本来、あの舞台で踊るはずの舞姫は私だったのだ。
時折、桜の花びらが風に吹かれて舞い落ちる、満月の下の幻想的な舞台。
そこに立ち、珠のような汗を飛ばして舞い踊る妹。
その姉、始音葵はその美しさの前に、心が折れそうだった。
本来なら、あの舞台で踊っていたのは私だったはずなのに。
しかし、現在の葵では、夢だった舞台に立つことはもう叶わないのだろう。今の彼女は客席にいる。無関係者として、そこに座って見ていることしかできなかった。
痛む足が自己主張する。お前は二度と舞えないと、舞姫にはなれないと、残酷なまでに通告している。
それでも、いつかは……。この怪我さえ治れば……。
彼女の心には、かすかな希望が宿り続けていた。
翌日の朝。
「号外! 号外! あの名探偵が、またもや怪盗を捕まえたぞ!」
街なかで新聞紙を配っている男の周りには、そのニュースを読もうと人が群がっている。
『名探偵・黒田国重、怪盗・黒影を見事に捕縛!』
そんな見出しは、朝刊の一面にも記載されていた。
その新聞に目を通した始音家の当主は、朝食を口に運びながら、「うちの禁曲も盗難には気をつけないといかんな」とぼやく。
「この風雅の世に怪盗なんて、悪趣味な犯罪者もいたものですね」
始音茜――葵の妹である――は、食事をしながら眉をひそめていた。
戦乱の世を終えて、音楽や文学、美術に芸能などが花開いた時代。それが風雅時代である。
そんな芸術が幅を利かせている時代で、始音家は音楽一家として栄えてきた。
怪盗とはどんな存在なのかといえば、楽譜を盗む泥棒、という認識が強い。
それも、ただの楽譜ではない。貴族が所有している『秘曲』と呼ばれる門外不出の曲や、始音家のような音楽一家が持つ『禁曲』と呼ばれる、危険な曲の楽譜を盗み、下級階級にばらまくことで、怪盗は音楽文化を下々のものに伝え、弱者の味方をしているという名目で活動している、自称・義賊である。
もちろん、そのような泥棒は、貴族や上流階級に害虫のごとく嫌われている。
始音家はそこまで階級が高いわけではない。かといって楽器の職人ほどには落ちぶれていない。せいぜい中流階級と形容したほうが正しいか。
しかし、貴族や皇族の前で舞い踊ることを許されている、特殊な家系である。
「茜、昨日の舞は見事だった。客席から見ていたぞ」
当主――父親に褒められて、妹は満面の笑みを浮かべた。
葵は何も言わず、静かに食事を口に含む。
茜は、姉をチラッと見て、目が合うと馬鹿にしたように鼻で笑った。
葵は朝食を終えるとさっさと自室に引き上げてしまう。
その後ろを、妹がついてきていた。
「お姉様って、ずっと部屋に引きこもっていて楽しいの?」
「ええ。部屋で楽器の練習をしているから」
葵は踊ることも、家から遠出することもできない。
彼女もかつては、舞姫として優雅な踊りを披露していた。
しかし、仕事を終えて貴族の家から出た途端、待ち伏せていた暴漢に襲われたのだ。
おそらく、葵のストーカーだったのではないかと言われている。
その際に足首を折ってしまい、それ以降は痛みが強くて踊れなくなった。
それからは、『予備』として育てられていた茜が代わりに舞姫として活躍するようになる。
「ああ、そう。お昼から仕事があるから、お姉様も来て」
茜はそれだけ言い残して去っていった。それを伝えたかっただけなのだろう。彼女が姉を見下しているのは葵も気付いている。
昼下がり、貴族の家に呼ばれ、茜は貴賓たちの前で『今謡』を踊った。
『今謡』とは、流行歌のことであり、貴族や皇族たちは声を枯らすほど歌うことに熱中していた。
その歌に合わせて踊るのが舞姫の仕事である。
葵はそこに呼ばれて何をするかといえば、茜の踊りに合わせて横笛で曲を奏でることだ。
しかし、茜は伴奏のとおりに踊らない。どこかズレている。葵は妹の踊りに合せようとするが、彼女はことごとく合せようとしない。
やがて、茜は踊りをやめてしまった。
「伴奏がズレているせいで踊りづらいですわ」
葵は横笛から唇を離し、うつむいた。
「踊れない舞姫は楽器もできないのね。始音家の人間として恥ずかしいと思わないの?」
貴族たちもクスクスと笑っている。
葵はじっと屈辱に耐えた。
茜が伴奏に合わせる気がないのだ、と暴露するのは簡単だ。
ただ、舞姫として仕事をしている分、茜のほうが上流階級とのパイプがある。
立場的に有利なのは妹のほうなのだ。
その夜、家に帰ると、茜は葵の失態を親に報告した。
親からもお叱りを受けると、彼女はしょんぼりしながら自室に戻る。
葵が始音家の異変に気付いたのは、自分の部屋で眠っていたときのことであった。
夜中なのに、いやに母屋が騒がしい。
彼女は寝間着に上着をはおり、自室を出て使用人に声を掛ける。
「何かあったの?」
「ああ、葵様! 大変なんでございますよ!」
女中は慌てていて、なだめて話を聞き出すのに時間がかかった。
要約すると、始音家に収められていた『禁曲』の楽譜が盗まれたというのだ。
その楽譜は金庫に厳重に保管されており、当主が手入れをするために毎晩決まった時間に金庫から出すことになっている。
その楽譜が収められているはずのケースに、とある怪盗のカードが入っていた。
「怪盗……紅鴉?」
紅い鴉のマークがカードに大きく書かれ、『怪盗・紅鴉』とサインされている。まるでアイドル気取りだ。
それはともかく、禁曲が盗まれたとなれば、始音家が大騒ぎになるのも納得である。
何しろ、禁曲は演奏を間違えれば災いが起こると言われるほどの禁断の曲、呪われた曲なのだから。
「私、葵お姉様が泥棒を家の中に招き入れるのを見たわ。きっと始音家に仇なすために、こそ泥を手引したのよ!」
茜の発言に、一家の冷たい視線が一斉に注がれる。
葵は当然「濡れ衣だ」と反論したが、家族の中に味方は一人もいない。
警察まで駆り出される事態となり、葵は事情聴取のために署まで連行された。
そこできっとひどい尋問にあうのだろう、と絶望に呑まれていた葵。
しかし、呼ばれた部屋に入ると、警察官はもちろんいたのだが、取調室で向かい合って座った相手は警察とは無関係の姿をしていた。
白いシャツに、黒い羽織を着た、茶髪の男。その瞳は美しい紫色をしており、もしかしたら異国の血が混じっているのかもしれない。
「大変だったね、お嬢さん」
男は黒田国重と名乗った。あの怪盗を次々と捕らえている名探偵だ。
葵は自分に気を使ってくれる人物がいるとは思わず、ぽかんとする。
「僕は紅鴉について良く知っている。奴は義賊であることに誇りを持っているんだ。始音家の人間だからといって犯罪の片棒を担がせるようなやつじゃない」
自分の敵に対する評価ではないような気がするのだが、好敵手というのはそういうものなのだろうか。
ひとまず、黒田の助けもあって警察からの容疑を免れた葵は、彼のすすめで実家には帰らず、黒田探偵事務所に転がり込んだ。
「ありがとうございます、黒田さん。私、あの家には居場所がなくて……」
やっと束縛から逃れた気分だ。
「でも、禁曲の楽譜は、紅鴉から取り戻さなくちゃ」
「僕も協力するよ。依頼であれば、交換条件を出そうかな」
黒田は穏やかな笑みを浮かべている。
「君の舞を見てみたい」
「ですが、私はもう」
「いつか踊れるようになったらでいい」
こうして、葵と黒田は手を組んで、禁曲と怪盗の行方を追うことになったのであった。
「そもそも君の家の『禁曲』ってのは何なんだ?」
黒田探偵事務所の朝。
香ばしい焼き魚に醤油を垂らし、ホカホカと湯気を立てる炊きたての麦飯の上に乗せながら、探偵の黒田は葵に尋ねた。
禁曲の内容は、当然ながら楽譜ごとに違う音楽だ。
その楽譜には神話時代の神霊の力すら宿ると言われ、畏れと敬いの視線で見られる。
神聖なものとされ、限られた人間以外には触れることすら許されない。
だからこそ、それに軽々に触れ、挙句の果てに盗み出す怪盗などというものを、下流階級以外の人々は憎むのだ。
「始音家の禁曲は、演奏を間違えると天変地異が起こると言われております。曲の題名は私も知らされておりません」
葵は玉子焼きを食べながら、落ち着いた口調を心がける。
本当は禁曲を盗まれたなんて一大事に冷静でいられるわけがないのだが、自分が慌てたところで楽譜が戻ってくるわけでもない。
始音家の禁曲は、演奏を一歩間違えると日照りや洪水、竜巻や暴風雨など、厄災が起こるとされている、恐ろしいものである。神聖なものと言うより呪われた楽曲だと、葵は内心思っていた。
天候を操る神が、始音家の人間に楽譜を与えたという逸話が残っているという。
「ふむ、そんな危険な曲をいつまでも紅鴉の手に持たせるわけにはいかないな」
黒田の口からは、焼き魚の尻尾がはみだしている。はむはむと咀嚼するたびに、それが揺れた。
怪盗というものは下流階級に楽譜をばらまくのが目的で盗みを行っているとされている。
しかし、そんな危なっかしい曲は下流階級の人々の手には余るだろう。
場合によっては、楽譜を人質に始音家を脅す者も現れるかもしれない。
何にせよ、ろくなことにはならないのは確かだった。
朝食を終え、支度を済ませた黒田と葵は、怪盗・紅鴉の手がかりを求め、街に繰り出すことにした。
まず向かったのは警察署である。
「あっ、黒田さん。お疲れ様です」
「よっ。カラスについての資料、あるか?」
「資料室の机に揃えてあります」
警察とは無関係な探偵という立場にも関わらず、黒田はずいぶん警官に慕われているようだった。
それを葵が尋ねると「ああ」と黒田はなんでもないようにちょっと笑った。
「昔、僕も警察官だったのさ。厳しい上下関係が嫌になって、すぐに探偵に転職したがね」
そのわりには、やけに若い警官に好かれているようだったが、後輩の面倒見が良かったのかもしれない。
ただ、探偵という立場の人間が警察内部に入り込むのは嫌がる者もいるようで、廊下ですれ違う度に黒田を睨む強面の警官もいた。
だが、面と向かって警察署から出て行けと言うわけでもない。
「黒田さん、私たち、ここにいて本当に大丈夫なんでしょうか」
葵が不安げな顔で見上げると、黒田は口の端だけ上げてニヤリと笑う。
「平気、平気。この署にいる警察官で士族の僕に口答えできる奴はいないよ」
わざと他の警官に聞こえるように大声で言ったらしく、後ろで舌打ちが聞こえて、葵は生きている心地がしなかった。
「し、士族……武士の家系だったんですね」
「今の風雅の世には意味の無い家系だよ。だから、こうして君の役に立つのは儲けものだね」
黒田は、静かに肩をすくめる。
やがて、二人は資料室にたどり着いた。
四方の壁を本棚に囲まれた埃臭い部屋に、細長い木のテーブル。そこに警官が言っていた通り、紅鴉についての資料が平積みされている。
黒田はテーブルにつき、資料に目を通すと、シャツの胸ポケットから出した黒い革の手帳にサラサラと何か書き留めていた。
全ての資料を通読し、手帳を元の場所に仕舞う。
「よし、昼飯行こう」
黒田は立ち上がって、テーブルについていた葵に手を差し伸べる。
「もうよろしいのですか?」
「うん。そもそも僕は何度か紅鴉と対決して、会話までしたことがある。奴のことはだいたい知ってるのさ」
「では、ここには何をしに?」
それには答えず、黒田は葵の背中に手を回し、抱き寄せるようにして一緒に資料室を出た。
葵は男性にそこまで接近したことはなく、戸惑いつつ顔を熱くして警察署を出る。
「近くに喫茶店があるから、そこで飯にしよう」
黒田の提案に従い、純喫茶に入った。
黒田はコーヒー、葵は紅茶、二人ともオムライス。
注文を終えると、黒田は再び手帳を取り出す。
「カラスが盗んでたのは、思ってた通り『秘曲』ばかりだな。禁曲は今回のケースが初めて」
うーむ、と黒田が手帳を見ながらうなった。
「僕にはわからないんだが、秘曲と禁曲ってどう違うんだ? どちらも門外不出の盗まれるべきではない曲というのはわかるんだが」
「秘曲……貴族や公家、皇族の方々が所蔵している曲ですね」
葵は形の良い桃色の唇に指を当てる。
「禁曲は文字通り禁じられた曲です。演奏することが目的ではないのです。秘曲は門外不出とはいえ、演奏はできますし、演奏をしくじったからといって、災難が起こるわけではありません。ただ、秘曲は高名な作曲家が貴族のために書き下ろした曲なので、高値で売れると思います」
「おいおい、待て待て。禁曲は演奏することが目的じゃない? それって、楽譜や曲として残す意味あるのか? わざわざ厄災を起こすような曲を楽譜に書き留めたってことだろう」
「さあ……私が生まれる何千年も前から、代々受け継がれてきた神代の曲だそうなので、なんとも。何かしらの意味はあったのでしょうが、今となっては誰にもわからないでしょう」
「そうか……そうだな。すまない」
何に対して謝っているのかはわからないが、黒田はガリガリと頭を引っ掻いたあと、店員が持ってきたコーヒーとオムライスに口をつけた。
しばらく二人で黙って食事をし、両方の皿が空っぽになって葵が紙ナプキンで口を拭くと、黒田が不意に口を開く。
「もう少し、調査に付き合ってほしい。楽器屋通りに行ってみたい」
葵はうなずいて、残った紅茶を飲み干した。
楽器屋通りは、下流階級である楽器職人が、中流階級の音楽家や上流階級の貴族などに制作した楽器を売っている店が軒を連ねている。
楽器製作というのはとても神経を使う仕事だろうに、そんなすごい人達が下流に属するのは、葵には納得のいかないことだった。
小さい頃、その疑問を母にぶつけてみたことがある。
「そうねえ、でも農民も食べ物を作るっていう大切な仕事をしているのに、階級としては立場が低いでしょう。多分、そういう大事な仕事をしているほど大変な目に遭うのよ」
それでは、自分たちの舞姫という仕事は、そこまで大切ではないのだろうか。
胸のもやもやは、今も葵の心を曇らせている。
しかし、楽器屋通りに来てみると、思いの外、活気のある場所だった。
人々がワイワイとショウウィンドウに飾られた楽器を見たり、買ったのであろう楽器を携えて通りを行き交う。
この民衆は下流か中流の階級の人々だろうと思った。上流階級の人間がこんな場所に顔を出すわけがない。黒田さん以外は。
隣の黒田を見上げると、優しい紫色の目と視線が合ってしまい、思わず目をそらしてしまう。
「お貴族様はどうやって楽器を買うのか、気になる?」
「使いの者を寄越すか、楽器職人の方を家に招くのではないですか?」
「当たり。さすが、上流階級の家に出入りしているだけはある」
実際に、楽器職人が楽器を持って貴族の家を訪ねるのを見たことがある。
貴族は楽器を受け取ると、職人にお金を投げ渡すのだ。
まるで卑しいものには触れたくもないみたいに。
葵はショウウィンドウに近寄り、物珍しく楽器を眺めていた。
龍笛や琵琶、琴など様々な楽器が置かれている。
新品の楽器たちは、色鮮やかな化粧を施されているが、これが使い込まれると、木の地肌が表れ、また違った味を見せてくれるのだ。もちろん、音色も変化していく。使い込まれて音楽家の手に馴染んだ楽器ほど、深く幻想的な音色を出す。まるで、楽器に魂が宿っていく過程のようだ。
「楽器屋、入ってみるかい?」
黒田の言葉に葵はうなずいていた。
ショウウィンドウの店に入ってみると、さらに沢山の楽器が所狭しと並べられている。
服に引っ掛けてうっかり倒したり壊したりすれば弁償の憂き目に遭う。二人は気を使いながら楽器の森を抜けた。
そこを抜け出せば、今度は本のようなものが並んでいる。急に本屋か図書館にでも迷い込んだようだった。
葵はその本のうちの一冊を手に取り、めくる。
思わず声が出そうになった。
――これ、楽譜の本だ。ここに並んでいるもの、全部?
「怪盗が盗んだ楽譜は、こうして楽器職人が複写して、楽器屋で販売しているんだよ」
黒田が耳打ちしているのが、遠くで聞こえているような感覚に陥る。
「なにかお探しですか?」
店主らしき男がにこやかに話しかけてくる。
「お二人で楽譜探しですか? 男女の音楽が混じり合う合奏は素敵ですよね」
「ええ、まあ、そんなところです」
黒田は苦笑しながら受け答えした。
男女の仲で合奏するのは特別な意味を持つが、自分たちはそういうふうに見えるらしい。
「これは、犯罪ではないのですか?」
葵の声は硬いものだった.
店主はキョトンとした顔をしている。
「これ、こないだ怪盗に盗まれた楽譜ですよね。これがもう流通してるなんて……」
「ええ。怪盗のおかげで、下流階級にも音楽が浸透しているのです。それは悪いことですか?」
店主の無垢とも言える答えに葵は言葉を詰まらせた。
彼は朗らかに笑いながら、さらに言葉を続ける。
「怪盗は義賊、俺達の英雄ですよ。貴女のような舞姫とは反りが合わないかもしれませんが」
――私の顔を知ってるんだ。
それはそうだ、葵はこの間まで舞姫として舞台に立っていたのだから。
血の気が引いた彼女をかばうように、黒田が「冷やかしに来てしまい、申し訳ない」と謝ってから店の外に出た。
「葵さん、言葉と場所には気をつけてくれ。さっきの質問、相手を間違えたら怒らせてたぞ」
「すみません……でも……」
葵は顔色が悪い。
今日は久々に歩きすぎて、足首も痛んでいた。
黒田はそれを察したのか、「どこかで休もう」と広場に向かう。
広場なら、どこか座れる場所もあるだろう。
しかし、広場に近寄るごとに、楽器の音が聞こえてくる。
ベベン、という独特の音色は、三味線だろうか。
広場の噴水前に陣取るようにして、男が座っていた。
三味線を持つ男の前には、お茶缶の筒。演奏しておひねりをもらうようだ。
男の顔は黒子のように黒い布で覆われており、表情は見えない。文字通りの覆面演奏家だ。
ベベン。ベン、ベベン、ベンベンベベン。
三味線の音は軽快に響き、リズミカルに刻まれている。
男の顔は見えないのに、葵はなぜか、彼が自分を見つめているような気がした。
――踊れ。俺が舞わせてやる。
三味線でそう言っているように聞こえた。
「葵さん?」
黒田が声をかけたときには、葵は広場に踊りだしていた。
三味線の音を聞いているうちに引き込まれ、誘われてしまった。
その音色はさらに細かくリズムを刻み、ベベベベベン、とバチを強く叩くたびに、葵の舞も激しくなっていく。
わぁわぁ、と周囲の拍手喝采が聞こえた頃には、葵は汗だくであった。
「すごい! アレって舞姫の葵さんだよね!?」
「引退したって聞いたけど、変わらず素敵な踊り!」
そんな称賛を浴びていたが、不意に足首の鋭い痛みが再び襲ってきた。
バランスを崩しそうになるのを、黒田が支える。
「大丈夫か? あんま無理するなよ」
「踊れた……」
「は?」
「ねえ、私踊れたわ! もしかしたら、また舞姫に戻れるかも!」
葵はキラキラした目で黒田の両手を握ってブンブンと振った。
どうして急に踊れたのかはわからない。
ただ、また踊れたことに感激した葵は、自分の可能性に希望をいだいたのだ。
黒田が振り返ったときには、もう三味線を弾いていた男はいなかった。
その後、夕方まで楽器屋通りを歩き回って調べたが、どうやら禁曲はまだ楽譜は出回っていないらしい。
それはそうだ、天候を変える力を持った楽譜なんて流通してたまるか。
ひとまず、黒田と葵は探偵事務所に戻ることにした。
「僕は警察署で手に入れた資料の情報をもう少し調べてみる。君は先に寝ていてくれ」
「はい。おやすみなさい、黒田さん」
しかし、葵は興奮でなかなか寝付けなかった。
――私が、踊れた。また舞姫に戻れるかもしれない。いや、きっと戻ってみせる。あの舞台に。
彼女にとって、妹の茜からの嫌がらせなんて大したことはなかった。
ただ、自分がもう踊れないということに深い絶望を覚えていたのだ。
その中でつかんだ希望に、彼女がすがるのは仕方のないことと言える。
やがて、やっとのことで眠りについた葵だったが、深夜に目を覚ました。
トイレにでも行こうか、とベッドから起き上がると、窓辺に大きな鳥のようなシルエットがあった。
巨大な鴉――。
葵が悲鳴を上げそうになるのを、「しーっ、お静かに。探偵殿に見つかると厄介なことになるのでね」と鴉が唇に人差し指を当てた。
それこそは葵と黒田が探していた怪盗――紅鴉であった。
――その夜、怪盗に出会った。
黒田探偵事務所の二階、葵が寝泊まりしている客室の窓辺に、怪盗・紅鴉が降り立っている。
顔の上半分を、紅い鴉の面で覆い、鳥の翼を思わせる、羽のついたこれまた紅い衣服。
それが微笑んで葵を見つめていた。
葵は驚いて声も出ない。
怪盗は義賊であり、人をむやみに傷つけるたぐいの犯罪者ではないとされる。
しかし、犯罪者は犯罪者だ。何をするかはわからない。
そんな葵に、紅鴉は笑みを浮かべたまま、「取引をしませんか?」と持ちかけた。
「と、取引……?」
怪盗の手を取るのか、払いのけるのか。
果たして、葵の選択は……?
「――あ、あなたが紅鴉? あなたが楽譜を盗んだの?」
葵の声は緊張により上ずっている。
怪盗は、恭しくお辞儀をした。
「ええ、たしかにこの紅鴉、禁曲の楽譜を頂戴いたしました」
物腰は柔らかく、礼儀正しい。
この人は下流階級ではないのでは、と葵は考える。
――義賊とされる者たちはみな下流の出身と言われている。だからこそ、上流階級をおとしめるために楽譜を盗むのだ、と。
しかし、紅鴉は思っていたほど下品な盗人には思えない。
……だからといって、怪盗のすることは許されるものではないのだけれど。
紅鴉は笑みを作ったまま、「この禁曲を使って、ある計画を立てているのです。それにあなたも協力してもらいたい」と話を持ちかけた。
「あなたを虐げた妹――始音茜への復讐と、この風雅時代の権力者たちに反旗を翻すために、あなたの力が必要なのです」
突然、茜の名前が出てきて、葵の喉がひゅっと鳴る。
妹に……復讐?
いや、彼女はそれなりに人の恨みは買っているだろうけど。
「私、葵さんのファンだったんですよ」
怪盗から繰り出される言葉の数々には驚かされっぱなしだ。
泥棒も舞姫の舞を見たりするのだな、という妙な感想が出てくる。
「ですから、あの晩、茜が差し向けた暴漢があなたを襲撃するのを止められず、いたく後悔しております」
「アレは、やはり妹が……?」
「ええ。警察調書にも『始音茜にそそのかされた』という取り調べの記録が残っていました。まあ、その発言は始音家にもみ消されたようですが」
なぜ、警察の内部事情にまで詳しいのだろう。
呆然とする葵の前に、窓辺から降りた紅鴉が近寄り、その手を取る。
「私は、あなたのために茜に復讐します。そして、茜を擁護する始音家も、貴族も権力者も、すべて地に叩き落とす。どうです、あなたも協力していただけませんか」
「私に、何をしろと……」
「舞ってください。踊るだけでいいのです」
怪盗の発言の意味がよくわからなかった。
「あなたは、自分の力で、あなたの舞で、世界を変えられるのです。どうか……」
葵の両手を握り、囁くように誘惑する鴉。
しかし、彼女はその手を払い除けた。
「禁曲を悪用する理由に、私を利用しないで!」
葵の声に怒気が含まれており、怪盗は払われた手を再び彼女に差し伸べる。
「私と一緒に世界を変える気はありませんか。きっとあなたとなら素敵な一曲を奏でられるというのに」
「どうして私なの」
「禁曲には、舞姫が必要なのです」
なるほど、舞姫を輩出する始音家に伝わる楽譜であれば、その曲の真価を発動するには、舞姫というピースが必要なのかもしれない。
「泥棒さん、あなた、自分が何をしようとしているか分かっているの?」
禁曲の演奏を少しでも間違えれば、災厄が起こる。
それで命を喪う人だっているかもしれない。
いくら葵の大ファンで、茜を憎んでいるとしても、これはやりすぎだ。
差し伸べられた手を取るか、払いのけるか?
葵は迷うことはない。
払いのけるに決まっている。
彼女にとって、世界とはあの踊るための舞台だ。
それをぶち壊されてはたまらない。
「葵さん、誰と話しているかと思えば……」
葵がバッと振り返ると、部屋の入口にもたれかかるようにして、黒田が立っていた。
「やあ、名探偵。いい月夜ですね」
「まさか、探偵事務所に泥棒が来るとは思わなんだ。自首するなら警察署に行く方をオススメするぜ。僕の手間が省けるからな」
「おっと、もう葵さんと話している余裕はなさそうだ」
怪盗は葵の手を握る。
今度は何を、と身を固くすると、手の甲に接吻された。
ぎょっとする葵に、「それでは、またお逢いしましょう」と微笑んで、紅鴉は窓辺から飛び立っていった。
「あの野郎、葵さんになんてことを」
唖然としている葵の手の甲を、探偵は苦々しい顔をしながら消毒液で拭った。
しばらくして、ホットココアを飲んで落ち着いた葵が怪盗との会話をかいつまんで伝える。
「ふうん、あのカラス、禁曲を演奏する気か」
「警察内部に詳しかったのですが、関係者でしょうか……」
「いいや、どうせ僕に変装して潜り込んだんだ。アレは猿真似だけは上手いからな」
黒田は苦いブラックコーヒーを飲んで顔をしかめていた。
――紅鴉は舞姫を必要としている。そして、始音家には舞姫は二人しかいない。
すなわち、葵と茜の姉妹だ。
あの怪盗は茜に復讐すると言ってのけた。ならば、必然的に彼に必要とされるのは葵だ。
「こりゃ、また勧誘に来るかもしれないな」
探偵はやれやれと肩をすくめた。
怪盗・紅鴉は、初めて黒田探偵事務所に現れた日から、毎晩のように姿を現すようになった。
それはまるで、雄の鳥が惚れ込んだ雌の鳥に求愛に通うような光景である。
しかし、葵はまったく嬉しくない。
「禁曲の演奏のために、あなたの舞が必要なのです」
「お帰りください」
怪盗の誘惑をはねのけ、ときには無理に窓を閉めて追い返すときもあった。
ある日、葵はある疑問を持つようになる。
「どうしてそこまで禁曲にこだわるのですか?」
紅鴉はすでに禁曲の楽譜を所持しているのに、それを売却する様子も、それを盾に始音家を脅す様子もない。
その疑問に、怪盗はあるヒントを提示した。
「まずは禁曲について調べてみるといいでしょう。あなたが思うほど、呪われた曲でもないかもしれませんよ?」
そう言い残して、鴉は飛び去る。
朝になって、黒田に話を報告した葵。
「ふむ、アイツがそういうのなら、なにか秘密があるんだろう。少し、調べてみるか」
よく考えてみたら、葵も黒田も、禁曲についてほとんど知らない。
ただ、「演奏してはいけない禁断の楽曲」という情報しかないのだ。
「うーむ、しかし……禁曲について知るには、まず始音家の歴史から知らないといけないだろう。カラスはどうやってそんなことを調べ上げたんだ?」
探偵は顎に手をやり考え込む。
始音家は警察にマークされるような家柄ではない。
警察署で調べようにも手がかりなどほとんどないだろう。
ふと、「あ」と葵が弾かれたように顔を上げた。
「なんだ、どうした」
「始音家の情報、あるかもしれません」
葵は黒田の手を引く。
「始音家の所有する、演舞場に行ってみましょう!」
――そうして、二人は演舞場にやってきた。
この舞台で、茜は見事な舞を見せていたのだ。
かつて葵もここで踊り――そして、茜の差し向けた暴漢に襲撃され、足首を負傷したのである。
演舞場の内部には始音家の歴史や神話などについての展示があり、入場料を払って見学することができる、いわゆる始音家専門の博物館だ。
ここにわざわざお金を払って入ろうなどと、相当の始音家マニアくらいだが……。
葵と黒田は、展示をひとつひとつ見ていき、やがて神話の展示に辿り着いた。
――始音家は代々、舞姫を輩出する家系だが、神話においては天候を操る神に、舞姫の舞が奉納されたと伝えられる。
そして、神代の終わりに、この世界を去るとき、神は舞のお礼に禁曲の楽譜を授けたのだと……。
その神話は、どうにも禁曲が『呪われた楽曲』という話とは程遠い、と葵は感じた。
「そういえば……そもそも、この禁曲は……」
隣では名探偵がボソボソと何事かを呟いている。
「黒田さん?」
「葵さん、――紅鴉の誘いに乗ろう」
葵は黒田の提案に目を大きく見開いた。
その夜。
再び探偵事務所に怪盗が現れた。
「怪盗さん。私、あなたのお誘いをお受けしようと思うわ」
「どうやら禁曲の秘密に気付いたようですね」
紅鴉の言葉に、葵は頷く。
「とはいえ、黒田さんの推理なのだけれど」
「僕にもその演奏を聞かせてくれないだろうか」
葵の部屋に、黒田が入ってくる。
「いいでしょう。ちょうど、この禁曲には演奏者が二人と、舞姫が一人必要でした」
三人は演舞場に移動した。
深夜の演舞場は誰もいなかったが、紅鴉が葵を横抱きして門を飛び越え、黒田もなんとか門をよじ登って侵入する。
「カラスよ、俺もそうやって連れてってくんねえかなあ」
「あいにく、男性を抱きかかえる趣味はないもので、申し訳ない」
紅鴉の腕の中で、葵は顔を真赤にしていた。
舞台に辿り着くと、三人は演奏の準備を始める。
怪盗は三味線、探偵は横笛、葵は舞の担当だ。
「やっぱり、あのときの三味線使い、アンタだったか」
黒田は紅鴉の三味線を見て、嬉しそうに笑った。
楽器屋通りの広場で三味線を披露していた覆面演奏家、あの正体は怪盗だったのだ。
探偵は渡された楽譜に目を通したあと、横笛に唇を押し当てた。
「いいか、少しでも演奏をしくじったら、この街は大変なことになるからな!」
「そちらこそ、どうかお気をつけて」
怪盗が三味線を抱え、ベベン! とバチを当てる。
それを合図に演奏が始まった。
黒田の横笛と紅鴉の三味線の音色が絡み合い、複雑な協和音が演舞場の空間に鳴り響く。
葵はその中で、我を忘れて踊り明かした。
曲の間だけ、足首の痛みを忘れて踊っていられる。
思えば、あの楽器屋通りで痛みもなく踊れたのは、怪盗が禁曲の一部だけを弾いてくれたからではなかろうか。そんな気がする。
やがて、夜が明ける頃、演奏は終わった。
葵は肩で大きく息をして、黒田が慌てて駆け寄ると、その胸にぽすんと収まる。
「これで楽譜は用済みです。もう必要ないのでお返しいたします」
紅鴉は楽譜を置いて、姿を消してしまった。
待って、と声を掛ける間もなかった。
禁曲の真実。
禁曲の演奏を間違えれば災いが起きる、それは真実の一面でしかない。
そこへ、探偵は疑問を挟んだ。
「ならば、そもそも演奏を完璧に成功させたらどうなる?」
その答えは、「舞姫を完全な状態に癒す」、いわば祝福された奇跡の曲であった。
あの怪盗は、葵の足を治すために、その禁曲の力を使おうと思ったのだ。
自らを「権力者を転覆させる」とのたまう悪役に仕立て上げてまで。
「でも、なぜ私のために、そんなリスクを負ってまで……?」
葵にはどうしてもわからなかった。
それに、黒田は肩をすくめる。
「アイツが言ってただろう? ファンってのは好きな人のためなら何でもするもんさ」
――さて、やるべきことはまだ残っている。
葵は楽譜を丁寧に仕舞って、始音家に戻ることにした。
……彼らを断罪し、罰するために。
禁曲の真実を知り、楽譜を取り戻した葵は、それを持って始音家に戻った。
「おお、葵!」
「お嬢様が怪盗から楽譜を取り戻しなさった!」
家族、使用人が諸手を上げて葵を出迎え、口々にお礼を言う。
怪盗の手引をしたという疑いをかけられたのが、まるで手のひら返しで英雄扱いだ。
一人だけ不満そうなふくれっ面をしている妹に、葵は声を掛ける。
「ここからは正々堂々、舞姫同士、舞で戦いましょう」
それは宣戦布告だった。
彼女は茜と最後の対決――決闘を申し込んだのだ。
「ハッ、踊れない舞姫のくせに、勝算でもあるの?」
せせら笑う茜は気付いていない。
葵が足を引きずらず、立っていることに。
こうして、舞姫同士の決闘が演舞場で行われることになり、舞台の客席は満員御礼。
葵と茜はお互い優美な舞を披露した。
決闘の勝敗は単純で、観客の投票で決まる。
茜に誤算があるとすれば、葵が万全の状態で踊れないと油断していたことだ。
葵は見事に踊りきり、茜よりも票を得た。
「なんで足が治ってるの!?あのとき、きちんと足を潰すように言ったはずよ!」
舞台で悔しそうに地団駄踏んだ茜の叫びに、観客は騒然とする。
「やっぱり、あなたが私に暴漢を差し向けたと、認めるのね?」
「そ、そんなの知らないもん!」
そこへ、観客席から黒い羽織の男がのぼってくる。黒田だ。
「俺は探偵の黒田……まあ、元警察官でね。警察署で調書も入手済みだ。暴漢がアンタに雇われたっていう証拠だな」
さらに、彼は始音家にお金を握らされて証拠を握りつぶした警察官も逮捕されたと舞台上で言ってのけた。始音家の人々が真っ青になったのは言うまでもない。
「私は、始音家との縁を切らせていただきます」
葵は深々とお辞儀をして別れを告げるが、始音家当主が泣いて引き留めようとする。
茜が逮捕され、葵まで失えば、舞姫がいなくなってしまうからだ。
しかし、葵はきっぱりとした口調で拒絶する。
「私が踊れなくなったときに、だれか私を救ってくれた人はいた? あなたたちは『舞姫』にしか興味がないんでしょう。そんな家、こっちから願い下げよ!」
葵はそのまま舞台を降り、黒田に伴われて演舞場を去った。
茜と始音家の人々も警察に事情聴取のため、連行されていく。
その後、始音家は没落した。
禁曲の楽譜は、天候の神の祀られた神社に奉納され、誰も手を出せないように管理されることになる。
葵は黒田と結婚し、紅鴉にお礼を伝えるために、今日も二人で怪盗を追い続けているのだった。
〈了〉