「――無理、かぁ……。しているように、見える?」
美咲の問いに、恵子はうなずいた。三月の半ばに引っ越してきてから今まで、弱音を一言も吐かずにがんばっている姿を、見ていたから。
「……そっかぁ」
苦笑を浮かべる美咲に、恵子はすっとうどの酢漬けを差し出す。ほんの少しだけ醤油をかけているが、これは去年漬けたものだから、かなり酸っぱくなっている。美咲はそれを食べて――ぽろりと涙を流した。
「酸っぱいよ、これ」
「泣けていいでしょ?」
涙を拭う美咲に、恵子は優しく微笑む。芽衣の『母親』として、美咲ががんばっているのは見ていればわかった。いつも気を張っているようで、時折見せる虚無の表情が気になり、ようやく問いかけることができたのだ。
「――直樹さんが亡くなってから、いろいろあったけど……芽衣がいたから、なんとかがんばれたんだ」
ぽつりぽつりと言葉をこぼしていく。
「そう……」
「うん。でもやっぱりさ、直樹さんのほうのご家族とは、ギクシャクしちゃって」
軽く頬をかいて、眉を下げる姿を見て、恵子は小さくうなずく。
「だからこっちに帰ってきたの。芽衣とちゃんと話し合ってね。……でもやっぱり、まだ心の中に穴が空いている感じなの」
「……そうね、愛した人を亡くしたんだもの」
恵子はそっと自分の胸元に手を置く。勇が亡くなったあと、その感覚を味わっている。ゆっくりと時間をかけて、その穴が小さくなっていくのを実感していた。
「お別れって、突然なんだねぇ……」
美咲は眉を下げる。乱暴に目元を擦るのを見て、恵子は立ち上がった。そして、美咲のところに移動してそっと彼女を抱きしめる。
ぽんぽんと彼女の頭を労わるように、慰めるように撫でると、美咲の涙腺が決壊したかのように大粒の涙が流れ始めた。
(泣くことを、我慢していたんだねぇ)
芽衣の前では気丈に振る舞っていたのだろう。亡き夫を想って泣くことを我慢して、ここに帰ってきたのだろうと考えて、恵子はきゅっと唇を結ぶ。
「がんばったねぇ」
「……うん、私……がんばったよ。……直樹さんを、交通事故で亡くしてから、ずっと、ずっとがんばっていたんだよ……っ」
抱きしめている恵子の腕に、縋りつくように美咲がしがみつく。その手が震えていることに気付いて、目を伏せてぽんぽんと優しく彼女の頭を撫でた。
死別した、とは聞いていたが交通事故だったとは初めて聞いた。勇とは病死だったため、心の準備をする時間があったため、突然の別れに彼女がどれだけ驚き、嘆き悲しんだのだろうと考えてたまらずぎゅっと抱きしめる。
「うん、うん……がんばったねぇ。今日は『お母さん』をちょっと休んで、明日からまた元気な姿を芽衣ちゃんに見せようねぇ」
恵子の言葉に、美咲はぽろぽろと涙を流しながらうなずいた。
美咲が泣き止むまでずっと、彼女のことを抱きしめていた恵子は、そっと料理に視線を落とす。
「さまれちゃったから、温め直そうか?」
「ううん、このまま食べる。けーこばあばの料理、さまれても美味しいし」
恵子は美咲から少し離れて、料理に手を伸ばす。すっかりと冷えてしまったので、温め直そうとしたが美咲はその手を止めた。
「……そうかい?」
「うん。あー、たくさん泣いちゃった! これはもう、呑むしかないね!」
グラスに入った日本酒を飲む美咲に、恵子は眉を下げて微笑む。先程まで座っていた場所に戻り、恵子もおちょこを手にしてぐっと飲み干す。喉を通るとカッと熱くなる。そして二人同時に「ふぅー」と息を吐く。
「このふきの煮物美味しいね。なにが入っているの?」
「いろんなものが入っているよ。今度、一緒に作ろうか?」
「あ、それも良いかも! 家だと、お母さんが手元を覗き込んで来てやりづらいんだよね」
泣いたことでスッキリしたのか、美咲はくすくすと笑いながら恵子との会話を楽しんだ。そのことに、恵子は安堵したように彼女を見る。
「美咲ちゃん、今日は泊ってく?」
「うーん、どうしようかな。私、もしかしてかなりやばい目になってる?」
小さくうなずく恵子に、美咲は「だよねぇ」と苦笑した。
あれだけ泣いたのだ。仕方ないことだろう。
「……このまま帰ったら、芽衣に心配かけちゃいそうだしなぁ……。うーんと……ちょっと待ってね」
バッグからスマートフォンを取り出して、電話をかける。すぐに電話が繋がり、「けーこばあばの家に泊まってもいい?」と尋ねる。電話の相手は恐らく、母親だろう。
「……うん、うん。わかった、じゃあね、芽衣のことお願いね」
電話を切って人差し指と親指で丸を作った。どうやら、許可を得たらしい。
「芽衣ちゃんは大丈夫そう?」
「うん、あの子お腹いっぱいになると、睡魔に抗えなくなっちゃうんだよね。だから、芽衣が目覚める前に帰るよ」
「そうかい。今度、芽衣ちゃんと一緒に泊まりにおいで。川の字で寝ましょ」
「あはは、それも良いかも!」
美咲と笑い合いながら、未来のことを語る。彼女は楽しそうにうなずきを返し、冷えた料理を食べながら日本酒を飲む。
すべて平らげて、美咲をお風呂に向かわせた。その間に布団の用意をした。幼い頃からたまに泊まりに来ていたので、美咲はこの家のことをよく知っている。お風呂からあがり、「けーこばあばもどうぞー」と声をかけてきた。
「美咲ちゃん、このお布団使ってね」
「わ、用意してくれたんだ! ありがとう」
「いえいえ。それじゃあ、私も入ってくるね」
とはいえ、お酒を飲んだあとだからシャワーだけで済ませた。さて、片付けをしようと思っていたら、どうやら美咲が片付けてくれたらしい。
「美咲ちゃん、ありがとうねぇ」
「どういたしまして! というか、こっちのほうがありがとう、だよ。それじゃあ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ。ゆっくり休んで」
――翌朝、美咲の目元はすっかり腫れが引き、元気に帰っていった。いろいろスッキリした表情を浮かべていたので、「またおいで」と声をかけてから彼女を見送る。作った料理すべて、美咲が食べてくれたので、恵子としても嬉しかった。
小さくなっていく背中を見つめながら、ふっと微笑みを浮かべる。
彼女はきっと、また『母親』として気丈に振る舞うだろう。
「さて、今日はどんな一日になるかねぇ?」
晴天の空を見上げて、恵子が目元を細めながら言葉をつぶやく。
きっと、今の美咲の心も、こんなふうに澄んでいるだろうと思いながら、家の中に入った。
「これ、本当に食べていいの?」
「ちゃんと美咲ちゃんに許可をもらっているから、大丈夫よ。芽衣ちゃん、誕生日おめでとう!」
「ありがとう、けーこばあば!」
五月のとある日。美咲に相談していたことがある。
五月は芽衣の誕生日だ。当日ではなくても、芽衣の誕生日をお祝いしたいと相談し、芽衣の誕生日から三日後に、芽衣を呼んでお祝いすることにした。
町内の小さなお菓子屋さんに、『たぬきさん』というたぬきケーキが売られている。一つ一つ手作りで、いろんな表情を見せてくれるたぬきの形をしたケーキだ。芽衣はそのケーキを見て、目をきらきらと輝かせる。
「かわいい!」
「でしょう? 私も好きなのよ」
スポンジとバタークリーム、チョコレート。耳は薄く切られたアーモンド。今でも一個、ぺろりと食べることができるケーキだ。
「……でも、この子を食べるの、どきどきするね」
「顔があるからねぇ」
フォークでつんつんとたぬきさんを突く芽衣に、恵子はくすりと微笑みを浮かべる。
じっと見つめている姿を見て、恵子は自分の分のたぬきさんをフォークで刺し、ぱくりと食べた。
「あ!」
芽衣が大きな声を上げる。恵子とたぬきさん、そして自分の分に視線を動かし、それから意を決したようにフォークでたぬきさんを刺す。
ゆっくりと口に運び、もぐもぐと咀嚼して目をぱちくりとさせた。
「芽衣の知らない味!」
「ふふ、バタークリームは初めてだった?」
芽衣にとってケーキと言えば、生クリームだ。しかし、たぬきさんに使われているクリームはバタークリームで濃厚な味わいが楽しめる。
「芽衣、このケーキも好き!」
「それは良かった。さ、もっとお食べ」
恵子はコーヒーを一口飲んでから、食べるようにうながす。芽衣はこくんと首を動かして夢中になってたぬきさんを食べる。普段食べるケーキとは違った味わいに、幸せそうに食べていた。
「芽衣ちゃん」
「なぁに、けーこばあば」
こくこくと麦茶を飲んでから、目の前の恵子を見つめる。こてんと首を傾げる仕草は、とても愛らしく見える。
「生まれて来てくれて、ありがとうねぇ」
芽衣は目をパチパチと瞬かせて、それから反対側にまたこてんと首を傾げ、それからにぱっと明るく笑った。
「けーこばあばは、芽衣と会えてうれしい?」
「うん、とってもね。芽衣ちゃんの成長が、楽しみの一つよ」
くしゃりと芽衣の細い髪を撫でると、芽衣はくすぐったそうに笑った。
きっとこの子はのびのびと育つだろう。どんなふうに成長するのか、とても楽しみだ。そして、誕生日にはどう過ごしたのかを尋ね、楽しいティータイムを過ごす。
「来年、またお祝いしてもいいかい?」
「うん、うれしい!」
来年の約束をして、和やかな雰囲気を楽しむ。来年また、たぬきさんを用意しようと心に決めながら、恵子は微笑んだ。
ミーンミンミンミン、ミーンミンミンミン。
セミの鳴き声が夏を感じさせる――いや、暑さからして夏なのだが。
「やれやれ、相変わらずこの時期はスーパーが混むねぇ」
八月のお盆前。特に十二、十三日はとっても混んでいる。それもそのはず。お盆の準備があるからだ。
「勇さんの好物を作ろうねぇ」
恵子は買ってきたものに視線を落とし、ぐっと拳を握る。帰省してくる人たちも多い時期なので、いろいろと準備が必要な時期。
大きめの鍋に水を入れ、キッチンタオルを濡らして出汁用の結び昆布をきれいに拭いてから鍋へ。火にかけて沸騰したら止め、十分ほど放置しているあいだに、他の食材も用意する。
高橋家の煮しめの具材は、焼き豆腐、ちくわ、さつまあげ、にんじん、ごぼう、しいたけだ。
一人暮らしなので少なめの材料にしたが、それでもそれなりにボリュームのある煮しめが出来上がる。
焼き豆腐は三分の一、ちくわは縦半分に切ってから二分の一、さつま揚げは半分に切り、しいたけはキッチンタオルできれいにしてから、軸を切り、傘に包丁を入れてバッテンになるように飾り切りをした。
しいたけの石づきを落とし、軸を斜めに薄く切る。これはあとで天ぷらにしようと考え、別皿に置く。
ごぼうはよい出汁になるので、入れるのがお勧めだ。アルミホイルを適当に破り、くしゃくしゃにしてから広げて、ごぼうを包み込むように軽くこすりながら水洗いをする。食べやすい大きさに切り、水につけて灰汁を抜く。酢水を作っておき、切ったらすぐにつけると色がきれいなままだ。
一分ほど放置し、水気を切る。切った食材を鍋に入れ、酒、みりん、めんつゆ、少しの砂糖を入れて、最後にかんずりを入れる。
以前娘に教えてもらい、試しに入れてみたらかんずりからも出汁が出て、美味しくなったので、それ以降かんずりがあるときは入れている。調味料に関してはすべて目分量だ。
落し蓋をして、蓋をずらしてしてから火にかける。最初の味付けは適当でも良い。沸騰したら味見をするから。
このときに薄いと感じれば、塩や醤油を足せばいい。
くつくつとした音を聞きながら、恵子はゆっくりと息を吐いた。
「……味がしみたほうが美味しいからね。勇さん、柔らかくなった焼き豆腐好きだったわよねぇ」
懐かしむように目元を細め、恵子はくすりと笑みをこぼす。勇が生きていた頃は、もっと大量に作っていたが、今はそんなに作っても食べきることができないので、年々作る量は減っている。
それでも毎年作ってしまうのは、勇の好物だったからだ。
「たらふくおあげんせ、勇さん」
きっと、自分のところに来てくれていると信じて、そっと目を伏せる。
「……美咲ちゃんたち、大丈夫かねぇ……?」
美咲と芽衣は、直樹の実家に行くと聞いている。以前、彼女が話してくれた内容を思い出し、恵子は頬に手を添えた。
ぼんやりと考え事をしているうちに、煮しめの良い香りが漂う。
「うーん、お腹空いちゃう匂いね」
小腹が空いたような気がして、煮しめが出来上がるまでにおやつを食べようとかりんとうを持ってきた。
地元で作られている、うずまきかりんとう。恵子が幼い頃から、親しまれている。
「やっぱりかりんとうと言えば、こっちのほうなのよねぇ」
黒い棒のようなかりんとうを思い浮かべ、眉を下げた恵子。うずまきかりんとうの袋を開けて、小皿に乗せ麦茶と一緒に楽しむ。
大きめのかりんとうなので、手で割って一口サイズにしてから口に運ぶ。薄くて食べやすいので、年配の方にも人気なかりんとうだ。
サクサクとした食感と、程よい甘さ。何枚でも食べられそうだが、煮しめの味見もしないといけないので、小腹が満ちるくらいで我慢し、ちらりと煮しめに視線を向ける。
「……そろそろいいかしらね?」
くつくつととした音を聞きながら、そわそわと立ち上がり、鍋の蓋を取った。
ふわっと湯気が舞う。菜箸で落とし蓋を取り、小皿に煮汁を取り一口味見してみた。
「んー……ちょっと薄かったかねぇ?」
醤油を多少足してかき混ぜる。もう一度味見をして、「ん、こんなもんだべ」と呟いて、火を止め蓋をする。
このまま放置しておけば、味がしみて美味しくなる。夕食に食べるのが楽しみだ。
「もうちょっと、食べようかしら……?」
ちらり、とうずまきかりんとうに視線を移動し、また食べ始める。
「食べ始めると止まらなくなるのよねぇ、これ」
サクサクと軽い食感を楽しみながら、恵子はかりんとうを美味しそうに食べた。
「……それにしても、今年はなんだか静かだねぇ……」
子どもたちもそれぞれの過ごし方をしているだろう。夏休み中だから、どこか旅行に行っているのかもしれない。
念のために買ってきていた花火やポチ袋の役目があるのだろうか、と一瞬考えたが、そのときはそのときだろうと首を左右に振る。
「それにしても……最近の夏は暑いねぇ」
サンサンと照りつける太陽に、恵子は両肩を上げる。あまりに暑いとなにもしたくなくなるが、家の中はエアコンで快適に過ごせる温度になっていて、動きやすい。エアコンは子どもたちが『絶対に使うこと!』と口を酸っぱくして恵子に伝えていたので、使っていた。
『気が付いたら熱中症でした、なんてことになったら、大変だべ?』
娘に言われた言葉を思い返しながら、エアコンをじっと見つめる。そして、扇風機も使っているのでそちらにも視線を向ける。
「年々、暑くなっているのは気のせいかねぇ……?」
日中は外に出るのをためらうくらいの暑さ。スマートフォンを見ても、テレビを見ても、熱中症に気をつけるようにうながしていた。
「あめさせないようにしないとねぇ……」
ちらっと煮しめを見つめる。冷蔵庫に入れておけば、悪くはならないだろう。
「夏ってあめやすいから、気をつけないと……」
痛んだ食事を食べて、食中毒にもなりたくない。改めて、しっかりと気をつけようと心に決めて、恵子はゆっくりと息を吐いた。
今年のお盆、恵子はわりとゆったりとした時間を過ごした。夏休み中の孫たちが遊びに来たので、ポチ袋の役目はきちんとあり、孫たちは「おばあちゃん、ありがとう!」と笑顔で喜ぶのを見て、恵子は満足していた。
そしてお盆を過ぎてから、美咲と芽衣が戻ってきた。少し疲れた顔をした美咲と、しょんぼりとしている芽衣を交互に見て、恵子は首を傾げる。
二人はわざわざお土産を渡しに来てくれたのだ。家に招き入れ、麦茶を二人に渡すと、彼女たちはコップを受け取って「ありがとう」とつぶやく。
「……なにかあった?」
「うーん、あったといえばあったというか……」
言い淀む姿を見て、恵子は芽衣に視線を向ける。芽衣はこくこくと麦茶を飲んで、じっと恵子を見つめた。
「芽衣ちゃんって、炭酸飲めたっけ?」
「うん……でも、なんで?」
「ちょっとね」
恵子は台所に向かい、初夏に準備していた梅シロップを取り出す。青梅をきれいに洗い、ヘタを取り、しっかりと水分を拭き取る。消毒した保存瓶に青梅と氷砂糖を交互に入れ、一日に一回シャカシャカと振る。そのうちにシロップになるので、水や炭酸水で割って飲めば、さわやかな味の虜になるだろう。
「芽衣ちゃんは、飲めるかな?」
「これなぁに?」
しゅわしゅわと気泡が見えることに、芽衣は興味深そうに眺めていた。
「梅シロップを作ったのよ。作り方も簡単だしね。それは炭酸水で割った梅ジュース」
「けーこばあばは毎年梅の仕込みしているもんねぇ……」
「梅漬けもたくさん出来上がったわぁ。熊谷家にもお裾分けしたから、たくさん食べてね」
「夏にぴったりなんだよねぇ、けーこばぁばの梅漬けって」
恵子が作るのは梅漬けで、梅干しではない。きちんと梅を干して梅干を作る家庭もあるが、梅漬けのあのカリカリ感が好きだからだ。やはり歯は大切にしなくては、と心の中でつぶやいていると、芽衣がおそるおそる梅ジュースに手を伸ばし、こくんと飲む。
「おいしい!」
「ふふ、良かった」
「良かったね、芽衣」
芽衣の頭に手を置いて、くしゃりと撫でる美咲。
その表情が和らいだのを見て、ぱんっと恵子が両手を叩いた。
「そうだ! 今夜、うちに来てくれない? 夜……そうね、暗くなってからがいいから、八時くらいに」
「遅い時間のほうがいいの?」
「ええ。せっかくだもの、私……二人と夏の思い出がほしいわ」
にこにこと笑う恵子に、美咲と芽衣は首を傾げた。
「とりあえず、八時にけーこばあばの家に行けばいいのね」
「どうして?」
きょとりとした芽衣の問いに、恵子は口元に人差し指を立て、「内緒」と楽しそうに微笑む。
そんな彼女のことを、美咲と芽衣は不思議そうに見ていた。
美咲たちは一度家に戻り、午後八時頃に再び恵子の家に訪れた。
「きたよー、けーこばあばー!」
元気の良い芽衣の声に、恵子は「はいはーい」と玄関に向かう。
「美咲ちゃん、手伝ってくれない?」
「え? う、うん……なにを?」
「このバケツに、水をお願い」
「……ああ! そういうことね、わかった、待ってて!」
美咲はバケツに水を汲んで戻ってきた。芽衣は不思議そうに恵子と美咲を見て、首を傾げている。そんな彼女に、恵子は「じゃーん!」と花火セットを見せた。
「花火だぁ!」
「せっかくだからね。一緒に楽しみましょう?」
夏休みに入る前から、手持ち花火セットがスーパーに並ぶ。
田舎だからこそ、できること。家の庭で花火を楽しむのが毎年恒例だ。
「わーい!」
「スイカも冷やしているから、あとで食べようねぇ」
「やったー! けーこばあばだいすき!」
両手を上げて大喜びする芽衣を見て、美咲は大きく目を見開く。そして、恵子に顔を向ける。
「火は危ないから、私か美咲ちゃんからつけてもらってね」
「うん!」
芽衣の目がキラキラと輝いているのを見て、美咲はきゅっと唇を結んでから笑顔を浮かべた。
「けーこばあばの言葉に甘えて、今日は手持ち花火大会だー!」
「わーっ!」
パチパチと両手を叩く芽衣に、恵子はうんうんとうなずき、花火セットの袋を開けて「どれから火をつける?」と問いかける。
芽衣はじっくりと花火を眺めて、「これ!」と二本の花火を持ち上げた。
「芽衣、花火を振り回しちゃダメだからね」
「はぁい」
ワクワクとした表情で芽衣が返事をする。それを聞いてから、美咲は芽衣の持っている花火の先にライターで火をつけた。すると、勢いよく火花が暗闇に咲く。
「わぁああっ! きれーっ!」
芽衣のはしゃぐ声に、恵子はにこりと微笑みを浮かべて、自分も手持ち花火を持って彼女に近付いた。
「芽衣ちゃん、私にも火をちょうだい」
「いいよー!」
芽衣の花火から火を分けてもらい、恵子も花火を楽しむ。ソワソワとしている美咲にも、声をかけ、手持ち花火を持つように言うとすぐに近付いてくる。
「たくさん買ったから、たくさん遊びましょうね」
「うん!」
「ありがとう、けーこばあば」
美咲がふわりと微笑む。日中に見た複雑そうな微笑みではなく、心の底から楽しんでいるような……そんな表情だった。
「どういたしまして。線香花火は最後に取っておきましょうね」
「そうだね。三人で勝負だ!」
「見てみてー! すっごくきれいだよー!」
花火を両手に持った芽衣がふたりを呼ぶ。
夏の暗闇の中に咲く火花は、とても美しかった。
その後、たくさんの花火を楽しみ、スイカを食べてから美咲と芽衣は実家に戻る。
線香花火の勝者は、――三人だけの秘密だ。
――くつくつ、くつくつ。
野菜が煮える音と匂いは、なぜこんなにも美味しそうなのか。
「けーこばあば、なにを作っているの?」
「夏野菜のカレーよ」
「カレー!」
「たまに食べたくなるんだけど、カレーってつい大量に作っちゃうのよね。芽衣ちゃん、食べるの手伝ってくれない? 美咲ちゃんも」
お盆が過ぎてから、元気を取り戻したのか美咲は仕事に精を出し、夏休みの終わった芽衣は学校から帰ると恵子の家に遊びに来ていた。
恵子が料理をしていると、芽衣が興味深そうに見ていたので彼女にも手伝ってもらった。包丁を持たせるのは怖かったので、恵子が輪切りにしたにんじんをクッキー型でくり抜いてもらった。それだけでも、『お手伝いしている!』という気持ちになるのか楽しそうに笑う。
星型やハート型にくり抜かれたにんじんをぽんぽんと鍋に入れてもらう。玉ねぎとにんじん、ピーマンや豚バラ肉、さらにお裾分けでいただいたトマトなどの夏野菜をぽんぽんと鍋に入れて蓋をし、火にかける。
「お水入れないの?」
「このお鍋はね、大丈夫なの」
無水料理用の鍋なので、なかなかの重さである。だが、その分食材からしっかりと水分が出て使うたびに驚いてしまう。
「たまに食べたくなるのよねぇ、カレー」
「芽衣はいっつも食べたい!」
「ずっと食べていたら飽きちゃうわよぉ」
くすくすと笑いながら、芽衣に言葉をかけると、彼女は「そうかなぁ?」と唇を尖らせた。
「そうよ。美味しいものも、毎日食べていたら飽きちゃうもの」
「まつたけも?」
「……大量に採れたらね」
秋になれば山を持っている人たちはきのこ狩りに出る。特に、町内の松茸は人気だ。八月末に採れる松茸を土用松茸と呼び、その松茸は香りがあまりしない。
本格的に採れ始めると、道の駅やスーパーにも並ぶ。
松茸だけではなく、舞茸や本しめじも並ぶ。秋はきのこが美味しい時期だ。
「けーこばあばはまつたけ買うの?」
「ううん、買わないよぉ。いつもお裾分けされているの。芽衣ちゃんは今年、たっぷり食べられるんじゃないかしら?」
毎年熊谷家や巣立った子どもたちからきのこをもらう。
「芽衣ねぇ、マイタケのほうが好き!」
「あら、そうだったの?」
「うん、美味しいもん! まつたけはよくわかんない!」
「ふふ、そうかもねぇ」
松茸が高級品という知識はあるようだが、芽衣は舞茸のほうが好みらしい。
「……今年はどのくらい採れるかねぇ」
「たくさん採れたらどうするの?」
「干してみようかしらねぇ? 良い出汁が出そうだわ」
芽衣との会話を楽しんでいるうちに、無水鍋から湯気が立つ。
「芽衣ちゃん、こっちおいで。熱いから」
芽衣を呼んで、三角の形をしたミトンで鍋の蓋を持つ。蓋を開けて水滴を回し入れるように蓋を動かし、中を覗き込んでみると、芽衣は「わぁ!」と声を上げた。
「すごーい! お水入れていないのに!」
「ふふ。野菜から水分がたくさん出たんだよ」
シリコンのスプーンでかき混ぜ、水分の量を確認して水を少し足した。沸騰したら火を止め、カレールゥを入れる。
いつも二種類を半々にして入れている。家のカレーは気分で味を決めるので、隠し味も様々だ。
「……けーこばあばはいろんなの入れるんだね」
「そうねぇ。ついいろいろ入れちゃうねぇ」
醤油やソースを入れることもあるし、ヨーグルトを入れたこともある。その日の気分によって食べたい味が違うので、同じカレーの味になることは滅多にない。
「うー、お腹空いてきた!」
「さましてタッパーさ入れるから、持って帰ってみんなでおあげんせ」
「はーい。……ねぇ、けーこばあば、『おあげんせ』ってどういう意味?」
きょとりとした丸い瞳に見つめられ、恵子は目を瞬かせてからふっと微笑む。
「『召し上がれ』って意味さね。ここら辺の方言」
「ふーん、そうなんだなぁ!」
出来上がったカレーを眺めながら、芽衣が「おあげんせ、おあげんせ」と繰り返す。きっと家に帰ったら、使うつもりなのだろう。
そっと芽衣の頭に手を置いて撫でると、彼女はくすぐったそうに笑った。
「あれまぁ、こんなにもらっていいのかい?」
「良いのよぉ。いつも美咲たちがお世話になってるから。それに……今年は豊作みたいだし」
眉を下げて微笑むのは、美咲の母である熊谷美穂だ。美穂は夫である淳が山から採ってきた松茸をたんまりと持ってきた。
それに戸惑ったように恵子が美穂を見る。美穂はひらひらと手を振りながら、松茸に視線を落とす。
「ありがたくもらうわ。松茸ご飯、今年も食べられるの嬉しい」
「こればかりはねぇ。でもあんまり採れると……冷凍庫が圧迫されるのよね……」
「ああ、それは問題ね……」
頬に手を添えて遠くを見る美穂に、納得したようにうなずく恵子。
「美味しいんだけど、余るとねぇ」
「贅沢な話なんだろうけどねぇ……」
それでも大量に採れて、毎日松茸料理が並べば、味に飽きてしまう。そのため、食べきれない松茸は冷凍することになる。
「舞茸も採れたらお裾分けするね」
「芽衣ちゃんの好物でしょ? 良いの?」
「良いのよ。ずっと食べていたら……ね?」
ふふ、と笑い合う美穂と恵子。
「それじゃ、いただいたから早速松茸ご飯作るわ」
「松茸ご飯も冷凍できるしね」
「冷凍庫の中身が不安になるわねぇ」
「彼岸も来るから、まんじゅうこしらえないといけないし」
「そうさねぇ。秋は美味しいものがいっぱいで困っちゃうわぁ」
食欲の秋とはよく言ったものだ、と恵子は肩をすくめた。
「それじゃあ、また」
「はぁい。たくさんありがとうねぇ」
松茸を置いて去っていく美穂を見送り、恵子は松茸の入った袋に顔を近付くてすぅっと大きく吸う。――毎年、この匂いを嗅ぐと秋だなぁと感じる。
「――さぁて、松茸ご飯の準備しなくちゃね」
採れたての松茸を持ってきてくれたようで、土がついている。その土をきれいに拭き取り、ボウルと包丁を用意して虫がいないかを確認していく。
自然のものだ。虫がいてもおかしくない。
恵子はせっせと包丁で剥いで確認し、裂いた松茸をボウルに入れていく。
「……本当はあんまりやっちゃダメなんだけど……量が多いとねぇ……」
ぽつりとつぶやいて、裂いた松茸のボウルに水を入れる。
本来なら松茸の香りが薄れてしまうので、水に浸けることはしないほうが良い。
――が、量が量だ。
「水に浸けておけば楽なのよねぇ……虫……」
水に浸けておけば勝手に虫が出てくる。一本や二本なら水に浸けなくてもいいだろう。
「自然の恵みに感謝して……大量に松茸ご飯作って、おにぎりして冷凍しちゃいましょう」
めんつゆを使えば簡単だ。お米も好きなだけ。あればほんの少しもち米を入れるのもお勧めだ。
「ホイル焼きやバター醤油も美味しいのよね。……まぁ、きのこ全般に言えることかしら」
松茸のしゃぐしゃぐとした食感や、舞茸のシャキッとした食感を思い出し、恵子はふふっと微笑みを浮かべる。
「ホイル焼きには醤油をかけて食べるのが美味しいのよね。秋って美味しいものが多いわぁ」