桜舞帝国には、妖魔が存在する。
妖魔は人々を襲い、恐怖へ陥れる忌避すべき存在だ。
そんな妖魔を退治するのが異能者達。
皇族、華族、士族の者達は異能を持っているのだ。
攻撃系異能を持つ者は妖魔討伐の最前線へ向かう。精神系異能を持つ者も妖魔討伐最前線で、妖魔に幻覚を見せて弱らせる役割を果たす。防御系異能を持つ者は結界を張って妖魔の攻撃から異能を持たない国民を守る。
異能を持つ者達はこうして桜舞帝国を守っているのだ。
そして、攻撃系、精神系、防御系にも当てはまらない特殊な異能を持つ者もいる。
補助異能。
それは異能者の能力を上げる異能である。
補助異能を持つ本人は何か出来るわけではない。しかし、その異能の力を他の異能を持つ者に注ぎ込むことで、他の異能を持つ者の力は格段に上がるのだ。
例えば、攻撃系異能を持つ者に補助異能を持つ者が力を注げば、攻撃系異能が強化される上、防御異能まで使えるようになったりするのだ。
補助異能を持つ者は最前線に向かうことはないが、妖魔討伐において縁の下の力持ちであった。
伯爵位を持つ薬研家は、補助異能を持つ者を多く輩出する家系の一つである。
美琴はそんな薬研家の末の娘として生まれたのだが、補助異能を全く使えない。異能者に補助異能を注ごうとしても、力が流れないのである。要するに、異能を持っていないのだ。
(まあ、得意不得意は人それぞれよね)
しかし、美琴は補助異能を使えないことを全く気にしていなかった。
薬研家自体、比較的おっとりと穏やかな家系なので、生まれた子が補助異能を使えなくても冷遇することはなかった。
他の家ならば異能を持たないことは恥とされ、冷遇されたり中には虐待を受けたりしたかもしれない。
異能を持たない美琴は薬研家に生まれることが出来て幸運だったと言える。
◇
長い髪を牡丹色のリボンで後ろに束ねて立ち上がる美琴。
ふわふわとうねった色素の薄い茶色の髪、榛色の目。
黒目黒髪の者が多い桜舞帝国では珍しいが、地域によっては美琴のように色素の薄い髪や目の者はいる。薬研家先代当主、美琴の祖父がそうだった。
はっきりとした顔立ちで、和装よりも洋装が似合う十八歳の少女。
今美琴が着ている服装も、若緑色のワンピースである。
美琴はその上からレースのエプロンを着け、鼻歌混じりに厨房へ向かう。
「おや、美琴お嬢様、今日は何をお作りになるのです?」
「マドレーヌよ」
厨房にいた女中からそう声をかけられた美琴は花が咲いたような笑みで答える。
「マドレーヌ……西洋のお菓子でございますね?」
「ええ、そうよ。洋菓子の作り方が載った本を読んでみたら、意外と簡単に作れそうだったの」
「美琴お嬢様は、はいからなものがお好きですね」
洋装や洋菓子など、西洋のものを好む美琴は巷で『はいから令嬢』と呼ばれている。
「ええ。桜舞帝国にはない新しい素敵なものがどんどん外国から来ているのだもの。素敵なものは取り入れないと」
美琴は口角を上げ、榛色の目を輝かせた。
バター、蜂蜜、卵、砂糖、小麦粉、発泡粉(ベーキングパウダーのこと)。美琴はこれらの材料を鼻歌混じりに手際良く混ぜる。
美琴は洋菓子作りが趣味なのだ。
生地が出来たら西洋から輸入した型に絞り入れ、窯で焼く。
焼き上がるまで少し時間がある。美琴は薬研伯爵邸の自室に戻り、焼き上がるまで本を読むことにした。
「昭夫様、どうかなさいました?」
「ああ、静子。美琴のことでな」
自室へ戻る途中、両親の話し声が聞こえたので美琴は立ち止まる。
(お父様とお母様……私がなんですって?)
「美琴も十八歳だ。そろそろ嫁入り先を見つけてやらねばならぬのだが……」
美琴の父、昭夫はそこで口ごもる。
「確かに。でも美琴は異能を持っていませんから、他の華族や士族の家に嫁がせた場合……」
美琴の母、静子も口ごもった。
「ああ……。異能を持たない者を蔑む家もあるから、美琴が酷い扱いを受けないかが心配だ……」
「いっそのこと、華族ではなく異能を持たない裕福な平民の元へ嫁がせた方がよろしいのでは?」
「うむ。それも良いかもしれん。貿易業を営む者など、色々と当たってみよう」
昭夫はそう結論付けた。
(私の嫁入り……ね。結婚するだなんて、全然予想が出来ないわ。ずっと薬研家にいてはいけないのかしら? 新しくて素敵なものに興味はあるけれど、私を取り巻く環境が大きく変わることは嫌だわ)
美琴は自分のことであるのに、どこか呑気だった。
薬研家での心地良い生活を続けたいと思うのであった。
丁度マドレーヌが焼ける時間になったので、美琴は厨房へ向かった。
窯から取り出したマドレーヌは程良い焼き色が付いている。
バターの香りが鼻奥を掠めた。
美琴は上機嫌に鼻歌を歌いながら焼きたてマドレーヌの味見をする。
蜂蜜のまろやかな甘さとバターのコクが口の中に広がった。
「我ながら上出来ね。丁度おやつの時間だから、お父様とお母様、お兄様達にも食べてもらいましょう」
満足そうに口角を上げる美琴。
マドレーヌを皿に移し、家族の元へ運ぶ。
その途中、庭を通っていた時のこと。
庭の外からドサリと何かが倒れる音がした。
(……なんの音かしら?)
気になった美琴は近くの裏口を開けて外に出る。
するとそこには男性が壁にもたれかかるように倒れていた。
少し乱れた鉄黒の髪。身なりは良いが、服装も少し汚れている。
「あの……大丈夫ですか?」
美琴は恐る恐るしゃがみ、男性の顔を覗き込む。
すると男性は美琴に目を向ける。
吸い込まれそうな漆黒の目。思わず見惚れてしまう程の顔立ちだった。
その時、ぐうっと男性のお腹が鳴った。
「……あの、これ、よろしければ召し上がりますか? マドレーヌという洋菓子ですが」
美琴は恐る恐る男性にマドレーヌを差し出した。
男性はゆっくりと手を伸ばし、皿からマドレーヌを一つ取り、食べる。
すると男性は目を見開いた。
「これ、全て食べても良いか?」
「えっと……はい、どうぞ」
戸惑いつつも頷く美琴。
マドレーヌくらいならまた作れるので、全て男性に譲ることにした。
男性は勢い良くマドレーヌを口にする。
見事な食べっぷりだが、どことなく所作に品があった。
「助かった。君、名を何と言う?」
男性は真っ直ぐ美琴を見ていた。
「えっと、薬研美琴と申します」
美琴は戸惑いながら答える。
「薬研……美琴さん……か……。ありがとう。いずれまた会おう」
男性はそう言い、生き返ったように美琴の元から立ち去った。
「……一体何だったのかしら?」
美琴は男性の後ろ姿を見て不思議そうに呟くのであった。
◇
数日後。
薬研家に激震が走る。
薬研家の屋敷は騒がしくなった。
(……部屋の外が随分と賑やかだけれど、何が起こったのかしら?)
美琴は自室で呑気に本を読んでいた。
すると、ドタバタと足音が聞こえたかと思った瞬間、部屋の襖が勢い良く開いた。
「美琴、大変だ!」
「お父様? そんなに慌てて何があったのです? 部屋の外も何だか賑やかですし」
美琴はきょとんと首を傾げる。
「服装はそのままで良い。今すぐ来なさい」
「え? お父様、どういうことです?」
美琴は怪訝そうな表情になるが、血相を変えた昭夫は答えてくれず、そのまま連れて行かれるのであった。
わけが分からぬまま薬研家の屋敷の客間に連れて来られた美琴。
「初めまして。いや、二度目だね。薬研美琴さん」
何と、客間には数日前に美琴のマドレーヌを全部食べた男性がいた。
少し乱れていた鉄黒の髪は、今は艶やかで整えられている。そして吸い込まれるような漆黒の目に、ハッとする程見惚れてしまう顔立ちである。
「美琴、このお方は赤院宮伊吹様だ」
「赤院宮って……皇族の……!?」
昭夫から紹介され、美琴は驚愕の表情を浮かべた。
桜舞帝国の皇族は頂点に立つ桜華院宮家と、六つの宮家から成る。基本的に帝になる者は桜華院宮家の者だが、桜華院宮家に男児が生まれなかった場合は他の六つの宮家から男児を養子入りさせて帝の位を継がせるのだ。
伊吹の赤院宮家はその中の一つであり、六つの宮家の中の序列は三番目。赤院宮家は攻撃系の異能を持つ者を多く輩出している。
ちなみに、現在桜華院宮家に男児が三人いる。よって現在十九歳の伊吹や他の宮家の男性達に帝位継承権が巡ってくる可能性は極めて低い状況だ。
「薬研美琴さん、改めて先日のお礼と、今後のお願いがあってここに来た」
伊吹は高級感のある小箱を美琴に渡す。
「あの……これは何でしょうか……?」
美琴は恐る恐る小箱を受け取り、首を傾げた。
「先日のマドレーヌのお礼だ。あの時は本当に助かった。ありがとう。是非開けてみてくれ」
皇族らしい、品のある笑みの伊吹。
美琴は言われるがまま、小箱を開ける。
するとそこには美しい桃花色のリボンの髪飾りが入っていた。
「ありがとうございます。ですが、このような高級なもの、いただけません」
美琴は畏れ多いと言うかのようだ。
「いや、美琴さんに受け取ってもらわなば困る。それに、君にはこれから頼みたいこともあるんだ」
「頼みたいこと……? 何でしょう?」
「私が妖魔討伐に行く時には、君の補助異能が込められたお菓子を作って欲しいんだ。私は通常やり方では補助異能を弾き返してしまう体質で困っていたんだ」
「え……?」
補助異能を持っていないとされる美琴は、伊吹が何を言っているのか理解出来なかった。
「あの、伊吹様」
美琴は恐る恐る口を開く。
「私は補助異能が使えないのですが……」
美琴は異能者に補助異能を注ぎ込むことが出来ないのである。
「きっと美琴さんは通常のやり方では補助異能を注げないのだろう。私が補助異能を弾き返してしまうように」
伊吹はフッと笑う。
通常、補助異能を持つ者は他の攻撃系、精神系、防御系の異能を持つ者の体に触れて自分の補助異能の力を注ぎ込む。
しかし、伊吹は注ぎ込まれる補助異能を弾き返してしまう体質なのだ。
よって自身の攻撃系異能の強化や防御異能を使うことは出来ないのである。
しかしそれでも伊吹の異能は強力なので、一人で妖魔討伐をしているらしい。
「私は補助異能を弾き返してしまう体質だが、この前美琴さんが作ったマドレーヌを食べたら体に変化が起こったんだ。攻撃系異能は強化されて、防御異能まで使えるようになっていた。美琴さんは通常のやり方ではなく、作った食べ物に補助異能を込められるのではないかと思うんだ。調べたところ、補助異能の経口吸収もあるらしい」
「はあ……」
美琴は恐る恐る頷いた。
自分が補助異能を使えていたという感覚がなく、実感が湧かないのだ。
「あのマドレーヌは単なる偶然かもしれないが、私はそうではない可能性を信じたい。あのマドレーヌから補助異能を摂取したことで、あの後別の討伐部隊と合流して戦うことが出来たんだ。いつも以上の力も発揮出来た」
伊吹は満足そうな表情だった。
こうして、美琴は伊吹が妖魔討伐に向かう前に、彼へお菓子を作ることになった。
◇
伊吹が妖魔討伐に向かう日はまたすぐにやって来た。
最近妖魔の数が増えているらしい。
美琴は伊吹が来る日を知らされてから、洋菓子の作り方が載っている本に目を通した。
(これなら厨房にある材料で作れそうね)
作る洋菓子の目星を付け、伊吹が妖魔討伐に向かう当日に備えた。
そして伊吹が妖魔討伐前、薬研家に訪れる日がやって来る。
美琴は厨房で洋菓子作りに励んでいた。
(……ただお菓子を作っているだけなのだけど……本当に私は補助異能を込めることが出来ているのかしら?)
美琴は半信半疑になりながら小麦粉、卵、バターを混ぜている。その手際は非常に良かった。
◇
「これは……シュークリームだな? 上出来ではないか」
薬研家にやって来た伊吹は、美琴が作った洋菓子を見て口角を上げる。
「伊吹様にそう仰っていただけて、光栄でございます。シュークリームは何度か作ったことがありましたので」
伊吹に褒められ、美琴はほんのり心臓が跳ねた。
「それでは早速いただくとしよう」
伊吹は皿の上のシュークリームに手を伸ばし、一口食べる。
「……美味いな。それに、やっぱり補助異能を吸収している」
伊吹の表情は力強かった。
「補助異能をシュークリームに込めた実感はないのですが……お力になることが出来て光栄です」
美琴は安心したように微笑んだ。
「ありがとう、美琴さん。君のお陰で戦える」
伊吹はフッと笑った。
美琴はその表情にドキリとした。
「……ご武運をお祈りしております」
美琴はそう言うのが精一杯だった。
◇
伊吹が美琴の手作り洋菓子を食べに来る頻度は増えていた。
それだけ妖魔が活発になっているということだ。
この日美琴が作ったのはバターケーキである。
洋菓子は高級品なのだが、伯爵位を持つ薬研家はそれなりに裕福なので作ったり手を出すことが出来るのだ。
「おお、外はサクサクしていて、中はしっとりしているんだな。バターの風味が濃厚だ。いつもありがとう」
伊吹は美琴が作ったバターケーキに舌鼓を打っている。
「こちらこそですわ」
美琴は嬉しそうに微笑んだ。
最初は宮家の人間である伊吹に緊張していた美琴だが、今ではすっかり打ち解けていた。
「美琴さんは活動写真(現代でいう映画のこと)を見ることはあるのか?」
「はい。活動写真は時々見に行きますわ。最近では外国の活動写真も見ることが出来るそうですの」
「そうみたいだな。紫院宮家の従兄も外国の活動写真を見たことがあるそうだ」
紫院宮家とは、六つある宮家の中でも一番序列が上である。
「外国の素敵なものが入って来て、とても胸が躍りますわ。もちろん、桜舞帝国特有のものも素敵なものはたくさんございます」
美琴は楽しそうにで、生き生きとした表情である。
その表情を見た伊吹は口角を上げた。
穏やかな表情で、今から妖魔討伐に行くとは思えない程である。
美琴も伊吹も、この時間がかけがえのないものになっていた。
ある日、伊吹は重々しい表情で薬研家へやって来た。
「伊吹様、どうかなさいましたか?」
美琴は心配そうな表情で、作った林檎とクリームのパイを出す。
「今までよりもずっと強力な妖魔が出現したと情報が入ったんだ。今からの討伐は、数日かかる可能性がある」
「まあ……」
美琴は肩をピクリと震わせた。
すると、美琴を安心させるかのように伊吹はフッと笑う。
「でも、いつも通り私が妖魔を倒すさ」
伊吹はパイを一口食べる。
「やっぱり美琴さんの作るお菓子は美味しいし、力が湧く。君のお陰で私は強くなれるんだ」
「それは……身に余る光栄ですわ」
美琴は林檎のように頬を赤く染めた。
「伊吹様、ご武運をお祈りしております」
「ありがとう、美琴さん」
伊吹は頼もしげに微笑んだ。
◇
伊吹が言った通り、妖魔討伐は数日に渡っていた。
美琴は妖魔討伐隊の状況を毎日新聞で確認している。
(伊吹様、無事でありますように……)
今の美琴には、祈ることしか出来ず歯痒かった。
そんなある日のこと。
昼食の時間になり、美琴は母や兄達と一緒に父を待っていた。
すると、美琴の父、昭夫は重々しい表情で部屋に入って来た。
昭夫は手紙のようなものを持っている。
「昭夫様、何かあったのです?」
母、静子は明夫の様子をいち早く察知して、心配そうな表情になる。
「妖魔討伐隊の大半が妖魔の攻撃により死亡したそうだ……」
重々しい声の昭夫。
美琴はひゅっと息を飲んだ。
「伊吹様は……伊吹様は……大丈夫なのでしょうか……?」
美琴の声が震える。
もし伊吹が亡くなっていたらと思うと、心臓が冷える。
「落ち着きなさい、美琴。死亡者名簿に伊吹様の名前はなかった」
昭夫は美琴に持っていた手紙のようなものを渡す。
それは妖魔討伐の状況と、死亡者名簿だった。
確かにそこには赤院宮伊吹の名前はなかった。
美琴はほんの少しだけ肩を撫で下ろす。
(伊吹様はまだ戦っていらっしゃるのね……)
そして美琴はいても立ってもいられなくなる。
(私も、伊吹様の力になりたい……!)
美琴は勢い良く立ち上がり、部屋を出て行く。
静子が「美琴、待ちなさい!」と言ったが、美琴は立ち止まらず厨房へ向かった。
新しいものが好きでも、今まではこの心地良い環境から抜け出そうとしなかった美琴。
しかし伊吹に出会い、趣味の洋菓子作りで活躍出来ることを知った。
美琴は伊吹の為に今出来ることをしないと絶対に後悔すると思い、厨房で補助異能を込めたお菓子を作り始めるのであった。
使う材料は、卵、砂糖、バター、蜂蜜、小麦粉、発泡粉。
マドレーヌの材料だ。
(どうか伊吹様のお力になれますように)
美琴はそう願いを込めて、手際良く材料を混ぜていた。
マドレーヌが窯で焼き上がると、美琴はすぐに取り出した。
出来上がったマドレーヌを箱に入れ、着替えて屋敷を飛び出す美琴。
その際、伊吹からもらった桃花色のリボンで髪を結う。
(伊吹様……)
伊吹を想い、美琴はリボンに触れた。
美琴は必死に走り、伊吹がいる妖魔討伐隊の元へ向かった。
場所は事前に伊吹から聞いていたので、どこへ行けばいいかは分かる。
(伊吹様、どうかご無事で……!)
◇
一方、伊吹は妖魔の攻撃を何とかかわし、戦っていた。
人よりも遥かに大きな蜘蛛の妖魔である。
妖魔は糸を吐き、討伐隊を攻撃する。
伊吹は異能により炎を繰り出して妖魔の糸を切った。
(……美琴さんの補助異能が切れるまで恐らくもう時間がない。早く倒さねばならない……!)
伊吹の中に焦りが生まれていた。
その時、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「伊吹様!」
その声を聞いた伊吹は驚愕したような表情になる。
「美琴さん……!?」
伊吹は妖魔の攻撃を避け、一旦その場を仲間に任せた。
「美琴さん、どうしてここに!?」
「伊吹様のお力になりたくて……!」
息を切らしている美琴。
伊吹に箱を渡す。
「これは?」
「マドレーヌです。私の補助異能を込めた」
まだ美琴は息を切らしていた。
「美琴さん……!」
伊吹は頼もしい表情になる。
「ありがとう。美琴さんからもらった補助異能がもうすぐ切れそうだったんだ」
伊吹は勢い良く美琴が作ったマドレーヌを完食した。
「やはり君の作るお菓子は美味しいし、力が湧く。美琴さん、向こうの拠点はまだ安全だから、そこに避難していなさい。すぐに妖魔討伐を終わらせる」
伊吹はフッと笑い、妖魔討伐最前線へ向かった。
その後は伊吹が異能で妖魔を蹴散らした。劣勢だったのが嘘のようである。あっという間に討伐が終わるのであった。
数日後。
美琴は今回の妖魔討伐において重要な役割を果たしたということで、帝から直々に褒美を賜ることになった。
帝とは初めて会うので、美琴は緊張していた。
しかし、伊吹がくれた桃花色のリボン、そしてお気に入りの紅色のワンピースが美琴に力を与えてくれているようであった。
帝への挨拶を無事に終えた美琴。帝から褒美として仰々しい勲章を賜った。
父、昭夫からは「帝からの褒美は滅多にもらえるものではないから大切にしなさいと」何度も言われた。
その後、美琴は伊吹と会う約束をしていたのでその場所へ向かう。
「美琴さん」
美琴の姿を見た伊吹は穏やかに微笑んでいた。
美琴は駆け足で伊吹の元へ向かう。
「伊吹様、お待たせして申し訳ございません」
「いや、待ってないさ。改めて、美琴さん、今回は君のお陰で妖魔討伐が成功した。本当にありがとう」
伊吹は真っ直ぐ美琴を見ていた。
「いえ、私は……ただ、その時私に出来ることをしたまでです」
美琴はほんのり頬を赤く染める。
「それに、私の方こそお礼を申し上げたいです。伊吹様のお陰で、私は変われました。今まで、新しいものが好きとはいえ、心地良い場所から動こうとしませんでした。でも、伊吹様に補助異能を込めた洋菓子を作ることで、私も誰かの力になることが出来ると知って……嬉しかったです。本当に、ありがとうございました」
美琴は伊吹に頭を下げた。
「それならば……」
伊吹はそこで言葉を止めた。
不思議に思った美琴は恐る恐る頭を上げる。
「美琴さん、この先も僕の力になって欲しい。この先も、ずっと、美琴さんが作るお菓子を食べたいんだ」
伊吹の漆黒の目は、真っ直ぐ美琴に向けられている。
思わず吸い込まれそうになる目だ。
「つまり、美琴さんには僕の妻になって欲しいんだ」
その言葉を聞いた美琴は、頭が真っ白になる。
(伊吹様は今何と……? 私が……伊吹様の妻……!?)
絶句する美琴。
「美琴さん? もしかして、嫌だったかな?」
やや不安そうな表情の伊吹。
「いえ、そうではなく、私がその、赤院宮家に嫁ぐということですよね……!?」
美琴はようやく声を絞り出すことが出来た。
「そうだ」
伊吹は首を縦に振る。
「それは……もったいない程光栄なことですが……宮家に嫁ぐ方は、大体公爵家か侯爵家のご令嬢のはずです。薬研家は伯爵家ですし、宮家に嫁ぐには家格が……」
「問題ない。過去に数件、伯爵家の令嬢が宮家に嫁いだことはある。それに、美琴さんは補助異能を持っている。だから赤院宮家に嫁ぐ資格はあるさ」
伊吹は美琴が不安に思っていることをあっさり取り除いた。
「私としては、生涯を共にする相手は美琴さんが良いと思っている。美琴さんはどうだろうか? 君の気持ちを聞かせて欲しい。もし君が望まないのなら、私は諦めるしかないが」
フッと笑う伊吹。
美琴の答えは決まっていた。
「私も、将来を共にするお方は、許されるのならば伊吹様が良いです」
美琴は頬を赤く染め、榛色の目を真っ直ぐ伊吹に向ける。
「美琴さん、ありがとう」
伊吹は嬉しそうに美琴の手を握った。
「不束者ですが、よろしくお願いします」
美琴は柔らかな表情だった。
その後、美琴と伊吹の婚約が整えられ、翌年の春に二人は結婚した。
美琴は作る洋菓子に補助異能を込め、伊吹がそれを食べる。
伊吹にとって美琴が作る洋菓子は極上の甘味であった。
そして今日も、これからも、美琴は伊吹の為に洋菓子を作り、伊吹は美琴が作った洋菓子で強くなるのであった。