偵察魂
「パンデミックは加速している」
6月19日のWHO事務局長の発言だった。
そして、危険な新局面に入ったという認識を示した。
世界全体の1日の感染者数は15万人を超えて、過去最多となっていた。
新たな感染者の半数近くはアメリカ大陸からで、特に経済活動を早い時期から再開したアメリカ合衆国の南部や西部、そして、同じく経済活動が再開されたブラジルのサンパウロなどで急増していた。
これに対してWHOは、人との間隔を取ること、マスクを着用すること、などの対策を徹底するように呼びかけた。
「日本は大丈夫かしら?」
ニュースを見ていた考子が不安な声を出した。
「どうかな~」
新が首を傾げた時、次のニュースに変わった。
『東京都の休業要請、今日から全面解除』
接待を伴う飲食店やライブハウスなどの営業が再開できるようになったとアナウンサーが伝えていた。
「危ないな~」
警鐘を鳴らすような声が新の口から漏れた。
前日の東京都の感染者は41人で、そのうち10人が接待を伴う飲食店の従業員や客だった。
「アメリカやブラジルのようにならなければいいけど……」
考子の不安は大きくなっていた。
「経済活動の再開を急ぐと同じことになりかねないね。もちろん、ギリギリのところで持ちこたえているお店も多いらしいし、解雇に怯えている人たちも少なからずいるらしいから放っておくわけにはいかないけど、再開を急ぎ過ぎると危ないね」
新は力なく首を横に振ったあと、もう一つの危惧を口にした。
「感染防止のためにはマスク着用が必要だけど、これからどんどん暑くなっていく中でマスク着用を続けると熱中症も心配だね。体の中に熱がこもって倒れる人が増えるかもしれないし」
新型コロナ感染と熱中症のダブルパンチが襲ってくる光景を思い浮かべた考子はぞっとしてブルっと体を震わせたが、その時、ある事に気がついた。
「ねえ、インフルエンザが夏に流行することはないわよね。ということは、新型コロナも夏になったら収束するんじゃない?」
新が頷いてくれることを期待してじっと見つめた考子だったが、期待通りの反応は返ってこなかった。
「そうとも言えないな。感染が拡大しているアメリカの南部は日本の夏の気温になっているけど、収束どころか急増している状態だからね」
「そうか~」
期待がしぼんだ考子にそれ以上口にする言葉はなかった。
「とにかく、有効なワクチンが出てくるまでは気を緩めないで、しっかり感染予防対策をするしかないと思うよ」
「そうね……」
いつまでその状態が続くのか先が見えない中で、考子の気持ちはどんどん沈んでいった。
わたし
お腹の中でうとうとしていたら、ママとパパの心配そうな様子を感じたの。
世の中が大変なことになっているらしいわ。
未知のウイルスが猛威を振るって、世界中を恐怖に陥れているんだって。
死者がどんどん増えて50万人に近づいているらしいの。
ペストみたいにならなきゃいいんだけどね。
そんなことを考えていたら、特別な存在に導かれてペストの時代に連れていかれたの。
ネズミが運んできたノミを媒体として感染爆発を起こした、あのペストの時代よ。
それは、14世紀のヨーロッパ。
当時は黒死病と呼ばれていたの。
感染した人の皮膚が内出血によって紫黒色になるからそう呼ばれていたのよ。
ヨーロッパの死者は2千万人から3千万人とも言われていて、その数は当時のヨーロッパの人口の三分の一以上というから大変な状況だったのよ。
今の日本に当てはめると4千万人以上が亡くなったことになるから、恐ろしいなんてもんじゃないわね。
当時の人たちは地獄のような毎日を過ごしていたんだと思うわ。
でもね、ただ怯えていただけではないのよ。
なんとしてでもこの恐ろしい病気に打ち勝とうと必死になって知恵を振り絞ったの。
残念ながら原因になる病原体のことは発見できなかったけど、公衆衛生という側面から打開を図ったのよ。
どういうことかというと、この病気がオリエント(東方)から来た船から広がっている事に気づいたヴェネツィア共和国が水際作戦を開始したの。
入国制限ね。
船内に感染者がいないことを確認するために、疑わしい船を強制的に停泊させて船員を入国させない法律を作ったの。
強制停泊期間は40日よ。
それは、潜伏期間と考えられた日数を基に決められたの。
その結果、水際で食い止めることができたのよ。
流石ね。
いつの時代にも賢い人がいるものね。
いま世界中の国々で検疫や入国制限が行われているけど、そもそもの始まりは14世紀のヴェネツィアということになるわね。
ところで、ペストの病原菌が発見されたのがいつか、知ってる?
知らないのね。
じゃあ教えてあげるわ。
時は1894年6月14日、当時流行していた香港で発見されたのよ。
発見した人はなんと日本人だったの。
北里柴三郎さん。
同じ日本人として誇らしいわね。
これによって累計1億人以上の死者が出たペストの正体がわかって、予防や消毒、治療の道が開けたのよ。
そして、抗生物質の登場によって治癒することが可能になったの。
ところでね、わたしのパパのご先祖様は北里博士の教え子なんだって。
直接指導をしてもらったらしいの。
その血がパパにも繋がっているから、迷わず医師の道に進んだんだって。
もちろん、わたしにもその血が流れているから、病気と闘うという使命を持っているかもしれないわね。
やっぱり将来は医師かな?
それとも薬学の研究者かな?
それともWHOの事務局長かな?
どれも魅力的だけど、まだ決められないわね。
でも、いつか特別な声が導いてくれるはずだから、それまでは生まれるための準備を着々と進めるわね。
で、わたしの体に関して言うとね、
今ね、骨がどんどん出来てきているのよ。
細胞が成長して骨芽細胞になって、それが骨になっているの。
体を支える背骨が輪状の33本の骨と150くらいの関節と1,000本くらいの靱帯によって出来上がっているの。
かなりしっかりと体を支えることができるようになったのよ。
だから、背をまっすぐに伸ばすことができるようになったの。
でもね、ある場所だけ骨化が進んでいないところがあるの。
それは頭蓋よ。
これには理由があるの。
生まれて来る時、わたしは母体の狭い産道を通っていくことになるんだけど、その時に頭蓋骨が出来上がっていると通りにくくなって、出産に支障をきたすからなの。
だから、頭蓋骨は引っつかないで、産道の狭さに対応して柔軟に変形できるようになっているのよ。
それに、脳が成長するためにも頭蓋が柔軟であることが大切なの。
だって生まれてから1年で赤ちゃんの脳は3倍にも大きくなるから、頭蓋骨が邪魔をしたら脳の発達が遅れてしまうのよ。
そんなことになったら大変だから、生まれてからも柔らかいままなの。
いろんな理由があって頭蓋骨を未完成にさせているのよね。
人体の不思議に今更ながら感動しちゃうわ。
それと、特別な使命を果たすためにわたしの脳はアインシュタインよりも大きくなるはずだから、わたしの頭蓋は普通の人よりもゆっくり骨化していくと思うの。
将来の天才誕生の邪魔をしないように頭蓋骨が気を遣っているのよ。
ありがとう、頭蓋骨さん。
偵察魂
「まあ、かわいい💗」
考子は親友の真理愛の家に遊びに行っていた。
彼女は半年前に出産して、目のぱっちりとした真ん丸お顔の女の子を育てていた。
恐る恐る腕に抱かせてもらって、イナイイナイバ―をしていると、赤ちゃんがニコッとこぼれんばかりの笑顔を見せた。
その瞬間、考子の体の奥から溢れんばかりの母性が湧き出てきた。
「可愛すぎて夢中になっちゃう」
右手で体を支えて、左手で赤ちゃんの頭を撫でた。
すると、「気をつけてね。まだ頭のてっぺんは閉じていないから」と真理愛は心配そうに赤ちゃんの頭に手を置いた。
「ほら、ここはペコンペコンしてて、まだ骨が固まっていないのよ。柔らかいから、なるべく触らないようにしているの」
考子はそこをじっと観察した。
頭のてっぺんが周期的に動いているように見えた。
赤ちゃんの拍動と連動しているのがよくわかった。
真理愛によると、赤ちゃんが泣いた時にも膨らむことがあるのだという。
「頭を洗う時は大変ね」
考子は自分が赤ちゃんを沐浴させている姿を思い浮かべた。
「それは大丈夫。ガーゼで優しく洗えば問題ないから」
「そうなんだ、良かった。でも、いつまでこんなに柔らかいの?」
「え~っとねー、そうだ、1年半から2年くらい経ったら閉じるって、先生から聞いたわ」
「そんなに? 結構時間がかかるのね」
「そうみたい。赤ちゃんの脳はどんどん大きくなっていくから、発達段階にある間は閉じないでいるみたいよ」
「へ~、人間の体ってよくできているのね。感心しちゃう」
「本当にそう思うわ。でも、あなたはいいわよね」
「何が?」
「だって、旦那さんが産婦人科医だもの。なんでも教えてくれるから羨ましい」
「うん。まあそうだけど……」
曖昧に答えたあと、でも知識と診察経験だけではわからないものがあるのも事実だわ、と思った。
どんなに優れた男性産婦人科医でも妊娠や出産は経験できないからだ。
こればかりは経産婦に勝ることはできない。
とはいえ、多くの妊婦を診てきた新の経験や医学知識には客観性や普遍性があるのも事実だ。
その客観性に基づくアドバイスは確かにありがたいし、為になる。
そういう意味では、産婦人科医が夫で、経産婦が親友で、自分は本当に恵まれた環境にいるんだなと改めて思った。
赤ちゃんが寝たので、真理愛が入れてくれたハーブティーを二人で楽しんだ。
「これ、美味しいわね」
考子はほっこりとした表情になった。
「そうでしょう。私の大好きなローズヒップよ。妊娠中も良く飲んでいたの」
「ハーブはカフェインが入っていないから安心して飲めるって聞いたことがあるわ」
考子が聞きかじりを口にすると、真理愛は少し首を傾げた。
「そうでもないのよ。飲まない方がいいハーブティーもあるの」
「えっ⁉」
考子は思わず大きな声を出して、目を丸くした。
「そんなに驚かないでよ。こっちがびっくりするじゃないの。それに、赤ちゃん大丈夫かな」
心配そうな顔になった真理愛はベビーベッドを覗きに行った。
しかし、少しして戻ってくると、大丈夫よ、というように目配せをした。
すやすやと眠っていたようだ。
「よかった」
安心しながらも考子が、ごめんなさい、と顔の前で両手を合わせると、真理愛は、いいのよ、というように微笑んで、中断したハーブティーの話を続けた。
「妊娠中、カフェインは胎盤から胎児に入っていくって聞いたから、コーヒーは止めてハーブティーにしていたんだけど、ハーブティーの中には子宮を収縮させる作用があるものもあるから気をつけた方がいいって言われたの」
「誰から?」
「産婦人科の先生からよ」
「えっ、産婦人科医?」
そんなことを聞いたことがなかった考子は頭の中で新を小突いたが、「それでね、飲んでもいいものリストを貰って、その中から自分の好きな香りのものを選んでいったの」という真理愛の声で今に戻った。
すると、彼女は台所の引き出しからそのリストを持ってきて、テーブルに置いた。
エクセルの表だった。
左欄がOKなもの一覧、右欄がNGなもの一覧になっていた。
「コピーするから、持って帰ったらいいわ」
印刷機のコピー機能を使って刷り上がった1枚を渡してくれた。
「ありがとう。助かるわ。これからも色々教えてね」
考子は左欄に記載されているローズヒップという文字を見つめながら、穏やかな気持ちでカップを口に運んだ。
わたし
あれっ、ゴロゴロって音がしたぞ。
ママが何か飲んだのかな?
もしそうなら、何を飲んだのか知りたいな。
そしてそれが、おいしいものだったらいいな。
だって、ママが好きなものがわたしの好きなものになるんだから。
それはそうと、羊水の中にはいろんな味がしみ込んでいるのよ。
その羊水をいつも飲んでいるから、それが馴染みの味になっているの。
ミルクやヨーグルト、チーズは大好物になったし、ブロッコリーやほうれん草も大好きになっちゃった。
たまに食べてくれる牛肉の赤身は待ち遠しいほどよ。
納豆は最初はちょっと勘弁してって感じだったけど、だんだん慣れてきて、今では平気の平左になっちゃった。
朝食に食べるイチゴやバナナは大好物になったし、これまでのママの食生活は概ね○ね。
でも、今日ママが飲んだものは今まで経験していない味だったの。
なんだろう? て思っていたら、だんだん酸っぱくなってきて、ウソでしょ、勘弁してよ、って顔をしかめちゃった。
でもね、そのあとで程よい甘さが追いかけてきたの。
これは何かしらと思案していたら、ハチミツだってことがわかったの。
ハチミツが少し入って酸味を中和しているみたいなの。
なるほどね、素晴らしいマリアージュじゃない。
わたしはお気に入りリストにこの味を入れることにしたわ。
偵察魂
ティータイムが終わり、考子と真理愛は音を小さくしてテレビを見ていた。
「しばらく海外旅行はお預けだから、テレビの旅番組で我慢しているのよ」
子育て中というだけでなく、新型コロナが猛威を振るっている状況ではどうしようもないわよね、というふうに肩をすくめた。
テレビにはパリの街並みが映っていた。
昨年放送分の再放送のようだった。
「憧れのパリか~」
真理愛はシャンゼリゼ通りを颯爽と歩く美しいパリジェンヌの姿に魅せられていた。
「でも、私たちは選ばなかったのよね」
考子は、悪い選択じゃなかったわよね、というように唇の端を上げた。
二人共旅行が大好きだった。
高校卒業後、大学は別々だったが、アルバイト料を貯めては二人で日本全国を回った。
そして、卒業記念旅行は2週間、行先はヨーロッパと決めて、具体的な訪問地を話し合った。
その中で最初に候補に挙がったのは、大都市だった。
パリ、ウィーン、ローマ、マドリード、アムステルダム、コペンハーゲン、プラハ……。
しかし、お上りさんのような観光地巡りをする気はないということに気づいて、サイコロを振り出しに戻した。
「私はイタリアに行きたい。特にフィレンツェ」
大学院で考古学を専攻することを決めていた考子は、ヒトが進化することによって生まれてきた創造物、つまり、芸術にも高い関心を寄せていた。
特に、数多くの名作が生み出されたルネサンス時代の美術品に魅せられていた。
だから、フィレンツェという都市名が彼女の口から発せられたのは自然なことだった。
「私はマラガにする」
「マラガ?」
真理愛の言う都市名がどの国のものか考子にはわからなかった。
「スペインよ。アンダルシア地方。地中海沿いのリゾート地でもあるの」
アンダルシアと聞いて大体の位置が想像できたが、「グラナダやセビーリャは有名だけど、マラガって聞いたことないわ」と首を傾げると、真理愛が理由を説明した。
「ピカソが生まれた所を見てみたいの」
ピカソは1881年にマラガで生まれていた。
だから今でも生家が残っており、美術館もあるのだという。
「私、ゲルニカが大好きなの」
ゲルニカ、それは、内戦状態にあったスペインでナチス・ドイツ軍が無差別爆撃を行って多くの一般市民を殺戮した町であり、その事実を知ったピカソが理不尽な軍事作戦に怒りと憎悪を表した絵画の作品名であり、一般市民や動物たちの絶望と苦悩と悲しみを描くことによって反戦の意を表したピカソの代表作だった。
法学部在学中に司法試験に合格して弁護士を目指していた正義感の強い真理愛はその絵のことを知り、その背景を深く理解することによってピカソに関心を持つようになり、その生家へ行ってみたいと思うようになったのだという。
「決まりね」
二人は納得顔で同時に大きく頷いた。
こうしてイタリアのフィレンツェで1週間、スペインのマラガで1週間、計2週間の卒業旅行が決定したのだった。
そんなことを思い出しているうちに旅番組が終わったので、真理愛はテレビを消した。
そして、書棚からアルバムを取り出して、テーブルの上に広げた。
「わ~、懐かしい。フィレンツェだ」
巨大なドームが特徴の大聖堂の前でピースサインをして写る二人の写真を指差して、考子は大きな声を出した。
「シー」
真理愛は唇に人差し指を立てて考子を諫めた。
またやっちゃった、と考子は右手の拳で頭を叩く真似をした。
そして、口にチャックをする振りをした。
それを見てフッと笑った真理愛がアルバムをめくると、絵の写真が現れた。
それは考子が一番好きな絵だった。
『小椅子の聖母』
ラファエッロが1514年に描いた傑作で、円形画の中にマリアと聖母子と聖ヨハネが描かれており、特にマリアの眼差しは何人をも惹きつける優しさを湛えている。
「考子は30分近くこの絵の前から動かなかったわよね」
当時のことを思い出した真理愛が小さく肩を揺すって笑った。
「だって、彼女に見つめられたら動けなくなって……」
写真に吸い寄せられるように顔を近づけると、「はい、おしまい」といきなり真理愛がアルバムを閉じた。
そして、「また動けなくなったら大変だからね」と考子の鼻をチョンと突いた。
考子は不満気に鼻を膨らませたが、それを気にかけることもなく真理愛がスペイン愛を語り始めた。
「マラガへ行ってからスペインへの関心が高まって色々な事を調べたんだけど、日本とはまったく違うことがわかったのよ。なんだと思う?」
「いきなりそんなこと聞かれてもわかる訳ないし……」
突然話題が変わって、ついていけない考子は口を尖らせた。
「女性に関することよ」
真理愛は男女平等ランキングについて話し始めた。
「スペインは男女平等ランキングでベストテンに入っているのよ。しかも女性議員比率は40パーセントを超えていて、更に、女性閣僚比率に至っては65パーセント、つまり三分の二が女性なの。世界でもトップクラスらしいわ。凄いわよね。それに比べて日本は」
真理愛の頬が膨らんだ瞬間、赤ちゃんが泣きだした。
「あら大変。お腹が空いたのかな? それとも、オシッコかな?」
彼女は小走りにベビーベッドのある部屋へ向かった。