「何してんの?」
窓の方を向いていたから、誰かが来たことに全く気付かなかった。恐る恐る声がした方を向くと、明るい顔のクラスメートが立っている。
「……勉強の息抜き」
教室の入り口に立つ涼原敦に、無視するのはさすがに失礼だと、山村蒼は最低限で返答する。
「問い詰めたわけじゃないって」
快活に笑った彼が自分の机の方へ歩いて行くのを見て、蒼は前に向き直る。
テスト勉強の合間に、譜読みを兼ねてマウスピースを使った練習をしていたのだが、人の気配のある中ではどうにも集中できない。
早く帰らないかな、と念じながら、蒼はハンカチで意味もなくマウスピースを拭く。
「トランペット、だよな?」
さっきより近くから声をかけられて、思わず肩が跳ねた。
後ろの席に置いている開いた楽器ケースを目に留めたのだろう。
「そんなにびびんなくてもいいじゃん」
プリントやノートを手にした涼原は、相変わらずほのかに笑顔を浮かべている。
「テスト勉強しようにも、色々置き勉しててどうしようもなかったから取りに来たんだ」
「トランペットだよ」
金色の楽器本体は、五月の穏やかな日光に照らされてきらきらと輝いている。
会話は終わりと、蒼は机に広げた楽譜に視線を落とした。
「実際に吹いたりもすんの?」
早く帰れ、と言外に伝えようと、蒼は涼原の問いかけを無視する。
「山村、成績良さそうだもんな。先生も黙認してくれそう」
願いは叶わないようだったので、仕方なく口を開く。
「……ペットは音通るから、ここで吹いたら職員室でも分かるよ」
蒼の通う高校では、テスト一週間前から部活動の時間が短縮される。三日前からは活動禁止になり、今日はその三日前にあたる。
帰宅してずっと勉強できるほど勉強好きではない蒼は、一年の時から学校に残って勉強することが多い。三日前となると図書室や自習室で勉強する生徒が多く、教室に残る生徒は少ない。だからこうして勉強の合間に気晴らしすることもある。
とはいえ、実際に楽器を演奏したら、先生に気付かれて所属する吹奏楽部にもペナルティがあるだろうし、近くの教室には勉強に集中している人もいるかもしれないのだから、音は出さない。
「ふうん。確かに、グラウンドにいたら吹部の音、すぐに分かるもんな」
視界に入る涼原の腕はもうかなり日焼けしている。
「じゃ、テスト頑張ろうな!……同じクラスだし、一年よろしく」
軽く肩を叩かれた後、足音が遠ざかる。
蒼は頭を上げ、深く息を吐いた。気付かないうちに呼吸が浅くなっていたようだった。五月なのに、背中に薄っすらと汗をかいている。
マウスピースを唇に当て、音符を追って息を吹き込む。練習に集中して動揺を晴らそうとするのに、先ほどのやりとりはなかなか消えてくれない。
クラスメートの涼原と個人的に話すのは、初めてだった。
まさに爽やかなスポーツマンという雰囲気の黒い短髪。目はくりっとした二重で、指定のなんてことない白シャツも彼が着るとさまになっていて、間近で見ると一年の頃から女子に人気なのも納得できた。加えて、運動神経抜群で性格も嫌味がないらしく、男子の輪でも中心にいる。
蒼は容姿も地味で性格も内向的だから、そんな涼原と高校二年生で同じクラスになって一ヶ月と少し、関わったことはなかった。
蒼に興味があるはずもないのに、どうして。
陽キャの、気まぐれだろうか。
目を付けられたとかではなく、気まぐれであってくれ。
嫌な汗をかく自分に言い聞かせながら、唇を震わせ、マウスピースでかすかな旋律を奏でる。お腹に力を込め、安定した音を出すことを意識する。体から新鮮な酸素が徐々に失われていくと、不安感からも逃れられる気がした。
「六月の球技大会のメンバー決めまーす。男女別に集まって、適当に決めちゃってください。部活に近い種目はなしで。男子は、ソフトボール、バレーボール、卓球から少なくとも一つ、人数足りなければ二つエントリーしてもらってもいいです。女子は……」
金曜の時間割の最後のロングホームルームは、体育委員の呼びかけから始まった。
テストも終わって緩んだ空気の中、面倒だな、そんな時期か、何出よう、という盛り上がりと、立ち上がる際の椅子を引きずる音が混じって、教室は騒がしい。
蒼は重い腰を上げると、目立たないように既にできあがっている男子の集まりの端に加わる。
「とりあえず、運動部適当に分かれて、あとは均等に分ける感じで。一応、一年と三年の一クラスずつとチームで順位もつくし、あんまり恰好つかないとまずいんで、そこそこやれるようにお願いします!」
チョークを手に黒板の前に立つ体育委員はバスケ部の男子で、クラスでは涼原の次くらいに目立っている。
蒼に選択権はない。最後に人数合わせで決められるだろうと、黙って話し合いを見守る。
「じゃあ、俺、バレー!」
「俺らも」
口火を切ったのは、涼原だった。それに野球部の面子が続き、バレーと競技名が書かれた下に名前が書き連ねられていく。
「出れるならスズにはソフト出てほしいんだけどな」
「そっちのが楽だけど、野球部はソフトだめなんでしょ」
「まあ反則だよなあ」
輪の中心で笑い声が起こる。
「俺、ソフト行くわ」
体育委員が宣言すると、バスケ部とバレー部の男子が俺らも、と手を上げる。
「ラケット競技だし、卓球行きまーす」
テニス部の男子の宣言を皮切りに、卓球の欄にもぽつぽつと名前が増えていく。
さらにサッカー部、球技以外の運動部、と順に出場種目が決まった。
「運動部こんなもん? じゃあ、文化系とか、帰宅部の人、経験ある種目とか、希望あれば」
何でもいいよ、とか、中学の時は卓球部だった、とか、先ほどまでと比べると勢いのない主張を、体育委員は器用に仕分けていく。
最後はまだ決まっていない人が並んでいる順に発言を促されたので、蒼は自分の番で何とか声を絞り出した。
「……補欠なら、何でも」
「んー、じゃあ、人数的に山村はバレーでいい?」
蒼は小さく頷く。
バレーは腕が痛い。そして何より、集団競技だ。
とはいえ、ソフトだって捕球もバッティングもろくにできないし、卓球はダブルスでごまかしがきかないから、どれも似たようなものだ。
残りも同じような調子で答え、メンバー表が綺麗に埋まる。
「じゃあ、メンバーこれで。体育もしばらくは球技大会の練習らしいんで、ぼちぼちやりましょう」
体育委員の一声で、輪がばらけて、それぞれ自分の席に戻る。
「スズがいるの心強いよ。百人力じゃん」
「バレーコート広いじゃん。俺一人じゃ絶対カバーしきれないから。チームプレーで頑張ろ!」
大きな声とそれに連なる笑い声は、共通意思をなくした教室の中でもよく響く。
「じゃあ、あとは試合な」
体育教師の一声で円陣パスの輪が崩れる。蒼はそそくさとコートの外に出て、体育館の壁際に腰を下ろした。補欠に出番はない。
やがて始まった試合を手持ち無沙汰に見守る。前腕が痺れるように痛い。今はほんのり赤いが、明日にはうっすらあざのようになるだろう。
コートの中の同級生たちの動きは軽やかで、楽しそうだ。同じ人間なのにどうしてだろう。蒼はボールが来ると思うと体が強張ってうまく動けなくなり、その結果、ボールを明後日の方向に飛ばしてしまう。そして、周囲をいら立たせ、時に怒られる。
過去の経験がよみがえって、嫌な気分になった。決定的な出来事などない。ささいだが嫌な思い出は、数え切れない。
「ちょっと休憩! 誰か交代して」
明るく、誰の耳にも残る声は、涼原のものだ。笑顔でクラスメートの腕を引いて交代をねだっている。
高校二年生になって二ヶ月が過ぎたが、クラスの中心は紛れもなく涼原だった。
野球部の彼は圧倒的に運動神経が良く、賑やかな性格で周りに人が絶えない。要領がいいのか、勉強もそこそこできるので、教師の覚えも悪くない。
先ほどまでの試合も、バレー部といわれても信じるほどの動きだった。サーブをすれば傍目にも強烈な球威でストレート。レシーブもフライングでとってしまうし、スパイクも様になっている。加えて、トスなどのフォローも上手い。
休憩、というほど疲れているようには見えないが、全員が参加できるよう気を遣っているのかもしれない。
ありがた迷惑なんだけど、と内心毒づきながら、その交代劇をぼんやり眺める。他の人も余計なことに気付きませんように、と念じる。楽しい人だけでやってくれればいいのだ。
蒼が必死に気配を消そうとしていると、その涼原が近付いてくる。蒼と同じく控えの柔道部の笠原が同じく代わりのメンバーとして入り、試合は再開されようとしている。――仲間に入れてくれなくていい。やりたくない。
「……俺、別に、見てるだけで」
蒼が何とか声を絞り出したのに対して、涼原は腕を引いてきた。
「外、行こ。やりたくないんでしょ?」
降ってきたのは、予想もしなかった言葉。
蒼があっけにとられていると、さらに強い力がこもる。蒼は導かれるまま立ち上がる。涼原は満足そうに笑って、手が離れる。立った手前、座り直すわけにもいかず、歩き出した彼の後を追う。
涼原は入り口近くの籠から一つボールを掴むと、外に出てドアの傍に腰を下ろした。ぽんぽん、と隣の地面を手で示している。座れ、ということだろう。蒼は恐る恐る隣に座った。
「あっつー」
涼原は気楽そうに、ぱたぱたとシャツの中に空気を送り込んでいる。
どういうつもり、と喉元まで上がった疑問は、結局口にできなかった。同情? クラスの隅まで気にかけてますよアピール?
「運動苦手?」
「……うん」
涼原の問いかけに深い意味はなさそうだったので、蒼は素直に答えた。
「球技大会とか体育祭とか最悪? チーム決めのときも、今日も、死にそうな顔してるから」
「……いい思い出はない」
そっか、と涼原は笑っている。蒼をいつも動けなくさせる、ねっとりとした、嘲るような笑い声ではなかった。
「涼原は? いいの? あれだけできれば楽しいでしょ」
「んー、まあ、ほどほどがいいよ。あんまり頑張ると、おもしろくなくなっちゃうから」
「できすぎて達成感がないみたいな?」
後半の言わんとすることが分からなかったので、蒼は自分なりの解釈で聞き返す。
「……俺じゃなくて、周りがさ」
いつも教室で響いているような大きな声ではなかった。だが、蒼には今までで一番、大きく聞こえた。
「……ごめん。無神経なこと言った」
「なんで山村が謝んの。俺が自意識過剰なこと言っただけじゃん」
無神経なこと。想像力のないこと。勉強の出来不出来はあって当然なのに、運動が苦手で苦痛を感じるほどだと分かってもらえず、心無いことを言われること。――蒼の、嫌いなこと。
それなのに結局、自分も同じようなことをしている。運動ができて、勉強もそこそこで、人望もあって。きらきらしてるんだから、悩みなんてないだろう。せいぜいできすぎてやっかまれて困るくらい。――蒼を傷付けてきた人間と同じだ。想像力がなくて、無神経。
「腕、痛い?」
「え、大分収まったけど」
「じゃあ、ちょっとだけやってみよ。本番はルール上、どうしても出てもらわなきゃいけないからさ」
立ち上がる涼原にならって、蒼も腰を上げる。怖いからめったに人には逆らわないが、今は嫌々仕方なく、というより涼原の軽い誘いに導かれるように立ち上がっていた。
よしこい、と彼は立ち尽くす蒼から適度な距離をとると、ボールを投げてよこす。放られた緩いボールを、慌てて両腕ですくう。
「うまいうまい。腕振るんじゃなくて、腰からいった方が真っ直ぐとぶよ」
褒められた軌道ではない球を、涼原は当然のように蒼の元にきっちり返してくる。
蒼は言われた通り、心持ちしゃがんで体全体で返すよう心掛けた。
「そういう感じ!」
涼原が弾けるように言い、笑う。
返ってきたボールを、同じ要領で返球する。
「できてんじゃん!」
腕が痛い。チームの足を引っ張らなくても、誰も見ていなくても、別に楽しいわけじゃない。
立ち上がる必要も、練習する必要もない。どうして、と自分でも疑問に感じている。
でも、体育の時間なのに、今まで楽しいと思えたことのないバレーなのに、いつより心が軽い。
アンダーハンドパスでの往復が安定してきたら、オーバーハンドパスのやりとりに変わり、最後はサーブのコツまで伝授された。
「難しくないでしょ? これで味方か相手のコートに上げれば、何とかなるから」
「練習と本番は別だよ」
「うーん。じゃあ、俺がカバーして、何とかする」
涼原は自信ありげに微笑むと、そろそろ戻ろうかな、と体育館の中の様子をうかがっている。
「山村は様子見つつ、ぎりぎりに戻ってきたらいいよ」
彼は爽やかな笑顔を残して、ボールを手に中に戻っていった。
何だったんだろう。
涼原の背を見送った後、袖をまくったままの前腕に目を落とす。
痛いのに。嫌だったはずなのに。
満ち足りているのは、どうして。
放課後、一通りの基礎練を終えて曲の練習に入ろうと思ったら、机に楽譜を忘れたことに気付いた。休み時間に譜読みをして、そのままだったらしい。
教室に戻ると、勉強や雑談のためか、数人の生徒が残っていた。
帰宅部や彼らの他のクラスの友人たちの中に、珍しい顔を見つける。
とはいえ親しいわけでもないので、蒼は足早に自分の席に向かい、机の中から楽譜を入れたファイルを取り出す。
そのまま練習に戻ればよかった。でも、気付いたら声をかけていた。数日前の体育の時間の高揚感がそうさせたのかもしれない。
「珍しいね、残ってるの。部活は?」
蒼の声かけに顔を上げた涼原は驚いていた。その反応に現実に引き戻される。――あんなの、人気者の、気まぐれだよ。お前から話しかけられたいわけないだろ。心の中の意地悪でネガティブな自分が囁いてくる。
「そう! この数学の課題、今日までだったの忘れてて。顧問とか先輩に怒られるの面倒なのに」
涼原は唇を尖らせておどけている。そのあっけらかんとした明るさに、心の中の卑屈な自分が焼き払われるようだった。
「でも、もう終わりそうだね」
プリントはほとんど埋まっている。教科書の例題レベルだから、授業が理解できていれば難なくできるだろう。だが、一か所だけ、何度も消した跡が残った空欄が目に留まった。
「そこも他の問題と同じ公式使うだけだよ。変形の仕方がちょっと違うだけ」
「え、まじ。これだけ割り切れなくて、何かうまくいかないから……分かるなら、教えて」
涼原が前の空いた席を指さすので、蒼は椅子を引いて遠慮気味に腰掛ける。
「……山村って理系?」
彼が解けていない問題に再びシャーペンを走らせるのをぼんやり見ていたら、話しかけられた。
「まだ決めてないけど、理系教科の方が得意かな」
「すげえ、俺、数学とか物理とかだめ」
「そこ、値を代入する前に文字でくくって因数分解した方がいいよ」
次の行を移ろうとする涼原のシャーペンの先を指さす。
「そっか。ずっとここで代入して計算しようとしてたわ。式のまま扱うんだ」
蒼の一言で要点を理解したらしく、涼原は残りをすいすいと書き付けていく。
最後まで見届ける必要はなさそうだと、蒼は立ち上がる。
「ありがとな。助かった!」
「大げさだよ」
わざわざ顔を上げて礼を述べてきた涼原に、蒼は表情を緩め、教室を後にした。
人目も気にせず、涼原とあんなに気楽に話せるなんて。初めて話した放課後は、嫌な汗が出るほどだったのに。
話せて、嬉しかったとさえ感じている。
音楽室までの廊下を歩く足取りも軽い。蒼は自分の変化に驚いた。
「昨日、ありがとう」
翌日、終業のショートホームルームが終わり、蒼が荷物を整理していると、席の前に涼原が立っていた。笑顔で差し出してきているのは、のど飴の袋だ。
「数学、教えてくれたお礼」
「別に教えたってほどじゃなかったのに。涼原すぐ解けてたし」
「でも、山村の一言がなかったら、ずっと詰まってたと思う」
ほら、と涼原は諦めずのど飴の袋を突き出してくる。受け取らないと終わらないと悟り、蒼は手を出して袋を掴む。
「ちなみになんで、のど飴?」
春だから、特別乾燥しているわけでも、風邪の季節でもない。
「吹部の奴への差し入れって何がいいかよく分かんなくて。吹いて、口疲れたときとか、ほしいかなって」
「合唱部じゃないんだから。……でも、ありがとう」
おう、と嬉しそうに涼原が笑う。自分に向けられたら、女子は嬉しいだろうな。涼原が女子に人気があることを改めて思い出していると、「スズ、行くぞ」と野球部のクラスメイトが涼原を呼ぶ。
「部活、頑張ろうな」
「うん」
去っていく涼原を見送り、蒼はのど飴の袋をリュックサックに押し込んで立ち上がる。
「スズって、山村と面識あったっけ?」
誰かが、涼原に話しかける声が聞こえた。
「面識って、同じクラスじゃん」
「ほーんと博愛主義だよな。山村とか大人しくて何考えてんのか分かんないじゃん。よく話続くな」
何てことないクラスメートの声が、べたりと蒼の体に張り付くようだった。この会話の流れからよく言われるはずがない。早く教室を出ないと、と思うのに体は動かない。
間違ってはいない。同じ人間だが、学校では立場が違えば同じ人間ではない。それが学生の暗黙のルールだ。お互いに気持ちよくやっていくための、みんなのためのルール。
「別に、同い年なんだし、考えてることなんかそう変わんないでしょ」
涼原の声は明るくも、どこか冷たかった。
「どうやったらもてるかとか?」とふざける彼らを、涼原は「部活行こーぜ」とあしらっている。
少し話しただけだから当然なのだが、彼のことはよく分からない。
やっと動き出せた蒼は背負ったリュックサックの紐を強く握りながら、彼らの視界に入らないルートで教室を出る。歩くと、中にしまった飴の袋が動いて乾いた音を立てた。
涼原は、蒼の苦手な軽薄な人気者なのか、人間として対極にいる蒼も対等に扱う人格者なのか。蒼は部活動が始まっても、ぼんやりと考えていた。
今日はランニングの日だ。体力増進と肺活量アップのため、吹奏楽部では毎日練習前に腹筋運動をし、週に二日は学校の周りを走っている。
効果のほどは定かではないが、一年の頃はノルマの三周をこなすので精一杯だったのが、今は余裕をもって走り切れるので、多少の効果はあるかもしれない。
グラウンドの横を走っていると、練習に励む野球部の姿が目に入る。蒼は隣を走る部員に声をかけた。
「足立って、涼原と同じ中学だったよね」
彼女は蒼と同級生で同じトランペット担当だ。
「そうだけど、どうしたの、急に」
「いや、最近ちょっと絡む機会があって、話す前は人気者って印象しかなかったんだけど、話してみたら、よく分かんないなって感じで」
「私も中学が同じってだけで、別に仲良かったってわけでもないし。まあ、中学のときから人気はあったよ。運動できるし、明るいし、でも、偉そうってわけでもないから」
彼女からは、蒼の印象通りの答えが返ってくるだけだった。
「でも、そんな完璧な奴いんのかって感じだよね。軽い感じだし、八方美人にも思えて、私は何か苦手だったな。高校入って、中学一緒だったんだよね、って女子から色々聞かれることもあったけど、山村の分かんないって感覚の方が、分かるよ」
「……そう」
「意外な組み合わせだね。人気者の涼原くんは根暗の山村にも優しいの?」
足立の言い方は、言葉とは裏腹に蒼ではなく涼原を揶揄するような色があった。中学時代に定まった苦手という評は、今も変わらないらしい。
「王子様は、村人Zにも優しいんじゃない」
蒼は冗談交じりに返答した。
分からない、という理解が正しいのかもしれない。
きっと、人気者でも、人格者でもない。人間だから、もっと複雑なのだろう。
ケースからトランペットの本体を取り出し、マウスピースをはめる。蒼は立ち上がって演奏を始めた。六月に入って梅雨入りも近いようだが、今日は久し振りに朝から雨の気配もなく青空が続く休日だった。河川敷を吹き抜ける風も穏やかで心地よい。
ミュートを付けて家で練習してもいいのだが、思い切り音を出したいときには、こうして自転車で外出する。
課題曲を軽く復習した後、過去のレパートリーや流行歌を耳コピで適当に吹いたところで満足して、腰を下ろす。
「うまいもんだな」
ぱちぱちと乾いた拍手とともに、声が降ってくる。びっくりして振り返った先には、もう見慣れた顔のクラスメートがいる。
「ごめん、びっくりした?」
「そりゃ、するでしょ」
「練習?」
動きやすそうな半袖と短パン姿の涼原は、断りなく蒼の隣に座っている。
「まあ」
「ここ、よく来るの? 俺もこっちまで来ることめったにないけど」
「家からそこそこ遠いし、気が向いたら来るくらい。涼原は、ランニング? 部活は?」
「今日は朝だけ。まだ体力余ってんなと思って、午後からは自主練がてら走ってる」
「――涼原って、なんでうちの高校なの? 運動神経めちゃくちゃいいし、そういう強豪校でも活躍できそうだけど」
「中学も野球部だったけど、別に強くもない軟式でそんなに本気じゃなかったし。そもそも野球部入ったのも、少年野球やってたとかじゃなく、友達とか知り合いの先輩に誘われたから。勉強はそこそこだから、近くて通いやすいうちの高校にしたってだけ。普通の場所にいるからすごく見えるだけで、真剣にやったり、強豪校なんか行ったら、俺なんか埋もれちゃうって」
「……なんか、もったいないね。涼原は、もっとできるし、本気出したら、すごいとこいけそうなのに」
思わず本音がこぼれて、自分でも驚く。
授業程度であれほどできるのだから、バレーだって本気でやればすぐエースになりそうなものだ。何でもできるから、ひとつのことに打ち込むこととは無縁なのかもしれない。あるいは、持て余すほどの才能は周囲との軋轢を生み、彼を傷付けて、何かひとつに決めることから遠ざけているのかもしれない。趣味も特技も、中学から続けているトランペットくらいしかない蒼とは違って。
でも、それはもったいないような気がした。
涼原が本気になれば、もっと上にいけるだろうし、そうすれば違う世界が開けるかもしれない。
「みんな、俺のこと買い被り過ぎだよ。ほどほどにやって、ちやほやされてる方が楽だし。……真剣になるのが怖い臆病者なの。楽器、ずっと一生懸命やってる山村の方が、すごいよ」
湿っぽい声に、嘘はないように思えた。
他人がいうような人格者ではないかもしれないが、軽薄な人間というわけでも、蒼をからかうために近付いてきたわけでもなさそうだ。
「俺、話しやすいの? そういう愚痴みたいなこと。陽キャの、カースト上位のグループじゃ話しにくそうな話とか」
「……山村って結構辛辣な言い方するのな」
涼原は一瞬答えに困ったようだ。
「本当のことじゃん。俺は暗くてカースト底辺だし、きらきらした力のある人たちに目を付けられないといいなって思いながら過ごしてるよ」
いじめというほどのものはなかった。だが、小学校の高学年くらいから、名前が女っぽいとからかわれるようになり、中学で男子の少ない吹奏楽部に入ってからは、男のくせにとそれも揶揄されるようになった。加えて、運動が苦手で体育や体育祭では足を引っ張るから、集団生活での風当たりはさらに強くなる。その結果、蒼が体得したのは、なるべく傷付かなくて済むよう、息を殺して学校生活を送ることだった。
「じゃあ、同じクラスになってから、俺が声かけるの、嫌だった?」
嫌だった、と答えたら、ごめん、もう話さない、ということになるのだろうか。
初めて話した五月の放課後はそう望んでいたはずだった。
でも、もう嫌というほどではない。むしろ。
蒼は悩んで、答える。
「……嫌というより、怖かった。涼原みたいな人気者が、俺と絡むメリットないし。裏で笑ったりされてんのかな、って」
「軽い気持ちで、ちょっと馬鹿にしたようなこと言う奴もいるけど、俺はそうじゃないつもりだよ。山村のこと、下に見たことない。楽器ずっと頑張ってんのも、数学得意なのも、俺よりすごいと思うし。確かにいつも一緒にいる奴らとは違うタイプだから、もっと知りたいって思ってるけど、それは変な好奇心じゃない」
予想外の熱のこもりように戸惑う。
でも、大したとりえもない地味な蒼を真っ直ぐ肯定してくれて、嬉しかった。涼原が蒼に構ってくる理由もはっきり述べてくれてほっとする。
「ごめん。純粋に接してくれてた気持ち、疑って」
だから、蒼は素直に謝罪の言葉を口にした。
「山村が謝る必要ないって。俺こそ、怖がらせてごめん。やっぱり、俺って無神経なんだよな」
涼原が笑う。その笑い声が、嫌いどころか心地よいと、初めて認められる気がした。
「山村ってなんで吹部選んだの?」
「中学は部活入るの半強制で、運動部以外だと吹部か創作部の二択でさ。絵を描くとかもさほど興味なかったから、吹部の見学行ったんだ。数人だけど先輩に男子もいたし、厳しくなくて初心者もついていけそうだったから、とりあえず入部してみて」
「へえ。トランペットはどうして?」
「かっこよかったから。音の存在感とか奏者が構えた時の佇まいとか」
部活見学の際、楽器紹介として各担当の部員が順に演奏を見せてくれた時、楽器の大きさからは想像できないほど力強く高らかな音にまず惹かれた。そして、その音色で力強く合奏を引っ張っていくさまに、気付けば心は決まっていた。
「吹部の中ではメインというか華あるよな」
「似合わないと思うけど」
楽器の中でも認知度は高い方だろうし、吹奏楽だと主旋律を担う場面も多い。惹かれたのは、生まれてこの方目立つことのなかった人生における反動なのかもしれない。
「いいギャップじゃない?」
涼原の相槌はからりとしている。
「涼原は? ポジションどこなの?」
「センター。あ、野球分かる?」
「うん。父親がプロ野球見るから。ピッチャーじゃないんだ」
「ピッチャーは経験者には敵わないよ」
「でも、センターもできる人がやるイメージだな。涼原、足も速いし向いてそう。打順は?」
「今は三番」
「さすが。二年でもうクリーンナップなんだ」
「ランナー返したり、次につないだり、プレッシャーやばい。――あ。ちなみにこの後、時間あったりする?」
「え、まあ、予定は特にないけど」
急に話題を変えた涼原に、蒼はたじろぐ。
「また数学教えてくれない? ぽつぽつ分かんないとこあって。夏の大会あるし、七月の期末テスト前あんまり勉強できなさそうだから、今のうちにつぶしておきたくて」
「……俺に分かる範囲なら。でも、この後って」
「ちょっと待ってて。俺、すぐに帰って教科書とか持って自転車で戻ってくるから」
言うなり、涼原は勢いよく立ち上がった。あまりの行動の速さに驚く。
「分かった。練習してるから、別に急がなくていいよ」
ありがと、と眩しく笑った涼原は、身を翻すと結構な速さで走っていく。
どうしてこうなった、と戸惑いながらも、蒼の気持ちは晴れ上がる空のように明るかった。
宣言通り三十分と経たずに戻ってきた涼原は、ここから十分ほどのところにあるカフェに行こう、と誘ってきた。家からも学校からも離れる方向で地理に詳しくない蒼は、彼の後ろを自転車でついていく。
着いたのはチェーン店のカフェ。周囲と仕切りのある席が多く、案内された二人席も落ち着けそうだ。
二人ともアイスカフェオレを注文したところで、向かい側の涼原が問題集とノートを開く。
「まず、これ」
涼原が指さしたノートには、途中まで解答がつづられている。蒼は問題を読んでから、彼の解答をたどる。
「これは前の問題の答えがヒントなんだ。aの五乗が分かってるから、aの五乗をわざと作って代入するイメージ」
「ってことは……」
少し考えて、涼原がシャーペンを走らせる。そしてあっという間に答えにたどり着いた彼は、顔をを上げて「こういうこと?」と尋ねてくる。
「うん。正確な数字は解答確認してほしいけど、流れはそんな感じのはず」
同じ調子で次の問題を片付け、届いたアイスカフェオレを飲みながらアドバイスを続ける。
分からない、といっても、途中までは手がつけてあるし、少し助言をすればすぐ正解に辿りつく。物分かりがいいのだろう。
「コツつかめた気がするから、これはちょっと頑張ってみる」
そう言って、涼原は集中している。クラスで見かける時は笑顔などの明るい表情が印象的だが、真剣な表情は凛々しくてかっこよい。イケメンは何をしても絵になる、と蒼はしみじみ彼を見ていた。
「なんか間違えてる?」
視線に気付いたのか、涼原が頭を上げて聞いてきた。
「いや、大丈夫だと思う。その調子」
蒼の返答は焦ったせいか棒読みになった。ならいいや、と再びノートに向き合う涼原に、ほっとする。
――かっこいいなって見てたなんて。好意的な感情とはいえ、蒼から言われても涼原も困るだけだろう。
涼原と二人きりで長い時間過ごして、調子が狂ってるんだ。蒼はそんな風に己に言い聞かせる。
「まじ助かった! ありがとう」
カフェオレが残り少しになる頃、一時間も経たないうちに、涼原の疑問は解決したらしい。
「涼原、ちゃんと分かってたから、俺は大したことしてないよ」
「授業はそこそこ分かるから、例題とか基本問題は解けるんだけど、応用問題になると詰まっちゃうからさ。めちゃくちゃ助かった。テストは応用問題も結構出るじゃん」
「俺も復習になって勉強になったよ。ありがとう」
蒼が素直な気持ちを述べると、涼原は小さく口を開けて驚いたような表情になる。
何か驚かせるようなことを言っただろうかと蒼が考え始めると、涼原が気を取り直したように口を開いた。
「……吹部って、どこから応援来てくれんだっけ」
「え」
蒼は急な話題の転換についていけない。
「夏の大会」
「あ、えっと、どうだっけ」
やっと涼原の言わんとしていることに理解は追いついたものの、答えは分からない。野球部が夏の大会をどこまで勝ち進めば、吹奏楽部がスタンドで応援するのかということだろう。
「うちの野球部、弱いもんなー。最近、応援来てもらえるとこまで勝ったことあんのかな?」
「……ないんじゃないかな。そのための練習しようって話にもならないし」
「そうだよな。去年なんか初戦コールド負けだし。……今年は、もっと勝ちたいな。応援、来てもらえるくらい」
「じゃあ、頑張ってよ、応援行けるくらい」
応えるように返して、蒼は自分で驚いた。
野球部が強ければ、その応援も吹奏楽部の活動の一部なのだろうが、そんな機会については考えたこともなかった。野球部の人間はどちらかというと苦手な部類の人が多く、応援したいと思ったことがないから。
だから、驚いている。自然と応援に行くという意思を示していたことにも、涼原と冗談交じりのやりとりができるようになっていることにも。
「おう! 対戦相手が吹部の応援されてるの、いいなって思うんだな。応援してもらえたら、気合入るだろうなあ」
涼原は蒼の戸惑いも知らず、輝くように笑っている。
その笑顔につられて、初めて球場で演奏する自分を想像した。それは、思ったより悪くなさそうだった。
涼原と応援の話をしてから、応援のための演奏動画などを見るようになった。演奏のスタイルから曲目まで、演奏会やコンクールとは違って勉強になったし、おもしろかった。そのうち何曲かは、耳コピして吹いてみて、部活での音出しのレパートリーにも加わった。
なかでも、応援曲としては人気らしい『アフリカン・シンフォニー』が気に入っている。
軽快でグラウンドで躍動する選手によく合うし、重厚な力強さはきっと選手も応援する方の気分も盛り上げてくれる。なにより、多数の楽器が入り乱れる華やかさは、涼原にぴったりだ。
誰かを応援するなら、まず自分がしっかりしなければならない。自然と普段の練習にも身が入るようになった。
「……野球の曲でしょ、それ」
金管楽器の担当全員が一部屋に集まり、思い思いに音出しをしている。蒼は普段から他人のことは気にしないが、ホームルーム長かったとぼやきながら少し離れたところに譜面立てを置く足立は違ったらしい。
「涼原に何か言われたの?」
「夏の大会の、応援の話はしたけど」
「平日も公欠扱いで応援行けるのは、ベスト16からだっけ。二つか三つ勝たなきゃいけないはずだよ。弱小のうちじゃ絶対無理。過去行ったことあんのかな」
「……詳しいね」
「演奏会とかコンクール以外の演奏の場も興味あったし、入部してから先輩に聞いたことあるんだよね。うちらも人のこと言えないけど、せめて頑張ろうよ、コンクール」
足立はそう言ったきり、マウスピースを取り出してウォーミングアップを始めた。
蒼は急に冷静になった。コンクールの課題曲の楽譜を開き、苦手意識のある部分をさらい始める。
クラスの同性の人気者と少し話したからって、誠実に接してくれたからといって、涼原が他人には見せないような本音をちらつかせてくれたからって、はしゃいでどうする。
彼に偏見がなくなって、平凡なクラスメートになれそうなだけ。
親しくなれたなんて、思い上がって何がある。
蒼は余計な考えを消そうと、同じ旋律を繰り返す。
球技大会の当日は、梅雨の真っ只中のくせに、気持ちよく晴れた。予定日に雨が降れば延期、次の候補日も雨ならば中止になるので、蒼はそれを期待して当日の朝を迎えたのだが、空は無常なほど明るかった。
一学年六クラスの総当たりで、午前二試合、午後三試合。二十点で一セットの二セット選手。全員参加がルールなので、一セットは出ざる得ない。観戦は苦ではないが、心許なく、退屈な一日になりそうだった。
登校して体操服に着替え、一試合目の場所である体育館に向かう。授業のない遊びのような一日なので、大半の生徒は楽しそうだ。
「今日は一日よろしく。楽しく勝ちにいこ!」
円陣の真ん中にいるのは、やはり涼原だ。
「一セット目は練習もメインだったメンバーで、二セット目は適当に笠原と山村と交代して、三セット目ははじめと同じメンバーでいいよな? 怪我気を付けて、頑張ろう!」
おお、というかけ声の後、円陣がばらける。
蒼は同じく補欠の柔道部の笠原と体育館の隅に座り、試合の行方を見守る。
「涼原ってすげえよな。俺、球技ほんとだめだから、助かるわ」
ジャンプとか機敏な動き無理だし、と笠原は笑っている。
「……うん。俺も運動苦手だし、うまく仕切ってくれて感謝してる」
涼原は、初っ端から当然のようにサービスエースを決め、コートの中は試合に勝ったかのように盛り上がっている。
初戦で体力があり余っているのか、蒼のクラスが一セット目を先取した。二セット目を前に、蒼は重い腰を上げてコートに入る。
「一セット目取れたし、二セット目は気楽にいこー!」
涼原に調子乗らせんな、と相手チームが沸く。
「……俺、ローテの隣いくし、なるべく拾うから。真正面きたボールだけ、落ち着いて取ってくれればいいから」
蒼がポジションに迷っていると、涼原に背中を押された。
「……球技大会での出来なんか、誰も何も言わないよ。前の練習みたく、ボール上げてくれれば、適当につながるから」
大丈夫、と笑って、涼原が蒼の隣のポジションにつく。
「……ありがとう」
蒼は頷いて、前を向く。五セット分、我慢すれば終わる。去年のサッカーより、随分ましだ。
それに今年は、涼原が隣にいてくれる。
大丈夫。
三セット目を惜しくも落とし、最終試合は負けで球技大会は終わった。
「勝ち越しだけど、負けて終わるの悔しい!」
輪の真ん中で、涼原が騒ぐ。勝ち越しでも十分でしょ、ソフト連敗だって言ってたし、と他のメンバーがそれぞれ感想を述べている。
最終試合は屋外コートだったので、そのままの流れで結果発表と表彰式の行われる体育館に向けてまとまって動き出す。蒼は最後尾を黙って歩いた。
「笠原、レシーブ鉄壁だったな! 四試合目とか、めっちゃ頼もしかったよ」
まとまりの真ん中にいる涼原が、メンバーそれぞれに労いの言葉をかけている。
「いや、明らかに狙われてて、来るって分かってたし。痛いのは慣れてるから、とりあえず上げよ、と思って。そのあと、涼原が決めてくれたおかげだよ」
「バレーは上がんなきゃ始まんないよ」
涼原が笑って、笠原の肩を叩く。
なぜだか、それがおもしろくなかった。胸をちりちりと焼く感情は、明らかにいら立ちだ。
どうして。感謝こそすれ、どうして憤る気持ちが湧くのか。
蒼は戸惑いから顔を伏せる。
「……山村も、お疲れ。レシーブも、トスも落ち着いてできてたじゃん」
いつの間にか、涼原が最後尾まで下がってきていた。
「涼原が、フォローしてくれたから。ありがとう。助かった」
言うべき礼の言葉がスムーズに出せたことにまず安堵した。
「苦手なこと、一日ずっとすんのしんどいよな。……お疲れさん」
明るく優しい言葉が、いつもより染みて、刺さる。
――楽器、ずっと一生懸命やってる山村の方が、すごいよ。
蒼だから、ではない。蒼だけ、ではなかったのだから。
笠原だって柔道部で一生懸命頑張っている。だから、涼原は好意的に接する。
涼原にとって、蒼は気に掛けるべきクラスメートの一人にすぎない。みんなに優しいのが涼原。吹奏楽部だから、蒼だから、特別なわけじゃない。いつの間にか抜け落ちていた前提を自身に言い聞かせながら、蒼は声を絞り出す。
「涼原が、気遣ってくれたから、去年より楽だった。全然、大丈夫」
体育館が近付く。感謝の気持ちを込めて、明るく言えただろうか。
七月初旬のその日は、朝から何となく教室が静かだった。
「野球部以外全員いるな」
朝のショートホームルームで、担任が教室を見回して確認する。
――夏の、大会が始まる。
ささいな連絡事項を伝えて、担任が出ていく。蒼はリュックの中から、一限の授業の教科書を取り出す。リュックのファスナーを閉める時、小物入れのスペースに入れたスマートフォンを意識した。
昨夜初めて、涼原から個人的に連絡がきた。
『部活とかお疲れ! 涼原です』
『明日、初戦。主将のくじ運良くて、2つ勝てば、ベスト16だって』
『明日は同じような公立だし、勝てるように頑張る!』
メッセージアプリのクラス全体のグループで連絡先を探したのだろうか。
球技大会の日以来、蒼からは関わる気になれず、話す機会もなかった。話せなくても、何ら問題なく日々は過ぎる。それが普通だった。むしろ、あれだけ交流があったのが異常だったのだ。そう、言い聞かせていた。
だから、メッセージが届いて嬉しかった。ただのクラスメートでも、平等な好意でも、涼原の意識の中に自分がいるらしいことが。
『頑張って。ベスト16までは、心の中で応援歌吹いてるよ』
ずっと上の空で返信の内容を考えたわりに、無難にしか返せなかった。すぐに、ありがとう、頑張る、のスタンプが返ってきた。
いつしか日課になったメロディーを奏でるように、机の下で指を動かす。
頑張れ、と祈りを込めて。
夜になっても、外はねっとりと蒸し暑い。
吹奏楽部も月末にコンクールの地区予選があるので、遅くまで練習する日々が続いていた。そんな練習終わり、部員たちと団子になって校舎を出て、校門近くで電車通学のメンバーと別れ、蒼ら自転車組は駐輪場に向かう。
「山村!」
その途中で、不意に名前を呼ばれた。よく通る声の主は、もう考えなくても分かる。
「話したいから、途中まで一緒に帰ろ」
停めた自転車の傍で、涼原が手を振っている。運動部、文化部問わず夏の大会に向けて大詰めの部活が多く、帰りがけの生徒も多い。注目を浴びている気がして、居心地が悪い。まず、周囲の吹奏楽部のメンバーが驚いている。
「自転車とるから待って」
無下にもできず、蒼は涼原に返事をして駐輪場に急ぐ。部員たちには、クラスメートなんだ、と言い訳を残して。
自転車を小走りで押し、涼原のもとへ向かう。
「ごめん、急に声かけて」
「……別に、謝ることじゃないけど。一緒に帰るって言っても、逆方向でしょ」
並んで自転車を押して、校門をくぐる。河川敷で会ってカフェで勉強会をしたあの日、途中まで一緒に帰ったので、お互いの家の場所は何となく分かっている。
「直接話したくてさ、口実? 俺が誘ったから、山村の家の方行くよ。あっちコンビニあるじゃん、そこでちょっと話そう」
校門を出ると、駅に向かって歩く生徒らと自転車で並走して帰っていく生徒らで夜道はにぎやかだ。その中で自転車を押している、かつ男二人は目立っているように思えて落ち着かない。
「いいけど、何」
涼原のいうコンビニまでは、歩いて五分とかからない。わざわざ寄る生徒は少ないだろう。それまでの辛抱だと、蒼は自分に言い聞かせた。
「初戦、勝ったよ」
「うん。おめでとう」
翌日、クラスで騒ぎになっていたので、結果は蒼も知っていた。
「冷静だなあ。知ってたとは思うけど」
「クラスで話題になってたし」
「まあでも、直接言いたかったんだ。急にメッセージ送ったのに、ちゃんと返事くれてありがとう」
「知らない人でもないんだし、無視はしないでしょ」
「応援してる、って言ってくれて、嬉しかった」
「みんなに言われてるでしょ。で、みんなにそんなこと言ってるんだ」
周りの目が気になるせいか、素直でない皮肉っぽい言い方になってしまう。
「……個人的に連絡したのは、山村だけだよ」
「学校じゃ話す機会ないしね」
そういうことじゃないんだけどな、と涼原が呟く。
「――山村に頑張れって応援してもらえたら、力出るなって思って決死の思いでさ」
「決死の思い? 涼原が俺に連絡するのに?」
大げさだと聞き流しているうちに、件のコンビニが見えてきた。
「何か買う?」
「俺はいいや。家帰ったらすぐご飯だし。何か買いたいならどうぞ」
「じゃあ、俺もいいや。でも、次はきついかもしんない。去年ベスト4の私学なんだよなあ」
「格上、ってことだよね」
「そ。まあ、頑張るけどさ。何が起こるか分かんないし、勝ったらベスト16だしな!」
「勝てるといいな」
人目が気になって返答はよそよそしくなったが、次の試合の後もこの明るい笑顔が見られればいいな、と純粋に思っていた。
「え、スズじゃん! お疲れ。帰り、こっちじゃないよね?」
喜色の明らかな大きい声。
コンビニから出てきた女子生徒のグループが、涼原に声をかけてきたらしかった。
「お疲れ。ちょっとクラスメートと話してて」
彼女たちの視線が蒼に集まる。一気に居心地の悪さが込み上げる。部活以外で女子と話す機会はほとんどない。しかも近付いてきたのは、生徒指導で怒られない範囲で化粧をしているような、蒼とは無縁の華やかな女子グループだ。
「野球部じゃなくて、わざわざ? 仲良いの? なんか意外」
「そうかあ? いつも同じ面子でつるんでて飽きない?」
涼原の言葉尻はきつかったが、冗談交じりのやわらかい応酬にも聞こえた。
だが、聞いていていい気はしなかった。同じ面子でつるんでいると飽きるから、たまに蒼のようなタイプとも仲良くして刺激にしている?
そうではないとあの日河川敷で話して納得したはずだったが、意地悪な解釈をしたくなった。
球技大会の日と似たいら立ちが、心の底でくすぶり始めるのを感じる。
変にやつ当たりをするのは嫌だったし、女子たちは明らかに涼原目当てのようだったので、蒼は自転車にまたがった。
「じゃ、お疲れ」
涼原は驚いていたが、女子たちは邪魔者がいなくなると安堵したように笑顔になった。
蒼は振り返らず、ペダルを思い切り踏む。自宅までの道を全力疾走した――はずだった。
「山村!」
呼ぶ声がする。何度も。しかも、あっという間に近付いてくる。
「待って。待てって!」
いつの間にか、涼原に並ばれている。あのコンビニからは随分走ったはずなのに。運動部と文化部の体力の差だろうか。仕方なく、蒼はブレーキをかけて止まる。
「何? 話終わってたでしょ」
涼原相手に、今までで一番強い声になった。
「にしても、あれはないだろ」
「じゃあ、女子たちが満足するまで、俺は黙って聞いてればよかった? 明らか邪魔です、って空気も出されてたのに」
「すぐに切り上げたよ」
「切り上げなくていいよ。俺は、涼原みたいに人気者じゃないし、気まぐれに俺を構いたくなったら、好きなときに来ればいいよ。みんなといて、飽きたらさ!」
久し振りに、こんなに声を荒げた気がする。これほど人に怒れるのだと、蒼は自分に驚いていた。
「違うって。俺は、山村と純粋に一緒にいたいだけ。言ったじゃん」
「何で。なんで。涼原と一緒にいたい人はいっぱいいるよ。俺じゃなくていいじゃん」
「誰でもよくねえよ。山村じゃなきゃだめなんだよ」
「そんなこと言って、みんなに優しいじゃん。それとも、優しくしたら、嬉しいって俺みたいに簡単に尻尾振る方が、気持ちいい?」
違う、違う、頭ではそう思うのに、言葉は裏腹に涼原を罵る。
涼原の口が開きかけて、閉じる。傷付けている、と思うのに。
「……平和な学校生活送りたいんだよ。そのために目立たないように、気を付けてんの。涼原といると、変に注目される。……しんどいよ」
沸騰しきったいら立ちが吹きこぼれるように、一筋涙が流れた。
「……ごめんな」
謝るべきは、絶対に蒼の方なのに。
蒼がとった行動は、「じゃあ」とペダルを踏み直すことだけ。家まで歯を食いしばって帰った。
その夜は、夕食を何とかお腹に収めて親に言われるがまま風呂を済ませ、何も考えずに眠った。いつもより長く寝たはずなのに、翌朝起きると頭が痛んだ。
家を出る前にスマートフォンを確認すると、涼原からメッセージがきていた。
『少しだけ話させて。部活の後、あの河川敷で。すぐ終わらせるから』
謝るべきは蒼だ。なのに、涼原にこうして気を遣わせて、時間まで取らせてしまった。無視できるはずもない。
『分かった』と返事をして、家を出る。
登校すれば、同じクラスだから自ずと顔を合わせることになる。とはいえ、友人グループも違うから、意識しなければ会わないのと変わらない。
涼原との約束の時間が早くきてほしいような、いつまでもきてほしくないような複雑な気持ちだった。
昨夜は明らかに蒼が悪かった。一刻も早く謝りたい。
でもまた、彼と向き合って自分の気持ちが制御できなくなったら。
悩みながら授業をやり過ごし、部活を終えて、蒼は自転車を漕いで河川敷に向かった。
川沿いの道を進むと、ベンチと明かりのあるスペースに人影があって、近付くと涼原だと分かる。
「ごめんな、夜も遅いのに、部活終わりに呼びつけて」
自転車を降りて停める蒼に涼原が声をかけてきた。
「いや、謝らないといけないのは俺だから。昨日、やつ当たりでひどいこと言ってごめんなさい。それに、今日もこうして気を遣わせちゃって、本当にごめん。涼原こそ大会中で忙しいのに」
蒼は真っ直ぐ彼を見て告げ、頭を下げた。
「――なんで、って山村、いつも聞くじゃん。なんで俺に構うのって。俺さ、一年の頃から知ってたんだ」
「え」
脈絡のない涼原の言葉に、蒼は思わず顔を上げる。彼は微笑のようでいてどこか苦しそうな、切なげな表情だ。
「吹部って、男子少ないから、目に留まるんだよ。体力作りのための、ランニングとか、筋トレとかしてるの、見かけることがあって。ランニングは最後の方、倒れそうになってるし、腹筋もほんときつそうで、そんななるほどかよ、って笑いそうになった。でも、いつも最後まで手も抜かず、誤魔化さずにやってんだなって気付いて、すごいな、って思った」
それは褒めているのかけなしているのか、と一瞬言い返したくなったが、涼原の真剣な口調に気圧され、蒼は何も言えなかった。
「同じクラスになって、テスト前、教室で一人でいるの偶然見つけて。山村だったから、声かけた。山村じゃなかったら、声かけなかったよ」
涼原にとって、自分は特別じゃない。何度も言い聞かせたはずだ。なのに、本人に否定されている。――なんで?
「実際に話したら、俺のこと、運動神経抜群の人気者ってだけじゃなくて、ちゃんと見てくれて、すげえ嬉しかった。もっとスポーツ頑張ったらいいのに、っていうのも、心から言ってくれてるんだなって思えて、部活もっとちゃんと頑張ろうって気合も入って、最近は野球してても見えるもの変わったなって思う」
涼原が微笑む。いつもは鮮やかな笑顔が、今は儚げだ。
「……俺といると、山村はしんどいよな。でも、俺、山村のこと好きなんだ。一緒にいたい。もっと話したい」
これが、なんで、の答え?
「悩んでほしくない。嫌な気持ちになったなら、忘れてくれていい」
こんなに真っ直ぐで、熱っぽい好意を向けてもらえているなんて、思いもしなかった。
「やっぱり俺、無神経だな。山村もコンクール前の大事な時期なのに、自分の勝手でこんなこと言って」
ごめんな。
涼原が自嘲するように笑って、自転車のハンドルに手をかけた。
好きって? 友達として? ――もっと、切実で、特別な?
話せて、嬉しかった。彼を応援することを、夢想した。
でも、その好意は、彼に同意できるほどのものだろうか。
同意したとして、周囲の目も怖いし、誰にでも優しい涼原にいら立ってしまうのに、彼とちゃんと向き合えるのか。
蒼はすぐに答えが出せなかった。適当に肯定するものでもないと思った。
「もう遅いし、気を付けて帰って」
スタンドを上げてサドルにまたがると、涼原はあっという間に走り去る。
予想もしない出来事に、蒼はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
昨夜の劇的な出来事が嘘のように、翌日はいつも通りの一日だった。
授業を受けて、部活動に勤しむ。特にコンクールが近く、練習が濃密なので、一日はあっという間に過ぎる。
そうして毎日を過ごしているうちに、三日が経ち、週末金曜を迎えた。
「スズ、明日試合なんだよね? 頑張ってね!」
女子の声は高く、放課後のざわめく教室でもよく響く。
「ありがと。でも、望み薄いんだよ。相手私立の強豪でさ、二軍まであんの」
「えー? でも、スズすごいじゃん! いけるいける」
教科書をリュックにしまい終えた蒼は席を立つ。一人が声をかけたことをきっかけに、クラスメートたちが彼を囲んで応援の言葉をかけるのが視界の隅に入る。
リュックの紐をぎゅっと握り締めて、蒼は俯きがちに教室を出た。
――頑張れ。勝ったら、次は吹部で応援でしょ?
言いたい。でも、あの場で言えるはずがない。
蒼にはそんな勇気はない。
「涼原と、何かあったの」
練習終わりに楽器を手入れしていると、隣の足立が話しかけてきた。
「なんで」
彼女が唐突にその名前を出してきて驚いたが、何とか平静を装う。
まさか、大人げなくやつ当たって傷つけた上に、真剣に好意を打ち明けられて困っているなんて明かせるはずもない。
「今週の途中から、野球の曲吹くのやめたみたいだったから」
「……まあ、色々あって」
「ふうん。山村、二年になってからちょっとしっかりして、音も良くなったし、調子落とさないでよ。コンクール近いんだし」
足立は何かを察したのか、それ以上聞いてこなかった。
マウスピースを拭き、本体にガーゼを通して清掃する。そして、本体も軽く磨いて、ケースにしまう。
――実際に話したら、俺のこと、運動神経抜群の人気者ってだけじゃなくて、ちゃんと見てくれて、すげえ嬉しかった。
蒼も、同じだった。
実際に話したら、蒼のことを運動音痴でクラスでは隅にいるよく分からない奴と決め付けず、ちゃんと向き合ってくれて嬉しかった。
――もっとスポーツ頑張ったらいいのに、っていうのも、心から言ってくれてるんだなって思えて、部活もっとちゃんと頑張ろうって気合も入って、最近は野球してても見えるもの変わったなって思う。
同じだ。
足立のいう『二年になってからちょっとしっかりして、音も良くなった』が本当なら、涼原と親しくした影響が大きいはずだ。彼が部活を頑張っているように、と練習に励めたし、野球部の応援のことを考えて、コンクールや演奏会という目先の目標だけでない取り組みができたのも大きいだろう。
――好ましい。もっと関わってみたい。俺は、涼原のこと……。
答えはまだおぼろげだ。
でも、言いたいことがある。言わなきゃいけないことが。
蒼は急いでリュックを背負い、トランペットケースを部室のロッカーにしまった。
下足室までの廊下を必死に走る。
上履きから慌てて履き替えたスニーカーは脱げそうだったが、それでも何とか、駐輪場を目指して走った。
運は良かった。ちょうど野球部も練習が終わったところだったようで、分かりやすく短髪がまとまって自転車を押して出てくる。涼原も、いた。
呼び止めようと、息を吸う。
周りにいるのは、先輩や後輩も含む野球部員たち。しかも、同じように部活を終えた生徒たちから、明日頑張れよ、と声がかかっている。――俺なんかが、応援しなくても。
せっかく吸った息が、声にならずに出ていく。
気付けば、自分の自転車に向かってとぼとぼ歩いている。
門の方へ自転車を押しながら歩いてくる彼と、駐輪場に向かう蒼と、距離が近付く。
涼原の顔が、はっきりと、視界に入る。
昨夜、真っ直ぐ蒼を見て、心の内を打ち明けてくれた彼の表情と声がよみがえる。
びっくりしたけど、嬉しかった。好きだって、一緒にいたいって、話したいって言ってくれて。
昨日だけじゃない、いつも声をかけてくれたのは涼原だった。そして、卑屈な蒼の心をいつも軽やかに持ち上げてくれた。
彼の真意が分からないうちは、蒼の応対はかわいげもなかった。それでも、涼原は歩み寄り続けてくれた。
その寛容さと勇気に、惹かれている。
だから、俺も、ちゃんと伝えなきゃ。今の気持ち。
「――涼原!」
時が止まったような気がした。周囲の喧騒も、人の目も、頭から消えた。
彼がこちらを向く。
「明日、頑張れ。まだ行けないけど、応援してるから」
頑張れ。
「おう! つぎ来てもらうためにも、頑張る!!」
白い歯がこぼれている。輝くような笑顔。――俺も、もっと見ていたい。
部活お疲れ、と続けた涼原とすれ違う。
周囲はまさかのやりとりにざわめいているような、いないような。
蒼は速足に自転車を目指した。からかわれるのが怖いとか、変な目で見られるのが嫌だとか、いつものように後ろ向きに考える余裕がなかった。
できるんだ、という不思議な全能感で、なぜか泣きそうでもあり、笑い出しそうでもあった。
翌日の土曜は、蒼も朝から練習だった。コンクールに向けて佳境なので、午前中はパートでの練習、午後から合奏の予定だ。
ウォーミングアップの音出しでは今や定番となった『アフリカン・シンフォニー』を、帰り道で涼原と喧嘩のようなやりとりになったあの日ぶりに応援の気持ちを込めて吹き、練習に励んだ。
十八時前の練習終わりにスマートフォンを確認すると、涼原からメッセージが届いていた。
『明日、午後に時間ない? 会いたい』
「暑い中、ありがとう」
蒼が待ち合わせ場所に着くと、先に来ていた涼原からお茶のペットボトルを渡される。半袖短パンのスポーツウェアの彼は、ランニングも兼ねて出てきたのかもしれない。
蒼は自転車を停め、礼を言って冷えたペットボトルを受け取る。
そしてそれを握ったまま、涼原と並んでベンチに腰掛ける。
あの夜と同じ、河川敷の傍の休憩スペース。日曜の夕方の河川敷には犬の散歩をする人などがちらほらいるものの、まだ暑いので人は少ない。
「――負けました! せっかく応援してくれたのに、ごめん!」
息を吸う音と出だしのかなりの声量に驚いた蒼が彼の方を向くと、すごい勢いで頭を下げられていた。
「……七回コールドだったんで、完敗すぎて言い訳もできないんだけど」
のろのろと頭を上げた涼原は苦笑していた。
「お疲れさまでした。やっぱり相手、強かったんだね」
蒼は真っ直ぐに涼原を見て、労いを告げる。
「うん。スタメンは控えメインだったけど、それでも手も足も出なかった。――最後の一年は、もうちょっとやれるように、俺なりに頑張る」
「……うん。応援してる」
蒼はペットボトルを脇に置き、立ち上がって自転車の前かごにのせていた楽器ケースを手にベンチに戻る。そしてトランペットを組み立て、前に向き直ってマウスピースに唇をつける。
涼原は何も言わず、蒼の行動を見守っている。
息を吹き込み、バルブを押す。
壮大で力強い旋律が、夏の夕風に乗って響く。
まだまだ拙い、『アフリカン・シンフォニー』の一節。
蒼ももっとうまくなりたい。そしていつか、プレーする涼原を自分の音で応援したい。
そのために、頑張る。
「……すげえ。球場で、生で聴きたいな」
演奏を終えた後の涼原の一声で、蒼の気持ちが伝わっていたことを知る。
「俺もペット、もっとうまくなれるよう練習頑張る。あと、ベスト16から応援っていうのは、平日公欠になる場合らしいから、昨日みたいに試合が土日だったら、何とかできないか考えてみる」
「え、それって……」
「吹部の有志で、とか」
蒼は軽く唾抜きをしてマウスピースを外し、楽器をしまう。
まだ外にいるだけで汗ばむほど暑いが、気分は清々しい。
ぼんやり考えていたことを口にしてみたものの、実現のめどなどない。野球部の応援をしたいなどと蒼が言っても、吹奏楽部で付き合ってくれる部員はいるだろうか。応援となると、野球部の控えや父母などとの連携も必要かもしれない。
今までの蒼なら、考えもしないし、動こうともしなかっただろう。
涼原と交わって、変わったから。
「俺も、涼原ともっと仲良くなりたい。ただのクラスメートじゃなく、まずちゃんと友達に」
彼と目を合わせて、素直な心の内を告げることができた。
「まだ友達じゃなかったってこと?」
「うん。……でしょ?」
「山村、人間関係、狭く深くっぽいもんな」
ちなみに、と続けた涼原が蒼から目線を外して周りをきょろきょろと見た。
知り合いでもいたのだろうかと、蒼も周囲に視線をやった。
次の瞬間、彼の顔が接近してきて、唇が額をかすめていった。
「もっと話したい、一緒にいたい、って、こういう好きなんだけど、分かってた?」
蒼は何が起こったか理解できず、ただ涼原を見た。
「ちなみに、俺はもう友達だと思ってたし、できたらそれ以上になりたいって意味で言ったんだけど」
「え」
「……きょとん顔、すげえかわいい」
涼原がくしゃりと笑う。
「か、かわいくない! むしろ涼原はもっとかわいくて性格のいい子、選び放題でしょ。なんで俺なんか……」
蒼は目の前の笑顔に胸を掴まれながら、何とか言い返す。
「なんで、っていつも伝えてるつもりなんだけどなあ。――部活で頑張ってるのが印象に残ったって言ったでしょ。トレーニング、苦手だろうにちゃんとやってんのすごいなって思ってたけど、屍みたいに倒れ込んでるとことか、体操服越しにも腹筋ぷるぷるしてるんだろうなってとこは、かわいいなって思ってた」
あと、と涼原が続ける。
「話すようになって、勉強教えてくれる時の真剣で優しいとこも、覚悟決めたら強いとこも好きになった」
だんだん甘くなる声に、心拍数が上がる。
「もう他の子なんて興味ないし、今のままで甘んじたくないから告白した」
うれしい。でも。
「……友達でも、俺といたら周りから色々言われて、涼原も嫌な思いするかも」
「俺は気にしないよ。山村に嫌な思いさせたくないから、学校内では自重しようと思ってるけど、我慢できなくなる時もあるかも。山村こそ、大丈夫?」
「涼原がちゃんと気を遣ってくれるなら、俺は、大丈夫」
大丈夫。それって、俺。
「――俺は、涼原の、よく笑うとこ、好き。ちゃんと人のこと見て、言葉にしてくれるところも」
自然と言葉が出た。
「でも、涼原のちゃんと人のことを見てて、優しいところは好きだけど、他の人にもそうなんだなって思ったら、なんか複雑で。それでもやもやしたこともあるし、これからもやつ当たりとかしちゃいそうで……。俺が心狭いからなんだけど」
「……それって、やきもちってこと?」
まさかの解釈に、顔に熱が集まる。
「でしょ?」
涼原は嬉しそうだ。
心臓が、持たない。
「だとしても! 友達から始めさせてください……。慣らさないと、ちょっと……」
「……俺も、これくらいからの方がいいかも。山村、かわいすぎてちょっと」
涼原は少し伏し目になって唇をかんでいる。まるで、何かにたえるように。
「熱中症なっても困るから、今日のところは帰ろう!」
涼原が勢いよく立ち上がる。トランペットケースを抱えて、蒼もその後を追う。
運動したわけでもないのに、まだ心臓が跳ねている。現実が受け入れらなくて、脳内がふわふわしている。
「山村はこれからコンクールだもんな。まずは部活に集中しなきゃだし、俺も三年生引退してキャプテンだしより一層頑張らないとだから、まずはゆっくり……」
「涼原、キャプテンなんだ。すごい」
「別にすごくはないけど」
蒼が思わず反応すると、涼原も若干冷静に返してきた。
顔を見合わせて、二人で笑う。
「……涼原ってこんなに余裕ないことあるんだ」
「山村といる時は大体余裕ないよ。好かれてないのは分かってたから、ちょっとでも好きになってもらえないかなっていつも考えてたし、その分、いい感じになったと思ってまた頑なになったら内心すげえへこんでたし」
「そうなんだ。全然気付かなかった」
「まあ、おかげでちゃんと告白するしかないなって、腹くくれたけど」
クラスでは目立たず隅にいて、ささやかに部活に打ち込めれば十分だったはずの高校生活。どうしてだろう、大きく変わってしまうようだ。
友達から始まるこの先は、もう予想もできない。
「俺が色々考えて迷走する間も、涼原が変わらず声をかけ続けてくれたから、ここにいる」
蒼は進むだろう。誘ってくれたのが、涼原だから。
好きなひとと、はじめたいから。
窓の方を向いていたから、誰かが来たことに全く気付かなかった。恐る恐る声がした方を向くと、明るい顔のクラスメートが立っている。
「……勉強の息抜き」
教室の入り口に立つ涼原敦に、無視するのはさすがに失礼だと、山村蒼は最低限で返答する。
「問い詰めたわけじゃないって」
快活に笑った彼が自分の机の方へ歩いて行くのを見て、蒼は前に向き直る。
テスト勉強の合間に、譜読みを兼ねてマウスピースを使った練習をしていたのだが、人の気配のある中ではどうにも集中できない。
早く帰らないかな、と念じながら、蒼はハンカチで意味もなくマウスピースを拭く。
「トランペット、だよな?」
さっきより近くから声をかけられて、思わず肩が跳ねた。
後ろの席に置いている開いた楽器ケースを目に留めたのだろう。
「そんなにびびんなくてもいいじゃん」
プリントやノートを手にした涼原は、相変わらずほのかに笑顔を浮かべている。
「テスト勉強しようにも、色々置き勉しててどうしようもなかったから取りに来たんだ」
「トランペットだよ」
金色の楽器本体は、五月の穏やかな日光に照らされてきらきらと輝いている。
会話は終わりと、蒼は机に広げた楽譜に視線を落とした。
「実際に吹いたりもすんの?」
早く帰れ、と言外に伝えようと、蒼は涼原の問いかけを無視する。
「山村、成績良さそうだもんな。先生も黙認してくれそう」
願いは叶わないようだったので、仕方なく口を開く。
「……ペットは音通るから、ここで吹いたら職員室でも分かるよ」
蒼の通う高校では、テスト一週間前から部活動の時間が短縮される。三日前からは活動禁止になり、今日はその三日前にあたる。
帰宅してずっと勉強できるほど勉強好きではない蒼は、一年の時から学校に残って勉強することが多い。三日前となると図書室や自習室で勉強する生徒が多く、教室に残る生徒は少ない。だからこうして勉強の合間に気晴らしすることもある。
とはいえ、実際に楽器を演奏したら、先生に気付かれて所属する吹奏楽部にもペナルティがあるだろうし、近くの教室には勉強に集中している人もいるかもしれないのだから、音は出さない。
「ふうん。確かに、グラウンドにいたら吹部の音、すぐに分かるもんな」
視界に入る涼原の腕はもうかなり日焼けしている。
「じゃ、テスト頑張ろうな!……同じクラスだし、一年よろしく」
軽く肩を叩かれた後、足音が遠ざかる。
蒼は頭を上げ、深く息を吐いた。気付かないうちに呼吸が浅くなっていたようだった。五月なのに、背中に薄っすらと汗をかいている。
マウスピースを唇に当て、音符を追って息を吹き込む。練習に集中して動揺を晴らそうとするのに、先ほどのやりとりはなかなか消えてくれない。
クラスメートの涼原と個人的に話すのは、初めてだった。
まさに爽やかなスポーツマンという雰囲気の黒い短髪。目はくりっとした二重で、指定のなんてことない白シャツも彼が着るとさまになっていて、間近で見ると一年の頃から女子に人気なのも納得できた。加えて、運動神経抜群で性格も嫌味がないらしく、男子の輪でも中心にいる。
蒼は容姿も地味で性格も内向的だから、そんな涼原と高校二年生で同じクラスになって一ヶ月と少し、関わったことはなかった。
蒼に興味があるはずもないのに、どうして。
陽キャの、気まぐれだろうか。
目を付けられたとかではなく、気まぐれであってくれ。
嫌な汗をかく自分に言い聞かせながら、唇を震わせ、マウスピースでかすかな旋律を奏でる。お腹に力を込め、安定した音を出すことを意識する。体から新鮮な酸素が徐々に失われていくと、不安感からも逃れられる気がした。
「六月の球技大会のメンバー決めまーす。男女別に集まって、適当に決めちゃってください。部活に近い種目はなしで。男子は、ソフトボール、バレーボール、卓球から少なくとも一つ、人数足りなければ二つエントリーしてもらってもいいです。女子は……」
金曜の時間割の最後のロングホームルームは、体育委員の呼びかけから始まった。
テストも終わって緩んだ空気の中、面倒だな、そんな時期か、何出よう、という盛り上がりと、立ち上がる際の椅子を引きずる音が混じって、教室は騒がしい。
蒼は重い腰を上げると、目立たないように既にできあがっている男子の集まりの端に加わる。
「とりあえず、運動部適当に分かれて、あとは均等に分ける感じで。一応、一年と三年の一クラスずつとチームで順位もつくし、あんまり恰好つかないとまずいんで、そこそこやれるようにお願いします!」
チョークを手に黒板の前に立つ体育委員はバスケ部の男子で、クラスでは涼原の次くらいに目立っている。
蒼に選択権はない。最後に人数合わせで決められるだろうと、黙って話し合いを見守る。
「じゃあ、俺、バレー!」
「俺らも」
口火を切ったのは、涼原だった。それに野球部の面子が続き、バレーと競技名が書かれた下に名前が書き連ねられていく。
「出れるならスズにはソフト出てほしいんだけどな」
「そっちのが楽だけど、野球部はソフトだめなんでしょ」
「まあ反則だよなあ」
輪の中心で笑い声が起こる。
「俺、ソフト行くわ」
体育委員が宣言すると、バスケ部とバレー部の男子が俺らも、と手を上げる。
「ラケット競技だし、卓球行きまーす」
テニス部の男子の宣言を皮切りに、卓球の欄にもぽつぽつと名前が増えていく。
さらにサッカー部、球技以外の運動部、と順に出場種目が決まった。
「運動部こんなもん? じゃあ、文化系とか、帰宅部の人、経験ある種目とか、希望あれば」
何でもいいよ、とか、中学の時は卓球部だった、とか、先ほどまでと比べると勢いのない主張を、体育委員は器用に仕分けていく。
最後はまだ決まっていない人が並んでいる順に発言を促されたので、蒼は自分の番で何とか声を絞り出した。
「……補欠なら、何でも」
「んー、じゃあ、人数的に山村はバレーでいい?」
蒼は小さく頷く。
バレーは腕が痛い。そして何より、集団競技だ。
とはいえ、ソフトだって捕球もバッティングもろくにできないし、卓球はダブルスでごまかしがきかないから、どれも似たようなものだ。
残りも同じような調子で答え、メンバー表が綺麗に埋まる。
「じゃあ、メンバーこれで。体育もしばらくは球技大会の練習らしいんで、ぼちぼちやりましょう」
体育委員の一声で、輪がばらけて、それぞれ自分の席に戻る。
「スズがいるの心強いよ。百人力じゃん」
「バレーコート広いじゃん。俺一人じゃ絶対カバーしきれないから。チームプレーで頑張ろ!」
大きな声とそれに連なる笑い声は、共通意思をなくした教室の中でもよく響く。
「じゃあ、あとは試合な」
体育教師の一声で円陣パスの輪が崩れる。蒼はそそくさとコートの外に出て、体育館の壁際に腰を下ろした。補欠に出番はない。
やがて始まった試合を手持ち無沙汰に見守る。前腕が痺れるように痛い。今はほんのり赤いが、明日にはうっすらあざのようになるだろう。
コートの中の同級生たちの動きは軽やかで、楽しそうだ。同じ人間なのにどうしてだろう。蒼はボールが来ると思うと体が強張ってうまく動けなくなり、その結果、ボールを明後日の方向に飛ばしてしまう。そして、周囲をいら立たせ、時に怒られる。
過去の経験がよみがえって、嫌な気分になった。決定的な出来事などない。ささいだが嫌な思い出は、数え切れない。
「ちょっと休憩! 誰か交代して」
明るく、誰の耳にも残る声は、涼原のものだ。笑顔でクラスメートの腕を引いて交代をねだっている。
高校二年生になって二ヶ月が過ぎたが、クラスの中心は紛れもなく涼原だった。
野球部の彼は圧倒的に運動神経が良く、賑やかな性格で周りに人が絶えない。要領がいいのか、勉強もそこそこできるので、教師の覚えも悪くない。
先ほどまでの試合も、バレー部といわれても信じるほどの動きだった。サーブをすれば傍目にも強烈な球威でストレート。レシーブもフライングでとってしまうし、スパイクも様になっている。加えて、トスなどのフォローも上手い。
休憩、というほど疲れているようには見えないが、全員が参加できるよう気を遣っているのかもしれない。
ありがた迷惑なんだけど、と内心毒づきながら、その交代劇をぼんやり眺める。他の人も余計なことに気付きませんように、と念じる。楽しい人だけでやってくれればいいのだ。
蒼が必死に気配を消そうとしていると、その涼原が近付いてくる。蒼と同じく控えの柔道部の笠原が同じく代わりのメンバーとして入り、試合は再開されようとしている。――仲間に入れてくれなくていい。やりたくない。
「……俺、別に、見てるだけで」
蒼が何とか声を絞り出したのに対して、涼原は腕を引いてきた。
「外、行こ。やりたくないんでしょ?」
降ってきたのは、予想もしなかった言葉。
蒼があっけにとられていると、さらに強い力がこもる。蒼は導かれるまま立ち上がる。涼原は満足そうに笑って、手が離れる。立った手前、座り直すわけにもいかず、歩き出した彼の後を追う。
涼原は入り口近くの籠から一つボールを掴むと、外に出てドアの傍に腰を下ろした。ぽんぽん、と隣の地面を手で示している。座れ、ということだろう。蒼は恐る恐る隣に座った。
「あっつー」
涼原は気楽そうに、ぱたぱたとシャツの中に空気を送り込んでいる。
どういうつもり、と喉元まで上がった疑問は、結局口にできなかった。同情? クラスの隅まで気にかけてますよアピール?
「運動苦手?」
「……うん」
涼原の問いかけに深い意味はなさそうだったので、蒼は素直に答えた。
「球技大会とか体育祭とか最悪? チーム決めのときも、今日も、死にそうな顔してるから」
「……いい思い出はない」
そっか、と涼原は笑っている。蒼をいつも動けなくさせる、ねっとりとした、嘲るような笑い声ではなかった。
「涼原は? いいの? あれだけできれば楽しいでしょ」
「んー、まあ、ほどほどがいいよ。あんまり頑張ると、おもしろくなくなっちゃうから」
「できすぎて達成感がないみたいな?」
後半の言わんとすることが分からなかったので、蒼は自分なりの解釈で聞き返す。
「……俺じゃなくて、周りがさ」
いつも教室で響いているような大きな声ではなかった。だが、蒼には今までで一番、大きく聞こえた。
「……ごめん。無神経なこと言った」
「なんで山村が謝んの。俺が自意識過剰なこと言っただけじゃん」
無神経なこと。想像力のないこと。勉強の出来不出来はあって当然なのに、運動が苦手で苦痛を感じるほどだと分かってもらえず、心無いことを言われること。――蒼の、嫌いなこと。
それなのに結局、自分も同じようなことをしている。運動ができて、勉強もそこそこで、人望もあって。きらきらしてるんだから、悩みなんてないだろう。せいぜいできすぎてやっかまれて困るくらい。――蒼を傷付けてきた人間と同じだ。想像力がなくて、無神経。
「腕、痛い?」
「え、大分収まったけど」
「じゃあ、ちょっとだけやってみよ。本番はルール上、どうしても出てもらわなきゃいけないからさ」
立ち上がる涼原にならって、蒼も腰を上げる。怖いからめったに人には逆らわないが、今は嫌々仕方なく、というより涼原の軽い誘いに導かれるように立ち上がっていた。
よしこい、と彼は立ち尽くす蒼から適度な距離をとると、ボールを投げてよこす。放られた緩いボールを、慌てて両腕ですくう。
「うまいうまい。腕振るんじゃなくて、腰からいった方が真っ直ぐとぶよ」
褒められた軌道ではない球を、涼原は当然のように蒼の元にきっちり返してくる。
蒼は言われた通り、心持ちしゃがんで体全体で返すよう心掛けた。
「そういう感じ!」
涼原が弾けるように言い、笑う。
返ってきたボールを、同じ要領で返球する。
「できてんじゃん!」
腕が痛い。チームの足を引っ張らなくても、誰も見ていなくても、別に楽しいわけじゃない。
立ち上がる必要も、練習する必要もない。どうして、と自分でも疑問に感じている。
でも、体育の時間なのに、今まで楽しいと思えたことのないバレーなのに、いつより心が軽い。
アンダーハンドパスでの往復が安定してきたら、オーバーハンドパスのやりとりに変わり、最後はサーブのコツまで伝授された。
「難しくないでしょ? これで味方か相手のコートに上げれば、何とかなるから」
「練習と本番は別だよ」
「うーん。じゃあ、俺がカバーして、何とかする」
涼原は自信ありげに微笑むと、そろそろ戻ろうかな、と体育館の中の様子をうかがっている。
「山村は様子見つつ、ぎりぎりに戻ってきたらいいよ」
彼は爽やかな笑顔を残して、ボールを手に中に戻っていった。
何だったんだろう。
涼原の背を見送った後、袖をまくったままの前腕に目を落とす。
痛いのに。嫌だったはずなのに。
満ち足りているのは、どうして。
放課後、一通りの基礎練を終えて曲の練習に入ろうと思ったら、机に楽譜を忘れたことに気付いた。休み時間に譜読みをして、そのままだったらしい。
教室に戻ると、勉強や雑談のためか、数人の生徒が残っていた。
帰宅部や彼らの他のクラスの友人たちの中に、珍しい顔を見つける。
とはいえ親しいわけでもないので、蒼は足早に自分の席に向かい、机の中から楽譜を入れたファイルを取り出す。
そのまま練習に戻ればよかった。でも、気付いたら声をかけていた。数日前の体育の時間の高揚感がそうさせたのかもしれない。
「珍しいね、残ってるの。部活は?」
蒼の声かけに顔を上げた涼原は驚いていた。その反応に現実に引き戻される。――あんなの、人気者の、気まぐれだよ。お前から話しかけられたいわけないだろ。心の中の意地悪でネガティブな自分が囁いてくる。
「そう! この数学の課題、今日までだったの忘れてて。顧問とか先輩に怒られるの面倒なのに」
涼原は唇を尖らせておどけている。そのあっけらかんとした明るさに、心の中の卑屈な自分が焼き払われるようだった。
「でも、もう終わりそうだね」
プリントはほとんど埋まっている。教科書の例題レベルだから、授業が理解できていれば難なくできるだろう。だが、一か所だけ、何度も消した跡が残った空欄が目に留まった。
「そこも他の問題と同じ公式使うだけだよ。変形の仕方がちょっと違うだけ」
「え、まじ。これだけ割り切れなくて、何かうまくいかないから……分かるなら、教えて」
涼原が前の空いた席を指さすので、蒼は椅子を引いて遠慮気味に腰掛ける。
「……山村って理系?」
彼が解けていない問題に再びシャーペンを走らせるのをぼんやり見ていたら、話しかけられた。
「まだ決めてないけど、理系教科の方が得意かな」
「すげえ、俺、数学とか物理とかだめ」
「そこ、値を代入する前に文字でくくって因数分解した方がいいよ」
次の行を移ろうとする涼原のシャーペンの先を指さす。
「そっか。ずっとここで代入して計算しようとしてたわ。式のまま扱うんだ」
蒼の一言で要点を理解したらしく、涼原は残りをすいすいと書き付けていく。
最後まで見届ける必要はなさそうだと、蒼は立ち上がる。
「ありがとな。助かった!」
「大げさだよ」
わざわざ顔を上げて礼を述べてきた涼原に、蒼は表情を緩め、教室を後にした。
人目も気にせず、涼原とあんなに気楽に話せるなんて。初めて話した放課後は、嫌な汗が出るほどだったのに。
話せて、嬉しかったとさえ感じている。
音楽室までの廊下を歩く足取りも軽い。蒼は自分の変化に驚いた。
「昨日、ありがとう」
翌日、終業のショートホームルームが終わり、蒼が荷物を整理していると、席の前に涼原が立っていた。笑顔で差し出してきているのは、のど飴の袋だ。
「数学、教えてくれたお礼」
「別に教えたってほどじゃなかったのに。涼原すぐ解けてたし」
「でも、山村の一言がなかったら、ずっと詰まってたと思う」
ほら、と涼原は諦めずのど飴の袋を突き出してくる。受け取らないと終わらないと悟り、蒼は手を出して袋を掴む。
「ちなみになんで、のど飴?」
春だから、特別乾燥しているわけでも、風邪の季節でもない。
「吹部の奴への差し入れって何がいいかよく分かんなくて。吹いて、口疲れたときとか、ほしいかなって」
「合唱部じゃないんだから。……でも、ありがとう」
おう、と嬉しそうに涼原が笑う。自分に向けられたら、女子は嬉しいだろうな。涼原が女子に人気があることを改めて思い出していると、「スズ、行くぞ」と野球部のクラスメイトが涼原を呼ぶ。
「部活、頑張ろうな」
「うん」
去っていく涼原を見送り、蒼はのど飴の袋をリュックサックに押し込んで立ち上がる。
「スズって、山村と面識あったっけ?」
誰かが、涼原に話しかける声が聞こえた。
「面識って、同じクラスじゃん」
「ほーんと博愛主義だよな。山村とか大人しくて何考えてんのか分かんないじゃん。よく話続くな」
何てことないクラスメートの声が、べたりと蒼の体に張り付くようだった。この会話の流れからよく言われるはずがない。早く教室を出ないと、と思うのに体は動かない。
間違ってはいない。同じ人間だが、学校では立場が違えば同じ人間ではない。それが学生の暗黙のルールだ。お互いに気持ちよくやっていくための、みんなのためのルール。
「別に、同い年なんだし、考えてることなんかそう変わんないでしょ」
涼原の声は明るくも、どこか冷たかった。
「どうやったらもてるかとか?」とふざける彼らを、涼原は「部活行こーぜ」とあしらっている。
少し話しただけだから当然なのだが、彼のことはよく分からない。
やっと動き出せた蒼は背負ったリュックサックの紐を強く握りながら、彼らの視界に入らないルートで教室を出る。歩くと、中にしまった飴の袋が動いて乾いた音を立てた。
涼原は、蒼の苦手な軽薄な人気者なのか、人間として対極にいる蒼も対等に扱う人格者なのか。蒼は部活動が始まっても、ぼんやりと考えていた。
今日はランニングの日だ。体力増進と肺活量アップのため、吹奏楽部では毎日練習前に腹筋運動をし、週に二日は学校の周りを走っている。
効果のほどは定かではないが、一年の頃はノルマの三周をこなすので精一杯だったのが、今は余裕をもって走り切れるので、多少の効果はあるかもしれない。
グラウンドの横を走っていると、練習に励む野球部の姿が目に入る。蒼は隣を走る部員に声をかけた。
「足立って、涼原と同じ中学だったよね」
彼女は蒼と同級生で同じトランペット担当だ。
「そうだけど、どうしたの、急に」
「いや、最近ちょっと絡む機会があって、話す前は人気者って印象しかなかったんだけど、話してみたら、よく分かんないなって感じで」
「私も中学が同じってだけで、別に仲良かったってわけでもないし。まあ、中学のときから人気はあったよ。運動できるし、明るいし、でも、偉そうってわけでもないから」
彼女からは、蒼の印象通りの答えが返ってくるだけだった。
「でも、そんな完璧な奴いんのかって感じだよね。軽い感じだし、八方美人にも思えて、私は何か苦手だったな。高校入って、中学一緒だったんだよね、って女子から色々聞かれることもあったけど、山村の分かんないって感覚の方が、分かるよ」
「……そう」
「意外な組み合わせだね。人気者の涼原くんは根暗の山村にも優しいの?」
足立の言い方は、言葉とは裏腹に蒼ではなく涼原を揶揄するような色があった。中学時代に定まった苦手という評は、今も変わらないらしい。
「王子様は、村人Zにも優しいんじゃない」
蒼は冗談交じりに返答した。
分からない、という理解が正しいのかもしれない。
きっと、人気者でも、人格者でもない。人間だから、もっと複雑なのだろう。
ケースからトランペットの本体を取り出し、マウスピースをはめる。蒼は立ち上がって演奏を始めた。六月に入って梅雨入りも近いようだが、今日は久し振りに朝から雨の気配もなく青空が続く休日だった。河川敷を吹き抜ける風も穏やかで心地よい。
ミュートを付けて家で練習してもいいのだが、思い切り音を出したいときには、こうして自転車で外出する。
課題曲を軽く復習した後、過去のレパートリーや流行歌を耳コピで適当に吹いたところで満足して、腰を下ろす。
「うまいもんだな」
ぱちぱちと乾いた拍手とともに、声が降ってくる。びっくりして振り返った先には、もう見慣れた顔のクラスメートがいる。
「ごめん、びっくりした?」
「そりゃ、するでしょ」
「練習?」
動きやすそうな半袖と短パン姿の涼原は、断りなく蒼の隣に座っている。
「まあ」
「ここ、よく来るの? 俺もこっちまで来ることめったにないけど」
「家からそこそこ遠いし、気が向いたら来るくらい。涼原は、ランニング? 部活は?」
「今日は朝だけ。まだ体力余ってんなと思って、午後からは自主練がてら走ってる」
「――涼原って、なんでうちの高校なの? 運動神経めちゃくちゃいいし、そういう強豪校でも活躍できそうだけど」
「中学も野球部だったけど、別に強くもない軟式でそんなに本気じゃなかったし。そもそも野球部入ったのも、少年野球やってたとかじゃなく、友達とか知り合いの先輩に誘われたから。勉強はそこそこだから、近くて通いやすいうちの高校にしたってだけ。普通の場所にいるからすごく見えるだけで、真剣にやったり、強豪校なんか行ったら、俺なんか埋もれちゃうって」
「……なんか、もったいないね。涼原は、もっとできるし、本気出したら、すごいとこいけそうなのに」
思わず本音がこぼれて、自分でも驚く。
授業程度であれほどできるのだから、バレーだって本気でやればすぐエースになりそうなものだ。何でもできるから、ひとつのことに打ち込むこととは無縁なのかもしれない。あるいは、持て余すほどの才能は周囲との軋轢を生み、彼を傷付けて、何かひとつに決めることから遠ざけているのかもしれない。趣味も特技も、中学から続けているトランペットくらいしかない蒼とは違って。
でも、それはもったいないような気がした。
涼原が本気になれば、もっと上にいけるだろうし、そうすれば違う世界が開けるかもしれない。
「みんな、俺のこと買い被り過ぎだよ。ほどほどにやって、ちやほやされてる方が楽だし。……真剣になるのが怖い臆病者なの。楽器、ずっと一生懸命やってる山村の方が、すごいよ」
湿っぽい声に、嘘はないように思えた。
他人がいうような人格者ではないかもしれないが、軽薄な人間というわけでも、蒼をからかうために近付いてきたわけでもなさそうだ。
「俺、話しやすいの? そういう愚痴みたいなこと。陽キャの、カースト上位のグループじゃ話しにくそうな話とか」
「……山村って結構辛辣な言い方するのな」
涼原は一瞬答えに困ったようだ。
「本当のことじゃん。俺は暗くてカースト底辺だし、きらきらした力のある人たちに目を付けられないといいなって思いながら過ごしてるよ」
いじめというほどのものはなかった。だが、小学校の高学年くらいから、名前が女っぽいとからかわれるようになり、中学で男子の少ない吹奏楽部に入ってからは、男のくせにとそれも揶揄されるようになった。加えて、運動が苦手で体育や体育祭では足を引っ張るから、集団生活での風当たりはさらに強くなる。その結果、蒼が体得したのは、なるべく傷付かなくて済むよう、息を殺して学校生活を送ることだった。
「じゃあ、同じクラスになってから、俺が声かけるの、嫌だった?」
嫌だった、と答えたら、ごめん、もう話さない、ということになるのだろうか。
初めて話した五月の放課後はそう望んでいたはずだった。
でも、もう嫌というほどではない。むしろ。
蒼は悩んで、答える。
「……嫌というより、怖かった。涼原みたいな人気者が、俺と絡むメリットないし。裏で笑ったりされてんのかな、って」
「軽い気持ちで、ちょっと馬鹿にしたようなこと言う奴もいるけど、俺はそうじゃないつもりだよ。山村のこと、下に見たことない。楽器ずっと頑張ってんのも、数学得意なのも、俺よりすごいと思うし。確かにいつも一緒にいる奴らとは違うタイプだから、もっと知りたいって思ってるけど、それは変な好奇心じゃない」
予想外の熱のこもりように戸惑う。
でも、大したとりえもない地味な蒼を真っ直ぐ肯定してくれて、嬉しかった。涼原が蒼に構ってくる理由もはっきり述べてくれてほっとする。
「ごめん。純粋に接してくれてた気持ち、疑って」
だから、蒼は素直に謝罪の言葉を口にした。
「山村が謝る必要ないって。俺こそ、怖がらせてごめん。やっぱり、俺って無神経なんだよな」
涼原が笑う。その笑い声が、嫌いどころか心地よいと、初めて認められる気がした。
「山村ってなんで吹部選んだの?」
「中学は部活入るの半強制で、運動部以外だと吹部か創作部の二択でさ。絵を描くとかもさほど興味なかったから、吹部の見学行ったんだ。数人だけど先輩に男子もいたし、厳しくなくて初心者もついていけそうだったから、とりあえず入部してみて」
「へえ。トランペットはどうして?」
「かっこよかったから。音の存在感とか奏者が構えた時の佇まいとか」
部活見学の際、楽器紹介として各担当の部員が順に演奏を見せてくれた時、楽器の大きさからは想像できないほど力強く高らかな音にまず惹かれた。そして、その音色で力強く合奏を引っ張っていくさまに、気付けば心は決まっていた。
「吹部の中ではメインというか華あるよな」
「似合わないと思うけど」
楽器の中でも認知度は高い方だろうし、吹奏楽だと主旋律を担う場面も多い。惹かれたのは、生まれてこの方目立つことのなかった人生における反動なのかもしれない。
「いいギャップじゃない?」
涼原の相槌はからりとしている。
「涼原は? ポジションどこなの?」
「センター。あ、野球分かる?」
「うん。父親がプロ野球見るから。ピッチャーじゃないんだ」
「ピッチャーは経験者には敵わないよ」
「でも、センターもできる人がやるイメージだな。涼原、足も速いし向いてそう。打順は?」
「今は三番」
「さすが。二年でもうクリーンナップなんだ」
「ランナー返したり、次につないだり、プレッシャーやばい。――あ。ちなみにこの後、時間あったりする?」
「え、まあ、予定は特にないけど」
急に話題を変えた涼原に、蒼はたじろぐ。
「また数学教えてくれない? ぽつぽつ分かんないとこあって。夏の大会あるし、七月の期末テスト前あんまり勉強できなさそうだから、今のうちにつぶしておきたくて」
「……俺に分かる範囲なら。でも、この後って」
「ちょっと待ってて。俺、すぐに帰って教科書とか持って自転車で戻ってくるから」
言うなり、涼原は勢いよく立ち上がった。あまりの行動の速さに驚く。
「分かった。練習してるから、別に急がなくていいよ」
ありがと、と眩しく笑った涼原は、身を翻すと結構な速さで走っていく。
どうしてこうなった、と戸惑いながらも、蒼の気持ちは晴れ上がる空のように明るかった。
宣言通り三十分と経たずに戻ってきた涼原は、ここから十分ほどのところにあるカフェに行こう、と誘ってきた。家からも学校からも離れる方向で地理に詳しくない蒼は、彼の後ろを自転車でついていく。
着いたのはチェーン店のカフェ。周囲と仕切りのある席が多く、案内された二人席も落ち着けそうだ。
二人ともアイスカフェオレを注文したところで、向かい側の涼原が問題集とノートを開く。
「まず、これ」
涼原が指さしたノートには、途中まで解答がつづられている。蒼は問題を読んでから、彼の解答をたどる。
「これは前の問題の答えがヒントなんだ。aの五乗が分かってるから、aの五乗をわざと作って代入するイメージ」
「ってことは……」
少し考えて、涼原がシャーペンを走らせる。そしてあっという間に答えにたどり着いた彼は、顔をを上げて「こういうこと?」と尋ねてくる。
「うん。正確な数字は解答確認してほしいけど、流れはそんな感じのはず」
同じ調子で次の問題を片付け、届いたアイスカフェオレを飲みながらアドバイスを続ける。
分からない、といっても、途中までは手がつけてあるし、少し助言をすればすぐ正解に辿りつく。物分かりがいいのだろう。
「コツつかめた気がするから、これはちょっと頑張ってみる」
そう言って、涼原は集中している。クラスで見かける時は笑顔などの明るい表情が印象的だが、真剣な表情は凛々しくてかっこよい。イケメンは何をしても絵になる、と蒼はしみじみ彼を見ていた。
「なんか間違えてる?」
視線に気付いたのか、涼原が頭を上げて聞いてきた。
「いや、大丈夫だと思う。その調子」
蒼の返答は焦ったせいか棒読みになった。ならいいや、と再びノートに向き合う涼原に、ほっとする。
――かっこいいなって見てたなんて。好意的な感情とはいえ、蒼から言われても涼原も困るだけだろう。
涼原と二人きりで長い時間過ごして、調子が狂ってるんだ。蒼はそんな風に己に言い聞かせる。
「まじ助かった! ありがとう」
カフェオレが残り少しになる頃、一時間も経たないうちに、涼原の疑問は解決したらしい。
「涼原、ちゃんと分かってたから、俺は大したことしてないよ」
「授業はそこそこ分かるから、例題とか基本問題は解けるんだけど、応用問題になると詰まっちゃうからさ。めちゃくちゃ助かった。テストは応用問題も結構出るじゃん」
「俺も復習になって勉強になったよ。ありがとう」
蒼が素直な気持ちを述べると、涼原は小さく口を開けて驚いたような表情になる。
何か驚かせるようなことを言っただろうかと蒼が考え始めると、涼原が気を取り直したように口を開いた。
「……吹部って、どこから応援来てくれんだっけ」
「え」
蒼は急な話題の転換についていけない。
「夏の大会」
「あ、えっと、どうだっけ」
やっと涼原の言わんとしていることに理解は追いついたものの、答えは分からない。野球部が夏の大会をどこまで勝ち進めば、吹奏楽部がスタンドで応援するのかということだろう。
「うちの野球部、弱いもんなー。最近、応援来てもらえるとこまで勝ったことあんのかな?」
「……ないんじゃないかな。そのための練習しようって話にもならないし」
「そうだよな。去年なんか初戦コールド負けだし。……今年は、もっと勝ちたいな。応援、来てもらえるくらい」
「じゃあ、頑張ってよ、応援行けるくらい」
応えるように返して、蒼は自分で驚いた。
野球部が強ければ、その応援も吹奏楽部の活動の一部なのだろうが、そんな機会については考えたこともなかった。野球部の人間はどちらかというと苦手な部類の人が多く、応援したいと思ったことがないから。
だから、驚いている。自然と応援に行くという意思を示していたことにも、涼原と冗談交じりのやりとりができるようになっていることにも。
「おう! 対戦相手が吹部の応援されてるの、いいなって思うんだな。応援してもらえたら、気合入るだろうなあ」
涼原は蒼の戸惑いも知らず、輝くように笑っている。
その笑顔につられて、初めて球場で演奏する自分を想像した。それは、思ったより悪くなさそうだった。
涼原と応援の話をしてから、応援のための演奏動画などを見るようになった。演奏のスタイルから曲目まで、演奏会やコンクールとは違って勉強になったし、おもしろかった。そのうち何曲かは、耳コピして吹いてみて、部活での音出しのレパートリーにも加わった。
なかでも、応援曲としては人気らしい『アフリカン・シンフォニー』が気に入っている。
軽快でグラウンドで躍動する選手によく合うし、重厚な力強さはきっと選手も応援する方の気分も盛り上げてくれる。なにより、多数の楽器が入り乱れる華やかさは、涼原にぴったりだ。
誰かを応援するなら、まず自分がしっかりしなければならない。自然と普段の練習にも身が入るようになった。
「……野球の曲でしょ、それ」
金管楽器の担当全員が一部屋に集まり、思い思いに音出しをしている。蒼は普段から他人のことは気にしないが、ホームルーム長かったとぼやきながら少し離れたところに譜面立てを置く足立は違ったらしい。
「涼原に何か言われたの?」
「夏の大会の、応援の話はしたけど」
「平日も公欠扱いで応援行けるのは、ベスト16からだっけ。二つか三つ勝たなきゃいけないはずだよ。弱小のうちじゃ絶対無理。過去行ったことあんのかな」
「……詳しいね」
「演奏会とかコンクール以外の演奏の場も興味あったし、入部してから先輩に聞いたことあるんだよね。うちらも人のこと言えないけど、せめて頑張ろうよ、コンクール」
足立はそう言ったきり、マウスピースを取り出してウォーミングアップを始めた。
蒼は急に冷静になった。コンクールの課題曲の楽譜を開き、苦手意識のある部分をさらい始める。
クラスの同性の人気者と少し話したからって、誠実に接してくれたからといって、涼原が他人には見せないような本音をちらつかせてくれたからって、はしゃいでどうする。
彼に偏見がなくなって、平凡なクラスメートになれそうなだけ。
親しくなれたなんて、思い上がって何がある。
蒼は余計な考えを消そうと、同じ旋律を繰り返す。
球技大会の当日は、梅雨の真っ只中のくせに、気持ちよく晴れた。予定日に雨が降れば延期、次の候補日も雨ならば中止になるので、蒼はそれを期待して当日の朝を迎えたのだが、空は無常なほど明るかった。
一学年六クラスの総当たりで、午前二試合、午後三試合。二十点で一セットの二セット選手。全員参加がルールなので、一セットは出ざる得ない。観戦は苦ではないが、心許なく、退屈な一日になりそうだった。
登校して体操服に着替え、一試合目の場所である体育館に向かう。授業のない遊びのような一日なので、大半の生徒は楽しそうだ。
「今日は一日よろしく。楽しく勝ちにいこ!」
円陣の真ん中にいるのは、やはり涼原だ。
「一セット目は練習もメインだったメンバーで、二セット目は適当に笠原と山村と交代して、三セット目ははじめと同じメンバーでいいよな? 怪我気を付けて、頑張ろう!」
おお、というかけ声の後、円陣がばらける。
蒼は同じく補欠の柔道部の笠原と体育館の隅に座り、試合の行方を見守る。
「涼原ってすげえよな。俺、球技ほんとだめだから、助かるわ」
ジャンプとか機敏な動き無理だし、と笠原は笑っている。
「……うん。俺も運動苦手だし、うまく仕切ってくれて感謝してる」
涼原は、初っ端から当然のようにサービスエースを決め、コートの中は試合に勝ったかのように盛り上がっている。
初戦で体力があり余っているのか、蒼のクラスが一セット目を先取した。二セット目を前に、蒼は重い腰を上げてコートに入る。
「一セット目取れたし、二セット目は気楽にいこー!」
涼原に調子乗らせんな、と相手チームが沸く。
「……俺、ローテの隣いくし、なるべく拾うから。真正面きたボールだけ、落ち着いて取ってくれればいいから」
蒼がポジションに迷っていると、涼原に背中を押された。
「……球技大会での出来なんか、誰も何も言わないよ。前の練習みたく、ボール上げてくれれば、適当につながるから」
大丈夫、と笑って、涼原が蒼の隣のポジションにつく。
「……ありがとう」
蒼は頷いて、前を向く。五セット分、我慢すれば終わる。去年のサッカーより、随分ましだ。
それに今年は、涼原が隣にいてくれる。
大丈夫。
三セット目を惜しくも落とし、最終試合は負けで球技大会は終わった。
「勝ち越しだけど、負けて終わるの悔しい!」
輪の真ん中で、涼原が騒ぐ。勝ち越しでも十分でしょ、ソフト連敗だって言ってたし、と他のメンバーがそれぞれ感想を述べている。
最終試合は屋外コートだったので、そのままの流れで結果発表と表彰式の行われる体育館に向けてまとまって動き出す。蒼は最後尾を黙って歩いた。
「笠原、レシーブ鉄壁だったな! 四試合目とか、めっちゃ頼もしかったよ」
まとまりの真ん中にいる涼原が、メンバーそれぞれに労いの言葉をかけている。
「いや、明らかに狙われてて、来るって分かってたし。痛いのは慣れてるから、とりあえず上げよ、と思って。そのあと、涼原が決めてくれたおかげだよ」
「バレーは上がんなきゃ始まんないよ」
涼原が笑って、笠原の肩を叩く。
なぜだか、それがおもしろくなかった。胸をちりちりと焼く感情は、明らかにいら立ちだ。
どうして。感謝こそすれ、どうして憤る気持ちが湧くのか。
蒼は戸惑いから顔を伏せる。
「……山村も、お疲れ。レシーブも、トスも落ち着いてできてたじゃん」
いつの間にか、涼原が最後尾まで下がってきていた。
「涼原が、フォローしてくれたから。ありがとう。助かった」
言うべき礼の言葉がスムーズに出せたことにまず安堵した。
「苦手なこと、一日ずっとすんのしんどいよな。……お疲れさん」
明るく優しい言葉が、いつもより染みて、刺さる。
――楽器、ずっと一生懸命やってる山村の方が、すごいよ。
蒼だから、ではない。蒼だけ、ではなかったのだから。
笠原だって柔道部で一生懸命頑張っている。だから、涼原は好意的に接する。
涼原にとって、蒼は気に掛けるべきクラスメートの一人にすぎない。みんなに優しいのが涼原。吹奏楽部だから、蒼だから、特別なわけじゃない。いつの間にか抜け落ちていた前提を自身に言い聞かせながら、蒼は声を絞り出す。
「涼原が、気遣ってくれたから、去年より楽だった。全然、大丈夫」
体育館が近付く。感謝の気持ちを込めて、明るく言えただろうか。
七月初旬のその日は、朝から何となく教室が静かだった。
「野球部以外全員いるな」
朝のショートホームルームで、担任が教室を見回して確認する。
――夏の、大会が始まる。
ささいな連絡事項を伝えて、担任が出ていく。蒼はリュックの中から、一限の授業の教科書を取り出す。リュックのファスナーを閉める時、小物入れのスペースに入れたスマートフォンを意識した。
昨夜初めて、涼原から個人的に連絡がきた。
『部活とかお疲れ! 涼原です』
『明日、初戦。主将のくじ運良くて、2つ勝てば、ベスト16だって』
『明日は同じような公立だし、勝てるように頑張る!』
メッセージアプリのクラス全体のグループで連絡先を探したのだろうか。
球技大会の日以来、蒼からは関わる気になれず、話す機会もなかった。話せなくても、何ら問題なく日々は過ぎる。それが普通だった。むしろ、あれだけ交流があったのが異常だったのだ。そう、言い聞かせていた。
だから、メッセージが届いて嬉しかった。ただのクラスメートでも、平等な好意でも、涼原の意識の中に自分がいるらしいことが。
『頑張って。ベスト16までは、心の中で応援歌吹いてるよ』
ずっと上の空で返信の内容を考えたわりに、無難にしか返せなかった。すぐに、ありがとう、頑張る、のスタンプが返ってきた。
いつしか日課になったメロディーを奏でるように、机の下で指を動かす。
頑張れ、と祈りを込めて。
夜になっても、外はねっとりと蒸し暑い。
吹奏楽部も月末にコンクールの地区予選があるので、遅くまで練習する日々が続いていた。そんな練習終わり、部員たちと団子になって校舎を出て、校門近くで電車通学のメンバーと別れ、蒼ら自転車組は駐輪場に向かう。
「山村!」
その途中で、不意に名前を呼ばれた。よく通る声の主は、もう考えなくても分かる。
「話したいから、途中まで一緒に帰ろ」
停めた自転車の傍で、涼原が手を振っている。運動部、文化部問わず夏の大会に向けて大詰めの部活が多く、帰りがけの生徒も多い。注目を浴びている気がして、居心地が悪い。まず、周囲の吹奏楽部のメンバーが驚いている。
「自転車とるから待って」
無下にもできず、蒼は涼原に返事をして駐輪場に急ぐ。部員たちには、クラスメートなんだ、と言い訳を残して。
自転車を小走りで押し、涼原のもとへ向かう。
「ごめん、急に声かけて」
「……別に、謝ることじゃないけど。一緒に帰るって言っても、逆方向でしょ」
並んで自転車を押して、校門をくぐる。河川敷で会ってカフェで勉強会をしたあの日、途中まで一緒に帰ったので、お互いの家の場所は何となく分かっている。
「直接話したくてさ、口実? 俺が誘ったから、山村の家の方行くよ。あっちコンビニあるじゃん、そこでちょっと話そう」
校門を出ると、駅に向かって歩く生徒らと自転車で並走して帰っていく生徒らで夜道はにぎやかだ。その中で自転車を押している、かつ男二人は目立っているように思えて落ち着かない。
「いいけど、何」
涼原のいうコンビニまでは、歩いて五分とかからない。わざわざ寄る生徒は少ないだろう。それまでの辛抱だと、蒼は自分に言い聞かせた。
「初戦、勝ったよ」
「うん。おめでとう」
翌日、クラスで騒ぎになっていたので、結果は蒼も知っていた。
「冷静だなあ。知ってたとは思うけど」
「クラスで話題になってたし」
「まあでも、直接言いたかったんだ。急にメッセージ送ったのに、ちゃんと返事くれてありがとう」
「知らない人でもないんだし、無視はしないでしょ」
「応援してる、って言ってくれて、嬉しかった」
「みんなに言われてるでしょ。で、みんなにそんなこと言ってるんだ」
周りの目が気になるせいか、素直でない皮肉っぽい言い方になってしまう。
「……個人的に連絡したのは、山村だけだよ」
「学校じゃ話す機会ないしね」
そういうことじゃないんだけどな、と涼原が呟く。
「――山村に頑張れって応援してもらえたら、力出るなって思って決死の思いでさ」
「決死の思い? 涼原が俺に連絡するのに?」
大げさだと聞き流しているうちに、件のコンビニが見えてきた。
「何か買う?」
「俺はいいや。家帰ったらすぐご飯だし。何か買いたいならどうぞ」
「じゃあ、俺もいいや。でも、次はきついかもしんない。去年ベスト4の私学なんだよなあ」
「格上、ってことだよね」
「そ。まあ、頑張るけどさ。何が起こるか分かんないし、勝ったらベスト16だしな!」
「勝てるといいな」
人目が気になって返答はよそよそしくなったが、次の試合の後もこの明るい笑顔が見られればいいな、と純粋に思っていた。
「え、スズじゃん! お疲れ。帰り、こっちじゃないよね?」
喜色の明らかな大きい声。
コンビニから出てきた女子生徒のグループが、涼原に声をかけてきたらしかった。
「お疲れ。ちょっとクラスメートと話してて」
彼女たちの視線が蒼に集まる。一気に居心地の悪さが込み上げる。部活以外で女子と話す機会はほとんどない。しかも近付いてきたのは、生徒指導で怒られない範囲で化粧をしているような、蒼とは無縁の華やかな女子グループだ。
「野球部じゃなくて、わざわざ? 仲良いの? なんか意外」
「そうかあ? いつも同じ面子でつるんでて飽きない?」
涼原の言葉尻はきつかったが、冗談交じりのやわらかい応酬にも聞こえた。
だが、聞いていていい気はしなかった。同じ面子でつるんでいると飽きるから、たまに蒼のようなタイプとも仲良くして刺激にしている?
そうではないとあの日河川敷で話して納得したはずだったが、意地悪な解釈をしたくなった。
球技大会の日と似たいら立ちが、心の底でくすぶり始めるのを感じる。
変にやつ当たりをするのは嫌だったし、女子たちは明らかに涼原目当てのようだったので、蒼は自転車にまたがった。
「じゃ、お疲れ」
涼原は驚いていたが、女子たちは邪魔者がいなくなると安堵したように笑顔になった。
蒼は振り返らず、ペダルを思い切り踏む。自宅までの道を全力疾走した――はずだった。
「山村!」
呼ぶ声がする。何度も。しかも、あっという間に近付いてくる。
「待って。待てって!」
いつの間にか、涼原に並ばれている。あのコンビニからは随分走ったはずなのに。運動部と文化部の体力の差だろうか。仕方なく、蒼はブレーキをかけて止まる。
「何? 話終わってたでしょ」
涼原相手に、今までで一番強い声になった。
「にしても、あれはないだろ」
「じゃあ、女子たちが満足するまで、俺は黙って聞いてればよかった? 明らか邪魔です、って空気も出されてたのに」
「すぐに切り上げたよ」
「切り上げなくていいよ。俺は、涼原みたいに人気者じゃないし、気まぐれに俺を構いたくなったら、好きなときに来ればいいよ。みんなといて、飽きたらさ!」
久し振りに、こんなに声を荒げた気がする。これほど人に怒れるのだと、蒼は自分に驚いていた。
「違うって。俺は、山村と純粋に一緒にいたいだけ。言ったじゃん」
「何で。なんで。涼原と一緒にいたい人はいっぱいいるよ。俺じゃなくていいじゃん」
「誰でもよくねえよ。山村じゃなきゃだめなんだよ」
「そんなこと言って、みんなに優しいじゃん。それとも、優しくしたら、嬉しいって俺みたいに簡単に尻尾振る方が、気持ちいい?」
違う、違う、頭ではそう思うのに、言葉は裏腹に涼原を罵る。
涼原の口が開きかけて、閉じる。傷付けている、と思うのに。
「……平和な学校生活送りたいんだよ。そのために目立たないように、気を付けてんの。涼原といると、変に注目される。……しんどいよ」
沸騰しきったいら立ちが吹きこぼれるように、一筋涙が流れた。
「……ごめんな」
謝るべきは、絶対に蒼の方なのに。
蒼がとった行動は、「じゃあ」とペダルを踏み直すことだけ。家まで歯を食いしばって帰った。
その夜は、夕食を何とかお腹に収めて親に言われるがまま風呂を済ませ、何も考えずに眠った。いつもより長く寝たはずなのに、翌朝起きると頭が痛んだ。
家を出る前にスマートフォンを確認すると、涼原からメッセージがきていた。
『少しだけ話させて。部活の後、あの河川敷で。すぐ終わらせるから』
謝るべきは蒼だ。なのに、涼原にこうして気を遣わせて、時間まで取らせてしまった。無視できるはずもない。
『分かった』と返事をして、家を出る。
登校すれば、同じクラスだから自ずと顔を合わせることになる。とはいえ、友人グループも違うから、意識しなければ会わないのと変わらない。
涼原との約束の時間が早くきてほしいような、いつまでもきてほしくないような複雑な気持ちだった。
昨夜は明らかに蒼が悪かった。一刻も早く謝りたい。
でもまた、彼と向き合って自分の気持ちが制御できなくなったら。
悩みながら授業をやり過ごし、部活を終えて、蒼は自転車を漕いで河川敷に向かった。
川沿いの道を進むと、ベンチと明かりのあるスペースに人影があって、近付くと涼原だと分かる。
「ごめんな、夜も遅いのに、部活終わりに呼びつけて」
自転車を降りて停める蒼に涼原が声をかけてきた。
「いや、謝らないといけないのは俺だから。昨日、やつ当たりでひどいこと言ってごめんなさい。それに、今日もこうして気を遣わせちゃって、本当にごめん。涼原こそ大会中で忙しいのに」
蒼は真っ直ぐ彼を見て告げ、頭を下げた。
「――なんで、って山村、いつも聞くじゃん。なんで俺に構うのって。俺さ、一年の頃から知ってたんだ」
「え」
脈絡のない涼原の言葉に、蒼は思わず顔を上げる。彼は微笑のようでいてどこか苦しそうな、切なげな表情だ。
「吹部って、男子少ないから、目に留まるんだよ。体力作りのための、ランニングとか、筋トレとかしてるの、見かけることがあって。ランニングは最後の方、倒れそうになってるし、腹筋もほんときつそうで、そんななるほどかよ、って笑いそうになった。でも、いつも最後まで手も抜かず、誤魔化さずにやってんだなって気付いて、すごいな、って思った」
それは褒めているのかけなしているのか、と一瞬言い返したくなったが、涼原の真剣な口調に気圧され、蒼は何も言えなかった。
「同じクラスになって、テスト前、教室で一人でいるの偶然見つけて。山村だったから、声かけた。山村じゃなかったら、声かけなかったよ」
涼原にとって、自分は特別じゃない。何度も言い聞かせたはずだ。なのに、本人に否定されている。――なんで?
「実際に話したら、俺のこと、運動神経抜群の人気者ってだけじゃなくて、ちゃんと見てくれて、すげえ嬉しかった。もっとスポーツ頑張ったらいいのに、っていうのも、心から言ってくれてるんだなって思えて、部活もっとちゃんと頑張ろうって気合も入って、最近は野球してても見えるもの変わったなって思う」
涼原が微笑む。いつもは鮮やかな笑顔が、今は儚げだ。
「……俺といると、山村はしんどいよな。でも、俺、山村のこと好きなんだ。一緒にいたい。もっと話したい」
これが、なんで、の答え?
「悩んでほしくない。嫌な気持ちになったなら、忘れてくれていい」
こんなに真っ直ぐで、熱っぽい好意を向けてもらえているなんて、思いもしなかった。
「やっぱり俺、無神経だな。山村もコンクール前の大事な時期なのに、自分の勝手でこんなこと言って」
ごめんな。
涼原が自嘲するように笑って、自転車のハンドルに手をかけた。
好きって? 友達として? ――もっと、切実で、特別な?
話せて、嬉しかった。彼を応援することを、夢想した。
でも、その好意は、彼に同意できるほどのものだろうか。
同意したとして、周囲の目も怖いし、誰にでも優しい涼原にいら立ってしまうのに、彼とちゃんと向き合えるのか。
蒼はすぐに答えが出せなかった。適当に肯定するものでもないと思った。
「もう遅いし、気を付けて帰って」
スタンドを上げてサドルにまたがると、涼原はあっという間に走り去る。
予想もしない出来事に、蒼はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
昨夜の劇的な出来事が嘘のように、翌日はいつも通りの一日だった。
授業を受けて、部活動に勤しむ。特にコンクールが近く、練習が濃密なので、一日はあっという間に過ぎる。
そうして毎日を過ごしているうちに、三日が経ち、週末金曜を迎えた。
「スズ、明日試合なんだよね? 頑張ってね!」
女子の声は高く、放課後のざわめく教室でもよく響く。
「ありがと。でも、望み薄いんだよ。相手私立の強豪でさ、二軍まであんの」
「えー? でも、スズすごいじゃん! いけるいける」
教科書をリュックにしまい終えた蒼は席を立つ。一人が声をかけたことをきっかけに、クラスメートたちが彼を囲んで応援の言葉をかけるのが視界の隅に入る。
リュックの紐をぎゅっと握り締めて、蒼は俯きがちに教室を出た。
――頑張れ。勝ったら、次は吹部で応援でしょ?
言いたい。でも、あの場で言えるはずがない。
蒼にはそんな勇気はない。
「涼原と、何かあったの」
練習終わりに楽器を手入れしていると、隣の足立が話しかけてきた。
「なんで」
彼女が唐突にその名前を出してきて驚いたが、何とか平静を装う。
まさか、大人げなくやつ当たって傷つけた上に、真剣に好意を打ち明けられて困っているなんて明かせるはずもない。
「今週の途中から、野球の曲吹くのやめたみたいだったから」
「……まあ、色々あって」
「ふうん。山村、二年になってからちょっとしっかりして、音も良くなったし、調子落とさないでよ。コンクール近いんだし」
足立は何かを察したのか、それ以上聞いてこなかった。
マウスピースを拭き、本体にガーゼを通して清掃する。そして、本体も軽く磨いて、ケースにしまう。
――実際に話したら、俺のこと、運動神経抜群の人気者ってだけじゃなくて、ちゃんと見てくれて、すげえ嬉しかった。
蒼も、同じだった。
実際に話したら、蒼のことを運動音痴でクラスでは隅にいるよく分からない奴と決め付けず、ちゃんと向き合ってくれて嬉しかった。
――もっとスポーツ頑張ったらいいのに、っていうのも、心から言ってくれてるんだなって思えて、部活もっとちゃんと頑張ろうって気合も入って、最近は野球してても見えるもの変わったなって思う。
同じだ。
足立のいう『二年になってからちょっとしっかりして、音も良くなった』が本当なら、涼原と親しくした影響が大きいはずだ。彼が部活を頑張っているように、と練習に励めたし、野球部の応援のことを考えて、コンクールや演奏会という目先の目標だけでない取り組みができたのも大きいだろう。
――好ましい。もっと関わってみたい。俺は、涼原のこと……。
答えはまだおぼろげだ。
でも、言いたいことがある。言わなきゃいけないことが。
蒼は急いでリュックを背負い、トランペットケースを部室のロッカーにしまった。
下足室までの廊下を必死に走る。
上履きから慌てて履き替えたスニーカーは脱げそうだったが、それでも何とか、駐輪場を目指して走った。
運は良かった。ちょうど野球部も練習が終わったところだったようで、分かりやすく短髪がまとまって自転車を押して出てくる。涼原も、いた。
呼び止めようと、息を吸う。
周りにいるのは、先輩や後輩も含む野球部員たち。しかも、同じように部活を終えた生徒たちから、明日頑張れよ、と声がかかっている。――俺なんかが、応援しなくても。
せっかく吸った息が、声にならずに出ていく。
気付けば、自分の自転車に向かってとぼとぼ歩いている。
門の方へ自転車を押しながら歩いてくる彼と、駐輪場に向かう蒼と、距離が近付く。
涼原の顔が、はっきりと、視界に入る。
昨夜、真っ直ぐ蒼を見て、心の内を打ち明けてくれた彼の表情と声がよみがえる。
びっくりしたけど、嬉しかった。好きだって、一緒にいたいって、話したいって言ってくれて。
昨日だけじゃない、いつも声をかけてくれたのは涼原だった。そして、卑屈な蒼の心をいつも軽やかに持ち上げてくれた。
彼の真意が分からないうちは、蒼の応対はかわいげもなかった。それでも、涼原は歩み寄り続けてくれた。
その寛容さと勇気に、惹かれている。
だから、俺も、ちゃんと伝えなきゃ。今の気持ち。
「――涼原!」
時が止まったような気がした。周囲の喧騒も、人の目も、頭から消えた。
彼がこちらを向く。
「明日、頑張れ。まだ行けないけど、応援してるから」
頑張れ。
「おう! つぎ来てもらうためにも、頑張る!!」
白い歯がこぼれている。輝くような笑顔。――俺も、もっと見ていたい。
部活お疲れ、と続けた涼原とすれ違う。
周囲はまさかのやりとりにざわめいているような、いないような。
蒼は速足に自転車を目指した。からかわれるのが怖いとか、変な目で見られるのが嫌だとか、いつものように後ろ向きに考える余裕がなかった。
できるんだ、という不思議な全能感で、なぜか泣きそうでもあり、笑い出しそうでもあった。
翌日の土曜は、蒼も朝から練習だった。コンクールに向けて佳境なので、午前中はパートでの練習、午後から合奏の予定だ。
ウォーミングアップの音出しでは今や定番となった『アフリカン・シンフォニー』を、帰り道で涼原と喧嘩のようなやりとりになったあの日ぶりに応援の気持ちを込めて吹き、練習に励んだ。
十八時前の練習終わりにスマートフォンを確認すると、涼原からメッセージが届いていた。
『明日、午後に時間ない? 会いたい』
「暑い中、ありがとう」
蒼が待ち合わせ場所に着くと、先に来ていた涼原からお茶のペットボトルを渡される。半袖短パンのスポーツウェアの彼は、ランニングも兼ねて出てきたのかもしれない。
蒼は自転車を停め、礼を言って冷えたペットボトルを受け取る。
そしてそれを握ったまま、涼原と並んでベンチに腰掛ける。
あの夜と同じ、河川敷の傍の休憩スペース。日曜の夕方の河川敷には犬の散歩をする人などがちらほらいるものの、まだ暑いので人は少ない。
「――負けました! せっかく応援してくれたのに、ごめん!」
息を吸う音と出だしのかなりの声量に驚いた蒼が彼の方を向くと、すごい勢いで頭を下げられていた。
「……七回コールドだったんで、完敗すぎて言い訳もできないんだけど」
のろのろと頭を上げた涼原は苦笑していた。
「お疲れさまでした。やっぱり相手、強かったんだね」
蒼は真っ直ぐに涼原を見て、労いを告げる。
「うん。スタメンは控えメインだったけど、それでも手も足も出なかった。――最後の一年は、もうちょっとやれるように、俺なりに頑張る」
「……うん。応援してる」
蒼はペットボトルを脇に置き、立ち上がって自転車の前かごにのせていた楽器ケースを手にベンチに戻る。そしてトランペットを組み立て、前に向き直ってマウスピースに唇をつける。
涼原は何も言わず、蒼の行動を見守っている。
息を吹き込み、バルブを押す。
壮大で力強い旋律が、夏の夕風に乗って響く。
まだまだ拙い、『アフリカン・シンフォニー』の一節。
蒼ももっとうまくなりたい。そしていつか、プレーする涼原を自分の音で応援したい。
そのために、頑張る。
「……すげえ。球場で、生で聴きたいな」
演奏を終えた後の涼原の一声で、蒼の気持ちが伝わっていたことを知る。
「俺もペット、もっとうまくなれるよう練習頑張る。あと、ベスト16から応援っていうのは、平日公欠になる場合らしいから、昨日みたいに試合が土日だったら、何とかできないか考えてみる」
「え、それって……」
「吹部の有志で、とか」
蒼は軽く唾抜きをしてマウスピースを外し、楽器をしまう。
まだ外にいるだけで汗ばむほど暑いが、気分は清々しい。
ぼんやり考えていたことを口にしてみたものの、実現のめどなどない。野球部の応援をしたいなどと蒼が言っても、吹奏楽部で付き合ってくれる部員はいるだろうか。応援となると、野球部の控えや父母などとの連携も必要かもしれない。
今までの蒼なら、考えもしないし、動こうともしなかっただろう。
涼原と交わって、変わったから。
「俺も、涼原ともっと仲良くなりたい。ただのクラスメートじゃなく、まずちゃんと友達に」
彼と目を合わせて、素直な心の内を告げることができた。
「まだ友達じゃなかったってこと?」
「うん。……でしょ?」
「山村、人間関係、狭く深くっぽいもんな」
ちなみに、と続けた涼原が蒼から目線を外して周りをきょろきょろと見た。
知り合いでもいたのだろうかと、蒼も周囲に視線をやった。
次の瞬間、彼の顔が接近してきて、唇が額をかすめていった。
「もっと話したい、一緒にいたい、って、こういう好きなんだけど、分かってた?」
蒼は何が起こったか理解できず、ただ涼原を見た。
「ちなみに、俺はもう友達だと思ってたし、できたらそれ以上になりたいって意味で言ったんだけど」
「え」
「……きょとん顔、すげえかわいい」
涼原がくしゃりと笑う。
「か、かわいくない! むしろ涼原はもっとかわいくて性格のいい子、選び放題でしょ。なんで俺なんか……」
蒼は目の前の笑顔に胸を掴まれながら、何とか言い返す。
「なんで、っていつも伝えてるつもりなんだけどなあ。――部活で頑張ってるのが印象に残ったって言ったでしょ。トレーニング、苦手だろうにちゃんとやってんのすごいなって思ってたけど、屍みたいに倒れ込んでるとことか、体操服越しにも腹筋ぷるぷるしてるんだろうなってとこは、かわいいなって思ってた」
あと、と涼原が続ける。
「話すようになって、勉強教えてくれる時の真剣で優しいとこも、覚悟決めたら強いとこも好きになった」
だんだん甘くなる声に、心拍数が上がる。
「もう他の子なんて興味ないし、今のままで甘んじたくないから告白した」
うれしい。でも。
「……友達でも、俺といたら周りから色々言われて、涼原も嫌な思いするかも」
「俺は気にしないよ。山村に嫌な思いさせたくないから、学校内では自重しようと思ってるけど、我慢できなくなる時もあるかも。山村こそ、大丈夫?」
「涼原がちゃんと気を遣ってくれるなら、俺は、大丈夫」
大丈夫。それって、俺。
「――俺は、涼原の、よく笑うとこ、好き。ちゃんと人のこと見て、言葉にしてくれるところも」
自然と言葉が出た。
「でも、涼原のちゃんと人のことを見てて、優しいところは好きだけど、他の人にもそうなんだなって思ったら、なんか複雑で。それでもやもやしたこともあるし、これからもやつ当たりとかしちゃいそうで……。俺が心狭いからなんだけど」
「……それって、やきもちってこと?」
まさかの解釈に、顔に熱が集まる。
「でしょ?」
涼原は嬉しそうだ。
心臓が、持たない。
「だとしても! 友達から始めさせてください……。慣らさないと、ちょっと……」
「……俺も、これくらいからの方がいいかも。山村、かわいすぎてちょっと」
涼原は少し伏し目になって唇をかんでいる。まるで、何かにたえるように。
「熱中症なっても困るから、今日のところは帰ろう!」
涼原が勢いよく立ち上がる。トランペットケースを抱えて、蒼もその後を追う。
運動したわけでもないのに、まだ心臓が跳ねている。現実が受け入れらなくて、脳内がふわふわしている。
「山村はこれからコンクールだもんな。まずは部活に集中しなきゃだし、俺も三年生引退してキャプテンだしより一層頑張らないとだから、まずはゆっくり……」
「涼原、キャプテンなんだ。すごい」
「別にすごくはないけど」
蒼が思わず反応すると、涼原も若干冷静に返してきた。
顔を見合わせて、二人で笑う。
「……涼原ってこんなに余裕ないことあるんだ」
「山村といる時は大体余裕ないよ。好かれてないのは分かってたから、ちょっとでも好きになってもらえないかなっていつも考えてたし、その分、いい感じになったと思ってまた頑なになったら内心すげえへこんでたし」
「そうなんだ。全然気付かなかった」
「まあ、おかげでちゃんと告白するしかないなって、腹くくれたけど」
クラスでは目立たず隅にいて、ささやかに部活に打ち込めれば十分だったはずの高校生活。どうしてだろう、大きく変わってしまうようだ。
友達から始まるこの先は、もう予想もできない。
「俺が色々考えて迷走する間も、涼原が変わらず声をかけ続けてくれたから、ここにいる」
蒼は進むだろう。誘ってくれたのが、涼原だから。
好きなひとと、はじめたいから。