ブルーマンデー。
定番の月曜日の憂鬱なんて意味じゃない。まぶしい青が嵐を巻き起こした日を俺は忘れない。
学校に行けばいつもの仲間がいる。中学のサッカー部で一緒にプレーした四人組で馬鹿騒ぎ。授業中は居眠りばっかで、待ち遠しい放課後はあっという間に過ぎ「またな」と別れた途端に明日が待ち遠しくてたまらない。
それが俺、伊東亮太の高校生活だ。
月曜だって俺は足取り軽やかに学校に向かう。
その日も、賑やかな教室に足を踏み入れ、いつものように一日を始めるはずだった。
「おっは——……なんだこれ」
大雨のフィールドでも良く通ると評判の俺の声がかき消されるほど、一年A組の教室は盛り上がっていた。
「うっそ、うま過ぎ」
「うらやま」
「やって欲しい」
クラスの女子たちがスマホ片手に興奮している。流行に敏感な彼女らがまた新たな韓国アイドルでも見つけたか、と思ったらその中心にいたのは親友の西谷蓮だった。
「うっそだろ……」
俺は自分の目を疑う。
なんと、先週までは真っ黒だった蓮の髪が青になっていた。青っぽいなんてもんじゃない。ブリーチをしてしっかりと色を抜いたのだろうその鮮やかなブルーに目を奪われた。
カラーはしないっていったじゃん!
俺たちの高校は自由な校風で派手な髪色だって、もちろんOK。しかし、お互い父親の頭が寂しい俺たちは頭皮を大事にしようと黒髪のままだった。「無駄につやつやだな」と互いのショートヘアをセットしあって遊んだのは先週のことだ。
さよなら、蓮のバージンヘア。
まだ加工されたことのないの自分の髪をかきあげると、さらりと指の間を落ちて行った。
「おはよ〜。なんかすごいことになってんね、蓮」
声をかけてきたのは南野聡。長身を生かして黒山の人だかりを覗き込む。
「人気者じゃん。で、相棒の亮太くんはほっぺたふくらまして、オコなの? ヤキモチか?」
ニヤニヤと猫みたいな目で俺を覗き込むのは聡と一緒に登校してきた川北健吾だった。
「うっせ。ヤキモチなんか妬くか。俺だって姉ちゃん直伝のパンケーキ情報で女子と盛り上がれるし! この前だって店の場所教えてって言われてメッセージした!」
俺が言い返すと、健吾は呆れた顔をした。
「あ、蓮ざんねーん。この作戦も失敗の模様。幸か不幸か亮太くんは予想以上に鈍感なお子ちゃまですね」
元サッカー部の司令塔、分析好きの健吾は時々こうやってよくわからないことを言う。
俺は目ばっかり大きい童顔で子ども扱いを受けるのはザラだから、いつもはこんな軽口流せるが、なぜか妙にイラついた。
「は? 健吾、喧嘩売ってんのかよ?」
どんなに凄んでみたって、平均にちっとも届かない身長の俺は見上げるしかできない。健吾との距離を詰めようと胸ぐらに伸ばした手を聡の大きな手が包んだ。
「はいはい、健吾は煽らないの。亮太はモヤモヤしてる感じ?」
現役時代は鉄壁の守護神と呼ばれた元キーパーの拳は大きくて温かい。優しい糸目に見下ろされ、いつのまにか荒れた俺の気持ちは落ち着いていく。
「だってさ、急にイメチェンなんてしてアイツなんなの? かっこつけたいわけ? 女子にモテたいの? 髪は染めないって言ったのに。……俺、聞いてねぇ」
聡が黙って聞いてくれるから、俺からポロリと本音がこぼれ出す。
何で俺は知らなかったの?
これが一番の不満だった。
俺たちはサッカー部で攻撃のコンビを組んでいた。俊足を活かして突っ込んでいく俺と技巧派の蓮の相性はパーフェクトで、試合中は視線一つで分かり合える。サッカー以外だってなんでも話す仲で、知らないことなんてないと思っていた。裏切られた気がして苦しくなった俺は、蓮のことをまともに見られない。
そんな俺の代わりみたいに聡は人だかりの中心にいる蓮を見る。
「う〜ん。蓮は変わったっていうか、隠すのやめたのかもね。亮太は近くにいすぎて、気がつかないこともあるんじゃない?」
「どういう意味?」
はっきりしない言葉の続きを求めても、聡はそれ以上は何も言わずに笑うだけだ。
「ま、蓮も男ってことよ。カッコつけたい相手がいるのは確かだな」
健吾が付け加えたが、俺にはちっとも理解できずに謎が深まるばかりだ。さらに首を傾げる俺を健吾は面白がる。
「お? なんか蓮の手、いつもと違うと思わないか?」
健吾の視線を追い蓮の手を見ると、爪が青い。なんとマニキュアを塗っていた。
「は?! え? うそ。マジ? これってまさかあれ?……蓮ってど——むっぐ」
心当たりを口にしようとした途端、健吾に口をふさがれた。ちょうど担任が教室に入ってくる。
「はい、時間切れ」
「えぇ……」
ホームルームが始まり、俺は一人考えるしかなくなる。マニキュアといえばすぐに思い浮かぶ『赤爪伝説』について。
赤爪伝説——アカツメ・デンセツ。性行為を経験した未成年は爪が赤く染まるという都市伝説。突如SNSに登場した噂で、度々トレンド入りを果たす有名なハッシュタグの一つでもある。経験した回数やプレイの内容に応じて色の濃さや範囲が変わるとする説もある(Uwasapediaより)。
赤爪伝説を根拠のない嘘だと言う人もいるが、俺はどこか否定できないでいた。
『だからマニキュアするんだよね』
噂のまとめ記事に書き込まれたコメントがやけに印象に残っていた。
大学生の姉ちゃんがマニキュアを塗りだしたのは外泊が増えた頃だった気がするし、隣の席に座る浅間さんには年上の彼氏がいて、いつもマニキュアをかかさない。
それって、やっぱり……!
正解が知りたいが、まさか本人には聞けない。キモすぎる。
俺たち四人はもちろん、彼女なしの童貞だから、噂が本当かどうかはわからない。冗談で「ヤッたらマニキュア塗ってこようぜ」とみんなで話したことを思い出す。
急にかっこつけだした蓮の爪にマニキュアって、もうそういうことに決まってる! 絶対そう。俺の知らないところで恋人ができて、エ、エ、エッチしたなんて……俺はキスもしたことないのに!
蓮だけ大人になっちゃった。
俺たち高校生にとっては付き合うだけでも大事件なのに、やることやっちゃって、俺には何にも言ってくれない。
いつも一緒だったのに置いていかれた。
裏切られて腹がたつような、先を越されて悔しいような、教えてもらえなくて寂しいような。ぐちゃぐちゃになった感情にため息が出た。
斜め前が蓮の席だから、嫌でも鮮やかな青が目に飛び込んでくる。日常を台無しにする強烈な違和感。どうしてもそれを見たくなくて、机に伏せた。
今日は一日蓮を無視する!
子どもっぽい決意とわかっているが、仕方ない。先に俺を無視したのは蓮じゃないか。
しかし、俺の誓いはあっけなく破れる。
三、四限目は美術で、課題は先週に引き続き『友人を描く』。聡と健吾がペアで、もちろん、俺の相手は蓮だった。
スケッチブック片手に向かい合って座る。
「よう」
「……おう」
今日初めて言葉を交わす。
こんなこと初めてなのに、蓮は何にも言わない。そっぽ向いてる俺の不自然さなんて気にならないらしい。
「今日提出だって。亮太は無理じゃね?」
真っ白な俺のスケッチブックを覗き込んで蓮は笑う。
「無理じゃねぇし」
蓮がいつも通り話しかけてくるのが悔しい。
「どうしたん?」とか言ってくれればいいのに。
どんなに目を背けても青が押し寄せて来る。
「青過ぎ」
俺の呟きに蓮から「クッ」と喉が鳴る音がした。
蓮にだけ届いた声は感情を殺したつもりが、想像したよりずっと不機嫌そうで気に入らない。
「サムライ・ブルーってやつよ」
「あっそ」
「冷めてぇな。亮太も好きだろ」
——亮太も
あと他に誰がいるんだよ。
俺の脳内で「アタシだよ」と蓮の爪を赤くした架空のエッチ相手が勝ち誇る。
「俺、関係ないし」
「ある。大有り」
「は? それってどういう意味——」
「ちょっと、そこ静かに!」
美術教師の鋭い声に首をすくめる。
俺のイライラに合わせて声が大きくなっていたらしい。「やーい、怒られた」と俺をからかう蓮はいつもより上機嫌な気がする。見ていられないから、代わりに真っ白なスケッチブックをにらんだ。もやもやした気分のままスケッチブックに鉛筆を走らせるが、蓮からは目をそらしたままだ。
輪郭が骨ばっていることも、切長な目尻のはしに小さな傷があることも、俺は知っている。見なくたって、簡単に思い浮かべることができた。
への字に結ばれている口は小さく見えるが、俺のくだらない冗談に爆笑するときは、奥歯が見えるほど大きく開く。乾燥する時期になると「やべ、亮太のせいで唇切れたんだけど!」と文句を言うから、俺がリップクリームを塗ってやるのを思い出した。
スケッチブックを少しだけずらし、蓮を覗き見る。
この唇でキスしたってことだよな。
目の前にある色の薄い唇が、誰かの唇に触れたのだと思うと胸の中がざわざわと騒がしくなる。
ふたりの唇は優しく触れ合い、やがて重なりは深くなる。熱い吐息が互いをくすぐり、舌が絡み合って……
「俺、そんなタラコ唇じゃなくね?」
突然聞こえた声に顔をあげれば、眩しい青が視界を占領する。
「ひぃッ」
俺のスケッチブックを覗き込む蓮の近さにあわててのけぞると、体は大きくバランスを崩した。美術室の椅子に俺の体を受け止める背もたれはない。受け身を取る余裕もなく、目をつぶるしかなかった。
後ろの席のヤツ、すまん。
予想した衝撃の代わりに、熱が体を包んだ。顔に押し付けられるポロシャツの感触と共に激しい鼓動が伝わってくる。
見なくても何が起きたかわかる。
蓮と体が触れ合うなんて、よくあることだ。サッカーしたり、ふざけて飛びついたり。それなのに今日はどうして良いかわからない。
「あっぶねぇ……亮太、大丈夫か?」
俺の顔を見ようとする蓮から顔を背け、小さく頷くのが精一杯だった。
「そっか」
すぐに蓮は離れていったはずなのに、心臓の音は耳に残っている。ドクドクとうるさいその音が、本当は自分の胸からしているなんて理解できない。
なんだこれ。
いつの間にか授業は終わり、昼飯の時間になっていた。
「いい天気だから外で食べよ〜」
聡オススメの日向ぼっこスポット、校舎裏に四人で来たが、俺はやっぱりそっぽを向いている。聡の巨体をバリケードに黙々と飯を食うが、俺の心はここにあらず。楽しみにしていた弁当の中身も、会話の内容も頭に入ってこない。
自分をすっぽりと包み込む胸の広さに、背中に回される腕の頼もしさ、ドクドクと脈打つ心臓の力強さ。
頭の中はそれでいっぱいだった。
蓮とエッチした子はあんな感じだったってことか。あ、服は脱いでる? ってことは裸で、え? いやいや、俺だって蓮の裸くらい見たことあるし……
昼間だというのに俺の頭の中は肌色の妄想で忙しい。ちょん、と肩を突かれるまで悠との接近に気が付かなかった。
「おい、亮太ってば」
「ふぁ?!」
本日二回目の不意打ちを喰らい、間抜けな声を上げる。素早く自分の股間を確認し、反応していないことにホッとしたのも束の間、蓮の爆弾発言に耳を疑う。
「亮太やるよな?」
「はぁ?」
「だから、やるだろって聞いてんの」
やる=ヤる=エッチする。
俺の脳内に肌色の妄想が帰ってきた。
「お、お前なに言ってんの??」
「なにって? 聡と健吾はやるって」
「は? お前ら何考えてんの?! っていないじゃん」
「二人は先に教室戻った」
「なんで俺を置いてくんだよ!」
「亮太には俺がいるって」
髪をかき混ぜられ、そのまま肩に腕が回される。いつものこと、そう自分に言い聞かせたいのに、蓮の指先の青がそれを邪魔する。
「離せよ」
「じゃあ、やるってことで。放課後楽しみにしといて」
「待てって——」
俺の返答は予鈴のチャイムにかき消された。
もしかして、本日の放課後に俺は脱・童貞なの?
五限の数学も、六限の古文も、俺の頭の中では全て下ネタに変換される。それも全て、こっそりスマホで「高校生、男同士、エッチ体験談」とか検索してしまったからだ。同年齢の話の方が参考になるだろうと、高校生とつけたのがまずかった。
屋上で、非常階段で、保健室で、そんなことしてるやついるの?!
いや、ネットの話なんて嘘ばっかだと俺は知っているはずだ。だって、SNSのDMに来たメッシからのメッセージが本物だった試しがない。
落ち着いて授業でも受けようと前を向けば、蓮の青い髪が目に飛び込んでくる。それをかきあげる指の先のマニキュアが、再び俺を混乱させた。
お前、やったの?
たった一言だ。蓮に聞いてしまえばこんんなに色々考える必要もないのに、俺の意地がそれを妨げる。
「ったく。なんで言ってくれないんだよ」
あ、まずいと思った時にはもう遅い。うっかり声に出てしまった独り言は静まり返った教室に響き渡る。静かな語り口で居眠り続出、眠らせババの別名を持つ村瀬先生が眼鏡を押し上げながら俺を見た。
「伊東くん、わかりました。放課後ゆっくりお話ししましょう」
授業が終わると同時に村瀬先生には謝り、放課後に古文資料室の片付けを手伝えば許してもらえることになった。
放課後に用事ができて、正直ホッとした。
「じゃ、おれ眠らせババのとこいってくるから」
ホームルームが終わり、蓮の席に集まっていた聡と健吾は「いってら〜」と手を振る。「終わったら連絡して」と蓮は残念そうな顔をした。
俺は怠そうな雰囲気で教室を出たが、心の中はめちゃくちゃだった。
なんで蓮は残念そうな顔してるの?!
なんで聡と健吾はいつも通りなの?!
知りたいのに聞けないままの疑問がどんどん増えていく。俺の頭は考えごとをするのに向いていないのに。
古文資料室に到着したときにはグッタリしていたが、俺を待っていた眠らせババこと、村瀬先生は容赦しない。俺を見るなり、テキパキと指示を出す。
「棚の一番上にある段ボール箱を全部下ろしてちょうだい。埃は散らさないようにお願いしますね」
「えぇ、届くかなぁ」
村瀬先生から見たら、大きいのかもしれないけど、俺はまぎれも無いチビだ。天井近くまである棚の一番上なんて全く届かないから脚立を使って作業をする。たった三段だったが、両手で箱を持ち積もった埃が落ちないように気を使うと体が汗ばんできた。
「休憩しながらやってね」
「はーい」
お言葉に甘えて一休みしようと時計を見たら、30分が経過していた。
蓮がいたらもっと簡単なんだろうな。
高校に入学してからも蓮の背は伸び続け180センチを超えたらしい。俺をちょっと抱き上げてくれたら棚の一番上なんて簡単に届くだろう。想像した瞬間、美術室でのことを思い出した。自分の体を包む蓮の感触が一気に蘇る。急に顔が熱くなり、心臓が暴れ出した。
せっかく忘れていたのに!
再び頭を空っぽにしようと作業に没頭した。「あら、手際が良いこと」
先生に褒められるが、なんとなく後ろめたい。
俺の頭の中、肌色になりそうなんだよ!
懺悔の気持ちを込めて箱の移動だけでなく、すっかり埃だらけになった資料室の掃除もした。
「ご苦労様でした」
先生がお茶を淹れてくれた上に、机の引き出しからチョコレートまで出してくれた。
「あ、これ高いやつじゃん」
「頑張ってくれたから特別ね」
銀紙で包まれた大粒のチョコレートがころりと二つ俺の前に転がる。
俺だけ食べたら、ずるいかな。でも二つしかないから、一つは俺が食べてもう一つは誰にあげよう。
迷うことなく蓮の顔が浮かんできた。
考えないようにしているのに、すぐに蓮のことが頭に浮かんでしまう。
「あ〜!」
顔を覆って声を上げると、先生は笑った。
「今日の伊東くんは悩んでるみたいね」
「そうなの! なーんか変でさ。気になるのに聞けないことばっかり増える」
「会えない人なの?」
「いいや。すぐそこにいる」
「じゃあ、すぐ聞いたらいいじゃない。昔の人は、死に別れたり、生き別れたり、もう二度と会えない人だらけだったんだから、直接聞けるのって幸せなことよ」
「うわ、先生っぽい」
「先生だもの。今の話は今日授業でやった伊勢物語のことだからね。テストに出すわよ」
「え、本当? いいこと聞いた!」
「授業中にも言ったのに聞いてなかったわね?」
怖い顔をして見せる先生に「ごめんね」と謝ると、俺は立ち上がった。
「先生、俺聞いてみることにする」
「上手くいくといいわね」
「ありがと、じゃーね」
先生がくれたチョコレートでも食べながら聞いてみようか。
古文資料室を後にして、スマホで『終わった』とメッセージを送る。
すぐに届いた蓮からの返信は予想外のものだった。
『保健室に来て』
嘘だろ?! 保健室ってベッドがある……
授業中に検索した体験談で読んだあれこれが頭をよぎる。
肌色の妄想が広がりパニックを起こしそうになるが、ズボンのポケットにいれたチョコレートを握りしめ気を取り直す。
気になっていること全部、蓮に聞いてやる!
「お、おまたせ」
「おつかれ!」
ドキドキしながら保健室のドアを開けると、賑やかな三人の声に出迎えられた。ベッドの横に置かれたソファに座る聡と健吾が振り返る。
「先生は会議に行ったよ〜」
「やりたい放題できるぜ」
すっかり聡と健吾の存在を忘れていたことに気がつく。自分が想像していた肌色のことなんて起きるわけがないとわかったら、力が抜けた。
やっといつもの調子で話せそうだ。
「で、なにやるんだよ?」
キャスター付きの丸椅子に座った蓮に尋ねると、「これこれ」と蓮が聡と健吾の手元を指した。二人はそれぞれ桶に両手を突っ込んでいる。
「アライグマ?」
「そう来たか!」
「確かに〜」
真面目に言ったのに聡と健吾はゲラゲラ笑っている。
「だって似てるじゃん」
不貞腐れる俺に蓮が桶を持ってきた。
「これ、お湯が入ってるから手を入れて温めて。ハンドバスっていうんだ」
「へぇ〜! なんかオシャレ。……だから保健室だったんか。お湯も桶もあるもんな。うんうん。そうだよな。納得」
俺は一人で大袈裟に頷き、蘇りそうな肌色の想像を頭から追い出した。少し不自然だったが、三人に怪しまれなかったようでホッとする。
ソファに体を預け、言われた通り膝の上に置いた桶に両手をつけた。少し熱めのお湯が手の先から体を温めていく。
「あぁ〜」
自然と目は閉じ、温泉に行ったときみたいな声が出た。資料室を片付けた疲れが消えていく。俺は完全にリラックスモードになり、体の力を抜いた。三人の話し声は聞こえるが、何を話しているかはわからない。それでも、一緒にいるのが心地良かった。
「じゃ、俺たちは帰るわ」
「は?!」
健吾の声に慌てて目を開けると、聡と共にすでにカバンを背負って立ち上がっていた。
「え? うそ。帰るの?!」
「ちょっと用事があるんだ。ごめんね」
眉を下げて謝る聡の背中を健吾が押すようにして保健室を出て行った。
「じゃ、ごゆっくり〜」
俺はハンドバスのせいで動けないまま目を白黒させるしかなかった。
あっという間に保健室は俺と蓮の二人きりになる。ここで黙ったら言い出せなくなる気がして、俺は覚悟を決めた。
「なぁ、その爪どうしたの?」
「あ……気分っていうか、うん」
蓮はそれだけ言って、視線をそらす。無言で自分のカバンを漁り始めたので、会話が終わってしまう、と俺は慌てた。
「やっぱ彼女できた?!」
「は?」
ポカンと口を開けた蓮を見て、俺は質問が唐突だったことに気がついたが、もう進むしかない。
「だからさ、そのマニキュアしたってことはさ、……エッチしたってことなの?」
いざ口にすると、かなり恥ずかしい。なんとなく小声になり、蓮を見ていられなくなる。
一呼吸分の沈黙の後で、蓮から返ってきたのは大爆笑だった。腹を抱え「マジか」と体を震わせる。
「そんなに笑うなよ。恥ずいじゃん。マジで聞いてるんだからさ」
「ゴメン、ゴメン。ちょ……予想外すぎて。やば。ツボった。ちょっと待って。ははは、止まらねぇ……」
ぱかりと大きく開いた口の中で整列する蓮のきれいな白い歯が光る。蓮とエッチした子だって、さすがにここまで爆笑させたことはないだろ、と妙な満足感が湧き上がった。
蓮は笑いがおさまると、キャスターを転がし、椅子ごと俺の正面へ移動してきた。
「もしかしてさ、赤爪伝説のやつ考えてたってこと?」
「そう」
「もしかして、今日ずっと俺のこと避けてたのそのせい?」
「うん」
「これがキモいとかじゃなくて?」
俺の方へ青く塗った爪を見せてくる蓮は少し不安そうな顔をしていた。
「別にキモいとは思わない。なんでイメチェンのこと俺に言ってくんなかったんだろってムカついてただけ」
「本当?」
「おう」
「あ〜! 良かった。マジでホッとした。あぁ、良かった。亮太にキモいって思われたら俺生きていけねぇから」
「大袈裟」
「亮太は違う? 俺がキモいって思っても関係ない?」
蓮がそんなこと思うなんて考えたこともなかった。
「え、どうだろ……うわ、むりむり。きっつ!」
想像しただけで、今日一日感じていたモヤモヤ以上に嫌な気持ちになる。確かに生きていけないと言いたくなるレベルだ。
「はは、絶対ないから大丈夫」
蓮の笑顔に嫌な気持ちはすっかり消える。俺も笑って見せると、蓮は頷いて真剣な顔をした。
「ちょっと真面目な話するわ」
「おう」
「どうしよう。どこから話そう。めっちゃ緊張する」
落ち着きのない蓮は珍しい。きっと自分も一日中こんな感じだったんだろう。いったいどんな話をされるんだろうと俺までドキドキしてくる。
「俺さ、プラモ好きじゃん」
意外な始まりだったが、俺は黙って頷くだけだ。
確かに蓮は細かいことが好きで、手先の器用さはもちろんだが、サッカーのプレイスタイルも繊細だった。
「で、夏休みに親戚で集まった時に、美容の専門学校行ってる姉ちゃんがネイル塗ってるの見たわけ。プラモの塗装に似てる気がして俺もやらせてもらったら、ハマった。で、これですよ」
蓮が差し出すスマホの画面には色とりどりのネイルの写真が並んでいた。
「え、なにこれ」
「俺がやったやつ。SNSに載せてんだ」
「おお、すっげ。かっこいいじゃん」
「本当? そう思う?」
「うん」
「そうだよなぁ。亮太ならそう言ってくれるよな。……おれビビってたの。ネイルって女子のイメージじゃん。もし俺がいきなりネイルしてって引かれたらどうしよって。でも隠してるのも嫌じゃん。聡と健吾にはネイルの道具を買いに行った時にバッタリ会ってバレたんだけど、亮太にはちゃんと言いたかったから秘密にしてもらってた。で、今日言おうと思ってネイルしてきた」
「そうかぁ。全然知らんかった。え、じゃあ髪の毛は?」
「これはカラーモデル。従姉妹の練習台になったんだけど、どうせならネイルと合わせて注目を分散させようかと」
「あはは、全然じゃん。どっちも注目されてたって」
「だから、赤爪伝説は関係ないです」
「お、じゃあ、彼女なし、童貞のままか」
「そういうこと」
「いえーい、一緒じゃん」
ハイタッチしたかったがあいにく手が塞がっていた。
「あ、そろそろ温まったか。聡と健吾は爪の形を整えて保湿しただけなんだけど、亮太はどうする? ネイル塗ってみたい? もし興味あったらやらせて欲しいんだけど」
「ネイルのことはわからんけど、蓮が塗ってるとこを見たいから、やって」
「やった」
蓮はカバンの中からポーチを取り出すと、机に色々と並べ出した。
俺の温まった手を取ると器用に爪の形を整えていく。道具を持ち替えては、ひとつひとつ何をしているのか、何のためにするのか説明してくれる。
洗顔後に化粧水すらつけない俺なのに、小さな爪が、蓮の手で宝物みたいに大切にされるのが、どうしようもなくくすぐったかった。
「何色にする?」
「蓮のおまかせで」
「了解」
蓮が選んだ小瓶を開けると独特の匂いが鼻をついた。蓋についた小さな刷毛にたっぷり液を含ませて見せてくれるが、色はなく透明に光るだけだ。
「じゃあ、塗っていく」
蓮は俺の右手を取ると、親指、人差し指、と順に刷毛をすべらせていく。
何が起きるのだろう、と自分の爪から目が離せない。
透明の液は乾くと爪から輝きを消した。すりガラスのようにぼんやりとした様子に変わる。意外な変化に思わず「すげぇ」と声が漏れた。
「あんまり目立たないから初心者向けかなと思ってこれにした」
「かっこいい」
「良かった。じゃあ反対の手貸して」
左手に触られた瞬間から、急に緊張してきた。右手を塗っているときは何が起きるのかと夢中だったから気にならなかったが、蓮に手を握られているようで胸がむずむずする。
蓮は長い指をしていると思っていたが、よく見ると節が目立ち、爪も大きい。
男っぽいかっこいい手だな。
それに気がついた途端、頬が熱くなっていく。急いで目をそらしても、その熱は簡単に冷めてくれなかった。
蓮は爪を塗ることに集中していて、俺の変化に気がついてないらしい。部屋は静まり返り、お互いの呼吸する音が聞こえるほどだった。俺は真剣に作業をする蓮の横顔をじっと見ていた。
「おっしゃ、できた。乾くまでこのままな」
顔をあげた蓮は誇らしげだった。
思ったより近い視線に心臓が跳ねるが、両手を動かせない俺はじっとしているしかない。「ネイルの写真撮って、あげても良い?」
「もちろん。身バレが怖いんでぇ、目線は入れてくださぁい」
俺が裏声でふざけながら変顔をすると、蓮がスマホを向けた。鳴り止まない連写の音に「お前の写真フォルダー俺だらけじゃん」と笑った。
「そうだよ」
答えた蓮の声はやけに優しい気がした。
座り直そうと動いたところで、あの存在を思い出した。
「蓮、俺のポケットにいいもん入ってるから、出して」
蓮は一瞬迷ったが、俺のズボンのポケットに手を入れた。
「これ? チョコ?」
「そうそう! さっき眠らせババにもらったんだけど、蓮と食べようと思って持ってきた」
「お、うまそう」
「あいつらには内緒な」
ふたりで顔を見合わせて笑った。
蓮は一粒目の銀紙を剥くと、両手がふさがった俺の口に放り込んだ。
「なんか恥ずいわ」
「うん、俺も」
「お前がやったんじゃん」
「へへへ」
蓮は自分の分のチョコレートを口の中に放り込んだ。ポコンと形の変わった頬がおかしくて笑った。蓮がスマホを向けるからツーショットを撮る。塗ってもらったばかりの爪も入れたら「それいいな」と言って角度を変えて何枚か撮り直した。
「一緒に撮っても良い?」
「あ、うん」
蓮が差し出す手に自分の手を伸ばすと、指が絡みついた。恋人繋ぎってやつだ。自分より大きくて、かっこいい蓮の手。重なる手のひらが、やけに熱い気がした。
二人の爪が写るようにと何枚も写真を撮った。シャッター音が鳴るたびに胸が苦しくなるのに、終わった時にはがっかりした自分がいた。
「これ良くない?」
青空を背景に繋いだ手が写る。
蓮の爪の青は空に、俺のすりガラスのような爪は雲に似て、特別な二人の写真みたいに見えた。
「エモいわ。青春って感じ」
蓮が写真を投稿すると、すぐにコメントがついた。
『カップルネイル! かわいい』
『匂わせ?』
『彼じゃん!』
盛り上がるコメント欄に俺は焦るが、蓮は満足そうに笑うだけだ。
「匂わせなんて書かれたら、彼女できなくなるぞ」
「彼女なんていらねーよ」
「マジ?」
「俺には亮太がいるし?」
「え、あ……言ったな? ダーリン浮気したら刺すわよぉ♡」
蓮の言葉にいつものようにノリノリで返したが俺の心臓はうるさい。
「いいよ。じゃあ、亮太が浮気したらチンコ切るわ」
「げ。痛い痛い……」
顔をしかめる俺の頭を蓮がぐしゃぐしゃと乱暴になでた。
「俺だけ見てろよ」
ボソリとつぶやいた声があまりに真剣でハッとする。蓮の方を振り向いたが、その表情は秋晴れの日差しに邪魔されてはっきりと見えなかった。
「もう亮太の爪も乾いただろ。片付けるか」
机に広げた道具をしまう蓮の背中に小さな声でつぶやく。
「俺、蓮のことばっか考えてるよ」
蓮が振り返りそうになったので、慌てて背を向けた。
「なんか言ったか?」
「さぁね〜」
明るく答えながらも、ほんの少しだけがっかりしていた。
聞こえていても良かったのに。
窓際の流しに桶を片付けながら窓ガラスに映った蓮を盗み見る。
やっと見慣れた青い髪に青い爪。
蓮のことは何でも知っていると思っていたが、今日は“青”のおかげで新しい発見がたくさんあった。そして、俺自身についても。
どうやら俺にとって蓮は特別らしい。
じゃあ、蓮にとっての俺は?
新しく湧いた疑問が気になるけど、まだ聞けない。
でもいつか、必ず聞いてみる。
それはとても幸せなことだと、今日知ったから。
定番の月曜日の憂鬱なんて意味じゃない。まぶしい青が嵐を巻き起こした日を俺は忘れない。
学校に行けばいつもの仲間がいる。中学のサッカー部で一緒にプレーした四人組で馬鹿騒ぎ。授業中は居眠りばっかで、待ち遠しい放課後はあっという間に過ぎ「またな」と別れた途端に明日が待ち遠しくてたまらない。
それが俺、伊東亮太の高校生活だ。
月曜だって俺は足取り軽やかに学校に向かう。
その日も、賑やかな教室に足を踏み入れ、いつものように一日を始めるはずだった。
「おっは——……なんだこれ」
大雨のフィールドでも良く通ると評判の俺の声がかき消されるほど、一年A組の教室は盛り上がっていた。
「うっそ、うま過ぎ」
「うらやま」
「やって欲しい」
クラスの女子たちがスマホ片手に興奮している。流行に敏感な彼女らがまた新たな韓国アイドルでも見つけたか、と思ったらその中心にいたのは親友の西谷蓮だった。
「うっそだろ……」
俺は自分の目を疑う。
なんと、先週までは真っ黒だった蓮の髪が青になっていた。青っぽいなんてもんじゃない。ブリーチをしてしっかりと色を抜いたのだろうその鮮やかなブルーに目を奪われた。
カラーはしないっていったじゃん!
俺たちの高校は自由な校風で派手な髪色だって、もちろんOK。しかし、お互い父親の頭が寂しい俺たちは頭皮を大事にしようと黒髪のままだった。「無駄につやつやだな」と互いのショートヘアをセットしあって遊んだのは先週のことだ。
さよなら、蓮のバージンヘア。
まだ加工されたことのないの自分の髪をかきあげると、さらりと指の間を落ちて行った。
「おはよ〜。なんかすごいことになってんね、蓮」
声をかけてきたのは南野聡。長身を生かして黒山の人だかりを覗き込む。
「人気者じゃん。で、相棒の亮太くんはほっぺたふくらまして、オコなの? ヤキモチか?」
ニヤニヤと猫みたいな目で俺を覗き込むのは聡と一緒に登校してきた川北健吾だった。
「うっせ。ヤキモチなんか妬くか。俺だって姉ちゃん直伝のパンケーキ情報で女子と盛り上がれるし! この前だって店の場所教えてって言われてメッセージした!」
俺が言い返すと、健吾は呆れた顔をした。
「あ、蓮ざんねーん。この作戦も失敗の模様。幸か不幸か亮太くんは予想以上に鈍感なお子ちゃまですね」
元サッカー部の司令塔、分析好きの健吾は時々こうやってよくわからないことを言う。
俺は目ばっかり大きい童顔で子ども扱いを受けるのはザラだから、いつもはこんな軽口流せるが、なぜか妙にイラついた。
「は? 健吾、喧嘩売ってんのかよ?」
どんなに凄んでみたって、平均にちっとも届かない身長の俺は見上げるしかできない。健吾との距離を詰めようと胸ぐらに伸ばした手を聡の大きな手が包んだ。
「はいはい、健吾は煽らないの。亮太はモヤモヤしてる感じ?」
現役時代は鉄壁の守護神と呼ばれた元キーパーの拳は大きくて温かい。優しい糸目に見下ろされ、いつのまにか荒れた俺の気持ちは落ち着いていく。
「だってさ、急にイメチェンなんてしてアイツなんなの? かっこつけたいわけ? 女子にモテたいの? 髪は染めないって言ったのに。……俺、聞いてねぇ」
聡が黙って聞いてくれるから、俺からポロリと本音がこぼれ出す。
何で俺は知らなかったの?
これが一番の不満だった。
俺たちはサッカー部で攻撃のコンビを組んでいた。俊足を活かして突っ込んでいく俺と技巧派の蓮の相性はパーフェクトで、試合中は視線一つで分かり合える。サッカー以外だってなんでも話す仲で、知らないことなんてないと思っていた。裏切られた気がして苦しくなった俺は、蓮のことをまともに見られない。
そんな俺の代わりみたいに聡は人だかりの中心にいる蓮を見る。
「う〜ん。蓮は変わったっていうか、隠すのやめたのかもね。亮太は近くにいすぎて、気がつかないこともあるんじゃない?」
「どういう意味?」
はっきりしない言葉の続きを求めても、聡はそれ以上は何も言わずに笑うだけだ。
「ま、蓮も男ってことよ。カッコつけたい相手がいるのは確かだな」
健吾が付け加えたが、俺にはちっとも理解できずに謎が深まるばかりだ。さらに首を傾げる俺を健吾は面白がる。
「お? なんか蓮の手、いつもと違うと思わないか?」
健吾の視線を追い蓮の手を見ると、爪が青い。なんとマニキュアを塗っていた。
「は?! え? うそ。マジ? これってまさかあれ?……蓮ってど——むっぐ」
心当たりを口にしようとした途端、健吾に口をふさがれた。ちょうど担任が教室に入ってくる。
「はい、時間切れ」
「えぇ……」
ホームルームが始まり、俺は一人考えるしかなくなる。マニキュアといえばすぐに思い浮かぶ『赤爪伝説』について。
赤爪伝説——アカツメ・デンセツ。性行為を経験した未成年は爪が赤く染まるという都市伝説。突如SNSに登場した噂で、度々トレンド入りを果たす有名なハッシュタグの一つでもある。経験した回数やプレイの内容に応じて色の濃さや範囲が変わるとする説もある(Uwasapediaより)。
赤爪伝説を根拠のない嘘だと言う人もいるが、俺はどこか否定できないでいた。
『だからマニキュアするんだよね』
噂のまとめ記事に書き込まれたコメントがやけに印象に残っていた。
大学生の姉ちゃんがマニキュアを塗りだしたのは外泊が増えた頃だった気がするし、隣の席に座る浅間さんには年上の彼氏がいて、いつもマニキュアをかかさない。
それって、やっぱり……!
正解が知りたいが、まさか本人には聞けない。キモすぎる。
俺たち四人はもちろん、彼女なしの童貞だから、噂が本当かどうかはわからない。冗談で「ヤッたらマニキュア塗ってこようぜ」とみんなで話したことを思い出す。
急にかっこつけだした蓮の爪にマニキュアって、もうそういうことに決まってる! 絶対そう。俺の知らないところで恋人ができて、エ、エ、エッチしたなんて……俺はキスもしたことないのに!
蓮だけ大人になっちゃった。
俺たち高校生にとっては付き合うだけでも大事件なのに、やることやっちゃって、俺には何にも言ってくれない。
いつも一緒だったのに置いていかれた。
裏切られて腹がたつような、先を越されて悔しいような、教えてもらえなくて寂しいような。ぐちゃぐちゃになった感情にため息が出た。
斜め前が蓮の席だから、嫌でも鮮やかな青が目に飛び込んでくる。日常を台無しにする強烈な違和感。どうしてもそれを見たくなくて、机に伏せた。
今日は一日蓮を無視する!
子どもっぽい決意とわかっているが、仕方ない。先に俺を無視したのは蓮じゃないか。
しかし、俺の誓いはあっけなく破れる。
三、四限目は美術で、課題は先週に引き続き『友人を描く』。聡と健吾がペアで、もちろん、俺の相手は蓮だった。
スケッチブック片手に向かい合って座る。
「よう」
「……おう」
今日初めて言葉を交わす。
こんなこと初めてなのに、蓮は何にも言わない。そっぽ向いてる俺の不自然さなんて気にならないらしい。
「今日提出だって。亮太は無理じゃね?」
真っ白な俺のスケッチブックを覗き込んで蓮は笑う。
「無理じゃねぇし」
蓮がいつも通り話しかけてくるのが悔しい。
「どうしたん?」とか言ってくれればいいのに。
どんなに目を背けても青が押し寄せて来る。
「青過ぎ」
俺の呟きに蓮から「クッ」と喉が鳴る音がした。
蓮にだけ届いた声は感情を殺したつもりが、想像したよりずっと不機嫌そうで気に入らない。
「サムライ・ブルーってやつよ」
「あっそ」
「冷めてぇな。亮太も好きだろ」
——亮太も
あと他に誰がいるんだよ。
俺の脳内で「アタシだよ」と蓮の爪を赤くした架空のエッチ相手が勝ち誇る。
「俺、関係ないし」
「ある。大有り」
「は? それってどういう意味——」
「ちょっと、そこ静かに!」
美術教師の鋭い声に首をすくめる。
俺のイライラに合わせて声が大きくなっていたらしい。「やーい、怒られた」と俺をからかう蓮はいつもより上機嫌な気がする。見ていられないから、代わりに真っ白なスケッチブックをにらんだ。もやもやした気分のままスケッチブックに鉛筆を走らせるが、蓮からは目をそらしたままだ。
輪郭が骨ばっていることも、切長な目尻のはしに小さな傷があることも、俺は知っている。見なくたって、簡単に思い浮かべることができた。
への字に結ばれている口は小さく見えるが、俺のくだらない冗談に爆笑するときは、奥歯が見えるほど大きく開く。乾燥する時期になると「やべ、亮太のせいで唇切れたんだけど!」と文句を言うから、俺がリップクリームを塗ってやるのを思い出した。
スケッチブックを少しだけずらし、蓮を覗き見る。
この唇でキスしたってことだよな。
目の前にある色の薄い唇が、誰かの唇に触れたのだと思うと胸の中がざわざわと騒がしくなる。
ふたりの唇は優しく触れ合い、やがて重なりは深くなる。熱い吐息が互いをくすぐり、舌が絡み合って……
「俺、そんなタラコ唇じゃなくね?」
突然聞こえた声に顔をあげれば、眩しい青が視界を占領する。
「ひぃッ」
俺のスケッチブックを覗き込む蓮の近さにあわててのけぞると、体は大きくバランスを崩した。美術室の椅子に俺の体を受け止める背もたれはない。受け身を取る余裕もなく、目をつぶるしかなかった。
後ろの席のヤツ、すまん。
予想した衝撃の代わりに、熱が体を包んだ。顔に押し付けられるポロシャツの感触と共に激しい鼓動が伝わってくる。
見なくても何が起きたかわかる。
蓮と体が触れ合うなんて、よくあることだ。サッカーしたり、ふざけて飛びついたり。それなのに今日はどうして良いかわからない。
「あっぶねぇ……亮太、大丈夫か?」
俺の顔を見ようとする蓮から顔を背け、小さく頷くのが精一杯だった。
「そっか」
すぐに蓮は離れていったはずなのに、心臓の音は耳に残っている。ドクドクとうるさいその音が、本当は自分の胸からしているなんて理解できない。
なんだこれ。
いつの間にか授業は終わり、昼飯の時間になっていた。
「いい天気だから外で食べよ〜」
聡オススメの日向ぼっこスポット、校舎裏に四人で来たが、俺はやっぱりそっぽを向いている。聡の巨体をバリケードに黙々と飯を食うが、俺の心はここにあらず。楽しみにしていた弁当の中身も、会話の内容も頭に入ってこない。
自分をすっぽりと包み込む胸の広さに、背中に回される腕の頼もしさ、ドクドクと脈打つ心臓の力強さ。
頭の中はそれでいっぱいだった。
蓮とエッチした子はあんな感じだったってことか。あ、服は脱いでる? ってことは裸で、え? いやいや、俺だって蓮の裸くらい見たことあるし……
昼間だというのに俺の頭の中は肌色の妄想で忙しい。ちょん、と肩を突かれるまで悠との接近に気が付かなかった。
「おい、亮太ってば」
「ふぁ?!」
本日二回目の不意打ちを喰らい、間抜けな声を上げる。素早く自分の股間を確認し、反応していないことにホッとしたのも束の間、蓮の爆弾発言に耳を疑う。
「亮太やるよな?」
「はぁ?」
「だから、やるだろって聞いてんの」
やる=ヤる=エッチする。
俺の脳内に肌色の妄想が帰ってきた。
「お、お前なに言ってんの??」
「なにって? 聡と健吾はやるって」
「は? お前ら何考えてんの?! っていないじゃん」
「二人は先に教室戻った」
「なんで俺を置いてくんだよ!」
「亮太には俺がいるって」
髪をかき混ぜられ、そのまま肩に腕が回される。いつものこと、そう自分に言い聞かせたいのに、蓮の指先の青がそれを邪魔する。
「離せよ」
「じゃあ、やるってことで。放課後楽しみにしといて」
「待てって——」
俺の返答は予鈴のチャイムにかき消された。
もしかして、本日の放課後に俺は脱・童貞なの?
五限の数学も、六限の古文も、俺の頭の中では全て下ネタに変換される。それも全て、こっそりスマホで「高校生、男同士、エッチ体験談」とか検索してしまったからだ。同年齢の話の方が参考になるだろうと、高校生とつけたのがまずかった。
屋上で、非常階段で、保健室で、そんなことしてるやついるの?!
いや、ネットの話なんて嘘ばっかだと俺は知っているはずだ。だって、SNSのDMに来たメッシからのメッセージが本物だった試しがない。
落ち着いて授業でも受けようと前を向けば、蓮の青い髪が目に飛び込んでくる。それをかきあげる指の先のマニキュアが、再び俺を混乱させた。
お前、やったの?
たった一言だ。蓮に聞いてしまえばこんんなに色々考える必要もないのに、俺の意地がそれを妨げる。
「ったく。なんで言ってくれないんだよ」
あ、まずいと思った時にはもう遅い。うっかり声に出てしまった独り言は静まり返った教室に響き渡る。静かな語り口で居眠り続出、眠らせババの別名を持つ村瀬先生が眼鏡を押し上げながら俺を見た。
「伊東くん、わかりました。放課後ゆっくりお話ししましょう」
授業が終わると同時に村瀬先生には謝り、放課後に古文資料室の片付けを手伝えば許してもらえることになった。
放課後に用事ができて、正直ホッとした。
「じゃ、おれ眠らせババのとこいってくるから」
ホームルームが終わり、蓮の席に集まっていた聡と健吾は「いってら〜」と手を振る。「終わったら連絡して」と蓮は残念そうな顔をした。
俺は怠そうな雰囲気で教室を出たが、心の中はめちゃくちゃだった。
なんで蓮は残念そうな顔してるの?!
なんで聡と健吾はいつも通りなの?!
知りたいのに聞けないままの疑問がどんどん増えていく。俺の頭は考えごとをするのに向いていないのに。
古文資料室に到着したときにはグッタリしていたが、俺を待っていた眠らせババこと、村瀬先生は容赦しない。俺を見るなり、テキパキと指示を出す。
「棚の一番上にある段ボール箱を全部下ろしてちょうだい。埃は散らさないようにお願いしますね」
「えぇ、届くかなぁ」
村瀬先生から見たら、大きいのかもしれないけど、俺はまぎれも無いチビだ。天井近くまである棚の一番上なんて全く届かないから脚立を使って作業をする。たった三段だったが、両手で箱を持ち積もった埃が落ちないように気を使うと体が汗ばんできた。
「休憩しながらやってね」
「はーい」
お言葉に甘えて一休みしようと時計を見たら、30分が経過していた。
蓮がいたらもっと簡単なんだろうな。
高校に入学してからも蓮の背は伸び続け180センチを超えたらしい。俺をちょっと抱き上げてくれたら棚の一番上なんて簡単に届くだろう。想像した瞬間、美術室でのことを思い出した。自分の体を包む蓮の感触が一気に蘇る。急に顔が熱くなり、心臓が暴れ出した。
せっかく忘れていたのに!
再び頭を空っぽにしようと作業に没頭した。「あら、手際が良いこと」
先生に褒められるが、なんとなく後ろめたい。
俺の頭の中、肌色になりそうなんだよ!
懺悔の気持ちを込めて箱の移動だけでなく、すっかり埃だらけになった資料室の掃除もした。
「ご苦労様でした」
先生がお茶を淹れてくれた上に、机の引き出しからチョコレートまで出してくれた。
「あ、これ高いやつじゃん」
「頑張ってくれたから特別ね」
銀紙で包まれた大粒のチョコレートがころりと二つ俺の前に転がる。
俺だけ食べたら、ずるいかな。でも二つしかないから、一つは俺が食べてもう一つは誰にあげよう。
迷うことなく蓮の顔が浮かんできた。
考えないようにしているのに、すぐに蓮のことが頭に浮かんでしまう。
「あ〜!」
顔を覆って声を上げると、先生は笑った。
「今日の伊東くんは悩んでるみたいね」
「そうなの! なーんか変でさ。気になるのに聞けないことばっかり増える」
「会えない人なの?」
「いいや。すぐそこにいる」
「じゃあ、すぐ聞いたらいいじゃない。昔の人は、死に別れたり、生き別れたり、もう二度と会えない人だらけだったんだから、直接聞けるのって幸せなことよ」
「うわ、先生っぽい」
「先生だもの。今の話は今日授業でやった伊勢物語のことだからね。テストに出すわよ」
「え、本当? いいこと聞いた!」
「授業中にも言ったのに聞いてなかったわね?」
怖い顔をして見せる先生に「ごめんね」と謝ると、俺は立ち上がった。
「先生、俺聞いてみることにする」
「上手くいくといいわね」
「ありがと、じゃーね」
先生がくれたチョコレートでも食べながら聞いてみようか。
古文資料室を後にして、スマホで『終わった』とメッセージを送る。
すぐに届いた蓮からの返信は予想外のものだった。
『保健室に来て』
嘘だろ?! 保健室ってベッドがある……
授業中に検索した体験談で読んだあれこれが頭をよぎる。
肌色の妄想が広がりパニックを起こしそうになるが、ズボンのポケットにいれたチョコレートを握りしめ気を取り直す。
気になっていること全部、蓮に聞いてやる!
「お、おまたせ」
「おつかれ!」
ドキドキしながら保健室のドアを開けると、賑やかな三人の声に出迎えられた。ベッドの横に置かれたソファに座る聡と健吾が振り返る。
「先生は会議に行ったよ〜」
「やりたい放題できるぜ」
すっかり聡と健吾の存在を忘れていたことに気がつく。自分が想像していた肌色のことなんて起きるわけがないとわかったら、力が抜けた。
やっといつもの調子で話せそうだ。
「で、なにやるんだよ?」
キャスター付きの丸椅子に座った蓮に尋ねると、「これこれ」と蓮が聡と健吾の手元を指した。二人はそれぞれ桶に両手を突っ込んでいる。
「アライグマ?」
「そう来たか!」
「確かに〜」
真面目に言ったのに聡と健吾はゲラゲラ笑っている。
「だって似てるじゃん」
不貞腐れる俺に蓮が桶を持ってきた。
「これ、お湯が入ってるから手を入れて温めて。ハンドバスっていうんだ」
「へぇ〜! なんかオシャレ。……だから保健室だったんか。お湯も桶もあるもんな。うんうん。そうだよな。納得」
俺は一人で大袈裟に頷き、蘇りそうな肌色の想像を頭から追い出した。少し不自然だったが、三人に怪しまれなかったようでホッとする。
ソファに体を預け、言われた通り膝の上に置いた桶に両手をつけた。少し熱めのお湯が手の先から体を温めていく。
「あぁ〜」
自然と目は閉じ、温泉に行ったときみたいな声が出た。資料室を片付けた疲れが消えていく。俺は完全にリラックスモードになり、体の力を抜いた。三人の話し声は聞こえるが、何を話しているかはわからない。それでも、一緒にいるのが心地良かった。
「じゃ、俺たちは帰るわ」
「は?!」
健吾の声に慌てて目を開けると、聡と共にすでにカバンを背負って立ち上がっていた。
「え? うそ。帰るの?!」
「ちょっと用事があるんだ。ごめんね」
眉を下げて謝る聡の背中を健吾が押すようにして保健室を出て行った。
「じゃ、ごゆっくり〜」
俺はハンドバスのせいで動けないまま目を白黒させるしかなかった。
あっという間に保健室は俺と蓮の二人きりになる。ここで黙ったら言い出せなくなる気がして、俺は覚悟を決めた。
「なぁ、その爪どうしたの?」
「あ……気分っていうか、うん」
蓮はそれだけ言って、視線をそらす。無言で自分のカバンを漁り始めたので、会話が終わってしまう、と俺は慌てた。
「やっぱ彼女できた?!」
「は?」
ポカンと口を開けた蓮を見て、俺は質問が唐突だったことに気がついたが、もう進むしかない。
「だからさ、そのマニキュアしたってことはさ、……エッチしたってことなの?」
いざ口にすると、かなり恥ずかしい。なんとなく小声になり、蓮を見ていられなくなる。
一呼吸分の沈黙の後で、蓮から返ってきたのは大爆笑だった。腹を抱え「マジか」と体を震わせる。
「そんなに笑うなよ。恥ずいじゃん。マジで聞いてるんだからさ」
「ゴメン、ゴメン。ちょ……予想外すぎて。やば。ツボった。ちょっと待って。ははは、止まらねぇ……」
ぱかりと大きく開いた口の中で整列する蓮のきれいな白い歯が光る。蓮とエッチした子だって、さすがにここまで爆笑させたことはないだろ、と妙な満足感が湧き上がった。
蓮は笑いがおさまると、キャスターを転がし、椅子ごと俺の正面へ移動してきた。
「もしかしてさ、赤爪伝説のやつ考えてたってこと?」
「そう」
「もしかして、今日ずっと俺のこと避けてたのそのせい?」
「うん」
「これがキモいとかじゃなくて?」
俺の方へ青く塗った爪を見せてくる蓮は少し不安そうな顔をしていた。
「別にキモいとは思わない。なんでイメチェンのこと俺に言ってくんなかったんだろってムカついてただけ」
「本当?」
「おう」
「あ〜! 良かった。マジでホッとした。あぁ、良かった。亮太にキモいって思われたら俺生きていけねぇから」
「大袈裟」
「亮太は違う? 俺がキモいって思っても関係ない?」
蓮がそんなこと思うなんて考えたこともなかった。
「え、どうだろ……うわ、むりむり。きっつ!」
想像しただけで、今日一日感じていたモヤモヤ以上に嫌な気持ちになる。確かに生きていけないと言いたくなるレベルだ。
「はは、絶対ないから大丈夫」
蓮の笑顔に嫌な気持ちはすっかり消える。俺も笑って見せると、蓮は頷いて真剣な顔をした。
「ちょっと真面目な話するわ」
「おう」
「どうしよう。どこから話そう。めっちゃ緊張する」
落ち着きのない蓮は珍しい。きっと自分も一日中こんな感じだったんだろう。いったいどんな話をされるんだろうと俺までドキドキしてくる。
「俺さ、プラモ好きじゃん」
意外な始まりだったが、俺は黙って頷くだけだ。
確かに蓮は細かいことが好きで、手先の器用さはもちろんだが、サッカーのプレイスタイルも繊細だった。
「で、夏休みに親戚で集まった時に、美容の専門学校行ってる姉ちゃんがネイル塗ってるの見たわけ。プラモの塗装に似てる気がして俺もやらせてもらったら、ハマった。で、これですよ」
蓮が差し出すスマホの画面には色とりどりのネイルの写真が並んでいた。
「え、なにこれ」
「俺がやったやつ。SNSに載せてんだ」
「おお、すっげ。かっこいいじゃん」
「本当? そう思う?」
「うん」
「そうだよなぁ。亮太ならそう言ってくれるよな。……おれビビってたの。ネイルって女子のイメージじゃん。もし俺がいきなりネイルしてって引かれたらどうしよって。でも隠してるのも嫌じゃん。聡と健吾にはネイルの道具を買いに行った時にバッタリ会ってバレたんだけど、亮太にはちゃんと言いたかったから秘密にしてもらってた。で、今日言おうと思ってネイルしてきた」
「そうかぁ。全然知らんかった。え、じゃあ髪の毛は?」
「これはカラーモデル。従姉妹の練習台になったんだけど、どうせならネイルと合わせて注目を分散させようかと」
「あはは、全然じゃん。どっちも注目されてたって」
「だから、赤爪伝説は関係ないです」
「お、じゃあ、彼女なし、童貞のままか」
「そういうこと」
「いえーい、一緒じゃん」
ハイタッチしたかったがあいにく手が塞がっていた。
「あ、そろそろ温まったか。聡と健吾は爪の形を整えて保湿しただけなんだけど、亮太はどうする? ネイル塗ってみたい? もし興味あったらやらせて欲しいんだけど」
「ネイルのことはわからんけど、蓮が塗ってるとこを見たいから、やって」
「やった」
蓮はカバンの中からポーチを取り出すと、机に色々と並べ出した。
俺の温まった手を取ると器用に爪の形を整えていく。道具を持ち替えては、ひとつひとつ何をしているのか、何のためにするのか説明してくれる。
洗顔後に化粧水すらつけない俺なのに、小さな爪が、蓮の手で宝物みたいに大切にされるのが、どうしようもなくくすぐったかった。
「何色にする?」
「蓮のおまかせで」
「了解」
蓮が選んだ小瓶を開けると独特の匂いが鼻をついた。蓋についた小さな刷毛にたっぷり液を含ませて見せてくれるが、色はなく透明に光るだけだ。
「じゃあ、塗っていく」
蓮は俺の右手を取ると、親指、人差し指、と順に刷毛をすべらせていく。
何が起きるのだろう、と自分の爪から目が離せない。
透明の液は乾くと爪から輝きを消した。すりガラスのようにぼんやりとした様子に変わる。意外な変化に思わず「すげぇ」と声が漏れた。
「あんまり目立たないから初心者向けかなと思ってこれにした」
「かっこいい」
「良かった。じゃあ反対の手貸して」
左手に触られた瞬間から、急に緊張してきた。右手を塗っているときは何が起きるのかと夢中だったから気にならなかったが、蓮に手を握られているようで胸がむずむずする。
蓮は長い指をしていると思っていたが、よく見ると節が目立ち、爪も大きい。
男っぽいかっこいい手だな。
それに気がついた途端、頬が熱くなっていく。急いで目をそらしても、その熱は簡単に冷めてくれなかった。
蓮は爪を塗ることに集中していて、俺の変化に気がついてないらしい。部屋は静まり返り、お互いの呼吸する音が聞こえるほどだった。俺は真剣に作業をする蓮の横顔をじっと見ていた。
「おっしゃ、できた。乾くまでこのままな」
顔をあげた蓮は誇らしげだった。
思ったより近い視線に心臓が跳ねるが、両手を動かせない俺はじっとしているしかない。「ネイルの写真撮って、あげても良い?」
「もちろん。身バレが怖いんでぇ、目線は入れてくださぁい」
俺が裏声でふざけながら変顔をすると、蓮がスマホを向けた。鳴り止まない連写の音に「お前の写真フォルダー俺だらけじゃん」と笑った。
「そうだよ」
答えた蓮の声はやけに優しい気がした。
座り直そうと動いたところで、あの存在を思い出した。
「蓮、俺のポケットにいいもん入ってるから、出して」
蓮は一瞬迷ったが、俺のズボンのポケットに手を入れた。
「これ? チョコ?」
「そうそう! さっき眠らせババにもらったんだけど、蓮と食べようと思って持ってきた」
「お、うまそう」
「あいつらには内緒な」
ふたりで顔を見合わせて笑った。
蓮は一粒目の銀紙を剥くと、両手がふさがった俺の口に放り込んだ。
「なんか恥ずいわ」
「うん、俺も」
「お前がやったんじゃん」
「へへへ」
蓮は自分の分のチョコレートを口の中に放り込んだ。ポコンと形の変わった頬がおかしくて笑った。蓮がスマホを向けるからツーショットを撮る。塗ってもらったばかりの爪も入れたら「それいいな」と言って角度を変えて何枚か撮り直した。
「一緒に撮っても良い?」
「あ、うん」
蓮が差し出す手に自分の手を伸ばすと、指が絡みついた。恋人繋ぎってやつだ。自分より大きくて、かっこいい蓮の手。重なる手のひらが、やけに熱い気がした。
二人の爪が写るようにと何枚も写真を撮った。シャッター音が鳴るたびに胸が苦しくなるのに、終わった時にはがっかりした自分がいた。
「これ良くない?」
青空を背景に繋いだ手が写る。
蓮の爪の青は空に、俺のすりガラスのような爪は雲に似て、特別な二人の写真みたいに見えた。
「エモいわ。青春って感じ」
蓮が写真を投稿すると、すぐにコメントがついた。
『カップルネイル! かわいい』
『匂わせ?』
『彼じゃん!』
盛り上がるコメント欄に俺は焦るが、蓮は満足そうに笑うだけだ。
「匂わせなんて書かれたら、彼女できなくなるぞ」
「彼女なんていらねーよ」
「マジ?」
「俺には亮太がいるし?」
「え、あ……言ったな? ダーリン浮気したら刺すわよぉ♡」
蓮の言葉にいつものようにノリノリで返したが俺の心臓はうるさい。
「いいよ。じゃあ、亮太が浮気したらチンコ切るわ」
「げ。痛い痛い……」
顔をしかめる俺の頭を蓮がぐしゃぐしゃと乱暴になでた。
「俺だけ見てろよ」
ボソリとつぶやいた声があまりに真剣でハッとする。蓮の方を振り向いたが、その表情は秋晴れの日差しに邪魔されてはっきりと見えなかった。
「もう亮太の爪も乾いただろ。片付けるか」
机に広げた道具をしまう蓮の背中に小さな声でつぶやく。
「俺、蓮のことばっか考えてるよ」
蓮が振り返りそうになったので、慌てて背を向けた。
「なんか言ったか?」
「さぁね〜」
明るく答えながらも、ほんの少しだけがっかりしていた。
聞こえていても良かったのに。
窓際の流しに桶を片付けながら窓ガラスに映った蓮を盗み見る。
やっと見慣れた青い髪に青い爪。
蓮のことは何でも知っていると思っていたが、今日は“青”のおかげで新しい発見がたくさんあった。そして、俺自身についても。
どうやら俺にとって蓮は特別らしい。
じゃあ、蓮にとっての俺は?
新しく湧いた疑問が気になるけど、まだ聞けない。
でもいつか、必ず聞いてみる。
それはとても幸せなことだと、今日知ったから。