[プロローグ]
「もう……無理……」
ひんやりと冷め切った屋上の手すりに手を掛けた手が一気に冷える。ぶわっと濡れた頬を冷やすような寒風が吹き、スカートがなびく。
芯から冷えてしまったこの身体は、きっとこれから先二度と温まる事は無いんだと思うと少し切なくなった。
一人になると涙腺が崩壊してしまう程に、この生きづらい世界から消えてしまいたいと思うようになってしまったうちにはもう一つの選択肢しか残されていない。
誰にも相談せずに、一人で抱えこんだ末路がこれだ。自分でも馬鹿みたいだと笑ってしまう。
だけど、相談した所で何も変わらないし、話す意味なんて無い。それに、唯一うちが心を許せる相手……たった一人の親友には心配をかけたくない。その思いは何一つ変わっていない。
ここまで隠し通せてきたからもう心配する事は無い。
ただ今はひたすらに苦しくて、辛いだけで生きる意味も捨ててしまった。
だけど、どうせもうすぐ全て終わる。本当にこの世を去るのだと思うと少し切なくて、でも理不尽な世の中から解放されることへの嬉しさもあって。うちの気持ちは複雑だった。
いざ、実際ここに立って見ると段々怖気付いてくる。早く、早くと思っていても、あと少しの勇気が出ない。
仕方ないから、立ったまま柵に寄りかかって、スマホの画面を眺める事で時間を潰す。親友と二人で撮った壁紙の中のうちは驚く程笑顔で、幸せそうだった。
うちの親友は、男勝りで、気が強い。それでいて不器用で、腑抜けた馬鹿。
だけど、誰よりもうちの気持ちを理解してくれる優しい人だ。そんな優しい人の顔が歪む瞬間を見たくない。
この時はまだ楽しかったなぁ。家族の事は忘れて、二人で毎日のように遊んでたっけ。お母さんも今より優しくて、お互いの家を行き来したりして。大人になっても馬鹿みたいなことで笑い合っていたいね、なんて約束も交わした。だけどその約束は守れそうに無い。
もう彼女とは一緒に居られないんだ。笑い合う事は出来ないんだ。段々その実感が湧いてきて息が苦しくなる。自分で決めたことなのに、迷いなんて無いはずなのに。たった一人の存在が、うちをまだ生かそうとしている。
この世に、繋ぎ止められている。
その程度で揺らぐ自分の薄っぺらい決意に嫌気が刺す。
マンションの屋上のドアが微かな音を立てた時、丁度日付が変わった。
こんな夜中に誰が屋上に来たんだろう。警備員とか知り合いだったら困るなぁ、なんて思いつつも気になってしまって振り向いた。
息を呑む。時が止まったかのような不思議な感覚。
深夜に相応しい沈黙がその場に流れる。うちは屋上に来たのが予想外な相手で硬直してしまっていた。
どうして?何でこの人がこんな所に……?
その思いをポロリと口に出してしまう。
「なんで……?」
「偶然だね」
この決断は誰にも話してない。それなのにどうしてここだって分かったんだろう。
偶然なんかじゃ無い事はわかっていた。こんな夜中に、違うマンションの屋上に来るだなんて絶対有り得ないから。公園とかならまだ偶然と言われても納得できた。でもここは高層マンションの最上階だ。
だからここに親友が居るのはうちの考えてる事、これからどうしようとしてるかを理解しているという事だ。
止められたらどうしよう、怒られたら、軽蔑されたら……。ドクドクと脈が速くなって、手が震え出す。
そんなうちとは対照的に「冬の夜空って綺麗だよね」なんて呑気に呟いている彼女に震えているのを察されたくなくて必死に声を絞り出す。
「こんな夜中にどうしたの?」
「うーん、何で言えば良いんだろう」
考え込んで返ってきたのは「親友の勘かな」なんて気楽な返答といつもと同じ笑い方だった。目を細めて、ニッと笑う。優しさと少し巫山戯て居るような雰囲気を持ち合わせたその笑い方が大好きだった。
「そうなんだ……」
「それで? 逆に何でここに居るの?」
「……」
自分から聞いたんだから、聞き返されるのは当たり前か。だけど何も答えられない。正直に話すのが怖い。
「まぁ、察しはついてたから俺はここに来たんだけどね」
そうだったんだ。初めから何となくそうなのかとは考えていたけど、うちはそれをどうしても認める事が出来なかった。
改めてそう言われると少しだけ心が痛い。矢っ張り止められるのだろうか、そんな事するなって。
「そっか」
もうずっと沈黙ばっかりだ。いつもはこんな事無いのに。ずっと下らないような事でも二人で笑えるのに。 うちは目を合わせるのが怖くて、俯いた。
しゅんと鼻を啜る音が聞こえて、少し心の痛みが増す。いつもどんな時だって笑顔を崩さない癖にこういう時は涙脆い。
人の事で泣ける優しい君はうちには釣り合わない。
「もう限界なんだね」
ガバッと頭を上げる。月明かりに照らされた頬から涙が滴り落ちるのが見えた。
あぁ、泣かせてしまった。大切な人を、傷つけたく無かった人を。全部全部うちの所為だ。ずっと幸せそうに笑っていて欲しかったのに。
「ごめん」
口にするのは簡単で、でもだからと言って相手にその誠意が伝わるとは限らない。本当ならここで何度だって謝りたい。だけど、謝罪はし過ぎるとそれは軽くなる。それは十分理解していた。
だから、出来る限り真剣に謝った。
「……一人で死ぬとか絶対なしだから」
ここまでくると優しすぎるお人好しだな、なんて笑ってしまう。
何日か前にうちはつい、うっかりして死にたいと溢してしまった。そんな時『死ぬなら一緒に死のう』と唯一そう笑ってくれた。
そんな根っからの良い子だからこそ家族にも友達にも恋人にも大切にされている。うちとは全く違う世界だと思った。それに、死ぬ理由なんて無いように見えたからうちはそれを本気とは捉えずにその場のノリで言ったものだと勘違いしていた。
でも、今この表情は嘘をついているようには見えなかった。眉を顰めて、うちが一人で死ぬのを不快に思っている事がそのまま顔に出ていた。
素直過ぎて、ついふっと吹き出してしまう。うちに釣られてむすっとした顔は笑顔へと変わる。誰もが寝静まった深夜に他に誰も居ない屋上で二人で笑い合う。こういう最期も悪くは無いかもしれない。
「本当に、後悔しない?」
「しない」
もう覚悟が出来た。ハッキリと言える程の覚悟が。
うちは無言で柵を超えた。すると何も言わずに彼女はそれについてきてくれた。
「最後にさ、一つだけ聞いて」
「何?」
「俺、ずっと好きだった」
改めて言われると少し恥ずかしいようなむず痒いような気持ちになる。ストレートに言われたからか、珍しく素直に「うちも大好きだよ」なんて柄でも無いような事を言ってしまった。
「じゃあ……来世でまた会えたらね」
来世は……もう、苦しい思いはしたく無い。愛される人になりたい。「せーの」の掛け声と同時に宙に飛んだ。落ちていくまでの時間はとても長く感じた。
ドンという衝撃が走り、生暖かいような冷えていくような不思議な体感に包まれた。
痛みは無くて、気付けばうちの視界は真っ暗になっていた。
[一話]
幼い頃から、繰り返し何度も見る夢があった。信じてた人達全員に裏切られ、辛くて苦しいどん底に突き落とされる。その暗い場所はどこかの部屋のような場所にも見える。
当たり前だと分かっていたけれど、そんな真っ暗な場所に手を差し伸べてくれる人なんて一人もいなくって。
それでも誰かが引っ張ってくれるかも、救ってくれるかもしれないと思いを抱いて必死に上へ上へと手を伸ばす。だからと言って誰かが手を掴んでくれることは無かった。
きっと、誰だってうちがどん底に落とされたことなんて知らないし興味もないのだ。
そして、もう十分ボロボロな状態のうちに追い打ちをかけるようにうちの記憶の中に存在する知らない誰かに冷めた表情と鋭利な言葉を向けられて傷つけられる。心をズタズタに引き裂かれてしまう。
夢だって分かってるのに、何度も聞いた言葉なのに。なのに、どうしてこんなに苦しいの……?
『何で普通にできないの!』
普通って、何……?どうすれば普通になれるの?
『何で何もできないの? 何度も教えたのに何で覚えてないの?』
うちだって何も出来ない自分が嫌だよ。頑張ってるのに、何度も何度も繰り返してノートに書き綴って覚えようとしてるのに何一つ覚えられないの。それがそんなにもいけない事なの?怒鳴られるほど怒られないといけないほどの悪いことなの?
『泣いてたって何も出来ないだろ。』
そんな事、うちが一番分かってるのに。泣きたくなんて無いし、泣いたってどうにもならないなんて分かってる。分かってるからこそ、グサグサ心に刺さってくる。
だけど、実際にその声に反論する勇気なんてうちには無い。心の中で靄を抱えてずっと泣きながら謝る事だけしかできない。
目の前がぐるぐる回って、息の仕方を忘れてしまうような感覚にはもう慣れてしまった。慣れてしまったとしても息苦しさは止まらない。止まらないだけでは収まらない位どんどん悪くなっている。
嫌だよ……誰か、助けて……!
「……お、奈音!」
名前を呼ばれて目が覚めた。瞼を開くとぼんやりと双子の姉が見えた。妙に重たい自分の身体を起こす。
心音がバクバクと今にも破裂しそうな音を立てている事に気付いた。
「ゆず、な……?」
「奈音ってばまた魘されてたよ?」
柚凪が心配そうな顔で、うちの顔をじっと見詰めている。どうしたのかとぼーっと見詰め返していると、突然強く抱き締められた。急に抱擁されたのにびっくりして、びくっと体が跳ねてしまった。
優しく撫でられていると、徐々に不安に覆われてボロボロになった心が安心で満たされていく。
「ゆ……柚凪ぁ……」
安心感で満たされて、ずっと我慢していた涙が止めどなく溢れ出す。
「大丈夫だよ、俺は奈音のこと大好きだから。絶対に見捨てたり傷つけたりしないから」
柚凪と居ると否定されてきた人生を全肯定されているような、救われていくような気持ちになる。
うちと柚凪には、堂々と胸を張って言える仲の良さと信頼関係がある。お互い唯一無二の欠けてはならない存在なのだ。
こんなにもうちに沢山愛情を注いでくれたのはお父さんでもお母さんでもなく柚凪だと思う。
暫く柚凪に縋って泣いて、ようやく落ち着いてきた。呼吸が整うと心拍数も正常に戻り、普通に呼吸も出来るようになった。
「落ち着いた?」
「うん、だいぶ落ち着いた」
「じゃあ朝食出来てるから、下行こ!」
柚凪はうちにニコッと笑いかけて、うちの手を引く。
もしもこの人と双子にならなかったら、うちはもう人生全てを諦めてたな。
優しくて元気。それでいて成績優秀。うちはそんな姉を誇りに思っている。
一階に降りると直ぐに、柚凪はキッチンの方へ走っていった。
「お味噌汁温めてくるね」
「うん」
リビングのテーブルの上には、卵焼きと昨日の夕飯の残り、おむすびが並んでいる。柚凪は早起きが苦手だった癖に、うちの為に毎日欠かさずご飯を作ってくれる。
気遣いの塊だなぁ、と他人事のように感心する。
ふと、今日英単語と社会の小テストがあったことを思い出した。
「あっ、そういえば今日英単語の小テストだったよね」
「えっ⁉︎ 全然勉強してない!」
柚凪が小テストの勉強してないなんて珍しい。いつもは完璧にこなしてるのに、驚きが隠せない。
この様子では社会も忘れているのではと恐る恐る聞いてみた。
「もしかしてだけど……社会も?」
「え、社会もあったの⁉︎」
「うん、前回の小テストが範囲」
「待って、それ捨てたかも」
「えぇ……?」
「……あぁ、もう無理だぁ……」
うちはおむすびを頬張りながら苦笑した。
何にせよ、柚凪は勉強しないでも再テストにはならないから良いんだよ。うちは勉強してようやく再テストを免れるくらいなのに。
暗い気持ちが出てきて、心がもやもやしてきた。これ以上この事を考えてたらまたしんどくなりそうだからもう考えるのは辞めよう。
「はい、お味噌汁温まったよ!」
柚凪から、うちは温かいお椀を受け取った。
「ありがと!」
教室のドアを開ける。うちと柚凪が所属しているこのクラスはいつも朝だろうが昼だろうが関係なく常に騒がしい。騒がしすぎるのは嫌いだけど、物音一つ聞こえない静かさよりかはこのくらいの方が安心できる。
「おはよ、三浦。小テスト勉強した?」
「してない」
「したよ?」
クラスメイトの花城に話しかけられて、うちと柚凪は同時に答えた。花城は他の人には優しいのに、ゆずには喧嘩を売っていくスタイルの謎な男だ。でも偶に不安になるくらい無表情で目が死んでいる。
「なーは相変わらず偉いなぁ、それに比べてゆずは馬鹿」
「ふっ、くっ……」
なー、というのはうちの。ゆず、というのは柚凪の愛称。名字だけで呼ばれると区別がつかずにうちも柚凪も反応してしまって手間がかかるから学校では愛称で定着している。クラスメイトも友達も皆この呼び方をしている。
そう柚凪を煽る花城の隣ではクラスのお調子者の如月が笑いを必死に堪えている。
「は? 忘れてただけですけど?」
柚凪は笑顔だった。びっくりするような満面の笑み。目は全く笑ってないけど。一見穏やかそうに見える柚凪でも、地雷を踏まれると即爆発する。柚凪は沸点が低くて、本当に些細な事で激怒する。
穏やかなのは黙っていれば、というやつだ。
「再テストになれば良いねぇ」
「本当最低」
特に花城と如月とはよくバチバチ争っている柚凪の姿を見る。それは普通に花城達が煽るのが悪いと思う。まぁ喧嘩を買う柚凪も柚凪か。
「なー! おはよう!」
苦笑して柚凪のことを見ていると、いつの間にか友達の蘭菜と水雫が隣に立っていた。
「蘭菜、水雫! おはよ!」
「またゆず達喧嘩してるねぇ」
「ね〜……そういえば今日、蘭菜も水雫も珍しく遅かったね」
「そうそう、家出るの遅くなっちゃって」
三人で穏やかな会話を繰り広げていると、柚凪が蘭菜達が来たことに気づいたのか、ぱっと顔を輝かせて戻ってきた。柚凪は仲の良い女の子には本当に甘い。柚凪がうちに甘すぎて反射的にはたいてしまう事も多々ある。
柚凪には『シスコン』という言葉が相応しい。
「蘭菜、水雫! おはよっ!」
さっき花城と如月にキレてた表情とは別人かと思うくらい満足気でご機嫌な柚凪を見て如月が呆れたように呟く。
「ゆず、女好き過ぎじゃん?」
柚凪は何も言わずに蘭菜に抱きついた。如月の嫌味が聞こえなかったのかと思ったら、蘭菜にそ抱きついたまま振り向いて如月を睨みつけていた。
「もう朝から疲れたよ、また煽られてさぁ」
「喧嘩買わなかったらいいのに」
水雫は真っ当な突っ込みをいれる。その通りだとは思う。煽られても喧嘩買わなかったら疲れることも無い。平和に終わる事が出来る。
「いやなんか、腹立って……」
「たまには我慢しなって!」
「うぅ……」
うちが柚凪に注意をすると、柚凪は少し凹み、反省して一時間は大人しくなる。けど一時間も過ぎれば注意された事を忘れて元に戻る。良く言えばタフで、悪く言えば単純。
さっき、相手は花城だけど……久しぶりに偉いなんて褒められて少しだけ嬉しいと思ってしまった。
「席つけ、ホームルーム始めるぞー」
担任が教室に入ってきて、声を張り上げる。ざわついていた教室は少しづつ静かになって皆自分の席に帰っていく。
「おし、じゃあ今日の連絡事項はー」
手元のプリントに書いてある連絡事項を担任は淡々と読んでいく。うちはいつもこの時間はいつもぼーっとしてしまう。
連絡事項なんてほぼ大事なことは無い。あったとしても蘭菜に聞けば良い。うちは優等生で真面目な委員長の蘭菜に頼ってしまう悪い癖がある。
水雫は優しいし、蘭菜は全て完璧で、花城と如月の絡みは面白いし、柚凪はうちの事を守ってくれる。家庭だって普通の穏やかな幸せな家庭だし、学校の治安も悪くなんてない。友人関係に困ってるわけでも、恋愛関係でも困ってなんかいない。
うちは恵まれている。こんなにも恵まれてるのに、幸せなのに。特にこれと言った悩みがあるわけでもない。
それなのにどうしてこんなに苦しいんだろう……。
[二話]
昨日行った小テストは成績に入る、と小テスト前日に先生が言っていた。それを知っていたから、いつもより時間をかけて勉強したのに残念ながら全く自信がない。
解答欄は一応全て埋めたけど、思い出そうとしても頭から出てこない問題が大半。勉強中に間違えた所ばかり出ていた。完璧に覚える事ができたなんて勘違いにも程がある。
この小テストで高得点を取れなかったらまた両親に怒られてしまうのはわかっていた。
まだ、成績に含まれない小テストではそこまでキツく言われない。次は頑張りなさいよ、程度の注意で終わる。
でも今回は成績に含まれる小テストだから良い点数を取らないと怒られるのは確定している。
両親は、きっと多くの親と同じように世間体を気にするタイプで、「品行方正に過ごしてれば将来後悔しないのよ」なんて言ってくる。
うちの為なのだと、良い親を装って言っているけれど、どうせ自分達の世間体を気にしているだけなんだとわかった。嫌味を言うのも、成績の事で怒るのも全て柚凪の居ない時にするから。
一度、柚凪の前で理不尽な事で怒られた事があった。お母さんの大切にしている食器が割れたんだ。でもずっとリビングでテレビを見ていたうちは落としていない。元々バランスの悪い所にあって、それが少しの振動で落ちてしまったのだと思う。でもそれが、うちの所為だと決めつけて、そのまま怒鳴りつけられた。
それを見ていた柚凪は冷静に指摘した。「それ、元々バランス悪いとこにあったよ」って。真顔で真剣に淡々と話す柚凪は説得力があった。
柚凪は強い。精神面でも物理面にも。だからこそ、立場が弱くて自分が正しいと思った方に味方するような正義感の強い柚凪の性格をお母さんだって分かっていたんだ。
その出来事以降は、柚凪が居ない所でしか怒られた事は無い。
何度も怒られてきたし、比べられてきたけれど耐性がついたり笑って流せるようにはならかった。正直怒られることが怖くてたまらない。
その代わりに怒られそうな雰囲気を察して、怒られるより前に謝る癖がついてしまった。
うちは弱すぎる、いつも柚凪に守られてばっかりで馬鹿みたいだ。
突然、先生に名前を呼ばれた。いつもより声が大きかったから、何度か呼ばれていたんだろうけど考え事をしていたうちは全然気付いてなかった。
「三浦奈音ー、取りに来いー」
「あっ、はい!」
もう小テストの返却の順番はうちまで回って来ていたらしい。うちは前まで慌てて取りに行った。
「三浦、姉を見習ってもう少し勉強した方が良いぞ?」
そう冗談交じりに苦笑しながら渡された二つの小テストの点数は五十点と六十点。お世辞にも良い点数だとは言えない。
「……すみません」
うちは小さく謝って自分の席に戻った。 椅子に座って、気を抜くと想像していたよりも二倍くらい大きめのため息が漏れてしまった。
「ゆず、何点だった?」
「俺はね〜両方九十点台! 花城は?」
「うげ、やば……俺八十点だった」
柚凪も花城も小テストが返されたらしい。「お前、勉強してないんだよな……?」と花城が疑っている。ヤバいと言っている花城も柚凪より低いとはいえ、十分高い点数。平均点よりは上だろう。
勉強をしなくても点数を取れる柚凪も、勉強をして結果が出る花城も羨ましい。
「俺に再テストになれば良いね、とか煽ってたの誰かな〜?」
「え、知らない。誰だろ」
「……うわぁ」
「え、なに」
「いや何も?」
花城と柚凪がまた言い合いをしている。本当、あの二人は仲が良いのか悪いのか呆れる。
あれ、今うち、何を……?
駄目だ、気分が落ち込んでいるとつい卑屈な考え方になってしまう。そんな卑屈な自分がどんどん嫌いになって、自己嫌悪で覆われていって。
もう怒られることも認められることも、愛されることも全て諦めて堕落していく。
そんな虚しい未来が容易に想像できてしまう。
「あ、職員室に宿題忘れたから取ってこないと……」
先生が呟くと、クラス中がブーイングで包まれた。宿題なんて禍々しい物は欲しくないと思っているのが直ぐ分かる反応だ。かく言ううちも、宿題なんて必要ないと思っている派だけど。
「結構量あるから、三浦柚凪。手伝ってくれ!」
「はーい」
柚凪は優等生で愛嬌もある、先生が信頼を置いているお気に入りの生徒の一人だ。
だから名指しで手伝いを頼まれる事は少なくない。手伝いを頼まれるのは多少面倒ではあるだろうけど、大人に気に入られたことのない身からすると面倒事だとしても憧れる。
先生と柚凪が出ていくと教室はざわつきはじめた。先生が居ても居なくてもうるさいのには変わりないけれど、先生がいなくなればタガが外れる。
小テストの点数の見せ合いをして騒いでいたり、おしゃべりをしていたり楽しそうだなぁ……。
ぼーっとしていた所為で後ろから如月がうちの小テストを覗き込んでいたのに気付くことが出来なかった。
「……え。なー、五十点じゃん!」
如月が声を張り上げた。大声にびっくりして、びくっと体が跳ねる。後ろを振り向くと如月が驚いた顔をしていた。クラス中に響き渡るような大声で、良くもない点数を大声で晒し上げられた事でうちはどうしようもなく焦っていた。
「なん……で……?」
うちの微かな声に気付かなかったのか、もしくは実際そこまでうちが傷ついていないのだと軽く思っているのかは分からないけれど如月はうちの点数を晒し上げるだけでは留まらなかった。
「本当はちゃんと勉強なんてしてないだけだろ〜」
「え、ちゃんと勉強して五十点? 低くね?」
花城はいつもの様に真顔で首を傾げて、如月はゲラゲラ笑う。
いつも通りの笑い声、いつも通りの表情のはずなのに……怖い。視線が痛い。嘲笑われてぎりっと胸が痛む。
勉強してないから悪い点数なんじゃないのに。うちは夜中までいつもの倍の時間で勉強してた結果がこの点数なのに。勉強をしたら確実に良い点数を取れる人にはわからないんだ。
この人達には頑張っても結果が取れない人の気持ちなんて、うちの気持ちなんて分かろうともしていない。
「勉強してないゆずの方が取れてんじゃん」
「……っ」
そこまで言われた事で実感した。あぁ、もう無理だ今、ここに居たくない。ただただ怖い。なにか言ってもまた自分が傷つくんじゃないかと思うと行動できない。
その場のノリなのかも知れない。きっとそうなんだ。
でも、柚凪のように即座に言い返すことも、いつもみたいに「辞めてよ〜」なんて笑い流すことも出来ない。
視界が歪んできた。もう嫌だ、絶対泣きそうな醜い顔になってる。こんな顔誰にも見せたくない。
今は誰とも話したくないし、何も耳に入れたくない。うちは耳を塞いで机に突っ伏した。その瞬間涙が溢れた。それでも完全に周りの音は消せなくて、音声は耳に入ってくる。
「如月、なーちゃん突っ伏しちゃったじゃん〜」
「俺そんな傷つけるようなこと言った?」
「謝りなよ〜」
「めんどくせ」
別に、如月にも花城にも謝られるなんて事は望んで無い。うちがどれだけ頑張ったって結果はついてこなくて。努力してないから出来てないと思われたのはうちが悪い。
如月と花城はただ思ったことを口に出した、それだけ。そんな事ぐらいで傷ついて泣き出すうちが弱い。
そう、うちは……『出来損ない』だから。
もっと、素直で才色兼備な人に生まれたかった。柚凪と並んでいても見劣りしないような。そんな人であれば堂々と柚凪の隣にいられたのに。
「……あれ、奈音?」
柚凪が帰ってきたのか、驚いたような声をしている。
でも柚凪のことを無視してるみたいになって申し訳無いけれど鼻声になってたらと思うと声は出せない。泣いたことを隠さないといけないから。
「……は?」
少し間があいて、びっくりするような低い声が耳に入ってきた。柚凪の声だとわかっているのに。
なのに、一瞬柚凪ではないのかと思うくらいの低さがあった。
あの時と同じ声だ。
「ちょっ、ゆず落ち着いて!」
「落ち着けるわけ無いじゃん……教えてくれてありがと」
何が起こってるのか、どういう状況なのかは音だけでは判断できない。
「ねぇ如月、花城。それなりの覚悟があるって事でいいんだよね?」
「は⁉︎ え、何?」
それを聞いて、うちはようやく状況を掴めた。うちが突っ伏した原因を誰かに聞いたんだ。ただでさえ、嫌いあってる如月と花城がうちを泣かせた原因と知った柚凪はどうしようもないほど怒ってしまったんだ。
如月の声はどこか焦っているのが見ていなくても伝わる。うちは見た事がないけれど、凄い形相なのだろう。
いつもはっちゃけている如月が焦るなんて相当だ。
どうしよう。柚凪をまた、キレさせてしまった。
うちの所為だ……うちが泣いた事で、柚凪の怒りに火をつけてしまった。
柚凪は基本的に短気ではあるけど、本気で怒る事は滅多にない。うちが柚凪が本気で怒ったところを見たのは今まででたったの一度だけ。それも詳しくは知らないけれど。
小学生の頃、うちの態度や言動全てが気に入らないなんてくだらない理由で年上の集団グループにいじめられていた時。柚凪はそのリーダー格の先輩を呼び出して、真顔で先輩の手を掴んで耳元に引き寄せてそのまま何かを囁いた。
すると先輩は恐ろしいものを見るような顔で柚凪を見詰めて、へたり込んでしまった。
その後、先輩はガタガタ震えて泣きながら謝って来てそれ以降いじめられることもなかった。そんな過去があったからこそ、うちは不安になってしまう。
柚凪が動いたお陰でうちの環境は良くなったけれど、柚凪は周りから距離を置かれてヒソヒソと陰口を言われたり、ある事ない事流されて過ごしにくくなってしまっていたのを覚えている。
もしここで、あの時みたいに柚凪が行動してしまえば中学生活は地獄へと化する。そんな事は耐えられない。だけど、こんな顔を晒すのは嫌だ……。
でも、本気で怒った柚凪を皆見た事がなくて、びっくりしていたり怖くて動けなかったりでうちしかこの状況で柚凪を止められる人は居ないんだ。
うちはぐっと顔を上げて、窓の方を向く。こっそり目元を拭い、教室を見回す。
顔を上げたことで、ピリピリとした空気と静まり返った教室の状況を把握出来た。
先生ですらぽかんと口を開けて、何も声を出せないでいる。柚凪は如月の机の前にいた。
この状況の原因は柚凪が如月のネクタイを物凄い剣幕で掴んでいた事だった。
[三話]
次の瞬間、柚凪が手を思い切り振り上げた。うちはひゅっと息を呑む。
まずい、手をあげるのは駄目だ。暴力はうちを守る為だとはいえ、柚凪が今まで頑張って積み上げてきた信頼関係が簡単に崩れていってしまう。
「駄目! 止まって柚凪!」
どれだけ急いで走っても間に合わない。
それが分かって、うちは今まで一度も出したことが無いほどの大きい声で叫んだ。
突然の大声に皆の視線がうちに向く。今までこんなに視線を向けられた事は無くて、つい固まりそうになる。
だけど、今はそんなことに構っていられない。
「奈音……?」
柚凪もびっくりした顔でこっちを向いている。柚凪はパッと掴んでいた如月のネクタイを離した。勢い良く振り上げた手も行き場がなくなり、ゆっくりと降ろされる。
柚凪が如月に手を出さない事を確認して、柚凪の所まで走り寄る。良かった、ギリギリ未然に防げた。
「柚凪、なんであんな事したの⁉︎」
柚凪の手を掴んで、どうしてと問う。
「え……俺、奈音が如月達に傷付けられたと思って……」
許せなくって、と柚凪は唇を噛む。わかってるの、そんな事。柚凪がうちの為を思って怒ってくれたのはわかるけど、でも一方的な暴力では何も解決しない。
「授業中だしさ」
「……でもっ!」
「手上げちゃ駄目だよ、他の誰かを傷つける事でなら、うちは守られないで良い」
「……」
柚凪は何も言わずに俯いた。少しだけ言い過ぎてしまったかなと後悔する。でも、今うちが言ったのは本心だ。
どれだけ自分が傷ついたとしても、それを守る事で他の誰かが傷ついてしまうくらいならうちが傷ついていた方がいいんだ。綺麗事だと思われるかもしれないけれど、それでいい。うちが弱い所為で柚凪が手を汚す事になるのは望んでない。
沈黙を切り裂いたのは柚凪に少し怯えているような先生の声だった。
「み、三浦……?」
「「はい」」
「三浦、柚凪の方だ」
「あぁ、はい」
「お前、如月に何しようとしたんだ?」
柚凪は先生の言う事を無視した。何も言わない。何一つ表情も変えない。だけど目が暗い。きっと言う気は無いんだろう。ひたすら沈黙を突き通そうとしている。
「……す」
「え?」
「俺、風邪気味なんで帰ります」
「は⁉︎ おい三浦!」
びっくりして声を荒げる先生とただ怖がるクラスメイト達を置いて、柚凪は本当に荷物を持って帰って行ってしまった。柚凪は先生の前や両親の前では一人称は『私』に変えているはずなのに今は『俺』のままだった。いつもと違う柚凪の本当の怒りを表している対応をされた先生はぽかんと間抜けな顔をしていた。うちだってそうだ、柚凪は今まで風邪を引いても熱を出しても学校を休まないし、早退も一度もしたことが無い。小学生の頃から今までずっと皆勤賞だから休まないし早退もしないと言っていたのに。
教室が再びざわつきはじめる。
「え、さっきのゆず? めっちゃ怖くなかった?」
「俺、ネクタイ掴まれるほどのことしたかな……?」
「えぇ……怖すぎっ、本当はゆずちゃんって穏やかな面白キャラじゃないのかな?」
聞こえてくる声は、柚凪を怖がっている内容ばかり。だからって皆、ビクビクしているわけではない。『柚凪が本当は怒らせたら怖い問題児だった』という話題をネタにして面白おかしく怖い〜なんて、笑ってるだけだ。どうせ暫く経てば飽きて別の話題に食いつく。
だけど、だけど本当は。柚凪は不器用だから、守る事も苦手だからうちを助けようとしてくれていただけなのに、柚凪が何も無いけど如月に突っかかっていったわけでは無いのに。そこを勘違いされていることが辛い。
だけど、うちには皆の前で抗議する勇気なんてない。
柚凪には申し訳ないけれど、仕方ない。反論する事も出来ない不束な妹で申し訳なさすぎる。
昼休みになり、うちは蘭菜と水雫と屋上のベンチで昼ごはんを食べながらさっきの授業中の話をしていた。
「結局、皆勘違いしたままだったね」
「ほんとに、一つの事だけで簡単に決めつけるのは人間の良くない習性だよね」
「でもさ、柚凪はなんで帰ったんだろうね? 前小学校の時から皆勤賞なの〜って言ってたじゃん?」
「先生がしつこすぎたからじゃないの?」
「あー、でもどうなんだろうね?」
柚凪がいないだけでいつもの様に盛り上がらなくて。柚凪がいないと明るさも楽しさも減ってしまうんだと身に染みて実感した。
柚凪が居ない学校生活は、全く楽しくなくてあっという間に午後最後の授業の終了のチャイムが校内に鳴り響いた。今日は部活も休みだし、蘭菜も水雫も今日は一緒に帰る予定ではない。
号令が済むと直ぐに準備していた鞄を手に、うちは慌てて教室を飛び出した。
「あ、あのさ、なー……」
「如月! ごめん今急いでる!」
「えっ?」
このままだと何か悪い事が起きるような、悪い予感がする。悲しいことに、うちの悪い予感はよく当たるのだ。急いで柚凪の所に行かないと、なんて思いばかりが募っていく。早く、早く行かないと。手遅れになる前に……。
「ただいまっ!」
「奈音、早かったね。おかえり」
「お母さん⁉︎」
「今日は珍しく仕事が早く終わったから帰ってきたの」
「そう……なんだね。柚凪は?」
「柚凪? 一緒じゃないの?」
うちのとお母さんの、靴は二つしかない。柚凪の分の靴が足りない。早退したから家にいるんだと思っていたのに、柚凪は帰ってきていないのかもしれない。
「……まさか」
二階へ駆け上がり、柚凪の部屋の前に立った。ここまで来て、勝手に柚凪の部屋を開けることに躊躇ってしまう。けど、柚凪の部屋には何か手掛かりが残っているかもしれないと自分に言い聞かせて、思い切って柚凪の部屋のドアを開ける。予想通りそこには柚凪の姿はなく、いつもはきちんと閉められているクローゼットも開いていた。クローゼットの中にはいくつかハンガーがかけられていて、その一つのハンガーに綺麗に制服がかけられている。一度柚凪がここに戻ってきたことが分かる。
ベッド、棚、クローゼット、全て見たけれど何の変化もない。制服も、通学鞄も、教科書類も全て部屋に置いてある。想像していたより、目立つほど物が減っていない。
唯一無いとすれば、スマホといつもお気に入りの黒いパーカー、ショルダーポーチが部屋には無い。なんとなく分かった、柚凪はきっとどこかに家出したんだ。
「探さないと……」
このまま探さなければ、もう柚凪は一生帰ってこないような、もう二度と会えないようなそんな気がする。根拠なんて一つもないけど、すぐ帰ってくるかもしれないけど。だけど……もしも帰って来なかったら、そんな一つの不安に駆られてうちは階段を駆け降りた。
「奈音、どこか行くの?」
「ちょっと、行ってくる!」
「いってらっしゃい」
うちは、行くあてもなく行ったことがある場所を探すことしかできなかった。通っていた小学校、よく遊んでいた公園、夏休みに柚凪が通っていた図書館。近くのショッピングモール。どこにもなんの手がかりもない。どうしようもなくて、うちは機械的にひたすら足を動かしているだけだった。
気付くと、太陽は沈みかけて段々闇に街が覆われ始めていた。もうこんな時間になってしまっていた事に衝撃を受ける。柚凪は見つからないし、もうそろそろ夜が始まる時間帯になる。
取り敢えず帰らないと、そう思うけど放心状態で足を進めていた所為でここがどこなのかも分からない。だからと言って通り過ぎる人に話しかける勇気なんてものはない。
知らない街、知らない匂い、知らない人達。制服のまま、何も持たずに飛び出してきてしまって、暗くなるほどに寒さが増していく。どうやって帰るのかも分からないし、この状況でどう動けば良いのかも考えられない。
「うぅ……柚凪……」
「あの、スミマセン」
突然、高身長で金髪の男性に声をかけられてびっくりしてつい固まってしまう。
「はっ、はい⁉︎」
「美人さん、ですね」
道に迷ったりしているのかと思えば、想像もしてなかった返答が返ってきた。うちの口から「は?」と、冷たい言葉が吐かれる。
「何歳ですか?」
「えっ、十三……です、けど」
「おぉー」
考えている事も全く読み取ることができない謎ばかりの金髪の男性に、どう反応すれば良いのかが分からなくなって焦ってしまう。
「僕はあなたのことが好きです」
「あ、ありがとう……?」
「はい」
そもそも街中ではいつも柚凪と一緒にいるから知らない人から話しかけられることも初めてで、出会って直ぐに告白された事も初めてで。こんな人と話したことが無いから、うちはこの人への対応の仕方がわからなくてあたふたするばかりだった。
「じゃあ、うちは用事があるので失礼しま……痛っ」
うちは後退りしながらその人にペコリと頭を下げようとした。用事があるなんて嘘だけど、こうでもしないとずっと喋っていないといけなくなってしまう。だから嘘をついてでもこの人と話すことを辞めたかった。早く一人じゃない場所に帰りたかった。
でも、現実はそう簡単には行かないみたいで。その人に手を掴まれてしまう。うちは体力には少し自信がある方だけど、明らかな男女の体力差がある。
初めて、こういう人に怖いという感情に心を覆い尽くされた。
[四話]
「離してください!」
「なんでですか?」
「いや、だって……」
「さぁ、僕の家に行きましょう!」
うちの声が聞こえていないのか、行くなんて言っていないのに笑顔で「美味しいお茶を用意します」とわくわくしている。
ここまでしつこいと、面倒なのも通り越して怖さが勝ってしまう。手首を掴まれているせいで逃げる事も出来ない。助けを求めるほど大袈裟なことではないと思うし、助けを呼ぶにしても大声を出したり拒む事は出来ない。
あぁ、もうどうしようもない。抵抗するのにも気力がいるし、着いて行ってしまおうか。そう思った時、如月の声が耳に入ってきた。
「なーじゃん、なにしてんの?」
「如月……」
「あなたは誰なんですか?」
誰と聞かれても、困るだろうと思う。名前を言った所で別に誰かわかるわけでもないのに。
「えっ、俺は……そこの奴のクラスメイト?」
金髪の人はキッと、真面目に答えた如月を睨みつけた。
「クラスメイト……邪魔しないでください」
邪魔って……?
何で邪魔になるのだろう、そう思ったのは如月も同じだったようだ。
「え、何で?」
「これから彼女は僕の家に来るんです!」
うちは唖然としてしまう。
諦めかけていたのは事実でも、わざわざ好き好んで、今さっき会ったばかりの知らない人の家に行こうとは思わない。
それなのに、きっぱりと「僕の家に来る」と断言している事が恐ろしい。
丁度、良いタイミングで如月が来てくれたのは救いだと思うけれど、もしも如月にこの人と知り合いだと思われたらきっと如月は帰ってしまう。
どうせ話しかけてくれたなら助けて欲しい。
どうすれば如月に助けてもらえるのか、どうすれば良いのか、悶々と考えていても良いアイディアが浮かぶ事は無い。
うちが考え込んでいる間に、如月は金髪の人と話していたようで、如月は相槌を打っている。
もしかして、もう言いくるめられた……?
そんな事を考えていると、如月がうちに「なるほど……それでなーは?」と問いかける。いつもはうちの事をからかったり意地悪してくるのに、どうして今はこんなにも優しそうに見えるんだろう。
これは最後のチャンスかもしれない。でも、うちは何と言えばいいのか、どう助けを求めればいいのかわからなくて結局何も言えずにいた。
そんなうちに如月は「こいつの家に行きたいの?」と聞く。
「……行きたくない」
暫く間が空いたものの、ようやく答えることができた。
うちの言葉を聞いて如月は、うんうんと一人で頷くと持っていたリュックをその場に投げ捨てた。
「ちょっと! 話が違いますよ!」
金髪の人は声を荒げる。苛立っているのか、手にかけられていた力が強くなる。
如月はそれもスルーして、ニヤッと笑う。
「じゃあ、ちょっと目瞑ってな?」
急に頷いたり、リュックを投げたりしてどうしたんだろうと思いながらも言われた通りに目を瞑っていると、うちの頬あたりにヒュッと風が通る。
ボコッという何かを殴ったような音と、さっきの金髪の人の悲鳴と共に圧迫されていた手首が解放された。
「なー、目開けて良いよ」
「うん……って、え⁉︎」 うちが目を開けた時、金髪の人が後ろに倒れて目を回していた。
助けてほしいとは思っていたけどまさか、如月が殴って制圧するとは思わなかった。
「なにやってんの⁉︎」
つい、助けてもらった
「大丈夫大丈夫、正当防衛!」
へらりと笑う如月の軽さにびっくりしてしまう。
柚凪か、花城ならまだいつも言い合ったり喧嘩したりしているから殴ったとしても理解出来なくはない。
喧嘩するほど仲が良いんだなと納得はできる。
でも、如月が今殴ったのは、初対面の人。
もし如月が話しかけてくれなかったら、うちは今ここに居なかったかもしれないんだ。感謝しないといけない。
だけど正当防衛だと言っても、行き過ぎると過剰防衛になって捕まってしまう可能性だってある。
「いや、威力的には過剰防衛じゃない?」
うちの言ったことが刺さったのか、如月はうちの質問を「まぁまぁ」と受け流して話題をすり替えた。
「てかさ、なーって家ここらへんだっけ?」
「ううん、ぼーっとしてたら迷って……」
「何してんだよ、帰れるの?」
「いや、無理……」
スマホも何も持ってきていない事を説明すると、躊躇する事もなく「電話貸してあげるから俺の家で待ってれば?」と凄く軽く言う。
でも、申し訳なさすぎるから断ろうか、お言葉に甘えて待たせてもらおうか悩む。
「……あ、なーの家は勝手に人の家入っちゃダメだとかあった?」
「無いよ、無いけど……申し訳なくて」
「ここから直ぐ近くだし、母さんも居るし、俺の家は全然大丈夫だけど」
そう言われてもまだ躊躇ってしまう。そんなうちに如月は「でもまた知らない人になーが絡まれるよりかは家居てくれた方が安心かも」と後押ししてくれた。
断ろうと言う思いが大きかったけど、確かにさっきみたいにまた誰か知らない人に話しかけられたら困惑してしまう。お言葉に甘えてしまった方が安全ではあるのかもしれない。葛藤の末、うちは口を開く。
「じゃ、じゃあ……お邪魔させてください」
「ん、良いよ」
如月は「実は、ここが俺の家」と、今立っている場所のすぐ横に建っている高層マンションを指差した。
直ぐ近くとは言っていたけど、こんなに近いとは思わなかった。
如月の住んでいるマンションを見ていると、どこかで見たような気がした。でもこんな所に来るのは初めてだ。それでもこのマンションはいつかの記憶の中に残っている。初めてなのに、以前ここに来たことがあるような気がするのはデジャビュ現象とやらの所為なのかもしれない。
「このマンション、結構高いね……」
「そうなんだよ、昔ここで心中した人がいたって都市伝説もあるんだってさ」
「へぇ、そうなんだ」
突然、うちの頭に原因不明の痛みが走る。ズキっと鋭い痛み。急に頭が痛む事はよくあるけれど、今まで経験してきた中で一番痛みを伴う頭痛だった。それに今までは大体何となく、痛みの原因はわかっていたけれど今回ばかりは原因不明。
でも、頭の痛みは連続で長くは続かずに直ぐに元通りに戻った。
如月はうちの異変に気付かなかったみたいで、何の反応も表さなかった。
うちは如月と共にエレベーターに乗り込んで、そのまま如月の家の階に着くまで雑談を繰り広げる。
「あ、この階」
「最上階なんだね」
「そうそう」
如月の家はエレベーターの直ぐ横ら横で、慣れたように直ぐ自宅へと入っていった。うちはそうは行けるわけがなく、どう動けば良いのかあたふたとする。如月はうちを見て「入って」と苦笑した。
「お邪魔します……」
玄関で靴を脱いでいると、ひょこっと若い綺麗な女性が顔を覗かせていた。
「いらっしゃい、この子がなーちゃんっていう子ね?」
「うん。あ、母さん電話貸してやって?」
「えっとね、ここで電話番号打って受話器取ったらかけれるよ」
「あ、ありがとうございます!」
如月の家庭は優しくて暖かい家庭だと思った。うちの家みたいに殴られたりなんてしない幸せそうな家庭……。そう羨ましく思った時に、うちは戸惑った。どうして『うちの家みたいに殴られたりしない』なんて考えたんだろう。
うちには確かに両親どちらからも殴られた記憶はある。けれど『三浦家』で、ではない。殴られたのは夢の中の記憶だ。よく思い返してみると夢の中で殴られた場所には現実でも痣がある。
もしかして、夢と現実がリンクしてる……?
「なー? どうした険しい顔して」
「えっ、あ、いや、何でもない!」
どうしてそんなに険しい顔をしていたのか、自分でもわからなくなってくる。
「あ、あのさ……トイレ、借りても良い?」
「おう、廊下の突き当たりにあるぞ」
「ありがと」
明るい廊下を通って、トイレへと向かう。
トイレに入ると、どこに電気があるのかわからず真っ暗な暗闇に覆われた。段々と心臓を締め付けられているような気持ちになる。よく考えると、雰囲気も形状も似ている。あの苦しいどん底だ。
このままずっとトイレの中にいると、また心細くなってしまいそうで、慌ててトイレを出る。
あの夢は、実際に前世でうちが経験した出来事なのかもしれない。話に聞いた都市伝説と、屋上。如月が話していた都市伝説。見たことがあるようなマンション。今まで繰り返し見た苦しい夢。
確かめたいことがある。
うちの推測が正しいなら、あそこに居るはずだ。
「……うち、屋上行ってくる!」
うちはリビングのソファに転がっている如月にそう言う。
「はぁ⁉︎」
うちは如月の返事も聞かずに、「お邪魔しました!」と如月の家を飛び出した。
[五話]
エレベーターを降りてすぐ目の前に、ドアが一つあった。ここまで来て、段々怖気付いてきた。
でも、うちの推測があっているかを確かめる方法はドアを開けるしか無い。
一旦落ち着こうと、目を閉じて深呼吸をする。暫く時間が過ぎて、うちはようやくドアを開ける決心がついた。ドアノブを捻りながらドアを押す。ドアが開くと共にギィっと扉が軋む音が鳴る。
「ん……?」
もうほぼ真っ暗な屋上なのに誰か人がいる。なんとなくシルエットしか分からないけど、もう少し近付けば分かるかもしれない。出来るだけ自然に近付いていく。
短髪で、同じ学校の制服を着た同じくらいの背の女の子……。
「柚凪……?」
つい、ボソッと柚凪の名前を口に出してしまった。もしこれで違ったらと思うとかなり恥ずかしい。背中に冷や汗をかく。
「奈音、何でここにいるの?」
でも、心配する事はなく、柚凪本人だった。
このマンションの屋上に居たことには驚いた。まさか、探しても探しても見つからなかった柚凪がこんなところにいたなんて思わなかった。
柚凪はうちが来た事に然程、驚いていなかった。どこか落ち着いているような、悟っているような不思議な雰囲気を漂わせていた。
「柚凪……こそ、どうして?もしかして、柚凪にも経験した覚えの無い苦しい記憶があるの?」
「……無い」
「でもっ……」
「良いから無いんだってば!」
急に怒鳴られた事に強い恐怖を感じてしまって、大袈裟と思われるほどビクッとした。
柚凪はそれに気付いて「ごめん……」と目を逸らす。沈黙が走る。怖い、こんなのうちが知ってる柚凪じゃない。うちの事を、少しも見てくれない。
「ねぇ、柚凪! 何でうちを見ないの?こっち見てよ……」
「……ごめんね、奈音」
泣きながら柚凪に訴える。でも、うちが泣きながら訴えた所で何の効果も無かったんだとわかる。
柚凪はこっちを見てくれ無かったから。どうしても柚凪と目が合わない。柚凪はずっと下を向いている。どうすればこっちを見てくれるのか、必死に頭を回転させても何も良い案は出てこない。
「何で謝るの……?」
初めはまだ我慢できた。でも沈黙の時間が経つにつれて嫌われたのかもしれない、なんて気持ちが高まって泣く事を我慢できなかった。もう、柚凪はうちの事を微塵も好きじゃないんだ。ズキっと胸が痛む。うちにずっと愛情を注いでくれているのは柚凪しかいないと思ってたのに。大好きなお姉ちゃんなのに。いつもなら苦しい時に一番に駆け寄ってきてくれるのに。
今はうちがボロボロ泣いていても柚凪は黙ったままで、うちの事を見ようともしない。そこでぷつんと張り詰めていた糸が切れた音がして、身体が重くなった。
うちは引き寄せられたかのように屋上の柵へと近付く。柵を乗り越えていくうちの身体は止まらない。
「奈音……? 奈音⁉︎」
柚凪の叫び声が聞こえて、ハッと我に返る。でも、うちが正気に戻った時にはもう遅かった。うちは足を滑らせてしまっていたから。
うちは、まだ諦めたくなかった。必死に手を伸ばして、コンクリートに手をかける。ぐっとコンクリートを掴もうとした事で、指先に痛みが走る。
「痛っ……」
もう、長くは持たない。
「奈音、つかまって!」
柚凪は、うちの片手を強く掴んできた。そんなに……自分の命を危険に晒してまで必死に助けてくれるなら、どうしてさっきはうちの事を見てくれなかったの?
そんな考えが脳裏をよぎる。でもこんな時にそんな下らない事を言っても意味はない。
「……柚凪まで落ちちゃうよ」
柚凪が落ちてしまうくらいなら、うちが落ちてしまったほうがいい。柚凪が生きるためならうちは喜んで生きる事を諦める、そうだ、きっとこの手が離されればうちは楽になれる。
「だから、ね? 離して?」
うちは柚凪だけでも助けたいと必死だった。
「……よ」
「え?」
「良いから早く掴まれって言ってんの、俺が奈音見捨てられるわけ無いでしょ⁉︎」
柚凪が声を荒げる。うちはさっき止まった心臓がまた音を立てて動き出したような気がした。うちの涙腺は崩壊してしまったのか、今日何度目かの涙がまた溢れ出る。
この寒風が吹く季節の中、異様に温かい柚凪の手をうちは握る。柚凪はぎゅっとうちの手を握り返す。柚凪はうちの手を強く引っ張って、引き上げた。
「良かった……」
うちは完全に屋上に登り、柵を越える。
「柚凪? 早くこっちおいでよ」
柚凪は、ふっと息を吐いた。額には汗が浮かんでいる。そりゃあ自分と同じ位の重さの女の子をたった一人で持ち上げたんだ。誰だって疲れるだろう……そう思っていた。
突然、柚凪の身体がふらりと崩れる。うちはひゅっと息を呑む。
「危ない!」
掠れた声で叫び、必死に柚凪に手を伸ばす。だけどうちは、間に合わなかった。柚凪が屋上から落ちる寸前、柚凪の虚な瞳と目が合った。
──ドンッ。
「嘘……でしょ……」
鈍い音がその場に響き渡る。信じられなかった。信じたくなんてなかった。だけど、信じざるを得なかった。うちも柚凪と同じ様にそのまま飛び降りてしまいたいと思った。それほどの絶望感に包まれた。
それでも、身体が言う事を聞いてくれなかった。落ちようとするうちを、うちの身体は拒む。
「おい誰か! 救急車!」
「女の子が落ちてきたぞ!」
わーっと周囲がざわついてきた。息苦しくなってきて、その場に蹲る。柚凪が死んでしまうかもしれないという不安で手が震える。
どうしよう、こんな時はどうするのが正解なんだろう。そうだ、救急車を呼ばないと。
あれ、でも今はうち、スマホ持ってない。
凄く凄く怖かったのに全く動く事は出来なかった。うちはそんなに冷静に考える事はできなくて。どうしようもなく無力だ。
うちは絶望と不安に心を埋め尽くされて、うちに何かを伝える声なんて聞こえ無いのに反射的に耳を塞いでしまう。どんな音すらも耳に入れたくなかったから。
暫くして、不安に思った如月が屋上にやってきた。
気付けばうちはどこかの病室にいて、目の前には未だに意識が戻っていない柚凪が目を閉じてベッドに寝転がっていた。
如月が屋上にやってきてからの記憶は殆ど無くて、どのような経緯でここまで来たのか分からない。如月は、今うちの座っている隣の椅子に座っていた。
意識の無い柚凪は頭に包帯を巻かれて、腕には点滴が繋がれている。そんな痛々しい姿の柚凪を直視することができない。柚凪がもしこのままだったら、もう何も意味なんて無いんじゃ無いのか。全て無駄なんじゃ無いのか。
そう思ってしまう。
そんなうちを気にかけてか、隣に座っている如月が声をかけてきた。
「なー……」
「……」
「絶対、大丈夫だって」
「……して」
「え?」
「どうして⁉︎ どうしてそんな事が言えるの?」
「いや、俺は……」
如月がうちの事を気にかけてくれていることなんて分かりきっている。だけど、その『大丈夫』は信用なんて出来なかった。絶対に無事に目を覚まして、元気な柚凪に戻る確証なんて何処にも無いから。
「あのさ……」
「帰って、今すぐ」
如月に悪気があったとは思わない、寧ろ善意で声をかけてくれたんだと思う。だけど、その善意は刃となってうちの心に刺さった。
「……じゃあ、また明日。」
もし、如月とこれ以上話していたらうちは絶対に如月の事を傷付けてしまう。如月がうちの事を気にかけてくれていることも、態々こんなうちを心配してずっと一緒にいてくれたこともわかってる。
わかってるけれど、今はその事に感謝する少しの余裕すら無い。
だから傷つけてしまうとしても、うちは語気を強めて如月に帰ってもらうほか最善策は考えられなかった。今のうちに余裕なんて無いんだ。
このまま死んで仕舞えばどれだけ楽になるだろうか、柚凪と同じように落ちて仕舞えばもう悩む事からも苦しい事からも逃げられるかもしれない。
そんな悪い考えが脳裏に浮かぶ。
どうせ、うちがいなくなったところで悲しんでくれる人は居ても誰も困らない。
「ははっ……」
自分で考えておいて悲しくなってくる。乾いた笑いがしんとした病室に響く。もう本当に生きてる意味なんて無いんだろうな。
うちは本当はずっと生きる事が苦しかった。いつか昔の苦しい記憶が、何度も何度もフラッシュバックする。お母さん達に、先生に、友達に柚凪と比べられて。『たったそれだけの事で?』なんて笑われるかもしれないけど、うちは皆が思う程強く無い。
もしも二度と柚凪が目を覚まさなければ、うちはもうこの下らない人生を諦めてしまおう。そう決心した。
「……どうしたの?」