[二十四話]
「店の前で喧嘩してた、時だよね?」
恐る恐る、柚凪が気まずそうに聞く。
「そうそう、その時!」
「誰と喧嘩してたの……」
柚凪と物理的に距離があいた所為で、タガが外れたのだろうか。ストッパーとしての役割を持つうちがいなくなって、今までよりもずっと暴れていたんだろうな。
全く、一応姉のくせに世話が焼ける。
うちの呆れて口から出た呟きに叔母さんが答える。
「えっとね、確か初めは柚凪が黒髪の女の子と喧嘩してて、背の高い男の子がその場にやってきたの。柚凪が背が高い男の子と言い合いになって、最終的にその男の子と協力して女の子を泣かせてたんだと思う」
「……初めから最後まで見られてたのか」
柚凪は、叔母さんの目撃証言にがっくりと肩を落とした。うちに直接見られることは無かったけれど、結局間接的にその荒れていた時期の柚凪を知ってしまったからじゃないかと思う。
きっと、柚凪は荒れていた頃の事をうちに知られたく無かったんだ。本当の事は柚凪にしかわからないから、ただの推測だけれど。
でも、正直うちは複雑過ぎてあまりよくわかっていない。荒れてたんだなぁ、ということぐらいしか。
叔母さんがふいに人が多くなってきたスイーツ店を見ると「そろそろ私も、お店に戻らなきゃ」と言って慌てて店へと戻って行った。
「それで、結局それは誰だったの?」
「黒髪の子だったら……ユウと、塾が同じだった人かな?」
「え、ユウ?」
知らない名前が出てきて、戸惑う。誰だろうか、全然見当がつかない。もしかしたらうちが知らない柚凪の友達なのか?
「優しいに雨で、優雨」
さも、うちがその人の事を知っているかのように話す柚凪に、少しだけもやっとしてしまう。うちの知らない事を嬉しそうに話されると、自分が置いて行かれたという感覚に陥ってしまう。
そうだ、あの時もこうだった。久しぶりに如月達に会った時も、うちだけが着いて行けなくて虚しい気持ちになった。それと同じ。
だからといって、柚凪にも皆にも悪気があるわけではない。ただ、一緒に過ごしてない時間が増えたから起きてしまっただけだ。それだけの話。
ブンブン首を振って、醜い考えを振り払う。
「ごめん、うちはその人知らな──」
「あれ、俺……なーに知られてない感じ?」
突然後ろから声が聞こえてきて、うちはビクッと強張ってしまう。恐る恐る振り返ると、如月が仁王立ちしていた。えっ、と小さく声が漏れる。
何でここに居るのかというよりも、格好がめっちゃ偉そうで、そっちの方が気になっている。理不尽だし、如月には罪はないのだけれど、その偉そうな格好にイラッとしてしまった。
「わぁ、ピーナッツじゃん」
ケラケラ笑いながら柚凪はツンツンと如月の横腹をつつく。
「誰がピーナッツだ」
如月は横腹をつつく柚凪の手を掴むと、柚凪は眉間に皺を寄せて口をきゅっと結んだ。
「え、ちょっとちょっと、二人ともなんでそんな嫌そうなの」
「手痛いのと、めっちゃ偉そうで腹立つから」
柚凪の思っている事をそのままぶつけられた如月は両手で口元を抑えた。
「何でそんな事言うのよっ、優雨くん泣いちゃう!」
この人は本当にうちと同い年なんだろうか。十八にもなってこんな精神年齢が低そうな発言……ちょっと呆れてしまった。そんな如月から「なー、俺別に偉そうにしてないよな?」と問いかけられるも、その問いかけを無視して、考え込む。まだ予想なだけだけど、ようやく頭の中の点と点が繋がったような気がした。
「もしかしてさっき言ってた優雨って人……如月の下の名前だったりする?」
「そうだよ〜」
予想が当たった。だからさっき柚凪はあんなにあっけらかんと話していたのかと納得できた。よくよく思い出してみれば如月も『俺のこと』と言っていた。
柚凪は「如月の下の名前、認知してなかったの⁉︎」とまた楽しそうに笑う。
「えっ、俺……前、みーちゃんとなーの前でフルネームで自己紹介したじゃん」
「あ、え、そうだっけ」
そういえば、そんな事があったような気がしなくもない。フルネームで自己紹介してたような、してないような。如月で定着してしまっているからか、もしくはあまり仲が良くないからなのか。
優雨という名前に慣れない。苗字と名前、それぞれ別の人の人間のように感じてしまう。
「何で急に名前呼び?」
クレープを頬張る柚凪に問いかける。
「確か頼まれた……んだっけ?」
眉間に皺を寄せて、首を傾げる柚凪に、如月は「そうそう」と返す。
「俺、自分の苗字嫌いなんだよねぇ」
如月はへらっと笑う。苗字が嫌いなんて初耳だった。
「へぇ、そうなんだ。」
柚凪は「というか何で如月はここに……」と呟く。
「ねぇ、わざと?わざとだよね?」
自分の苗字が気に入ってないと言った次の瞬間、苗字で呼ぶなんて。うちも柚凪がわざと苗字で呼んだのかと思った。けれど柚凪はやってしまった、みたいな顔をして「つい癖で」と謝る。
どうやらわざとではなく、柚凪もまだ下の名前で呼ぶ事に慣れていないだけらしい。苗字が嫌いと言われても、うちの中でも柚凪の中でももう如月で定着してしまっているのだから仕方ない。
うちはどうしようと考えた。今更名前で呼ぶのは少し違う気がする。自分の中で違和感が出来てしまうからだ。
「わかったよ……ピーナッツで良い?」
妥協に妥協を重ねると愛称で呼ぶと言う結果にしかならない。名前で呼ぶのはうちが嫌で、苗字で呼ぶのは如月が嫌。それなら愛称で呼ぶしか選択肢は無くなる。
勿論、心の中では如月のままで呼ぶけれど。
「えぇ、何でピーナッツって呼ぶん?」
如月はあからさまに嫌そうな顔をした。
「あ、確かに。それはうちも気になる」
如月にピーナッツ要素は少しも無い気がする。強いて言うなら、色素の薄い髪色がピーナッツと似ている色だから。考えつくのはそれぐらいだ。だから返ってくるのはそういう答えだと思っていた。
でも柚凪は「うーん、何でだろう」と少し考える。
「言い出しっぺなのに、実際特に理由は無い感じ?」
「え、うん」
「じゃあ呼ぶの辞めろよ⁉︎」
「何で? 良いじゃん、似合うよ」
柚凪が軽く言った『似合う』にうちの脳は静止した。ピーナッツという名前が似合う人なんているのか……?
いや、考え出したら止まらない気がする。何も聞かなかったことにしよう。
「俺ピーナッツ嫌いだから〜」
「へぇ、知らない」
うちは二人のテンポの良い会話につい吹き出してしまった。柚凪はめっちゃ仲良くなった!と言っていた癖に、相変わらず不仲じゃないか。いや、喧嘩するほど仲が良いのか。どちらにしろ、よくわからない関係だ。
でも相手に気を使う必要がなく軽口を叩き合える、そんな関係に憧れたりもする。
「それで、何でここにいるの?」
「みーちゃんと、花城と遊びに来たんだよ」
如月はハッとして「あ、一ノ瀬と朝比奈も居たぞ?」と叫ぶ。思い出したからというのもあるかもしれないけれど、耳元で大音量で叫ばれてしまってつい頭を叩いてしまった。
「痛ぁ!」
「うるさいもん!」
びっくりして反射的に叩いてしまったのだから仕方ないだろう。耳元で叫んできた如月が悪い。
「それは、ごめん」
案外素直に如月は謝って来た。
昔と変わらないなぁと実感して、少し胸が暖かくなる。
「蘭菜も水雫も居たんだねぇ」
「うん、一緒に来てなかったんだな」
いつも四人でいるのに珍しいと如月は笑う。そんな如月とは対照的に、柚凪の顔は険しい。
「さっき言われた時からずっと気になってたんだけど……ちなみにみーちゃんって誰?」
「え? なーの愛する人……知らない?」
すぐさま、そんなんじゃないから!と否定してみせる。如月には、うちが佐藤と付き合っていることは話していないし、そんな愛する人なんて言われたら気恥ずかしい。
「おい、如月! ようやく見つけた……」
聞き慣れた、うちが安心できる優しい声が聞こえてぱっと振り向くと案の定そこには佐藤がいた。約束もしていないのに会えた事に少し嬉しさを感じる。
「おぉ! 花城とみーちゃんじゃん!」
如月が手を振ると、佐藤はズカズカと早歩きでこっちに歩いて来て如月の足を蹴った。
「いたっ⁉︎」
如月はしゃがみ込んで自身の爪先を手で抑える。柚凪が「わぁ、痛そう」と口元を抑えて如月に憐れんだ視線を向ける。
「お前は勝手にうろちょろすんな! 移動する時は声掛けろ!」
「はい、ごめんなさい」
如月が、佐藤に説教されている。そんな事だけで、いつも通りの日常がそこにあるというだけで、つい嬉しくなってしまうのはなんでだろう。
「あれ、奈音?」
佐藤がうちの存在に気付いて、「来てたんだ」と声をかけてくれた。うちが、そうだよと口を開くよりも前に後ろから声が聞こえた。
「えっ⁉︎」
[二十五話]
驚いた声は蘭菜のものだった。
「二人とも来てたの⁉︎」
びっくりと、嬉しさが混じった感情が蘭菜の声から読み取れる。水雫は状況についていけずに、ただただ驚いているだけのように見えた。
「如月と花城と、前なーと一緒にいた人もいる」
「あ、佐藤です」
水雫が佐藤の名前を忘れて、佐藤が気まずそうにつっこむ。珍しい組み合わせだなぁと思いながらも、正直これはこれで面白い。
「そっちも本当に来てたんだ!」
「私、柚凪と会ったの久しぶりかも」
柚凪が嬉しそうに蘭菜と水雫に抱きつきにいく。
勢いよく抱きつきに来た柚凪を受け入れながらも、蘭菜は「本当にって?」と首を傾げる。
「さっき如月が来てたってこと教えてくれたから」
「なるほどね」
如月が「そういえば、結局どうなったんだよ!」と佐藤をつつく。
「どうって?」
「相談してきたじゃん」
「なんか相談したっけ?」
ニヤニヤしながら、如月はスマホをスクロールして急に真顔になった。真剣な顔で「好きになった人がいるんだけど、どうすれば良いか教えてくれ」と言う。
突然どうしたのか、うちはわからなかった。いつも通りの如月の奇行だろうと思っていた。よくわからない行動をするのはいつも通りのことだと。
「えっ、ちょ、は?」
なぜか焦り出す佐藤に、ニヤニヤを止めない如月と如月のスマホを覗き込んで共にニヤニヤし始める柚凪。悟ったような顔をして、佐藤の肩をドンマイと言うように叩く花城。そして何も理解出来ていないうちと蘭菜達三人。
「なー! かもん!」
「え、うち?」
如月に手招きされて、うちはよくわからないまま柚凪の隣へ駆け寄る。
「ちょ、待て如月。奈音に何見せる気だ」
そんな佐藤の声を無視して、如月はうちに如月とのメッセージのトーク履歴を初めから見せてくれた。佐藤が如月に好きな人がいると相談していたなんて知らなかった。
きっと、時期的にその好きな人はうちなんだろうなと思うと頰が火照る。心なしか体温が上がってしまったような気がした。
一番最後の会話は卒業式前日の時のもので『告白しろよ!』と言う如月とそれに『明日の卒業式では絶対告白する』と返す佐藤のやりとりだった。
「奈音、めっちゃ顔赤くなってる!」
「柚凪うるさい!」
ニコニコしながらうちの頰をツンツンしてくる柚凪の手を振り払う。
「お前……信頼して相談したのに」
佐藤は如月に冷たい視線を送る。如月は「本当に申し訳ございません」と素早く頭を上げる。
「クレープ奢ってくれるなら許してやらんこともないけど」
ボソッと呟く佐藤の声を聞き取って、如月は財布を手にダッシュでさっきうちと柚凪がクレープを買ったスイーツ店に走る。
「みーちゃん! 何味ー?」
スイーツ店の前で思い出した如月が叫ぶ。佐藤も「いちご!」と声を張る。
「はーい!」
数分して、如月がさっきうちと柚凪が食べたものと同じクレープを持って帰ってきた。
「案外、佐藤って甘党なんだね」
「意外か?」
「甘いの嫌いそう」
「そんな事ないけど……」
佐藤は思ったよりも甘いものは好きなようだ。はむはむとクレープを頬張って、嬉しそうに緩んだ頬が戻り切っていない。可愛い絆創膏を持ち歩いていたり、甘いものが好きだったりと、いつものクールな佐藤とのギャップが大きくて少し笑みが溢れる。
ふと、これからもっともっと一緒に過ごす時間が増えて佐藤の事を知っていけたらいいなぁ、なんて考えてしまった。
「今回だけだぞ、次は無いと思え」
「はい! 肝に銘じます!」
頬にクレープのクリームをつけたまま、そんな事言っても凄みや威厳はクリームによって緩和されてしまう。如月もきっと考えている事は同じなんだろう。真面目な声色を出しつつも、実際は俯いて、プルプルと震えている。必死に笑いを堪えているんだろう。
流石にこの流れで如月がクリームがついている事を笑いながら指摘したら、佐藤の逆鱗に触れるだろう。
だからうちが佐藤に伝えることにした。そっちの方が穏便に済むだろうから。
「佐藤、頬にクリームついてる」
「えぇ、まじ? 取って」
うちは鞄の中からウェットティッシュを取り出して、佐藤の頬についたクリームを綺麗に拭き取った。
「取れたよ」
「ありがと」
その光景を見ていた如月が「お前ら……もしかして!」と目を輝かせる。
「何?」
「付き合ってんだろ!」
如月はいつもこれだ。まぁ今回は間違っていないのだけれど、一応佐藤が嫌かもしれないと思って「え、なんで?」なんて誤魔化してみた。
「だって、やけに距離近いし」
「名前呼びになってるし」
うちが聞くと、如月と蘭菜がうちと佐藤をじっと見つめて食い気味に話す。
「で、どうなんだよ」
からかいたいだけの如月と、本当はどういう関係なのかを知りたがっている蘭菜。水雫と花城はそこまで恋愛の話に興味が無いんだろう。スマホをつついている。
上手く誤魔化せたと思ったのに、全然そんな事はなかった。どう返せば良いのかわからなくて困っていたその時だった。
「付き合ってるよ」
あっけらかんと、思っていたよりも軽く佐藤が言った事によって如月はぽかんと口を開けて首を傾げた。
蘭菜は「そうなの⁉︎」と良いリアクション。柚凪は「俺は認めたくない、そんな事実」と首をブンブン振っている。そんな柚凪に花城が「妹の幸せを素直に祝ってやれよ、姉」と野次を飛ばす。
「うるさいなぁ、……よ」
「柚凪、なんか言った?」
最後らへんに呟いたのが何だったのかが聞き取れなかったから、聞き返すも柚凪は「ううん、何も!」といつものように明るく笑った。
如月が突然思い出したように「あ、俺らクレーンゲームでみーちゃんの妹に人形取らないといけないからそろそろ行くな」と言ったのを合図に、如月達三人はゲームセンターの方へと向かった。
蘭菜も「私達も、今から本屋さんよって帰るから……またね」と水雫と共に帰って行った。
去っていく背中に手を振りながら「……俺達もそろそろ帰るかぁ」と柚凪。
「え、ちょっと待って? まだクレープ食べただけじゃん」
「でももう疲れたくない?」
「うん、それはそう」
如月達と出会ったからか、やけに時間があっという間だったように思える。でも、久しぶりに柚凪と遊びに来れたのにもう解散なんて嫌だ。
もう少し、一緒にいたい。でも大人になった今、そうやって我儘を軽々しく言えるはずもない。うちは黙り込んだ。そんなうちを見かねた柚凪が「俺の家来て、夜ご飯一緒に食べる?」と提案してくれた。
「良いの⁉︎」
「良いよ、なんなら泊まってく?」
「え! 泊まってく!」
柚凪は「了解、夜ご飯何が良い?」と首を傾げる。
「柚凪って料理作れるの⁉︎」
「失礼だなぁ、作れますけど?」
よくよく考えてみれば、確かに柚凪もうちと同じように大学入学と共に一人暮らしを始めていたんだった。そりゃあ料理も作れるようになるかと納得する。
少し考えて、何を作ってもらうかを決める。
初めから決まっていたようなものだけど、やっぱりこれしかないと思う。うちは口を開く。
「じゃあ……オムライスで!」
柚凪は一瞬ニヤッとして「流石、奈音! わかってんじゃん!」と嬉しそうに笑う。
「懐かしいねぇ、一番初めに作ってくれたオムライスの味は忘れられないなぁ」
柚凪が初めてうちに作ってくれたのは、珍しくお母さんとお父さんの帰りが遅くてうちがお腹が空いたのと寂しいので泣いていた時だった。冷蔵庫に入っているもので作れるものがオムライスで、柚凪は必死に調べながら作ってくれたのだ。まだ小学生だからか、柚凪が不器用だからなのか、それはお世辞にも美味しいとは言えなかった。
でも、そのオムライスで空腹と寂しさは埋められた。
「あぁ、もう! 仕方ないじゃん、まだあの時は小学生だったんだからさぁ」
「まぁね、でも嬉しかったから今でも忘れないんだよ」
そう言うと、柚凪は顔を綻ばせた。つられてうちも口角が上がる。
うちと柚凪は、買い物をして柚凪の家へと帰った。
[二十六話]
「「いただきます」」
四年前と同じように手を合わせて、柚凪が作ってくれたオムライスを口に放り込む。あの日から三年も経ってしまったのだなぁと思うと感慨深い。
四年経っても変わらないものは多くある。柚凪のこの部屋、オムライスの味、柚凪とうちの関係性。変わらないものばかりの中でも、変わってしまうものだってある。
そうやって、寂しい気持ちになっていると柚凪が「もう明日だよ? 本当に俺で良かったの?」とうちに問う。
「何が?」
「結婚式前夜に過ごすのが姉で良いのか、奈音は」
「良いんだよ、引っ越すからなかなか会えなくなっちゃうし」
変わってしまうことの一つが、これだ。結婚と引っ越しが決まって、柚凪との距離がまた開いてしまう。でも、柚凪はそこまで気にしていないように見える。感情を隠しているようにも見えないし、きっと本当に気にしていないのだろう。
柚凪のことだから、うちが湊と結婚するとなれば泣いて喚くか、怒るかのどちらかだと思っていた。でも、そうではなかった。素直に祝福してくれるなんて、うちは思っても見なかった。
「……あっという間だったね、二十二年間」
「色々ありすぎたよなぁ」
本当に、過ぎてみればあっという間のことで。時が過ぎてゆくと、段々生まれ変わりなんて不思議な事も忘れてしまっていて、辛い記憶もかつて消したいと願っていた過去も、全て忘れてしまいそうだった。
だからといって、全てを忘れる事はないのだろうなと思う。
うちがカウンセラーを目指したきっかけも過去のうちみたいな子を一人でも助けたいと思ったことだったから。
忘れてしまいそうでも、やっぱり実際はそう簡単に忘れる事はできないし、忘れちゃ駄目なんだと思う。あの経験があってからこその今のうちがあるんだ。
だから、それでいい。うちはこれで良いんだ。今のうちには、柚凪も、湊も、他にも沢山味方がいる。
また辛くなってしまったら頼ればいいと、湊が教えてくれた。物理的な距離が遠くなったとしても、離れていかないと柚凪が励ましてくれた。
新天地で、頑張っていこうという気持ちになれたのは二人のおかげだ。うちは幸せなんだなぁと実感して、口角が緩むのが自分でもわかる。
「奈音!」
「えっ?」
急に柚凪に呼ばれて、顔をあげると柚凪はほっと息を吐く。
「奈音ってば、さっきからずっと呼んでたのに全然気付かないじゃん……心配した」
「ごめん、ちょっと色々思い返してた」
「思い出に浸るのも良いと思うけど、俺もう夜ご飯食べ終わっちゃったよ」
「え、ほんとだ! いつの間に?」
柚凪のお皿にはもうオムライスは無かった。うちが思い出に浸っている間に柚凪は食べ終わってしまったみたいだ。
柚凪はふはっと笑って「早く食べちゃいな、明日も早いでしょ」と言いながらシンクにお皿を下げに行く。
「うん!」
「ごめんけど先に寝るね、おやすみ」
柚凪が寝てしまう前に、伝えておきたい事がある。伝えておかなければならない事が。
「ちょっと待って!」
うちが柚凪を呼び止めると、柚凪は「どうかした?」と首を傾げる。
「あの、ね」
いざとなったら、怖くなってきた。緊張しているのか、恥ずかしいのか、声が震える。でも、言いたい。言っておきたい。
「うん」
ゆっくりと深呼吸をして、うちは柚凪に伝えたい言葉を口にする。
「今までありがとう」
「えっ、それって」
「これからもよろしくお願いします」
良かった、ちゃんと言えた。うちが胸を撫で下ろすと、柚凪もほっとしたように「あぁ、そういうこと? 死ぬのかと思った、びっくりした」と呟く。
「結婚式前夜に死ぬわけないじゃん!」
「まぁ、それもそうか……」
突然柚凪は、ハッとして「ちょっと待ってて」とうちに言って寝室に戻っていった。
柚凪は長細い小さい箱を持って帰ってきた。
ふぅっと息を吐いてから「奈音、結婚おめでとう」と笑いかけてくれる。その笑顔は、うちには嬉しさと切なさが混ざっているような不思議な笑顔に見えた。
「幸せになってね」
そう言って、柚凪はさっき持ってきた箱をうちに渡してきた。
「何これ?」
「結婚祝い的な? 奈音にプレゼント、取り敢えず開けてみて」
うちが箱を開けると、そこには黒いクッションで保護された、小さい猫と音符のチャームがついた、全部銀色でコーティングされているネックレスが入っていた。
わざわざ、うちのために用意してくれたんだ。
「ありがとう、嬉しい!」
「喜んでくれたなら良かった」
「このネックレス、明日の式でもつけて良い?」
どうせなら、柚凪が用意してくれたこのネックレスをつけて式を挙げたい。きっと、これは明日のうちの姿によく似合う筈だから。
「元々これつける!って決めてなかったっけ?」
そうだ、元々うちはこれをつけるって決めていたネックレスはあった。それでも、これが良い。それしか今のうちの頭には無かった。
「それよりこっちつけたいの!」と言い張るうちに「そう? それなら良いんだけど」と柚凪は苦笑する。
「じゃあ、そろそろ」
柚凪のその言葉で、引き留めたという事を思い出す。
「あ! そっか、引き留めちゃってごめんね。おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
うちは少し冷えてしまったオムライスを平らげて、シンクにお皿を下げる。洗面所で歯を磨いて、寝室ですやすやと眠る柚凪の隣に転がる。
大好きな柚凪が、うちの幸せを願って祝福してくれているんだと思うと心が温かくなる。お腹も心もいっぱいのまま、うちは眠りについた。
結婚式当日。今日は朝からそわそわしてしまっていた。
ずっと心臓がバクバクと激しく動いているままだったらどうしようと心配していたけれど、ヘアメイクをしてもらう頃には落ち着く事ができていた。
薄紫色のふんわりした可愛いドレスに着替えて、派手過ぎず、地味過ぎない程良いメイクを施してもらう。
胸あたりまで伸びた髪も三つ編みにしてもらった。三つ編みの中に自分が持ってきた造花を挿したり、蝶の髪留めを挿したりして華やかにセットしてもらった。
最後に、柚凪が昨日くれたネックレスをつけてもらって、それで全ての準備が終わる。
もうする事もなくなりスタッフさんと世間話をしていると、突然コンコンとドアがノックされた。
スタッフさんが「あら、誰かしら?」と首を傾げて誰が来たのかを確認しに行く。
「あぁ、湊さんでしたか! 奈音さん、湊さんが来られましたが入っていただいて大丈夫ですか?」
「はい!」
湊が来たとわかって、うちは椅子から立ち上がる。スーツ姿で、髪もワックスで固められている。
いつもとは全然違う姿に少しだけどきっとする。
そんな気持ちを見抜かれてしまわないように、うちは「どう? 似合う?」なんて微笑んでみる。
「うん、すごく綺麗」
そんなにストレートに褒められると照れてしまう。全く、これだから困るんだ。ようやく鼓動の速さも収まったところなのに、またさっきと同じように鼓動が速くなってしまったから。落ち着かないと、落ち着いておかないと、ここぞという時にやらかしてしまうものだ。
深呼吸をして、うちは笑顔を作る。
「だよね、綺麗にメイクもヘアセットもしてもらったんだ」
「そっか。良かった」
「湊も似合ってるよ」
「ありがと」
穏やかな時間が流れている。あぁ、幸せだなぁと実感する。
でも、その時間はスタッフさんの声で現実に引き戻された。
「お二人とも、すみませんがそろそろお時間です!」
スタッフさんが「湊さんは先に式場に入場しておいてください!」と湊を式場へと誘導する。
「はい、じゃあ奈音……また後で」
「うん!」
湊が式場に向かった二、三分後にスーツ姿のお父さんが迎えに来た。うちの姿を見たお父さんは「奈音……大人になって……」と涙目になる。
「ふふ、ありがとう」
スタッフさんが「奈音さんも、そろそろゆっくり向かいましょう」と言ってうちはお父さんと共に控室を出た。
「湊くんも良い子だったから、奈音を任せるのも安心だなぁ」
うちはそっかぁと相槌を打つ。「ようやく、奈音が報われたような気がしてお父さん嬉しいよ」と続けるお父さん。お父さんのその言葉に違和感を覚える。
「ようやく?」
「うん、あの頃は僕たちの都合で仲の良かった二人を引き離すことになっただろ?」
「あぁ、その事? もう大丈夫なのに」
「気にしていたんだ、ずっと。奈音にも、柚凪にも、幸せになって欲しい」
うちが何も返さずに黙っているのに、お父さんは優しく微笑んでくれた。
そうやって、ゆっくり話しながら歩いていると丁度良い時間になった。
『それでは、新婦のご入場です!』
ギィッと重く軋むドアをスタッフが開ける。うちはお父さんと腕を組んで、ゆっくりと入場する。
中には、うちにとっても湊にとっても大切な人が集まってくれている。お母さん、柚凪、蘭菜、水雫。湊の家族に花城と如月。
皆笑顔で拍手で出迎えてくれる。うちが歩みを進めていく先には、湊がいる。湊の前まで辿り着いたら、お父さんのから離れて湊の元へ向かう。
そして、湊と二人で階段を登る。そこには神父が立っている。
「新郎、湊さん。あなたはここにいる奈音さんを病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、妻として愛し、敬い、慈しむ事を誓いますか?」
「はい、誓います」
永遠の愛を誓うなんて、と思っていた時期もあった。誓えるほど愛せる人も愛してくれる人もいないと。
でも、そんな事はなかった。うちが見ていなかっただけで本当はちゃんといたんだ。湊なら、うちの事を愛してくれる。湊となら永遠を誓える。
次はうちの番だ。
「新婦、奈音さん。あなたはここにいる湊さんを病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、夫として愛し、 敬い、慈しむ事を誓いますか?」
神父に聞かれて、うちは湊の顔を覗き込む。そして思いっきり笑顔で答えた。
「はい!」
[エピローグ]
キーンコーンカーンコーン。
無機質なチャイム音が校内中に鳴り響いた。ようやく放課後だ。
放課後になると、俺はインスタントコーヒーをマグカップに入れて、飲む。そんなルーティンが出来上がってしまった。
今日は生徒が定期試験最終日だから、部活が無い。つまり、いつもより退勤時刻が早いということ。
「やった、久々に寝れる……」
そう呟いた時、開いたままの窓から「ゆずせんせー!」と俺に懐いてくれている神崎時煌という名の生徒が顔を出す。
神崎は、俺が少し前から気にかけている生徒の一人だ。校内で見かけた時は、同じグループの三人で一緒にいて、でも神崎一人だけ苦しそうに笑っていた。二人は神崎が無理しているのに気付いていなかったようだけれど。
それで気にかけていたのだが、ある日神崎は疲労で倒れてしまった。保健室に運ばれてきた神崎は、学校に行きたくないと溢した。そんな神崎に俺はうちの学校に去年くらいに新しく導入されたという制度を紹介することにした。“夜学校”という制度を。
神崎はその制度を上手く活用して、前よりも少しは楽に過ごしているように見える。あれからだ、神崎が俺に懐きだしたのは。勿論、今後も気にかけるつもりだ。
少しでも、奈音と同じような子供を減らせるように。しんどい思いをする生徒が少なくなるように。
「おー、勉強頑張れよ」
「ゆず先生、勉強教えて下さいよ〜」
「教科は?」
「数学です」
「それは俺の範囲外です、数学科の教員頼れ〜」
「言われると思った」
神崎はふふっと上品に笑う。
そして、「さようなら!」と礼儀正しく会釈して高い位置で一つに結んだ色素の薄い茶髪を揺らして帰っていった。神崎の背中が小さくなるのを見届けてから、俺は椅子に腰掛けた。気を抜くとすぐため息が溢れる。
養護教諭というのは、簡単そうに見えて意外と忙しい仕事なのだなぁとなってみてからやっとわかった。
それでも、生徒達は俺に懐いてくれているし、大変な分やりがいはある仕事ではある。
あの時から、変わった事がいくつかある。
髪が伸びた。肩くらいまでの長さだった物が、胸あたりまで伸びてきた。切る時間が泣くて、そのまま伸ばし続けていたらここまで伸びてしまった。
奈音が引っ越した。仕事の都合とやらで旦那と共に引っ越した。連絡する頻度も日に日に少なくなっていて、少し寂しい。
心境的にも変化はある。少し、落ち着いたんだろうと思う。感情が大きく揺れ動く事がなくなった。それは良い事でも、悪い事でもあるのかもしれない。
コーヒーをまた一口、口に含むとポケットの中で小さくスマホが震えていたのに気が付いた。何かと思って見てみると、珍しい相手からだった。久しぶりにこの名前を見た。
通知には“佐藤奈音から一件のメッセージ”という文字が書いてあった。本当に、久しぶりだった。奈音のことを考えたのも、奈音からメッセージが届いたのも。
なぜか、またズキッと胸が痛む。未だに、諦めきれていないんだなぁと呆れてしまう。
俺は前世から奈音の事が好きだった。それはずっと頭の中に残っていた。奈音とは違って、俺は前世の記憶が初めから残っていた。俺が奈音に抱いていたのは友達という意味での好きではなく、恋愛感情の方の好き。
これが、俺のずっと隠し続けてきた事。
明るくて、一緒にいると楽しい奈音は、本当は家では両親から責められ続けていた。認められたくて、愛されたくて。それなのに、両親は奈音の気持ちを理解してはくれなかった。
苦しげに奈音は死にたいと呟いた。本当は奈音に死んでほしくなかった。だからといって追い詰められていた奈音に、死なないで、なんて残酷なことを言う事はできなかった。
死ぬなら一緒に死のう。俺がそう言った時の奈音の顔は、少し悲しそうで、でもほっとしていた。
生きていても、苦しいだけならば……と一緒に死ぬ覚悟を決めた。死にたくなかったわけじゃない。現世に未練など無かった。それでも、死ぬのはやっぱり怖いもので手も足も震えてしまったのをよく覚えている。
一人にしないで良かったと、今になって思う。俺のエゴだとしても、少しでも、微力でも奈音の為に動けたことがあったならもうそれで良い。
割とずっと奈音の事を想っていたはずだ。片思い歴は軽く十年を超えていたのではないのかと思う。
でも、報われる事なんて無いとわかっていた。俺が“三浦柚凪”になってからは尚更。奈音とは血の繋がった姉妹になってしまったから。法律的にも、世間的にも認められることは無い。
そうはわかっていても、誰にも言えないままどうしても諦めきれなくてズルズルと過ごす日々。
諦めようと思ったのは二人が結婚の報告をしにきた時だっだ。もう妹として割り切ろう。
奈音が幸せになれるならどんな方法でも良い。そう自分に言い聞かせた。自分が思っていたよりも、奈音の結婚を笑顔で祝福できたと思う。
それでも、奈音が籍を入れてメッセージアプリの名前が“三浦奈音”から“佐藤奈音”に変わった事に気づいてしまった時はモヤモヤが止められなかった。
もう、俺じゃない。奈音が困った時に相談できる相手は、頼りたい相手は俺じゃない。そんな事、わかりきってたはずなのに。どうしてか苦しくてたまらなかった。
さっき届いた奈音からのメッセージは『柚凪、今日の夜空いてる?』というものだった。続いて『久しぶりにこっち帰ってきてるんだけど、飲みに行かない?』というメッセージが届く。
どうしようかなぁ、なんて躊躇ってしまう自分がいる。本当は行きたいのに、行ってもまたしんどい思いをするだけなんじゃないかと日和っているのだ。
ため息をついて、マグカップを片手に奈音とのトーク画面をじっと見つめていると突然電話がかかってきた。
「えっ、もしもし? 」
『もしもし、久しぶり!』
懐かしい、奈音の声を聞いて泣きそうになってしまう。そんな気持ちを抑えて「久しぶり。どうかした?」といつも通りの声を出す。『柚凪が珍しく返信してこないから、電話で聞こうかと思って』
「コーヒー飲んでたから、ゆっくり返信しようと思ってた」と言うと、奈音はくすっと笑う。
『今日、結局行ける? 忙しい?』
「行けるよ、どこ行けば良い?」
『リンク送るね!』
そんな時、電話の奥で「奈音ー? 今日俺の方が遅くなるかもだから迎え行けないけどいいの?」と聞こえてきた。奈音はそれに対して「平気ー!」と返す。
相変わらずの仲の良さだ。良いことのはずなのに、素直に喜べない自分が嫌になる。
『ここ! 夜七時頃に来れる?』
奈音が送ってきたリンクには、俺が今住んでいる場所から大体三十分くらいの場所にある居酒屋の位置情報があった。六時に家を出れば余裕で待ち合わせ時刻には着く。
「うん、行ける……けど、奈音は今夜どこに帰るの?」
よくよく考えてみれば、こっちに奈音達の家はない。一体どうするのだろうと気になった。
『お父さんの家だよ!』
「え、それ旦那気まずくないの?」
奥さんのお父さんの家に泊まるなんて、気まずいのではないかと心配したのも束の間の事。奈音は、うちとお父さんと湊の三人で泊まるわけないじゃん!とケラケラ笑う。
「じゃあどうするの?」
『お父さん今旅行してるし、こっちに戻ってくるなら自由に使ってくれて良いよーって言われたよ』
「そういうことかぁ」
俺が納得すると、奈音は『そう! じゃあまた夜ね!』と電話を切った。
帰り支度を済ませて、保健室の施錠をして駐車場に向かう。車のエンジンをかけて、いつもと同じ道を進む。
三十分ほど車を乗り進めていると、見慣れたマンションが目に入る。
家に着くと、まだ待ち合わせ時間まで数時間あると気付いたから、少し仮眠を取ることにした。
「あ、来た来た」
仮眠を取って、入浴を済ませて早めに来たはずなのに、奈音の方が先に待っていたようだ。店の前に立っている奈音の姿を見てびっくりした。まだ十分前なのに、奈音は一体何時に来たんだろうか。
「久しぶり」
「久しぶり! 髪伸びたね」
そういう奈音は、腰くらいまで伸びていた髪を肩につくかつかないかぐらいの高さまで切っていた。
「そっちは短くなったね」と指摘してみると「バッサリ切ったから、大分軽くなったよ」と笑った。屈託なく笑う奈音を見てほっとする。やっと、報われたのかなぁと。
「お店入ろ!」
奈音に続いて店に入ると、店員が「いらっしゃせー、何名様ですか!」と元気に挨拶してくる。俺が指を二本立てると「二名様ですね、ご案内します」と笑顔で対応してくれる。
カウンター席ではなく、個室だったから安心した。居酒屋でカウンターに座っていると酔っている人に話しかけられる事はよくあることだからだ。
久々に奈音と話せるのだから、そんな悲劇は避けたい。
初めに俺はジンジャーエール、奈音は梅酒を。他にも夜ご飯として卵スープや唐揚げなどを頼む。
「それでね、先月休みが取れたから湊と、遊びに行ってきたんだけど……」
奈音は嬉しそうに話す。ごくりとジンジャーエールを、出てきそうになってしまったため息と共に喉に流し込むと共にやっとした気持ちが溢れ出てきてしまう。
会えて嬉しいのに、もやもやして……奈音に申し訳ない。
気持ちをリセットする為に、俺はジンジャーエールを一気に飲み干した。
そこからの時間はあっという間だった。気付けば深夜で、店の外に出ていた。外の寒さで意識がはっきりする。
顔が紅潮していて、ケラケラと笑っている奈音を見て、俺はぽかんとしてしまう。
「奈音、だいぶ酔ってるくない……?」
「えぇ、酔ってないもん」
「家送ってくから、どこか教えて」
「え、家送ってってくれるの!」
嬉しそうに、奈音は言う。奈音に乗ってもらって奈音にお父さんの家の住所をナビアプリにいれてもらって、頭がふわふわの奈音とお父さんの家へと向かう。
お父さんの家は、居酒屋からそんなに遠い場所にはなかった。五、六分程度で目的地には着くことができた。
スヤスヤ眠っている奈音を両手で抱えて、ちょっと行儀が悪いかなぁと思いつつも足でインターホンを押す。
ピーンポーンと鳴って、すぐに勢いよく奈音の旦那が出てきた。
「え、あ。お義姉さん……わざわざ奈音の事送ってくださってありがとうございます」
「ううん、全然」
「あ、後は任せてください」
奈音を受け取ってもらって、言われたことは「お義姉さん、落ち着きましたね」だった。
こいつにもそんな事を言われるほど、俺は落ち着いているように見えるんだろうか。でも、そうであってくれてありがたい気もする。俺の余裕がない姿なんて、見せられないほど気持ち悪いだろうから。
「じゃあ、奈音の事頼むね」
「任せて下さいよ」
自然な笑顔が作れているだろうか、歪んでしまっていないだろうか。気張れ、気張らないと。
じゃあ帰るね、と俺が車に向かうと、気をつけて!と湊は言う。憎らしいほど、良い奴だな。湊が奈音の旦那で、奈音の事を大切に思っていてくれてありがたい。
運転席に座ると、ようやく気が抜けたのか頬には、一筋の涙が伝っていた。