『46億年の記憶』 ~命、それは奇跡の旅路~

 ところで、わたしのママとパパのこと知ってる? 
 思い切り首を横に振ったわね。
 そこまで強く振らなくてもいいんじゃない? 
 といっても、わたしも知らないんだから、あなたが知らないのは当然と言えば当然よね。
 
 それはそうと、ママとパパはどんな人たちかしら? 
 いい人だったらいいな、
 素敵な人だったらいいな、
 なんて思ったら、どんな人か知りたくなっちゃった。
 ちょっと見てみようかしら。
 
 今度は頷いたわね。
 ありがとう。
 では、早速観察を始めます。
 とはいっても、わたしはママのお腹の中にいるから二人を見ることができないの。
 だから、魂の一部を分離して体外に飛ばすことにしたの。
 
 そんなことができるのかって? 
 できるのよ。
 さっきも言ったでしょ、わたしは特別な卵子なんだって。
 わかった? 
 それでは、偵察魂(ていさつこん)を分離してママとパパの観察を始めます。


       偵察魂 

 若い女性の体から偵察魂がふわっと浮き出て、空中に遊離した。
 それは、マンションの一室の天井近くにとどまって、あらゆるものを見下ろした。
 
 突然、ぶるっと震えた。
 体内にいる卵子に報告する準備が整ったのだ。
 しかし、偵察魂は自らの言語を持っていなかった。
 だから、状況を言語にして的確に説明することはできなかった。
 そのため、捉えた映像と音声をそのまま送り届けることしかできなかった。
 ただ、それは単なる映像と音声ではなかった。
 偵察魂が見た人物の心を写し取り、心の声を読み取ることができるものだった。
 だから、映像と音声を受け取った卵子はその人の言動だけでなく、何を見て、何を思い、何を考えているのかまで把握することができた。
 更に、その背景や過去の出来事まで掴むことができた。
 あらゆる情報が送り届けられることになるのだ。
 
 偵察魂がゆっくりと降下し始め、二人の人物に近づいた。
 それは、将来のママとパパになる人物だった。
 また、ぶるっと震えた。
 その瞬間、卵子への送信が始まった。


「うまくいったかしら?」

 (あるじ)考子(たかこ)が夫の顔を覗き込んだ。
 
「どうかな? でも、いい予感がする」

 (あるじ)(あらた)が自信ありげに頷いた。

 2日間の愛の契りを終えた二人はベッドで微睡(まどろ)んでいた。
 
「どっちがいい?」

「どっちって……、気が早いな。それより今は君の分身に僕の分身が巡り合っていることを祈るだけだよ」

「そうね。多分というか、絶対大丈夫だと思うわよ。だって、びっくりするくらいあなた元気だったから。うふ💗」

 考子は思い出し笑いをしながら新の胸に顔を埋めた。
 そして、彼の乳首をいじくりながら、「ねえ、巡り合ったら挨拶とかすると思う?」と意味ありげに彼を見上げた。
 
「挨拶か~。そうだね、初対面だから『初めまして』って言ったりして」

 すると、ふふっ、と考子が笑ったが、すぐに心配そうな表情に変わった。

「私の分身はちゃんと返事ができているかしら」

「大丈夫だよ。『お待ちしておりました』って三つ指ついているよ」

「まあ、結構古風なのね」

 考子がクスクス笑って抱きついてきた仕草があまりに可愛くて、新はギュッと考子を抱きしめた。
 そして、唇を重ねたまま誘いの言葉を発した。
 
「もう1回する?」

 考子は思わず目を見開いたが、すぐに悪戯っぽい笑みを浮かべて、唇を合わせたまま魅惑的な声を発した。

「2回でもいいわよ?」

「昔はね、」

 腕枕に頭を乗せて気持ち良さそうにしている考子に話しかけた途端、新が突然笑い出した。

「何? なんなの?」

 気持ち良い余韻から現実に引き戻されて頬を膨らませた考子が彼の鼻をつまんで左右に揺すった。

「ごめん、ごめん。いや、学生の頃習ったことを急に思い出して可笑しくなってさ」

 蘇った記憶にまた腹を抱えた。

「もう、勝手に思い出して勝手に笑って」

 考子が彼の上唇を抓るふりをした。

「ははは。ごめん、ごめん。ちゃんと話すよ。実はね、ほんの少し前までは〈せいき〉というものが妊娠に関係していると思われていたんだよ」

 すると、考子は〈なに言ってるの?〉というように目を見開いた。

「思われていたって、なんで過去形になるわけ? 男性器と女性器が結合して、その結果、精子と卵子が出会って妊娠するわけだから、性器が関係しているのは当然のことじゃないの?」

「あっ。ごめん。そっちの〈せいき〉じゃないんだ。僕が言っているのは、〈精気〉のこと」

「えっ?」

「二百数十年前までは、セックスという行為を通じて男性が女性に精気を注入することで妊娠が成り立つと思われていたんだよ」

「それって……」

「うん。精子と卵子の役割がきちんと認識されていなかったんだ」

「へ~」

「それを証明したのがイタリア人の牧師なんだけど、1780年に犬を用いた人工授精を成功させたんだよ。つまり、セックスをしなくても、男が精気を注入しなくても、妊娠が成立することを証明したんだ。精子と卵子が結びつけば、それだけで妊娠が可能であることを証明したんだよ」

「そうなんだ~」

「科学の進歩によってそれまでのいわゆる常識が覆されて真実が明らかになるわけだけど、現代においても迷信のようなことが信じられていることは多いよね。実際、外来に来る妊婦の中にはネットで調べた非科学的な情報を信じている人も多いんだよ」

「確かに。ネット上ではありとあらゆる情報が溢れていて、どれが本当のことかわからなくなることがあるわ」

「そうなんだよ。まことしやかなウソも結構多いからね。気をつけなければね」

「ところで、話は戻るけど、私は精気って重要なんじゃないかと思うの。だって、万物を生成する天地の気のことでしょう? 絶対必要だと思うわ。男性は単に精子を送り出せばいいのではなくて、精子と共に万物を生成する天地の気を一緒に送り出すべきなのよ。違う?」

 違わないわよね、というふうに人差し指で新の鼻を突いた。

「ちゃんと答えてね。あの時、私にしっかり精気を注入してくれた?」

「えっ?」

「あなたの精子が私の卵子に届くように、気合を込めて精気を注入したのかって聞いているの」

 どうなの? というように考子が顔を近づけると、新はニヤッと笑ったあと、耳に口づけるようにして囁いた。

「もちろんだよ。〈光り輝く未来〉という名の精気を送り込んだよ」


       わたし 

 あっ、彼がやって来た。

 と思ったら、物凄い数の精子軍団が我先にと泳いできた。
 
 そんなには無理!
 
 逃げ出したくなったが、後戻りはできなかった。
 子宮に向かって進むしかないのだ。
 
 わっ! 

 一気に取り囲まれてしまった。
 誰もが必死になって卵膜を破ろうとしている。
 
 あっ、いっ、うっ、えっ、おっ、
 どうなってしまうの? 
 
 わたしは固まったまま身動きができなくなった。
 
 うっ、
 わっ、
 いろんなところから卵膜を突かれて……でも中々突き破られない。
 そうなの、最強の勇者しか入ってこられないようになっているのよ。
 だって、変なのが入ってきたら最悪だからね。

 わたしは膜に力を入れて、必死になって防戦した。
 すると、力尽きて脱落する精子が増えていった。

 でも、それでいいの。
 最強の勇者だけでいいのよ。
 それ以外はいらないんだからね。

 わたしは四方八方に睨みを効かせた。
 
 そのままの状態で10分が過ぎた。
 でも、誰も膜を突き破ることはできなかった。
 15分が過ぎてもわたしを守る透明な幕に頭を突っ込んでもがいているだけだった。
 しかし、20分が過ぎた時、突然変化が起こった。
 一番大きな精子が必死になって尾を振り、体をねじり、頭を突き動かして……遂にその時がやって来たのだ。
 膜から頭が出てきたと思ったら、一気に入ってきた。
 競争に勝った最強の勇者が中に飛び込んできたのだ。
 
 あ~、わたしの王子様。
 幾多の困難を乗り越えた最強の彼。
 どんなプロポーズの言葉をかけてくれるのかしら。
 じっと見つめていると、彼の声が聞こえた。

「しんど」

 いきなり関西弁かい! 
 ロマンティックな言葉を期待していたわたしはガッカリするというよりも頭にきたが、彼の疲れ切った表情を見て、気持ちを立て直した。
 
「お疲れ様」

 精一杯の笑顔で労うと、「東京の人?」と首を傾げた。

「そうなの。神田の生まれよ。ちゃきちゃきの江戸っ子なの」

 思い切り胸を張ると、「恐れ入谷(いりや)鬼子母神(きしぼじん)」と言って、まったく恐れ入っていない表情で見つめたので、思わずイラっとした声が出てしまった。
 
「他に言うことはないの?」

 すると、いきなり彼が居ずまいを正した。

「あなたに出会うために僕は生まれてきました。体の大きさは50ミクロンです。0.05ミリメートルと言い直した方がわかりやすいですか? 僕の体は頭部(とうぶ)頸部(けいぶ)尾部(びぶ)で出来ています。尾部は鞭毛(べんもう)とも呼ばれています。精巣で作られた僕は精管内で待機し、無数の仲間と共に外へ出るチャンスを待っていました。そして、遂にその時がやって来たのです。僕たちは一斉に陰茎から膣内へと放出されました。〈あなた〉というたった一人の姫君に出会う旅が始まったのです」

 あらっ、標準語になっているわ。
 
「んん。僕はバイリンガルですから、関西弁も標準語もどちらもしゃべれます」

 それって、意味が違うように思うけど……、
 まっ、いいか、続けて。
 
「僕が置かれた競争環境は熾烈なものでした。普通ではありえない競争環境だったのです。その競争倍率を聞いたらびっくりしますよ」

 百倍? 
 千倍?
 
「いえいえ、そんな生易しいものではありません。億倍なのです」

 億倍? 
 何それ? 
 わたしは卒倒しそうになった。

「1回に射精される精子の数は1億個から3億個なのです。1CC中に直すと5千万個。それが一斉にあなたに向かっていったのです」

 凄い! 
 わたしのために。
 かなり感動しちゃった。
 
「でも戦いは精子同士だけではありません。女性の体に備わった防御機能にも勝たないといけないのです。最大の敵は白血球なのですが、それ以外にも幾多の困難が待ち構えているのです」

 そうなんだ~、
 で、どんな困難?
 
「膣内のペーハーが最初の難敵です。膣は通常酸性に保たれており、酸に弱い僕たちがその中で生きられるのは30分が限度なのです」

 それってヤバくない? 
 いきなり大変じゃないの。
 
「そうなんです。ただ排卵期間中だけは粘液がアルカリ性のサラサラ状態になっているので、その時期に射精してくれれば、なんとか通り抜けることができるのです」

 良かった……、
 
「しかし、ホッとする間もなく次の難関が待ち構えていました」

 今度は何?
 
「膣を無事に通り抜けたとしても、子宮頚管という更なる難敵が待ち構えているのです。そこはとても細くて狭いトンネルなので、それだけで大変なのですが、その中を、それも頸管粘液という液体の中を泳がなければならないのです。精子たちは押し合いへし合い我先にと急ぐのですが、その頸管粘液が少なかったせいで泳ぐのが大変だったのです。ここで疲れ果てて脱落した同志も数多くいました」

 排卵後のわたしには競争相手がいないけど、精子は大変なのね。
 
「そうなんです。でも、大変なことはまだまだ続きます。子宮頚管を通り抜けたからといって、一気に、という訳にはいきません」

 えっ、
 まだ何かあるの?

「そうなのです。ハムレットの悩みに直面するのです」

 はっ? 
 ハムレット?
 
「右へ行くべきか、左へ行くべきか、それが問題だ」

 んっ? 
 それって違ってない? 
 生きるべきか、死すべきか、
 じゃないの?
 
「同じなのです。行先を間違えたら死んでしまうのです」

 どういうこと?
 
「子宮の先にある卵管は二つに分かれています。その二つともに卵子がいればいいのですが、1回の排卵で卵子は1個しか放出されないのです。つまり、卵子のいる卵管と卵子のいない卵管があるということです」

 そうか、卵子のいない卵管へ行っちゃうと……、
 
「愛しの姫君に会えないまま死を迎えることになるのです」

 そんな~、余りにもかわいそう、
 
「『えいや』で決め打ちする奴、いつまでもウジウジ悩んでいる奴、いろんな同志がいましたが、僕は自らの運命に従いました」

 どんな運命?
 
「僕は左利きなので、迷わず左へ行ったのです」

 それが運命なの? 
 でも、あなたには手があるようには見えないけど……、
 
「見えない運命の手を持っているのです」

 ふ~ん……、
 
「とにかく、迷わず左の道を選び、先頭集団の中で泳いでいきました。すると、」

 わたしがいたのね。こんなにも美しい絶世の美女が。
 
「いえ、まだあなたは見えません」

 何故?
 
線毛(せんもう)という大きな藻のようなものが待ち構えているのです。その中では強い逆流が起こっていて、我々精子を押し返そうとするのです」

 わたしは想像を膨らませた。
 すると、サケの遡上(そじょう)が浮かんできた。
 
「その通りです。流れに逆らって泳ぐサケと同じなのです。だから、最後の力を振り絞って泳がなければならないのです」

 頑張ったのね。
 涙が溢れそうになったが、話はまだ続いていた。
 
「しかし、それ以外にも天敵が待っています」

 今度は何?
 
「先ほども申しましたが、白血球という天敵が待ち構えているのです。卵管壁にいる白血球が僕たちを捕らえて食べてしまうのです」

 なんて恐ろしい……、
 
「彼らの攻撃を逃れられたものだけがその先へ進むことができます。あなたに近づくことができるのです」

 精子って本当に大変。
 つくづく卵子で良かったわ。
 
「泳ぎ切った先にあなたがいました。思わず、やった! と小躍りしました。しかし周りを見たら、」

 何? 
 なんなの?
 
「競争相手が100以上もいたのです。そして彼らが一斉に卵膜目指して飛びかかりました」

 知ってる。
 いろんなところを突かれて大変だったもの。
 
「僕は必死でした。あなたに会えるのは1個だけなのです。競争に負けたらあなたに会えないまま死ぬしかないのです。こんなにまで苦労して辿り着いたのに、負け犬になるわけにはいきません。体に残っているすべてのエネルギーを力に変えて頭と尻尾を動かし続けました。それまでに2万回以上尻尾を振っていましたが、生きるか死ぬかの瀬戸際で最後の力を振り絞ったのです」

 わたしに会うために膣から頸管へ、そして、子宮から卵管へ、その間一度も諦めずに全力で来てくれたのね。
 あなたって最高!
 
「ありがとうございます。身に余るお褒めの言葉です。それが聞けて良かった」

 彼は肩の荷を下ろしたのか、鞭毛が体から離れていった。
 と同時に、わたしの体に新しい膜ができ始めた。
 他の精子が入ってこられないようにするための膜だった。