ふわりと意識が浮上し、私は目を開いた。

「……?」

 最初に見えたのは、木でできている天井だった。
 知らない天井だ。
 上半身を起こして見まわしてみると、天井だけでなくなにもかもが知らないものだらけだということがわかった。
 床も壁も、天井と同じ木でできている。
 そして、私が寝かされていたのは、手触りのいい柔らかな木綿でできた寝具だった。 
 私は火山の火口に投げ入れられ、命を落とした。
 それなら、ここは死後の世界なのはず。
 だが、なんだか思っていたのと違う……?
 首を傾げていると、壁の一部がカラリと音を立てて横に動いた。
 どうやらそこが横開きの扉だったようで、ひょこっと女の子が顔を覗かせた。

「あ、目が覚めたのね」

 私より少し年下くらいの、可愛らしい女の子だ。
 艶やかな黒髪を後ろで一つ結びにして、ぱっちりとした瞳も髪と同じ黒。
 袖が大きくて足首まである前開きのオレンジ色のチュニックを、腰のところので幅広いベルトで留めたような服装をしている。
 
「気分はどう?どこか痛いところはない?あなた、半日くらいずっと眠っていたのよ」

 私は自分の体を見下ろした。
 最後に着ていたのは古びた修道服だったが、今は白い前開きの衣装に着替えさせられている。

「……ここはどこ?」
「ここは、肥賀の国のお城よ」
「ひがのくに……?お城……?」

 私は首を傾げた。

「私は……生きているの?」
「ええ、ばっちり生きているわ」

 なんで?なにがどうなっているの?
 わけがわからず混乱する私に、少女はにこやかに応えた。

「詳しいことは、私の兄から説明するわね。連れてくるから、少し待っていて」

 軽い足取りで出ていった少女は、体格のいい青年を連れてすぐに戻ってきた。
 後頭部の高い位置で一つ結びにされている髪は、少女と同じ黒髪だ。
 服装は、上は少女と同じようなつくりの濃い緑色で、下は幅の広いプリーツのはいったこげ茶色のズボンのようなものをはいている。
 少し垂れた黒い瞳と形のいい眉が少女とよく似ており、二人の間に血の繋がりがあるのがはっきり見て取れた。
 青年は私の真正面に、少女はその少し後ろの床に腰を下ろした。
 どうやら、ここでは床に直接座るというのが普通らしい。

「俺は肥賀虎雅(ひがまさとら)という。こっちは、妹の果菜芽だ。俺はこの肥賀の国を治める国主を務めている」

 国主……おそらく、王様のような意味合いなのだと思う。それにしても、聞きなれない名前だ。
 
「ひが、とら……?」
「肥賀が姓、虎雅が名だ。覚えにくいなら、そうだな、虎とでも呼んでくれたらいい。きみの名前も教えてくれないかな」
「……エリーザベト」
「エリーザベト ……エリーというのが姓なのか?」
「いいえ、姓はありません。私は平民ですので……」
「そうか、そういうものなのか。それなら、エリと呼んでもいいだろうか」
「は、はい……トラ、様」

 おずおずとそう呼んでみると、青年はにっこりと優しい笑顔を見せた。
 どうやら、怖い人ではなさそうだ。

「きみは、俺たちが雨乞いの祈祷をしている時に、突然の落雷とともに現れた。覚えているかい?」

 私は首を横に振った。

「なぜそうなったのかもわからない?」

 私はまた首を横に振った。

「私は、死んだはずなのです……火山の火口に、投げ込まれて……それなのに、どうして……」

 青年と少女の顔が揃ってぐっと険しいものになった。

「この国に来る前、きみになにが起こったのか教えてくれないかな」

 隠す理由もないので、私は全てを正直に語った。
 長い間誰とも会話らしい会話をしていなかったので、しどろもどろで聞きにくい話になってしまったと思うが、兄妹はじっと耳を傾けてくれた。

 私が十歳の時に、竜神様から聖女に選ばれ、同時に王子様の婚約者になった。
 ただし、私の能力は少し雨を降らせて雷を鳴らすことだけで、役立たずだと見放され、八年間ずっと神殿の掃除と洗濯をさせられていた。
 ここに来る前は、聖女を騙ったとして王子様に婚約破棄を言い渡され、その罰として竜神様が棲むという火山の火口に投げ込まれたのだ。

「それはつまり、竜神様の生贄にされた、ということなのか?」
「いいえ、生贄など聞いたこともありません。ただ単に、私を処刑したかったのだと思います……」
「なんと……惨いことをするものだ」

 険しい顔のまま呟く青年の後ろで、少女は同意するように大きく頷いた。

「それで、きみは雨を降らせることができるの?」
「少なくとも、八年前はできました。でも、もうずっと祈っていないので、今はどうなっているか……」

 見放されてからは、一度も祈っていない。
 だから、今も同じことができるかどうかはわからない。
 それに、ここはどうやらベルトラム王国ではなさそうだ。
 私はベルトラム王国を守護する竜神様に選ばれた聖女なのだ。
 ここで私が祈っても、竜神様に与えられた能力は使えないかもしれない。

「さっきも言ったけど、俺たちは雨乞いの祈祷をしていた。つまり、雨が降らなくて困っているんだ。もしきみが雨を降らせることができるなら、こんなに有難いことはない。一か八かでもいいから、是非とも試してみてくれないか」
「試してみるだけなら、構いませんが……祭壇はありますか?」
「祭壇?」
「お祈りをするのは、神殿の中にある竜神様を祀った祭壇の前でした。そのような場所は、ここにもありますか?」

 青年が首を捻ると、今度は少女が口を開いた。

「兄上様、それなら御神木のところが一番それに近いと思うわ」
「しかし……御神木は倒れてしまったんだぞ」
「竜神様の泉はそのままよ。あそこ以上に竜神様に近い場所はないわ」

 私はパチパチと瞳を瞬いた。

「この国にも、竜神様が?」
「ええ、そうよ。泉に棲む竜神様が、この肥賀の国の守護神なの」

 ベルトラム王国の竜神様は、火山に棲むとされていた。
 同じ竜神様でも、随分と違うようだ。
 その時、私のお腹がぐぅぅ~と情けない音を出した。

「ああ、腹が減ったんだな。果菜芽、なにか食事を頼む」
「はぁい!」

 赤くなって俯いた私だったが、青年は拘りなく少女に声をかけ、少女はさっさと部屋を出て行った。
 青年と二人で取り残され、私はどうしてらいいのかわからず視線をさまよわせた。
 神殿に入って以来、修道女しかいないところで暮らしていたので、こんなにも近くで若い異性と接したことがないのだ。

「明日、きみを御神木のところに連れて行ってもいいかな」
「はい……ですが……」
「もし雨が降らなくても、きみを責めたりしないよ。ただ、お祈りをしてみてくれたらそれでいい。それ以上のことは望まないから、心配しないで」
「わ、わかりました」

 それならば、と私は頷いた。 
 青年も満足そうに頷くと、なぜか顔を近づけて私の顔を覗きこんだ。
 
「きみの瞳は、緑色なんだね。きれいな色だ」
「そ、そうですか……?」

 きれいだなんて初めて言われて、どぎまぎしてしまった。
 
「ここでは皆、髪も瞳も黒か茶色なんだ。俺と果菜芽みたいにね」

 それなら、私はこの国ではとても目立つのではないだろうか。
 ベルトラム王国では、ごくありふれた色だったのに。

「今のきみは、国主である俺の客人ということになっている。城の中には、俺と果菜芽と、信頼できる家臣しかいない。今夜は安心してゆっくり休んでくれ」
「はい……ありがとうございます」

 と、そこへ盆を持った少女が戻ってきて、青年は後は任せると言って去っていった。

「これは、お粥というのよ。あなたのお口に合うといいんだけど」

 少女は鍋からティーカップくらいの大きさの器にドロリとしたスープのようなものをよそって、匙と一緒に私に手渡してくれた。
 一口含んでみると、優しい塩味がした。
 どうやら、穀物と香りのいい香草を柔らかく炊いたもののようだ。 
 シンプルな味付けながら、丁寧につくられているのがわかる。
 私が神殿で食べていた、ほとんど具のない冷めたスープと硬いパンとは、比べ物にならないくらい美味しい。

「美味しい?」

 問われて素直に頷くと、少女は嬉しそうに笑った。
 食事の後は、今度は盥に入れた湯を持ってきてくれて、それで身を清めることができた。
 お湯を使うのは、どれくらいぶりだろうか。
 そんな贅沢は、最底辺の修道女扱いだった私には許されていなかった。
 何気なくそう言うと、少女は複雑な顔をした。

「これからは、毎日だって湯を使うことができるわ。だって、あなたは私の命の恩人なのだから」
「命の恩人……ですか?」

 心当たりがなくて首を傾げると、少女は兄がしたように私の顔を覗き込んだ。

「私のことは、果菜芽って呼んでね。敬語もいらないわ。私、あなたとお友達になりたいの。いいかしら?」 
「はい……カナメ」
「明日になったら、私のお友達もたくさん紹介してあげる。きっと仲良くなれるわ。楽しみね!」

 屈託なく笑うカナメにつられて私も笑顔になった。
 私に友達ができるのは、初めてのことだった。
 叔父夫婦のところにいた時も、神殿で暮らすようになってからも、皆が私に冷淡だった。
 こんなに優しくされるのは、ほとんど記憶にない両親が生きていた頃以来のことだ。 
 肌も髪もきれいになり、お腹もいっぱいで、私はなんだかふわふわした気分で眠りについた。