工場の裏はすぐ森だった。そこから緩やかな斜面が山を形作っている。アルカはモノトーンのストライプ柄ワンピースの七分袖を肘までたくし上げた。足元は編み上げで、底の分厚いジョッパーブーツに似たつくりのものだ。スカートも広がりの小さい作業用で、これなら山道でも比較的歩きやすいだろう。
けれど三人は今、森の手前のレストランの隅の席に腰を下ろしていた。ずっと暗いので時間感覚を失いつつあるが、すでに時刻は十三時を回っていた。昼食にはすこし遅いくらいだ。
注文を終えて一息ついたころ、オリビアは躊躇いながら口を開いた。
「その……工場の話ですが」
「悪いが、その話は後だ」
しかしアルカはオリビアの言葉を心なく打ち切ると、いつの間にか持ち出していたオリビアが製本した一冊を取り出した。
エドワードもまた、工場の話よりこちらに興味があった。身を乗り出して三人揃って本を覗き込む。
『冥府の女神と命の光』。
アルカが読み上げたその伝承はこうだ。
──数百年に一度、異様に作物が育たず、採れた作物もすぐに腐ってしまう夏が訪れる。冥府の女神が目を覚まし、地上にやって来たのだ。
冥府の女神は触れたものを腐らせる、といった命を刈り取る力を持つ。冥府の女神の訪れをも示す、山を覆いつくす青緑の光は神秘的とも言えるが、その異常な光の量は人々を畏怖させた。彼女は作物だけでは飽き足らず、人々の命の原動力でもある太陽の光もまた奪ってゆく。
また、冥府の女神は冬を司る女神でもあった。
彼女の到来は、長く厳しい冬の訪れ。
ソウウルプスの人々は彼女の冬を乗り越えることができなかった。ソウウルプスからは人が減り、自然と文明が崩壊しゆく。
やがて時は立ち、女神は再び眠りにつき、久々の春が巡って来た。
ソウウルプスには人が戻ったが、その女神に対する恐怖から彼女を崇めるようになったのだ──。
「この話を読む限り、今は冥府の女神が太陽の光を奪っている最中のように思えるな」
アルカはいつの間にか運ばれていたサンドイッチを片手にそう言った。
「……ええ。ですから、わたくしはこのあと訪れるかもしれない長い冬も危惧しておりますの」
オリビアが進まないフォーク片手に不安げな表情を俯ける。
おいしそうな食事を前に似つかわしくない表情だが、この伝承は今の状況にひどく類似している。オリビアが気に病むのも仕方ない。
「やはりこれを読んでもなお、光るキノコが気になるな」
「でも発光キノコはたいして珍しいものでもありませんよ? ベスさんも一時発光キノコについてよく調べていたじゃないですか」
エドワードがスパゲッティを口に運びながら、生物学を専攻している同僚の名前を出すと、アルカは首を横に振った。
「ボクが気にかけているのはキノコが光ることについてじゃない。光の量の変化だ」
アルカがサンドウィッチの最後の一切れを口の中に押し込むと、もぐもぐと嚙みこなす。
「まあ、実際目にしてみないことにはわからないな」
アルカはエドワードの服の裾を引っ張ると、エドワードはいつもの流れのごとく財布をアルカに手渡した。食事中の二人を傍に、アルカは伝票を覗き込みながら札を一枚ずつ数える。大雑把に掴んだチップを含む金額を伝票の上に重ねてから、捲り上げていた袖を降ろした。
裏の山に足を踏み込んですぐ、光が地面を照らしているのは確認できた。青緑色のぼんやりと浮かぶ光。光の発生源であるキノコは白く傘は手のひらサイズで、木の根元にびっしりと菌糸体を張っている。
「キノコにはあまり詳しくないんだが……初めて見る種だ」
アルカは木の根元にしゃがみ込み、ランプでキノコ群を照らした。それから灯りを頭上まで持ち上げて木肌に触れる。凹凸のある木肌はアルカの硬い義手とかち合って、相性が悪い。
「この木は?」
「さあ、わたくしはあまり植物に詳しくありませんので……」
アルカは高くまっすぐ伸びる木を見上げると、針葉樹だと呟いた。
「マツの類か。そう考えるとマツと共生する発光キノコの種が思い浮かばない」
鋭く長細い葉や、鱗片状の樹皮などはよく当てはまる。
「そうなんですの?」
「ああ。光るキノコは少ないんだ。発光キノコと言えばオウギタケの類かツキヨタケの類だろうが、その二つは腐生性と言って、こんなふうに生きている樹木に菌糸体を張ったりしない」
専門分野でないエドワードやオリビアにはよくわからない話だったが、つまるところこのキノコは新種かもしれないということだろう。
「このキノコは向こうの山にも生えているのか?」
「はい。ソウウルプスの山に生えるキノコはほぼすべてこれですわ」
「つまり、木もほとんどこれか」
「おそらく。ソウウルプスにある木製品の多くはこの木からできているはずですわ。ソウウルプスには、誕生日に両親が子供のために木から木材を切り出して椅子を作るという習わしもありますし」
ますますマツ科な気がしてきたな、とアルカは呟く。アルカは再びおもむろにしゃがみ込むと、エドワードを振り返った。
「エドワード、手袋と袋とナイフを」
アルカはランプを足元に置くと、袖を捲り上げて肘にある螺子を回して締めた。エドワードが言われた通りのものを差し出すと、アルカはナイフを逆手持ちにしてキノコの根元に突き刺す。
力技でキノコがいくつか採集されていく。手袋をはめた手でキノコを持ち上げて、アルカは傘の裏を覗いた。
「……よくわからないな。ベスに調べてもらおう」
袋に七割ほどキノコを詰め込まれた後、アルカは立ち上がって木肌にも手を添えた。そして鱗片状の凹凸に沿ってナイフを樹木に浅く突き刺して皮を剥ぐ。
「葉も欲しいが採集は困難だな。諦めよう」
葉の方ははしごをもってしても触れることすら厳しそうなほど高所にあった。
採集を終えるとアルカは手袋を脱いで袋の中にまとめて放り込んだ。それから念入りに袋の口は縛られて、エドワードに押し付けられる。袋の中の物体同士がぶつかって、袋が歪な形を作る。
「手紙はボクが書く。夕方に送れるように準備をしておいてくれ」
エドワードは袋を受け取ると、もういいのかと尋ねた。
「そうだな。山は楽しみだと言ったが、すこぶる疲れた上になにより寒い」
それにはエドワードのみならずオリビアも同感だった。オリビアは両腕を抱え込むようにして震えており、暗い中でも吐きだされる息が白いのが分かる。
「ここから近いので、よろしければうちにいらしてください。使用人などはいませんが屋敷自体は狭くありません。もちろん滞在費などはいただきませんわ」
アルカはランプを手にすると、エドワードと顔を見合わせる。
二人はオリビアの言葉に甘えることにした。
けれど三人は今、森の手前のレストランの隅の席に腰を下ろしていた。ずっと暗いので時間感覚を失いつつあるが、すでに時刻は十三時を回っていた。昼食にはすこし遅いくらいだ。
注文を終えて一息ついたころ、オリビアは躊躇いながら口を開いた。
「その……工場の話ですが」
「悪いが、その話は後だ」
しかしアルカはオリビアの言葉を心なく打ち切ると、いつの間にか持ち出していたオリビアが製本した一冊を取り出した。
エドワードもまた、工場の話よりこちらに興味があった。身を乗り出して三人揃って本を覗き込む。
『冥府の女神と命の光』。
アルカが読み上げたその伝承はこうだ。
──数百年に一度、異様に作物が育たず、採れた作物もすぐに腐ってしまう夏が訪れる。冥府の女神が目を覚まし、地上にやって来たのだ。
冥府の女神は触れたものを腐らせる、といった命を刈り取る力を持つ。冥府の女神の訪れをも示す、山を覆いつくす青緑の光は神秘的とも言えるが、その異常な光の量は人々を畏怖させた。彼女は作物だけでは飽き足らず、人々の命の原動力でもある太陽の光もまた奪ってゆく。
また、冥府の女神は冬を司る女神でもあった。
彼女の到来は、長く厳しい冬の訪れ。
ソウウルプスの人々は彼女の冬を乗り越えることができなかった。ソウウルプスからは人が減り、自然と文明が崩壊しゆく。
やがて時は立ち、女神は再び眠りにつき、久々の春が巡って来た。
ソウウルプスには人が戻ったが、その女神に対する恐怖から彼女を崇めるようになったのだ──。
「この話を読む限り、今は冥府の女神が太陽の光を奪っている最中のように思えるな」
アルカはいつの間にか運ばれていたサンドイッチを片手にそう言った。
「……ええ。ですから、わたくしはこのあと訪れるかもしれない長い冬も危惧しておりますの」
オリビアが進まないフォーク片手に不安げな表情を俯ける。
おいしそうな食事を前に似つかわしくない表情だが、この伝承は今の状況にひどく類似している。オリビアが気に病むのも仕方ない。
「やはりこれを読んでもなお、光るキノコが気になるな」
「でも発光キノコはたいして珍しいものでもありませんよ? ベスさんも一時発光キノコについてよく調べていたじゃないですか」
エドワードがスパゲッティを口に運びながら、生物学を専攻している同僚の名前を出すと、アルカは首を横に振った。
「ボクが気にかけているのはキノコが光ることについてじゃない。光の量の変化だ」
アルカがサンドウィッチの最後の一切れを口の中に押し込むと、もぐもぐと嚙みこなす。
「まあ、実際目にしてみないことにはわからないな」
アルカはエドワードの服の裾を引っ張ると、エドワードはいつもの流れのごとく財布をアルカに手渡した。食事中の二人を傍に、アルカは伝票を覗き込みながら札を一枚ずつ数える。大雑把に掴んだチップを含む金額を伝票の上に重ねてから、捲り上げていた袖を降ろした。
裏の山に足を踏み込んですぐ、光が地面を照らしているのは確認できた。青緑色のぼんやりと浮かぶ光。光の発生源であるキノコは白く傘は手のひらサイズで、木の根元にびっしりと菌糸体を張っている。
「キノコにはあまり詳しくないんだが……初めて見る種だ」
アルカは木の根元にしゃがみ込み、ランプでキノコ群を照らした。それから灯りを頭上まで持ち上げて木肌に触れる。凹凸のある木肌はアルカの硬い義手とかち合って、相性が悪い。
「この木は?」
「さあ、わたくしはあまり植物に詳しくありませんので……」
アルカは高くまっすぐ伸びる木を見上げると、針葉樹だと呟いた。
「マツの類か。そう考えるとマツと共生する発光キノコの種が思い浮かばない」
鋭く長細い葉や、鱗片状の樹皮などはよく当てはまる。
「そうなんですの?」
「ああ。光るキノコは少ないんだ。発光キノコと言えばオウギタケの類かツキヨタケの類だろうが、その二つは腐生性と言って、こんなふうに生きている樹木に菌糸体を張ったりしない」
専門分野でないエドワードやオリビアにはよくわからない話だったが、つまるところこのキノコは新種かもしれないということだろう。
「このキノコは向こうの山にも生えているのか?」
「はい。ソウウルプスの山に生えるキノコはほぼすべてこれですわ」
「つまり、木もほとんどこれか」
「おそらく。ソウウルプスにある木製品の多くはこの木からできているはずですわ。ソウウルプスには、誕生日に両親が子供のために木から木材を切り出して椅子を作るという習わしもありますし」
ますますマツ科な気がしてきたな、とアルカは呟く。アルカは再びおもむろにしゃがみ込むと、エドワードを振り返った。
「エドワード、手袋と袋とナイフを」
アルカはランプを足元に置くと、袖を捲り上げて肘にある螺子を回して締めた。エドワードが言われた通りのものを差し出すと、アルカはナイフを逆手持ちにしてキノコの根元に突き刺す。
力技でキノコがいくつか採集されていく。手袋をはめた手でキノコを持ち上げて、アルカは傘の裏を覗いた。
「……よくわからないな。ベスに調べてもらおう」
袋に七割ほどキノコを詰め込まれた後、アルカは立ち上がって木肌にも手を添えた。そして鱗片状の凹凸に沿ってナイフを樹木に浅く突き刺して皮を剥ぐ。
「葉も欲しいが採集は困難だな。諦めよう」
葉の方ははしごをもってしても触れることすら厳しそうなほど高所にあった。
採集を終えるとアルカは手袋を脱いで袋の中にまとめて放り込んだ。それから念入りに袋の口は縛られて、エドワードに押し付けられる。袋の中の物体同士がぶつかって、袋が歪な形を作る。
「手紙はボクが書く。夕方に送れるように準備をしておいてくれ」
エドワードは袋を受け取ると、もういいのかと尋ねた。
「そうだな。山は楽しみだと言ったが、すこぶる疲れた上になにより寒い」
それにはエドワードのみならずオリビアも同感だった。オリビアは両腕を抱え込むようにして震えており、暗い中でも吐きだされる息が白いのが分かる。
「ここから近いので、よろしければうちにいらしてください。使用人などはいませんが屋敷自体は狭くありません。もちろん滞在費などはいただきませんわ」
アルカはランプを手にすると、エドワードと顔を見合わせる。
二人はオリビアの言葉に甘えることにした。