「部屋の使い心地はどうだったかな、朱莉」
翌朝。
呼ばれた広間で朝餉を食べる朱莉に、お狐様が笑顔で尋ねた。
「はい。お陰さまで昨日はゆっくり休ませて頂きました。部屋からの風景もとても美しくて、寝る直前まで眺めていたほどです」
「そうか。それはよかった」
一段高い上座席で食膳を口にするお狐様は、後方の尻尾を満足げに揺らす。
朱莉の膳はお狐様から向かって右側。内容もお狐様と同等の素晴らしい御膳だった。
ふっくら艶のある白米に、出汁のきいたお味噌汁。身が締まったピンク色の焼き鮭に彩り豊かな野菜が添えられている。
ひとかじりするだけで味わい深いたくあんも、作ってくれたひとの愛情が感じられた。
まるで宝石箱のような御膳だ、と朱莉は目を細める。
ゆっくり噛みしめるように食べ進める朱莉だったが、ひとつ気になることもあった。
お狐様から見て左側、つまり朱莉の目の前の席には、手つかずのままの一人分の食膳が置かれているのだ。
置かれた御膳からは、白い湯気が少し寂しげに揺れている。
「お狐様」
「なんだい朱莉」
お狐様は自分のことを「朱莉」と呼ぶことに決めたらしい。
「君」から親しみが一段階上がったような気がして、朱莉は秘かに喜んだ。
「そちらのお膳は、もしかして龍海さんのものでしょうか?」
「うん、実はそうなんだ。龍海は仕事人間だからね。いつも朝の見廻りを済ませてから来るんだけど、今日は少し時間がかかっているようだな」
「そうなのですか」
少し心配になったが、上司がのんびり朝餉を食しているのだから大きな問題はないのだろう。
「それにしても、朱莉はこの國の街並みをいたく気に入ってくれたようだね」
「はい。私はもともと外出経験がほとんどないのですが、この國の街並みはとても美しくてどこかほっとするんです」
「そう言ってもらえて嬉しいな。よければ後で、龍海に外を案内させるよ」
「えっ、よろしいのですか?」
「もちろんだよ。可愛い子には旅をさせよというからね」
使い方が合っているのかやや疑問ではあったが、朱莉は素直に喜んだ。
あの素敵な街並みに身を置くことができるなんて願ってもないことだ。
それも、龍海と一緒に。
「あ、ですが。龍海さんもお仕事がありますし、私に構う暇は取れないのでは?」
「さっきも言ったけれど、龍海はどうにも仕事が頭から抜けない質でね。君の監視という建前でもないと、自身を休めるのも許さない男だから」
お狐様は困ったように笑う。
それはもしかしたら、自分にも何か役立てることがあるということだろうか。
今まで感じたことのない考えに、朱莉の胸がじんと喜びが沁みていった。
「用意は済んだか」
「はい」
身支度を済ませた朱莉を、龍海が部屋前の廊下で出迎える。
今日の龍海は薄水色の着流しに藍色の袴、腰元には相変わらず刀を差していた。加えて、涼やかな面立ちと澄んだ瞳。
凜とした佇まいに、やはり惚れ惚れしてしまう。
「龍海さん」
「なんだ」
「今日も、眩しいほどに美しいですね」
「そういう世辞はいい」
お世辞じゃなかったが、朱莉は黙って微笑むに留めた。
何せ今から、この國の美しい街並みを歩くことができるのだ。自然、朱莉の心もふわふわ浮き足立つ。
「あんたに用意された着物も、問題なく着られたようだな」
「はい。お陰さまで大きさも、あつらえられたようにぴったりでした」
昨日までまとっていたウエディングドレスの成れの果ては、処分してもらう手筈となった。
代わりにお狐様の厚意で用意されたのは、彩り豊かな着物一式だ。
今までの普段着が簡易着物だったこともあり、まごつくこともなく着替えを終えた。
「素敵な着物ばかりで申し訳ないくらいでしたが、とても有り難いです。お狐様は本当に慈愛に満ちた方ですね」
「あの方の厚意は半分気まぐれだけどな。迷惑でないものは有り難くもらえばいい」
「迷惑なんてそんなこと。龍海さんの隣を同じ着物姿で歩けるなんて、嬉しいです」
喜びを隠さずに笑う朱莉に、龍海は一瞬虚を突かれたような顔をした。
しかしすぐに呆れ顔に戻ると、短く「行くぞ」と先陣を切っていく。
朱莉は素直にあとをついていった。
「外に出る間、俺の側から決して離れるな」
「はい」
「何を口にするにも、まずは俺に伺いを立てろ。人には合わない食べ物もある」
「はい」
「ある程度察しているだろうが、この國に俺とあんた以外の人間はいない。見慣れない見目のあやかしも多いだろうが、過度な反応は控えてもらう」
「はい」
出入り口に着くまでの間、龍海は逐一注意事項を挙げていった。しかしそれは、命令というよりも単に朱莉の身を案じての注意事項だ。
大事に備えてという思考は、彼の真面目な気質故なのだろう。
仕事人間、というお狐様の言葉が頭を過り、朱莉は小さく頷いた。
「それから、大切なことをひとつ」
玄関口らしき扉に辿り着く。
用意された下駄に足を収めた後、龍海は殊更慎重に口を開いた。
「この國の住人は人間を恨む者もいる。無闇に相手を信じないことだ」
幽閉生活中にも、外出をする機会がなかったわけではない。
しかしそれは養親や多くの部下を連れだっていて、朱莉の自由意志は皆無だった。
あの時の言いつけといえば、そう。
お前は歩くお飾りでいればいい。喋らず、笑わず、考えず。ただそこにいることだ──と。
「わあ……!」
朱莉の部屋から一階分上がった八階の廊下。
その先にあった小さな扉を開くと、明るい光が目の前一杯に溢れていた。
今出てきた扉は、正門ではない。
鉄柵で囲まれ脇から下り階段が伸びる、小さな踊り場のような場所だ。
「綺麗! とっても綺麗ですね!」
日の光に包まれた街の光景に、朱莉は思わず歓声を上げる。
昨日は夕暮れに染まっていた街並みが、今は白い朝陽を受けてきらきらと輝いている。
「大仰だな。俺にはいつもと同じ、ただの街にしか見えないが」
冷静に返した龍海は、そのまま傍らに伸びる下り階段を進んでいく。
それについて歩く朱莉だったが、視線が目の前の光景から外れることはなかった。
人は死ぬとき、その目に最期の光景を焼き付けると聞いたことがある。
どうせこの目に焼き付けるのならこの美しい街並みか、前を歩く彼がいい。
「あら? 龍海さんすみません、あの、上の方に見える建物は……?」
思わず足を止める。気のせいだろうか。
街の遥か上空に視線を向けると、ノスタルジックなこの國にはそぐわない物がうっすら見えてくる。
コンクリートの高層ビルのような、まるで都心部を思い出させる建物だ。
疲れが見せている幻覚だろうか?
「あんたもあっちから来たんだからわかるだろう。この國の電車路線を越えた上方は、人間らの縄張りだ。この國は、人間界の地下深くに存在する」
「地下深く……、そうだったのですか?」
「あんたも言っていただろう。湖に落ちたと思ったら、この國に落ちてきていたと」
聞けばあの湖面は、人間界とあやかしの國の境界線だったらしい。
人間界からは湖面を覗いてもこちらの國は見えないが、こちらの國からは人間界が見えるのだという。
「とはいえ、湖に身を投げたところで、大抵の人間はこの國に現れる前に次元の狭間に溶けて消えるらしい。あの湖面は結界の役割も果たしている」
「確かに、湖に落ちる前に言われました。この湖は底なしだと。落ちれば最後、二度と出ることはできないと……」
「あんたみたいに素直にこの國へ落下してくるのは、異例中の異例だ」
「わあ。私はつくづく幸福だったのですね」
「あんたは能天気だな」
八階分の階段を下り終え、二人はようやく地上に足をつける。
降りたった場所はお狐様の御殿と隣接建物の間に位置する、石畳の細い脇道だった。
「正面から出れば騒ぎ好きなあやかしが待っているかと思ったが、こちらの裏口は心配ないようだな」
「わざわざ、気を遣って下さったんですね」
「お狐様からそう言いつかっただけだ。俺の判断じゃない」
素っ気なく言うと、龍海はちらりとこちらに視線を向けた。
「ところで。一応確認するが、昨日俺があんたに言った最初の教えを覚えているか」
「はい、もちろんです。龍海さん以外の殿方に食べてほしいと言ってはならな──、」
「違う。俺も含めた男全員だ」
わかったな、と言い含め、龍海はくるりと背を向けてしまう。
すでに疲れたような影が差すその背を、朱莉は下駄を鳴らしながら追いかけた。
翌朝。
呼ばれた広間で朝餉を食べる朱莉に、お狐様が笑顔で尋ねた。
「はい。お陰さまで昨日はゆっくり休ませて頂きました。部屋からの風景もとても美しくて、寝る直前まで眺めていたほどです」
「そうか。それはよかった」
一段高い上座席で食膳を口にするお狐様は、後方の尻尾を満足げに揺らす。
朱莉の膳はお狐様から向かって右側。内容もお狐様と同等の素晴らしい御膳だった。
ふっくら艶のある白米に、出汁のきいたお味噌汁。身が締まったピンク色の焼き鮭に彩り豊かな野菜が添えられている。
ひとかじりするだけで味わい深いたくあんも、作ってくれたひとの愛情が感じられた。
まるで宝石箱のような御膳だ、と朱莉は目を細める。
ゆっくり噛みしめるように食べ進める朱莉だったが、ひとつ気になることもあった。
お狐様から見て左側、つまり朱莉の目の前の席には、手つかずのままの一人分の食膳が置かれているのだ。
置かれた御膳からは、白い湯気が少し寂しげに揺れている。
「お狐様」
「なんだい朱莉」
お狐様は自分のことを「朱莉」と呼ぶことに決めたらしい。
「君」から親しみが一段階上がったような気がして、朱莉は秘かに喜んだ。
「そちらのお膳は、もしかして龍海さんのものでしょうか?」
「うん、実はそうなんだ。龍海は仕事人間だからね。いつも朝の見廻りを済ませてから来るんだけど、今日は少し時間がかかっているようだな」
「そうなのですか」
少し心配になったが、上司がのんびり朝餉を食しているのだから大きな問題はないのだろう。
「それにしても、朱莉はこの國の街並みをいたく気に入ってくれたようだね」
「はい。私はもともと外出経験がほとんどないのですが、この國の街並みはとても美しくてどこかほっとするんです」
「そう言ってもらえて嬉しいな。よければ後で、龍海に外を案内させるよ」
「えっ、よろしいのですか?」
「もちろんだよ。可愛い子には旅をさせよというからね」
使い方が合っているのかやや疑問ではあったが、朱莉は素直に喜んだ。
あの素敵な街並みに身を置くことができるなんて願ってもないことだ。
それも、龍海と一緒に。
「あ、ですが。龍海さんもお仕事がありますし、私に構う暇は取れないのでは?」
「さっきも言ったけれど、龍海はどうにも仕事が頭から抜けない質でね。君の監視という建前でもないと、自身を休めるのも許さない男だから」
お狐様は困ったように笑う。
それはもしかしたら、自分にも何か役立てることがあるということだろうか。
今まで感じたことのない考えに、朱莉の胸がじんと喜びが沁みていった。
「用意は済んだか」
「はい」
身支度を済ませた朱莉を、龍海が部屋前の廊下で出迎える。
今日の龍海は薄水色の着流しに藍色の袴、腰元には相変わらず刀を差していた。加えて、涼やかな面立ちと澄んだ瞳。
凜とした佇まいに、やはり惚れ惚れしてしまう。
「龍海さん」
「なんだ」
「今日も、眩しいほどに美しいですね」
「そういう世辞はいい」
お世辞じゃなかったが、朱莉は黙って微笑むに留めた。
何せ今から、この國の美しい街並みを歩くことができるのだ。自然、朱莉の心もふわふわ浮き足立つ。
「あんたに用意された着物も、問題なく着られたようだな」
「はい。お陰さまで大きさも、あつらえられたようにぴったりでした」
昨日までまとっていたウエディングドレスの成れの果ては、処分してもらう手筈となった。
代わりにお狐様の厚意で用意されたのは、彩り豊かな着物一式だ。
今までの普段着が簡易着物だったこともあり、まごつくこともなく着替えを終えた。
「素敵な着物ばかりで申し訳ないくらいでしたが、とても有り難いです。お狐様は本当に慈愛に満ちた方ですね」
「あの方の厚意は半分気まぐれだけどな。迷惑でないものは有り難くもらえばいい」
「迷惑なんてそんなこと。龍海さんの隣を同じ着物姿で歩けるなんて、嬉しいです」
喜びを隠さずに笑う朱莉に、龍海は一瞬虚を突かれたような顔をした。
しかしすぐに呆れ顔に戻ると、短く「行くぞ」と先陣を切っていく。
朱莉は素直にあとをついていった。
「外に出る間、俺の側から決して離れるな」
「はい」
「何を口にするにも、まずは俺に伺いを立てろ。人には合わない食べ物もある」
「はい」
「ある程度察しているだろうが、この國に俺とあんた以外の人間はいない。見慣れない見目のあやかしも多いだろうが、過度な反応は控えてもらう」
「はい」
出入り口に着くまでの間、龍海は逐一注意事項を挙げていった。しかしそれは、命令というよりも単に朱莉の身を案じての注意事項だ。
大事に備えてという思考は、彼の真面目な気質故なのだろう。
仕事人間、というお狐様の言葉が頭を過り、朱莉は小さく頷いた。
「それから、大切なことをひとつ」
玄関口らしき扉に辿り着く。
用意された下駄に足を収めた後、龍海は殊更慎重に口を開いた。
「この國の住人は人間を恨む者もいる。無闇に相手を信じないことだ」
幽閉生活中にも、外出をする機会がなかったわけではない。
しかしそれは養親や多くの部下を連れだっていて、朱莉の自由意志は皆無だった。
あの時の言いつけといえば、そう。
お前は歩くお飾りでいればいい。喋らず、笑わず、考えず。ただそこにいることだ──と。
「わあ……!」
朱莉の部屋から一階分上がった八階の廊下。
その先にあった小さな扉を開くと、明るい光が目の前一杯に溢れていた。
今出てきた扉は、正門ではない。
鉄柵で囲まれ脇から下り階段が伸びる、小さな踊り場のような場所だ。
「綺麗! とっても綺麗ですね!」
日の光に包まれた街の光景に、朱莉は思わず歓声を上げる。
昨日は夕暮れに染まっていた街並みが、今は白い朝陽を受けてきらきらと輝いている。
「大仰だな。俺にはいつもと同じ、ただの街にしか見えないが」
冷静に返した龍海は、そのまま傍らに伸びる下り階段を進んでいく。
それについて歩く朱莉だったが、視線が目の前の光景から外れることはなかった。
人は死ぬとき、その目に最期の光景を焼き付けると聞いたことがある。
どうせこの目に焼き付けるのならこの美しい街並みか、前を歩く彼がいい。
「あら? 龍海さんすみません、あの、上の方に見える建物は……?」
思わず足を止める。気のせいだろうか。
街の遥か上空に視線を向けると、ノスタルジックなこの國にはそぐわない物がうっすら見えてくる。
コンクリートの高層ビルのような、まるで都心部を思い出させる建物だ。
疲れが見せている幻覚だろうか?
「あんたもあっちから来たんだからわかるだろう。この國の電車路線を越えた上方は、人間らの縄張りだ。この國は、人間界の地下深くに存在する」
「地下深く……、そうだったのですか?」
「あんたも言っていただろう。湖に落ちたと思ったら、この國に落ちてきていたと」
聞けばあの湖面は、人間界とあやかしの國の境界線だったらしい。
人間界からは湖面を覗いてもこちらの國は見えないが、こちらの國からは人間界が見えるのだという。
「とはいえ、湖に身を投げたところで、大抵の人間はこの國に現れる前に次元の狭間に溶けて消えるらしい。あの湖面は結界の役割も果たしている」
「確かに、湖に落ちる前に言われました。この湖は底なしだと。落ちれば最後、二度と出ることはできないと……」
「あんたみたいに素直にこの國へ落下してくるのは、異例中の異例だ」
「わあ。私はつくづく幸福だったのですね」
「あんたは能天気だな」
八階分の階段を下り終え、二人はようやく地上に足をつける。
降りたった場所はお狐様の御殿と隣接建物の間に位置する、石畳の細い脇道だった。
「正面から出れば騒ぎ好きなあやかしが待っているかと思ったが、こちらの裏口は心配ないようだな」
「わざわざ、気を遣って下さったんですね」
「お狐様からそう言いつかっただけだ。俺の判断じゃない」
素っ気なく言うと、龍海はちらりとこちらに視線を向けた。
「ところで。一応確認するが、昨日俺があんたに言った最初の教えを覚えているか」
「はい、もちろんです。龍海さん以外の殿方に食べてほしいと言ってはならな──、」
「違う。俺も含めた男全員だ」
わかったな、と言い含め、龍海はくるりと背を向けてしまう。
すでに疲れたような影が差すその背を、朱莉は下駄を鳴らしながら追いかけた。