「ねえねえ……。あの噂知ってる?」
「なあに? どんな噂?」
「あのねー……。他人に酷い事した人が、ある日から、急に別人のようになったんだって」
「えー、なにそれー? 人って、そんなに簡単には変わらないよー」
「それが、変わった人が言うには、変な少年に会ったんだって」
「こわーい。そんなの、ただの都市伝説でしょ?」
「それが、そうでもないらしいよ」
「ふとしたときに、その少年は現れるんだって。みんなは罪狩りって言ってるらしいよー」
「ふーん。そうなんだー。私も狩られてみたいなあ」
 学校は午前中で終わった。中間テストだったからだ。狭い教室に閉じ込められて、合図と同時に問題を解かされる。生徒達は、日頃から将来を見据えて勉強している者、一夜漬けでヤマを張って挑戦する者まで、実に様々だ。
 私は後者にすら当てはまらない。はなから投げ出しているから。
 勉強に意味も価値も見出せずに、当たり前のように勉強しないでテストに臨んだ。
 結果は散々だった。名前を書いて問題に目を通すと、まるで暗号のように問題が頭の中を混乱させる。早々と気力を失い、机に突っ伏した。
 シャーペンシンシルが擦れる音は、まるで心の音。みんな生き急いでいるみたい。カツカツと忙しなく音を立てている。色んな場所から響いてくる。私はこの音が嫌いだ。静かな空間の中で、その音だけが鳴り続ける。奇妙な光景だとも思う。
 これから先も競争は続くのに。これまでも、競争してきたのに。私は早くにその流れから抜け出した。いや、逃げ出したのかもしれない。でも、意外と気楽なものだ。群れるのは嫌いだったから。
 後ろの席からの合図で目を覚ますと、右腕だけ後ろに手を回し答案用紙を受け取る。右から左までギッシリとで答えが書かれているのが、裏返しになった答案用紙からも分かる。こんな答案用紙を見せられると、なんだか、自分が間違った人間のような気がしてしまう。
 まあ、間違いなく、正しい人間ではないのだけれど。
 もともと、一か所に留まることは苦手だった。小学生から中学生へ、中学生から高校生へ進む段階で多くのことを学んだ。年齢を重ねるほどに、人は普通にならなければいけないと。でも、私にはその普通が理解できなかった。母親からも、普通の大学に行って、普通の会社に就職して、普通に結婚しなさいと言われ続けている。
 テストが終わると、クラス内は一気に騒がしくなった。騒めきの中で、私は目を閉じた。声が飛び交う中にいるのに、一人だけ遠くにいるみたいだ。私はどれだけ周りに人がいても、いつも孤独を感じる。目を開けると、みんなそそくさと帰り支度を始めていた。私は薄っぺらな鞄を机の上に置いて、外の景色をただ見つめた。
  担任がお決まりの台詞を言っている間も、クラスの喧騒は静まらなかった。担任も業務的に話しているだけで、お互いが干渉しない絶妙なラインで空間が成立っている。話が終わると、一斉に椅子を引く音が教室中に響き渡った。私は最後まで残っていた。ゆっくり        
 腰を上げて外を眺めると、柔らかなそよ風が木々を揺らしている。私は窓を閉めて、ゆっくりと教室を出た。
外に出ると、柔らかな風が、外巻きの髪の毛を揺らした。
 帰り道に、桜の木に挟まれた長い道がある。今は薄紅色から緑が覆い尽くす木に変わっている。すぐ隣は川が流れていて、春には桜の花びらが流れに身を任せて、ゆらゆらと流れて行く。
 ふいに目を細めると、陽光を受けた春の雲が、気持ち良さそうに泳いでいる。冬の寒さを乗り越えた空には、何か力強さのようなものがある。
 いつもの休憩所までは鼻歌が一曲終わるころには到着する。そんな距離の場所でタバコを吹かすのは、ばれない自信もあるけど、学校へ対して守備範囲の狭さを知らしめるためでもある。
 その公園は四方を住宅に囲まれていて、窮屈そうにその存在を証明している。公園内には、ブランコ、ジャングルジム、滑り台と、ベンチが設置されている。抽象的な造形の滑り台の下には、洞穴のような空洞がある。その空洞の中で、ひっそりとタバコを吹かす。唯一の居場所だ。
 滑り台の滑走路の下には、タンポポや名前を知らない雑草が生えている。草花たちは、すごく健気だ。私もこんな風に、日陰でもいいから力強く上を向いていたい。
 幼い頃は、こんな高校生になるとは思いもしなかっただろう。私にも夢があった。保育士になることだ。保育園に通っていた頃、大好きな先生がいた。母が迎えに来て、保育園から帰る時には、泣きながら先生の名前を呼んでいた。そんな私を、その先生は「せりちゃん」と、優しく呼びかけて落ち着かせてくれた。そんな先生も、今頃は結婚して幸せになっているだろうか。あの先生ならきっと、素敵な男性が放っとかないだろう。
 空洞の中で上を見上げても、当然のごとく真黒だ。一歩その外に出れば、果て無い空が広がっている。コンクリートの壁一枚を隔てて、世界はくっきりと分かれている。
 フー、と深く煙を吸い込んで、奥深くまで行き渡らせる。そして、どこまでも届けと言わんばかりにハー、と息を吐き出す。たまらない瞬間だ。煙を吐き出す瞬間は、全てを忘れられる。私が好んで吸っている銘柄は、セブンスターだ。女性がよく吸うタバコはメンソールだろうが、私はいかにも女性というイメージが嫌だったから。タバコを美味しいと思ったことはない。行き場のない気持ちを煙に込めて飛ばすんだ。
 周りは受験や恋愛、夢などの話題で溢れている。みんな、それらを理由に青春を満喫している気になっているだけだ。私はどの話題にも属さない。一人で学校に行き、一人で昼食を取り、一人で下校することが多い。十七歳にして、迎合することに疲れ果てている。
 こんな私にも、友人と呼べる人間が二人いる。
 彼女の名前は山本智子(やまもとさとこ)
 智子は整列したら前から三番目で、丸顔に腫れぼったい一重の目をしている。笑うと口角が震えて、細い目がより一層細くなる。入学してから季節が二周したにも関わらず、未制服を着こなせていない。
 誰にでも優しくて心遣いができる智子は、友人がとても多く、休み時間には智子の周りは四、五人の女子でいつも賑わっている。
 そんな智子を、私は遠目からぎこちなく見つめている。
 羨ましいわけではないが、同じような環境で育ってきて、どうしてこうも違う人間が出来たのかとも思っている。
 もう一人は、北見隆(きたみたかし)
 私たち三人は、幼馴染で幼稚園から高校までずっと一緒だ。
 隆はスラリとした細身の長身の色黒で、瞳には何の汚れもなく、人を疑うことを知らない輝きを宿している。いつも夢を語っていて、少年のまま大人になったような人間だ。
 陸上部のエースで後輩からの信頼も厚い。
 そんな隆を智子は、羨望の目を越えて、大切な宝物のような目でいつも見守っていた。
 私は、そんな智子の後ろから隆を見つめていた。
 私たちは学校の帰り道にあるマクドナルドで、よく談笑をした。
 今日も、店内は学生で賑わっている。女子通しや、男子だけ。カップルもいる。聞こえてくる会話は、どれも、私には興味がない話ばかりだ。
「隆、この間のテストどうだった?」と智子が言った。
「まずまずかな。芹奈(せりな)は?」
「私が上手くいくはずないでしょ。あんた達は勉強できて、人にも好かれて悩みなんてないでしょ?」と、携帯をいじりながら答えた。
『そんなことないよ』と二人の声が重なった。
 斜め前の席では、女子高生の三人組が耳障りな笑い声を上げている。一人は、テーブルに歩頬杖をつき。一人は、髪の毛をいじり。もう一人は、携帯で話しながら、他の二人と会話している。そんな女子高生達を一瞥して、
「ほんと仲がいいわね」と嫌味ったらしく言った。
「そんなことないよ」
 今度は智子だけが、照れながら言った。
「そう言えば、今度、大会があるから二人で見に来いよ」
「なんで、わざわざあんたが走ってる姿を見に行かなくちゃいけないのよ。もう見飽きた。ラブレターをくれる女の子達でも誘えば?」
「そんなこと言わないで、一緒に行こうよ。芹奈」
「そうだよ。俺は二人に来て欲しいんだ。今度の大会でも上位入賞して、強化選手になって将来は、オリンピック選手になるんだ」
「あんた、よくそんな夢みたいなこと、恥ずかしげもなく言えるわね。智子も心の中じゃ笑ってるわよ」
「私は笑ったりしない。だって、ずっと昔から言ってるもんね。私は応援する。頑張ってね」
「ありがとう。頑張るよ。芹奈も少しは智子を見習えよな」
「うるさいわね。今日は、もう帰ろう」と私はつまらなさそうに言った。
 二人は見つめ合ったまま、怪訝な顔をしている。
 自動ドアを出る間際に、また乾いた笑い声が聞こえて来た。
 私は帰り道で口笛を吹きながら「あーあ、あいつらもかー」と心の中で思った。二人が付き合いだしたと知ったのは、クラスで智子の友達が会話しているのを聞いてからだった。
 それからしばらくは、何事もなく過ぎていった。
 学校が終わると、いつもの休憩所でタバコを吹かし、いつものマクドナルドでは三人で話もした。
 変化とは徐々に訪れるもの。いつの間にか、二対一の構図になっていた。
 三人で一緒にいる時も、智子と隆は私の会話に相槌を打ちながらも、アイコンタクトを取っている。私の話に耳を傾けることが少なくなっていた。
 私は嫉妬よりも、裏切られた気持ちが強かった。智子は日頃から、男には興味がないと言っていたのに。現に、智子から男子生徒に声を掛けているのを見たことはなかった。
 智子は気付いているはずだ。私は隆に恋心を抱いているのにも関わらず、何の相談もなく付き合い始めた。こんな関係だったから相談できなかったのだろうか。
 二人とは徐々に距離を置き始めた。
 景色は新緑を深めて、眩しすぎる夏へと羽ばたきだそうとしていた。
 私たちが通う学校は、進学校ではない。スポーツの方が有名な学校だ。
 上空から見ると、扇形をしていて、その中心に校舎が横たわっている。正門から校舎までは、大きくうねった通路がある。わざわざうねりに合わせて歩く生徒などいるはずもなく、誰もが校舎に向かって直進していく。学校とは、こんな所にまで生徒を道通りに誘導したいものなのだろうか思う。
 学校と道路を隔てる金網には、大会で優秀な成績を残した生徒たちの垂れ幕が掛かっている。
 見つめる度に、何を誇りたいんだろうと思う。ただ自校を自慢して、満足するのだろうか。結果は一時の輝きしか放たないのに。グラウンドでは、運動部が短い青春を胸に刻みつけようと、声を掛けあい練習に打ち込んでいる。ふと、この中から卒業してプロを目指す人間は、何人いるのだろうかと思った。
 隆は県大会の常連で、その世界では知られた人間だった。放課後の練習では、遠目から何人かの女子生徒が、いつも憧れの眼差しで視線を送っている。隆はそんな女子生徒、一人一人に笑顔を返して、練習に励んでいる。
 二人が付き合いだしたことは、すぐにその女子生徒達にも知れ渡った。騒ぐわけでもなく、ただ静観している。それが、返って不気味だ。いっそ、智子に言いがかりでもつければいいのにとも思う。
 智子は智子で、素知らぬふりして学校生活を送っていた。
 二人は私に気を遣っているのか、学校ではあまり話さなかった。外では仲良くやっているのだろう。
 学年でもトップクラスの学力を誇る智子は、勉強の相談もよく受けていた。相談に来るクラスメートには、丁寧に自分の勉強法を教えていた。中には、智子の勉強法で飛躍的に成績が伸びた子もいるみたいだ。
 私は智子に勉強を教わろうと思ったことはない。私は中学生まで、勉強もスポーツも人間関係も、そつなくこなしてきた。高校生になって、急に周りが大人に感じるようになってきた。中学校の間は冴えなかった子が、急に大人びて見える。メイクの魔力と分かっていても、そのギャップには驚かされた。
 置いて行かれまいと、私も自分を着飾ってはみたが、心は虚しくなるばかり。入学した頃は仲間と騒いでいたが、いつの頃からか仲間といても孤独を感じるようになっていた。
 次第にその輪から離れていき、周りも見限って誰も声を掛けてくれなくなった。
 孤独にも慣れてくると、一種の武器になることに気付いた。
 孤独でいると、他人を傷付けないし、自分も傷付かない。不思議な魔法のようだ。私は、いつの間にか臆病になっていた。孤独を理由に、周囲のことから逃げている。誰にでも線を引いて、自分の領域を侵されることを恐れているのだ。
 智子と隆にも、幼い頃は心を開いていた。成長する過程で、自分を偽ることを覚えた。嘘をつけば嘘を塗り重ねるしかないように、一度偽ると偽り続けるしかない。二人も変化にはとうに気付いているだろう。それを気付かないふりをして接してくることが、悔しくてしょうがなかった。心を見透かした上で、笑顔で迫ってくる様は、まるで詐欺師のようにも思える。これだけ変わっても、側にいてくれる人間をそのように呼ぶのは、罪だろうか。
 下校時刻になり、校舎の三階から一階まで、猛然と駆け降りた。こんな気持ちを取っ払いたかったからだ。下駄箱まで行き、ローファーを手に取って乱雑に地面に落とす。結局、その程度では何も変わらなかった。
 外に出て校門の前で立ち尽くしていると、自転車にまたがった隆が、不意に声をかけてきた。
「芹奈、そんなところで何突っ立ってんだ?」
「何でもいいでしょ。私の勝手」と愛想なく答えた。
「一緒に帰ろうぜ」
 隆は白い歯をこぼして答えた。
「……いいけど、どうせ暇だし」
 校門を出ると、退屈な梅雨を追い越そうとして、夏の雲が姿を現していた。耳を澄ませば、蝉の鳴き声が今にも聞こえてきそうだ。
 思わず心が高鳴る。隆を見つめると、同じような笑顔を浮かべていた。
 隆と二人きりで帰るのはいつぶりだろう。気付けばいつも三人でいる関係だから、誰か一人が欠けていることはあまりない。いや、今は二人が付き合っているのだから、私は必然的に独りだ。
「後ろ乗るか?」
「いやよ。はずかしい」
「いいから乗れよ」
 背中越しに隆は言った。
「わかったわよ」
 そう言って、私は自転車にまたがった。手の置き場に困って、仕方なくシャツの後ろの膨らんだ部分を軽く掴んだ。
「久しぶりだな。このツーショット」
「そうね。久しぶり」
 二人になると会話はあまりないが、それが心地よかった。
「最近、どうだ? 学校は楽しいか?」
 隆は少しだけ振り向いて、話しかけてきた。
「別に。なんとなく過ごしてるだけ。あんたはどうなの?」と隆とは逆を向いて答える。
「俺は、ひたすら走ってるよ。走ること以外、することないからな。大学に行っても社会人になっても陸上は続けるつもり。オリンピックが目標だからな」
 周りの景色を、ぐんぐん追い抜いていく。私は一人で自転車に乗っていても、こんなスピードで走れないかもしれない。いつも私の後をついてきて、一緒に走っても、私がいつも勝っていた。いつの間にか、隆は私より速く走れるようになっていた。
「あいかわらずね。でも、あんただったら、叶えられるかもね。あんたから走ることを取ったら、何も残らないから。正直、あんたや智子が羨ましいときもあるわ。馬鹿みたいに真っ直ぐで、人を疑うことを知らないような顔して」
 隆の背中に、おでこを少し預けた。隆の匂いがする。昔の匂いとは違うけど。男の人の匂いだ。でも、嫌いじゃない。なんか、落ち着く。隆は振り向かないで、ペダルを力強く踏み込んだまま。
 ふと、隆が、
「俺だって、疑うことぐらいあるさ。きっと、智子だって……」
「そうなの? あんた達は、変わらないでいいよ」
「どうしたんだよ、急に。俺はお前のことが心配だよ」
「何なの。突然。あんたにそんなこと言われたくないわ」
 心の中では、智子の顔が浮かんでいた。
「だって、お前変わっただろう。昔はあんなに仲間もいたのに」
「あんたには関係ないでしょ。私はもう、昔の私じゃないの」
 生温い風が、髪の毛を湿らす。
「智子と俺には何でも相談してくれよ」と訴えかけるような目で隆は言った。
「智子と俺ねえ……。あんた達、付き合ってるんでしょ?」
「……知ってたのか」
 隆の目が泳いでいる。
「当たり前でしょ。学年中の噂よ」
「そっか」と隆は堪忍したかのように呟いた。
「お前には知られたくなかったけどな……」とさらに小さな声で呟いた。
 そこで会話が途切れて、二人を隔てる分かれ道までお互い無言だった。隆は最後に「じゃあな」とだけ言って、夕日に向かって自転車を漕ぎ出した。
 憎しみとは理不尽なものだ。相手に罪は無くても、生まれてくることもある。
 私は自分の知っている隆に、あんな言葉を言わせるようになった智子を、いつの間にか憎んでいた。智子がいなければ、帰り道の心地よい時間も、澄んだ瞳も、汚れない笑顔も、全て自分に向けられていたかもしれないと思い始めた。本当は、隆を独り占めしたいと、ずっと思っていたのに。
 思い始めると、後は波紋のように広がっていく。智子の存在自体が、疎ましく思える。その手で、その唇で、隆に触れているのかと思うと、吐き気を感じるほどだ。
 タバコの量は日に日に増えていった。
 智子が消えればいいとまで思い、クラスでは智子と目を合わすことさえなくなっていた。智子はそんな私を心配して、何度も「どうしたの?」と声を掛けてきたが、私は「何でもない」と答えるだけだった。
 憎悪とは一度、芽生えると、そうそう消えるものではない。瞬く間に、感情全てを支配される。自分では理解できないところで、何かが動き出すのだ。
 私はタバコを吹かすことでしか、理性を保てなくなっていた。
 そんな思いは、いつしか二人を引き離せないかと画策するまでに至る。隆を自分のものにしたい想いが芽生え始め、歪んだ感情が動き始めた。
 気付けば隆に電話を掛けていた。隆はサンコール目ででた。一瞬、言葉に詰まる。
 すると隆から、
「どうした?」と溌剌な声が届く。
「ちょっと話があって……。」
「どうした?」
「今から、ちょっと会えないかな」
「別にいいけど……」
「じゃあ、亀公園で。三十分後ね」
 亀公園とは、砂場の中に青色と黄色の亀の遊具がある公園だ。幼い頃よく三人で遊んでいた。日が暮れても帰ろうと言わない隆を、芹奈と智子が諭すように優しく「今日はもう帰ろう」と、手を引いていたのを、今でもよく思い出す。
 隆はブランコを揺らして待っていた。
「おう」
「おう……」と言って、私は隆から一番離れたブランコの椅子に座った。
「急にどうしたんだ?」と怪訝な顔で隆が聞く。
「うん……話したいことがあって……」
「なんだよ」
「あのさ…智子のことなんだけど……」
「智子がどうした?」
「……あのね。智子はあんた以外にも男がいるよ」
 一瞬、風の音が聞こえた気がした。
「証拠でもあんのかよ?」
一瞬、間をおいて、私は、
「あるわ。私、見たの。智子が年上の男とホテルに入って行くの」と言った。
「ほんとに見たんだな?」
「ほんとに、見たわよ」
「そっか……」と力なく隆は答えた。
「あんた……それだけなの? 智子が浮気してんのよ」
「お前がそう言うなら、そうなんだろ」
「言いたかったことは、それだけだから……じゃあね」
 そう言うと、私は足早にブランコから走り去った。
 一度だけ振り返ると、隆は夕闇に染まる空を所在なさげに見つめている。私は、そんな隆を一度だけ振り返って見つめて、家路に着いた。
 二人が別れたというのを聞いたのは、五日後だった。
 代わり映えのない一日が終わろうとしていた時、教室の片隅からそれは聞こえてきた。
「智子って、浮気してたらしいよ」
「えー、そうなの。あんな顔して」
「しかも、年上のオジサンだって」
 何も関係のない外野にまで、自分が言ったことが伝わっている。私は恐怖じみたものを感じていた。
 自分の嘘で、二人の絆に距離が出来た。小さな罪の灯が、大きく燃え上がっていく。私は、軽いめまいを感じて教室を出た。
 三階から一階に降りる階段で、智子とすれ違った。智子は目もあわさず、口も噤んだまま。一瞬しか表情は見えなかったが、瞳の色は淀んでいるみたいだ。
 チクリと胸に痛みが走る。智子には何の罪もない。もちろん、隆にも。
 当たり前だった日常を、自分の勝手で壊した。信じてくれていた二人を裏切って。
 様々な思い出が頭の中を駆け巡る。
 いつも、三人一緒だった。小学校の帰り道で、寄り道して泥まみれになって、畦道で遊んだこと。中学校の夏休みに、夏祭りで浴衣を着て花火を見たこと。高校の修学旅行で、
 夜中に旅館を飛び出して、三人で語り合ったこと。
 どの思い出も、鮮やかに思い出すことが出来る。
 私の瞳には、いつの間にか涙が溢れていた。涙は止まらない。
 泣きながら校庭を出ようとしたとき、隆が校門に立っていた。
 隆は虚ろな表情で、虚空を見つめている。
 私は、そんな隆に気付かない振りをして、校庭を出て行った。
 空には二人をオレンジに染める夕日が、西の空に沈もうとしていた。