本来、あの舞台で踊るはずの舞姫は私だったのだ。
時折、桜の花びらが風に吹かれて舞い落ちる、満月の下の幻想的な舞台。
そこに立ち、珠のような汗を飛ばして舞い踊る妹。
その姉、始音葵はその美しさの前に、心が折れそうだった。
本来なら、あの舞台で踊っていたのは私だったはずなのに。
しかし、現在の葵では、夢だった舞台に立つことはもう叶わないのだろう。今の彼女は客席にいる。無関係者として、そこに座って見ていることしかできなかった。
痛む足が自己主張する。お前は二度と舞えないと、舞姫にはなれないと、残酷なまでに通告している。
それでも、いつかは……。この怪我さえ治れば……。
彼女の心には、かすかな希望が宿り続けていた。
翌日の朝。
「号外! 号外! あの名探偵が、またもや怪盗を捕まえたぞ!」
街なかで新聞紙を配っている男の周りには、そのニュースを読もうと人が群がっている。
『名探偵・黒田国重、怪盗・黒影を見事に捕縛!』
そんな見出しは、朝刊の一面にも記載されていた。
その新聞に目を通した始音家の当主は、朝食を口に運びながら、「うちの禁曲も盗難には気をつけないといかんな」とぼやく。
「この風雅の世に怪盗なんて、悪趣味な犯罪者もいたものですね」
始音茜――葵の妹である――は、食事をしながら眉をひそめていた。
戦乱の世を終えて、音楽や文学、美術に芸能などが花開いた時代。それが風雅時代である。
そんな芸術が幅を利かせている時代で、始音家は音楽一家として栄えてきた。
怪盗とはどんな存在なのかといえば、楽譜を盗む泥棒、という認識が強い。
それも、ただの楽譜ではない。貴族が所有している『秘曲』と呼ばれる門外不出の曲や、始音家のような音楽一家が持つ『禁曲』と呼ばれる、危険な曲の楽譜を盗み、下級階級にばらまくことで、怪盗は音楽文化を下々のものに伝え、弱者の味方をしているという名目で活動している、自称・義賊である。
もちろん、そのような泥棒は、貴族や上流階級に害虫のごとく嫌われている。
始音家はそこまで階級が高いわけではない。かといって楽器の職人ほどには落ちぶれていない。せいぜい中流階級と形容したほうが正しいか。
しかし、貴族や皇族の前で舞い踊ることを許されている、特殊な家系である。
「茜、昨日の舞は見事だった。客席から見ていたぞ」
当主――父親に褒められて、妹は満面の笑みを浮かべた。
葵は何も言わず、静かに食事を口に含む。
茜は、姉をチラッと見て、目が合うと馬鹿にしたように鼻で笑った。
葵は朝食を終えるとさっさと自室に引き上げてしまう。
その後ろを、妹がついてきていた。
「お姉様って、ずっと部屋に引きこもっていて楽しいの?」
「ええ。部屋で楽器の練習をしているから」
葵は踊ることも、家から遠出することもできない。
彼女もかつては、舞姫として優雅な踊りを披露していた。
しかし、仕事を終えて貴族の家から出た途端、待ち伏せていた暴漢に襲われたのだ。
おそらく、葵のストーカーだったのではないかと言われている。
その際に足首を折ってしまい、それ以降は痛みが強くて踊れなくなった。
それからは、『予備』として育てられていた茜が代わりに舞姫として活躍するようになる。
「ああ、そう。お昼から仕事があるから、お姉様も来て」
茜はそれだけ言い残して去っていった。それを伝えたかっただけなのだろう。彼女が姉を見下しているのは葵も気付いている。
昼下がり、貴族の家に呼ばれ、茜は貴賓たちの前で『今謡』を踊った。
『今謡』とは、流行歌のことであり、貴族や皇族たちは声を枯らすほど歌うことに熱中していた。
その歌に合わせて踊るのが舞姫の仕事である。
葵はそこに呼ばれて何をするかといえば、茜の踊りに合わせて横笛で曲を奏でることだ。
しかし、茜は伴奏のとおりに踊らない。どこかズレている。葵は妹の踊りに合せようとするが、彼女はことごとく合せようとしない。
やがて、茜は踊りをやめてしまった。
「伴奏がズレているせいで踊りづらいですわ」
葵は横笛から唇を離し、うつむいた。
「踊れない舞姫は楽器もできないのね。始音家の人間として恥ずかしいと思わないの?」
貴族たちもクスクスと笑っている。
葵はじっと屈辱に耐えた。
茜が伴奏に合わせる気がないのだ、と暴露するのは簡単だ。
ただ、舞姫として仕事をしている分、茜のほうが上流階級とのパイプがある。
立場的に有利なのは妹のほうなのだ。
その夜、家に帰ると、茜は葵の失態を親に報告した。
親からもお叱りを受けると、彼女はしょんぼりしながら自室に戻る。
葵が始音家の異変に気付いたのは、自分の部屋で眠っていたときのことであった。
夜中なのに、いやに母屋が騒がしい。
彼女は寝間着に上着をはおり、自室を出て使用人に声を掛ける。
「何かあったの?」
「ああ、葵様! 大変なんでございますよ!」
女中は慌てていて、なだめて話を聞き出すのに時間がかかった。
要約すると、始音家に収められていた『禁曲』の楽譜が盗まれたというのだ。
その楽譜は金庫に厳重に保管されており、当主が手入れをするために毎晩決まった時間に金庫から出すことになっている。
その楽譜が収められているはずのケースに、とある怪盗のカードが入っていた。
「怪盗……紅鴉?」
紅い鴉のマークがカードに大きく書かれ、『怪盗・紅鴉』とサインされている。まるでアイドル気取りだ。
それはともかく、禁曲が盗まれたとなれば、始音家が大騒ぎになるのも納得である。
何しろ、禁曲は演奏を間違えれば災いが起こると言われるほどの禁断の曲、呪われた曲なのだから。
「私、葵お姉様が泥棒を家の中に招き入れるのを見たわ。きっと始音家に仇なすために、こそ泥を手引したのよ!」
茜の発言に、一家の冷たい視線が一斉に注がれる。
葵は当然「濡れ衣だ」と反論したが、家族の中に味方は一人もいない。
警察まで駆り出される事態となり、葵は事情聴取のために署まで連行された。
そこできっとひどい尋問にあうのだろう、と絶望に呑まれていた葵。
しかし、呼ばれた部屋に入ると、警察官はもちろんいたのだが、取調室で向かい合って座った相手は警察とは無関係の姿をしていた。
白いシャツに、黒い羽織を着た、茶髪の男。その瞳は美しい紫色をしており、もしかしたら異国の血が混じっているのかもしれない。
「大変だったね、お嬢さん」
男は黒田国重と名乗った。あの怪盗を次々と捕らえている名探偵だ。
葵は自分に気を使ってくれる人物がいるとは思わず、ぽかんとする。
「僕は紅鴉について良く知っている。奴は義賊であることに誇りを持っているんだ。始音家の人間だからといって犯罪の片棒を担がせるようなやつじゃない」
自分の敵に対する評価ではないような気がするのだが、好敵手というのはそういうものなのだろうか。
ひとまず、黒田の助けもあって警察からの容疑を免れた葵は、彼のすすめで実家には帰らず、黒田探偵事務所に転がり込んだ。
「ありがとうございます、黒田さん。私、あの家には居場所がなくて……」
やっと束縛から逃れた気分だ。
「でも、禁曲の楽譜は、紅鴉から取り戻さなくちゃ」
「僕も協力するよ。依頼であれば、交換条件を出そうかな」
黒田は穏やかな笑みを浮かべている。
「君の舞を見てみたい」
「ですが、私はもう」
「いつか踊れるようになったらでいい」
こうして、葵と黒田は手を組んで、禁曲と怪盗の行方を追うことになったのであった。
時折、桜の花びらが風に吹かれて舞い落ちる、満月の下の幻想的な舞台。
そこに立ち、珠のような汗を飛ばして舞い踊る妹。
その姉、始音葵はその美しさの前に、心が折れそうだった。
本来なら、あの舞台で踊っていたのは私だったはずなのに。
しかし、現在の葵では、夢だった舞台に立つことはもう叶わないのだろう。今の彼女は客席にいる。無関係者として、そこに座って見ていることしかできなかった。
痛む足が自己主張する。お前は二度と舞えないと、舞姫にはなれないと、残酷なまでに通告している。
それでも、いつかは……。この怪我さえ治れば……。
彼女の心には、かすかな希望が宿り続けていた。
翌日の朝。
「号外! 号外! あの名探偵が、またもや怪盗を捕まえたぞ!」
街なかで新聞紙を配っている男の周りには、そのニュースを読もうと人が群がっている。
『名探偵・黒田国重、怪盗・黒影を見事に捕縛!』
そんな見出しは、朝刊の一面にも記載されていた。
その新聞に目を通した始音家の当主は、朝食を口に運びながら、「うちの禁曲も盗難には気をつけないといかんな」とぼやく。
「この風雅の世に怪盗なんて、悪趣味な犯罪者もいたものですね」
始音茜――葵の妹である――は、食事をしながら眉をひそめていた。
戦乱の世を終えて、音楽や文学、美術に芸能などが花開いた時代。それが風雅時代である。
そんな芸術が幅を利かせている時代で、始音家は音楽一家として栄えてきた。
怪盗とはどんな存在なのかといえば、楽譜を盗む泥棒、という認識が強い。
それも、ただの楽譜ではない。貴族が所有している『秘曲』と呼ばれる門外不出の曲や、始音家のような音楽一家が持つ『禁曲』と呼ばれる、危険な曲の楽譜を盗み、下級階級にばらまくことで、怪盗は音楽文化を下々のものに伝え、弱者の味方をしているという名目で活動している、自称・義賊である。
もちろん、そのような泥棒は、貴族や上流階級に害虫のごとく嫌われている。
始音家はそこまで階級が高いわけではない。かといって楽器の職人ほどには落ちぶれていない。せいぜい中流階級と形容したほうが正しいか。
しかし、貴族や皇族の前で舞い踊ることを許されている、特殊な家系である。
「茜、昨日の舞は見事だった。客席から見ていたぞ」
当主――父親に褒められて、妹は満面の笑みを浮かべた。
葵は何も言わず、静かに食事を口に含む。
茜は、姉をチラッと見て、目が合うと馬鹿にしたように鼻で笑った。
葵は朝食を終えるとさっさと自室に引き上げてしまう。
その後ろを、妹がついてきていた。
「お姉様って、ずっと部屋に引きこもっていて楽しいの?」
「ええ。部屋で楽器の練習をしているから」
葵は踊ることも、家から遠出することもできない。
彼女もかつては、舞姫として優雅な踊りを披露していた。
しかし、仕事を終えて貴族の家から出た途端、待ち伏せていた暴漢に襲われたのだ。
おそらく、葵のストーカーだったのではないかと言われている。
その際に足首を折ってしまい、それ以降は痛みが強くて踊れなくなった。
それからは、『予備』として育てられていた茜が代わりに舞姫として活躍するようになる。
「ああ、そう。お昼から仕事があるから、お姉様も来て」
茜はそれだけ言い残して去っていった。それを伝えたかっただけなのだろう。彼女が姉を見下しているのは葵も気付いている。
昼下がり、貴族の家に呼ばれ、茜は貴賓たちの前で『今謡』を踊った。
『今謡』とは、流行歌のことであり、貴族や皇族たちは声を枯らすほど歌うことに熱中していた。
その歌に合わせて踊るのが舞姫の仕事である。
葵はそこに呼ばれて何をするかといえば、茜の踊りに合わせて横笛で曲を奏でることだ。
しかし、茜は伴奏のとおりに踊らない。どこかズレている。葵は妹の踊りに合せようとするが、彼女はことごとく合せようとしない。
やがて、茜は踊りをやめてしまった。
「伴奏がズレているせいで踊りづらいですわ」
葵は横笛から唇を離し、うつむいた。
「踊れない舞姫は楽器もできないのね。始音家の人間として恥ずかしいと思わないの?」
貴族たちもクスクスと笑っている。
葵はじっと屈辱に耐えた。
茜が伴奏に合わせる気がないのだ、と暴露するのは簡単だ。
ただ、舞姫として仕事をしている分、茜のほうが上流階級とのパイプがある。
立場的に有利なのは妹のほうなのだ。
その夜、家に帰ると、茜は葵の失態を親に報告した。
親からもお叱りを受けると、彼女はしょんぼりしながら自室に戻る。
葵が始音家の異変に気付いたのは、自分の部屋で眠っていたときのことであった。
夜中なのに、いやに母屋が騒がしい。
彼女は寝間着に上着をはおり、自室を出て使用人に声を掛ける。
「何かあったの?」
「ああ、葵様! 大変なんでございますよ!」
女中は慌てていて、なだめて話を聞き出すのに時間がかかった。
要約すると、始音家に収められていた『禁曲』の楽譜が盗まれたというのだ。
その楽譜は金庫に厳重に保管されており、当主が手入れをするために毎晩決まった時間に金庫から出すことになっている。
その楽譜が収められているはずのケースに、とある怪盗のカードが入っていた。
「怪盗……紅鴉?」
紅い鴉のマークがカードに大きく書かれ、『怪盗・紅鴉』とサインされている。まるでアイドル気取りだ。
それはともかく、禁曲が盗まれたとなれば、始音家が大騒ぎになるのも納得である。
何しろ、禁曲は演奏を間違えれば災いが起こると言われるほどの禁断の曲、呪われた曲なのだから。
「私、葵お姉様が泥棒を家の中に招き入れるのを見たわ。きっと始音家に仇なすために、こそ泥を手引したのよ!」
茜の発言に、一家の冷たい視線が一斉に注がれる。
葵は当然「濡れ衣だ」と反論したが、家族の中に味方は一人もいない。
警察まで駆り出される事態となり、葵は事情聴取のために署まで連行された。
そこできっとひどい尋問にあうのだろう、と絶望に呑まれていた葵。
しかし、呼ばれた部屋に入ると、警察官はもちろんいたのだが、取調室で向かい合って座った相手は警察とは無関係の姿をしていた。
白いシャツに、黒い羽織を着た、茶髪の男。その瞳は美しい紫色をしており、もしかしたら異国の血が混じっているのかもしれない。
「大変だったね、お嬢さん」
男は黒田国重と名乗った。あの怪盗を次々と捕らえている名探偵だ。
葵は自分に気を使ってくれる人物がいるとは思わず、ぽかんとする。
「僕は紅鴉について良く知っている。奴は義賊であることに誇りを持っているんだ。始音家の人間だからといって犯罪の片棒を担がせるようなやつじゃない」
自分の敵に対する評価ではないような気がするのだが、好敵手というのはそういうものなのだろうか。
ひとまず、黒田の助けもあって警察からの容疑を免れた葵は、彼のすすめで実家には帰らず、黒田探偵事務所に転がり込んだ。
「ありがとうございます、黒田さん。私、あの家には居場所がなくて……」
やっと束縛から逃れた気分だ。
「でも、禁曲の楽譜は、紅鴉から取り戻さなくちゃ」
「僕も協力するよ。依頼であれば、交換条件を出そうかな」
黒田は穏やかな笑みを浮かべている。
「君の舞を見てみたい」
「ですが、私はもう」
「いつか踊れるようになったらでいい」
こうして、葵と黒田は手を組んで、禁曲と怪盗の行方を追うことになったのであった。