廊下に放り出されたエドワードは目を丸くしていた。
今まで研究所にいた女性陣はエドワードにそう言って咎めることはなかった。もちろん弟子兼世話係という役柄というのもあるだろうが、研究所の人たちは、そしてエドワードも、アルカのことを人間ではない何か、として考えている節があったのではないだろうか。アルカを淑女、とオリビアが言ったことに、エドワードは驚いていた。
呆然と廊下に立ち尽くす中、エドワードを現実に引き戻したのは階段の方から響く足音だった。
「おや、お客様ですかな」
小太り、五十代ほどの男性。艶やかな革靴と糊の張った黒のモーニングコート、それからシルクハットは裕福の象徴だ。少し時代遅れに見えるが、伝統を重んじる家ではまだこういうところもある。一つ覚えた違和感は、彼のウェストコートがずいぶん窮屈そうに見えるということだ。没落のストレスによる肥満か、体に合わない過去の特注をまだ着ているのか。
ウーゴ・セルバンテス。数年前に没落した元資産家。爵位は与えられていない。今は何をやっているのだろう。
「どうもこんにちは。ウーヌスからやってまいりました、エドワード・ガヴェンディッシュです」
エドワードはオリビアにしたのと同じように、胸に帽子を当てて軽く礼をした。
「丁寧なご挨拶感謝しますよ、ガヴェンディッシュ殿。この部屋の前にいるということは、オリビアに用ですかな」
「はい。ですが、彼女は今支度中で、着替えのための一度私は部屋を──」
エドワードは思わず言葉を切って男性の腕に手を伸ばした。エドワードの指先はモーニングコートを掠めた。間に合わなかった。ウーゴは躊躇いなく、オリビアの部屋の扉を開いたのだ。今しがた着替えのためにと言ったばかりなのに。
「オリビア、このガキは誰だ」
「叔父様、この方はそのような呼び方をして許されるようなお人では」
幸いにもアルカは着替えを終えていた。
しかし口喧嘩が始まってしまう。
エドワードは再びウーゴを部屋から追い出そうと試みたが、手を伸ばす前にウーゴはかつかつ、とかかとを鳴らした。苛立ちを知らしめるかのようだった。
エドワードはオリビアと目が合った。オリビアは怯えた目をしたまま首を横に振った。助けて、と言わんばかりなのに、オリビアはエドワードを躊躇わせる。
「すみません。私の連れです」
「どういった関係──ああ、見かけによらない趣味ですな」
下卑た笑みを浮かべるウーゴを睨む。
「あの──」
「おい、エドワード」
アルカの呼びかけにエドワードは我に返った。唯一いつもの冷静さを携えて、彼女はエドワードを見上げていた。
「早く行こう。都会育ちには自然の神秘が待ちきれないんだ」
「わたくしも案内出来て光栄ですわ……」
エドワードは反射的にウーゴの顔色を窺った。下品な笑みでアルカを見下ろして、彼には没落がお似合いだとさえ思う。
オリビアがこの男の言われるがままにさせられているのは、彼と少しやりとりを交わしただけでよくわかった。
「二人とも、ほら行こう。経営者殿もお邪魔したな」
アルカがオリビアの手を引いて部屋を出ようとする。
そのとき、ガンガン、と金属の扉を強く叩く音が工場内に響いた。その場の全員が騒音に注目する。二階にまで聞こえてくるほどの力で他人の家──ここは工場だが──を叩くとはかなりの乱暴者か。
ウーゴは態度を一変して、焦った表情で階段を駆け下りてゆく。
「なんだ、次から次へと騒々しいな」
「アルカさま、行かれないんですか?」
オリビアは今のうちに、と言いたげにアルカに話しかける。
「そう急かすな、成金野郎の弱みを握れるかもしれない。こんな好機をみすみす逃すなんてもったいないだろう」
アルカはオリビアにしゃがむように言って、二階から工場の扉の方を盗み見た。
やって来たのは三十代ほどのスーツの男性。身なりや身のこなしから、都会で大成している貴族らしい。ウーゴの取っ手付けたようなものではなく、もっと正統な格式を感じる。髪もアンダーカットをビーズワックスで固めていて、かっちりとした印象だ。男性は手に持っている杖で地面をトントン、とつついた。
「ウーゴ・セルバンテス。土地の権利書はまだですか?」
エドワードは目を凝らして、あれがただの杖ではないことに気が付いた。仕込み杖だ。装飾が少なく、柄がまっすぐなのは仕込み杖の特徴だった。
仕込みとはいえ剣を佩くのはあまりに物騒だ。やけに仕草が礼儀正しいのは闇社会を牛耳る人間だからか、印象操作というやつか。
男性はウーゴに向けて静かに催促の手を突き出すと、ウーゴはハンカチでふき出した汗を拭った。乱暴者かはさておいて、彼は苛立っているようだった。
「もう、一か月待っているんです。見栄を張るのはいいですが、契約を破られるのは困ります。この調子だとここの娘を渡してもらうことになりますよ」
冷淡な口調で淡々と述べる。
オリビアは小さく声を上げて、身を隠した。アルカは眉をひそめながら欄干からぐっと身を乗り出す。
「はあ、人身売買か。奴隷は野蛮人のやることだ。昔からボクは言っているが、『奴隷制は食物連鎖になり得るからやめておけ』」
アルカはいつの話か、過去の自身の発言を思い出しながら愚痴を吐いた。
「しかし……ウーゴ・セルバンテスは土地を売るつもりだったようだな。身が苦しいのは本当だったわけだ」
オリビアは灰色の瞳を一層曇らせる。両親の残した工場は叔父の手によって勝手に取り引きに出されていた。
男性はしばらく静かな言葉でウーゴを責め立てると呆れたようなため息を残し、また来ると言って工場を去っていった。
ウーゴは苛立った様子で、階段の段差を音を立てて上がってくる。アルカは、まずいな、と口に出して立ち上がった。しかし、ウーゴはすぐ目についたオリビアの腕を引っ掴んだ。オリビアは引っ張られた力で無理やり立たされて、小さく抵抗の声を上げる。ウーゴはオリビアに苛立ちをぶつける気だ。
エドワードはさすがにウーゴの手首を抑えた。
「何をしますか、ガヴェンディッシュ殿」
「離してください。女性に乱暴など紳士として如何かと思いますよ」
「乱暴だなんて。これは躾ですよ」
ウーゴは取り立ての男性によって蓄積させたストレスをオリビアに浴びせている。
「オリビアは女だというのに大学に二年も通っていたんです。身の程知らずもいいところでしょう。今後世間に出ても恥ずかしくないように、私が躾してやっているんです」
妙に早口になるウーゴの背中をアルカが叩く。
「身の程知らずはお前の方だな」
ウーゴは思わずオリビアから手を離した。オリビアは急に放られて、どさりと床に倒れ込む。エドワードはオリビアに手を貸そうとすると、オリビアは咳き込みながらエドワードの手を押しのけた。
「何をおっしゃいますか。私はウーヌス有数の」
「没落家、だろう?」
アルカは目を細めて片側の口角を吊り上げる。他人を挑発する笑みは見た目にそぐわないせいか、独特の気迫を帯びていた。
「金なしのくせにオリビアを脅して工場の権利を奪い、あまつさえ売り飛ばして懐を暖める。ボクには彼女の方がよっぽど賢く見えるな」
アルカはウーゴのモーニングコートの襟を掴むと、そのまま顔の方へと引き寄せた。ウーゴは姿勢を崩して前のめりになる。
「この土地、ペルケトゥム研究所が買い取ろう」
オリビアは驚きで口をぽっかりと開けていた。エドワードもまた、突拍子もない提案に呆気にとられる。
「アルカ様? そんな高い買い物を即決で、さすがの所長もお怒りになります!」
「金回りの良さもペルケトゥムの長所だ。存分に使ってやろうじゃないか。所長も喜ぶさ、田舎に使い勝手のいい拠点があればなおさらな」
オリビアは眉間に皺を刻んだ。エドワードも彼女の心中を察してアルカの暴走を止めようと立ち上がるが、アルカはすでにウーゴに選択を突きつけていた。
「で、どうする。あの借金取りに追われて震える夜を過ごすか、うちに売り渡してオリビアから一切手を引くか」
これはオリビアにとっていい状況にも見える。しかし、アルカの言い分では工場がなくなるのは変わりないということだ。
「言い忘れていたな、オリビアはうちで預かろう。人質とは言わない、正当に雇用する」
エドワードは今まで、幾度となくアルカの唐突な提案に驚いてきた。ちょうど先ほども、それで驚いたばかりだが。
「オリビアさんを使用人として雇うということですか?」
「口を挟むな、エドワード」
アルカは策士な笑みから一変、無邪気な少女のように顔を綻ばせてオリビアに振り向く。
「オリビア、工場は窮屈だろう」
オリビアは縦か横か曖昧に首を振った。
「決まりだな」
アルカは満足げに頷くと、掴んでいたウーゴの襟を強く突き放した。
工場の裏はすぐ森だった。そこから緩やかな斜面が山を形作っている。アルカはモノトーンのストライプ柄ワンピースの七分袖を肘までたくし上げた。足元は編み上げで、底の分厚いジョッパーブーツに似たつくりのものだ。スカートも広がりの小さい作業用で、これなら山道でも比較的歩きやすいだろう。
けれど三人は今、森の手前のレストランの隅の席に腰を下ろしていた。ずっと暗いので時間感覚を失いつつあるが、すでに時刻は十三時を回っていた。昼食にはすこし遅いくらいだ。
注文を終えて一息ついたころ、オリビアは躊躇いながら口を開いた。
「その……工場の話ですが」
「悪いが、その話は後だ」
しかしアルカはオリビアの言葉を心なく打ち切ると、いつの間にか持ち出していたオリビアが製本した一冊を取り出した。
エドワードもまた、工場の話よりこちらに興味があった。身を乗り出して三人揃って本を覗き込む。
『冥府の女神と命の光』。
アルカが読み上げたその伝承はこうだ。
──数百年に一度、異様に作物が育たず、採れた作物もすぐに腐ってしまう夏が訪れる。冥府の女神が目を覚まし、地上にやって来たのだ。
冥府の女神は触れたものを腐らせる、といった命を刈り取る力を持つ。冥府の女神の訪れをも示す、山を覆いつくす青緑の光は神秘的とも言えるが、その異常な光の量は人々を畏怖させた。彼女は作物だけでは飽き足らず、人々の命の原動力でもある太陽の光もまた奪ってゆく。
また、冥府の女神は冬を司る女神でもあった。
彼女の到来は、長く厳しい冬の訪れ。
ソウウルプスの人々は彼女の冬を乗り越えることができなかった。ソウウルプスからは人が減り、自然と文明が崩壊しゆく。
やがて時は立ち、女神は再び眠りにつき、久々の春が巡って来た。
ソウウルプスには人が戻ったが、その女神に対する恐怖から彼女を崇めるようになったのだ──。
「この話を読む限り、今は冥府の女神が太陽の光を奪っている最中のように思えるな」
アルカはいつの間にか運ばれていたサンドイッチを片手にそう言った。
「……ええ。ですから、わたくしはこのあと訪れるかもしれない長い冬も危惧しておりますの」
オリビアが進まないフォーク片手に不安げな表情を俯ける。
おいしそうな食事を前に似つかわしくない表情だが、この伝承は今の状況にひどく類似している。オリビアが気に病むのも仕方ない。
「やはりこれを読んでもなお、光るキノコが気になるな」
「でも発光キノコはたいして珍しいものでもありませんよ? ベスさんも一時発光キノコについてよく調べていたじゃないですか」
エドワードがスパゲッティを口に運びながら、生物学を専攻している同僚の名前を出すと、アルカは首を横に振った。
「ボクが気にかけているのはキノコが光ることについてじゃない。光の量の変化だ」
アルカがサンドウィッチの最後の一切れを口の中に押し込むと、もぐもぐと嚙みこなす。
「まあ、実際目にしてみないことにはわからないな」
アルカはエドワードの服の裾を引っ張ると、エドワードはいつもの流れのごとく財布をアルカに手渡した。食事中の二人を傍に、アルカは伝票を覗き込みながら札を一枚ずつ数える。大雑把に掴んだチップを含む金額を伝票の上に重ねてから、捲り上げていた袖を降ろした。
裏の山に足を踏み込んですぐ、光が地面を照らしているのは確認できた。青緑色のぼんやりと浮かぶ光。光の発生源であるキノコは白く傘は手のひらサイズで、木の根元にびっしりと菌糸体を張っている。
「キノコにはあまり詳しくないんだが……初めて見る種だ」
アルカは木の根元にしゃがみ込み、ランプでキノコ群を照らした。それから灯りを頭上まで持ち上げて木肌に触れる。凹凸のある木肌はアルカの硬い義手とかち合って、相性が悪い。
「この木は?」
「さあ、わたくしはあまり植物に詳しくありませんので……」
アルカは高くまっすぐ伸びる木を見上げると、針葉樹だと呟いた。
「マツの類か。そう考えるとマツと共生する発光キノコの種が思い浮かばない」
鋭く長細い葉や、鱗片状の樹皮などはよく当てはまる。
「そうなんですの?」
「ああ。光るキノコは少ないんだ。発光キノコと言えばオウギタケの類かツキヨタケの類だろうが、その二つは腐生性と言って、こんなふうに生きている樹木に菌糸体を張ったりしない」
専門分野でないエドワードやオリビアにはよくわからない話だったが、つまるところこのキノコは新種かもしれないということだろう。
「このキノコは向こうの山にも生えているのか?」
「はい。ソウウルプスの山に生えるキノコはほぼすべてこれですわ」
「つまり、木もほとんどこれか」
「おそらく。ソウウルプスにある木製品の多くはこの木からできているはずですわ。ソウウルプスには、誕生日に両親が子供のために木から木材を切り出して椅子を作るという習わしもありますし」
ますますマツ科な気がしてきたな、とアルカは呟く。アルカは再びおもむろにしゃがみ込むと、エドワードを振り返った。
「エドワード、手袋と袋とナイフを」
アルカはランプを足元に置くと、袖を捲り上げて肘にある螺子を回して締めた。エドワードが言われた通りのものを差し出すと、アルカはナイフを逆手持ちにしてキノコの根元に突き刺す。
力技でキノコがいくつか採集されていく。手袋をはめた手でキノコを持ち上げて、アルカは傘の裏を覗いた。
「……よくわからないな。ベスに調べてもらおう」
袋に七割ほどキノコを詰め込まれた後、アルカは立ち上がって木肌にも手を添えた。そして鱗片状の凹凸に沿ってナイフを樹木に浅く突き刺して皮を剥ぐ。
「葉も欲しいが採集は困難だな。諦めよう」
葉の方ははしごをもってしても触れることすら厳しそうなほど高所にあった。
採集を終えるとアルカは手袋を脱いで袋の中にまとめて放り込んだ。それから念入りに袋の口は縛られて、エドワードに押し付けられる。袋の中の物体同士がぶつかって、袋が歪な形を作る。
「手紙はボクが書く。夕方に送れるように準備をしておいてくれ」
エドワードは袋を受け取ると、もういいのかと尋ねた。
「そうだな。山は楽しみだと言ったが、すこぶる疲れた上になにより寒い」
それにはエドワードのみならずオリビアも同感だった。オリビアは両腕を抱え込むようにして震えており、暗い中でも吐きだされる息が白いのが分かる。
「ここから近いので、よろしければうちにいらしてください。使用人などはいませんが屋敷自体は狭くありません。もちろん滞在費などはいただきませんわ」
アルカはランプを手にすると、エドワードと顔を見合わせる。
二人はオリビアの言葉に甘えることにした。
──ソウウルプスを囲む山があるだろう
挨拶もないそんな書き出しはアルカらしい。無駄を省いた文章は簡潔だが、エドワードはたびたびそれをむず痒く感じていた。
──そこに生えるキノコと、それと共生関係にあるマツらしい樹木について調べて欲しい。サンプルは同封している袋の中だ
エドワードは試料入りの袋を手にすると、その上から二重になるよう麻袋の中に入れる。運ぶ途中でサンプルを失ってしまってはいけないので、アルカのいびつな結び目を解いて固結びに直した。
──キノコは青緑色に発光する菌根菌だ。伝承によると、涼しく湿度の高い夏の後にキノコの光の量が多くなる。そしてその少し後に太陽が姿を消すらしい。詳しい気温や湿度の数値は分からないが、今年は凶作や作物の腐敗が酷いと言っていた。出来れば光の量の変動について詳しく調べてもらいたい
エドワードはトランクの中からブリキでできたつぎはぎの小鳥を取り出すと、小さなテーブルの上にちょこんと乗せる。小鳥は機械らしくしばらく黙っていたが、次第に足踏みを始めて硬い羽を広げた。
セルバンテス邸はエドワードが想像する以上に格式高い、それでいて手入れの行き届いた屋敷だった。急な訪問にもかかわらず、すぐに部屋が用意できるのはこまめに掃除をしているということだろう。
──マツらしい樹木の方は、樹高三十メートルほどの針葉樹林だった。鱗片状の樹皮が特徴だ
ブリキの小鳥をひっくり返し、足を引っ張ると袋の紐を縛り付ける。手のひらの上に乗せると、小鳥はじたばたともがいた後に体を上手に起こした。
──明日の朝、研究結果が届くようにしてほしい。まだ秋初めだというのに、ソウウルプスはすでに極寒だ。雪が降っていないのが唯一の幸運と言っていい。よろしく頼む、ベス。手が空いていればサミュエルもよろしく
生物学に特化した同僚二人の名前を連ねて手紙は締められている。アルカの手紙に一度目を通し終えると、エドワードは紙を細く巻いてひもで縛った。手紙の方は小鳥の首に括りつける。
上げ下げ窓を薄く開けると小鳥を窓枠に立たせた。
「よろしくお願いします」
小鳥はチチチ、と可愛らしい声で挨拶するとウーヌスの方へと飛び立つ。
エドワードは一息つくと、扉側のベッドでうつ伏せになって眠りこけるアルカに目をやった。
エドワードは天蓋付きのベッドと縁がなかったのでいささか心が落ち着かないが、アルカはそうでもないらしい。というより、アルカはどこでも眠れる性分だ。度々書庫のソファで眠っているのを見ると、学者らしいと思ってしまう。
エドワードはアルカの眠るベッドに腰かけると、そっとネグリジェの袖を捲った。片手に持った螺子締めで腕のつまみを緩めると、次は裾を持ち上げる。手間だが、この小さな作業が劣化を遅らせるらしい。使い慣れた身体から新しいものに変えるとなった時、慣れるまでに時間がかかるそうだ。
関節部分に布が引っかかって朝泣くことが無いように、エドワードはそっと脚を持ち上げた。
時計のベルが鼓膜を震わせる。エドワードはアルカを起こさないうちに時計へ手を伸ばした。外は依然として暗く、日の光で目覚めることが出来ないとはこれほどの苦痛なのだと思い知らされた。これでは街の活気もどんどん落ち込んでいくに決まっている。
慣れない屋敷でようやくリビングを見つけたエドワードは、重厚そうな戸を叩くことなく見上げた。このような作りは実家を思い出す。
エドワードには芸術の才能があったらしい。
少なくとも両親、親戚、そして彼らの仲間たちからエドワードは称賛を受けて育った。
けれどエドワードは絵も、楽器も、劇も好きになれなかった。けれど刷り込みとは恐ろしいもので、絵画をみてこれはいつの時代のどういう思想を受け継いでいるだとか、すぐにでも分かってしまう。
アルカの存在を知ったのはエドワードが十四の時だ。少女の見た目をした天才研究者の存在はかつてから聞いていたが、あるとき両親の知り合いがエドワードへ熱心に話してくれた。はじめは全く興味がなかったが『蓄音機』という聞きなれない単語がエドワードの心を動かせた。
板に針を当てるだけで音が流れてくる機械。その人はエドワードに、絵に描いて見せた。まるで花のように広がるホーンや黒の円盤に芸術性を感じながらも、その技術力はエドワードの幼心を引き込んだ。
そしてその人は素晴らしい話術を持っていたのだろうと思う。アルカをまるで英雄のように語ってみせた。蓄音機を完成させるまでに起きた事故で研究仲間を失い、本人も片目が弱視となったにもかかわらず、アルカはその後二年も諦めずに研究を続けた。蓄音機が事故を起きたきっかけとなる実験と全く違う方法で発明されたのは、亡くなった人間に対して悲しい話でもあるが、そのドラマもまたエドワードを惹きつけた。
芸術家としての道が決まりそうだった十六の冬、反抗期ながらにアルカに幻想を抱いて家を飛び出した日を思い出す。あれからもう五年、エドワードは歴史学の研究員としてアルカの隣に居させてもらっている。
「エドワードさま」
独白に浸っていたエドワードは、後ろから掛けられた声に振り返った。
昨日と違うデザインのドレスを身に纏ったオリビアが首を傾げて立っている。相変わらずモノトーン仕立てだが、昨日よりもボタンなどの装飾が少し豪華になっている。
彼女の手には、ティーセットの揃った銀のハンドルトレイが握られていた。
「すみません、開けてくださいませんか?」
「え?」
オリビアの視線の先は、エドワードが背にしているリビングへつながる扉だった。
オリビアは両手が塞がっていたのだ。エドワードは言われるまま戸を押し開く。
「ありがとうございます。……実はうっかり、扉を閉めたまま用意をしに行ってしまって」
トレイの上には三人分のティーカップ。一つだけ黒いラインが入っているのはオリビアが日常的に使用しているものだろう。
オリビアはティーポットを軽く揺すってから、ティーストレーナーを通してカップに液体を注いでいく。高い紅茶葉を使っているのだろう、紅い鮮やかな液体が白の中で揺れた。
「どうぞ」
「いただきます」
エドワードは差し出されたカップに口をつける。ローズの甘い香りと特徴的な苦みのある紅茶は甘すぎなくてちょうどいい。出がらしのような不快な渋みはないのが素晴らしい。
「アルカさまは」
「あの方はまだおやすみです。久々に動いて疲れたのでしょう」
「そうですのね」
オリビアが聞きたいのはアルカのことではないだろう、というのは分かっていた。目が泳いでいて、意識を逸らそうとティーカップのハンドルに触れたり撫でたりを繰り返している。
「『冥府の女神と命の光』」
「……そうですわ」
エドワードが話を切り出すと、オリビアは肩を揺らして顔を上げた。図星だった。
「伝承に解決方法はありませんでした。人々は大人しく太刀打ちできない長い冬から逃れることしかできないのかしら、そう思うと工場なんかどうでもいい気がしてきますの」
オリビアは暗い外と室内を分断する窓ガラスに映る、自分自身と目を合わせた。
「そして、そう思ってしまう自分が許せませんのね」
「……怖いですか?」
「自然に人類は打ち勝てませんもの。昨晩書棚を整理しているうちに、東の教会の地図を見つけましたが……気休め程度にしかなり得ませんわね」
オリビアはカップに口をつけると、喉を動かした。どうにか自分で感情の落としどころを見つけようとしている。
そんな暗い空気を少しでも断ち切るかのように、玄関の方からノッカーを叩く音が聞こえてきた。
「郵便でーす」
オリビアはカップをソーサーに戻して、驚いた表情で椅子から尻を浮かせるが、それよりも先に廊下を駆ける足音が響く。そしてリビングの空気にそぐわない底抜けに明るい声が二人の名前を呼んだ。
「研究所から返答が来たぞ!」
リビングの扉を叩く音にエドワードは思わず立ち上がり扉を開いた。アルカが唇に手紙をくわえて立っている。
「すみません、腕の螺子を緩めたままでした」
「それはあとだ!」
アルカは興奮した様子でソファに腰掛けると、手紙を取るようにオリビアへ顔を突き出した。オリビアは躊躇いつつも受け取りながら便箋の蝋を剥がす。
「ほら、読むぞ」
エドワードは忙しないアルカの身体を引っ張り、緩めたままの義手のつまみを螺子締めで締めていく。アルカは左手の作業が終えていないのも構わずに、トレイ上の誰も口をつけていないティーカップを取って、そのままポットから紅茶を注ぎだした。ティーストレーナーを通していないので、茶葉が底にたまっている。アルカは茶葉に気にも留めず唇を湿らせると、そこに広げた手紙を一行目に指を這わせた。
「敬愛なる──ああ、定型文は要らないな。ええと、
『キノコ──ソルマラキアと名付けた──の発光原因はホタルなどに見られるルシフェリン・ルシフェラーゼ系の発光反応だと思われる。ヒトヨダケのような一般的な発光キノコと同じ原理である。そのため、やはり発光量に異常性を感じるという点において、アルカ様から頂いた資料を基に実験を行った』」
「一晩でこれを……?」
オリビアは目を丸くする。
ゲネシス王国で一番の研究者を謳われているアルカの同僚であるので、優秀に違いないのはわかりきっていることだが、ほぼ毎日顔を突き合わせているエドワードでさえも未だ慣れなかった。
「よくできた研究員だろう。……続きを読むぞ。
『その結果、摂氏十五度──二八八ケルビン──かつ、湿度九○パーセント以上の環境下において、胞子の異常発生が確認できた』。
なるほど、胞子か。盲点だったな」
「胞子って何ですか?」
聞いたことはあるが、詳しくそれについてエドワードは知識を持ち合わせていなかった。
「胞子は種子植物で言うタネだ。
『ソルマラキアの胞子はドーム状であり、空気中に漂う間はドームが下に、つまりまるで受け皿のように浮かぶ。その上、この胞子は光の反射率が非常に高い。私個人の仮説を述べる。ソルマラキアの胞子はとある気候の条件下で大量発生する。すると盆地一帯上空を光の反射率が高い胞子によって埋め尽くされてしまう。それによって地上には太陽光が届かなくなり、まるで夜が明けないように見えている』
だそうだ」
つまり要約すると、キノコの発光量に伴って、胞子も異常発生している。ソウウルプスを囲うようにキノコが生えているため、胞子の量は莫大になり、簡単に盆地であるソウウルプス上空を埋め尽くしてしまう。胞子は太陽の光を反射するため、地上は暗くなる。
エドワードはベスの仮説になるほど、と拳を打った。筋は通っている。そして、アルカもこの説に賛成のようだった。オリビアも感嘆の息を漏らしている。
「木については特筆すべき点もない、ただの新種のマツ科だろうと書かれているな。まあ、それは良いとして、これはかなりの進展だぞ。試す価値はある」
意気込むアルカに便乗してエドワードも握りこぶしを作ると、でも、とオリビアがおずおず挙手をした。
「なんだ?」
「……どのように解決いたしますの?」
「……」
アルカはオリビアの質問にぱちり、と瞬きをした。
「ここは盆地ですから滅多に風は吹きません。吹いてもそよ風程度ですわ。おそらく、だから胞子も上空に停滞したまま、ソウウルプスを覆い続けているのですわよね?」
エドワードは握り締めていた手を顎に添えた。
確かに原因は解明したが、どう解決すればいいだろう。大きな人力風車を建てる? いや、そんなことをしていては間に合わないだろう。
ふと、エドワードはオリビアの言葉を思い出した。
──昨晩書棚を整理しているうちに、東の教会の地図を見つけましたが……
「……教会、教会はどうですか? 何かあるかもしれません。かつての知の源は教会と言いますし」
「教会?」
「教会ですの?」
二人の視線を集めたエドワードは尻込みしてしまう。
「教会って何の話だ?」
アルカの疑問符を解消すべく、オリビアは昨晩見つけた地図の話をアルカにする。
すると、アルカはみるみる顔色を変えてオリビアに掴みかかった。
「なんでそれを先に言わないんだ! 教会なんて、伝承の宝庫じゃないか!」
「も、申し訳ありませんわ。アルカさまがお手紙を嬉しそうに読まれていたので、切り出すタイミングが無く……」
「今からその教会に向かうぞ。もしかしたら先人の知恵があるかもしれない」
エドワードの手を引いてリビングを去るアルカの背中を見送りながら、オリビアは自分にも聞こえないほどのため息をついた。オリビアの目の下には化粧で隠した隈が透けていた。
東の教会、そうオリビアが呼ぶ建物は、セルバンテス邸からおよそ南に位置していた。そう呼び始めたのはソウウルプスの街の人々だったらしい。ソウウルプスの中心からはちょうど東に建築されていた。
ゴシック調の再来らしいデザインの尖塔が特徴的な教会。教会の名前を知ろうとしたが、チャーチサインの文字が風化してつぶれてしまっていた。
白い漆喰の壁は触れるだけでボロボロと崩れてしまうし、くすんだステンドグラスを蔦が覆っていて、到底素敵な教会とは言えない。
アルカが全体重をかけて手押し奮闘している両開きの扉を、エドワードは片手で引いた。外開きだ。
「やっぱり暗いですね」
もちろん灯りがついているはずもなく、エドワードはランプを掲げた。室内なので、森を歩いた時よりは比較的明るく見える。
ランプに照らされた信者席や祭壇は外装と同じく白い塗装がなされていた。ところどころ剥げてしまってはいるが統一感がある。
「すごい……。彫刻がたくさんあります」
「本当ですわ」
遅れて入ってきたオリビアがいつの間にかエドワードの後ろに立っていた。オリビアの横顔は入口左の聖母のような彫像を見上げている。
エドワードはその彫像の対称に位置する像へ光を当てた。入口右は立派なひげを蓄えた老人だ。
教会内を少し進み、正面、正面右、正面左の像へと目を向ける。順に、髪の長い少女、本を片手に胸を張る庶民風の賢者、そして少女に似たおそらく母親のように見える女性。
エドワードは目元を掠めた光に片眼を閉じた。祭壇奥、ステンドグラスを背にした少女に覚えた違和感に近づいて目を凝らすと、少女の像の目がランプの光に反射した。よく見ると宝石が埋め込まれている。経年劣化でくすんでいるが、碧色のそれは両目に鎮座していた。
「どうかされましたの?」
「オリビアさん。この彫像たち、気になりませんか?」
彫刻に張り付いているエドワードにオリビアは声をかけた。オリビアは眉をひそめて首をかしげる。
「……えっと、わたくしには素晴らしいとしか」
「技術的な問題です。例えばこの薄く透けたような布の表現──ドレーパリーと言いますが、この表現方法が編み出されたのは隣国にておよそ九十年前のことです。そして大理石の状態からしてこの彫像らが作成されたのは少なくとも百年以上前。もしかしたら四百年は経っているかもしれません」
「世間に知られていなかっただけで、進んだ技術の芸術家がいたということは?」
「可能性は限りなく少ないですね」
「どうしてですの?」
「基本、大理石像の制作は複数人で行われます。まずゲネシス王国で芸術家として仕事を受けるには、その国が発足している芸術作成協会に芸術家として認めてもらう必要があります。そしてそこに所属する人々は新しい技法や表現法を編み出したら、協会へ報告の義務があるんです。高め合おうという精神ですね」
オリビアはなるほど、と頷く。
「物理学で言う工学技術協会みたいなものが芸術界にもありますのね」
「はい。……けれど、例外があります」
エドワードは手を伸ばして台座のプレートの埃を拭った。
「金は力ですから。ゲネシス一帯は芸術家を国宝の一部のように扱っていますが、そういった価値あるものを金で独り占めする人はどこにでもいるでしょう。一部の芸術家は、国から芸術家として認められて外から仕事を受けなくてもいいほどのパトロンがいるんです」
エドワードは台座のプレートに指を這わせて文字を読む。いつ作られたものなのか、古語で作品名が刻まれていた。
「『冥府の女神』。最高神だから正面にいらっしゃるわけですか」
「思ったよりも幼く見えますわね」
技術力に気を取られていたが、オリビアの意見にエドワードは同意した。おおよそ初等教育を終えたくらいの印象を受ける。表情も比較的柔らかく、伝承の恐ろしい印象からは程遠い。
「エドワードさまは芸術にお詳しい方ですのね」
「……自慢ではありませんが、芸術一家の出自です」
「そうでしたのね」
「この像どこかで──」
エドワードがはっとしながら口を開いたとき、教会の奥からアルカがエドワードとオリビアを呼んだ。何か、見つけたらしい。
「二人そろって……彫刻に惹かれる気持ちもわかるが、参考となりそうな書物を探してくれ」
「すみません」
「それより、これを見てほしい」
アルカは手の中にある土埃にまみれた書を開く。埃が舞い立ち、エドワードは目を細めながらも内容に目を通す。
紙面の右上には決まって年と日付、それから書いた者の名前が記されている。これは誰かの日記のようだ。
たどたどしく読み進めていると、エドワードは衝撃的な一文を認めた。
「これってどういうことですか?」
「興味深いだろう。ボクたちはずっと騙されていたんだ。そして教会でやっと真実を知った。神話はやはり実体験を基にした教訓だったわけだ」
オリビアだけが話について来ることができずに、あたふたしている。きっとオリビアは古語が読めないのだ。
「これは歴代の祭司が一週間ごとにつけた日記帳だ。このページからわかるのは、これが書かれたのはA.N.二一〇年の九月上旬だということ、それから太陽が昇らなくなってすでに数日が経過しているということ」
「お待ちください。A.N.二一〇年って、今は一八八年ですのよ? 未来の話じゃありませんか」
そう。この日記帳は明らかにおかしいのだ。どうして未来の日付が記されているのか。
「『冥府の女神と命の光』。あれは実際に起きたことを記している。おそらく、太陽が昇らない問題が解決しないと。長い冬がやってきてソウウルプスから人が消える。そして文明が崩壊するんだ。しばらくしてソウウルプスに帰ってきた人々が、新しく元年から始め直してもおかしな話じゃない」
「つまりこの、A.N.二一〇年は今から一八八年以上前の、二一〇年ということですの?」
「そうだろうな。元年を何度やり直しているか定かじゃないが、少なくともA.N.──南暦は約四〇〇年以上の歴史があるというわけだ」
ただ──。アルカは顎に手を添えて言葉を続ける。
「ただこの祭司、最後だけ曖昧なことを言い残しているんだ」
アルカは下から二行目に指を添わせて声にあげて読み進める。
「『一見不必要として省かれてきた儀式には、本当はきちんと意味があったものがある。どれだけ創始者が素晴らしい頭を捻ったとしても、後に続く人間が愚者であれば余計な作業として省いてしまう。私はその愚者の一人だ。ソウウルプスの外で春を待つしかない』」
この祭司はおそらくソウウルプスに戻ってこなかっただろう。いや、戻ってこれなかったのかもしれない。厳しい冬の到来に、責任を感じているような口ぶりはエドワードの頭を悩ませた。
何か、かつてあった儀式の一部を省いたせいで厳しい冬が到来した。
「……唸る金属、ってご存じですか?」
オリビアは唐突に、アルカとエドワードに尋ね聞く。
話の腰を折るような一言にアルカは瞬きを繰り返した。
「……いや、知らないな。なんだそれは」
「唸る金属は、ソウウルプスにあるいくつかの財産の一つです。街をつくる樹木、夜道を照らすキノコ、それから唸る金属。木とキノコが神話に関わりあるなら、唸る金属も関係しているんじゃないかと思いまして」
「待て、これって『唸る金属』なのか。てっきり『硬くなる髄質』だと思って、何を言ってるのかさっぱりわからなかったが。いやどちらにせよ、よくわからなかったか」
アルカは日記調のページをぱらぱらとめくって、とあるページで指を止めた。
別の人が書いた、A.N.元年の記述。
「ここに『唸る金属が女神による畏怖の力を弱める』ってある。これか?」
エドワードものぞき込むと、続けて『冥府の女神には揺れるネックレスがふさわしい。金属の音は女神の訪問』と書かれている。ランプを掲げて『冥府の女神』の彫像に駆け寄ると、首にまるで首輪のような金属でできたネックレスがつけられていた。金属は酷く錆びついていてもろくなっているが、そのネックレスからまっすぐチェーンが伸びている。チェーンにはどういった意図なのか、ちょうど木の枝分かれのように小さなチェーンが無数につながっている。ただ、この細いチェーンが『唸る』という言葉にふさわしくは思えなかった。
「オリビア。その『唸る金属』は何に使うんだ?」
「それがよくわからないのです。発掘の度に山に埋まった鐘形に加工された『唸る金属』が発見されて、それを同じく『唸る金属』で叩くと、唸るような低い音と強い振動がソウウルプスの端から端まで響くということぐらいしか。おそらく合金でしょうが、その鐘が何のために作られたものなのかはわからないのです」
ぴたり、とアルカは動きを止めた。
「その鐘にはどんな模様があった?」
「模様があることをご存じなのですか? ええ、あります。外側には上から見て時計回りにらせん状のくぼみ、内側には肋骨を模したようなへこみが」
アルカは目を見開くと、出口の方へと駆け出した。オリビアとエドワードは驚いてアルカの後を追いかける。アルカはそのまま教会を出て、裏へと回った。裏に小さな塔があるのには気づけなかった。アルカはその塔へと一直線に駆けていく。
「オリビアさん、あの塔は?」
「地図には塔としか書いていませんでしたわ。ただの見張り台かと思っていましたが……」
アルカは塔の下にある木の扉のかんぬきを放り投げると、壁に沿うように上へ伸びるらせん階段を上ってゆく。ようやっと塔の入口に追いついたエドワードとオリビアも続いて登ろうとするが、アルカがちょっと待てと頭上から指示を出した。
「どうかしましたか?」
「そこの穴に鐘がある!」
エドワードが井戸のように見えた中央の浅い穴をのぞき込むと、そこには錆びついた鐘のようなものが置かれていた。ちょうど時計回りにらせん状の模様が彫られている。本物の井戸のように鐘に括りつけられたロープが穴から伸びていて、ロープの先はアルカが手にしていた。今はたるんでいるが、アルカがあと少し階段を上ればロープはピンと張り詰めることになる。
「エドワードとオリビアは協力して、その鐘を持って上がってきてくれ!」
二人は顔を見合わせると、その巨大な鐘を持ちあげた。オリビアは、思いもよらない重さだったのか驚いて声を上げる。
「こ……これを上まで、ですの?」
「軽く建物四階分はありますね」
重労働に耐えているうちに、いつの間にか寒さは忘れてしまっていた。むしろ汗をかいていて、体が冷えてしまわないか心配なくらいだった。
呼吸が不規則になって、喉が冷たい空気で掠れてきたころ、すっと顔を掠める細い風に片目を閉じた。
うっすらと目を開けて見た頂上は素晴らしい景色だった。山の上ということもあって、もともと見晴らしがよかったが、より高いところに上ってソウウルプスが一望できる。
ただ、今見えるのはぽつぽつとした小さな灯りだけ。
景色に立ち尽くしているとアルカがエドワードを急かした。
「ロープを天井に引っ掛けてくれ」
「これ、落ちませんか? ロープも劣化しているんじゃあ」
「大丈夫だろう。割としっかりしているように見える」
エドワードは言われたとおりに、手を伸ばして天井にあるフックにロープを引っ掛けた。そして鐘を三人がかりで持ち上げる。何とかつるし終えると、アルカはオリビアを鐘のすぐ隣に立たせた。
「非常に低い音っていうのは、人間の耳には聞こえなくなる。そして、人間はその振動だけを感知するんだ。振動という形で物に影響を与える。わかるな、オリビア」
「はい」
アルカはソウウルプスが見渡せる塔の端に立った。風が少ないおかげでアルカの小さい体は吹き飛ばされることはない。スカートが小さくはためくくらいだった。
「先人の知恵とは偉大だな」
アルカはオリビアに鐘の中のクラッパーから伸びるひもを握らせる。オリビアはひもを握りしめると深呼吸に合わせて力いっぱいに腕を振った。
クラッパーは鐘の中で雄大に揺れ、鐘の内側を打ち鳴らした。空気が揺らぎ、低い唸りが鼓膜を震わせる。
三人はびりびりと骨から揺るがす振動に、塔の柱にしがみついた。
音は、振動は、ソウウルプスの空気を伝播した。
「すごいですわ……」
オリビアは高ぶりを抑えるように胸に手を当てた。
雲間から漏れるように、光が空から街をぽつぽつと照らす。寒く凍り付いた街に太陽の温度が差してゆく。
オリビアはもう一度、ひもを揺らして鐘を鳴らした。オリビアの表情は光差す街に比例して明るく綻んでゆく。
「太陽だ」
アルカが手をひさしに、青い空の中央で輝く太陽を見上げて、見た目相応らしく笑う。
ソウウルプスに、久々の朝がやってきた。
太陽が戻ってきてしばらくすると、街の人々は祭りだといわんばかりに広場で踊り始めた。
懐かしい。
アルカはそう言って、ソウウルプスの取り戻した陽気さに、穏やかな笑顔を浮かべながら軽い足取りでスキップをする。
しかし、アルカは工場の手前でぴたりと足を止めた。後から続いていたオリビアとエドワードはアルカの視線の先をたどる。
ウーゴに取り立てに来ていた男性だ。同じ高さで見ると、男性はオリビアと同じくらいの身長しかない。もちろん、オリビアが長身だということもあるが。
男性は扉の前に立ったまま、杖で地面を突いている。どうやら苛立っているようだ。
「やあ、どうも」
アルカがやってきたことに気づいた男性は、踵を返してそこから去ろうとした。けれど、アルカは男性の服をつかんで引き留めた。高級そうなそれにしわがつくが、男性は引き留められたことに顔をしかめている。
「ボクはアルカ。ペルケトゥム研究所の研究員だ。ここはうちが買い取った」
「アルカ様、手を離した方が。すみません、お召し物にしわをつけてしまって」
エドワードは男性の服を握りしめたままのアルカを慌てて引きはがした。
男性はアルカを見下ろし、そして無反応のままエドワードとオリビアに目を向ける。男性は無礼に怒ることなく、そうか、と言ってスーツの襟を整えた。
「貴方がアルカ、か。お初にお目にかかる、私はヘンリー・オルビス・グレイと言うものだ」
世間に疎いアルカだけが首をかしげるが、エドワードは慌てて帽子を取る。
「先ほどの無礼をお許しください、タウルス卿グレイ。私はエドワード・ガヴェンディッシュと申します」
「挨拶が遅れたことをお詫びします。わたくしはオリビア・セルバンテスですわ」
急に平身低頭になったエドワードとオリビアの態度にアルカはぶすくれた。他人にぺこぺこと頭を下げているのが気に食わないらしい。
「タウルス卿ヘンリー・グレイは代々ゲネシス王室を支えるオルビス公爵家の跡継ぎですよ」
「たかだか肩書が立派なだけじゃないか」
エドワードがアルカに説明するが、態度を改める気はないらしい。意外だったのはヘンリーの反応だ。
「そうだ、たかが肩書だ。天才を前には異論を唱える気も出ないな。しかし、ペルケトゥムの手に渡ることになったのなら話は早い」
「どういうことだ?」
「元は女王様の言いつけだ。女王様はペルケトゥム研究所のアルカという研究員のためにソウウルプスに土地を用意してやってほしいとおっしゃられた。グレイ家とセルバンテス家はかつてから交流があったからな、借金の肩代わりと引き換えにこの土地の権利をいただくという取り引きをした。結局最後まで彼は渋っていたが……、まあその時は君を」
ヘンリーは後ろで話を聞いていたオリビアを指さす。
「君を、ペルケトゥム研究所に連れて行くつもりだったが。いい研究員になりそうだしな、たしか大学を中退していただろう? 研究所に所属すれば、ウーヌス大学に復帰させてやれるかもしれない。私は若い芽を摘むほど愚かな人間ではないからな」
ヘンリーの思惑は思った以上にオリビアやエドワードの好感を煽った。オリビアは少しうれしそうに手を合わせる。
その反応が癇に障ったのかアルカは一歩前に出て、ヘンリーに張り合った。
「ボクだって、ペルケトゥム研究所にやってきた暁には大学に復学させてやるし、研究だって好きなことさせてやるし、変に縛ったりもしないぞ! なんなら手伝ってやるし。それにボクは工場をつぶしたりしない。今どきどこも養蚕は面倒くさがってやらないんだ。蚕は貴重だぞ? 自分だけ良いように見せやがって」
「……え、そうなんですの?」
オリビアはぽかん、と口を開けてアルカを見つめた。アルカは心外だと言わんばかりに、オリビアを振り返る。
「当たり前だ! オリビアはボクをなんだと思ってたんだ」
「申し訳ありません、わたくし勘違いをしていたようですわ」
オリビアは堅かった表情を崩すように笑った。
「いったいオリビアはどんな勘違いをしていたんだ……?」
「てっきり使用人か小間使いに採用されたものだと。失礼いたしましたわ」
軽くショックを受けるアルカにオリビアは面と向かって、スカートの裾を持ち上げて足を下げた礼をした。相手に敬意を示す正式な礼だ。
アルカは瞬きを繰り返しながらオリビアの頭頂部を見届ける。
「わたくし、精一杯頑張らせていただきます。アルカさまの研究のお手伝いも致します。だからわたくしを、オリビア・セルバンテスをよろしくお願いいたします」
オリビアが顔を上げると、アルカはショックも断ち切ってふっと口角を持ち上げて笑った。
「優秀な研究員として貢献してくれること、楽しみにしているよ」
アルカはエドワードを呼び寄せると、懐中時計を取って時刻を確認した。時刻は十五時半。一日の最終の列車の出発時刻は十六時だ。
「さあ、ボクはウーヌスに帰ろうと思う。すぐにでも神話の編纂やきみの復学手続きを始めなくてはいけないからな。オリビアは手紙を待っていてくれ。エドワード、ソウウルプスを発つ準備をしよう」
アルカはセルバンテス邸の方へと歩き出す。ヘンリーはいつの間にか姿を消していた。きっと彼も同じ列車でウーヌスに帰るのだろう。
エドワードとオリビアはアルカの背中を追いかけた。
レンガ造りのソウウルプス駅で、出発直前の列車を認める。
「乗りましょう」
アルカはエドワードの声が届いていないのか、ゆっくりと足を止めた。
アルカが目に留めていたのは、駅の設計に携わった人々の名前が記された金属のプレートだった。その中に姓がセルバンテスのものを見つける。ソウウルプス駅の設計者。
エドワードは不意にガラス張りの天井を見上げた。来た時とは違って、少し赤くなり始めている青い空が透けている。
アルカはエドワードを置いて再び歩き出すと、列車に静かに乗り込んだ。エドワードが窓を上げると、走って見送りに来たオリビアが息を整えながら手を上げている。
「アルカさま!」
「オリビア、白衣にきみの名前を刻んで待っている」
オリビアは喜びと一緒に下唇をかみしめて頷いた。
「はい!」
ウーヌス行きの列車は勢いよく蒸気を吹き出し、ゆっくりと走り出した。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
ここから先、オリビアがペルケトゥム研究所にやって来てからの物語は、"カクヨム限定"の公開となります。
アルカが四百年生きる理由。
国がどうしてもアルカにだけは隠したい禁忌とは?
それらがこれから明かされる。
こんな世界観が好き!
王室の隠された禁忌が知りたい!
続きが気になる!
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