心臓の鼓動が最高速を叩き出すのはいつだろうか?
美しいものを見て感動した時だろうか。それとも、緊張に身を縛られた時だろうか。
俺は、愛する人の死を体験する時だと思う。
「ミコちゃん、だめだって。ミコちゃんが死んだら俺はどうするのさ。どうすりゃいいのさ」
俺はベットに呼吸装置をつけて横たわる最愛の人に嘆く。
「……ナギくんは本当に馬鹿だなぁ。普通に生きればいいんだよ。今まで通りに。ご飯食べて、よく寝て、音楽聴いて、映画見て。なんら変わらないんだよ」
最愛の人、勇魚ミコトは、あまりにも酷なことを俺に言う。
「変わっちゃうんだよ!ミコちゃんがいなきゃ、俺は何も楽しめない。ミコちゃんがいるから、俺は……俺は呼吸が出来たんだよ!!だからさぁ……だから、俺を置いてかないでくれよぅ」
俺は子供みたいに声を荒らげ涙を零す。握りしめた彼女の腕には黒く焦げた跡が斑模様に浮かんでいた。
「ほんと赤ちゃんみたいだなぁキミは。出会った時は、『この世の全部が面白くない』みたいな顔してたのに。今は元気すぎるくらいだ……ゲホッ!ゲホッ!!」
ミコちゃんの顔に忌々しい斑模様がじわりじわりと広がっていく。俺は、彼女の生が残りわずかだということを認めたくなかった。
「ミコちゃん、だめだ。逝かないでくれ、頼む!!」
「ふふっ、普段なら昔のこと言うなーって怒るのに。今は泣いてさぁ。ナギくんは寂しん坊の甘えん坊さんだねぇ」
「ミコちゃん、今そんな冗談じゃ笑えねぇよ……」
俺はより強く彼女の手を握りしめた。あまりにも細くなってしまった指先を離さないために、俺は指を強く深く絡めた。
同時に生命維持装置の警告音が鳴り響く。それに呼応する様にミコちゃんが激しく咳き込んだ。
「ミコちゃんッ!?」
「……ナギくん、聞いて。最期のお願いになるかもだから。ちゃんと、聞いて」
ミコトの顔が黒く染まる。その中にある2つの光が俺を見つめた。それはとても力強く宝石の様な輝きを放った。
「私の後を追って自殺とかしちゃダメだよ?これからもキミは生きていくんだから。どうか素敵な日々を」
ミコちゃんの笑顔と対照的に俺は顔を歪めた。
「無理だよ、ミコト……俺は、ミコトがいない日々を過ごせる自信が無いよ」
「それでも、それでも生きなきゃダメだよ?ナギくん……」
――――愛してる。
彼女の最期の一言と、生死を決定づける不快な心電図の音が俺の脳にこびり付いた。
……ピピピピピピッ!
眩しい日差しと電子音。付け合せには呼吸をするのも苦しいほどの、激しい動悸。モーニングセットにしては重すぎるメニューで俺は叩き起こされた。
「ほんと最高だけど、最低な夢だな」
俺の寝起き第一声は、ここ1年変わらずいつも通りだ。記憶というのは凄いもので、俺は感じるはずのないミコトの甘い香りを、艶やかな声を覚えている。
未だ耳障りな音を奏でるスマホに目を向けた。液晶に表示された見知らぬ電話番号に俺は頭を巡らせる。
「新しい依頼か、はたまた支払い忘れか……いや、でも家賃は払ってたよな」
俺は寝癖まみれの頭を掻きながら、不快な寝汗をタオルで拭う。
「ミコちゃん、あんな夢みせるくらいなら死ぬなよぅ。俺はあの日を思い出す度に、死にたくてたまらなくなるんだぜ?でも、その夢のおかげでなんとか生きてるのも確かか……」
俺は半ばこじつけの様な文句をボヤいた。未だ、着信音は鳴り止まない。
「分かった!分かったって……出るよ、出ればいいんでだろ!……ったく営業時間外だっての。何が素敵な日々だ。こちとら、死人との約束守るのに精一杯なんだよ」
俺はコールマークに触れ、お決まりの言葉を告げた。
「ゆりかごから墓場まで。この世にあるものなんでもござれの『岩戸屋』店主、平坂ナギヨシです。冷やかしですか?それとも……ご依頼でしょうか?」
「ケンちゃん、バイト遅れちゃうよー!ほらお弁当忘れてる!」
「うわっ!?あぶねっ!ありがとう姉さん!!じゃあ、行ってくるから!姉さんも唐揚げ以外の料理のレパートリー増やせよ!」
「もー意地悪言って!ケンちゃんも寄り道しないで帰ってきてね!店長さんと喧嘩しちゃだめだよ?」
「うっさいなぁ!言われなくても分かってるっての!行ってきます!!」
姉の言葉を背に、僕こと武市ケンスケは家を飛び出した。
「やばいやばいやばいやばい遅刻する!これで遅刻したらまじでクビだよ!店長、自分が遅刻する割に人の遅刻には厳しいんだよなぁ!ただでさえ給料安いのにさぁ……ってそうも言ってられないか。姉さんのためにも、このくらいの理不尽耐えないと。でも、このままじゃ肝心の仕事失いそうだぁぁぁぁ!!」
ここは露希市にある郊外の町、天逆町だ。
最近は都市開発が進み、商業施設やら歓楽街が立ち並んできた。そのせいで古くからの商店街は潰されつつある。僕の家の定食屋も、このままだと大型スーパーになってしまう。
だけど、僕はそれが嫌だ。死んだ両親に変わって、姉さんが頑張って切り盛りしてるあの店を潰したくない。だって姉さんは、料理を作ってお客さんに食べてもらってる時の顔が1番素敵だから。
僕は自転車を漕ぐ速度を上げる。横道が多く、初めて来た人は迷いそうな道だ。けれど、頭に描かれた地図に沿えば間違えることもない。手馴れたブレーキングと信号機の無い道を選べば、5分前には着けるはずだ。
「はぁ、はぁ……なんとか間に合うぞ……!」
最期の下り坂を最高速で駆け抜ける。そして僕は衝撃と共に宙を舞った。
「ぷげらぁぁぁぁ!?」
視界がぐるぐると3度回る。これが体操の大会だったら文句無しの満点だろう。
「ぐへぇっ!!」
ギャグ漫画みたく顔面から地面に着地した僕は、痛みに耐えながら、こうなった原因を探る。
それはザ・金持ちと呼ばれる人々が乗っていそうな黒塗りの高級車だった。車体の中心には忌々しい『金』の字を象った金色の家紋が埋め込まれている。
「おいおいなんだぁ、こんな所に猪がいると思ったら、ガキンチョかよぉ。今夜はぼたん鍋かと期待したんだがなぁ!」
「お、お前らは金城組か!?」
「金城組じゃねぇ!金城グループだ!!」
黒いスーツに身を包み、威張り散らかしているこの男は僕が天逆町の住人が1番嫌っている奴らだ。
金城グループ。元は金城組として天逆町を仕切るヤクザだった。その頃は警備をしたり、祭りを開いたり町の為に存在していた。
けれど、トップが代わった今は、ビジネスと称して都市開発促進のため日や天逆町の人々を追い立てている。時には迷惑行為で、時には暴力で。
僕と姉さんも何度嫌がらせをされたか分からない。
「なんだよ、クセェと思ったらお前、あの邪魔なボロ屋のガキじゃねぇか!?どうだ?姉貴は差し出す気になったかぁ?俺は言ってやったろ?姉貴さえ俺らに渡せばお前たちだけはいい所に住ませてやるって」
「渡すわけないだろ!!お前ら……姉さんに手を出したらタダじゃおかないぞ!!」
「おぉ怖!だったらビビってないでパンチの一発でも当ててみろよ!ただし何倍にもして返してやるがなぁ!がっはっはっは!!」
悔しいがコイツの言う通りだ。僕はこれまで1回も立ち向かえてない。何とかしなきゃと思うほど、身体がすくみ動けなくなる。
昔コイツらに商店街の若者数人が歯向かったことがある。腕っぷしもあり、追い返すことに成功した。商店街は熱狂と歓喜に包まれた。けれど、その末路は悲惨だった。
行動に移した次の日に、関わった若者たちの死体が川に上がっていたのだ。金城グループの持つ資金力と組織力の前には、若者でしかないのだ。それを見た日以来僕は、金城グループを見る度に恐怖に身を縛られている。
「うるさいぞ。何を轢いたか知らんが、さっさと車出せ」
芯のある低い声が僕と黒スーツの会話を止めた。その声に僕は思わず緊張してしまう。
「しゃ、社長!!失礼しました!反対派のガキがしゃしゃり出てきまして……」
金髪に白いスーツを着た男が車から出てくる。間違いなくさっきの声の主だ。
「ほう、そいつの方が私より大事か」
「い、いえ……」
金髪の男は口元を歪ませ、黒スーツの前に立った。体格は明らかに黒スーツの方が大きいのに、彼は冷や汗を浮かべている。
「へぶぅ!?」
僕の思考を割くように金髪の男は乾いた音を響かせ、黒スーツを殴り飛ばした。
「ひ、ひつれいひまひまた……!!」
「分かればいいんだよ。分かれば」
黒スーツは頬を腫らし、金髪に謝罪する。僕はその光景に体が動かず、ただ固まる他になかった。
「さて、挨拶が送れたなぁ。私の名は金城ノゾムだ。死んだ親父に変わって天逆町を導く者だよ。覚えておけ」
「お前のせいで!」
「勝手に口を開くなよ。ガキが」
「ッ!?」
僕は思わずこの男の言う通りの行動をしてしまう。
それもその筈だ。コイツは銃を僕に突き付けたのだから。
「分かったか?お前らはなぁ!遊ばれてるだけなんだよ!こっちが本気で命ァ取ろうとしたら一瞬なんだよ!!私も甘かったよ。散々お前らガキンチョに付き合って時間を無駄にしちまった。何度も言ってるがなぁ、俺たちはビジネスをしてるんだ。ビジネスに時間の無駄は不要なんだよ!!」
「じ、銃なんか怖くないぞ!撃ってみろよ!!」
「だから口を開くなって言っただろうが!!テメェの臭い息なんて1秒たりとも吸いたかねぇんだよ。死にたくもねぇ癖に強がりやがって。死にたがりはさっさとくたばれ」
僕は訪れる痛みに身構え、思わず目を瞑る。
「じゃあなあばぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
僕は大声に驚き、思わず目を開けた。視界に映る金城の顔面を抉る車輪。金城はそのまま、感性に身を任せ吹っ飛んで行った。
「え、何?何なの?引いた?俺、人轢いちゃった?思いっきりガツンって言ったんだけど……。うわ、バイク凹んじゃってるよ。これ借り物なのに。ていうか、借りたバイクで人轢いたらすげぇ面倒臭いじゃないの?えー、どーしよ」
金城の代わりに僕の前に現れた男。それは派手な赤いバイクに跨り、派手なアロハシャツを着た黒髪の男だった。
「ひゃひゃちょぉぉぉぉぉぉぉ!?」
黒スーツは腫れた頬のせいで回らない口を精一杯開けて、金城の悲劇を嘆いている。当の元凶は、空気が読めないのか、はたまた読まないのか。己の心配をしていた。
「あ、アンタは一体……?」
僕は質問には答えず拙い疑問を投げかけた。
「俺か?俺はナギヨシ。平坂ナギヨシ。揺りかごから墓場まで。この世のものなら何でもござれの岩戸屋店主。所謂……何でも屋だ」
主人公の名乗りだ。名前を言った後のフルネーム名乗りは、主人公の名乗り口上と相場で決まっている。僕は唖然としていながらも、この男に希望に似たものを感じた。
「ねぇ、ボク」
「は、はい!」
「何も、何も見てないよねぇ!?ノーヘルなのも!人轢いたのも!?いやさぁ……罰金とかさぁ、慰謝料とかさぁ、裁判とかさぁ、俺払えるほど金無いよ!?だから何も見てないって言ってくれぇ!!」
前言撤回する。こんなにも社会的制裁に怯える主人公は存在するはずがない。
「テメェ何しやがる!!こ、これ見やがれ!歯がポロッと折れちまったじゃねぇか!?どう落とし前つけんだゴラァ!!」
そうこうしているうちに、先程吹っ飛んで行った金城が、抜けた歯を掲げながらコチラに向かってきた。
僕は平坂さんを逃がそうと、腕を引っ張った。だけど、その身体は動かなかった。
「前歯落としたんすか?探すの手伝いますよ」
「何が落とし前歯だコラァ!?前歯はもう見つかってんだよ!!ちげーよ!落とし前だよ!オ・ト・シ・マ・エ!!テメェは俺を轢いたんだよ!!責任取れんのかぁ!?」
「でもピンピンしてるじゃないっすか。怪我無さそうだし」
「怪我あんだよ!!見えねーだけで骨バッキバキなんだよ!!ブロークンボォンしてんだよ!!」
「ブロークンハートしてないなら立ち直れますって。頑張れ」
「テメェは倫理観がブロークンしてんのか!?」
正直僕は驚いていた。
先程まで社会に怯えていた男は、僕らが怯えている金城ノゾムには怯えていない。一体なんなんだこの男は。
「もういい。付き合いきれねぇ。テメェは殺す」
金城が僕にしたように平坂さんに銃を突きつける。
その時、突然空気が変わった。
「俺を殺してくれんのか?……やってみろよ」
僕には分かる。変えたのは金城じゃない。
平坂さんの方だ。
「なぁ、殺してくれんのか?答えろよ」
「……ッ!?」
それは異様な光景だった。
平坂さんは銃身を握り、自分の額に宛てがったのだ。引き金を引けば確実に殺せる。そんな状況を自ら作り上げたのだ。
だが、金城の指先は動いていない。いや、平坂さんの圧迫感に動けないのだろう。僕もこの空気感に息が詰まっている。
「怪我してないみたいっすね。良かった。俺も人を轢いてなかった。ヨシ!おしまい!それじゃ!!」
平坂さんがそう言うと同時に張り詰めていた空気が元に戻った。彼はポンポンと金城の肩を叩き、何事も無かったかのようにバイクに跨り発進した。
唖然とする一同。その中で1番最初に動いたのは僕だ。
僕は勿論、バイクを追いかけた。
「おいおいおいおいおい!!なにしれっと何事も無かったかのようにしてんの!?」
「うわびっくりした!何って……だってあの金髪怪我無いんだろ?俺としてもありがたいよ。人轢いてないんだから。安心しろ。この傷はたまたま隕石が降ってきて、たまたまバイクに直撃したってことにするから。口裏合わせてくれよな?」
「そういう問題じゃないって!なんか、あそこから戦いになりそうな雰囲気だったじゃないですか!!」
「え、そうなの?いやでも、撃たなかったってことは許してくれたってことでしょ。あれ、ドッキリか何かでしょ。銃だって玩具だって」
「ンなわけあるかぁい!!あれで許されたら警察要らないですって!ていうか、誰轢いたか分かってんですか!?あの金城ノゾムですよ!!」
「誰だよソイツ。金城って苗字からして金持ちそうだな。俺嫌いだわ」
「ド偏見!だけどあってる!!アンタ、ヤバいって!金城グループに目を付けられたんですって!マジで消されますよ!?」
「そいつはいいや」
「え?」
平坂さんは僕の忠告にただニヤリと笑った。
「殺してくれるンだったら……それでいい。俺をミコちゃんの所に送ってくれるんだろ?望み叶ったりだ」
「ミコちゃん?さっきもだけど殺されるってアンタ何言って……」
彼の目はただ前を見つめている。それも何も映らない程遠くを見ている様だった。
「それよりお前だお前」
「え、僕?」
「お前凄いな。バイクと並走してるぞ。」
「え……うおわぁぁぁぁぁ!?」
僕は今になって自分の状況に気付く。認識したが故に、常識が僕の体に降りかかった。途端にバランスを崩した僕は、ギリギリ並走している男のバイクに掴みかかる。
「おい、待て!?おまっ!離せ!目の前、目の前見ろ!壁、壁だって!やめ、ヤメロォォォォォ!!」
大きな衝撃と、機械の破壊音。本日2度目の宙に舞う僕。
僕の横では、怪しいアロハシャツの男が白目を向きながら鼻水を垂らし、3回転ひねりで満点を叩き出していた。
盛大に吹き飛んだ僕とアロハシャツは、壊れたバイクを前に天を仰いでいた。
「あのさぁ……」
平坂さんはサングラスをかけ、立ち上がりながら僕に話しかける。
「人に飛びかかっちゃいけないって小学生で習わなかったのかなボクゥ?おかげで俺の給料パーなんですけどぉ!?あ、そうか!お前はクルクルパーだから分からなかったかぁ!ごめんねぇボクゥ!お兄さんの配慮が足らなかったねぇ!!」
怒っている。明らかに怒っている。僕は直ぐに向き直り頭を下げ謝罪する。
「ご、ごめんなさい……」
「ハイ、出ました!魔法の言葉『ごめんなさい』。それで許されたら警察要らねーんだよ」
「アンタだって金城轢いて許されようとしてたでしょうが」
「……」
平坂さんはバツが悪そうに黙り込む。轢いてる自覚はあったのか。
「ったくよぉー。で、何?俺に用でもあるのボクくんは」
「ボクくん。じゃないです。武市です。武市ケンスケです」
「わーったよタケチンコくん」
「タケチンコじゃないです!武市ケンです!!」
何なんだこの男は。
僕はさっきの平坂さんの圧迫感を思い出す。あの時と今の平坂さんの雰囲気は天と地程の差があった。
「あの、平坂さん……」
「なんだよチンコくん」
「チンコってそれもう名前でも何でもないじゃないですか。ただのチンコじゃないですか。僕は武市ケンスケです……ゴホン!迷惑をかけた身で不躾なんですけど、僕たちを助けてくれませんか?」
「嫌だ」
「ありがとうございます!!……って、え?」
「だから、助けねえって言ってんだよ」
「何でも屋なんでしょ!?僕たちは金城グループのせいで居場所を失いかけてるんです。平坂さんめちゃくちゃ強いでしょ?あんな奴ら簡単に倒せるくらい強いんでしょ!?それに平坂さんも目をつけられてる。一蓮托生ですよ!もちろんお金は払います!!分割になるかもだけど……ね?」
僕は情けないほど必死だった。金城を震え上がらせる胆力があるこの人は僕の、いや天逆町の希望だと確信しているのだから。
「大丈夫だって。俺の力なんて必要ねぇよ。金城だっけ?バイクで轢かれて大怪我しただろ。緑の液体吹き出してねーから同じ人間だよ。逆に俺は不思議だがな。あんなのにビビってるのが」
同じ人間?何を言ってるんだこの男は。今置かれてる状況が分かってないのか?
それに、同じ人間だったらどうして僕は怯えてるだ。どう頑張っても、相手の持つ全てに勝てないから、怯えてるんじゃないか。それをこの男は『同じ人間』の一言で片付けた。
僕の心配は、平坂さんの無責任な発言に対する怒りに変わっていた。
「平坂さん程の力があれば、そうかもしれないですけど……僕からしたらあっちは金も権力も桁違いなんです!僕らの状況を知らない人間が、簡単に『勝てる』とか『ビビってる』とか言うんじゃねぇーよ!」
僕は怒りに任せた暴論を言い切ってハッと気付いた。平坂さんを無責任に巻き込もうとしたくせに、無責任に責めてしまったことに。途端に罪悪感に僕は呑まれた。
「す、すみません……」
「それがビビってるって言ってんだよ」
「え?」
平坂さんは僕の怒りなど意に介さず、ただ一言冷静にそう言った。
「『勝てないこと』に理由付けたって意味ねぇんだ。頑張ることは大事だ。でもな、何も成し得てないなら、頑張るって行為は無意味なんだよ」
「じゃあどうしたらいいんですか。頑張って耐えてるのに、それすら無駄って事なんですか」
「別に無駄じゃねーだろ事情は知らないが、金城グループには勝ってもねぇけど、負けてもねぇんだろ?それはお前が必死に耐えてきたからだ。まだ負けを認めちゃいねーってことだ。だから『負けてます』みたいなこと言うんじゃねーよ」
勝ってもないけど、負けてもない?
そうだ、平坂さんの言う通りまだ定食屋はつぶされてない。僕は自分たちがやられていることばかり考えていたんだ。失念していた。金城グループだってまだ勝てていないんだ。
「俺は『頑張った意味』を成立させるためなら、あんなしょーもない奴らにゃ勝てるって言ってんの。そんなカッカするなよ。カルシウム足りてないぞタケチンコくん」
「だからチンコじゃ……ッ!?」
僕が名前の訂正しようとしたその時、数台の高級車が僕らの周りを囲む。車は全て金の家紋を掲げている。
「おうおうおう!てめぇら!!ウチの社長に何しでかしてんだオラァン!」
「舐めたことしやがって!スッゾコラー!!」
ゾロゾロと強面の黒スーツたちが怒声をあげなから僕たちににじり寄ってくる。
「や、やばいですよ平坂さん……!」
「おい、ケンスケ」
「だからチンコじゃなくて……え?あ、はい。ケンスケです」
「金城グループは金たくさん持ってんだよな」
「は、はい。持ってます」
「お前も金出すって言ったよな」
「依頼を受けてもらえばですけど……」
「分かるか?今の俺の状況が。格ゲーで言うなら補正切り。賭け事で言うならダブルアップチャンスってことだ」
「は、はぁ?」
平坂さんの意図は何なのだろうか?僕は全く理解出来なかった。
「受けてやるよ。お前の依頼」
「えっ?本当ですか!?」
「但し条件がある」
条件。足元を見られるのだろうか。分割といえど、こっちにも生活がある。何よりも僕が優先すべきはソラの未来なんだ。
「助けるんじゃねぇ。力を貸すだ。協力だよ協力。あくまでも金城はお前が倒せ。そうじゃなきゃ意味はねーだろ?お膳立てくらいならしてやるよ」
そう言った直後、平坂さんは1人の黒スーツに飛び蹴りをかました。
鈍い音と共に声を出す間もなく、黒スーツの顔面がひしゃげ、身体ごと吹き飛ぶ。
サングラスの隙間からチラリと見えた平坂さんの瞳は、あの金城をビビらせた圧力を放っていた。
「口約束だからって、踏み倒しは無しだかんなぁぁぁぁ!!」
屈強な男たちを相手に、平坂さんはちぎっては投げを繰り返す。時には格闘で、時にはその辺にある木材で。型にハマらない荒々しい攻撃は、飢えた獣にも見えた。
僕も負けじと黒スーツ相手に仕掛ける。
「うぉぉぉ!!倒れろぉぉ!!」
「ヌゥッ!?……効かねぇなぁそんな攻撃ィ。どりゃァ!!」
「ぐあぁぁぁ!!」
だけど、僕の拳は相手には効かない。それどころか、逆に手痛い反撃をくらってしまう。
けれど、それが諦める理由にはならない。僕は身体に力を入れまた飛びかかった。
「まだまだァ!うおぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
「このガキィ!まだやるってのか!!ぐぅぅぅ!?」
ゴツンッ!
頭頂部に走る痛みは、僕の渾身の頭突きが相手の下顎を捉えた証だった。
「痛ッツゥー……!見たかオラァ!!」
「なんだよ。ケンスケ、やれば出来るじゃんか」
「へへへっ、今は勝つ気しかないですからね」
僕の方を見てニヒルに笑う平坂さんの足元には、呻き声をあげる男たちが蹲っていた。他に立っている黒スーツはいない。どうやら僕の相手が最後の一人だったようだ。
「ふふふ……お前らもう生きて帰れねぇぞ。俺たちは、単なる時間稼ぎだ……!」
「どういう事だ!?」
倒れている黒スーツが得意気にスマホを見せてくる。
そこに映る映像に、僕の身体はどっと汗を吹き出した。
「姉さん!?なんでっ……なんで姉さんが捕まってんだよォ!!」
そこには顔に痣を作った僕の大切な姉、武市ソラが縛られてた。僕は思わず、男に飛びかかり画面に向かって大きな声で叫んだ。
「姉さん!しっかりしてよ姉さん!!お前ら何してんだ!!」
「落ち着けケンスケ!」
『その通りだぞガキ。お前がそのまま猛獣のように叫び続けたら、私はこの女をまた殴ってしまうかもしれないぞぉぉ〜?』
ゲス野郎が。僕は、怒りを吐き出すことをグッとこらえる。悔しいが今は金城の言うことに従うしかない。
『ハッハッハッ!思い通りに人が動くってのはいいもんだなぁ!!私は優しいなぁ。散々邪魔をしたお前に、まだ選択をさせてやろうと言うのだから』
「な、何が望みだ……!」
『簡単なことだよ。1時間以内に私のオフィスに来い。そこで、お前が二度と歯向かわないことを条件に姉を解放してやろう。もし、約束が破られたのなら姉の身柄はこちらが好きにさせてもらう』
「そんなこと信じられるかっ!!」
『お前は指図できる立場じゃねぇんだよォ!時間待たずにこの女バラしてもいいのかァ!!……失礼、少し声を荒らげてしまった。お前の行動が正しい選択であることを願うよ。ハッハッハッ!!』
金城の高笑いと共に通話が切れた。
僕の身体は……震えていた。怒りだろうか。悔しさだろうか。
否、恐怖だ。姉さんが危険な状況にあるのに、僕の身体は死に怯えている。
さっきまでの自信はなんだったのだ。何が勝つ気しかないだ。僕はただ調子に乗っていただけに過ぎないのだ。
我慢していたはずの涙が僕の目から溢れてくる。
「じゃあ、行くか」
「……」
「なにすっとぼーっとしてんだ。大切なんだろ、ねーちゃん」
「……勿論です。でも怖いんです。情けないかもしれないんですけど、僕は怖い。怖くて身体が動かない!!」
「……なら、しゃーないな。お前はここでねーちゃん待ってろ。場所は……歩いても全然間に合う距離じゃねぇか。あの野郎ビビらせやがって」
「でも僕が行かなきゃ、姉さんが!!」
「強がんなよ。膝笑ってるぞ?怖い時は誰だって怖いんだよ。でもな、俺が受けた依頼は力を貸すだ」
「えっ?」
「てめーが本当にビビってんのは自分が殺される事じゃねーってことだ。膝の震えが止まったらちゃんと来い。お膳立てはしといてやる」
僕はハッとして平坂さんを見る。
その瞳は黒く濁っていながらも、光を帯びている。
それは僕が恐怖を断ち切ることを信じている光だった。
「さっさと覚悟決めやがれタケチンコ」
そう言うと平坂さんは金城グループの本拠地へ歩き始めた。その背中は今の僕にはあまりにも大きく見えた。
僕は、まだ震える膝に力を込めながら思う。
だからチンコじゃねーよ。
広い日本庭園に囲まれた大きな屋敷。その一室で金城ノゾムは、縛られた武市ソラを前にしていた。
「よかったなぁ。もうすぐお前の弟が迎えに来るってよ」
「……ッ!ケンちゃんに手を出したらタダじゃおかないから!!」
「クククッ、気の強い女は嫌いじゃないぜ。楽しみだなぁ!お前が幾らで売れるのか。好き者に売ったらかなり良い値が付きそうだ」
ソラが睨むことさえ、ノゾムにとって今後の楽しみを膨らませるスパイスでしか無かった。
「私のことは好きにしても構わない!でも、ケンちゃんにはなにも――あぁッ!?」
パァンと乾いた音が和室に響く。ノゾムの平手打ちがソラの言葉を遮った。
「気が強すぎるのも考えものだぞぉ?女は女らしく淑やかにするのも大事だ。空気を読め」
ノゾムは打った手を擦りながら、ニヤけた面立ちで地に伏すソラを見下す。ソラは悔しさに涙で畳を濡らす。強く押し噛んだ唇には血が滲んでいた。
「そうだ、黙らないといけない時には黙っていろ。そっちの方が男ウケがいい。なんなら、売り飛ばす前に私も楽しむとするか」
ノゾムはソラににじり寄る。口元は緩み、指はミミズが這うように気味悪くわきわきと動く。ソラに触れるあと数センチ、彼の動きを止めるが如くタイミングで、大声が耳に入った。
「社長ぉぉぉぉ!!」
「……チッ。なぁーんだ騒々しい。私は今忙しいんだよ」
「す、すいやせん。で、ですが!屋敷に……屋敷に侵入者です!!」
「どーせ1人だろ。よかったなぁ女。弟くんが助けに来たってよ」
「……違います」
「あ?じゃあ誰だ?何人だ!?」
「……分かりません。でも侵入者は1人です」
「んだよ。お前らなぁ、1人ならさっさと処理しろ。それが仕事だろ」
「とんでもなく強い1人が侵入者なんですよ、!!」
突如、屋敷内を轟音が揺らす。ノゾムには何が起こってるのか理解できない。それでもノゾムは、困惑しながら思考する。
人数の多さ、金城という名の偉大さ、自分の立場。普通に考えれば己に歯向かうなど無謀だ。それなのに敵は1人で乗り込んできている。しかも、このタイミングで。いったいどこの馬鹿なのだと。
「1人相手にちんたら戦ってんじゃねぇ!!人数で押しこみやがれ!分かったか!?」
「ウス!!分かりました!社長!!」
ドタドタと伝達係の男は走り去る。ノゾムは額から垂れる汗を拭い、深呼吸をした。
「……焦ることは無い。相手がどれほどか知らんが、こちらにも切り札はある。なぁ、『テンセイ』さんよぉ」
ノゾムの話しかける方角にはいつの間にやら影があった。夕日に少しばかり照らされたテンセイの口元は、少しばかりの笑みを浮かべていた。
⬛︎
「すいませーん!岩戸屋ですけどー、ノゾキくんいますかー?」
数刻前、金城の屋敷に到着したナギヨシは、正門を前に大きな声で問いかけた。しかし、待てども屋敷の扉が開くことは無い。
「あれ、聞こえなかったかな。すいませーん。『スマホ横からノゾキくん』いますかー?『女風呂ノゾキくん』いますかー?『夏場に体操着の隙間から見える女子の脇ノゾキくん』いますかー?」
「金城ノゾム社長だわぁぁぁぁ!!ノゾキじゃねーよ!ノ・ゾ・ムッ!!」
大きな音を立て門が開き、黒スーツが1人出てきた。彼は怒りに青筋を立て、鼻息を荒く吹き出している。
「なんだよ。いるなら最初から返事しろよ。『放課後、夕日に染まる教室。たまたま空いていた教室の隙間を覗き込むと、好きな人とチャラい先輩が濃厚なキスをしていた。僕が何かに目覚めたあの夏。それ以来、決して得ることの出来ない何かをノゾムくん』探してんだけど知らない?」
「長ぇーんだよ!!そういうのはノゾムくんしてねーんだよ!!むしろハッピーエンドノゾムくんだよ!!BSSはお呼びじゃねーんだよ!」
「いや分かんねーよ?世の男はNTRとかバウムクーヘンエンドで頂きに達する猛者もいるんだよ?なんなら世の中のカップルの8割は、NTRが原因で別れてるからね?」
「んなわけありません!!テメーの中では存在してても、僕の中であーりーまーせーんー!!現実のカップルは甘々ハッピーエンドですぅぅ!!ていうか2次元のカップルもハッピーエンドですぅぅぅ!!」
「うるっせぇな。誰もお前の性癖暴露会には、付き合いたかねーんだよ。そこら辺センシティブなんだよ。場合によってはブチギレる方々が存在するんだよ」
「テメーからふっかけてきたんだろうが!!もうムカついた!!お前が武市ケンスケだろうが、そうじゃなかろうが、こんな危険思想所持者を社長に会わせる訳には行かん!!」
黒スーツは勢いのまま、ナギヨシに殴りかかった。ナギヨシは身体を左に流し、ひらりと躱す。その勢いを利用し、感性のまま突っ込んでくる黒スーツの顔面に拳をめり込ませた。
お手本の様な美しいカウンターに、黒スーツは呻くことも無く地に沈む。
「分かったか?世の中ハッピーエンド1つじゃ味が薄いんだよ。結局、涙腺と財布の紐が緩むのは一筋縄じゃ行かない恋なんだよ。たとえば死別エンドとか……な」
ナギヨシは、倒れた黒スーツを一瞥し門を潜る。その先を見た彼の視界を捉える見渡す限りの黒。黒。黒。そして黒。
数えれば100を超える黒スーツ軍団が、多種多様な凶器を持ち構えていた。その面持ちは皆一同に狂気を孕み、今すぐにでも愚かな侵入者を始末する勢いだ。
「テメーが武市ケンスケかコラァ!?」
「よく単身で乗り込んで気やがったなコノヤロウ!!」
「今すぐにでもぶっ殺して、可愛い可愛いお姉ちゃんの前に生首晒してやるよォ!!」
罵詈雑言の嵐が吹き荒れる。無論ナギヨシは、自分がアウェーであることを百も承知でこの場に来ている。
喧騒とは裏腹に、彼の心は落ち着いていた。昔懐かしい戦場の記憶が蘇る。複数人を相手に血と狂宴の奮闘を繰り返したあの日々を思い出していた。
「最初に言っておく。俺は岩戸屋の平坂ナギヨシ。武市ケンスケじゃねぇ」
黒スーツたちがザワつく。なぜケンスケじゃない?じゃあコイツは誰だ、と。
だが、誰が来ようと彼らの仕事に変わりは無い。所詮、始末する人間が1人増えただけに違いないのだ。
「俺はただの何でも屋だ。ケンスケに金城グループと争うのに協力してくれって頼まれたんだ。なのにアイツ、肝心なねーちゃん奪還は俺1人にやらせようとしてんだ。膝が言う事聞かねぇんだとさ。金額と依頼内容が釣り合ってねーと思わねーか?」
黒スーツたちの大きく下卑た笑い声が響く。情けない、ビビり、意気地無し……。数多のケンスケを詰る言葉が埋め尽くす。
「でもな。俺は依頼料を変えるつもりは無い」
それは先程までの悪態とは違い、凛と透き通った真摯な声色だった。空気さえ支配したその言葉に、黒スーツたちの野次は淘汰される。
「アイツは必ず来る。理由なんざ決まってる。自分のねーちゃんが大好きでたまんねぇからだ。俺がケンスケに頼まれたのは露払い、つまり引き立て役だ」
――――お前ら……引き立て役の俺をちゃあぁーんと輝かせろよ?
ナギヨシの挑発に乗った黒スーツを皮切りに、濁流の様に黒スーツ軍団が遅いかかる。
迎え撃つナギヨシの瞳は、飢えた獣の如く瞳孔が開いていた。
ナギヨシの一挙手一投足が、黒スーツの塊を蹴散らす。それは決して彼らの練度が低いからでは無い。指揮系統も、それを実行する組織力も個々の実力も伴っている。
だがしかし、そんな容赦の無い猛攻を、立ち位置1つ、間合い1つでナギヨシは凌ぐ。そして優位な状況を作り出し、複数人を巻き込み仕留め続ける。時には花瓶を、時には剥がれた床板をと言った具合に、環境そのものを利用した攻撃に黒スーツたちは叩きのめされていく。
「退きなぁ!!奴の花道を飾るにゃ、まだまだ盛り上げ足りンぜぇ!!」
つまるところ、武闘派である黒スーツたちを遥かに上回る個の暴力。それが平坂ナギヨシという男なのだ。
「だ、だめだ!止まらねぇ!!」
「行け!行けぇぇぇぇ!!俺たちがカタギに恥欠かされちゃ生きて表を歩けねぇぞぉ!!」
「じゃあアンタが行けよぉ!!さっきから指示ばっかで手ぇ動かしてねーじゃねぇか!?」
「うるせぇ!俺が行ったらこのまま全滅だからね?ちゃんと大学行って頭の良い俺がいなきゃ、お前らもうとっくに終わってるからね?保育園もオムツも卒業してない奴が口答えすんじゃねぇ!」
「してっかっらぁ!?保育園どころか小学校も卒業してっから!?なんならオムツじゃなくてトランクスだからこ ぁ!?未だブリーフ卒業出来てないお前とは違いますからぁ!!」
立場を競いあっている黒スーツ2人の空気など読まず、ナギヨシは容赦なく顔面に攻撃をかます。勢いのまま地面に伏し、意識を失う2人の様は喧嘩両成敗を体現していた。
「ったくよぉ。ブリーフもトランクスも軟弱甘ちゃんなんだよ。ボクサー一択だろうが」
倒れた勢いで舞い上がった埃が消えると、そこには和風の屋敷に似つかわしくない、大理石で作られた荘厳な扉がナギヨシを待ち構えていた。
「急に雰囲気変わったんですけど。さっきまで如くってたのに、急にファンタジーじゃん。ラスボス部屋だからファイナルってこと?個人的にはカオスとかロウとかルート分岐できる方が好きなんだけど……まぁ、いいか。分かりやすい」
ナギヨシは扉を強く押す。力のかけ方とは相反して、その扉はあっさりと開いた。
そこは天井が高く、薄暗い。まるで別の空間に来たようにさえ感じる。
突如、部屋が光に包まれる。目に移る大きなシャンデリア、2階にも及ぶ客席。そして幕の降ろされた舞台。
そこは大きな劇場だった。
ナギヨシを待つものは鬼か蛇か。
「クックックッ……よく来たなぁ!金城が誇る地下劇場へ!まさかお前が恐れずにここまで来るとは思わなかったぞ、ケンス……ってお前はぁぁぁぁぁぁ!?」
幕が上がる。そして男の笑い声が木霊した。
その正体は金城ノゾムその人だった。だが、ノゾムの目の前に立つ男は彼の予想とは違った。アドリブに弱いのか、ノゾムのキメ顔は崩れ去る。
「ゆりかごから墓場まで。この世にあるものなんでもござれの岩戸屋店主、平坂ナギヨシだ。以後ヨロシクゥ!!」
「ヨロシクゥじゃねぇよ!!お前よくも人様の顔道路にしてくれたなコノヤロウ!!いーよ!?俺は金持ってるから、お前殺させてくれたらいいよ許すよ!?100歩譲ってそれは許すよ!?なんで肝心のケンスケじゃないんだよ!?私は結構期待してんたんだよ?捕らわれの姉を助ける弟とか王道展開じゃないか!?」
「何だよ、そんなナリして姉萌えかぁ?残念なこと言うと、世間一般じゃそんなのファンタジーだ。ブラコンなんて有り得ねぇ。弟に産まれた時点で……もう一生姉の奴隷なんだよ」
「ひとりっ子の夢を壊すなよ!!優しいお姉ちゃんだって、存在していいはずなんだ……!!」
「弟たちは皆等しく姉のパワーに虐げられるんだよ。最初は抗っていても、いつの間にやら従ってるもんなんだよ。お茶注がされたり、皿とか洗わされたりするんだよ。挙句の果てには、姉貴の結婚式とかで泣くハメになんだよ」
「や、やめやがれ!それ以上は……それ以上は今まで鍛えてきた理想の姉属性が壊れてしまうぅぅぅぅ!」
「そうだ。お前が好きなのは姉ではない。|姉属性だ。本物の姉には勝てねーんだよ」
ノゾムは何かに脳を焼かれた様に頭を抱え、悶え苦しんでいる。そんな彼に構わず、ナギヨシは言葉を畳み掛ける。
「露骨に優しい姉なんか存在しねぇ。それでも弟が姉を慕ってるのは、どこかしらで不器用な優しさを感じてるからなんだよ。なぁ、ケンスケのねーちゃん」
椅子に縄でがっしりと縛られたソラに、ナギヨシは言葉を投げかける。
「ケンちゃん……ケンスケは大丈夫なんですか!?それに貴方は……!?」
「安心しな。アンタにとっての正義の味方だよ。俺はケンスケに協力してくれって頼まれたモンだ。アイツももう少ししたらきっと来てくれるさ」
「なんですって!?だめです!呼ばないでください!!ケンちゃんが殺されちゃう!!ひ、平坂さんも逃げてください!!わ、私1人で何とか出来ますから!!」
それは、おおよそ捕まっている人間の発言とは思えなかった。恐怖に怯えた虚勢だとしても、決して揺るがぬ意思の強い眼がナギヨシに注がれる。
「悪ィな、ねーちゃん。俺ァまだケンスケの依頼の報酬貰ってねーんだ。だから、その依頼は聞けねぇ。それにな、ケンスケだってンなことしねーよ。依頼主の意思にそぐわない事はしないのが岩戸屋の方針なんでな」
「そんな……」
「そう悲観すんなよ。何も死ぬって決まったワケじゃない。俺はな、アイツがアンタを助けるって信じてるから協力してんだよ。だからねーちゃん。アンタもケンスケを信じろ」
ナギヨシはソラの目をより強く見つめ返す。一点の曇りも無いその瞳に、ソラは口を噤むことしか出来なかった。
この男が何処の馬の骨かは分からない。でもそんな男を頼った弟は信じられる。
それはソラが自分なりの覚悟を決めた瞬間だった。
「ククク……クハハハッ!もういい!!はやく私の姉萌えを侮辱するコイツを殺せ!!『テンセイッ!!』」
突如部屋が光に包まれる。思わぬ眩しさに、ナギヨシも手で顔を覆う。ザッザッと足音が響くと共に徐々に逆光を浴びたシルエットが人の形を形成していく。最後には光そのものが消え去り、1人の男がその場にいた。その男は誰に言われるでもなく口を開いた。
「……異世界で魔王を倒し現実に帰還したオレ。いつの間やらヤクザお抱えの最強ヒットマンになっていた件について。〜今更、死の恐怖に慄いてももう遅い〜」
右手には剣。左手には盾。身軽そうな白のロングコート。そして、黒髪に何処か気怠げな顔立ち。
テンセイと呼ばれたその男。それは主人公を纏いし者だった。
テンセイは手をかざし、ブツブツと何かを呟く。すると、彼の手の周囲の空間が蜃気楼の様にゆらゆらと揺らぎ始めた。
「――めらあぎふぁいあ」
聞き馴染みの無い単語が発せられると同時に、テンセイの掌から炎の塊が発射された。それは真っ直ぐにナギヨシ目掛けて飛んでいく。呆気に取られるナギヨシの鼻先に触れると、炎の塊は小規模な爆発を起こす。
「ハッハァー!見たか?これが私たち金城グループの誇る最強のヒットマン、『伊勢貝テンセイ』だぁ!」
眼前に広がる黒煙を前にノゾムは高笑いをする。
だが、その笑顔も長くは続かなかった。
「ゲホッゲホッ!……やめろよぉ。まだ爆発でアフロになるなんて古典的なギャグ、俺は披露したかねーぜ?」
煙を払いながらナギヨシが現れる。身体に煤は付けているものの、外傷は見られない。
「テメェ、何故生きてやがる!」
「実際危なかったぜ?鼻っぱしらが少し焦げちゃったもん。んで、オタクなんなの?伊勢貝テンセイさん?いきなり人に火器使っちゃダメだろぉ?花火だって人に向けちゃダメだってお母さんから学ぶだろ」
話しかけられたテンセイは、冷ややかな目線をナギヨシに送る。その瞳は、一撃で仕留められなかった不可解さを語っていた。
「オレの村では最弱の魔法。実は世間的には最強だった件について。〜なのに何故この男は立っている?〜」
「なんなのその喋り方。最近のラノベのクソ長タイトルみたいなんですけど」
「何って……ただ喋ってるだけだが?~喋り方すら異質なオレ。場を支配する~」
「支配してねーよ。ただの質問だよ。異質も異質、むしろ変質者だよ」
頭に疑問符を浮かべるテンセイに、ナギヨシは頭を抱える。突拍子の無い存在に脳が追いつかない。
「クックック、こいつは伊勢貝テンセイ。お前も見ただろ?こいつの常識を覆す力『魔法』を!」
「確かに驚かされたよ。そのなんの捻りも無い名前にもな。だが一体どんなマジックだ。魔法も奇跡も他所ではどうかしらんが、現実にゃ存在しねーだろ」
「言ったろ?こいつは現実の住人じゃない」
「なんだと?」
ノゾムは、ここぞとばかりに得意気な顔をする。現実の住人ではない。ナギヨシはその言葉に戸惑った。まさか本物の異世界転生者なのかと。
「コイツはな、2次元が好きすぎて自分も2次元の存在だと錯覚した……重度のオタクだ」
「それもうただのキモオタじゃねーか!なんのドヤ顔だよ!」
「強いて言えば、自分のことを異世界転生した勇者だと思ってる……ただの精神異常者だ」
「だからただの精神異常者なんだよ!なんなの?自分は2次元の住人だから3次元の現実は転生した扱いなの!?」
「詳細に言えば、3次元から2次元に転生し、また3次元に帰還したから……ハッピーエンド後の勇者だな」
「頭ハッピーの人生エンド族じゃねぇか!エルフもドワーフもドン引きだわ!!」
「エルフ、ドワーフの姫と婚約し、種族間の戦争を終わらせたオレ〜異種族逆玉ハーレムで成り上がる〜」
「オメーは黙ってろよ!!じゃあなんだ?魔法使えるのも2次元パワーか?」
「それはこいつが……30歳童貞の魔法使いだからだ」
「なんでそこだけ現実ゥ!?」
「理屈はないが納得はするだろ」
「確かに……」
明らかに破綻した理屈ではあるが『30歳で童貞を迎えると魔法使いになれる』。嘘か誠か解き明かした者はいないが、この通説は世間一般の常識である。
そしてこの通説は今この瞬間、真に変わった。
そう。『伊勢貝テンセイ』その人こそが、生き証人である。
「貞操守護者のオレ。いつの間にか最強魔法の使い手に〜今更奪おうとしてももう遅い〜」
「差し出されても貰わねーよ。ただの30代童貞じゃねーか」
「……」
テンセイの目には薄らと涙が溜まっている。苦行の果てに身につけた魔術を真っ向から否定された彼は、口を一文字に結んでいた。その身は少しばかり震えている。
「え、泣いてんの?世界救ったのに心はナイーブなの?あ、ごめん。救ったのも脳内の出来事だったか」
「ちょ、やめろよ!テンセイ泣かすなよ!テンセイかっこいいよ!!だってほら、金城お抱えのヒットマンじゃん!なかなかいないよ魔法使えるヒットマンなんて!!」
「……」
「魔法使えても女の子は仕留められないヒットマン(笑)」
「だから辞めろって!!テンセイいじけちゃってるじゃん!!テンセイ大丈夫だって!!今度ほら、可愛い女の子紹介するから!!だから童貞くらいでヘコむなって!」
「腰はヘコれねぇ癖にな」
「お前はもう黙ってて!!」
煽るナギヨシ。庇うノゾム。俯くテンセイ。人質であるソラも、助けを求めることを忘れていた。結果として生まれる硬直状態。
それを破ったのは、テンセイだった。
「――ひゃどぶふぶりざどぉぉぉぉ!!」
突如氷の柱が地面から現れる。テンセイはただ俯いていたのではなかった。彼は目尻を濡らしながらも詠唱をしていた。
それは涙を凍らしながら地を走り、回避の遅れたナギヨシの左腿を貫いた。破裂音と同時に血液が勢いよく吹き出す。その血さえ数秒の後に凍てついてしまう。
彼は紛うことなき魔法を使う殺し屋なのだ。
「痛ってぇなぁオイ!!」
「最強呪文氷結魔法で世界を統べる〜何ってただ怒りに身を任せただけだか?〜」
「実力は確かってかぁ……!」
その凄まじい攻撃に、雇い主のノゾムでさえ恐怖を覚える。だが、彼の行動もまた速かった。
「来い女ァ!!」
「キャッ!?ら、乱暴はしないで……」
「見ただろ?あの男はもう死ぬ」
「そんな……止めてください!!」
「立場が分かってねぇなぁ!!いいか?お前は私の元で金を稼ぐんだよ。弟は助けに来ない!あの男は死ぬ!!全く楽しみなことばっかりだなぁ!」
「くっ……!」
涙を堪えるソラを捕まえ、ノゾムは高笑いをしながら彼女を2階へ連れていく。
演目は勿論異世界転生。勇者が魔王を倒す様を見るため、特等席へ足早に歩みを進めるのだった。
空気が凍てつき、氷の槍が降り注ぐ。かと思えば一気に蒸発し、骨まで焦がす炎の砲弾が襲いかかる。
炎と氷。相反する2つの魔術を使うテンセイに、ナギヨシは回避に専念する他なかった。
「攻守ともに堅実。まさにチート主人公ってか?……ったく、魔法もバカスカ打ちやがって。常にガンガン行き過ぎなんだよ。MPって概念はねーのか」
「無限の魔力で世界を制す。~魔王さえ凌ぐこの力に誰もは為す術なし~」
「そうかい。俺ァ、チート系は嫌いなんだよッ!」
ナギヨシはそれでも果敢に飛び込む。間合いに入れまいと彼に目掛けて放たれる魔法を既の所で躱す。1つ、2つ、3つ。テンセイが4発目の魔法を打とうと手を翳した。
しかし、ナギヨシはその手を蹴り上げる。魔法は手の向きに合わせ、明後日の方向に飛んでいった。
拳が届く間合いに迫ったナギヨシ。テンセイもそれを理解し盾を構える。
だが、その先にナギヨシの姿は無かった。
「くらって現実と向き合いなァ!!」
「……ッ!?」
後の先の更に先にナギヨシは存在た。
盾を構え視界が狭まった一瞬を見逃さず、ナギヨシはテンセイの死角を捉えたのだ。
ガラ空きになったテンセイの右脇腹に目掛け、鋭い打撃を浴びせる。
「なっ……!?」
「何って……ただ魔法による防御バフを事前にかけていただけだが?」
ナギヨシの全力の一撃は目に見えない硬く薄い膜に防がれる。
同様に固まるその隙を、テンセイが見逃す筈もなかった。既にテンセイの剣は、眩い光を放っていた。
「――ぎらまはほーりー」
振り下ろされた剣がナギヨシを斬り払う。眩い光と共にナギヨシは吹っ飛ばされた。
凄まじい衝撃を受け、壁に打ち付けられたナギヨシの体から大量の血液が吹き出す。
「痛ッてぇなぁコノヤロウ……!まじで何でもありかよ……」
相当に深い裂傷がナギヨシの意識を飛ばしかけていた。攻撃を受ける際、危険な部位を庇ったのが幸いしたのか臓器の損傷は少ない。故に全身の痛みに顔が歪む。
「ハッハッハァ!!流石、私のヒットマン!どうした女を救うんだろ?そのザマじゃ何も出来ねぇよなぁ!?」
外野のノゾムがここぞとばかりに煽り散らかす。
そんな彼の言葉を気にも止めず、ナギヨシは傷付いた身体を無理矢理起こし周囲を見渡す。環境を利用した戦い方をする彼は、現状の打破に思考をめぐらせていた。
「……こりゃ使えるな」
ナギヨシは破壊された壁から剥き出した鉄の棒を、おもむろに手に取る。
「だいたい……4尺ってとこか?少し重いが、悪くねぇ」
ナギヨシは棒を体に馴染ませるように、全身を使って回す。棒は回される度に空を裂く音を奏でながら、徐々にナギヨシの体の一部へと変わり始めた。それに伴いナギヨシも舞い始める。
速く、時には遅く緩急をつけた演武は、ナギヨシの我流の構えによって締めくくられた。
ピタリと止まった棒の先端は、テンセイ目掛け一直線に向けられていた。
「待たせたかい?魔法使いさんよ」
「……」
「タイトルで思いつかない返答は出来ないんかい。……まぁいい。俺はテメェの喋り方にも、クソ長いタイトルにも飽き飽きしてんだよ」
ナギヨシの顔は笑っていた。怒りでも苦痛の表情でもなく笑っていた。まるで強烈な痛みが当たり前の様に、日常の延長戦であるかの様に。
「――長ぇタイトルはなぁ……見る気が失せんだよぉ」
力のままに地面を蹴ると、ナギヨシは加速する。それはテンセイに詠唱の隙を与えず、まるで瞬間移動の様に彼の前に現れた。
「ギア上げてくぜぃ」
「……ッ!?」
「テメェにゃ、二度と喋らせねぇ。言ったろ?クソ長冒頭あらすじタイトルは好かねーって」
その棒捌きはテンセイに行動の権利を与えない。身構えること所か、口を開くことさえ許さない疾風迅雷の乱打は、的確に彼の身体に打ち込まれていく。ナギヨシは底上げされた防御力など気にも止めていない。むしろ、殴り甲斐があるとさえ感じていた。
「こいつで終いだァ!!」
下から上に薙ぎ払われた棒は、テンセイの顎をかち上げる。強烈な速度による攻撃の勢いを逃がすことが出来ず、ガクガクとテンセイの身体は痙攣する。そしてナギヨシの宣言通り、テンセイはガクンと膝から崩れ落ちた。
「な、何が……一体何が起こったんだ!?答えろぉ!」
一瞬の出来事に頭が追いついていないノゾムが、身を乗り出しナギヨシに言葉をぶつける。
「何って……ただ殴り倒しただけだが?」
ナギヨシは耳をほじり、欠伸をしながら回答した。その答えは当然ながらノゾムの顰蹙を買った。
「奴は魔法使いだぞ!?しかも防御力も上げている!攻撃は効かないはずだ!」
「攻撃は効かない。でもな、衝撃は効くんだよ。最初に殴った時に分かったんだ。ちゃーんと身体は仰け反る。だから顎を思いっきり殴れば脳みそが揺れて気絶する。この通りな」
魔法が使えることで、触れられず、痛みも感じない。それ故の慢心。力に過信し、魔術の弱点を調べなかったことが敗北に繋がったのだ。
「く、クソが!それ以上私の元に近づくなぁ!!女がどうなってもいいのかぁ!?」
「ンなもん余裕だわバカタレ。さっさとお前を……あり?」
啖呵を切って歩みを進めようとするナギヨシの身体が、地面に倒れ込む。自分の身体にいったい何が起こったのか。ナギヨシは咄嗟に理解することが出来なかった。
「血ィ流しすぎた……」
「はは……ははは……ハッハッハッ!!ビビらせやがって!結局ケンスケの野郎は来なかったなぁ?女も護れてねぇぞ?テメェはな、何も出来ずに死ぬんだよ!!」
これで妨げる者は居なくなった。そう確信したノゾムは、力なく倒れるナギヨシの元に降りてくる。その手には拳銃が握られていた。
「どーするぅ?このまま出血で死ぬか、私が引導を渡すか。もし後者なら私の手を煩わせることになるんだ。お願いしますの一言でも聞きたいなぁ?」
「ハッ!死ぬつもりなんざねぇよ。それになぁ、俺は何もねーちゃんを助けるなんて依頼は受けてねぇ。あくまでも協力だ、協力。元より人を護るなんて大層な約束は俺には出来ねぇよ」
「まだ強がるか。惨めなことだな」
ナギヨシは地面に伏したまま、視線をノゾムに向けて自嘲気味に笑った。
「だけどな、こんな俺を頼って依頼してくれンなら、その依頼内容は絶対に守る。守りきるまでは死なねぇ。ただ、それだけだ」
「だから守れてねぇって言ってんだろうが!!」
「フッ……そうでもねーぜ。――――なぁ、ケンスケ」
ノゾムはその言葉に何かを感じ、思わず視線を上げる。
目の前には、木刀を大きく振りかぶった男の姿があった。
「うおぉぉぉぉぉっ!!」
「な、なにぃぃぃぃぃ!!?」
木刀はノゾムの顔を歪ませながら振り抜かれる。
鈍い打撃音が響き、ノゾムの身体は地面に叩きつけられる。それだけでは勢いは殺せず、1度バウンドし大回転しながら宙に舞い上がった。その様は誰が見ても文句無しの満点だった。
「ぐあっぱちィィィィィ!!」
重力に従い大きな音を立て落下したノゾムは、白目を向き完全に意識を無くしていた。
「着地は0点だコノヤロー!」
ノゾムを吹っ飛ばし、ナギヨシを窮地から救った男。それは武市ケンスケだった。
恐怖に、己に打ち勝った彼の顔はどこか晴れやかだった。
「遅くなってごめんなさい。ちゃんと姉さん助けに来ましたよ……!!」
「おせーんだよ。チンコくん……」
「だからチンコじゃないですって。ていうか、平坂さん血みどろじゃないですか!?大丈夫なんですか?」
「あぁ、俺は大丈夫だ。だから、早くねーちゃん迎えに行ってやれ。上の階にいる」
「わ、分かりました……!直ぐに連れくるので平坂さんもちゃんと生きててくださいね!!」
ケンスケはそう言うと一目散に2階席へと向かった。ソラを見つけたのか、お互いの無事を確認する歓喜の声が聞こえてくる。
「……こんなに血みどろになってよぉ。これが素敵な日々っていうのかぁ?ミコちゃんよぉ。随分手厳しいじゃんかよぉ……」
ナギヨシは、皮肉まじりの言葉と柔らかい笑みを今は亡き婚約者に向けた。それが届いていないことは、本人でさえ分かっている。それでもナギヨシは伝えたい気分だったのだ。自己満足めいた心に吹くこの清涼感を。
そしてナギヨシは意識を手放した。
鼻腔を擽る香ばしい香り。そして、子気味よくリズムを刻む包丁の音が聞こえる。視界のボヤけが徐々に治まり始めた頃、ナギヨシは自分がいままで寝ていたことに気付いた。音のする方に首を傾けると、長い髪の女性が台所に立っていた。
「……ここはどこだ?」
「おはようございます、ナギヨシさん。ここは私たちのお家ですよ」
「アンタ……もしかしてケンスケの」
「挨拶がまだでしたね。武市ソラと申します。もう少しで出来ますから待っててくださいね」
ソラは料理をする手を止めることなく答える。ナギヨシはまだ痛む身体を起こし、自分の状態を確認する。斜めに切られた傷跡には大きな包帯が巻かれていた。
「簡単なものですけど、食べて元気だしてくださいね」
「病み上がりに油物はちと重いんじゃねぇかなぁ」
「ウチは定食屋ですから」
「揚げ物以外のバリエーションもあっていいんじゃねぇの?」
「ウチは定食屋ですから」
「いや、ほら焼き魚とかもあるじゃん?」
「ウチは定食屋ですから」
「ウン。そうだね。定食屋だもんね。唐揚げしかないよね。だって定食屋だもの」
何言っても無駄だと諦めたナギヨシは、料理に手を付け始めた。家庭的な味は何年ぶりだろうか。彼は随分とちゃんとした食事を摂っていなかった。
「この度は弟が大変ご迷惑をお掛けしました。なんとお詫びしたら」
「お詫びも何も、俺ァ仕事しただけだぜぃ。依頼料払ってくれたらいい。それよりも、アンタ怪我は?」
「ナギヨシさんに比べたら全然ですよ」
ソラは頬に湿布を貼っている。左右を比べると少し腫れてるだろうか。彼女は気丈に振舞っているが、トラウマになっても仕方の無い仕打ちを受けた身である。それを隠し他者に親身に接する彼女に、ナギヨシは強かさを感じた。
「ただいまー……って起きてる!?」
「ケンちゃんおかえりなさい!」
帰宅したケンスケは、真っ先にナギヨシに駆け寄った。彼の目が覚めたことに安堵したケンスケは、肩の荷が降りたのか大きく息を吐いた。
「ナギヨシさん、ほんとに目が覚めて良かったです」
「おう。でも、お前のねーちゃんのせいで血糖値爆上がりしてまた寝そうだけどな」
「すいません。唐揚げしか作れない女で」
「そりゃ、人も来ねーわけだ」
「本人が目の前にいるんですよ?もっとオブラートに包めないんですか貴方たちは」
ソラの目の笑っていない笑顔に2人は思わず引き攣った。強かな女に全ての男は敵わない。
ケンスケは1つ咳払いをして、ナギヨシに向き直る。
「ナギヨシさん、お話があります」
「なんだよ、改まって。悪いが報酬はビタ一門負けねぇぞ。」
「――僕を岩戸屋で働かせて下さいッ!!」
「ゴホッゴホッ!?」
あまりにも突拍子の無い発言に、ナギヨシは唐揚げを喉に詰まらせてた。胸を叩き、苦しそうに喉を詰まらせるナギヨシに、ソラが慌てて水を渡した。
「プハッー!!ハァ……ハァ……。お前本気で言ってんのか?何でも屋だぞ?いざこざの解決から、便意の開ケツまでやんだぞ?現代っ子に出来んのか!?」
「はい。僕はナギヨシさんの生き方に惹かれたんです!!」
「……本音は?」
「結局遅刻してバイトクビになったんで今すぐ働き口が見つからないとねーちゃんに殺されるんです」
「だから本人の前で言ったらダメでしょケンちゃん?」
ナギヨシはケンスケの目を見る。その目には熱い何かが篭っていた。ようやく自分のやりたいことを見つけた、そんな何かが。
ソラが理由なのも勿論だが、ナギヨシの力になりたいという気持ちは本物であることは、ナギヨシにも充分伝わっていた。
「……報酬の内容変えるわ」
「え、今更ですか!?」
「だいぶサービスしてやったからな。割り増しくらい許してくれや」
「命を救って頂いた恩があります。背に腹はかえられせませんが一生かけてお支払いします」
「姉さん!?そんな簡単に受け入れちゃっていいんですか!?」
頭を深々下げるソラ。慌てふためくケンスケ。両名の様子を見ながら、ナギヨシは不敵な笑みを浮かべた。
「ケンスケを岩戸屋のバイトとしてコキ使う。それでトントンだ」
「えっ……ええええええ!?お、お金は?」
「テメェが今後稼いでくれるんだろ?金まで貰ったらバチが当たらァ。俺は等価交換を大事にしてんの。価値に見合う働きをしろよ?」
「ナ、ナギヨシさん……本当にありがとうございます!!」
「後、ソラはレパートリー増やせよ。俺は今後この店の常連になるつもりだから」
「勿論です。カレー風味の唐揚げも用意しときますね」
「唐揚げ以外の選択肢は君の中には無いんだね」
ケンスケは喜びにジャンプしガッツポーズで跳ね回った。ナギヨシとソラは、にこやかに笑みを浮かべその様子を見ている。
「これからよろしくお願いします!ナギさん!!」
「痛たたた……!あんま大声出すなよ。俺の傷に障るんだから。……ったく、これからしっかり頼むぜ」
「はい!!」
大きな返事は青く澄んだ空に響き消えていく。
この日々に起こる偶然の出会い、偶然の事件は思いも寄らぬ運命を手繰り寄せた。それは孤独を生きるナギヨシにとって破格な報酬なのかもしれない。
失った男ナギヨシ。彼に未来を感じた男ケンスケ。彼らの出会いは幸か不幸か。それは神と今後の依頼者のみぞ知ることだろう。