———星が降ってきた。
それは、流れるような光の束だった。暗闇をスッと一筋の明かりが通り過ぎ、目の奥がチカチカと光った。まばたきをしてしまえばもうそこには、いつもの暗闇と点々と光る画鋲でとめられたような星たちしかなく、幻でも見たのかと思ったほどだ。
私がいつか見たそのほんの一瞬の時間を、ひとりで勝手に〝星降る時間〟だと呼んでいるのだけれど、残念ながら私の14年という短い人生のあいだ、〝星降る時間〟を見たのはあれ以来一度もない。
『流れ星を見たらね、目を閉じて願い事を唱えるんだよ』
そんな風に教えてくれたのは、一体誰だっただろう。喉元に引っかかるしこりのように、私の記憶はとても曖昧で、不完全だ。
◇
「なにしてるの、ヒロ」
薄暗いライトがぼんやりと暗闇を照らす中に、ひょろりと背の高い細身の白い腕が見えた。そろりと顔をあげるとそいつは随分とおびえた顔を見せる。そのくせ「なにしてるの」なんて何でもないようなフリをして、男のくせになんて情けないのだろう。
「なんにも。ユーマも来たら?」
私が呼び出したくせに、とでも思っているだろうか。ユーマは一瞬だけ顔を歪ませたけれど、すぐにパッと元に戻す。私には全部お見通しだというのに。
「……危ないな、ヒロは」
カサリと効果音が聞こえたみたいに思える。ユーマの笑顔はいつも、それくらい、乾いた音がする。
「危なくないよ、早くきて」
「暗いし、時間も遅いし、滑って転んだらどうするの」
「もう子供じゃないんだから、大丈夫だよ」
「ウソだ、ヒロは昔っから、危なっかしいじゃないか」
———昔から、だなんて。何でも知ったような顔をする。それは私のことを〝ほとんど何でも〟知っているユーマの癖だ。
3月。卒業式を明日に控えた午後九時、天気は晴れ。雲一つない今夜、三年間お世話になった中学校のプールに忍び込むことは私がずっと前から決めていたことだ。汚れたスニーカーも白い靴下も脱いでプールサイドに座り込むと、ザラリとした感触が肌に直接伝わってくる。冬でも暖かい地方だし、世界は地球温暖化が進んで昔よりも暖かいとはいえ、さすがにこの季節のプールは少し寒かった。
ユーマがゆっくりと私の座っている場所まで近づいてくる。ヘタヘタの白いスニーカーと黒い学ラン、首にはいつもと同じように紺色のマフラーが巻き付けられていて、ユーマの色白な顔は半分そこにうずめられていた。
「さむそう」
私のすぐ傍までやってきたユーマが、脱ぎ捨てられたスニーカーと靴下を見てそう言った。
「ユーマも脱ぎなよ。プールは土足厳禁だよ」
「そういうとこだけ厳しいなあ」
カラカラとわらって、ユーマが私の言う通りヘタヘタのスニーカーと、くたびれたくるぶし丈の靴下を脱ぎ捨てた。そして、私の横にそろりとやってくる。
マフラーを巻いた上半身と裸足の下半身はなんだかちぐはぐで、座ったまま見上げたユーマの顔は夜なのに月と星の明かりで何故だか鮮明に見える。
「ねえ、プール、入らないの」
「ユーマを待ってたんだよ」
「……そう、ごめんね、遅くなった」
「ううん、いいよ」
ユーマの〝ごめん〟を聞きたくなくて、私は立ち上がる。セーラー服の襟の色も、紺色のスカートも、三年間も着ていたのだ、初めて着たときよりも随分と色あせている事だろう。裸足の私の指先は、荒く切られた爪だ。
うちの中学の水泳部はとても強いらしい。冬は屋内プールに行くらしいのだけれど、その間もプール整備には決して手を抜かない。おかげで、こんな季節でもしっかりと水が張られている。
「ねえ、見て、さくら」
足の指先からゆっくりと水面に足を滑らせると、ポチャン、と、夜が溶ける音がした。
「さくら?」
「うん。星が水面にうつって、さくらみたい」
私の言葉に頷く前に、ユーマが隣に腰を下ろして同じように指先をプールに滑らせた。水面が揺れて、桜が舞うみたいにゆらゆらと星が揺れている。
「さくらか、確かにそうかもね」
「ね、そうでしょ?」
「でもきっと、もうすぐホンモノの桜が咲くよ。今年はあったかいから」
もうすぐ、咲く。さくらが咲く。新しい季節がやってきて、ひとつの記憶が終わる。
刹那、さっきまで感じなかった水の冷たさが急に足先に触れた。膝までつけた私の足を円を描くようにくるくるとゆっくり動かすと、段々とその冷たさは抜けてゆく。
「……ねえユーマ、あした卒業だよ」
「そうだね。早かったなあ」
「ユーマの学ランすきだったのになあ」
「ウソだ、ヒロはいつもブレザーのがカッコいいって言ってたよ」
「今思うと、だよ」
「調子いいなあ、ヒロは」
カラカラ、カラカラ。ユーマの笑い声だ。カラカラ、カラカラ。パシャン、私が足を大きく動かして、水が揺れた音だ。
「……卒業なんて実感わかないよ」
「そうだね、高校生って響きが急に大人になった気がする」
「やだなあ、……大人になるの」
「思いと身体は、正反対だからね」
パシャン、パシャン、私の足の動きと同時にさくらみたいな星が揺れる。暗闇に慣れた目ははじめよりもハッキリと辺りを見当たすことができた。学校のプールは広くてカルキくさい。
「ユーマ、あした卒業生代表だっけ」
「そうだよ、答辞ね。もう何回も予行練習したんだから覚えておいてよ」
「何言うの、あした」
「んー、典型文だよ。ありきたりのあたりさわりないこと。いい仲間ができただとか、楽しいだけじゃなかったけどそれが自分を成長させただとか、誰でも書ける文章」
「ふーん……」
それは、真面目に学校生活を送ってきたユーマだからこそ書けるものだろう。私が卒業生代表に選ばれることなんて地球がひっくり返ったってないだろうけれど、もしも万が一そんなものを書けと言われたって、最初の一文字さえ書くことが出来ないと思う。
「ユーマはすごいもんね」
「なにそれ。ヒロがおれのこと褒めるなんてめずらしいな」
「だって、卒業生代表って、いちばん頭がいいひとがやるやつでしょ。バレー部でキャプテンやって、生徒会長やって、友達もたくさんいて、ちやほやしてくれるオンナノコだってたくさんいて、ユーマはすごいな。ユーマは、すごいよ」
繰り返すみたいに「すごい」って重ねたわたしと、それに少し照れながら困ったようにわらうユーマ。今の笑いはカラカラ、乾いた音じゃない。もっと、あったかいおとだ。
「どうしたの、いきなり。嬉しいけどさ。ヒロに言われるとなんだか照れるな」
「別に、いつも思ってたことだよ。ユーマはすごいなあって、私ずっと、思ってたよ」
「何それ、初耳だよ。そういうことは早く言わないと」
言わなくたって、わかってくれてる。言わなくたって、ユーマは私から離れていかない。痛いくらいわかっていて、痛いくらい悲しい現実だ。それはたぶん、ひとりきりの夜とよく似ている。
「……ユーマはわたしのこと、どう思ってる?」
ゆらり、ゆらり、私の足の動きに合わせてまたさくらのような星がゆれた。ここだけ、一足先に春がやってきたんじゃないかって、そう思う。
「ヒロは、たいせつだよ。聞かなくたって、わかってるくせに」
〝たいせつ〟だ、って。いつも通り、ユーマはわらった。カラカラ、カラカラ。ああまた、乾いたおとだ。ここにある水分がぜんぶ吸い取られてしまうんじゃないかっていうほど、乾いたおとだ。
たいせつ、大切、タイセツ。
それはとても便利で、とても残酷な、ことばだ。
「ねえユーマ」
もうすぐ春がやってくる。私たちは卒業する。義務教育っていうコドモの期間を終えて、初めて自分が選んだ道を歩んでいくんだ。ちょっとだけ大人に近づいて、ちょっとだけあの空に、近づく。バイバイ、バイバイ、そんな風にきっと、いろんなものと、お別れする。
「うん?」
「ユーマとわたし、どうやって出会ったの?」
「……」
「どうやって仲良くなったのかな。どうしてユーマは私といてくれるのかな。ねえユーマ」
チャプン、チャプン、声の速度と共に動かす足の速度も速くなる。水に足をつけたときとは正反対に、今は水から出た部分の方が寒いだなんてなんだかヘンだ。
「……ヒロ」
「ユーマ、ほんとうは私のことどう思ってるの?」
タイセツって、そんなカタカナみたいな言葉で終わらせないで。ほんの少し、たったの少し、ユーマの気持ちが知りたいんだ。
「ヒロ、その前に、おれとヒロの話を、しようか」
チャプン、チャプン。私はユーマを見ているのに、ユーマは私を見ない。紺色のマフラーにうずめられたユーマの横顔。綺麗にそろえられた耳上のやわらかそうな髪に、触れたくて、触れられなかった。
ユーマ、ヘンなの。今だって、私とユーマの話をしているはずなのに。
「ヒロ、学校は好き?」
「ううん、きらい」
「それは、どうして?」
「……ユーマ以外に、すきになれるひとが、いないから」
広い教室内、ポツンと立ち尽くすわたしを見つけ出してくれたのは、他でもないユーマだったように思う。あまりに曖昧で不完全な記憶だけれど、きっと救い出してくれたのはユーマだった。たぶん、きっと、間違いはない。
がっこう、という世界に私ははじかれた。他人に合わせるということが出来なくて、ひとと関わることがニガテだったからだろう。
ひとりぼっちの私の世界と、ガヤガヤとうるさいその世界を繋いでくれるたったひとつの架け橋が、私にとってはユーマだったのだ。
「ヒロ、それがおれのせいだと言ったら、ヒロはどうする?」
「ユーマのせい?」
「そう、ぜんぶ、おれのせいだとしたら」
「……私はユーマがいないと、この世界で生きられないよ」
この世界で生きられない、だなんて、中学生の私が何を言うのだとあきれる人もいるだろう。けれどこの世界を構成するのに必要かどうかわからないほどの、ほんのちっぽけな存在である私にとってはすごく大きな問題なのだ。
ユーマがすべてだった。ユーマしかわかってくれなかった。ユーマがいなかったらきっと、私はこの世界で生きられない。
それは多分きっと、空気とか水だとか、そんな風にあって当たり前の、生きるために必要な物質と同じようなことだ。
「ヒロ」
潤んだ声だと思った。いつもの乾いた笑い声じゃないと、思った。
「ごめん、ほんとうに、ごめん。ずるくて、弱くて、こんなおれで、ごめん」
ずっと前を向いていたユーマが、そう言葉を吐いてから、ゆっくりと私の方を見た。潤ったユーマの瞳は、宇宙みたいだって、そう思う。
「……ユーマ」
どうして謝るの。〝ごめん〟なんて言葉が聞きたいわけじゃないんだよ。私とユーマの間にある言葉は、決してそんなモノじゃないでしょう。ねえ、ユーマ。
「ヒロ。ヒロはおれを恨んでいいんだ。憎んでいいんだよ。」
「ユーマ、やめて」
「ヒロ、ヒロの記憶がなくなったの、おれのせいなんだ」
「ちがうよ、ユーマ」
「ううん、ぜんぶ、おれのせいだよ」
宇宙みたいなユーマの瞳から、星がコロンと流れ落ちた。それはとまることを知らないみたいに溢れだす。いつか見た、あの星降る時間のように。
「ヒロ、おれの話を聞いて」
私とユーマが初めて出逢ったのはいつだっただろう。運命と呼べば聞こえはいいだろう、けれど私たちの出会いはそんな素敵なものではなかったように思う。
「……ヒロ、ヒロがおれの……今の家に初めて足を踏み入れたときのこと、覚えてる?」
わたしが初めて私の家に足を踏み入れたとき———それはつまり、私とユーマが初めて出会った瞬間だろう。偶然、必然、運の巡り合わせ、私とユーマが出会った瞬間。どうやって出会い、そこからどうやって今の関係に辿り着いたのか、私の記憶はひどく曖昧で、正解を導き出すことができない。
「あのとき、ヒロは泣いたんだよ。まだ背格好も同じくらいだった女の子が、あんなにも取り乱して泣くのを、おれは、ただ見つめることしかできなかった」
「……泣い、てた?」
「ヒロの両親が亡くなって、ヒロはおれの家にきた。あのときはまだ、ヒロの記憶はきちんとあったんだよ。他人の家にやってきたことによって、両親がいなくなったことを実感したんだろうね。ヒロはあの日、夜までずっと泣いてたんだ」
チャプン、と。くるくると動かしていた足を止めると、同時にそんな音がする。指先が冷え始めたのを、手のひらのなかでぎゅっと握った。
「それから、おれとヒロは毎日を一緒に過ごすようになって、気づけばお互い唯一無二の存在になってた。誰にも変えられない、誰よりも大切な存在。おれはヒロをわかりたかったし、ヒロもおれをわかろうとしてくれた。でも、」
ひゅう、と。喉元に乾いた風が通るのを感じた。気づけばわたしの喉はカラカラで、乾燥した肌は水に浸かった足とは正反対にカサついているような気がする。
「……おれが、ヒロに過去の話を聞いたとき、ヒロは、また、泣いたんだ。初めて会った日と同じように、夜までずっと泣き続けて、それで、」
チャプン、と音がする。それはわたしじゃなくて、ユーマの足が動いた音だ。
「……次の日の朝、ヒロの記憶が一部消えてた」
◇
———私の曖昧な記憶は、パズルのピースのようにバラバラで、このプールに浮かぶ星の幻影の様に不完全だ。
ユーマと私の関係をひとことで表すのなら、きっと〝兄妹〟という言葉が世間一般に言っていちばんしっくりくるものなのだとおもう。決して血は繋がっていないけれど、私とユーマの苗字は同じで、毎日「いってきます」と「おかえりなさい」を告げる場所も同じなのだ。
自分の両親が亡くなったことは知っている。それは、私の中にきちんとした記憶があるのではなく、ユーマの———今は私もおかあさんおとうさんと呼んでいるけれど———両親が教えてくれたことだ。
交通事故で両親を亡くした私は、何故だかユーマの家に引き取られた。親戚ではないと言っていたから、ユーマの両親は私のお父さんとお母さんと知り合いだったのかもしれない。
いつ、どうやって、ユーマの家にやってきたのか私は覚えていない。物心ついたときにはいつもユーマが隣にいて、それは私にとって息を吸うことと同じくらい当たり前のことだった。
ただひとつ問題があったとすれば———私はどうやら他人に合わせるということがどうも苦手のようで、いつも人間関係がうまくいかなかった。せっかく仲良くなった友達も、何故だか波長が合わなくなって、いつの間にか私の周りにユーマ以外のひとがいなくなってたんだ。
そんな私とは正反対に、ユーマは優等生で、人気者で、いつだってわたしの、みんなの、ヒーローだった。そんなユーマがわたしは自慢で、学校では双子の妹ってことになっている自分のことも誇らしかった。ユーマの妹、それは私だけだって、ユーマのトクベツは私だけだって。
私がユーマに抱いている感情と、ユーマが私に抱く感情にどれくらいのズレがあっただろう。ユーマがいないと生きていけないほど彼にすがっていたわたしと、なんでもうまくこなせて、どこでだってどうやったって幸せに生きていけるユーマと、どれくらい差があったのだろう。
曖昧で不完全な記憶なんて、どうでもよかったんだよ。わたしはユーマがいればそれで、よかったんだ。
◇
「ヒロ、ごめん……おれが、……っ、おれがあのとき、まだ幼くて、無知で、馬鹿だったから。わかりたいなんて言って、ヒロのこと何にも、……何にもわかってなかったんだ」
「……」
「あの時、おれ言ったんだよ。『ヒロはおれの家に来た方が幸せだったんだ』って。『ヒロがここにきてくれてよかった』って。……ばかだよ、おれ、本当に、馬鹿だった」
〝そしてそれを、弱くてズルいおれは、今日までずっと、言えなかった〟
ユーマの、しっかりと水分を含んだその声を聞いたとき。ふたりとも足を動かすのをやめていたせいで静かにとまっていた水面の桜が、散った。
それはつまり、夜空の星が、落ちたのだ。
「……ユーマ、星が」
私の言葉と共に、もう一度、星が落ちる。桜が散る。一瞬の流れは目をしっかりと見開いていなければ感じることが出来ず、涙を浮かべたユーマには見つけるのが困難だったのだろう。私の言葉に不思議そうに首をかしげるユーマを見て、私の喉元はグッと音をたてた。
「星が、落ちてきた」
ユーマがゆっくりと上を向く。プールの水はゆらゆらと揺れ、さっきよりもより一層キラキラと光って見えた。私もそっと、上へと顎の角度を変える。
「……星だよ、ユーマ」
そっと、カサついた右手を空へとのばす。その瞬間。
———〝星降る時間〟を、わたしは見た。
それは、流れるような光の束だった。
暗闇をスッと一筋の明かりが通り過ぎ、目の奥がチカチカと光った。まばたきをしてもなお流れ続けるその光を、わたしとユーマはひとことも発することなく見つめることしか出来なかった。
ひとりで勝手に名付けた〝星降る時間〟を、いま、わたしは誰よりも大切なひとと見ている。「突発群だ、」ととなりで静かにつぶやいたユーマの言葉の意味は私にはよくわからない。けれどこれが、俗に言う流星群っていうやつなんだってことは、私にでもよくわかる。
『流れ星を見たらね、目を閉じて願い事を唱えるんだよ』
そんな風に教えてくれたのは、一体誰だっただろう。人生で二回目、それだけはハッキリと言うことが出来る。私がこの暗闇を流れる光を見たのは、今日で二回目だ。そして、はじめてこの流れる光を見た時とは確実にちがう何かが、私の中にある。
「……きれい、だね」
「ヒロ、目、閉じて。……願いごとしよう」
流れ星が消えないうちに。桜がぜんぶ散ってしまう前に。春がきみを、私たちを、追い越す前に。
固く閉じた瞼をゆっくりとあげたのは、私の中で唱えた願いごとが終わったのと、チャプン、と忘れかけていた水音がしたからだ。
目を開けた先には、ユーマが身を掲げてプールに手を伸ばしていている姿がある。
「ユーマ、なにしてるの」
「……星を」
宇宙みたいなユーマの瞳からは、もう星は零れていない。
「星を、掬おうとおもって」
揺れるプールにうつるその影を、光を、桜の花びらのような水面を、ユーマの細くて白い、けれども幾分か私よりも骨ばった男らしい手のひらが、そっと、掬いあげた。
暗闇に光るその水はひどく光って見え、ユーマの指の間を縫って滴り落ちるしずくさえも、うつくしい、とおもった。ユーマはうつくしいと形容されるそれを、恐ろしく綺麗に、すくいあげたのだ。
「ユーマ……」
「ヒロは覚えていないとおもう。おれが、ヒロを泣かせた前夜、おれとヒロは、初めて流れ星を、見たんだよ。目を閉じて、願い事をするんだって教えてあげたおれに、ヒロ、なんて言ったと思う?」
すくいあげたうつくしさをボタボタと夜空みたいな水面に落としながら。ゆっくりと、ユーマが私の方を見る。ユーマの瞳はやっぱり、宇宙みたいだとおもった。
「今はとても幸せだから、願いごとなんてないって。ヒロはおれに向って、そう言ったんだよ」
———ああ、そうか。やっと、わかった。
あのとき隣で星を見上げていたのも、私に目を閉じて願い事をするのを教えてくれたのも。曖昧な記憶の中にかすかに残るそれは、ユーマがわたしにとってかけがえのない存在だからだ。
「ユーマ」
パシャリ、と音がして。私はプールから足をあげ、ユーマと同じように身を掲げて、夜空のような水面に手を伸ばした。そして、うつくしい、を同じようにすくいあげる。
「ねえユーマ。ユーマは、わたしの記憶が曖昧なことも、人付き合いがニガテなことも、全部自分のせいだっておもってるでしょ」
「……」
「でもね、それは、ぜんぜん違うよ。ユーマ、頭いいくせに、全然わかってないよ」
ボタボタ、ユーマの手から零れ落ちるそれと同じように、私の手からも滴が零れる。ポタリ、ポタリ、ポチャン、ポチャン。
「わたしはね、ユーマがいたからこの世界に存在できたんだよ。……ユーマのせいでなんて、そんなこと誰も、わたしだって、思わないよ。」
手の中の水分がなくなっていくのを感じながら。私とユーマの視線はゆっくりと、絡み合った。
「ユーマ、私の世界を離さないでくれて、ありがとう」
その瞬間、ユーマの目から、今夜空を駆け抜けているあの光のようにきれいで、さっきすくいあげたようにうつくしい星が、つうっと頬をつたって零れ落ちた。
「ばか、どうして泣くの」
「、ヒロがおれに、……欲しい言葉を、くれたから」
完全に水分を失った右手を目元にもっていきながら、ユーマの口元がゆるりとゆるむ。頬をつたった滴はやがて夜空のようなプールの水面にポチャン、と落ちた。わらいながら泣くだなんて、ユーマは変わっている。だけれど、その姿がとてもうつくしくて、いとおしい。
「ユーマは案外、わたしよりも泣き虫だね」
「そんなことない、これは、ヒロのせいだ」
「ははっ、ユーマ、格好悪いなあ」
「どうせおれは、カッコわるいよ、うるさいな、」
はははって、私の笑い声に、赤い目をしたユーマがにらむ。
ウソだよ。格好悪くなんてないよ。たぶんきっと、誰よりもきれいだ。男の子にきれいだなんてそんな言葉、合っているのかどうかわからないけれど。わたしはユーマをとても、きれいだと思う。
「ねえ、ユーマ、ひとつだけお願い聞いて」
「……しょうがないなあ、」
ゆっくり立ち上がって、まだプールサイドに座り込んでいるユーマに手を差し伸べると、彼は私の手を取って同じように立ち上がった。いつの間にか顎の位置を上へずらさなければユーマの顔が見えないほど身長差ができていて、似ていた手のひらはちゃんと男の子のそれになっている。それだけの時間を、わたしとユーマは一緒に過ごしてきたんだ。
「……ぎゅってして。一回でいい。もう言わないから、今日だけ」
〝わたしのこと、妹だって思わずに、抱きしめてほしい〟———それは、わたしの、たぶん最初で最後の馬鹿げたワガママだ。
「しょうがないなあ、ヒロは」
さっきまで泣いていたくせに、とは言わずに、ユーマのその言葉を真正面から受け取ったわたしは、瞬く間に彼の腕の中にすっぽりと収まった。学ランのボタンが頬にあたって、少しだけ痛い。
「ありがとう、ユーマ」
「どういたしまして、ヒロ」
抱きしめられたまま。体温を分け合ったまま。私の言葉に寄り添うように、ユーマの返した返事が、頭の上から降ってきた。
———私たちの関係に名前をつけるのだとしたら、きっと〝兄妹〟というのが世間一般的に言っていちばんしっくりくるものなのだとおもう。血は決して繋がっていない。どういう経緯でなんてそんなの詳しくはわからない。けれど私がユーマの家に足を踏み入れたあの瞬間から今日まで、私たちはずっと一緒に育ってきた。
同じ家で、同じものを食べて、同じことでわらって、同じ時間に寝て、同じように遊んだ。
周りにたくさんひとのいたユーマと私では、同じように見えて実は過ごしてきた時間は随分と違ったのかもしれない。それでも、きっとこの世界でユーマといちばん時間を共にしたのはわたしだと、胸を張って言うことが出来る。
———過ごした時間と、与えられた環境を、自分の感情で塗りつぶしてしまえるほど、わたしは強くも、馬鹿でもないんだ。
だから今日、卒業式の前日の夜、星の見えるこの場所で。ユーマに対する自分のこの感情にオサラバするって、ずっと決めていた。それは、人間関係を築くのが誰よりも苦手なわたしが導き出した、最善の答えなんだ。
———ああ、それでも。
ユーマの体温は。ひとの、あたたかさは。
こんなにもあったくて、やさしいんだね。
「……ユーマ、今日まで、ありがとう」
これは、私自身に向けた言葉だ。私の中にある感情に伝えたい言葉だ。今日までありがとう。今日まで、私の中で生きてくれて、ありがとう。
「なんだそれ、別れの挨拶みたいだな」
「へへ、そうだよ。一種の別れでしょう、卒業するんだもん」
「高校は別のところだもんなあ」
「わたしともちゃんと遊んでよ?」
「遊ぶも何も、家に帰ったらいるんだから」
「はは、それもそーだ」
抱きしめられたこの温度を、わたしはきっと一生胸に抱えたまま生きていくとおもうんだよ。ユーマ、ユーマ、ありがとうって。
さっきお願いした、「ずっとユーマのそばにいられますように」っていう願い事は、きっとこうして叶えるんだ。流れるあの光が私たちにたどり着くまで。
「……これからもよろしくね、ユーマ」
「ん、こちらこそ」
春がきみを、追い越すまえに、この感情をわたしはここに置いておく。星の映る水面、キラキラと光る反射、桜のような儚い雫。
わたしは心の中で、そっと零れる星をすくいあげて。
きみは泣いたあとの顔をして、わらった。
【零れる星をすくいあげて】fin.