竜神様に選ばれた聖女は異世界で天女様になりました

 私は今日も御神木の前で跪き、祈りの体勢になった。
 肥賀の国に来てから二か月。
 私は毎朝欠かさず、こうしてここで祈りを捧げている。

 竜神様、いつもお恵みをありがとうございます。
 おかげさまで、今年は稲も野菜もよく育っているそうです。
 皆、感謝しております––––––

 最初のころはひたすら雨を降らせてくれるように祈っていたが、国中にたっぷりと雨が降って以降は、感謝の気持ちを祈りにのせて伝えるようにしている。
 しばらく一心に祈って、顔を上げた。
 祈るのに慣れてきてから、どれくらい祈れば竜神様に届くのかがなんとなくわかるようになった。
 今日の祈りは、もうしっかり伝わったはずだ。

「エリ」

 私は差し出されたトラ様の手をとり、立ち上がった。
 トラ様は私がここに来るのに、毎日付き添ってくれる。 
 国主であるトラは忙しいだろうから、たまには他の人と変わってくれてもいいと言ったのに、「天女様の祈りを見届けるのも国主の大事な仕事だ」と却下されてしまった。
 私たちは手を繋いだまま、簡素だが真新しい東屋に入った。
 それを見届けたように、空からゴロゴロと控え目な雷の音が響き、さぁっと細かな雨粒が降りだした。

「今日は、あっちにある山の辺りに雨が降ると思います」
「東北だな。あの辺りは、水田もあるが柿という果樹が多く植えられているんだ」
「かき、ですか」
「ああ。甘くて美味いぞ。果菜芽の好物でもある。秋になったら食べさせてやるからな」
「ふふふ、今から楽しみです」

 私が祈りを捧げると、御神木の近くでは必ず小雨が降り、同時に肥賀の国のどこかで雨が降る。
 それがどこになるのか、というのも私にはなんとなくわかるようになった。
 私たちが雨宿りをしているこの東屋は、祈るたびに雨に降られて濡れてしまう私を心配してトラ様が建ててくれたものだ。
 少しくらい濡れても私は大丈夫なのだが、女性が体を冷やすのは良くないとトラ様だけでなく会う人全員に言われたので、ありがたく受け入れることにした。

 それに、私が着ている小袖や帯は、トラ様とカナメの亡くなったお母様の遺品でもあるのだ。
 そんな大事なものを、とこれも最初は遠慮したのだが、
 
「古着で申し訳ない。できるだけ早く新品を用意するから、今はこれで我慢してくれないか」

 と言われていまい、

「古着で十分です!」

 と慌てて受け取ったのだ。
 ついこの前まで雨不足で不作が続いていたというから、この国が財政的に楽ではないことは私にだって想像がつく。
 私のために新しい衣装をそろえる余裕があるなら、もっと別なことに使ってほしい。
 古着とはいえ、どれもしっかりと手入れが行き届いており、ほつれていたり破れていたりするところはない。
 色もピンクやオレンジ、深い青や鮮やかな緑など、手に取るだけで胸が踊るようなきれいなものばかりだ。
 雨が降るのは竜神様に私の祈りが届いたという証なのだが、雨に降られるとどうしても衣装に泥がはねたりして汚れてしまう。
 東屋の中にいるとそれを防ぐことができるので、とても助かっている。
 それともう一つ、東屋には密かにありがたい効果がある。

「昨日は、タエさんの家で仔犬を見せてもらいました」
「ああ、あの白い犬が仔を産んだのだったな。仔犬も白かったか?」
「白が三匹、茶色が二匹でした。父親が茶色い犬なのでしょうね。とても小さくて、抱っこすると温かくて、すごく可愛かったです」
「あの母犬は、可愛い顔をしているが優秀な猟犬なんだ。仔もしっかりと躾けたら、いい猟犬になるだろうな」
「まぁ、それは頼もしいですね」
 
 雨宿りの時間は、トラ様とのんびりおしゃべりができる時間でもある。
 雨粒が柔らかく地面や屋根を打つ音を聞きながら、なにげない日常のことを話したり、トラ様やカナメの子供のころのことなどを話すのだ。
 国主という立場だからか、トラ様は肥賀の国の中のことも外のこともなんでも知っていて、博識なトラ様の話を聞くのはとても面白く、いつまで聞いていても飽きないのだ。

 あ、雨が止む。

 なんとなくそう感じた直後、ぴたりと雨音が途絶えた。
 今の私は雨が止むのも事前に感じることができるようになっている。
 祈りを重ねる毎に、私と竜神様との距離が近くなっていっているからだと思う。
  
「さあ、下に降りようか」
「はい」

 私はトラ様に手を引かれ、城へと続く道を下る。
 雨上がりの坂道は滑りやすいからと、手を繋いでくれるのが嬉しい反面、トラ様との二人きりの静かな時間が終わってしまうのは少し残念に思う。
 私は元々掃除と洗濯ばかりしていたから、体力はそれなりにあるし、体も丈夫なのだが、トラ様はまるで私が壊れ物かなにかのように大切に扱ってくれる。
 それがくすぐったくて嬉しくて、私もそんなトラ様に甘えてしまっている。  
 私は幼いころに両親を亡くし、父の弟である叔父に引き取られた。
 今にして思えば、おそらく両親が私に残した遺産目当てだったのだろう。
 そんな叔父が私に優しいわけもなく、叔父夫婦は私を使用人のようにこき使った。
 神殿でも同じような扱いだったので、つまるところ私はこの国に来るまで、記憶にある限りずっと冷遇されこき使われ続けていたのだ。
 それなのに、ここでは皆が私に優しくしてくれる。
 最初はそれに慣れなくて、ぎこちない態度になる私を率先して甘やかしてくれたのはトラ様だった。
 私の手を引いて城の隅から隅まで案内してくれただけでなく、私を城の外に連れ出して、これから稲が植えられるという水田や、干上がってしまった川、人々が住む家などを見せてくれた。
 人々はトラ様を「御屋形様」と呼んで気軽に声をかけ、トラ様も自然にそれに応えていた。
 この国ではごく日常的な光景なのだろうが、ベルトラム王国の王族とのあまりの違いに私は驚いた。
 トラvはあちらの王族のように尊大にふるまったりしなくても、皆に国主として愛され敬われていることが、見ているだけでよくわかった。
 あちらの王族もトラ様みたいにすればいいのに……と、考えても無駄なことを考えてしまった。
 数日かけてゆっくりと肥賀の国を私に見せてくれた後、トラ様は私に選択肢をくれた。

「エリ、きみは竜神様からこの国に遣わされた天女様だ。国主である俺よりも、きみはこの国にとって重要な存在だ。きみが望むなら、俺はきみに首を垂れ、きみを神様のように扱うよ。俺がそうしたら、皆もそれに従うだろう。もしくは、神様ではない一人の女性として扱うこともできる。どちらがいいか、きみに選んでほしい。どうするにしろ、きみを大切にすることに変わりはないから、そこは心配ない。他にもなにか希望があるなら、遠慮なく言ってくれていいからね」

 自分のことを自分で選ぶことができるなんて……と、私は密かに感動した。
 こんなふうに選択肢を与えられるのは、私にとって初めてのことだったのだ。
 私はトラ様の気遣いに感謝しつつ、必死で考えた。

「……私は、神様ではありませんから……トラ様に頭を下げてほしいとは思いません。 穏やかに暮らせるなら、私はそれで十分です」

 贅沢をしたいわけではないし、偉そうにふんぞり返りたいわけでもない。
 この国の一員として認められ、皆と一緒に笑顔でいられるなら、それでいい。
 トラ様は顎に手をあてて、考えた。

「それなら、神様扱いするのはやめておこう。だからといって、きみを城の外で庶民と同じように生活させるわけにもいかない。ということで、果菜芽と同じような扱いをする、ということでどうだろうか」
「私は、トラ様の妹になるのですか?」

 それは……少し嫌だな。
 理由はよくわからなかったが、なんとなくそれは嫌だと思った。

「いやいや、きみを俺の妹にするわけではないよ。果菜芽と同じくらい、国全体で大切にするということだ」

 カナメは姫様と呼ばれて皆に愛されていて、トラ様にも可愛がられている。
 正直、私はそんなカナメがちょっと羨ましかった。 
 姫と同じなんて私には身に余るとは思うが、そうなれるならとても嬉しい。
 だって、カナメと同じくらいトラ様の近くにいることができる、ということなのだから。
 私は、トラ様のその提案を受け入れることにした。

「エリ、これからよろしくね。肥賀の国主として、きみが穏やかに暮らせるよう尽力すると誓おう」
「はい、トラ様。こちらこそよろしくお願いします」

 こうして、私のこの国での立ち位置が決まった。
 皆は私を『エリ様』と呼び、トラ様やカナメに対するのと同じくらい敬意をこめて親しく接してくれた。
 ベルトラム王国ではありふれた色だった私の髪と瞳の色は、『豊かに実った稲穂の色』と『冬にも枯れない常緑樹の色』とされ、恵みをもたらす天女様の色だとトラ様が言い、皆もそう信じるようになった。
 明らかに異質なので、気味悪がられるのではないかと最初は心配していたが、そんなことにはならなかった。
 それはトラ様のおかげでもあるが、この国の人々が優しいからというのも大きい。

「今日も大巫女殿のところに行くのか」
「はい!もう少しで夏のお祭りの巫女舞を覚えられそうなのです」
「そうか、頑張っているんだな」

 私は巫女として、大巫女様のところで修行をしている。
 巫女たちと一緒に舞や祝詞を練習し、各種祈祷の作法や竜神様と肥賀の歴史などを学んでいるところだ。
 カナメも巫女の一人で、カナメが間に入ってくれたおかげで私は他の巫女たちともすぐに打ち解け、今では仲のいい友達になっている。
 城のすぐ外にある集落の端に、大巫女様の住処となっている巫女の修行場がある。
 祈りを捧げた後に大巫女様のところに行く時は、トラ様はそこまで送ってくれるのだ。
 たっぷりと水で満たされた水田の間の道を、私たちは手を繋いだまま歩く。
 規則正しく植えられた稲は天に向かって真っすぐ葉を伸ばし、元気に茂っている。
 今は緑色の稲は、夏が終わり収穫する時期になると、黄金色に色づいて稲穂がお辞儀をするように垂れるのだそうだ。
 なんだか想像がつかないが、それを見るのが楽しみにしている。

「御屋形様!エリ様!」
「エリ様、巫女の修行頑張ってくださいね」
「いい大根が採れたので、後でお城に持って行きますね!」

 私たちを姿を見ると、皆が気軽に声をかけてくれる。
 稲だけでなく、今年は野菜もよく育っているということで、皆の笑顔は明るい。
 私たちは手を振ったりしてそれに応えながら、修行場を目指し歩いた。
 伸びやかな歌声が爽やかな風に乗って聞こえてきた。
 夏のお祭りで歌われる豊作祈願の歌を歌いながら、カナメたちが舞の練習をしているのだ。
 私はまだ振付を覚えるのに必死だが、カナメたちみたいに上手に舞えるようになりたくて、毎日練習している
 だって、巫女の舞は、国主であるトラ様の目の前で舞うのだから。
 きちんと最後まで間違えずに舞って、トラに褒めてもらうのが私の今の目標なのだ。

「御屋形様!」

 声に振り返ると、タクミが駆けてくるところだった。
 タクミはトラ様の幼馴染で、トラ様が最も信頼している家臣だ。
 トラ様に比べるとやや線が細い印象だが、槍術では肥賀の国で右に出る者がいない腕前なのだそうだ。
 私にもいつも親切なタクミは、実はカナメと恋仲でもある。
 甘い笑みを浮かべていたトラ様は、一転して国主の顔になった。

「エリ、すまないが俺は行かなくては」
「わかっています。お仕事頑張ってくださいね」

 こうして私に時間を裂いてくれているが、トラ様が忙しいことはよくわかっている。
 広く逞しい背中が遠ざかっていくのを見送り、私はほぅっとため息をついた。
 甘やかしてくれるトラ様も好きだが、国主の顔をした凛々しいトラ様も好きだ。 
 そう。
 つまり、私はトラ様が大好きなのだ。
 こんなにも素敵な男性に優しくされて、好きにならないわけがない。
 トラ様の年齢なら奥方が三人くらいいてもおかしくないのに、カナメを嫁に出すまで結婚しないと、未だに独身のままなのだそうだ。
 そうやって家族を大切にしているところも、大好きだ。
 トラ様も私を嫌ってはいないと思うが…… 
 私は首を振って、不毛な考えを振り払った。
 人生経験が豊富とはいえない私がいくら考えたところで、トラ様の胸の内がわかるはずがない。
 それに、順調に稲が育っているとはいえ、収穫はまだまだ先のことで、安心するには時期尚早というものだ。
 トラ様だって、きっちり収穫が終わるまでは落ち着かないだろう。
 私にできることは、肥賀の国が豊作になるように竜神様に祈りを捧げることだけ。
 トラ様のためにも、頑張ろう。
 そう思うたびに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
 誰かを好きになるのも、その人のために頑張りたいと思うのも、私には初めてのことなのだ。

「エリ!」

 カナメが修行場から顔を出し、笑顔で私に手を振っている。 
 この国に来て、本当によかった。
 竜神様に感謝しつつ、私はカナメに手を振り返しながら修行場へと向かった。
佐岐(さき)の国との国境で、野菜泥棒が頻発してます。それから、あの辺りの山の恵みはほぼ採りつくされているとか」
「やはりそうなったか」

 巧からの報告に、俺は顔を顰めた。
 東の隣国である佐岐も、肥賀と同じように一昨年から干ばつの被害を受けていて、それは今年も続いていると聞いている。
 エリのおかで肥賀には満遍なく雨が降るようになり、稲妻の助けもあり田畑も山の恵みも豊富に実り始めたが、佐岐は変わらず乾いたままなのだ。
 特に国境の近くに住む人々は、その差を目の当たりにしていることだろう。
 こういった厄介事が起きることは予想していた。

「佐岐の国主宛に書簡を送ろう。なんとか取り締まってもらいたいところだが、難しいだろうな」
「そうでしょうね。あちらも蔵は空になっていることでしょうから」
「多少は目をつぶるしかないか。これ以上被害が大きくならないよう、男衆に夜回り当番を組ませることにしよう」

 他国のこととはいえ、飢えに苦しんでいる人々がいるというのは胸が痛む。
 だからといって、自国民に犠牲を強いるつもりはない。
 俺が父の後を継ぎ肥賀の国主となったのは、四年前のことだった。
 父は以前から病気がちで臥せっていることも多く、俺は十を越えたあたりから父を手伝うようになっていた。
 幸いにも俺は小さいころから体が大きく頑丈で、荒事方面はだいたい俺が対応した。
 国主の嫡子とはいえ、未熟な小僧でしかなかった俺がそんなことができたのは、全て父の的確な指示があったからだ。 
 父は病に侵されながらもその頭脳の鋭さは欠片も損なわれることなく、床から出られずとも立派に国を治めていた。 
 俺はそんな父を尊敬していた。
 いつか父のような国主になりたくて、俺は武術だけでなく勉学にも力をいれた。
 父は厳しくい人だったが、同時に愛情部会人でもあり、褒める時は言葉を惜しまず精一杯褒めてくれた。
 それは果菜芽に対しても同じことだった。
 おかげで、生まれてすぐに母を亡くし、母の顔を知らずに育った果菜芽も、捻くれることなく真っすぐに育った。
 果菜芽は俺の自慢の可愛い妹だ。
 儚くなった両親に代わって、俺が責任を持って嫁に出さなくてはならない。
 一時は竜神様の花嫁にしなければならないところまで追い詰められたが、幸いなことにその危機は脱した。
 小さかった果菜芽も、もうすぐ十六になる。
 今年の秋の稲刈りが終わった後、巧と祝言を挙げさせてやりたいと思っている。
 そのためにも、竜神様からもたらされた恵みを余すことなく享受できるよう、俺たちは全力を尽くさなければならないのだ。
 俺は水田を吹き抜ける少し湿った風を頬に感じながら、巧と肩を並べて速足で城へと向かった。

 佐岐の国主には、苦情と取り締まり強化を求める書簡と、せめてもの気持ちとして採れたばかりの新鮮な野菜を荷馬車に乗せて送った。
 あれくらいの量では焼け石に水にしかならないだろうが、こちらも米などの穀物類はもう備蓄がほとんどないのだ。
 隣国である佐岐とは、これまで数世代に渡る長い間、良好な関係を築いている。
 俺の代でそれを終わりにしたくはない。
 状況次第ではあるが、今年の秋に十分な収穫量に恵まれたら、ある程度の支援をしようと思っているところだ。 
 後日、佐岐の国主からは、謝罪と感謝が綴られた書簡が送られてきて、それ以降は野菜泥棒はほとんど現れなくなった。
 俺たちは警戒を続けつつも、必要以上にたくさん採れた野菜があれば佐岐に送った。
 雨だけでなく稲妻により、野菜もこれまでにないくらい豊富に実っているからできたことだった。
 
 そうして時は流れ、初夏の夏祭りを迎えた。
 この日のために、エリは舞と歌を毎日練習していた。
 ついに本番を迎え、朝食の時から緊張した顔をしていたが、大丈夫だろうか。 
 東の空が茜色に染まり、ぽつぽつと星が瞬きだした。 
 集落の広場の中央では大きな篝火が焚かれ、それを俺たちが遠巻きに取り巻いている。
 大巫女殿を先頭に、白と緋色の巫女装束を着た娘たちがしずしずと現れ、篝火を中心に円になった。
 巫女たちはそれぞれに真剣な面持ちだが、エリが一番強張った顔をしている。
 他の巫女たちと違い、エリは今回が初めての祈祷なのだから、それもしかたがないことだろう。
 頑張れよ、と声に出さずに声援を送っていると、大巫女殿が手にした小さな鐘をカンと鳴らした。
 それを合図に、巫女たちの舞が始まった。
 豊穣祈願の歌を歌い、竜神様への祈りをこめて舞い踊るのだ。
 手にした笹の枝を振り、白い袖を翻してくるりくるりと回る。
 頭の後ろで一つに束ねたエリの稲穂色の髪は、そうして回るたびにふわりと広がり、篝火の光を映して温かな色に輝いた。 
 ああ、きれいだな。可愛いな……
 エリが現れてから、何度そう胸の中で呟いたことだろう。
 御神木の前で祈る姿も、目新しいものに緑の瞳を輝かせる姿も、果菜芽たちと笑っている姿も、とても可愛い。 
 竜神様から遣わされた天女様だという立場に驕ることもなく、常に謙虚で控え目で、優しくされたり親切にされてりすると、嬉しそうにはにかんで笑う。
 それがなんとも可愛くて、その笑顔を俺だけのものにしたくて、できるだけ多くの時間をエリと過ごした。
 故郷で冷遇されていたというエリは、肥賀に来たばかりのころは折れそうなほど細く青白い顔色をしていた。
 今は健康的にふっくらとして肌も髪も艶やかになり、よく笑うようになった。
 エリを虐げたものたちのことを思うと怒りが湧くが、おかげでエリが俺たちのところに遣わされたのだから、複雑ではあるが感謝もしている。
 エリの舞は、他の巫女たちに比べるとややぎこちなくはあるが、努力の跡が見て取れる。
 舞うのも歌うのも初めてのことだったそうで、苦労しつつもとても頑張っていると果菜芽が言っていた。

「エリが頑張っているのは、兄上様に見てほしいからなんですって」

 なんて生意気なことをこっそり言ってくる果菜芽に、

「おまえだって巧に見てほしいんだろう」
 
 と返すと、図星を突かれて果菜芽も赤くなっていた。
 巫女たちが笹の枝を天に掲げ、その動きを止めた。
 舞が終わったのだ。
 太陽は東の山の向こうに隠れ、空には満天の星空が輝いている。

「祈祷は無事終わった。竜神様に我らの願いが届いたことだろう。さあ、宴を始めよう!」

 俺がそう告げると、わぁっと歓声が上がった。
 この宴では料理と酒がふるまわれるので、皆が楽しみにしているのだ。

「トラ様!」

 巫女衣装のまま、エリが駆け寄ってきた。
 
「よく頑張ったね。とても上手に舞えていたよ」

 心から褒めてあげると、エリは頬を赤らめてはにかむ。
 可愛いな。
 できることなら誰にも見せたくないくらい、可愛い。

「さあ、着替えておいで。今日の汁物はとても美味しくできているそうだよ」
「はい!」

 まだ米などの穀物が収穫できたわけではないので、御馳走というわけにはいかないが、たくさんの野菜と鶏肉の汁物は美味に仕上がったと聞いている。
 酒も量は少ないが、皆が一杯ずつ飲むくらいはあるだろう。
 巫女衣装から小袖に着替えた巫女たちが戻ってきて、宴に加わった。
 
「エリ、こちらにおいで」

 俺がエリを隣に座らせると、気を利かせた女衆が汁物の器を渡してくれた。

「美味しい!すごく美味しいです!」

 エリ は緑の瞳を輝かせ、鶏肉を頬張った。
 緊張から解放されて、すっかり気が緩んでいるようだ。
 そんなところも可愛い。

「ねぇトラ様、お酒もあるんですよね?」
「あるにはあるが……酒を飲んだことはあるのか?」
「ありません!だから、すごく楽しみにしていたんです!」
 
 満面の笑みのエリだが、俺は飲ませていいものか迷った。 
 というのも、実は俺がエリを隣に置いているのは、周囲を警戒しているからなのだ。
 こういう人が多く集まる祭りには、不穏分子が混じるのを避けられない。
 肥賀の国に稲穂色の天女様がいるということは、周辺諸国にも既に知れ渡っている。
 エリが拐されたりでもしたら大変だ。
 国主である俺は常に多くの家臣に囲まれているので、エリは俺の隣にいるのが一番なのだ。 
 もちろん、俺がエリを独り占めしたいから、というのも否定はしない。
 可愛いエリに熱のこもった視線を向ける男は数多くいるが、幸いにも俺と張り合おうというような男はいない。 
 天女様の伴侶には、並の男では釣り合わない。
 それこそ、俺のような国主くらいでないと。

「悪いが、どうら酒はもう無くなってしまったようだ」

 元々量は少なかったのだ。
 俺も一口も飲んでいない。
 こういうことにしておいても、問題はないだろう。

「えぇ~、残念です」

 エリはしゅんと髪と同じ色の眉を下げた。
 そんな顔も可愛い。

「ここでは、酒は米から造られる。今年は米がたくさん採れそうだから、来年は酒が飲めるだろう。それまで辛抱してくれるか?」
「わかりました。また来年ですね」

 エリは素直に頷いて、花がほころぶように笑った。
 ああ、やっぱり可愛いな。
 もう手放すなんて無理だ。

「あ、あれ」

 エリが視線で示した先には、俺たちがしているのと同じように寄り添っている巧と果菜芽の姿があった。

「ふふ、いつも見ても仲がいいですね」

 あの二人は少し年が離れてはいるが、お互いを思い合っているのが見ていてよくわかる。
 俺もだが、亡き父も巧のことを信頼していた。
 巧になら安心して果菜芽を任せられる。

「これはまだ本人たちにも伝えていないのだが、秋の収穫が終わって落ち着いたころ、あの二人に祝言を挙げさせようかと思っている」
「え!?」

 エリはぱっと顔を輝かせた。

「果菜芽ももう十六だからな。そろそろ嫁に出してもいい年頃だ」
「二人とも、きっと喜びますね!あ、でも、まだカナメたちはそれを知らないんですよね。うっかり口を滑らせないように気をつけないと」

 一転して神妙な顔になり、両手で口を塞いで見せるえりが可愛くて、俺は抱き寄せたくなるのを必死で堪えた。
 稲穂色の天女様。俺の可愛いエリ。
 果菜芽を嫁に出すまではと、独身を貫いておいてよかった。 
 来年の春、俺たちも祝言を挙げような。
 そっと声に出さずに呟いて、必ずそれを実現させなくてはと決意を新たにしたのだった。
 穏やかに夏が過ぎ、稲は順調に育ち続け、ついに収穫の時を迎えた。
 トラ様が言っていた通り、緑色だった稲は私の髪と同じような色になり、重たげに穂を垂らして少し涼しくなった秋風に揺れてる。 
 まるで黄金の絨毯がいくつも広げられているような美しい光景に、私は胸を躍らせた。
 私は竜神様に感謝の祈りを捧げつつ、巫女の修行の傍ら米や野菜の収穫を手伝ったりして、楽しく有意義に過ごしていた。 
 トラ様は相変わらず忙しいようだが、そんな中でも私に時間を割いてくれる。
 優しい笑顔を向けら甘やかされるれるたびに、どんどんトラ様のことが好きになってしまう。
 きっと私のそんな気持ちは、トラ様にも伝わっていると思うが、今のところトラ様は私になにも言わない。 
 私が天女と呼ばれる存在だからなのかもしれないが、この国の習慣を完全には理解していない私には、判然としない。
 かといって、こちらから尋ねる勇気もないので、現状維持が続いている。
 そんな私だが、一番気になるのはトラ様と私のことではない。 
 間近に迫るカナメとタクミの祝言だ。
 結婚すると巫女は卒業なのだそうで、カナメが舞うのはカナメ本人の祝言が最後になる。
 少し寂しい気もするが、カナメはとても幸せそうで、タクミのことでからかわれると頬を赤くして恥じらうのが可愛らしい。
 二の明るい未来を願い、心を込めて祝福の舞を舞うために、私は毎日練習を重ねた。
 
 竜神様。
 今年は米も野菜も果物も、大豊作なのだそうです。
 皆が竜神様に深く感謝しています。
 本当に、ありがとうございます。

 豊かに実った稲は全て刈り取られ、脱穀などの段階を経て無事に蔵へと収められた。
 私がこの国に来たときはほぼ空だった蔵に、今は米がいっぱいに詰まった袋が積み上げられている。

 カナメとタクミの祝言も、もうすぐです。
 祝言に参加するのは初めてなので、とても楽しみです。
 収穫を祝うお祭りと同時に行われることになったので、とてもおめでたいと皆が言っています。
 私も舞いを奉納することになっています。
 精一杯舞いますので、どうか見守っていてくださいね。

 最近は、嬉しいことも竜神様に報告するようになった。
 なんとなくだが、竜神様もそれを喜んでくださっている気がする。
 お祈りが終わると、トラ様と二人で雨宿りをして、手を繋いで城へと続く道を下る。
 近頃のトラ様は忙しく、一緒にいられるのはこの時だけなので、私にとってはとても大切な時間だ。
 繋いだ手を離すのが名残惜しくて、いつもこの道がもっと長ければいいのにと思う。 
 もうすぐ城に着いてしまう。
 また明日の朝まで会えないのかな。
 寂しい気持ちを堪えて歩いていると、なにやら城が騒がしいことに気がついた。

「兄上様!」

 なにやら緊迫した表情のカナメがこちらに駆けて来るのが見えて、トラ様の表情はぐっと険しいものになった。

「エリ、今日は大巫女殿のところに行くのは中止だ。果菜芽から決して離れないように」
「は、はい、わかりました」

 トラはそう言うと、私と果菜芽を残して走り去った。

「エリ、落ち着いて聞いてね。東にある佐岐という国が、攻め込んで来たの」
「え……それって」
「肥賀と佐岐の間で戦が起きた、ということよ」

 私はさぁっと血の気が引くのを感じた。
 そういえば、隣の国も干ばつにより不作続きだと以前に聞いた。
 きっと、豊作に恵まれた肥賀の食料を狙っての戦なのだろう。
 
「さあ、呆けている時間はないわ。私たちも行くわよ!」

 青ざめて立ち尽くすだけの私と違い、兄とよく似たカナメの瞳には強い光が灯っている。
 私はカナメに手を引かれ、トラ様が向かったのとは別の方向に駆けだした。
 私は全く知らなかったが、トラ様たちはこうなることを予想してたらしい。
 東の国境近くにある集落からは女性や子供は予め避難させてあり、収穫したばかりの食料も手元には最低限だけ残して、大部分は城に預けられている。
 佐岐が攻め込んできたら、集落の男衆は抵抗せずに逃げた後、トラたちと合流して一気に叩くという手筈になっているのだそうだ。

「城の近くの集落の女性と子供は、城に避難してくることになっているの。いざとなったら、ここで籠城することになるわ」

 私はカナメに教えられながら、トラ様がいつも着ているような袴を穿き、襷で小袖の袖を抑えた。
 これでかなり動きやすくなった。

「エリ様!姫様!御屋形様たちが出立なさいますよ」

 またカナメに手を引かれて城の前に行くと、そこにはトラ様と見たことがないほど大人数の男衆がいた。
 全員、胴体を覆う鎧と脚絆や籠手などの戦装束で身を固めている。
 トラ様はそれに加えて、下が広がった形をした兜を被っており、鎧も他よりは立派な造りになっているのが私にもわかった。
 事前にしっかり準備をしてあったから、これだけ短時間で出立できるのだろう。

「エリ」

 ピリピリとした空気を纏い引き締まった顔をしていたトラ様の表情が、私を見るとふと和らいだ。

「肥賀の男は強い。必ず帰るから、きみは果菜芽と待っていてくれ」
「トラ様……」

 涙が溢れ、トラ様の凛々しい顔がはっきり見えない。

「天女様。皆に声をかけてくれないか」

 見ると、男衆だけでなく、その場にいる全員が期待をこめて私を見ていた。
 そうだ。私は竜神様に遣わされた天女なのだ。
 今の私の役目は、竜神様の威を借りて彼らを勇気づけることだ。
 
「どうか、誰一人欠けることなく、無事にお戻りください。竜神様にお力添えをくださいますよう、私は祈りを捧げます。皆さま、どうか御武運を!」

 私がそう声を張り上げると、晴れている空からぱらぱらと雨粒が落ちてきた。

「竜神様の祝福だ!これで我らが負けることはない!」

 トラ様がよく通る声を張り上げると、わぁっと歓声が上がった。

「ありがとう、エリ。これで百人力だ」

 そう言うと、トラ様はひらりと馬に跨った。

「果菜芽!エリを頼む!後は任せたぞ!」
「はい、兄上様!安心して暴れてきてください!」

 トラ様の周囲に、さきほどよりも明るい顔をした男衆がさっと集まった。

「出立!」

 トラ様の後にはタクミを含む十名ほどが騎馬で従い、その後ろから百名ほどの男衆が駆け足でついていく。 
 城に残る私たちは、それを手を振りながら見送った。
 涙が止まらない私の肩を、 カナメがぽんと叩いた。

「エリ。泣いてはいけないわ」

 カナメは青ざめてはいるが、私のように泣いてはいない。
 カナメだって、トラ様やタクミが心配だろうに。

「私は国主の妹で、エリは天女様なのよ。私たちが動揺したら、皆にそれに伝わってしまうわ」
  
 カナメの言う通りだ。
 実際、皆が私たちに注目している。
 私が涙を拭って頷くと、カナメはにっこりと笑って皆を振り返った。

「さあ、籠城の準備を!兄上様たちが戻るまで、私たちで城を守るのよ!」
『はい!』
 
 女衆も、元気にカナメに応えた。 
 肥賀は男だけでなく、女も強い。
 私も負けてはいられない。

「私は、御神木のところに行くわ。竜神様に祈らなくては」
「それなら、私がお供いたしましょう」

 そう声を上げたのは、大巫女様だった。
 私と大巫女様はカナメたちと別れ、二人で御神木までの道を登った。
 途中で城に残った年配の男衆が、鉈をふるって竹を切っているのが見えた。

「あれは、竹槍にしますのじゃ。いざとなったら、あれで女たちも戦います」

 それはつまり、トラ様たちが敗れて佐岐の兵がこの城まで到達してしまった場合の話だ。
 そうなったら、カナメも友達になった巫女たちも、迷わず竹槍を手に戦うのだろう。 
 そんな光景を想像してしまい、心臓にヒヤリと冷たいものが触れたような気がした。
 トラ様もカナメも、その他の人たちも、誰にも傷ついてほしくない。
 私は御神木の前に跪き、祈りをささげた。
 
 竜神様、お願いです。
 トラ様たちをお守りください。
 皆、私の大切な優しい人たちなのです。
 どうか、どうか、お守りくださいますよう––––––
 
 私は時も忘れて一心に祈った。
 雨がしとしと降り、髪も小袖がすっかり濡れてしまったのも気にならないくらい、ひたすらに祈りを捧げ続けた。
 俺たちが東の集落の男衆と合流したのは、陽がすっかり落ちてからだった。
 
「佐岐のやつらは、俺たちが残してきた飯を食うのに忙しいようです。家が焼かれている様子はありません。あいつら、気の毒なくらい痩せてましたよ」

 まとめ役の男は、俺にそう報告した。
 速やかに逃げたので、幸いにも怪我人は一人もでなかったそうだ。
 佐岐の側も、俺たちが戦を仕掛けられることを予想し、その対策をとることぐらいわかっていただろう。
 食料を集落に少しだけ残したのは、足止めをして俺たちが到着するまでの時間を稼ぐためだ。
 飢えている佐岐の兵が、目の前の食料より侵攻を優先することはないと踏んだのだ。
 そこに毒を混ぜては、という意見もあったが、それは却下した。
 竜神様の恵みにより得られた食料を毒で穢すなど、罰があたってしまう。
 それに、隣国との間で禍根を残すようなことは、できる限り避けたい。
 
「佐岐の国主はいたか?」
「国主かどうかはわかりませんが、一人だけ立派な鎧を着て馬に乗ってるのがいました」

 おそらくだが、それが国主本人だ。
 佐岐の現国主には、俺も何度か会ったことがある。
 俺より十歳ほど年上の、生真面目で責任感の強い男だ。
 あの男なら、兵だけ送り出して自分は安全な城で待つようなことはしないだろう。
 悪いやつではない。むしろ、いいやつだと思っている。
 だからこそ、支援のために野菜を送ったりしたのだ。
 そんな男を、討ち取らなければならないのかと思うと、俺はなんとも苦い気持ちになった。
 夜に奇襲をかけて殲滅するという手もあるが、暗い中での乱戦は双方に多大な被害が出可能性がある。
 焼き討ちをすると、今度は集落の復興に長い時間と手間がかかる。
 あちらも今夜はもう動けないだろうし、日が昇ってから正々堂々とぶつかってやろうではないか。
 
「ご苦労だった。明日は合戦になる。今のうちに休んでおけ」

 男を下がらせると、俺の横に控えていた巧がニヤッと笑った。

「俺たちの読み通りの動きですね」
「そうだな。今のところ首尾は上々だ」

 追い詰められている佐岐に選択肢などないから、読みやすい。
 だからこそ、胸の奥がどうしようもない焦燥で焼かれている。
 佐岐は食料だけでなく、『稲穂色の天女様』も狙っているのだ。
 もし万が一エリが奪われたらと思うと、胸の奥がどうしようもない焦燥で焼かれる。
 なんとしてでも、エリを守らなくては。
 そう思うと、闘志が湧いてくる。

「明日の合戦で決着をつけるぞ」
「はい。大将首を挙げてみせましょう」

 その一方で、巧は俺とは少し違う意味でやる気に満ちている。
 巧にとってこの戦は、果菜芽との祝言の前に武功を挙げる絶好の機会なのだ。
 俺としては、戦を早く終わらせるためにも、巧には是非とも頑張ってほしいと思っている。
 佐岐の男は、本来は俺たちに負けないくらい頑健なのだが、飢えて痩せ細っているようでは発揮する力も失われていることだろう。
 そういう意味では俺たちが有利だが、油断は禁物だ。
 どれだけ弱っていても命を捨てる覚悟を決めた死兵は手強いものだと、多くの兵法書に書いてあるのだから。

「無茶はするなよ。おまえが死んだら果菜芽が泣く」
「死なない程度の無茶に留めておきますよ」 

 そんなことを言いつつも、思い切り無茶をするつもりという顔をしている。
 とはいえ、巧が手練れだということは俺もよく知っているから、あまり心配はしていない。 
 巧よりも、エリが泣いてないかということの方がよほど心配だ。
 出立前に見た泣き顔が頭から離れない。
 早く帰って、この胸に抱きしめたい。 
 俺は陽が落ちて暗くなった天を仰ぎ、愛しい面影を瞼の裏に描いた。


 翌朝。
 斥候に出していた男が息を切らして戻ってきた。

「御屋形様!佐岐のやつらが動き出しました!こちらに向かっています!」

 そろそろ頃合いだと思っていた。 
 俺たちが陣を構えているのは、佐岐に明け渡した集落からほど近い丘の上だ。
 この丘を通る道を通らなければ、肥賀の城にはたどり着けない。
 佐岐の兵がぞろぞろと姿を現した。
 兵数は俺たちと同じくらいのようだが、遠目に見ても痩せているのがわかる。
 集落に残されていた僅かな食料では、全員の腹を満たすには足りなかったはずだ。
 今もまだ飢えに苦しんでいることだろう。
 馬に乗った男の一人が纏う鎧が、陽の光を反射して輝いた。
 どうやら、あれが佐岐の国主のようだ。

「よし、覚悟はいいな。心してかかれ!」

 俺の声に皆が『応!』と応え、それが鬨の声となった。
 佐岐の軍からも鬨の声が上がり、続いてこちらに向けて突撃をしてきた。
 俺と巧を含む、弓の心得のある男たちが横並びになり、弓に矢を番えた。
 もうすぐ、先頭を走る佐岐の兵が射程範囲内に入る。
 ギリギリと弓を引き絞り、『放て!』と号令をかけようとした時のことだった。
 ドンッという轟音が響き、空から降ってきた閃光が佐岐の兵の少し前の地面を貫いたかと思うと、十人ほどの佐岐の兵がバタバタと倒れた。
 肥賀のものは、これに似た光景を見たことがある。
 俺たちは目を丸くする程度だが、佐岐の側は腰を抜かすほど驚いたようだ。
 それでも流石は一国の国主というべきか、佐岐の国主はすぐに気を持ち直し、また突撃するよう兵たちに発破をかけた。
 それに従った兵たちの前に、今度は三条の閃光が轟音と共に連続で降ってきて、佐岐の兵の半分ほどが地に倒れ伏してしまった。
 
「竜神様だ……」

 誰かが呟いたのが聞こえた。
 竜神様。それから、エリ。
 エリの祈りを聞き届けた竜神様が、俺たちを守護してくださっているのだ。

「巧、ついてこい」

 俺は巧だけを連れ、馬を進めて佐岐の陣に近づいた。
 倒れている兵たちは、どうやら気絶しているだけで幸いにも死んではいないようだ。
 命までは取らないようにと、優しいエリが竜神様に頼んだのかもしれない。
 
「俺は肥賀の国の国主、肥賀虎雅だ」

 完全に戦意を喪失している佐岐の国主と兵たちに向けて、俺は声を張り上げた。

「肥賀は竜神様に守護されている。我らに仇成すものは、竜神様の怒りに触れると心得よ。命が惜しくば、刃を捨てて跪け」

 地上を這いまわる人間がどれだけ刃を振り回したところで、天上の竜神様に届くわけがないのだ。
 さっさと諦めて投降しろ、という呼びかけに最初に応じたのは、一際立派な鎧を纏った男だった。
 馬から降りて兜をとったところで、やはり佐岐の国主だということがわかった。
 男はそのまま俺の前に真っすぐ歩み出て、躊躇いなく地面に膝をつき深く首を垂れた。
 それを見た佐岐の兵たちも、国主に倣い次々と膝をついていった。
 こうして、刃を交えることすらできず、佐岐は肥賀に全面降伏したのだった。
「天女様、どうかお情けを……」

 私の前で、中年の男性が地面にめり込みそうなほどひれ伏して懇願している。
 トラ様たちが捕虜として城に連れ帰ってきた、佐岐の国主様だ。

「どうか、佐岐にも恵みの雨を降らせてくださいますよう、お願い申し上げます。このままでは、我が国は躯の山を築くことになってしまいます。お望みとあらば、私の首でもなんでも差し上げます。どうか、お情けを……」

 首なんかほしくない。
 隣に立つトラ様を見上げると、優しく微笑んで頷いてくれた。
 私に処遇を任せてくれたのだ。
 それなら、どうするかもう決まっている。

「この方を御神木のところにお連れします」

 トラ様たちが出立した後、私は御神木に向かい祈りを捧げた。
 寝食を忘れて祈り続け、気がついたら私は意識だけ空の高いところを漂って、地上を見下ろしていた。
 
 ––––––トラ様。

 愛しい名を呼ぶと、すうっと風に流されるように雲の間を移動して、丘の上で陣を構えている肥賀の軍が眼下に見えるようになった。
 弓矢を手にしたトラ様がいる。
 凛々しい瞳が睨みつける先には、トラ様たちに向かって刃を振り上げ走ってくる男たちがいた。
 あれが佐岐の兵なのだろう。
 とても痩せているが、その瞳はギラギラとした殺気に満ちている。
 あの刃が、もしトラ様に届いたら……

 ––––––やめて!

 私が叫ぶと、すぐ近くで大きく温かな気配が動くのを感じた。
 目には見えなくとも、それが竜神様なのだと直観でわかった。
 轟音と共に雷が地上に落ち、さっきまで走っていた男たちが倒れた。
 それから続けざまの雷で半数以上の佐岐の兵が倒れたところで、降伏を呼びかけたトラ様に佐岐の兵たちが全員その場で膝をついた。

 ––––––よかった。

 トラ様も皆も、無事だ。
 倒れている佐岐の兵たちも、死んではいないはず。
 竜神様、ありがとうございます。ありがとうございます……
 
 気がつくと、私は祈りの姿勢のままの体に戻っていた。
 立ち上がって振り返ると、心配そうな顔をした大巫女様がいた。
 どうやら、私は身じろぎすらせず丸一日祈っていたらしい。

「大巫女様。戦は終わりました。トラ様たちは、全員無事です!」

 私は晴れやかな顔で告げ、涙を流す大巫女様と抱き合って喜んだ。


「これを見てください」

 私がトラ様と佐岐の国主様たちに指さして見せたのは、真っ二つに裂けて倒れた御神木の根本だった。
 そこには、二本の小さな木の芽がぴょこんと地面から顔を出してる。
 枯れてしまったかに見えた御神木は、まだ生きていたのだ。

「一本はこのままこの地で成長し、御神木となります。もう一本は、佐岐の人々が望むなら、守護の証として佐岐の地に授けると竜神様は仰っています」

 あれから私は、竜神様の存在をはっきりと感じることができるようになった。
 竜神様がなにを望んでいるのかも、私の心に伝わってくる。

「その代わり、佐岐の人々にも竜神様を崇めてもらいます。そうすれば、慈悲深い竜神様は肥賀の地に攻め入ったことを水に流し、佐岐にも恵みを与えて下さるのだそうです。どうなさいますか?」
「是非とも!お願いいたします!」

 佐岐の国主様は、再び地面に平伏した。

「我らは子々孫々に渡り、竜神様を崇め奉ると誓います!ですから、どうか恵みをお与えくださいますよう!」

 血を吐くような声に、胸が痛くなった。
 国主様ですらこれだけ痩せているのだから、佐岐の国は本当に苦しいのだろう。

「わかりました。では、私と共に祈りを捧げましょう。竜神様に、国主様の声を届けるのです」

 私が御神木に向かって跪くと、佐岐の国主様だけでなくトラ様たちも跪いた。 

 佐岐の国主様も、竜神様を崇めると約束してくださいました。
 どうか、佐岐にも恵みの雨を降らせてくださいますよう、お願い申し上げます。
 佐岐に住む人々を、お助け下さい……

 私たちの上に、ぱらぱらと小雨が降り注いだ。 
 同時に、遥かな天上で竜神様が東の空へと飛んでいくのを感じた。
 佐岐に慈雨を降らせにいってくれたのだ。

「竜神様が、祈りを聞き届けてくださいました。間もなく佐岐には雨が降り注ぎ、稲妻が輝くことになるでしょう」

 私がそう伝えると、佐岐の国主様は再び地面にひれ伏して声を上げて泣いた。
 よかった。これで、佐岐の人たちも助かることだろう。

「エリ、ありがとう。きみのおかげ、誰も死なずに済んだ」

 トラ様の大きな手が私の頬に触れた。
 もしかしたらこの温もりが永遠に失われてしまっていたのかもしれないと思うと、涙が溢れた。 
 トラ様が無事で、本当によかった……
 
「嫁においで」

 私の応えは、もう決まっている。
 嬉しくて言葉がでてこない私を、トラ様はそっと抱きしめてくれた。
 柔らかな雨に打たれながら、私たちは幸せに包まれた。

 東の空からは、私たちを祝福するように雷鳴が響いていた。

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