 今日は家の中まで入らずに、乙彦は去って行った。おそらく、青峰に会いたくないからだろう。
 冷たかったはずの乙彦の手なのに、離されるとむしろ、うす寒く感じた。
 次の日、約束通り昼すぎに乙彦が迎えに来た。ちょうど母親と青峰は不在だったが、乙彦はやはり中に入ろうとしない。
 動きやすい服で来るように言われたので理由を尋ねると、これから山に登るらしい。

「山? 山って……、もしかして、この間、土砂崩れのあった?」
「今はもう安定しているから平気なのです」

 そうはいっても危険なのではないかと思ったが、乙彦は構わず歩き出す。おいて行かれそうになり、小姫は仕方なくあとを追った。

 川の上流に位置するその山には、ハイキングコースが設えられている。が、乙彦は早々にその道を外れた。けもの道だが、枯れ木や小さな岩がやたら落ちているくらいで、思ったほど荒れてはいない。崩れた場所も、記憶ではもっと奥の方だった。

「私の家も、この山にあるのです。今回は無事だったのですが、そろそろ潮時かもしれない。今後はおそらく、自然災害が頻繁に起きるようになる……。この山を守っていた岩の神も、とうとういなくなったから」
「え? それって――」
「この地を捨てたということなのです」
「え……」

 それだけ言うと、乙彦は背中を向け、問いかけを拒否するように足を速めた。

 うっそうと樹木の茂る山道を歩いていると、小姫の息が次第に上がってくる。急こう配の斜面では、見かねた乙彦が手を伸ばして引っ張り上げてくれた。しかし、そこをすぎると即座に、その手を離してしまう。

 気のせいだろうか。昨日の午後から、乙彦に避けられているように感じる。

「……乙彦、私のこと嫌いでしょう?」

 離された手を見つめながら問うと、乙彦は振り返らずに答えた。

「命の恩人を嫌うはずがないのです」
「それ、本当に私なの? 全然覚えてないんだけど」

「あの時は私だけでなく、ヒメも危ない目に遭ったのです。記憶がなくても仕方がないのです」
「危ない目って? 車に轢かれたこと?」
「――」

 乙彦は探るように小姫の目を見つめたが、何も言わずにまた歩き出した。小姫はもやもやとした気分のままついていくしかない。

 乙彦は確かな足取りで山道を進んでいく。草履なのに危なげなく歩けるのは、慣れているからか、はたまた妖怪だからなのか。
 おかげで、時折、見失いそうになる。わざとおいて行こうとしているのではないかと何度も疑った。しかし、諦めて帰ろうとするたびに、木々の間や岩の影に乙彦の一部を見つけてしまうのだ。結局、小姫は足早に駆けよって、不安を募らせながらも彼の歩に合わせる努力をするより他はなかった。

 やがて、周囲が明るくなってきた。

(……そろそろ、頂上かな……?)

 小姫の足はもう、限界だった。運動不足がたたって膝が震えている。

 少し先で待っていた乙彦が手を伸ばし、小姫の腕をつかんだ。力を入れて、一息に自分の隣に引き寄せる。
 足下から突風が吹きつけてきた。小姫はとっさに髪の毛を抑える。

 おそるおそる風の吹いてきた方角に目を向ければ、思わずのどから歓声がもれた。

「うわあ……!」

 眼下には幾重にも連なる山肌が一望できた。それほど高くはない山だが、だからこそ、眼前に迫る木々や斜面の一つ一つが、手触りをもってそこに在ると感じる。
 迫力に圧倒されてふらつくと、乙彦が背中に腕を回して支えてくれた。

「あ、ありがと……」
「……こっちなのです」

 親切なのかと思いきや、またもすぐに手を離して踵を返した。小姫が横に並ぶのを待って、崖の下を扇子で指し示す。

「あそこに、白い花が見えるのです」

 立ったまま真下に視線を向けるのはさすがに怖かった。小姫はしゃがんで、そっと前に体を傾ける。
 一メートルほど下だろうか。白く透き通る蓮に似た花が、そよ風に揺れていた。

「あれは、岩の神の置き土産なのです。十年蓄えた妖力で咲く、一輪しか存在しない花……。あの花を使えば、私の力を頼ることなく、ヒメは体を維持できるのです」

 乙彦はそう告げて、小姫をじっと見降ろした。扇子の影に口元を隠し、彼女の様子を観察している。

「あれが……」

 小姫は吸い寄せられるように、這いつくばって右手を伸ばした。しかし、どんなに腕を伸ばしても、花のあるところまでは全然足りない。仕方なく、もう少し、もう少し、と徐々に身を乗り出していく。

 ようやく、花弁に指先が触れた。岩を握る左手に力を込め、小姫はまた少し腕を伸ばす。そうやって、がく伝いになんとか茎をつかもうとしたその時――。

 小姫を眺めていた乙彦の目に、酷薄な色が宿った。

「――きゃっ!?」

 次の瞬間、支えにしていた左腕が消え失せた。バランスを崩した小姫の体は、空中に投げ出されてしまう。

 崖から落下しながら、小姫は一縷(いちる)の望みをかけて、乙彦の方へ右手を伸ばした。しかし、彼は助けるそぶりを見せるどころか、身動き一つしない。

(乙彦――……?)

 絶望が、見つめる先の景色を白黒に塗り替えた。モノクロ写真のように静止した世界の中で、乙彦の口だけが動いて見えた。


 ――さ、よ、な、ら、と。


 その映像を最後に、小姫は意識を手放した。
 小学一年生の夏、小姫は記憶の一部を失った。

 あれは確か、母親に頼まれて夕食の買い物に行った帰りだった。川の側で同年代の男の子たちが何かをしていて――。
 ――気が付いた時には、小姫は病院のベッドに寝ており、周囲を家族に囲まれていた。

 車に轢かれたんだよ、と、後で教えてもらった。出血も多かったはずなのに、擦り傷と数か所の打撲しか見当たらないのは不思議だと、医者は首をかしげていた。

 そうだ。あの時……。

 記憶の断片が、うっすらと浮き上がる。

 目が覚めてから数日後、左腕を見て思ったのだ。

 ――こんなに何もない、きれいな腕だっただろうか、と。

 草むらに分け入った時に細い葉で切った傷のかさぶたや、寝てる間にぶつけてしまったあざがあったのは、左腕じゃなかっただろうかと。
 思い過ごしかもしれない。記憶に自信がなくなった小姫は、そう思って、そのうち忘れてしまっていた。

 しかし、あれが気のせいではないとしたら――?

「――っ」

 かすかな肩の痛みとともに、小姫は意識を取り戻した。
 
 視界には、今にも雨が降り出しそうな曇天と、さっきまで立っていた崖が見える。小姫が落ちた衝撃で岩肌の一部が崩れ、あの白い花も巻き添えになったようだ。

(……ああ。これでもう、私は……)

 小姫は、絶望的な気分で肩口に目をやった。
 前触れもなく、また消えてしまった左腕。手をつないでいなかったからだろうか。側にいるだけではやっぱり駄目だったのだろうか。左足がまだ無事なのは、不幸中の幸いなのかもしれない。

 地面が冷たい。山でこれ以上体を冷やすのはよくないだろう。小姫は起き上がろうとして、首をぐるりとめぐらした。
 崩れ落ちた岩のかけらや、土や草などが散らばる中に、白いものが覗いている。その正体に気づき、小姫は思わず目を見開いた。

 ――あの、白い花だ。

「……くっ……」

 小姫はうめきながら、右腕一本できしむ体を支えて起こした。立ち上がってみると、節々が痛むくらいで、左腕以外はどこも問題なく動く。

 白い花は奇跡的に折れても枯れてもおらず、根っこごと地面に横たわっていた。傷つけないよう慎重にすくいあげ、手のひらにそっと乗せる。

 ほっと息をついた。
 触れてみてわかった。内側にあふれんばかりの力を蓄えていることが。
 小姫に流れる妖怪の血のせいだろうか。使い方は、感覚でわかりそうな気がした。

(――そういえば、乙彦は……?)

 周囲には見当たらない。
 周りを見渡しながら少し歩くと、頂上へつながりそうな道を見つけた。ここから上って行けば、先ほどまでいた場所へ戻れそうだ。右手しか使えない上に、今にも雨が降りそうな天気。すぐにでも山を抜けなければ遭難してしまうかもしれない。

 しかし、小姫はそこを通り過ぎて、木の影や岩の裏を覗きながら周囲を捜索した。
 乙彦のあの様子からして、小姫を見捨てたのは間違いないだろう。山に連れてきたのも含め、乙彦の策略だったのかもしれない。

(……でも、花は、本物だった)

 結果的に、小姫の傷は大したことなく、目的の物は手中にある。本気で彼女を殺そうとしたのであれば、あまりにも杜撰な計画だ。

「――どうして、ここまで来てしまったのです……?」

 小さな洞窟を見つけ、中に入ろうか迷ったとき、奥から乙彦の声が聞こえた。小姫は一瞬ためらった後、意を決して暗闇に足を踏み入れた。
 今度こそ命を奪われるかもしれない。だが一方で、そんなことにはならないという気も、確かにした。

 乙彦は、洞窟の壁に背をもたせかけるようにして座り込んでいた。おそるおそる近づいていくと、彼の視線が、まだ消えたままの左腕をとらえ、次いで、白い花へと移動した。
 花に視線を固定しながら、責めるような口調で付け足す。

「しかも、腕も治していない……」
「……このまま別れたら、二度と会えないような気がしたから」

 小姫はまた一歩、近づいた。

「ねえ、教えて。あの時何があったの? ……本当は、私が乙彦に、ひどいことをしたんじゃないの?」

 恨まれるような、ひどいことを。

 事故の時、小姫が倒れていた地面には、おびただしい量の血液がしみこんでいたらしい。小姫自身も血まみれだったというが、そんなに大量に出血するような傷跡は彼女の体には見つからなかった。

 だとしたら、重傷を負ったのは乙彦なのかもしれない。小姫は命を救ったのではなく、逆に、彼が傷を負うようなことをしてしまったのだ。それこそ、命の危機に瀕するような。

 今日まで見てきた乙彦は、いたずらに人に害をなすような妖怪ではなかった。自分の傷をいやすために、やむなく小姫の腕と足を食らったのならば納得できる。

(……もっと、妖怪のこと、お母さんに聞いておくんだった……)

 妖怪の体の仕組みなんて知らない。だからこれは、完全に小姫の憶測だ。
 小姫が記憶を失ったのは、自分がしたひどい行為にショックを受けたためで、乙彦はそのせいで自分を恨んでいるのではないだろうか。さっき小姫を見捨てたのは、その時のささいな意趣返しだったのかもしれない。
 決して、本気で小姫を殺すつもりはなかったのだ。

「…………」

 小姫の話が終わると、乙彦は小さくうめいた。怒らせたのかと思って小姫は肩をすくめたが、どうやら笑っているようだった。

「小砂利の話は、全部的外れなのです」

 しかし、次に聞こえた声は、むしろ悲しみの色をともなって洞窟に響いた。

「……あの時死にかけたのは、ヒメの方だったのです」

 ――あの夏の日。乙彦は少年たちが騒いでいるところに出くわした。

 様子をうかがっていると、彼らの仲間の一人が川でおぼれているようだった。助けてくれと頼まれ、乙彦は得意の泳ぎでその子どもを岸辺へ運んだ。

 だが、それは嘘だったのだ。

 不意を突かれて背後から石で殴られた乙彦は、少年たちに取り囲まれた。最初の一撃で頭をやられていなければ、自力で逃れることができただろう。が、もうろうとしていた乙彦は、ろくに抵抗もできないまま、棒きれや鞄で叩かれ続けた。

 その時、現れたのが小姫だった。彼女は母に言いつけるぞと彼らを脅し、蹴散らした。乙彦は無事に助けられたのだが――、運が悪かったのだろう。土手にうずくまっている二人に気づかずに、車が突っ込んできたのである。

 小姫はとっさに乙彦を突き飛ばした。そうして、彼女が犠牲になった。
 車はそのまま走り去ってしまい、その場には、二人だけが残された。

「……あなたはほぼ、虫の息だったのです」

 小姫は左半身を強く打ち、特に、腕と足は見るも無残な状態だった。血はどくどくと流れ続けており、このままではほどなく命の灯(ともしび)が消える。そう判断した乙彦は、一か八か、欠損した部分を妖力で補うことにしたのである。

 しかし、人一人分の命をつなぎとめるには、膨大な妖力が必要になる。自身の回復もままならない有り様の彼が残った力を振り絞っても、到底足りるわけがない。

 小姫の腕と足を食らったのはそのためだ。残したところで修復できる状態ではなかった。それに、人間の体は妖怪にとって強力な栄養源になる。

 力をつけた乙彦は、小姫にありったけの妖力を注ぎ込んだ。おかげで彼女は生命の危機を脱することができたのだ。
 欠損した腕と足は、時間をかけて少しずつ人間の部分が修復されていくだろう。やがては以前の体に戻れるはずだと想定していた。

 しかし、先日、乙彦が力の供給をやめたとたん、小姫の左腕は消えてしまった。同じく、左足もだ。

「まさか、十年たった今も、修復していないとは思わなかったのです」

 なぜなのかはわからない。もともと妖怪の血が入っていた小姫の体に、予想以上になじんでしまったのか。それが自然すぎて、元の形を体が忘れてしまったのか。

「……だから、花を? でも、それだったら――」

 なぜ、私を。

 小姫が飲み込んだ言葉を、乙彦は正確に察したらしい。口元が笑みの形にゆがんだ。

「……あなたさえいなければ」
「……え?」
「あなたさえいなければと、思ったのです」

 小姫は一瞬、呼吸を忘れた。暗闇の中で、乙彦の目が濡れたように光った。

「人間は、嫌いではないのです。ただ……あなたのことは憎んでいる。あの時、あなた以外は誰ひとり、私を助けなかった。見て見ぬふりをして、誰もが通り過ぎた。それなのに、あなたが……。あなた一人だけが、私を助けたせいで、私は人間を嫌いになれない……!」
「――……」

 乙彦は投げ出していた右手を持ち上げようとし――、しかし、そのまま下におろした。大きく息を吐き、続ける。

「すべて、あなたのせいなのです。ここを離れようと思っても、あなたがいるから離れられない。だから、私の手で殺そうとした……。あなたが死ねば、……いなくなれば、他の土地に移り住んで静かに暮らせると思った。――けれど、それもできなかったのです……」

 先日の土砂崩れをきっかけに、とうとう岩の神もこの地を見放した。生まれたときから友人だった神だ。乙彦もこれを機に、この村を見限るつもりだった。
 それなのに、この心は、どうしてこうもこの地を離れることを厭うのか。

 乙彦は気だるげに目をそらした。そこでようやく、小姫は彼が動かないのではなく、動けないことに気づく。

「乙彦……?」

 慌てて側によってしゃがみこむ。洞窟の外から入るほのかな明かりで、うっすらと乙彦の体が浮かび上がった。

「こっちに……、来てはいけないのです……!」

 着物で隠れてよく見えないが、足か腕、または両方とも折れているのかもしれない。しかも、着物ににじんだ血の量はかなりのものだ。荒い呼吸を繰り返し、ときおりうめき声を押し殺している。

「まさか……」

 小姫が崖から落ちても大した怪我がなかったのは、乙彦がかばったせいだったのか。
 愕然とする小姫から傷を隠すように、乙彦は体をずらした。そして、追い払うように左腕を振った。

「もう、あなたの体を補うほどの妖力も私にはない。その花をもって、さっさと家に帰るのです。……私も、これで、思い残すことはなくなった……」

 小姫は乙彦の傷に視線を移す。

 思い残すことはないと言いながら、小姫の左足は消えていない。小姫が山を抜けるまで、力を注ぎ続けるつもりなのか。
 自分の命が尽きるとしても。

「……その傷、妖力があれば治せるの?」
「ヒメ。だから――」
「ごめん。私……、そんなに、乙彦が苦しんでるなんて知らなかった。お母さんの娘なのに、何にもしていなかった。もう、跡継ぎじゃないからって、妖怪のこと、何も知ろうとしなかった。……何ができるかわからないけど、これから、頑張るから……!」

 小姫は、白い花を彼の胸に強く押し付けた。花弁が淡く光り始め、次第に輝きを増していく。
 乙彦が驚きに目を見張る。

「何を……!」
「この花の力、先に使って」

 彼は、静かに終わりを迎えたいのかもしれない。これ以上、人間に関わりたくないのかもしれない。
 だが、小姫はそんな気持ちのまま、乙彦を死なせたくはないと思ってしまった。

(私は、乙彦の次でいい。花の力が残るかは、わからないけど……)

 乙彦は慌てて、まだ動く左手で小姫を引き寄せた。力の向かう先を変えようというのだろうか、花もろとも小姫の体を抱きしめる。

「――ヒメ。私は――……!」

 光に包まれ、乙彦の声も小姫の声も聞こえなくなる。
 お互いのことも見えなくなって――……。
 ……どれだけ時間がたったのだろうか。

 暗闇に走る光に刺激され、小姫は目を開けた。

「――お嬢さん!?」

 光源に目が慣れるよりも早く、駆け付けた青峰に抱き起こされる。

「……青峰さん? どうしてここに……」
「昨日から様子が変だったから、山に入るのを見かけて、探していたんですよ」

 青峰は心底ほっとしたようにため息をつくと、まだぼうっとしている小姫を立たせて洞窟を出ようとした。

「さあ、雨が降る前に帰りましょう!」
「――っ、待って! まだ、乙彦が――」

 数歩行きかけてから、小姫ははっとした。

「乙彦? ってあの、河童の? ……いえ、ここにはお嬢さん以外誰もいませんでしたよ」
「そんなはず……」

 そんなはず、ない。だって、さっきまで、一緒に――。

 小姫はそう言いかけたが、最後まで言えずに口をつぐんだ。乙彦のいたはずの場所を振りかえってみると。


 ――青峰の言う通り、洞窟にはもう、誰の姿も無かった。

 あれから、一週間たった。

 小姫の左腕と左足は消えることなく、今も以前の形を保っている。
 あの花の力なのか、はたまた、乙彦の妖力なのか。力の区別などつかない小姫には、考えたところでわからない。

 今回の件では、青峰にも、そしてもちろん母親にも、随分心配をかけてしまった。
 青峰と一緒に家に帰った後、母親からはきつくお叱りを受けた。彼女は普段、鷹揚としているのでわかりにくいが、小姫を跡継ぎから外したのも、妖怪がらみで危険な目に遭わせることを危惧したかららしい。意外に過保護なのだと、小姫はこの時初めて知った。

「心配かけちゃって、ごめんなさい。……でも、妖怪のこと、もっと知りたいの。跡継ぎのことは置いといて、私にも、少しずつ教えてくれない?」

 そう頼むと、母親は困ったように笑いながらも、小姫の願いを受け入れてくれた。今後は彼女の都合がよければ、青峰とともに教えを乞うてもいいそうだ。

 小姫の体については、やっぱり母親もよくわからないらしい。

「ふうん。乙彦君がそんなことをねえ。……要するに、これから小姫が左半身も自分の体だっていう自覚をもつようになれば、徐々に人間の体として再生されていくかもしれないってことでしょ? なら、信じてみれば?」

 彼のしたことを話しても、母親の乙彦への信頼は揺るがなかった。小姫の命の恩人であることに加えて、以前から乙彦の姿を時折見かけていたらしい。

(乙彦は……)

 彼のことを考えると、ちくりと胸に痛みが走る。
 乙彦は、どうなったのだろう。

 気が付いた時には、洞窟に彼の姿はなかった。血の跡だけを残して、それ以外の痕跡はすべて消えていた。
 もし小姫の左腕が治っていなければ、あの花の力は乙彦のために使われたのだと思えたのに。

 唯一の救いは、洞窟に残された血の量が案外少なかったことだ。だからきっと、彼は自力で洞窟を抜け出したのだろうと、そう信じている。

 小姫の前から姿を消したのは、やっぱり憎んでいるからだろうか。もう、他の土地へ行ってしまったのだろうか。

(これから頑張るからって、言ったのに……)

 学校へ向かう足取りが重い。土手沿いを歩いていると、一週間前は乙彦の冷たい手に包まれていたのにと思ってしまう。

 当時の記憶はまだ思い出していない。それでも、助けてくれたお礼を言いたかった。今まで見守ってくれていたお礼すら、彼には伝えていないのだ。
 今はまだ止められているが、ほとぼりが冷めたら、乙彦が住んでいたというあの山へもう一度登ってみようか。一人ではまた心配させてしまうから、今度は青峰に付き添いを頼むことにして。

(……でも、もし、そこにもいなかったら?)

 ――緩慢ながらも進んでいた足が、ついに止まった。

 やるせない感情で胸が詰まる。この行き場のない気持ちは、どうしたらいいのか。
 ぶつけられる相手は乙彦しかいないのに、彼は彼で一人で勝手に自己完結して、別れも言わずにいなくなってしまった。

 乙彦だって、ぶつけてくれたら良かったのだ。恨みも、憎しみも。どんな感情も、すべて。
 そうしたら、小姫も言い返すことができただろう。喧嘩して、仲直りして、一緒にいられる道が見つかったかもしれなかった。

「……乙彦の、バカ」

 誰もいないことを確認して、朝の空気を肺の奥まで吸い込んだ。ゆるやかに流れる川に向かって思い切り叫ぶ。

「バーーーカ!」

 そうして、目元を拭って足を通学路に戻したその時、

「それは、聞き捨てならないのです」

奇妙な言葉遣いが聞こえると同時に、膝からひょいとすくい上げられた。小姫は悲鳴を上げて、目の前の物体にしがみつく。

「――って、乙彦!?」
「バカはヒメの方だと思うのです」

 乙彦は小姫を抱えたまま、学校へと歩き始める。

「せっかく私の力からも、私からも逃れられるチャンスだったのです。それを棒に振るなんて」
「――っ」

 突然の乙彦の出現に、小姫は動転した。それでも、二度と逃がすまいと首に回す手に力を込める。

「だって……、命を助けてもらったのは私の方だったでしょ。乙彦をあのままになんてしておけないよ」
「……また、殺そうとするかもしれないのです」

「そんなの、いつでもできたじゃない。今までずっと、私の側にいたんだから。――乙彦、今まで、守ってくれてありがとう……」
「――……」

 泣き顔を見られたくなくて、小姫はぎゅっと、目元を彼の肩口に押し付けた。

 トンビが遠くでのんきな鳴き声を上げている。のどかに流れる川の水音と、何かが草の間をカサコソと動く気配がする。
 都会に憧れてはいるが、小姫はこの村が嫌いではない。これから、母と、青峰と力を合わせれば、乙彦たち妖怪にとっても住みやすい場所を作れるだろうか。

 乙彦はしばらく黙って小姫を運んでから、わざとらしくため息をついた。そして、観念したように告げた。

「仕方ないのです。ヒメが嫌じゃなかったら、私は結婚しても構わないのです」
「うん……。……ん!?」

(結……婚?)

 ――今、もしかして、プロポーズされた?

「え? ちょ、ちょっと……?」
「本当はあの時、ヒメの一部を食らったことで、つながりはすでにできているのですが――」

「……え!?」
「こんなおバカな小砂利、私が一生面倒みるしかないような気がするのです」
「――わーっ、待って! ちょっと待って!」

 小姫は目を回しそうになりながら、頭の中を必死で整理する。
 あの事故の時から、すでにつながりはできていた。なら、結婚も婚約も必要ないということで……。

 いや、それよりも。

(き、聞き間違いよね? 今、なんか、プロポーズ的な言葉が? 星空の見えるレストランでもないのに? ……ありえないわ。気のせいに決まってる。第一、全然、情熱的じゃないし!)

 小姫が涙目で体を震わせていると、乙彦がにたりと笑って付け足した。

「小砂利の理想はかなえさせないのです」
「あ、あんた、わかっててわざと……っ!?」

 そういえば、こいつはこういうやつだった。
 乙彦に全身を任せているという状況に遅ればせながら危機感を抱き、小姫は手足をじたばたさせて降りようとした。しかし、妖怪の力なのか、痩身なはずの乙彦の腕はびくともしない。

 乙彦がくすくす笑う拍子に、笹の葉の耳飾りが楽しげに揺れて、しゃらんと鳴った。

(ち、違う……。あたしの理想の王子様が……! こんな、こんな――)

 ――こんなに口が悪くて、意地も悪い、横暴な河童になるなんて……!

「そんなの、絶対、認めないんだから――っ!」


 乙彦の言葉に胸が激しく高鳴ったのは何かの間違いだと、小姫は必死に自分に言い聞かせるのだった。

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