チャイムが鳴った放課後の廊下は、足早に教室を飛び出る人や友人同士での雑談に興じる人など様々であった。特に用事のない僕は、自分の部屋のある宿舎へと向かっていた。その時、見覚えのある顔が向こうからだんだん近づいて来るのに気付いた。マキだ。当の本人は、僕のことなど気づいていないかのように淡々とこちら側へと進んでくる。
「ねえ」
 僕を無視して通り過ぎようとされる。しらじらしい腕を掴むと、意外にもマキは立ち止まり、僕を一瞥する。しかし何も言わない。じれったくなった僕はマキを睨み上げた。
「忘れたの? 友達だったよね」
 掴まれた腕を振り払われた。
「もう友達でいる資格なんかない。だから違う」
 口を開いたかと思ったら意味の分からないことをくぐもった声で言い出した。
「資格って、なにそれ」
 友達かどうかに資格なんて無いだろう。お互いに友人だと思っているから、そうなんじゃないか。
「お前、分かっているだろう?」
 僕の足元を見て言い放つ。思わず右脚を一歩引くと、マキは眉をしかめた。
「まだ痛むんだろ。その怪我」
「別に。もう平気。こんなの大したことじゃない」
 事故にあってからどれだけ経ったを思っているの。ピアノが満足に弾けなくなったことよりももっと辛いことがあったのに、それに当のマキは気づいてくれていない。
「大した事だろうが」
 深く溜息をつくマキは、しばらく沈黙した後で、重い口を開いた。
「反省したんだよ。お前の将来を潰した俺なりの反省……なのに、何でここに来ちまったんだよ」
 的外れな反省がこんなにも不快だとは初めて知った。噛み締めた唇の端がぴりりと切れる。相手が口数少ない故に、こちらが馬鹿みたいに怒っている風でますます苛立ちが募っていく。嫌いなんかじゃなかったはずなのに、僕の中で嫌いという感情が沸騰しそうになる。
「あのさ、放課後の練習室借りてるから…、どいてくれない?」
 火に油を注ぐとはまさにこのこと。こちらが何も返事をしないのをいいことに、僕を押しのけようとした。
「歌、聞かせてよ」
 目が合った。暗い緑色の瞳は、何を意固地になっているのか、理解しがたかった。じゃあ、と強気に提案すると、マキは嫌な表情を浮かべる。
「どうしてお前に聴かれなくちゃいけない」
「僕を避けてるから?」
「聴かれたくないんでしょ――」
 食い気味に言う。
「どけ」
 僕がマキを引き止めたのは、練習室の前だった。マキに続いて無理やり教室へ入ろうとすると小競り合いとなった。
「やめろ」
「……っやめない、って」
 体格差に押されて負けたのは、僕の方だった。バタンと閉じられた扉に僕は力が抜け、崩れる。
 廊下には人っ子一人いなかった。そして、うずくまった僕はそのまま動けずにいた。 小さく、嗚咽が聞こえる。 その声は僕のものではない。扉の向こうだ。
「何で泣くのさ……」
 唐突に鼻の奥がツンと痛くなった。ぽろぽろと、まぶたから涙が溢れる。板張りの床を濡らすことに気づいた僕は長い溜息をつく。悲しみと怒りと、罪悪感が頭を麻痺させるせいで立ち上がることができない。僕の持っていた友達意識なんて、マキにとっては、独り善がりの迷惑だったのだろうか。しばらくすると、扉の向こうで足音がした。そしてポーンとピアノの音色が始まった。僕の知らない曲のかるい音取り。もうマキがこちらに慰めに来るなんてことは無いのに、僕は立ち去ることもできない。その上不幸なことにも、体重をかけてしまった右脚に鈍く、強い痛みがズキズキと現れた。
――立てない。
もう片方の脚は正常なはずなのに、壁伝いでないと身を起こすことすらできない。ひどい痛みに歯を食いしばりながら、僕は立ち上がる。何故、そんな事をするの? 忘れちゃったの? という無邪気な疑問が、罪であったことをに気づいた僕は酷い顔をしていただろう。僕の知らない曲を、僕の知らないうちに知ったマキ。そんなマキの歌が細く聞こえる。歌声を背に部屋へと足を引きずり帰った僕は、ベッドに倒れ込んだ。
 今から話すのは、記憶と呼ぶには余りにも断片的な記録だ。日本の高校に入学してすぐの、16歳の誕生日を迎えたころの話だ。
「危ない」
 ――と、叫ぶ聴き慣れた友人の声と、女性の悲鳴が聞こえた。金属がパーンと何かに当たる音と、唸るような、エンジンの音が聞こえる。ぐいと左腕が引っ張られ、倒れ込み。反動でアスファルトに身を打ち付けた。グラウンドで転ぶよりもずっと痛いはずなのに、そのすりおろす様な痛みより先に……右半身に火で炙られたような痛みが爆ぜた。全治3ヶ月。斜め後ろから暴走した車両によるひき逃げ。自動車のバンパーが斜め後ろから膝を強打したことによって、足の骨と靭帯は大きな損傷を負ってしまった。
「そう。今は痛み止めも入っていて……多少楽だとは思うけれど、後でまた手術しなくちゃいけない」
 白衣を着た医師は、僕のベッドサイドに腰を曲げて説明をする。目があった看護師さんが微笑んだ。
「1回目の手術は終わっているわ。リオくん。よく頑張ったよ」
感覚の鈍い右脚に目を遣ると、白い布で目隠しがされていて患部を見ることはできない。
「傷口は見ない方がいい。お母さんも、気をつけてください」
 素早く頷く母親の表情は、今まで見たことないほどに焦っていた。
「僕って、重症なんですか」
「そうだね」
 でも、と隣にいる母親の背中をさすりながら看護師さんが口を開く。
「若いから。リハビリを頑張れば、すぐに元気になれる」
 医師は程なくして部屋を立ち去った。
母の帰った後の病室は、ひどく退屈だった。僕の身に降りかかった膨大な情報と、麻酔の感覚鈍化に頭は回らない。交通事故に遭った、という実感が全く沸かずに記憶をたどる。しかし途中に時間の断絶があり、もう何故だか明瞭に思い出すことができない。ぼう、と痛みに耐えながら母の持ってきた楽譜を眺めていると1週間が経ち、2回目の手術を迎えた。手術室から帰ってきて、目覚めた朝。ベッドテーブルに紙袋が置かれていた。忙しそうな看護師さんを止めて訊くのも申し訳なく、僕は勝手に中身を取り出した。
「お見舞い……」
 クラスメイトからの、お見舞いの寄せ書きだった。こういうの、慣れていないんだよなと思いつつも、実際に、いつもの見慣れた個性あふれる、文字を視ていると心が穏やかに凪いでゆくのを感じた。寄せ書きをそっと紙袋に戻したその日の夜は、入院してから一番ぐっすりと眠れたのだった。

「理音。好きだ」
 真剣な表情で、隣町の制服を着たマキが僕の肩を掴んで言う。あれ、マキって前のカノジョと別れたんだっけ? 心臓がドクンドクンと大きな音を立てている。
「目、つむって」
 そのまま引き寄せられ、マキがまぶたにそっと触れる。
「危ない」
 ――と、聴き慣れたマキの叫び声が聞こえ。

目が醒めた。飛び起きた寮の部屋は静まり返り、早朝の空気がひんやりとしている。どれが正しい記憶だったか。たった1年くらい前の話のはずなのに、僕の夢とうつつの境界は曖昧だった。
「配布物があるので、帰寮後13時に第2音楽室へ集合」

 鮮やかな青色にペイントされた路面電車にガタゴト揺られていると、先生が小声で言った。
 その後ろで、とんぼがすっと飛んでいるのが目に入った。

「何だろ……」

 ケントが期待を押さえきれない様子でひとり呟く。街のアーケードで催されたコンサート。僕達1年生だけでの初舞台は、想像していたよりも緊張した。
 そんな大勢の観客はいないはずなのに、優しそうなきっとどこかのお母さんやおばあちゃん、おじいちゃんが僕達の歌に耳を傾けている様子は、ステージの上からよく見えた。
そうして僕達はいくつかの舞台と、積み重ねた練習で入学当初からは想像もできないほどに絆が深まっていた。

「クリスマスコンサートの譜面じゃないですか?」

 イースがメガネを上げながら物知り顔で言う。その言葉にケントは瞳を輝かせた。

「うっそ、そっか、……ついに!」
「当校のクリスマスコンサートは、街一番の名物……と言っても大げさじゃありません」
「僕も何度か聞いたことあるかも。駅前でやってるやつだよね」
「そう。駅のクリスマスツリー点灯のタイミング位に20名全員で出る……。私は毎年、両親と一緒に見に出かけていましたよ」
「おお……。たのしみ!!」

 学校の最寄りに着くや否や、電車から勢いよく飛び出そうになってトム先生に首根っこを押さえられているのが見えた。
 相変わらず無鉄砲だが、年相応。このクリスマスコンサートを一番楽しみにしているのはケントで間違いない。
「クリスマスの時期には、当学校もコーラス隊として多くの市民の方へ披露することになります。明日からこれをやるから、各自譜読みをしておくように。ホミー、楽譜配りを手伝ってくれ」
「はい」

 2年生の代表を務めるホミーが10人分の楽譜を引き取り、ひとりひとりに楽譜を手渡した。
 のケントのみならず、皆そわそわしている。例に漏れず、僕の胸も期待に高鳴っていた。

「リオ君。はい、頑張ってね」
「先輩。ありがとうございます」

 ホミーはずい、と顔を寄せて真剣な表情をした。

「君が、1年生を引っ張ることになると思う。だけど……気負わないで。一緒に頑張ろう」

 真剣な細い瞳が僕を見つめる。その瞳は対等に僕を見据えていた。そう――イースは、マキとの関係に気づいている。そんなことが一瞬にして理解できた。
 1年生の中で、マキと会話したことがあるのは僕だけだと思う。なら、どういう関係なのか探らないほうが野暮だろう。

「まとめるには力不足かもしれないですが……がんばります」

 脳裏をよぎった要らない思案とは逆に、口を突いて出たのは素直な言葉だった。

「歌を歌うのは、大好きですから」
「いいね。それ」

 先輩はニカっと笑いながら、今から今かと待ちわびていたケントの椅子へと移っていった。
 先生からの説明は、あらかたイースが言っていたことと同じだった。このクリスマスコンサートたちは、学校の一大イベントであり、街の人たちも先生たちも大きな期待を寄せている。毎年メンバーが異なるため、歌声の雰囲気は変わるけれど、お見せするからには高いレベルを保ってほしい。君たちならできるはずだ……と。
 膝の上にずっしりと重く重なる楽譜は、角が立ったまっさらの譜面だ。
 1年生のテナーで集まり、第4音楽室で1ページめを広げたときの紙の硬さ。そして、知った旋律の美しさ。
 今までで一番、クラスメイトの声は弾んでいたし、ああ、こんな風になっているんだ。ああ、こんな歌詞なんだ。僕自身も意外と知らない有名な曲の細部に気づくことに夢中になっていた。
 ホミーに言われたように、僕はテナーの中心でピアノを弾き、指示を出す担当にいつの間にか決まっていた。
 なにも、難しい曲を全身で弾くわけではないけれど、明らかに運指が鈍っているのを感じて一瞬冷や汗をかいた。しかし、ケントは嬉しそうに言った。

「リオ、すごい。そんなにピアノ上手だったの?」
「そんな、音取りくらいしか今はできないよ」
「いや、十分だぜ。すっげえ助かる。俺なんか右手と左手が別々に動かせねえ」

 チェンがケラケラ笑いながら言う。
クリスマスに歌う曲は、聖歌が元になったものや、民謡が元になっているものが大半のため、やたらと複雑な音もなく、その日の午後で一通りの音取りは終わった。
 疲労感と、久々に動かした10本の指の感覚にぼんやりと思いを馳せている間に、その日の僕はあっという間に眠りに落ちてしまった。
「おい、ケントがここを辞めるらしい」
 授業が始まる前、イースがそそくさと寄ってきて耳打ちをした。
「それ本当なのか」
「ああ、今朝先生たちが話してた」
 忘れ物を取りに職員室の前を通り過ぎたとき、先生たちが深刻そうに会議をしているのを耳にしたらしい。
「……何で。あいつから辞めるなんて言い出さないだろ」
「ああ、私も本当に今日知ったんです」
 イースはちらりと時計を確認し、またこの話は部屋で……と声を潜めた。その日は珍しく、ケントの姿が音楽室に無かった。ごく稀に、体調不良などで欠席する生徒はいるから誰も問いはしない。授業が終わり、足早に2人は寮の部屋に戻り慎重にドアを閉める。
「今日、ケントは1日じゅう居なかった。それは風邪なんかじゃない……ってこと?」
「あいつの親が失踪したらしい。んで、じいちゃんとばあちゃんの家に一時帰宅……というか、辞めるみたい」
 ぶっきらぼうにイースはベッドに座った。僕も自分の椅子に腰掛けて視線を合わせた。しかし、いつも強気なイースがやけに沈んだ表情を浮かべている。
「……今からでも退学を止めに行った方が良いですよね」
「先生たちの言っていたことが本当なら、止める止めないの問題じゃないだろう」
 僕は冷静に受け止めた。こんな理不尽に遭遇することは普通に生きていれば無いだろう。僕以上にイースは動揺していた。
「辞めるなんて、ズルい」
「ズルくなんかないよ。思ってもないこと言うな」
「私に何も相談しないで、突然辞めるなんて、ズルいです」
「相談できる暇すらない……んだろ。今日の欠席だって誰からも説明は無かった」
 イースは言葉を詰まらせて、僕を睨みつけた。動揺と、かすかな憎しみを浮かべている。それはきっと、ズルいという言葉を否定された憎悪とやたら冷めたような態度を見せる僕への怒りなのだろう。
「どうして、そんな他人事なの……」
 イースをなだめると、小さな背中は固く縮こまった。何も、リオが薄情な訳ではない。そんなことで、少年の未来が奪われていいのかという悔しさを感じている。だが唯のいち生徒にそんなのを考える余計な時間なんて無いことをリオは理解していた翌日の授業にもケントは姿を見せず、ケントのぶんの楽譜だけが残されていた。去るものに会う権利も、時間も無い。やるべきことは山ほどあるのに、自主練で集まったときにピアノを囲む人数が減ったことへの薄寂しさは僕の心にそっと仕舞われ隠されていくのみだった。
 2年生の担任講師、ジン先生とこうして個人授業するのは初めての機会だった。
「緊張しなくていいよ」
 微笑みを浮かべられるが、いつもより呼吸が浅くなる。
「でも、そんなもんだよね。じゃあとりあえず声聞かせて。いつものこれで、はい」
 先生はピアノを弾き始める。ドから音階を上がっていく基礎的な音域確認。先生を前に一人で声を出すと、想像していたよりも僕の声が音楽室に響き、ビクリとした。
声を確認し、先生は思案しながらクリスマス曲の譜面をぱらぱらと捲る。その中から一つを手に取り、譜面台に置いた。
「じゃ、この曲やろうか」
 選曲に僕は驚いた。何も言っていないのに、先生は的確に苦手を感じている曲を選んだのだった。やはり、この音楽学校の講師は一流の方が揃っている。改めて感じた学校の凄さに慄いた。
「愛する人に」
 テナーのユニゾンから始まる曲の旋律そのものは難しいものではない。明らかに、歌詞が理解できていない……そんな気持ちが、歌声に滲んでいるのだ。
「曲の背景を説明してもらえる?」
「これは、愛する人に向けた……クリスマスを楽しみにしている男女の歌です」
「うん、そうだね。教科書的には満点。でも、先生が聞きたいのはそれじゃない。どうして、こんなにも2人はクリスマスを恋い焦がれるのか。その理由は?」
 五線譜の下に印刷されている文字を辿る。男はクリスマスツリーの下で、女性を待っている。時間になってもなかなか姿を見せない相手に男は不安な表情を浮かべる。銀色の時計の下で同じように待ち合わせをしている人の群れを必死に探す。時計の針が回る様子を何度も見る。
「2人がデートを楽しみにしていたから?」
「違うね」
 困り顔をしてみせ、先生は僕の胸を指差す。
「恋したことある?」
「お付き合いしたことは……無いです」
「うーん。恋は何も付き合う付き合わないの問題じゃあない。もっと平たく言うと、好きな人がいたことはある? って質問」
 好きな人、それは恋愛の上でということだろう。恐らくお父さんやお母さんという答えは望まれていない。
――マキ?
 違う違う、と頭を振って打ち消す。マキは男で、友人だ。友人かどうかさえ、怪しい。一人で自己完結して出た答えの残酷さにうんざりしてうなだれた。
「そんな場合じゃなかった……ですかね」
「まあ、無理に恋しろとは言わないさ。恋愛なんて得るものよりも、傷ついて失うものが多いかもしれない」
 わざとではないが、つい気の抜けた返事が漏れる。その様子に気づいてか、先生は僕の顔を覗き込んだ。
「上手い人には理由がある。練習量とかだけではなく生き様。恋、人生。すべてが重なって。マキ先輩は、すごく上手だよ」
「そう、なんですね……」
「じゃ、今先生が言ったことを踏まえてもう一度」
 ジン先生は姿勢を正した。慌てて深呼吸をする。二小節分の伴奏を聞き、僕は唇を開いた。マキを傷つけそして失ったのならば、僕にはマキをもう一度得る権利があるのではないか?マキがしつこく吐いた「権利」という言葉が僕の思考に根強く存在し続けている。それと同時に、先生が言ったマキはすごく上手、の意味をはかりかねていた。もやもやしたまま、自室に戻る気にはなれず庭園のベンチに腰掛け、秋めいてきた花や木々をぼんやりと眺めながら思案する。
 要は、僕が入院して知らないうちにカノジョが出来ていたってこと、か。それか、僕に言っていないだけで恋人がいた……という話なのだろう。マキの話を僕にした先生の、笑みと呼ぶには引きつった唇を思い出し、うっすらと寒気がした。
「……マキも、ジン先生も、僕のこと嫌いなんだろうなあ」 バタンと閉じられた音楽室の扉の音や、先生の呆れた声が生々しくよみがえる。
 気が付くと、クリスマスのハレルヤを口ずさんでいた。何十回も練習している歌は、楽譜を見なくても、ひとりでも唄えた。
 明るい旋律と、夕日が滲み始めた空に僕はすうと胸が軽くなるのを感じた。
 誰かを心から好きと言えるようになりたい。
 事故が起きてから、周りの人には迷惑かけてばかりだ。僕のことを嫌いになった人は居ても、好きになってくれた人は居ない。
 余計に……無性に、愛しさの形、愛することを知りたくなった。
 19人で迎えた、駅前でのクリスマスコンサート当日。駅に到着したときに見た、大きなもみの木にあかりはまだ灯っていなかった。けれども、通りかかる人は皆立ち止まり、ラキラした瞳をツリーに向けていた。
 頬をかすめる冷たい空気、ジングルが流れる駅前、クリスマスという言葉があちこちからささやくように聞こえる雰囲気。練習を始めた頃はまだ夏の終わりだったというのに、もうクリスマス。月の流れの速さに驚きを覚える。
 手狭な控室にカバンを置くと、急に緊張が喉をせり上がってきた。ファスナーを開け、今日の譜面を指で追う。順番を、鉛筆で囲まれた注意点を、ユニゾンの所を……不安点を一つ一つ確認する。

 ――音取り用のキーボード、持ってくればよかった。

 持ってきて良いのかどうかすら1年生の僕には判らないが、吐きそうになる位の不安が、ああすればよかったこうすればよかったと思い起こさせる。

「リオ。君がそんなに緊張してどうするんだ」

 厳しい声色に顔を上げると、眉間にシワを寄せたロンが立っていた。

「ロン……チェンはどうしたの?」
「そうじゃない。リーダーが緊張してどうすんだ」
「緊張なんかしてないよ。僕、緊張しにくいたちなんだ」
「いや、それを緊張って言うんだよ」

 楽譜を取り上げ、カバンの中へ強引に仕舞ったロンに困惑する。

「確認してたんだけど」

 喧嘩を売るつもりはない。優しくたしなめると、ロンは尚更いやな顔をした。

「本番で、作った声で歌うなよ。リオの作り声、本当に聞いててしんどいから」
「……っ。どういうこと」
「先生にも言われてると思うけれど、リオは気合が入ると声色を作って空回りするからな。本当に気をつけてくれないと、僕たちも釣られてしまう」
「ちょっとロン。今言わなくても」

 僕とロンが揉めているのを見つけたチェンが横槍を入れてきた。

「いや、リハーサルの前に言っとかないと本番で絶対にやらかすと思った。非常に理論的な判断だよ」
「ロン、ちょっともう黙って。ごめん、リオ。ちょっと言い方キツかったみたいで……ロンも落ち着いて」
「俺は別に興奮してない」

 チェンに腕を掴まれてロンは机の反対側に連れ去られた。しかし、チェンは大きな机の向こうで神妙な面持ちで口を開いた。

「リオの悪い癖。それは本当だから……すごく言いづらかったんだけどね。でも、飾っていないリオの歌声は、本当に素敵だから」

 チェンはそっとこちらに身を乗り出し、ヒソヒソ声を張り上げた。

「リオの声は、リオの声のままで歌って欲しい」

 気づかないうちに、僕はいつも曲に対して「もしも」ばかり考えていたのだろう。
 リハーサル中はその事で頭がいっぱいだった。一度気づくと、あの歌もこの歌もどの歌も気になる点ばかりで、トム先生の指揮棒を見るだけで精一杯だった。隣に立つマキの声も、仲間の声も全然聴くことが出来なかった。

 ――本番まで、まだ時間はある。

 僕は控室に戻り、また楽譜をまくったがそれをロンは何も咎めなかった。
「本番だ」

 聴き慣れていた声が僕に話しかけた。後ろを振り向くと、マキがスッと立っている。整髪料か何かでしっとりとまとめられた黒髪を、初めて見た。反射的に息をのんだ僕をマキは静かに見下ろしている。

「マキ」
「皆さん、そろそろ出ますよ」

 その言葉への返事が来る前に、トム先生が十九人をまとめて並べ始めた。
僕の後ろに、マキが並んでいる。そして小さな頭たちの向こうに、ステージとなる広場のあかりが見える。
立ち位置は2列目中央。マキと中央を分ける場所だ。比較的高身長の僕やマキがこの位置になるのは何となく分かっていた。しかし何か因縁めいた位置にすら思えてくる。

「それでは、合唱団によるクリスマスコンサートです。みなさま、盛大な拍手でお迎えください」

 地鳴りのように湧き上がる拍手。一体どれだけの人が集まったのか。今までの比ではない位観客がいることだけが分かる。
肩をポンと叩かれる感覚がした。しかし列は動き出していて、振り返る時間はない。

 ――マキ、だよね。

 隣で歌うこととなるマキをふいに意識した。

 ――そうだ、みんなの声も聴かなくちゃ。独りよがりな歌は合唱じゃない。

 軽やかな三連符が続き、ノエルのハーモニーから、クリスマスコンサートは始まった。
 恰幅の良い身体によく似合うタキシードを着たトム先生は、にこやかな笑顔で僕たちを指揮する。
 リハーサルのときよりもずっと、ずっと楽しそうに。つられて僕も笑顔になっていく。隣で聞こえるバスの低音パートが心地よい。人々のリズムを感じる波も、笑顔も同様だ。
 1曲目が終わり、2曲目が終わり、順繰りに進んでいくうちに、ステージは終わってしまった。
あんなにも苦しんで練習したはずの曲さえも、コンサートの一瞬のうちに流れて消えた。
 入場のときよりもさらに大きい拍手と、ブラボーと叫ぶおじさんの声で意識を引き戻される。どんどん増えた観客は、端が見えない位になっていた。肩車をされている小さい子もちらほらいる。

「ブラボー、リオ!!」

 その時、舌足らずな声が僕の耳に飛び込んだ。
人混みを目で辿る。
 知っている。僕の知っている声がした。
そして右端に、まっすぐ僕を見つめるケントがいた。
 目が合った瞬間、胸が苦しくなり、息が止まりそうになる。
 意識して瞬きを繰り返しても、ケントはそこにいて、僕たちをじっと見つめていた。
 ステージをやりきった感動と、ケントを見つけた複雑な感情。その2つが僕の心をかき乱した。
頬になまぬるい水滴が垂れる感覚がした。その涙は、全然止まらない。何で? という位、全く止まらない。
 再度促されたお辞儀をしながら、僕はぐちゃぐちゃになっていた。
 もう一度顔を上げたときには、人混みのせいでケントを見失っていた。退場のため、横を向くとマキの大きな背中が立っている。
 その背中に、抱き着きたい感覚に陥る。

 ――どうして。こんなにも、うまくいかないんでしょうか。

 ステージを去る直前に、僕は無理やり振り返り、イルミネーションのともった大きなツリーに祈りを捧げた。
 神さま、ひとつ願いが叶うのならば、ケントにチャンスをください。
 きらきらと輝くツリーがその祈りを聞き遂げてくれたかどうかは判らない。しかし、僕は心の底からそう願ったのだった。