「かーぶち、帰ろうぜ!」
「悪い、今日ちょっと用事ある」
放課後になると声を掛けてくる塚本に即答で言葉を投げると、1ミリたりとも断られるとは思っていなかったと顔に書いてある。流れで一緒に下校することも多いが、別に約束しているわけでもない。
「なんでだよー!? 一緒にカラオケ行こうぜ!?」
「だから用事だって、また今度な」
「橙の裏切り者ーっ!」
抗議の声を背中に受けながら教室を後にすると、俺は下校する生徒たちの流れとは真逆の方向へと足を進めていく。
普段であれば放課後に居残りをしたことなどないから、違った行動をするというのはなんだか妙な感覚だった。
向かった先の室名札には『図書室』と記されている。好んで訪れたことはないが、ここが間違いなく図書室なのだろうと俺でも理解できた。
がらりと音を立てて扉を開いた先では、数名の生徒が机に向かって本を開いている姿が見える。
図書委員と思しき受付に座る女子生徒は、俺を見て僅かにぎょっとしたような顔をしたけれど、それは見なかったことにした。
(俺みたいなのは普段来ないだろうしな)
別に本を読みに来たわけではない。癖で首元のヘッドホンに手を掛けつつ室内に視線を巡らせたところで、誰かの片腕が持ち上げられるのが見えた。
「橙、こっち」
控えめな声音で俺を呼ぶのは、先に図書室へとやってきていた千蔵だ。
教室からここへ向かうのに千蔵と一緒では目立ちすぎるからと別行動にしたのだが、結局注目を集めるのには変わらないので同じことだったかもしれない。
そんなことを考えながら、俺はテーブルを挟んで千蔵の向かい側に置かれた椅子に座ろうとする。
「あれ、こっちの方が良くない?」
「いや、別に隣じゃなくても……」
「隣の方が教えやすいよ、あんまり大きい声で話せないし」
自身の隣を指差す千蔵に抵抗の意思を見せるのだが、確かに彼の言う通り図書室では発することのできる声量も限られるだろう。
悩む時間ももったいないかと、俺は結局千蔵の言う通りに隣へと移動することにした。
「で、何からやる?」
「あー……全部やりたくねえけど」
「ふふ、じゃあ数学からにしようか」
わざわざ図書室なんて場所に足を運んだ理由はほかでもない、千蔵に勉強を教わるためだ。
別に俺の家でやっても良かったのだが、愛猫のきなこがすっかり千蔵に懐いてしまい、千蔵側としても勉強どころではなくなる可能性があるとのことだった。
(確かに、猫はそんな場合じゃねー時に限って構われに来るからな)
「ひとまず範囲になりそうなのが、ココとこの辺りかな」
「そんなことわかんの」
「この間の授業で先生がそれとなく話してたよ」
「……寝てたかも」
言われてみれば聞いたような気もするけれど、覚えていないのだから右から左に通り抜けていってしまったのだろう。
教科書を開いた途端、視界に飛び込んでくる数式の数々がまるで俺に呪文をかけてくるみたいで、自然と眉間に皺が寄ってしまう。
始めは理解しようと努力をしていたのだが、一度躓いてしまうとどうにも別の星の言語のように見えてきてしまうのだ。
(……やべ、後でやるかの繰り返しで放置したトコだ)
後回しにせざるを得なかったのは、やたらと放課後に遊びたがる塚本のせいだ。大体のことは全部アイツのせいだと思っている。
「早速わからないところある?」
「え、あー……」
わからないところをわからないと言うのも妙に悔しい気がするのだが、試験勉強に来ているのだから1つでも理解ができなければ時間を無駄にするだけになる。
「ココ、そもそもなんでこの数字が出てくんだ。納得いかねえ」
「ああ、これややこしいよね。引っ掛けってほどでもないんだけど……」
俺の手元を覗き込んでくる千蔵は、どうやらこの数字たちについて理解できているらしい。俯いたことで癖のない黒髪がさらりと頬を滑り、千蔵の顔に影を落とす。
(……マジで綺麗なツラしてるよな。つーかなんかいい匂いしやがるし)
香水のそれともまた違ったほのかに甘いような不思議な香り。汗臭さを纏うコイツの姿なんて想像もできないのだけど。
性格も伴ってこれほど王子らしい顔をしているのだから、クラスの女子たちが騒ぐのもわかる気がする。なんてことを考えるうちに、知らず知らずその顔をもっとよく見てやろうと距離が近づきすぎていたらしい。
「それでこれが、って……橙?」
「ッうわ……!?」
俺の方を見た千蔵の鼻先が自分の鼻につくんじゃないかと思った。そのくらい間近に迫っていたせいで、俺は反射的にのけ反って大きな声を出してしまう。
当然ながら周囲の視線が一斉に俺の方を向いていて、小さく咳払いをしてから何でもない顔をして席に座り直す。
「っふふ、なにしてんの」
「るせ……集中しすぎてたんだよ」
「オレに?」
「っ、問題に!」
楽しそうに口元をゆるませて揶揄する言葉を紡ぐ千蔵に、俺は再び増した声量で反論してしまう。
「図書室では静かにしてもらえますか」
「……すんません」
とうとう図書委員らしき女子生徒から注意を受けてしまい、俺は背を丸めて小さく謝罪を落とした。
当の千蔵は隣で肩を震わせて笑っているのが腹立たしいが、この場所を追い出されては勉強場所を探すところから始めなければならなくなる。
「……で?」
「ああ、ごめんごめん。ココはひとつ前の数字をさ」
笑いの余韻は残っているものの、そこからの千蔵の教え方は教師のそれよりよっぽど理解がしやすいものだった。
あれほど他の星の言語だと思っていたものが、今や日常会話レベルまで扱うことができている気がする。……いや、さすがにそれは言いすぎかもしれないが。
「……スゲ、こんな単純な話だったのかよ」
「オレの教え方で理解できたなら良かった。他はこれの応用だから、よっぽどの引っ掛け以外は問題ないと思うよ」
「おまえが山センの代わりやったらいいんじゃね?」
「あはは、そんなこと言ったら山田先生に怒られるよ」
俺としては割と本気の発言なのだが、千蔵はあくまでそれを謙虚に受け取る。
「でもさ、そう言ってもらえるのも橙に理解力があるからだよ」
「そうかあ? 山センがなに言ってんのかさっぱりだぜ?」
「それはまあ、相性もあるのかもしれないけど」
そこに否定を挟まない姿を見るに、もしかすると千蔵も山センの教え方については上手くないと感じているのかもしれない。
「橙さ、勉強嫌いなだけで、苦手じゃないでしょ?」
「え……?」
急な問い掛けの意図がわからずに、俺は教科書の上の数字から千蔵の方に顔を向ける。
どこか悪戯っ子のような表情を浮かべた千蔵は、手にしていたペンの先端で俺の手元にあるノートをトントンと叩く。
「ノートの取り方綺麗だし。本気でやればきちんと結果出せる奴だと思うよ」
「そ……そうかあ?」
言われて手元に視線を落とすと、確かに自分のノートの取り方は見やすい方なのではないかと感じる。
後から自分がわかりやすいようにと昔からの習慣だったが、特別なことでもないと思うし、そんな風に見られていると思うとなんだか気恥ずかしい。
(確かに、めんどくせえだけで勉強も苦手意識は持ってねえのかも……)
どうやら千蔵は、俺よりも俺のことが見えているらしい。そう気がつくと途端にムズムズしてしまう。
「ま、まあ、褒美とかあれば頑張れるかもな」
「ご褒美? なるほど……橙の好きな物ってなに?」
「え?」
誤魔化しのつもりで口にした言葉に、千蔵は神妙な面持ちで食いついてくる。
「えーっと……なんだろ、甘いもんとか?」
「へえ、橙って甘党なんだ」
「美味いもんなら何でも好きだけどな」
「そっか。じゃあさ、赤点回避したら甘いもの奢るよ」
「……いいけど」
そんな提案をされるとは思っていなかったのだが、頑張った後に褒美が待っているというのは実際悪くはない。
けれど俺は褒美以前に勉強を教わっている身で、千蔵にとってメリットのある提案だとも思えない。
「俺だけ貰うっつーのもどうなんだ」
「え、じゃあ……橙も何かくれる?」
軽く首を傾げて俺を窺い見てくる千蔵は、どことなくあざとさを感じさせる視線で答えを待っている。
「何か……まあ、やれる範囲のもんならなんでもやるけど」
千蔵はきょとんと目を丸くした後に、口元に手を当てて思案する素振りを見せた。
「なんでも……ねえ?」
「いや、マジでやれる範囲だぞ? 焼肉奢るとかはしねーからな?」
「……考えておく」
ゆるりと口角を持ち上げる千蔵の姿に、俺は早まった回答をしてしまったのではないかと後悔する。それ以前に、まずは自身の赤点を回避することが何よりの最優先事項であるのだが。
その日から試験当日まで、俺たちはほぼ毎日図書室に通って試験勉強を続けていた。
(あれだけ面倒だって思ってたのになあ)
気がつけば、帰りの電車の中でも俺は単語帳を片手に試験前日を迎えることとなる。
こんな自分の姿は少し前には想像もできないものだったが、勉強する時間が少しだけ楽しみになっているのも事実だった。
(……頑張れんのは、やっぱ褒美が待ってるからだよな)
そんなことを考えている時、ふと肩に重みが増したのを感じて隣を見る。
俺と同じように隣で英単語帳と向き合っていたはずの千蔵が、いつの間にか目を閉じてこちらに凭れ掛かってきていたらしい。
黒髪が頬をくすぐる感触に千蔵を起こそうとするが、滅多に見られないであろうこの男の気の抜けた姿を前に、なぜか少しばかりの優越感のようなものを覚えていた。
(……コイツもうたた寝とかするんだな)
目元にかかる前髪をそっと指先で払ってやると長い睫毛が僅かに震えた気がしたが、千蔵が起きる気配はない。
(もうちょっとだけ寝かせといてやるか)
頑張れるのは、褒美があるからか。
それとも、千蔵が一緒にいるからなのか。