政府がまったく何もしていないわけではなかった。
2007年8月に内閣特命担当大臣として『少子化対策担当』を新設したのだ。
しかし、内閣が変わるたびに、そして、内閣改造が行われるたびに大臣が交替し、1年以上その任を務めた人は皆無に等しい状態が続いている。
もし、一人の大臣が腰を据えて長期に渡って徹底的に対策を打っていれば、少子化の流れを食い止められたかもしれないのだ。
しかし、短期任命が繰り返され、〈器があって中身無し〉の状態が続いている。
「12年間で19人だよ。一人当たりの平均在任期間はなんと7.5か月。信じられないよね。7か月で何ができるっていうんだよ!」
普段は冷静な新が珍しく声を荒げた。
「少子化担当なんて小手先のことばかりやっているから埒が明かないんだよ。もっと本気で取り組まないと」
「本当、その通りだわ」
強く頷いた考子は、新を意味ありげに見つめた。
「もし、もしもよ、あなたが総理大臣だったらどうする?」
「えっ、僕? 僕が総理大臣?」
いきなりの質問に新は目を白黒させたが、深呼吸を一つしたあと、冷静な表情になって口を開いた。
「僕だったら……、僕が総理大臣だったら……、そうだな、少子化担当省を創るよ。いや、そんな中途半端なネーミングではだめだな。何がいいかな? そうだな~、そうだ、出生増加省でどうかな? 専任の大臣と千人のスタッフを配置して、出生数の増加だけに専念させるというのがいいんじゃないかな」
「いいわね。さすが新。グッドアイディアよ。それを手紙に書いて総理大臣に送ったら?」
「ははは。面白いこと言うね。でも、見ず知らずの一般人からの手紙なんて読んでもらえないよ。秘書が一瞥して、ゴミ箱行きに決まっているよ」
「そうか~、ゴミ箱行きか~」
考子が落胆の表情を浮かべたが、それは一瞬のことで、すぐにキリッとした顔に戻った。
「今の状態は国難と言っても過言じゃないわ。本当にヤバイと思うの。毎年毎年、出産適齢期の女性が減り続けていて、その上、結婚しない女性の比率が上がっているのよ。このままでは出生数がどんどん減っていくわ」
鼻を膨らませると、新が強い口調で応えた。
「おまけに低賃金で働く若い人が増えて、子供を持つことを最初から諦めている人が多いんだ。これって、将来に希望を持てない人が増えているってことなんだよ。非正規社員の問題、低賃金の問題をなんとかしないと抜本的な解決にはならない」
「そういう意味では経営者の意識改革も必要よね。利益を貯め込むことばかりに目が行って、賃上げを渋り、正社員登用を渋り、長時間労働を放置し、社員の幸福を後回しにしているのだから」
「それだけじゃないよ。マタハラの問題も重大だ」
「本当ね。妊娠したら辞めてくれ、出産したら辞めてくれ、短時間勤務なんてとんでもない、そんなことを平然と言う経営者や上司が余りにも多すぎるわ」
「その通りだね。社員あっての会社なのに、そのことをわかっていないんだよ。子供が産めないような賃金や職場環境を放置している経営者の頭の中を見てみたいよ。多分スカスカのカラカラだと思うよ」
「その通りよ。だから少子化対策に真剣に取り組まない政治家や役人、経営者は国賊と変わらないわね」
二人の言葉はどんどんエスカレートしていった。
それは苛立ちの大きさの裏返しでもあったが、子供を授かるために愛し合った二人にとって、この現実は受け入れがたいものだった。
「もし私が妊娠していたら……」
人口減と国力衰退が待ち受ける中で生まれるかもしれない我が子、その行く末に思いを馳せた考子は不安そうにお腹に手をやった。
わたし
なんか、出生数が減っているみたいね。
日本の人口はどうなってしまうのかしら?
ママの不安が伝わってきて、わたしも心配になってきちゃった。
でも、心配したところでなんにもできないから、今は自分自身のことに専念するわね。
で、この前はどこまで話したかしら?
え~っと、そうだ、わたしの体が二つに割れたところだったわね。
そうなのよ、いきなりだったからびっくりしちゃったけど、そのあとも凄いことが続いたの。
今からそれを教えてあげるわね。
あのあとね、細胞分裂を繰り返しながら卵管の中を転がるようにゆっくりと進んでいって、3日後に子宮へ辿り着いたの。
その時の細胞は32個になっていて順調だったけど、安心しているわけにはいかなかったの。
これから40週間過ごす寝床を急いで探さなければいけなかったからなの。
もし、うまく寝床を見つけられなかったらどうなると思う?
その時は体の外に排出されてしまうの。
死んでしまうのよ。
恐ろしいわよね。
だから、子宮の中でプカプカと浮きながら必死になって探し続けたの。
そしたら、子宮の内部が厚く盛り上がってきたのが見えたの。
着床できるように準備をしているように思えたから、寝床に最適な場所を目を皿のようにして探したの。
でも、これはという場所は見つからなかったの。
どこなの?
どこにあるの?
って必死になって探したけど、時間が経つにつれて不安でいっぱいになってきたの。
だって、残された時間は多くないから、早くしないと月経となって一緒に流されてしまうのよ。
わたしは祈るような気持ちで探し続けたわ。
するとそれが通じたのか、「ここよ」っていう声が聞こえたの。
その声がした方を見ると、厚くなった子宮内膜に窓が開いて、〈おいでおいで〉と誘うように手が振られていたの。
「あなたは誰?」って聞いたら、「私はあなたのパートナーよ。あなたを包む〈ゆりかご〉よ」という声が返ってきたの。
わたしは近づいて、声の正体を見極めようとしたわ。
そしたら、「心配いらないわ。私はあなたの味方よ」と優しくて温かい声が聞こえてきたの。
だから「信じていいのね」って確認したら、「大丈夫。早くいらっしゃい。私の寝床でゆっくり眠りなさい」って言われたの。
わたしはその声に吸い寄せられるように開いた窓から中へ入っていったの。
すると、ふんわりとした寝床が受け止めてくれたの。
そして、「疲れたでしょう。こんな小さな体で1週間近くも旅をしたのだから、大変だったわね。さあ、ゆっくりお休みなさい。ぐっすり眠って疲れを取って、明日からの細胞分裂に備えてね」って包み込むような声が聞こえたの。
それは、子守歌のように聞こえたわ。
そのせいか、その声に誘われるように大きなあくびが出たと思ったら一瞬にして眠りに落ちちゃったの。
おやすみなさい、と言う間もなかったわ。
ところでね、あとで知ったんだけど、わたしが子宮のゆりかごで眠っている間に大きな変化が起こっていたの。
分裂を続けていた細胞が二つの大きな塊になって、違う役割を果たし始めたの。
一つは母体由来の細胞と合体して胎盤になって母体からわたしへと酸素や栄養素を送り始めたし、もう一つは生命の始まりともいえる胎芽になって1ミリほどだった大きさのわたしが毎日毎日急速な勢いで成長を始め出したの。
すると、体の中に三つのグループが現れたの。
一つは、脳や神経、皮膚や歯などに成るために。
もう一つは、心臓や血液、骨や筋肉に成るために。
そしてもう一つは、消化管や呼吸器、肝臓や膀胱などに成るためによ。
なかでも、神経系統と心臓が最も早く発育を始めたんだって。
そして、それぞれが最適な場所に収まるために体に窪みができ始めたらしいの。
それが脊索というものなんだけど、将来それが背骨になって、その周りが背中になっていくらしいの。
それからね、着床して3週目になると体が〈白いんげん豆〉のような形になって、心臓が動き始めたらしいの。
ドクドクドクって動き始めたんだって。
それからそれから、4週目に入ると5ミリくらいの大きさになって、体は〈くの字型〉になったんだって。
そのあと、脳が物凄い速さで成長を始め出して、1時間に約10万もの新しいニューロンができていったらしいから、びっくりするわよね。
偵察魂
「ハッピー・ニュー・イヤー」
午前零時になった途端、考子と新はシャンパングラスを合わせた。
但し、妊娠の可能性を考えて、考子のグラスにはノンアルコールのスパークリングワインが入っていた。
「ごめんね、一人だけお酒を飲んで」
済まなさそうな表情で新が左手を立てた。
「大丈夫よ。それにね、これ結構おいしいのよ。もちろんアルコールゼロだからまったく一緒ってわけにはいかないけど、ジュースという感じはしないの。これなら雰囲気を味わえるわ」
考子はまんざらでもなさそうな表情でグラスを口に運んだ。
「ありがとう。そう言ってもらうと助かるよ」
新は安心した表情でスパークリングワインを味わった。
「ところで、今年はどんな年になるかしら?」
「そうだね、なんといっても今年はオリンピックがあるからね」
「そうよね、7月には世界各国から多くの人が集まってきて、物凄く賑わいそうね」
「そうなると思うよ。観光客の数が4千万人を突破する可能性もあるらしいからね」
「楽しみだわ。でも、私は楽しめるようになるかしら」
東京オリンピックが始まる7月24日は、考子が妊娠していたら8か月目に入る頃なのだ。
「8か月目になると……、そうだな、会場に足を運ぶのはちょっとやめておいた方がいいかもしれないね」
「やっぱりそうよね」
考子の声が沈んだ。
楽しみにしていたオリンピックに行けない辛さが滲み出ていた。
56年ぶりに巡ってきた日本開催というチャンスがやってきたのに、それをみすみす逃すことになるのだ。
テレビではなく自分の目で開会式や競技を見ることができる貴重な機会を失ってしまうのだ。
「あと1年延ばしたらよかったかな……」
不意に後悔が口をついたが、新はそれに同意しなかった。
「そんなことないよ。56年振りのオリンピックをお腹の赤ちゃんと一緒に体験することができるなんて、これ以上最高なことはないよ」
その途端、考子がアッという顔になった。
「本当だ。テレビを見ながらお腹の赤ちゃんにいっぱい色んなことを話してあげられる」
そうだろう、というように新が頷いた。
「ごめんね、妊娠しているかもしれないことを後悔しちゃって」
考子は甘えるように新にしな垂れかかった。
それを優しく受け止めた新は、彼女の髪に口づけをした。
「二人でお腹の赤ちゃんに話しかけながらオリンピックを楽しもうね」
考子は胸がいっぱいになった。
この人と結婚して良かったとつくづく思った。
だから、彼の体に回した手を自分の方に引き寄せてギュッと抱き締めた。
すると、新も抱き締め返して髪に顔を埋めた。「新しい命を授かっていますように」と祈りながら。
わたし
オリンピック!
その言葉に触れた瞬間、ニューロンが急増中の脳が思い切り活性化してワクワクが抑えきれなくなったの。
だって、ママとパパが待ち切れないみたいだからとっても楽しいものに決まっているもの。
だから、偵察魂に詳しい情報を送ってもらったの。
それによるとね、1896年にギリシャのアテネで開催されたのが第1回で、その時の競技数は8競技43種目だったんだって。
でもね、参加したのはたったの280人で、それも男子だけの参加だったそうよ。
女子を締め出すなんて最低よね。
当時は男女平等という考えはまったくなかったみたいだから、その頃に生まれなくてよかったわ。
でもそれは置いといて、
幻のオリンピックって知ってる?
知らないか~、
もちろんわたしも知らなかったんだけど、実は1940年の第12回大会が東京で行われるはずだったんだって。
でもね、満州事変と国連脱退への厳しい国際世論や拡大する日中戦争などの影響で返上することになったらしいの。
軍部による中止勧告に従って返上せざるを得なくなったらしいから、尋常ではないわよね。
関係者の苦悩は大変なものだったと思うわよ。
それはそうと、慌てた国際オリンピック委員会は代替地としてヘルシンキを選んだんだけど、それもソ連のフィンランド侵攻によって困難になったの。
結局第12回大会は中止になったんだって。
ロンドン開催が決まっていた第13回も、ヒトラーによるポーランド侵攻を切っ掛けとして始まった第二次世界大戦の影響で中止になってしまったの。
平和の祭典であるオリンピックが愚かな独裁者や軍指導者によって粉々にされたのよ。
こんなことは二度と起こって欲しくないわね。
ところで、第12回大会を返上しなければならなくなった日本だったけど、1964年に遂に念願を果たしたんだって。
第18回大会よ。
93の国と地域から5千人以上の選手が集まったというから、盛大な大会になったと思うわ。
単に日本が復興したというだけでなくて、新幹線という世界最先端の技術力を見せる機会にもなったから、経済大国としての一歩を踏み出す切っ掛けになった大会とも言えるわね。
それから56年後の今年、再びオリンピックが日本で開かれることになって、招致が決まった時は国中が大変な喜びに包まれたそうよ。
「生きているうちに二度も日本開催のオリンピックを見られるなんて、なんて幸せなんだろう」と涙ぐんだ人もいたらしいわ。
その気持ちはよくわかるわよね。
それとね、前回は戦後復興を印象づけた大会だったけど、今回は震災復興をアピールする大会にするんだって。
それだけではなくて、長期低迷が続く日本経済を活性化して再び成長軌道に乗せる起爆剤にもしたいらしいの。
そうなるといいわよね。
GDP世界第2位の地位を中国に奪われただけでなく、第3位の地位もインドに脅かされているんだから、頑張ってもらわないとね。
わたしが大きくなった時に存在感のない国になっていたら嫌だからね。
政治家さん、経営者さん、頑張ってね。
ところでね、5週目に入って体が大きくなってきたのよ。
10ミリくらいになったの。
心臓や肝臓が隆起してきたし、目の網膜に黒い色素ができ始めたの。
手も足も形になってきたし、手の先には指のようなものができてきたのよ。
それから、顔の真ん中には鼻ができ始めたの。
それと、へその緒もそれらしい形になってきたのよ。
するとね、ママの体から十分な栄養を受け取れるようになって、自分の力で臓器を作ることができるようになったの。
凄いでしょ。
あと1週間経って6週目になると、水晶体と角膜ができ始めるんだって。
それに、顔の下の方に外耳が現れるらしいの。
それから、肘を曲げることができるようにもなるんだって。
楽しみだな~。
オリンピックもそうだけど、自分の体の変化にもワクワクしちゃうわ。
偵察魂
もしかして……、
考子は考え込むような表情を浮かべた。
生理が遅れているのだ。
今まではほぼ28日周期で規則正しくやってきたのに、それがないのだ。
なんだか熱っぽいし、とても眠たいし……、
間違いないと思った考子は、買い置きしていた妊娠検査薬を箱から取り出して、トイレに入り、紙コップに尿を採った。
そして、その中へ検査薬を10秒つけた。
それを折り畳んだトイレットペーパーの上に置いて、3分待った。
終了という窓を見ると、縦に棒線が出ていた。
その横の判定の窓にも縦の棒線が出ていた。
授かった……、
そのサインを見た瞬間、嬉しいというよりもホッとしたような気持ちになった。
ガッツポーズが出るかと思ったが、ボーっとした状態で縦の棒線をただ見つめることしかできなかった。
しっかりしなきゃ!
考子は自らに喝を入れて、検査薬の説明書を詳しく読んだ。
そこには、『妊娠反応が認められましたので、できるだけ早く産婦人科の医師の診断を受けてください』と書かれてあった。