灯織は本堂家の人間に挨拶を済ませると、外の空気を吸いに行ってくると言って庭に出た。
小鳥のさえずりが響く本堂家の庭は立派なもので、灯織の生家である千家家以上の豊富な草花が咲いている。
もっとも、本堂家はこの帝国での華族第一号である。千家家も本堂家と同じ華族ではあるが、本堂家よりもずっとあとに華族の認定を受けた。つまり千家家は、本堂家よりも格下なのである。
しかしながら今回の縁談を申し込んできたのは、本堂家のほうだった。
家柄がなによりもものを言う時代。華族同士での婚姻は珍しいものではないが、かの有名な本堂家から縁談の話がきたといえば、ほかの華族たちも仰天したほどだ。おかげで千家家は本堂家との婚姻により、よりたしかな地位を得た。
とはいえ、である。
本堂家へやってきた灯織に、花の美しさや芳しさを楽しむ余裕はなかった。
灯織は池の縁に座り込み、ため息を漏らす。
大きな石で囲われた池のなかには、数匹の美しい金魚たちが泳いでいる。水面には、灯織の青ざめた顔が映っていた。
――どうしよう……。
とうとう同棲することになってしまった。このままでは、灯織は本当に紅月と結婚しなければならなくなる。
もしこのまま結婚したら、この先も紅月と暮らすことになる。なにも知らない、紅月と――。
「灯織さん?」
うずくまっていた灯織の上に影が落ちた。
「あ……紅月さん」
「大丈夫?」
心配そうに灯織の顔を覗き込んできたのは、許嫁である紅月だった。
さらりとした黒髪が陽の光に透けて、優しく揺らめく。まるで絹糸のよう、と灯織は紅月を見上げて思う。
紅月は美しい面をしていた。おまけに誠実だ。
帝国軍の少尉という肩書きを持ちながら、性格は柔和で気遣い上手。灯織ではとても釣り合わない立派なひと。
逆光がおさまり、ふと紅月と目が合ってはっとする。
「い、いえ! すみません。なんでもないです」
「そう? でも、少し顔色が悪いようだ。なかで休もう」
紅月が灯織に向き合うようにしゃがみこむ。
「だ、大丈夫ですから、本当に」
灯織はたまらず顔を逸らした。
紅月の優しさはありがたいが、対人に慣れていない灯織は緊張してしまう。
「だめだよ。ただでさえ、長旅を終えたばかりなのだから」
柔らかな言いかたであるものの、その眼差しには有無を言わせない芯が垣間見える。
「さあ、こちらへ」
灯織は大人しく従うことにした。立ち上がる灯織を、紅月がそっと支える。
当たり前のように触れられ、灯織は反射的に手を払ってしまった。紅月はその瞬間、わずかに驚きの表情を浮かべたものの、すぐに柔和な笑みを貼り付けた。
「……ごめん。出会ったばかりで、馴れ馴しかったかな」
「い、いえ、すみません……」
神職を生業とする千家家のひとり娘である灯織と、かねてより許嫁であった本堂紅月。ふたりの距離はまだ遠い。
紅月は灯織に対して砕けた調子だが、灯織のほうは結納のときからこの調子だ。
政略結婚だから仕方がないとはいえ、このままでは夫婦として成り立たない。そう危惧したのだろう。紅月のほうから今回、千家家へ同棲――もとい、花嫁修業の提案をしてきた。
その意図を、灯織は理解している。しかしそれでも、灯織にはどうしても紅月を受け入れられない理由があった。
「あの、紅月さん」
灯織はそろそろと紅月を見上げる。
「ん?」
紅月はまっすぐ灯織を見下ろした。
「外ではあまり、いっしょにいないほうが……」
「どうして?」
「私たちはまだ結婚したわけではないですし」
許嫁同士とはいえ、結婚前の男女が同じ家に住むというのは、世間的にはあまりよろしくない。
しかし、それでもこの状況を受け入れたのは、千家家の生活が苦しかったからだ。千家家は華族ではあるものの資金援助を受ける前提でこの婚姻を受けている。つまり、本堂家の機嫌を損ねるわけにはいかないのだ。無事婚儀が済むまでは、千家家は本堂家の機嫌を取り続けるしかないのである。
実際、灯織が家を出る際、くれぐれも紅月に嫌われないようにと言いつけられてきた。
「そうだけど、敷地内なら問題ないんじゃないか?」
「それは、そうですけど……」
言い返されると思わなかった灯織は、それ以上なにも言えなくなる。そばから離れようとしない紅月に、灯織は困惑する。
灯織には、ずっと気になっていたことがもうひとつある。
この婚姻で、本堂家になんの得があるのか、である。
千家家としてはなんとしても成就させたい婚姻だが、本堂家ほどにもなれば嫁候補はいくらでもいるはずだ。灯織との関係が危ういと感じたのならば、わざわざ花嫁修業などと称して同棲せずとも、べつの女性と婚姻すればいいだけの話である。
本堂家はなぜ、千家家に縁談を持ちかけたのだろう。
考えていると、不意に紅月が灯織の手を握った。はっとして顔を上げると、紅月と目が合う。
「大丈夫。そんなに怯えなくても、灯織さんがいやがることは俺はしないよ」
紅月が灯織の手を握ったのは一瞬だった。灯織は、紅月の体温の余韻が残った手の甲を、ぎゅっと握り込む。
「俺たちは許嫁とはいえ、まだ会ったばかりだ。少しづつ夫婦になろう」
灯織は紅月から目を逸らす。紅月はかまわず続ける。
「これから一ヶ月よろしく。灯織さん」
どこまでも優しい声に、灯織の胸の奥が疼く。
――だめだ。流されちゃ、だめ。
灯織は目を伏せた。
「……私、先に戻ります」
灯織は、紅月から逃げるように屋敷に戻る。紅月は追っては来なかった。
足早に庭を歩きながら、灯織の脳裏には千家家を出たときのことが蘇っていた――。
***
灯織はトランクケースを握る手に力を込めて、目の前の障子に向かって声をかけた。
「あの、お母さん、失礼します」
少しして障子が開く。
「……あら、灯織さん」
顔を出したのは、灯織の母親であるちづるだ。
ちづるは背後をちらりと見て、周囲にだれもいないことを確認する。
おそらく、夫の玄真がいないことを確認したのだ。ちづるはあからさまに娘の灯織をやっかむが、玄真はそういう態度をよしとしない。だからといって、灯織をかばうわけではないが。
「行くの?」
「はい」
「そう。元気でね」
「……はい」
灯織はぺこりと一度頭を下げて、一歩下がった。そのまま出ていくつもりだった。
しかし、
「待ちなさい、灯織さん」
振り返ると、ちづるが立ち上がって灯織の前に立つ。
「念のため言っておきますけど、あなたに帰る家はありませんからね」
心臓を見えないなにかに握り潰されたように、灯織は息ができなくなった。
「でも、花嫁修行は一ヶ月って……」
「そうよ。でも花嫁修行というのは、嫁に行く前提でするものでしょう? あなたは一ヶ月後、本堂家の花嫁になるのだから、うちに戻ることない。そのつもりでこちらも養子を探してますから」
「養子ですか」
「もともと本堂家にはうちを任せる養子にいいかたがいないか、探してもらうよう頼んでいたんですよ」
灯織は驚く。それは初耳だった。
ちづるは、あらなに驚いてるの、とでも言うような顔で灯織を見た。
「当たり前でしょう? だって、千家灯織は千家家のひとり娘なのよ。あなたが嫁いだら、うちの後継ぎがいなくなっちゃうじゃない」
「それは、そうですが……」
まるで蛇のような威圧的なちづるの眼差しの前で、灯織は立ちすくむ。
でも、結婚をやめたいと伝えるなら、今しかないかもしれない。勇気を振り絞り、灯織は言った。
「あの、お母さん。私、やっぱり紅月さんとの結婚は……」
できません、と言おうとした瞬間だった。
パン、と高い音がした。一瞬なんの音か分からず、灯織は呆然とする。しばらくして頬がじわりと熱を持ち、痺れ始めた。
打たれたのだ。そろそろと顔を上げると、ちづるは鬼のような形相で灯織を見下ろしていた。
「なに馬鹿なこと言ってるの? あなた、じぶんに拒否権があるとでも思ってるわけ? ひと殺しのあなたなんかに」
ひと殺し。
ちづるの言葉は、灯織の胸に重く深く落ちた。
「で、ですが……もし、私の正体が露見してしまったら、千家家が……」
震える声で言い返すが、ちづるはそれを鼻で笑い飛ばした。
「露見しなけりゃいいだけの話でしょう。失敗は許さない。もし万が一、うちになにか損害が被るようなことがあったら、あなただけでなく、あなたの家族もすべてあやかし庁へ報告しますから。そのつもりでね」
「…………」
なによその顔は、と、ちづるが灯織を睨む。
「あなたは私の娘を殺したのよ? その罪を忘れたとは言わせませんからね」
胸に茨の棘が刺さったような、ちくちくとした痛みが走る。呼吸が苦しくなっていく。
「あなたの名前は千家灯織。いいえ、今この屋敷の敷居を出た瞬間から本堂灯織なの。何度も言わせないでちょうだい」
それじゃあ元気でね。そう言い捨てると、ちづるは灯織の横をすり抜けていく。
ちづるのそれはまるで女中に向けられたような台詞であったが、灯織は返事をするしかなかった。
「……はい、お母さん」
灯織はちづるのうしろ姿をその場で立ち尽くしたまま、ただ見送った。
灯織には、千家家の人間以外にぜったいに知られてはいけない秘密がある。知られたら、それこそこの婚姻が破談になるだけでは済まされない。
灯織は、千家家のひとり娘でありながらも、女中同然の扱いを受けていた。
***
灯織は家を出る前に、千家家が管理する千本通神社の庭園に向かった。
庭には秋特有の少し乾燥した花が咲いている。花々は少々色褪せていて物悲しいが、その代わりに葉が鮮やかな装いになっていた。時折吹く風がひんやりとして心地良い。
灯織は、幼い頃から暇さえあればここに来ていた。
庭園に植えられた椿の木へそっと寄ると、葉を二枚、優しくちぎる。葉を手に持ったまま、境内の池へと向かった。
神社には池がある。
灯織は池のふちに座ると、そっと椿の葉を一枚供えた。池のなかにいた魚たちは灯織に気付くと一斉に四方に散らばるように逃げていく。
「……おはよう、灯織。あのね、私、とうとう紅月さんのところへ行くことになったよ」
灯織は、池に話しかけるように呟く。
池の空気はひんやりとしていた。
「……いつもこんなものしかあげられなくて、ごめんね」
言いながら、灯織は小脇に供えた椿の葉を見た。
本当はもっとちゃんとした花束を供えてやりたいが、灯織には、自由になるお金はない。それどころか、庭の花を詰んだだけでも大目玉を食らうだろう。
そのため、供えたことすら気付かれないよう、椿の葉を添えてやることしかできないのである。
――そう。
この池には、千家家の本物の令嬢である灯織が眠っているのだった。
***
灯織――本来の名を一華という――は、現在十五歳になるが、千家家のひとり娘でありながら、ひどく冷遇されている。
理由は、灯織が灯織ではなく身代わりの娘であるからだ。
灯織の身代わりとなった一華はもともと、千家家が管理する神社の眷属であった。
人魚族から派生した金魚のあやかしだ。神域に住んでいることもあり、強い妖力を持つ一華たち金魚の一族は、自在に姿を変えることができた。
一方で、神職を生業とする千家家のひとり娘であった灯織。
灯織はその特別な生まれから、幼い頃からあやかしを認知することができたため、一華とは姉妹のように育ち、お互いにかけがえのない存在だった。
――しかしあるとき、その悲劇は起きた。
隠れ鬼をしていた灯織が、池に落下したのである。灯織はそのまま池のなかで溺れ、帰らぬひととなった。
池へ落ちた灯織に一華が気付き、助けたときにはもう、灯織は息をしていなかった。
灯織は、泳ぐことができなかったのだ。いや、たとえ泳げたとしても、水を吸った着物を着た状態では、どちらにせよ手遅れとなったかもしれないが。
その後ひとり娘を失った千家家は、眷属である一華を人間殺しだとして重い罰を与えることにした。
一華から、名前を取り上げたのだ。
あやかしにとって、名前は魂である。名前を奪われることは、そのあやかしの価値を奪うことと同義であった。
一方で灯織は、由緒ある華族のひとり娘であり、古来よりあやかしとひととの関係を繋いできた神職の家系に生まれた大切な子ども。既に決められた許嫁もいる。
千家家にとって、灯織が死ぬことは許されなかった。
そして一族は、一華が名前を奪われたことがほかのあやかしたちへ露見することを恐れた。もしあやかしたちへ知られたら、じぶんたちまで蔑まれる。一族の名が汚れる。一歩間違えば、一族もろとも幽世へ強制送還となる可能性すらある。
一華の祖父は決断した。
一族から、一華を勘当する。さらに灯織を殺した贖罪として、一華を千家家へ差し出すと――。
もともと一華は一族のなかでも妖力が弱く、強い妖力を持つ兄と比較され、常に冷遇されてきた。一族にとっては、一華の兄さえいればなんの問題もなかったのだ。
結果一華は名前を奪われ、一族から勘当された。
そして、ひと知れず千家灯織の身代わりとなったのである。
小鳥のさえずりが響く本堂家の庭は立派なもので、灯織の生家である千家家以上の豊富な草花が咲いている。
もっとも、本堂家はこの帝国での華族第一号である。千家家も本堂家と同じ華族ではあるが、本堂家よりもずっとあとに華族の認定を受けた。つまり千家家は、本堂家よりも格下なのである。
しかしながら今回の縁談を申し込んできたのは、本堂家のほうだった。
家柄がなによりもものを言う時代。華族同士での婚姻は珍しいものではないが、かの有名な本堂家から縁談の話がきたといえば、ほかの華族たちも仰天したほどだ。おかげで千家家は本堂家との婚姻により、よりたしかな地位を得た。
とはいえ、である。
本堂家へやってきた灯織に、花の美しさや芳しさを楽しむ余裕はなかった。
灯織は池の縁に座り込み、ため息を漏らす。
大きな石で囲われた池のなかには、数匹の美しい金魚たちが泳いでいる。水面には、灯織の青ざめた顔が映っていた。
――どうしよう……。
とうとう同棲することになってしまった。このままでは、灯織は本当に紅月と結婚しなければならなくなる。
もしこのまま結婚したら、この先も紅月と暮らすことになる。なにも知らない、紅月と――。
「灯織さん?」
うずくまっていた灯織の上に影が落ちた。
「あ……紅月さん」
「大丈夫?」
心配そうに灯織の顔を覗き込んできたのは、許嫁である紅月だった。
さらりとした黒髪が陽の光に透けて、優しく揺らめく。まるで絹糸のよう、と灯織は紅月を見上げて思う。
紅月は美しい面をしていた。おまけに誠実だ。
帝国軍の少尉という肩書きを持ちながら、性格は柔和で気遣い上手。灯織ではとても釣り合わない立派なひと。
逆光がおさまり、ふと紅月と目が合ってはっとする。
「い、いえ! すみません。なんでもないです」
「そう? でも、少し顔色が悪いようだ。なかで休もう」
紅月が灯織に向き合うようにしゃがみこむ。
「だ、大丈夫ですから、本当に」
灯織はたまらず顔を逸らした。
紅月の優しさはありがたいが、対人に慣れていない灯織は緊張してしまう。
「だめだよ。ただでさえ、長旅を終えたばかりなのだから」
柔らかな言いかたであるものの、その眼差しには有無を言わせない芯が垣間見える。
「さあ、こちらへ」
灯織は大人しく従うことにした。立ち上がる灯織を、紅月がそっと支える。
当たり前のように触れられ、灯織は反射的に手を払ってしまった。紅月はその瞬間、わずかに驚きの表情を浮かべたものの、すぐに柔和な笑みを貼り付けた。
「……ごめん。出会ったばかりで、馴れ馴しかったかな」
「い、いえ、すみません……」
神職を生業とする千家家のひとり娘である灯織と、かねてより許嫁であった本堂紅月。ふたりの距離はまだ遠い。
紅月は灯織に対して砕けた調子だが、灯織のほうは結納のときからこの調子だ。
政略結婚だから仕方がないとはいえ、このままでは夫婦として成り立たない。そう危惧したのだろう。紅月のほうから今回、千家家へ同棲――もとい、花嫁修業の提案をしてきた。
その意図を、灯織は理解している。しかしそれでも、灯織にはどうしても紅月を受け入れられない理由があった。
「あの、紅月さん」
灯織はそろそろと紅月を見上げる。
「ん?」
紅月はまっすぐ灯織を見下ろした。
「外ではあまり、いっしょにいないほうが……」
「どうして?」
「私たちはまだ結婚したわけではないですし」
許嫁同士とはいえ、結婚前の男女が同じ家に住むというのは、世間的にはあまりよろしくない。
しかし、それでもこの状況を受け入れたのは、千家家の生活が苦しかったからだ。千家家は華族ではあるものの資金援助を受ける前提でこの婚姻を受けている。つまり、本堂家の機嫌を損ねるわけにはいかないのだ。無事婚儀が済むまでは、千家家は本堂家の機嫌を取り続けるしかないのである。
実際、灯織が家を出る際、くれぐれも紅月に嫌われないようにと言いつけられてきた。
「そうだけど、敷地内なら問題ないんじゃないか?」
「それは、そうですけど……」
言い返されると思わなかった灯織は、それ以上なにも言えなくなる。そばから離れようとしない紅月に、灯織は困惑する。
灯織には、ずっと気になっていたことがもうひとつある。
この婚姻で、本堂家になんの得があるのか、である。
千家家としてはなんとしても成就させたい婚姻だが、本堂家ほどにもなれば嫁候補はいくらでもいるはずだ。灯織との関係が危ういと感じたのならば、わざわざ花嫁修業などと称して同棲せずとも、べつの女性と婚姻すればいいだけの話である。
本堂家はなぜ、千家家に縁談を持ちかけたのだろう。
考えていると、不意に紅月が灯織の手を握った。はっとして顔を上げると、紅月と目が合う。
「大丈夫。そんなに怯えなくても、灯織さんがいやがることは俺はしないよ」
紅月が灯織の手を握ったのは一瞬だった。灯織は、紅月の体温の余韻が残った手の甲を、ぎゅっと握り込む。
「俺たちは許嫁とはいえ、まだ会ったばかりだ。少しづつ夫婦になろう」
灯織は紅月から目を逸らす。紅月はかまわず続ける。
「これから一ヶ月よろしく。灯織さん」
どこまでも優しい声に、灯織の胸の奥が疼く。
――だめだ。流されちゃ、だめ。
灯織は目を伏せた。
「……私、先に戻ります」
灯織は、紅月から逃げるように屋敷に戻る。紅月は追っては来なかった。
足早に庭を歩きながら、灯織の脳裏には千家家を出たときのことが蘇っていた――。
***
灯織はトランクケースを握る手に力を込めて、目の前の障子に向かって声をかけた。
「あの、お母さん、失礼します」
少しして障子が開く。
「……あら、灯織さん」
顔を出したのは、灯織の母親であるちづるだ。
ちづるは背後をちらりと見て、周囲にだれもいないことを確認する。
おそらく、夫の玄真がいないことを確認したのだ。ちづるはあからさまに娘の灯織をやっかむが、玄真はそういう態度をよしとしない。だからといって、灯織をかばうわけではないが。
「行くの?」
「はい」
「そう。元気でね」
「……はい」
灯織はぺこりと一度頭を下げて、一歩下がった。そのまま出ていくつもりだった。
しかし、
「待ちなさい、灯織さん」
振り返ると、ちづるが立ち上がって灯織の前に立つ。
「念のため言っておきますけど、あなたに帰る家はありませんからね」
心臓を見えないなにかに握り潰されたように、灯織は息ができなくなった。
「でも、花嫁修行は一ヶ月って……」
「そうよ。でも花嫁修行というのは、嫁に行く前提でするものでしょう? あなたは一ヶ月後、本堂家の花嫁になるのだから、うちに戻ることない。そのつもりでこちらも養子を探してますから」
「養子ですか」
「もともと本堂家にはうちを任せる養子にいいかたがいないか、探してもらうよう頼んでいたんですよ」
灯織は驚く。それは初耳だった。
ちづるは、あらなに驚いてるの、とでも言うような顔で灯織を見た。
「当たり前でしょう? だって、千家灯織は千家家のひとり娘なのよ。あなたが嫁いだら、うちの後継ぎがいなくなっちゃうじゃない」
「それは、そうですが……」
まるで蛇のような威圧的なちづるの眼差しの前で、灯織は立ちすくむ。
でも、結婚をやめたいと伝えるなら、今しかないかもしれない。勇気を振り絞り、灯織は言った。
「あの、お母さん。私、やっぱり紅月さんとの結婚は……」
できません、と言おうとした瞬間だった。
パン、と高い音がした。一瞬なんの音か分からず、灯織は呆然とする。しばらくして頬がじわりと熱を持ち、痺れ始めた。
打たれたのだ。そろそろと顔を上げると、ちづるは鬼のような形相で灯織を見下ろしていた。
「なに馬鹿なこと言ってるの? あなた、じぶんに拒否権があるとでも思ってるわけ? ひと殺しのあなたなんかに」
ひと殺し。
ちづるの言葉は、灯織の胸に重く深く落ちた。
「で、ですが……もし、私の正体が露見してしまったら、千家家が……」
震える声で言い返すが、ちづるはそれを鼻で笑い飛ばした。
「露見しなけりゃいいだけの話でしょう。失敗は許さない。もし万が一、うちになにか損害が被るようなことがあったら、あなただけでなく、あなたの家族もすべてあやかし庁へ報告しますから。そのつもりでね」
「…………」
なによその顔は、と、ちづるが灯織を睨む。
「あなたは私の娘を殺したのよ? その罪を忘れたとは言わせませんからね」
胸に茨の棘が刺さったような、ちくちくとした痛みが走る。呼吸が苦しくなっていく。
「あなたの名前は千家灯織。いいえ、今この屋敷の敷居を出た瞬間から本堂灯織なの。何度も言わせないでちょうだい」
それじゃあ元気でね。そう言い捨てると、ちづるは灯織の横をすり抜けていく。
ちづるのそれはまるで女中に向けられたような台詞であったが、灯織は返事をするしかなかった。
「……はい、お母さん」
灯織はちづるのうしろ姿をその場で立ち尽くしたまま、ただ見送った。
灯織には、千家家の人間以外にぜったいに知られてはいけない秘密がある。知られたら、それこそこの婚姻が破談になるだけでは済まされない。
灯織は、千家家のひとり娘でありながらも、女中同然の扱いを受けていた。
***
灯織は家を出る前に、千家家が管理する千本通神社の庭園に向かった。
庭には秋特有の少し乾燥した花が咲いている。花々は少々色褪せていて物悲しいが、その代わりに葉が鮮やかな装いになっていた。時折吹く風がひんやりとして心地良い。
灯織は、幼い頃から暇さえあればここに来ていた。
庭園に植えられた椿の木へそっと寄ると、葉を二枚、優しくちぎる。葉を手に持ったまま、境内の池へと向かった。
神社には池がある。
灯織は池のふちに座ると、そっと椿の葉を一枚供えた。池のなかにいた魚たちは灯織に気付くと一斉に四方に散らばるように逃げていく。
「……おはよう、灯織。あのね、私、とうとう紅月さんのところへ行くことになったよ」
灯織は、池に話しかけるように呟く。
池の空気はひんやりとしていた。
「……いつもこんなものしかあげられなくて、ごめんね」
言いながら、灯織は小脇に供えた椿の葉を見た。
本当はもっとちゃんとした花束を供えてやりたいが、灯織には、自由になるお金はない。それどころか、庭の花を詰んだだけでも大目玉を食らうだろう。
そのため、供えたことすら気付かれないよう、椿の葉を添えてやることしかできないのである。
――そう。
この池には、千家家の本物の令嬢である灯織が眠っているのだった。
***
灯織――本来の名を一華という――は、現在十五歳になるが、千家家のひとり娘でありながら、ひどく冷遇されている。
理由は、灯織が灯織ではなく身代わりの娘であるからだ。
灯織の身代わりとなった一華はもともと、千家家が管理する神社の眷属であった。
人魚族から派生した金魚のあやかしだ。神域に住んでいることもあり、強い妖力を持つ一華たち金魚の一族は、自在に姿を変えることができた。
一方で、神職を生業とする千家家のひとり娘であった灯織。
灯織はその特別な生まれから、幼い頃からあやかしを認知することができたため、一華とは姉妹のように育ち、お互いにかけがえのない存在だった。
――しかしあるとき、その悲劇は起きた。
隠れ鬼をしていた灯織が、池に落下したのである。灯織はそのまま池のなかで溺れ、帰らぬひととなった。
池へ落ちた灯織に一華が気付き、助けたときにはもう、灯織は息をしていなかった。
灯織は、泳ぐことができなかったのだ。いや、たとえ泳げたとしても、水を吸った着物を着た状態では、どちらにせよ手遅れとなったかもしれないが。
その後ひとり娘を失った千家家は、眷属である一華を人間殺しだとして重い罰を与えることにした。
一華から、名前を取り上げたのだ。
あやかしにとって、名前は魂である。名前を奪われることは、そのあやかしの価値を奪うことと同義であった。
一方で灯織は、由緒ある華族のひとり娘であり、古来よりあやかしとひととの関係を繋いできた神職の家系に生まれた大切な子ども。既に決められた許嫁もいる。
千家家にとって、灯織が死ぬことは許されなかった。
そして一族は、一華が名前を奪われたことがほかのあやかしたちへ露見することを恐れた。もしあやかしたちへ知られたら、じぶんたちまで蔑まれる。一族の名が汚れる。一歩間違えば、一族もろとも幽世へ強制送還となる可能性すらある。
一華の祖父は決断した。
一族から、一華を勘当する。さらに灯織を殺した贖罪として、一華を千家家へ差し出すと――。
もともと一華は一族のなかでも妖力が弱く、強い妖力を持つ兄と比較され、常に冷遇されてきた。一族にとっては、一華の兄さえいればなんの問題もなかったのだ。
結果一華は名前を奪われ、一族から勘当された。
そして、ひと知れず千家灯織の身代わりとなったのである。