[プロローグ]
「もう……無理……」
 ひんやりと冷め切った屋上の手すりに手を掛けた手が一気に冷える。ぶわっと濡れた頬を冷やすような寒風が吹き、スカートがなびく。
 芯から冷えてしまったこの身体は、きっとこれから先二度と温まる事は無いんだと思うと少し切なくなった。
 一人になると涙腺が崩壊してしまう程に、この生きづらい世界から消えてしまいたいと思うようになってしまったうちにはもう一つの選択肢しか残されていない。
 誰にも相談せずに、一人で抱えこんだ末路がこれだ。自分でも馬鹿みたいだと笑ってしまう。
 だけど、相談した所で何も変わらないし、話す意味なんて無い。それに、唯一うちが心を許せる相手……たった一人の親友には心配をかけたくない。その思いは何一つ変わっていない。
 ここまで隠し通せてきたからもう心配する事は無い。
 ただ今はひたすらに苦しくて、辛いだけで生きる意味も捨ててしまった。
 だけど、どうせもうすぐ全て終わる。本当にこの世を去るのだと思うと少し切なくて、でも理不尽な世の中から解放されることへの嬉しさもあって。うちの気持ちは複雑だった。
 いざ、実際ここに立って見ると段々怖気付いてくる。早く、早くと思っていても、あと少しの勇気が出ない。
 仕方ないから、立ったまま柵に寄りかかって、スマホの画面を眺める事で時間を潰す。親友と二人で撮った壁紙の中のうちは驚く程笑顔で、幸せそうだった。
 うちの親友は、男勝りで、気が強い。それでいて不器用で、腑抜けた馬鹿。
 だけど、誰よりもうちの気持ちを理解してくれる優しい人だ。そんな優しい人の顔が歪む瞬間を見たくない。
 この時はまだ楽しかったなぁ。家族の事は忘れて、二人で毎日のように遊んでたっけ。お母さんも今より優しくて、お互いの家を行き来したりして。大人になっても馬鹿みたいなことで笑い合っていたいね、なんて約束も交わした。だけどその約束は守れそうに無い。
 もう彼女とは一緒に居られないんだ。笑い合う事は出来ないんだ。段々その実感が湧いてきて息が苦しくなる。自分で決めたことなのに、迷いなんて無いはずなのに。たった一人の存在が、うちをまだ生かそうとしている。
 この世に、繋ぎ止められている。
 その程度で揺らぐ自分の薄っぺらい決意に嫌気が刺す。
 マンションの屋上のドアが微かな音を立てた時、丁度日付が変わった。
 こんな夜中に誰が屋上に来たんだろう。警備員とか知り合いだったら困るなぁ、なんて思いつつも気になってしまって振り向いた。
 息を呑む。時が止まったかのような不思議な感覚。
 深夜に相応しい沈黙がその場に流れる。うちは屋上に来たのが予想外な相手で硬直してしまっていた。
 どうして?何でこの人がこんな所に……?
 その思いをポロリと口に出してしまう。
「なんで……?」
「偶然だね」
 この決断は誰にも話してない。それなのにどうしてここだって分かったんだろう。
 偶然なんかじゃ無い事はわかっていた。こんな夜中に、違うマンションの屋上に来るだなんて絶対有り得ないから。公園とかならまだ偶然と言われても納得できた。でもここは高層マンションの最上階だ。
 だからここに親友が居るのはうちの考えてる事、これからどうしようとしてるかを理解しているという事だ。
 止められたらどうしよう、怒られたら、軽蔑されたら……。ドクドクと脈が速くなって、手が震え出す。
 そんなうちとは対照的に「冬の夜空って綺麗だよね」なんて呑気に呟いている彼女に震えているのを察されたくなくて必死に声を絞り出す。
「こんな夜中にどうしたの?」
「うーん、何で言えば良いんだろう」
 考え込んで返ってきたのは「親友の勘かな」なんて気楽な返答といつもと同じ笑い方だった。目を細めて、ニッと笑う。優しさと少し巫山戯て居るような雰囲気を持ち合わせたその笑い方が大好きだった。
「そうなんだ……」
「それで? 逆に何でここに居るの?」
「……」
 自分から聞いたんだから、聞き返されるのは当たり前か。だけど何も答えられない。正直に話すのが怖い。
「まぁ、察しはついてたから俺はここに来たんだけどね」
 そうだったんだ。初めから何となくそうなのかとは考えていたけど、うちはそれをどうしても認める事が出来なかった。
 改めてそう言われると少しだけ心が痛い。矢っ張り止められるのだろうか、そんな事するなって。
「そっか」
 もうずっと沈黙ばっかりだ。いつもはこんな事無いのに。ずっと下らないような事でも二人で笑えるのに。 うちは目を合わせるのが怖くて、俯いた。
 しゅんと鼻を啜る音が聞こえて、少し心の痛みが増す。いつもどんな時だって笑顔を崩さない癖にこういう時は涙脆い。
 人の事で泣ける優しい君はうちには釣り合わない。
「もう限界なんだね」
 ガバッと頭を上げる。月明かりに照らされた頬から涙が滴り落ちるのが見えた。
 あぁ、泣かせてしまった。大切な人を、傷つけたく無かった人を。全部全部うちの所為だ。ずっと幸せそうに笑っていて欲しかったのに。
「ごめん」
 口にするのは簡単で、でもだからと言って相手にその誠意が伝わるとは限らない。本当ならここで何度だって謝りたい。だけど、謝罪はし過ぎるとそれは軽くなる。それは十分理解していた。
 だから、出来る限り真剣に謝った。
「……一人で死ぬとか絶対なしだから」
 ここまでくると優しすぎるお人好しだな、なんて笑ってしまう。
 何日か前にうちはつい、うっかりして死にたいと溢してしまった。そんな時『死ぬなら一緒に死のう』と唯一そう笑ってくれた。
 そんな根っからの良い子だからこそ家族にも友達にも恋人にも大切にされている。うちとは全く違う世界だと思った。それに、死ぬ理由なんて無いように見えたからうちはそれを本気とは捉えずにその場のノリで言ったものだと勘違いしていた。
 でも、今この表情は嘘をついているようには見えなかった。眉を顰めて、うちが一人で死ぬのを不快に思っている事がそのまま顔に出ていた。
 素直過ぎて、ついふっと吹き出してしまう。うちに釣られてむすっとした顔は笑顔へと変わる。誰もが寝静まった深夜に他に誰も居ない屋上で二人で笑い合う。こういう最期も悪くは無いかもしれない。
「本当に、後悔しない?」
「しない」
 もう覚悟が出来た。ハッキリと言える程の覚悟が。
 うちは無言で柵を超えた。すると何も言わずに彼女はそれについてきてくれた。
「最後にさ、一つだけ聞いて」
「何?」
「俺、ずっと好きだった」
 改めて言われると少し恥ずかしいようなむず痒いような気持ちになる。ストレートに言われたからか、珍しく素直に「うちも大好きだよ」なんて柄でも無いような事を言ってしまった。
「じゃあ……来世でまた会えたらね」
 来世は……もう、苦しい思いはしたく無い。愛される人になりたい。「せーの」の掛け声と同時に宙に飛んだ。落ちていくまでの時間はとても長く感じた。
 ドンという衝撃が走り、生暖かいような冷えていくような不思議な体感に包まれた。
 痛みは無くて、気付けばうちの視界は真っ暗になっていた。