世界恐慌、それは、1929年10月24日の株価大暴落に端を発した異常な事態であり、瞬時に世界を恐怖に陥れたモンスターだった。
それが始まった場所は同じニューヨークだった。
株価は七分の一にまで急落し、銀行だけで6千軒が倒産し、失業者は1千万人を超えた。
人々は路頭に迷い、全財産を失った者は自らの命を絶つ道を選んだ。
いや、それしか選択肢がなかった。
絶望が支配する中で正常な判断ができる者はほとんどいなかったのだ。
新はそれを本で読んだことがあった。
『アメリカの死んだ日』というドキュメントだった。
書店で目にした瞬間、なんという恐ろしいタイトルだろうと思った。
しかし、買わずにはいられなかった。
家に帰ってすぐに読み始めたが、ページをめくるたびに恐怖を感じた。
それがまた蘇ってきて、震えのようなものを感じた。
同じことが起こるのだろうか?
ニューヨーク発の大恐慌が起こるのだろうか?
そうなったら、どうなるのだろうか?
新の気持ちがどんどん沈んでいった。
「どうしたの? 顔色が悪いわよ」
考子が心配そうに顔を覗き込んだ。
「なんでもない。大丈夫」
新は無理矢理笑みを浮かべて、新聞から目を離した。
そして、立ち上がって台所へ行き、冷蔵庫からミネラルウォーターの2ℓボトルを出して、コップに注いで、ゴクゴクと飲んだ。
しかし、気分は晴れなかった。
未知のウイルスに翻弄される危機的な状況が頭から離れることはなかった。
経済への影響も心配だったが、それ以上に感染拡大に対する危惧が強かった。
今はワクチンも治療薬もないのだ。
自分の免疫だけで戦うしかないのだ。
しかし、抗体を持つ人はほとんどいない。
感染リスクは極めて高いのだ。
それを考えると、これから生まれようとしている我が子のことが心配でならなかった。
妊娠中の感染を免れたとしても、生まれた時の世界は今とはまったく違っているかもしれない。
それは、どんな世界なのだろう。
どれほどの困難が待ち受けているのだろう。
考えても何も思い浮かばなかったが、どんな世界になったとしても一人で生き抜く力をつけさせなければならないことだけは明白だった。
我が子の人生の道筋を明確に示してやることが親としての務めかもしれないと思った。
すると、突然『専門性』という言葉が頭に浮かんだ。
しかし、すぐに気がついた。
それは突然ではなく、前々から心の奥底で考え続けていたことなのだと。
ミネラルウォーターをコップに注ぎ足して、それを一気に飲み干した。
コップをテーブルに置くと、新の表情が変わった。
そこには、暴風雨のさ中であっても敢然と進むことができる一本の道を見つけた救いのようなものが表れていた。
わたし
あのね、さっきね、夢を見ていたの。
胎児なのに夢を見るのかって?
見るのよ。
しっかり見てるのよ。
眠っている時にわたしの目が動いていることを知ってる?
知らないか。
そうよね、お腹の中のことだからね。
誰も見たことはないわよね。
でもね、それが夢を見ている証拠なの。
どんな夢を見ているのかって?
それは、色々なんだけど、ご先祖様の夢を見ることが多いわね。
ご先祖様といっても血の繋がった家族のことじゃないわよ。
それよりずっと前のご先祖のことよ。
単細胞生物だった頃の夢を見たことがあるし、シアノバクテリアになって酸素を吐き出している夢もあったわ。
巨大な魚になって海を優雅に泳いでいる夢も見たし、両生類になって初めて肺呼吸をした夢も見たの。
ネズミのような形をした哺乳類の先祖になって昆虫や草を食べている夢も見たし、大型の恐竜から逃げまどっている夢も見たわ。
わたしの近くを何トンもある巨大肉食恐竜がズシンズシンとのし歩いてきて、隠れている草むらに首を突っ込んできたの。
危なかったわ。
見つかったら食べられちゃうから、体がブルブル震えて止まらなかったの。
本当に怖い夢だったわ。
こんな恐ろしい夢はもう見たくないわね。
それから、樹の上で生活する類人猿になって果物を食べた夢を見たし、最初の人類になって洞穴生活をしている夢も見たわ。
まだ全身毛むくじゃらだったことをよく覚えているわよ。
それから、マンモスを狩って生肉を食べる夢も見たし、ネアンデルタール人と出会って恋をする夢も見たのよ。
日本人はネアンデルタール人のDNAを持っているから、ホモサピエンスとネアンデルタール人の混血がわたしの祖先かもしれないわね。
それから~、
そう、最近見た夢はね、わたしの将来のことだったわ。
結構現実的な夢なのよ。
パパとママと三人で大学進学について話し合っている夢だったかしら。
パパがわたしに聞くの、どういう仕事をしたいのかって。
わたしは答えられなくてじっと考えているの。
そんなに簡単には決められないでしょ。
どういう仕事をするのかって大事だからね。
本音を言えばね、楽にお金を稼げる仕事があったらいいな~って思うんだけど、そんなうまい話はないわよね。
「うまい話には裏がある」って言うからね。
「儲かりまっせ」なんて言って近づいてくる人を信用したら酷い目に合うからね。
偵察魂からの情報によると、投資詐欺が増えているらしいけど、それは罠だから信用しちゃダメよ。
この低金利の時代にお金が倍になるなんてことはないんだから。
ん?
ちょっと話がずれちゃったかしら。
え~っと、そう、そうだ、仕事の話だったわね。
まだ具体的にどういう職業というものはないんだけど、これからの時代を考えると、手に職をつけなきゃダメかなって思ってるの。
なんの専門性もなく大学を卒業しても誰も相手にしてくれないと思うのよ。
だから、文科系は厳しいかもしれないわね。
英語が喋れたって当たり前だし、マーケティングもAI(人工知能)には敵わないし、RPA(ロボットによる業務プロセスの自動化)が全面導入されて事務作業の自動化・効率化が進めば定型的な仕事なんて完全に無くなっているだろうし。
そう考えると、先端技術を学べる理工系の大学へ行って、更に大学院で博士号を取得して、卒業したら時代を先取りした仕事に就くのがいいのかなって思うの。
どうかしら。
偵察魂
「日本の博士号取得者が減っている、か……」
新は両手で鼻と口を覆って、新聞記事のグラフを食い入るように見ていた。
「何か言った?」
ブツブツ独り言を言っている新に考子が近づいてきた。
「日本だけ博士号取得者が減っているんだって」
「本当?」
考子が横に座って、そのグラフに目をやった。
「本当だ。アメリカも中国も大きく増えているのに、日本だけ減ってる」
「そうなんだ。ドイツやイギリスやフランスや韓国なんかも増えているのに、日本は何やってんだろ」
苦々しい顔になった新に考子が追随した。
「これは大問題ね」
「そう思う。日本がいかに専門性を重視していないかという現れだよ。というか、専門性の重要性を理解していないんだと思うよ。ほら、ここを見てよ」
新が指差したのは、日米の年収比較だった。
「アメリカでは四卒者と博士課程卒業者では年収が1.7倍も違うのに、日本では1.2倍ほどしか違わないんだ。これじゃあ、お金と時間をかけて博士号を取得しようとは思わないよね」
「本当ね。高学歴者を高収入で処遇するのは世界の流れなのに、日本はその流れから完全に外れているわね」
「なんて言うんだっけ、それのこと」
「ん?」
「その~、世界の標準から外れて日本国内だけの最適化が進むことを……」
「ガラパゴス?」
「そう、それ、ガラパゴス化。経営者は誰もが『グローバル競争を勝ち抜く』と言っているのに、実際やっていることはガラパゴス経営なんだよ。情けないよね」
「本当にそう。だからせっかく苦労して博士号を取得しても、企業に就職しようとは思わなくなるのよ。投資に見合うリターンが少ないし、入社したとしても評価が低いのだから当然よね。そういう状況だから私みたいに研究者になるしか道は残っていないのよ」
「うん。ここにもそれが書いてある。博士号取得者の75パーセントが大学などの研究機関に所属しているんだって」
「悲しいわよね、せっかく身に付けた専門性を評価してもらえないなんて」
考子が頬を膨らませた。
すると、数年前のことが急に思い出された。
「私の友達にデジタル分野で博士号を取ったとても優秀な人がいるんだけど、彼女が電機メーカーの採用面接を受けた時に何を訊かれたと思う?」
「それは当然、大学院で専攻した専門分野に関することじゃないの」
「いいえ。そんなことまったく訊かれなかったのよ。訊かれたのは、組織の中でうまくやっていけるかどうか、つまり、人間性に関することとか、コミュニケーション能力に関することとか、そんなことばかりだったんだって。彼女は自分が専門誌に発表した論文について質問が来ると思って一生懸命準備したのに、全部無駄になったって憤慨していたわ」
「ふ~ん」
新は〈信じられない〉というふうに両手を広げた。
「面接官は何を考えているんだろうね」
「そうでしょう。信じられないわよね。専門性のなんたるかをわかっていない人に面接させてはいけないのよ。本当、バカみたい!」
考子が当時のことを思い出して自分のことのように憤慨すると、新は〈わかるわかる〉というふうに首を縦に振った。
「それで、その友達は?」
「『日本に居ても将来が開けない』と言って、さっさとアメリカへ渡って行ったわ。今はアメリカの超有名な研究所で働いているの」
考子が口にしたのは、知る人ぞ知る超エリートしか採用しない研究所だった。
「凄い! そこって世界最先端の研究をしているところだよね。そこで認められたんだ。凄すぎる。でも、そんな優秀な人材を日本は逃しちゃったわけだよね。本当にバカだよな」
「そうでしょう。あり得ないわよね。せっかくの希少な人材を流出させたのだから、責任を取ってもらいたいと思うわ」
「その通りだよ。でも一番の被害者は彼女だよね。日本に愛想を尽かせているんじゃないの」
「そうなの。だからもう日本には帰ってこないって言っていたわ。向こうで出会ったアメリカ人の研究者と結婚したから、アメリカで骨を埋めるんだと思うわ」
「そうだろうね。そういう話を聞くとなんか虚しくなってくるね。イノベーションの担い手になるべく努力してきた博士号取得者を評価できないでいると、日本は後進国に後戻りする可能性だってあるね」
「そうだと思うわ。私は博士号を取得したし、あなたも6年間の教育を受けて医師になって頑張っているけど、これから生まれてくる子供たちに同じ道を歩んで欲しいなんて言えなくなるかも知れないわね」
「そうだね。でも、子供たちには専門性を身に付けて欲しいから、大学院で博士号を取得してもらいたいよね。ただ、そうなるとアメリカへ行かせるしかないかもしれないね。君の友達みたいな嫌な思いはさせたくないから」
「そうね。日本を捨てなさいって言ってるみたいで辛いけど、その選択肢は真剣に考えた方がいいかも知れないわね。でも……」
二人が目を合わせた。
その途端、互いに同じことを考えていることを理解した。
頭の中は、これから生まれてくる子供の教育費のことでいっぱいになっていたのだ。
「また上がってる」
新は新聞の記事を見ながら大きなため息をついた。
その記事には、私立大学の授業料が7年連続で増加したことが記されていた。
後ろから考子が覗き込んだ。
「初年度が入学金込みで146万円で、次年度から90万円か。結構お金がかかるのよね」
「これは平均だからね。ここを見てよ。学部ごとの授業料が載っているから」
指差されたところを見た考子は、ヒューと口笛を吹くような声を出した。
そこには医学部の授業料が載っていた。
「医学部って、1年間に266万円もかかるんだ。すご~い」
考子はまじまじと新の顔を見た。
「そうなんだ。それが6年間続くからね。親の脛が細くなるわけだよ。僕がかなり齧っちゃったからオヤジは大変だったと思うよ。それに奨学金もかなり借りたしね」
医師になってからかなりの額を返済していた。
毎月5万円を15年に渡って返さなければならないのだ。
「この子が大学生になる頃にはどうなっているのかしら?」
「僕のように私立の医学部に行くようになったらかなりの額が必要だから、今からコツコツ貯めておかないとね」
「それに、子供はもう一人欲しいから、二人分貯めるとなると……」
二人は顔を見合わせて、肺が空っぽになるくらいの息を吐いた。
わたし
博士号を取る人が減ってるんだって。
それだけじゃなくて、せっかく博士号を取っても就職するところがないんだって。
高い授業料を払ってそんなんじゃ、やる気出ないわよね。
先端技術を学んで博士号を取って時代を先取りした仕事に就こうと考えてたのにがっかりだわ。
嫌になっちゃった。
でもね、なんでこんなことになっているのか知りたくなったから、偵察魂に調べてもらったの。
そうしたらね、大変なことがわかったの。
日本と海外では博士課程に対する考え方が根本的に違っていることが原因だったの。
どう違うのかって?
それがね、物凄く違うのよ。
日本では博士課程で学ぶ人は大学に授業料を払っているわよね。
でもね、外国ではまったく違うらしいの。
なんと、お給料が貰えるんだって。
アメリカやヨーロッパや中国なんかでは所属する研究室がお給料を払うらしいの。
勉強しながらお給料を貰えるのよ。
凄くない?
しかも、就職したら四年制の大学を卒業した人よりも1.7倍もお給料が貰えるんだからやりがいがあるわよね。
これだから外国ではどんどん博士号取得者が増えているのよ。
その結果、先端技術の開発が進んで、それを実用化するベンチャー企業も続々現れて、経済が活性化しているのよ。
翻って日本は旧態依然のままだから世界の先進国から大きく後れを取ってしまったんだと思うわ。
中国の三分の一しかない研究開発費に加えて、大学院生への対応が遅れているんだから目も当てられないわよね。
今すぐなんとかしないと大変なことになってしまうわよ。
教育関係の皆さん、文科省の役人さん、政治家さん、経営者さん、一刻も早くなんとかしてください。
博士課程に対する対応がガラパゴスのままでは世界からどんどん離されてしまいますよ。
今すぐやらないと大変なことになりますよ。
『科学技術立国を目指す』なんていっても、このままでは絵に描いた餅でしかなくなりますよ。
大学院に行きながらお給料が出るように、そして、高い初任給を貰えるように早急に対応してください。
お願いします。
ふ~、力が入りすぎて疲れちゃった。
それに、日本がどんどん遅れていくのを知る度にがっかりして、疲れが増すのよね。
だから、ちょっとお休みしたくなったけど、そうもしていられないの。
元気に生まれるために体を鍛えなきゃいけないのよ。
気力を振り絞って体を動かさなきゃいけないの。
さあ、やるわよ。
ぐる~ん、と。
あ、できた!
とんぼ返りができたわ。
じゃあ、次もやってみるわね。
ぐる~ん、と。
これもできた。
でんぐり返しもできたのよ。
すご~い!
自分でもびっくり。
わたしってスーパースターかしら、
って自慢しているみたいだけど、最近色々な事ができるようになったから、メチャクチャ嬉しいの。
無重力の中で動く宇宙飛行士みたいにゆっくりだけど、羊水の中でアクロバティックな動きができるようになったのよ。
次は何をしようかな?
よし、もう一度でんぐり返しに挑戦しよう。
せ~の、くるりん。
やったー!
さっきより上手にできたわ。
わたしって天才かも。
本気で宇宙飛行士になろうかしら。
パパはわたしを医師にしたいのかもしれないけど、宇宙飛行士だって立派な専門職だから、文句を言われる筋合いはないわよね。
将来は日本初の月面滞在宇宙飛行士になれるかもしれないし、なんかどんどん夢が広がってきたわ。
ワクワクしてきたら、またでんぐり返しをしたくなっちゃった。
もう一度行くわよ。
せ~の、くるりん。
あっ、大変、ママのお腹に蹴り入れちゃった。
そんなつもりじゃなかったんだけど、ちょっと調子に乗り過ぎちゃったかも。
ママ、ごめんなさい。
偵察魂
「あっ」
考子は驚いて、お腹を押さえた。
「どうしたの?」
心配そうに新が覗き込んだ。
「感じた」
「えっ、何が?」
「赤ちゃん」
「赤ちゃんって……」
考子がにっこりと笑った。
「私のお腹を蹴ったの」
「えっ、本当? どこ、どこ?」
新は考子が押さえている場所にそっと手を置いた。
しかし、何も感じなかった。
しばらく手を置き続けたが、変化はなかった。
「疲れて寝ちゃったかな?」
新はそっと手を離したが、その手を考子の肩に置いて、笑みを浮かべた。
「良かったね、感じられて」
「うん、すごく嬉しい。ここに赤ちゃんがいるんだって感じることができて、すっごく幸せ。そして、とっても愛しい。だから、守ってあげたいって、本気で守りたいって、心の底からじわ~っと湧き出てきているの。わかる?」
新は何も言わず考子のお腹に服の上から口づけた。
そして、「ママを幸せにしてくれてありがとう」と囁いた。
赤ちゃんにお腹を蹴られた1週間後、考子はお腹を擦りながらハミングをしていた。
『クラシック子守歌メドレー』と題されたCDをかけながら、フンフンと口ずさんでいた。
それはショパンから始まり、モーツァルトになり、ブラームスへと続いた。
今日は新が当直の日なので、早めに夕食を済ませて、ソファにゴロンと横になって、このCDをかけ続けていたのだ。
「胎教は大事なのよね」
独り言ちて、またハミングをし始めたが、すべての演奏が終わると、別のCDにかけ替えた。
『クラシック名曲メドレー』というタイトルのCDだった。
バダジェフスカ作の『乙女の祈り』が始まった。
ソファに座って聴いていた考子は目を瞑り、体をゆっくりと左右に揺らしながら、「女性が作曲しただけあって調べが優しいのよね」と頷いた。
ベートーベン作の『エリーゼのために』が始まった。
彼が40歳の頃に作曲したこの曲はとても愛らしいので、お気に入りリストの上位に入っている。
「力強いベートーベンもいいけど、この優しいベートーベンが一番好き」と微笑んだ。
曲が変わると、思わずウットリとした声が出た。
「なんて素敵な……」
シューマン作の『トロイメライ』だった。
優しいタッチで弾かれるピアノの音が考子を夢想の世界へ誘った。
そして、リスト作の『愛の夢:第3番』が始まると、本当の夢の世界に入っていった。