[エピローグ]
 キーンコーンカーンコーン。
 無機質なチャイム音が校内中に鳴り響いた。ようやく放課後だ。
 放課後になると、俺はインスタントコーヒーをマグカップに入れて、飲む。そんなルーティンが出来上がってしまった。
 今日は生徒が定期試験最終日だから、部活が無い。つまり、いつもより退勤時刻が早いということ。
「やった、久々に寝れる……」
 そう呟いた時、開いたままの窓から「ゆずせんせー!」と俺に懐いてくれている神崎時煌という名の生徒が顔を出す。
 神崎は、俺が少し前から気にかけている生徒の一人だ。校内で見かけた時は、同じグループの三人で一緒にいて、でも神崎一人だけ苦しそうに笑っていた。二人は神崎が無理しているのに気付いていなかったようだけれど。
 それで気にかけていたのだが、ある日神崎は疲労で倒れてしまった。保健室に運ばれてきた神崎は、学校に行きたくないと溢した。そんな神崎に俺はうちの学校に去年くらいに新しく導入されたという制度を紹介することにした。“夜学校”という制度を。
 神崎はその制度を上手く活用して、前よりも少しは楽に過ごしているように見える。あれからだ、神崎が俺に懐きだしたのは。勿論、今後も気にかけるつもりだ。
 少しでも、奈音と同じような子供を減らせるように。しんどい思いをする生徒が少なくなるように。
「おー、勉強頑張れよ」
「ゆず先生、勉強教えて下さいよ〜」
「教科は?」
「数学です」
「それは俺の範囲外です、数学科の教員頼れ〜」
「言われると思った」
 神崎はふふっと上品に笑う。
 そして、「さようなら!」と礼儀正しく会釈して高い位置で一つに結んだ色素の薄い茶髪を揺らして帰っていった。神崎の背中が小さくなるのを見届けてから、俺は椅子に腰掛けた。気を抜くとすぐため息が溢れる。
 養護教諭というのは、簡単そうに見えて意外と忙しい仕事なのだなぁとなってみてからやっとわかった。
 それでも、生徒達は俺に懐いてくれているし、大変な分やりがいはある仕事ではある。
 あの時から、変わった事がいくつかある。
 髪が伸びた。肩くらいまでの長さだった物が、胸あたりまで伸びてきた。切る時間が泣くて、そのまま伸ばし続けていたらここまで伸びてしまった。
 奈音が引っ越した。仕事の都合とやらで旦那と共に引っ越した。連絡する頻度も日に日に少なくなっていて、少し寂しい。
 心境的にも変化はある。少し、落ち着いたんだろうと思う。感情が大きく揺れ動く事がなくなった。それは良い事でも、悪い事でもあるのかもしれない。
 コーヒーをまた一口、口に含むとポケットの中で小さくスマホが震えていたのに気が付いた。何かと思って見てみると、珍しい相手からだった。久しぶりにこの名前を見た。
 通知には“佐藤奈音から一件のメッセージ”という文字が書いてあった。本当に、久しぶりだった。奈音のことを考えたのも、奈音からメッセージが届いたのも。
 なぜか、またズキッと胸が痛む。未だに、諦めきれていないんだなぁと呆れてしまう。
 俺は前世から奈音の事が好きだった。それはずっと頭の中に残っていた。奈音とは違って、俺は前世の記憶が初めから残っていた。俺が奈音に抱いていたのは友達という意味での好きではなく、恋愛感情の方の好き。
 これが、俺のずっと隠し続けてきた事。
 明るくて、一緒にいると楽しい奈音は、本当は家では両親から責められ続けていた。認められたくて、愛されたくて。それなのに、両親は奈音の気持ちを理解してはくれなかった。
 苦しげに奈音は死にたいと呟いた。本当は奈音に死んでほしくなかった。だからといって追い詰められていた奈音に、死なないで、なんて残酷なことを言う事はできなかった。
 死ぬなら一緒に死のう。俺がそう言った時の奈音の顔は、少し悲しそうで、でもほっとしていた。
 生きていても、苦しいだけならば……と一緒に死ぬ覚悟を決めた。死にたくなかったわけじゃない。現世に未練など無かった。それでも、死ぬのはやっぱり怖いもので手も足も震えてしまったのをよく覚えている。
 一人にしないで良かったと、今になって思う。俺のエゴだとしても、少しでも、微力でも奈音の為に動けたことがあったならもうそれで良い。
 割とずっと奈音の事を想っていたはずだ。片思い歴は軽く十年を超えていたのではないのかと思う。
 でも、報われる事なんて無いとわかっていた。俺が“三浦柚凪”になってからは尚更。奈音とは血の繋がった姉妹になってしまったから。法律的にも、世間的にも認められることは無い。
 そうはわかっていても、誰にも言えないままどうしても諦めきれなくてズルズルと過ごす日々。
 諦めようと思ったのは二人が結婚の報告をしにきた時だっだ。もう妹として割り切ろう。
 奈音が幸せになれるならどんな方法でも良い。そう自分に言い聞かせた。自分が思っていたよりも、奈音の結婚を笑顔で祝福できたと思う。
 それでも、奈音が籍を入れてメッセージアプリの名前が“三浦奈音”から“佐藤奈音”に変わった事に気づいてしまった時はモヤモヤが止められなかった。
 もう、俺じゃない。奈音が困った時に相談できる相手は、頼りたい相手は俺じゃない。そんな事、わかりきってたはずなのに。どうしてか苦しくてたまらなかった。
 さっき届いた奈音からのメッセージは『柚凪、今日の夜空いてる?』というものだった。続いて『久しぶりにこっち帰ってきてるんだけど、飲みに行かない?』というメッセージが届く。
 どうしようかなぁ、なんて躊躇ってしまう自分がいる。本当は行きたいのに、行ってもまたしんどい思いをするだけなんじゃないかと日和っているのだ。
 ため息をついて、マグカップを片手に奈音とのトーク画面をじっと見つめていると突然電話がかかってきた。
「えっ、もしもし? 」
『もしもし、久しぶり!』
 懐かしい、奈音の声を聞いて泣きそうになってしまう。そんな気持ちを抑えて「久しぶり。どうかした?」といつも通りの声を出す。『柚凪が珍しく返信してこないから、電話で聞こうかと思って』
「コーヒー飲んでたから、ゆっくり返信しようと思ってた」と言うと、奈音はくすっと笑う。
『今日、結局行ける? 忙しい?』
「行けるよ、どこ行けば良い?」
『リンク送るね!』
 そんな時、電話の奥で「奈音ー? 今日俺の方が遅くなるかもだから迎え行けないけどいいの?」と聞こえてきた。奈音はそれに対して「平気ー!」と返す。
 相変わらずの仲の良さだ。良いことのはずなのに、素直に喜べない自分が嫌になる。
『ここ! 夜七時頃に来れる?』
 奈音が送ってきたリンクには、俺が今住んでいる場所から大体三十分くらいの場所にある居酒屋の位置情報があった。六時に家を出れば余裕で待ち合わせ時刻には着く。
「うん、行ける……けど、奈音は今夜どこに帰るの?」
 よくよく考えてみれば、こっちに奈音達の家はない。一体どうするのだろうと気になった。
『お父さんの家だよ!』
「え、それ旦那気まずくないの?」
 奥さんのお父さんの家に泊まるなんて、気まずいのではないかと心配したのも束の間の事。奈音は、うちとお父さんと湊の三人で泊まるわけないじゃん!とケラケラ笑う。
「じゃあどうするの?」
『お父さん今旅行してるし、こっちに戻ってくるなら自由に使ってくれて良いよーって言われたよ』
「そういうことかぁ」
 俺が納得すると、奈音は『そう! じゃあまた夜ね!』と電話を切った。
 帰り支度を済ませて、保健室の施錠をして駐車場に向かう。車のエンジンをかけて、いつもと同じ道を進む。
 三十分ほど車を乗り進めていると、見慣れたマンションが目に入る。
 家に着くと、まだ待ち合わせ時間まで数時間あると気付いたから、少し仮眠を取ることにした。

「あ、来た来た」
 仮眠を取って、入浴を済ませて早めに来たはずなのに、奈音の方が先に待っていたようだ。店の前に立っている奈音の姿を見てびっくりした。まだ十分前なのに、奈音は一体何時に来たんだろうか。
「久しぶり」
「久しぶり! 髪伸びたね」
 そういう奈音は、腰くらいまで伸びていた髪を肩につくかつかないかぐらいの高さまで切っていた。
「そっちは短くなったね」と指摘してみると「バッサリ切ったから、大分軽くなったよ」と笑った。屈託なく笑う奈音を見てほっとする。やっと、報われたのかなぁと。
「お店入ろ!」
 奈音に続いて店に入ると、店員が「いらっしゃせー、何名様ですか!」と元気に挨拶してくる。俺が指を二本立てると「二名様ですね、ご案内します」と笑顔で対応してくれる。
 カウンター席ではなく、個室だったから安心した。居酒屋でカウンターに座っていると酔っている人に話しかけられる事はよくあることだからだ。
 久々に奈音と話せるのだから、そんな悲劇は避けたい。
 初めに俺はジンジャーエール、奈音は梅酒を。他にも夜ご飯として卵スープや唐揚げなどを頼む。
「それでね、先月休みが取れたから湊と、遊びに行ってきたんだけど……」
 奈音は嬉しそうに話す。ごくりとジンジャーエールを、出てきそうになってしまったため息と共に喉に流し込むと共にやっとした気持ちが溢れ出てきてしまう。
 会えて嬉しいのに、もやもやして……奈音に申し訳ない。
 気持ちをリセットする為に、俺はジンジャーエールを一気に飲み干した。
 そこからの時間はあっという間だった。気付けば深夜で、店の外に出ていた。外の寒さで意識がはっきりする。
 顔が紅潮していて、ケラケラと笑っている奈音を見て、俺はぽかんとしてしまう。
「奈音、だいぶ酔ってるくない……?」
「えぇ、酔ってないもん」
「家送ってくから、どこか教えて」
「え、家送ってってくれるの!」
 嬉しそうに、奈音は言う。奈音に乗ってもらって奈音にお父さんの家の住所をナビアプリにいれてもらって、頭がふわふわの奈音とお父さんの家へと向かう。
 お父さんの家は、居酒屋からそんなに遠い場所にはなかった。五、六分程度で目的地には着くことができた。
 スヤスヤ眠っている奈音を両手で抱えて、ちょっと行儀が悪いかなぁと思いつつも足でインターホンを押す。
 ピーンポーンと鳴って、すぐに勢いよく奈音の旦那が出てきた。
「え、あ。お義姉さん……わざわざ奈音の事送ってくださってありがとうございます」
「ううん、全然」
「あ、後は任せてください」
 奈音を受け取ってもらって、言われたことは「お義姉さん、落ち着きましたね」だった。
 こいつにもそんな事を言われるほど、俺は落ち着いているように見えるんだろうか。でも、そうであってくれてありがたい気もする。俺の余裕がない姿なんて、見せられないほど気持ち悪いだろうから。
「じゃあ、奈音の事頼むね」
「任せて下さいよ」
 自然な笑顔が作れているだろうか、歪んでしまっていないだろうか。気張れ、気張らないと。
 じゃあ帰るね、と俺が車に向かうと、気をつけて!と湊は言う。憎らしいほど、良い奴だな。湊が奈音の旦那で、奈音の事を大切に思っていてくれてありがたい。
 運転席に座ると、ようやく気が抜けたのか頬には、一筋の涙が伝っていた。