マキが、自分の見ないうちにそんなにも合唱団の中心的存在になっていたとはまるで知らなかった。親がわざと言わないようにしていたのかもしれない。もとよりマキは優れた才能と音楽センスを持つ人だったからその結果は当然のような気がする。しかし、マキの歌声を最後に聞いたのはとうに1年以上も前だったから、今日の歌声は僕の耳に新鮮に響いた。
このあとは2年間暮らすことになる校舎と宿舎の紹介があるそうだ。講堂を出ると青い空に、緑色の葉っぱがソヨソヨと揺れている。とてもいい天気だ。ここは歌うためだけに過ごす学校だ。家柄も、年齢も関係なく、ただ歌うことが好きな少年が集まり、歌う。決して大規模な音楽学校ではない。世界中を巡るような学校でもない。
 しかし昔からひっそり、この音楽学校は合唱界隈で一定の地位を築いていた。たった2年間だが、卒業生は美しい音楽と庭と友情に触れ、心の豊かな音楽家になる……そんな学校だ。
 食堂へ向かって歩いていると、右脚に痛みが走り思わず顔をしかめた。膝を中心に鈍く響く痛みは、ケントに続いて早足で移動していたスピードを緩めなくてはならない。
「大丈夫?」
 立ち止まった僕に気づいて、ケントが心配そうに声をかける。
「ちょっとぶつけただけ」
 ほんと? と小さな口で不思議そうに尋ねるケントをなだめて、もういちどゆっくりと足を動かす。大丈夫、そんなに激しい痛みじゃない。嫌な汗が額に滲むが、かかとから響く鈍痛はケントと話すことでいくらか誤魔化せた。
「お腹空いてきた~」
 コンソメの匂いが鼻をくすぐる。ケントは食堂へ、僕の手を引いた。
 かつて友人に傷つけられたせいで、後遺症が残る右脚。僕が同期と比較して年が上なのも怪我のせいだ。病院に3か月間入院し、その後もリハビリなどで休むうちに結局1年間学校を休学して……自動的に留年。そんな代償を払ってもなお、消えない鈍痛にはほとほと困らされている。今まで右脚で踏んでいたピアノのペダルは、もう痛み無しには踏めない。しかし、痛みに耐えてなお弾きたいという訳ではなかったから、惰性で続けていたピアノ教室を辞めることに未練は無かった。ピアノを辞め、時間がぽっかりと空いた。けど、考えごとをするでもなく、唯々マンガを読んでゴロゴロしていた。そんなとき、マキが海外で有名な音楽学校に入学したという話を母親から聞いた。あれはちょうど退院して、自宅から、リハビリのために病院へ通う日々にも飽き始めたころだった。
 僕も歌をやりたいと告げると、母親は喜んで指導を始めた。結局僕は元の学校に復学すること無く、海の向こうの音楽学校へ進学することとなった。
合格を機に、嬉しそうな母親の姿を見て、安堵したのを今も鮮明に記憶している。リオはチャンス手にしたのよ、と庭の花々を手入れする母親の姿は、僕が事故に遭ってから久しく見ていない明るい表情だった。あの頃、僕は何か夢中になれるものを欲していたのだろう。絶え間なく教えられた歌の旋律に、母親とデュエットしたときの移りゆくハーモニーの美しさに、僕は胸を打たれていた。神への称賛の歌や、恋愛や友情の歌。訪れたことのない国の風景の歌。病院と自宅という狭い世界で過ごしていたとは思えないほどに広い世界を体感していた母との一年と数か月は、僕の人生にとって最大の転機であったことは間違いなかった。
 隣の教室から怒鳴り声が聞こえてクラスの生徒たちは反射的に肩をすくませた。低い声が地鳴りのように何かを言っているのが木製の壁越しにこちらまで聞こえてくる。
「マキ、いい加減にしろ」
彼のこと、だった。しかし、僕の記憶にあるマキの姿と、隣の教室で叱られている人物像が一致しない。マキという男は、そういうふうに怒られるほど不器用な人間ではなかったはずだ。無論、それは僕に見せていたマキの姿がピアノ教室での一面に過ぎなかった可能性は否定できないが、だ。器用で、快活。僕より後にピアノ教室へ入ったのに、あっという間に先生とも打ち解ける人としての明るさを持つ。職人肌というよりは、天才。僕がぐるぐると悩みながら完成させる曲の真横を、軽やかに駆けてゆく。記憶の中のマキと、学校で人づてに聞くマキが微妙に重なり合わない。僕の知らないマキに変わっていた?開け放たれていた窓から木々のざわめきが聞こえる。手元にあった音楽史の教科書が急に白けて見える。マキはもう僕の知っている、彼ではないのかもしれない。唐突に浮かんだ疑念が、僕の脳を支配していた。
「それにしても、トム先生はどこいったんだろね」
 ケントは困った顔をして言う。授業を担当していたトム先生は、用意した資料を印刷室に置き忘れてきただとかでもう10分くらい席を外している。教室の中は、先程の騒動のせいでざわつき、誰も集中できていない。同様に、僕も教科書に目を滑らせ頭の中ではマキのことに考えを巡らせていたから大概だ。
「ちょっと先生呼んできます」
 僕が立ち上がると、お調子者のチェンは「ラッキー、お願いします」と笑った。印刷室のある部屋へ向かうと、トム先生が落としたプリントを拾い歩いているところだった。白髪のまるでサンタクロースさんのような先生は、僕に気づくと「すまんねえ」と頭をかいた廊下に散らばる紙を、しゃがんで拾い集める。
「先程、隣の教室で恐らく……ジン先生が声を荒げていらっしゃったのですが、大丈夫でしょうか」
「ああ、ジン先生ね。うん、ちょっと生徒と……ね」
 先生は白いひげをもごもごと言い辛そうに動かす。
「なに、普通にしていれば、先生たちは意味もなく怒ったりしない。大丈夫だ」
 夏の盛りに合同練習が催されることになった。まだ授業で使ったことのない、大きな第一音楽室に集められた20人の生徒と、2名の教師。ここにも慣れてきたが、大半の先輩の顔と名前は一致しておらず薄っすらとした緊張が1年生の間にただよっていた。
「じゃ、皆集まったね。今から合同練習を始めるが、その前に自己紹介をしましょう。1年生から、はいよろしく」
 早口でジン先生が指示をし、僕と視線がかち合う。端の席に座っていたのが災いした。早く、とあごを動かす先生。ツイてないなあ、と思いつつも年長者の僕から行くのは妥当なのかもしれないとひとり納得し、席を立った。
「1年のリオです。パートはテナー。好きな食べ物は……食堂のクロワッサンです。よろしくお願いします」
 パチパチと好奇心に満ちた拍手が2年生の方から聞こえる。僕の近くのクラスメイトは、来る自己紹介に緊張気味なのか拍手をする手が妙にガクガクしている。
 馴染みの九人の自己紹介を改めて聞くと、なんだか面白くて笑いを堪えるのに必死だった。特にチェンとロンは双子なのに、好きな食べ物がそれぞれパンとパスタで対立しているのが可笑しい。その上、勝ち気なチェンとイースに負けず劣らず超真面目なロンは性格すら真逆と来た。なのに性別も同じで見た目もそっくりなのは神様のいたずらといったところだろう。
「皆、もう少し真面目に自己紹介をしたらどうなのかね」
 僕たちの自己紹介を聞いたジン先生がイライラした様子で苦言を呈する。貧乏ゆすりをやめてジロリと僕たちを見舐める。
「まあまあ、いい歌い手が集まった期ですよ」
 トム先生がジン先生をなだめる。そのほほえみにチラリと目線を移し、はあと大きな溜息をつく。そしてジン先生は2年生に「じゃ、先輩らしくよろしく」と自己紹介を促した。
「ホミーです。一応この期の代表やってます。よろしくね」
 人懐こい笑顔を浮かべ、ホミーは一番乗りで自己紹介を買って出た。
「何か先生に言いづらいこととか、好きな映画とか、何でも俺に聞いてね」
先生に言いづらいこと、の部分にジン先生が眉間にシワを寄せる。その様子にはは、とホミーは笑いながら隣の席に座る男の肩を叩いた。
「じゃ、次はマキ」
 叩かれた肩にびくりとし、戸惑ったように……いや、渋々とマキは立ち上がった。のそりと立つ長身が、所在なさげに肩を丸める。
 が、口を開かない。沈黙が5秒、違和感に気づいた生徒たちは視線をマキに遣り始める。ねえ、どうしたの? あれ、先輩? 心配そうなひそひそ話が湧き始める。
「――先輩、なんでしゃべらないの」
 どこからともなく聞こえた疑問符。その声にマキの眼球が動く。僕の、隣へ。ケントだ。無邪気な疑問は、誰もが声に出すことを遠慮していた内容そのもの。
 様子見をしていたホミーがたしなめるように声をかける。それに身体を少し揺らすと、マキは微かに口を開いた。
「バス」
 必要事項だけぼそりと言うと、マキは直ぐに席についてしまった。何、あの人。という雰囲気が漂う。そして、妙に大人びて見えたマキに僕はどきりとした。そのあとの先輩の自己紹介は右から左へさっぱり頭に入らず、僕は機嫌の悪いジン先生の「はい、さっさと練習始めます」の声でハっとした。
「ホミー、ピアノの先生呼んできて」
「うーっす」
 先輩は駆け足で音楽準備室の方へとドアを出る。その間に、ジン先生が手早くペアを組ませる。
「あっち、お前はこっち。そこ、無駄話すんな」
 恐らく高低でペアを組んでいるのだろう。僕はあっという間にケントと離されてしまった。
「マキ、お前リオとペア」
 よりによって。気まずい相手になってしまった。不平を言おうにも、ジン先生はさっさと振り分けをし、音楽室に戻ってきたホミーの方へと向かってしまった。
「ホミーはチェンと」
 ピアノの先生が、天板を開ける。ピアノを囲むように半円状に立つ。
「じゃあ、始めますね。いつも練習してたと思うけど、コンコーネ50番。頭から行きます」
 決して難しいメロディではないけれど、丁寧さが求められる基礎的な練習曲集であるコンコーネ。自分自身の声だけでなく、隣に立つ人の歌声にもきちんと耳を澄ませる必要がある。隣に立つマキの背丈は、僕よりも頭ひとつ高くなっていた。いつの間に、という雑念が頭をよぎる。
「1年、集中して」
 ジン先生の激が飛ぶ。その声にひやりとした。僕の頭上から響く歌声。その旋律はピッチがきちんと合っており、自分の声が上ずっていることに気づく。バスにはつらい音程であるはずなのに、マキは驚くくらい正確に音符を打ち当てている。コンコーネの悠長なメロディさえも、マキが歌うと色づいて聞こえる。言うなれば、森のような緑。ブレスのときに聞こえるその息の音さえも、崇高なものに聞こえた。
 ピアノの音が止み、一旦終了だ。
「じゃ、お互いに指摘してね。1年から」
 指示の元、音楽室は向かい合ってお互いに言う感想でざわつく。やれ、ドの音がうまく戻ってないだの、あそこの休符はブレスじゃないから吸うと良くないんじゃないかだの。
「マキは……すごく、良かったと思う」
 向き合っておずおずと感想を言うと、表情をぴくりともせずマキは小さく頷いた。じゃあ、僕に何かアドバイスを……と思い、マキからの指摘を待つ。しかし、マキは口を一向に開こうとしない。
「何か、アドバイス貰えると助かるんだけど。うん、まあでも……さっきは全然、駄目駄目だったと自分で気づいてる」
 何も言わないマキの前で、自己反省会をしているだけになっていた。
「マキ……せ、先輩は、どう思いますか」
 かつての同級生に先輩という呼称をつけるのに躊躇いを感じてどもる。しかしマキからの返事を貰う前に、指摘するための時間は終わって次の曲へと進んでしまった。 上と下に分かれて和音を歌うときに聞こえる歌声は間違いなくマキのものであるのに、マキから僕に向けた言葉を貰うことはできない。僕は、嫌われているのだろうか。しっとりとした歌声が出る口元をじいと見上げると、僕とは違う低い声が耳朶を底からじわじわと震わせる。見つめる先に引っ張られ、僕の姿勢はわずかに崩れる。
「体幹、基礎だよ、基礎。なんで今さら」
 僕の背中をパシンと叩き、ジン先生が怒りを露わにする。
「あごをあげない。高音きついなら重心は下! 相手見て歌えつったけど、見つめるな!」
 僕の姿勢がぐいぐいと矯正されるのを見下ろしながら、マキは淡々と歌い続けていた。見つめるという単語に何故か体温がぎゅうと上がる。
 マキは、僕のことを冷めた目で見ているのに、僕はマキのことを熱い目で見ていた。そのことを他人から指摘された羞恥心で、僕は平常心ではいられなかった。変わってしまったのは、間違いなくマキの方なのだけど、僕も変わってしまっているのかもしれない。そんな答えが、ふいに導き出された。書きたいことはあるのに、書いてよいことが分からない。真っ白なままの罫線を前に、僕は悶々とペンを絡ませていた。机の上のライトに薄っすらと積もっていた白い埃を指で弄ぶ。書かなくてはならないのは、今日の練習の内容と反省。つまり、合同練習についてのこととなる。僕とマキが故郷で友人だったということなど、クラスメイトの誰も知らないことだしそれを書く義務なんて全く無い。だから単純に、マキ先輩は素晴らしい歌声と技術でした。こんな風に成長したいです。と書くこともできる。でも、僕の中のわがままな欲が、他人行儀に書くべきでないとペンを止めるのだ。マキは、ひどく変わってしまっていた。それは多分成長というものではなくて、変化と言う方がより正確だ。もともと、マキはあんなに喋らない人間では無かった。普通に僕と大好きな歌について帰り道に語らい、そしてお互いの学校で起きた小さな事件について他愛もない議論をする。ルームメイトのイースが椅子をギシリと鳴らして、声を掛けてきた。
「なあリオ。例の先輩と今日ペアだったんだろう」
「ああマキのこと……」
「なに、知り合いなの?」
「ん、まあ……」
 知り合い、というか親友だったんだよ。という自己顕示欲を飲み込む。傍から見たら友人にすら見えないはずだから。喉がひどく乾く。ん、っと反射的に咳き込んでしまった。
「あの人、何も話さないらしいんです。だから、ちゃんと歌っているのか気になるんです」
「ええ?」
「なのに、学校の歴史中でも指折りのエースと言われているなんて不思議じゃないか」
 ミーハー心むき出しのイースにたじろぎながら、当たり障りのない返事をする。
「普通だったよ」
「いやいや、あの人がまずもう浮きまくり、1年生の中で格好のうわさの種ですから。普通に歌ってるって言われて、はいそうなんだへえ、って信じられませんよ」
 眉を動かし、イースは疑わしい視線を向ける。僕は思わず顔をそむけた。
「上手かったよ。さすが、先輩って感じ」
 小さな嘘のせいか、かつて痛めた右脚がずきりと痛んだ。もしかしたら、幻肢痛のようなものかもしれない。マキを感じることが増えたことで、怪我をした日の痛みが蘇っている可能性が高い。イースに気づかれないように、痛む脚をさすると幾分か痛みは和らいだ。
「うわさ話はやめよう。あのさ、イースはなんでここに入学したの? そういえば聞いてなかったなって……」
 話をどうにかそらしたい一心で、僕は不自然な話題転換をしてしまう。つまらなさそうな表情を浮かべていたイースはわざとらしい溜息をつくと、にいっと口端を上げた。
「私ですか?」
「うん」
「まあ、何と言いますか……私は、世界的にビッグな音楽家になるためにここに来たんです」
 少し鼻をかいて恥じらいながら言い出したイースだったが、最終的には胸を張って自信満々の表情で言い放った。
「ここは、小規模ですが入学時の国籍、家柄、経歴を問わず実力のみで評価してくれる実力主義の学校です。私はそこでトップを取るんです」
 だから、とイースは僕にピシリと指を指す。
「リオにも容赦しませんから」
 妙に勝ち気な様子につい笑うと、イースは少し不機嫌さを滲ませて早口で言う。
「そういう君こそ、ちょっとしたうわさですよ」
「うわさ? ええ、ちょっと困るなあ」
「あの先輩と歌った、って。マキ先輩、嫌な人が相手だと歌いすらしないらしいですよ」
「そんなことするの?」
「あくまでうわさ、ですけれどね」
「うわさうわさって、確かな情報は無いのか」
「当たり前じゃないですか。だって、クラスメイト相手にほとんど口を利かないんだから。うわさしか流れないんですよ」
 ひそひそ声で話すイースについ耳を傾けると、マキが本当に無口……寡黙な先輩としてこの学校生活を送ってきたということが分かった。かつてのマキについては触れない方が良い。そう気づいた僕は、ノートに正しいレポートを書き込み、夜は更けていった。
 チャイムが鳴った放課後の廊下は、足早に教室を飛び出る人や友人同士での雑談に興じる人など様々であった。特に用事のない僕は、自分の部屋のある宿舎へと向かっていた。その時、見覚えのある顔が向こうからだんだん近づいて来るのに気付いた。マキだ。当の本人は、僕のことなど気づいていないかのように淡々とこちら側へと進んでくる。
「ねえ」
 僕を無視して通り過ぎようとされる。しらじらしい腕を掴むと、意外にもマキは立ち止まり、僕を一瞥する。しかし何も言わない。じれったくなった僕はマキを睨み上げた。
「忘れたの? 友達だったよね」
 掴まれた腕を振り払われた。
「もう友達でいる資格なんかない。だから違う」
 口を開いたかと思ったら意味の分からないことをくぐもった声で言い出した。
「資格って、なにそれ」
 友達かどうかに資格なんて無いだろう。お互いに友人だと思っているから、そうなんじゃないか。
「お前、分かっているだろう?」
 僕の足元を見て言い放つ。思わず右脚を一歩引くと、マキは眉をしかめた。
「まだ痛むんだろ。その怪我」
「別に。もう平気。こんなの大したことじゃない」
 事故にあってからどれだけ経ったを思っているの。ピアノが満足に弾けなくなったことよりももっと辛いことがあったのに、それに当のマキは気づいてくれていない。
「大した事だろうが」
 深く溜息をつくマキは、しばらく沈黙した後で、重い口を開いた。
「反省したんだよ。お前の将来を潰した俺なりの反省……なのに、何でここに来ちまったんだよ」
 的外れな反省がこんなにも不快だとは初めて知った。噛み締めた唇の端がぴりりと切れる。相手が口数少ない故に、こちらが馬鹿みたいに怒っている風でますます苛立ちが募っていく。嫌いなんかじゃなかったはずなのに、僕の中で嫌いという感情が沸騰しそうになる。
「あのさ、放課後の練習室借りてるから…、どいてくれない?」
 火に油を注ぐとはまさにこのこと。こちらが何も返事をしないのをいいことに、僕を押しのけようとした。
「歌、聞かせてよ」
 目が合った。暗い緑色の瞳は、何を意固地になっているのか、理解しがたかった。じゃあ、と強気に提案すると、マキは嫌な表情を浮かべる。
「どうしてお前に聴かれなくちゃいけない」
「僕を避けてるから?」
「聴かれたくないんでしょ――」
 食い気味に言う。
「どけ」
 僕がマキを引き止めたのは、練習室の前だった。マキに続いて無理やり教室へ入ろうとすると小競り合いとなった。
「やめろ」
「……っやめない、って」
 体格差に押されて負けたのは、僕の方だった。バタンと閉じられた扉に僕は力が抜け、崩れる。
 廊下には人っ子一人いなかった。そして、うずくまった僕はそのまま動けずにいた。 小さく、嗚咽が聞こえる。 その声は僕のものではない。扉の向こうだ。
「何で泣くのさ……」
 唐突に鼻の奥がツンと痛くなった。ぽろぽろと、まぶたから涙が溢れる。板張りの床を濡らすことに気づいた僕は長い溜息をつく。悲しみと怒りと、罪悪感が頭を麻痺させるせいで立ち上がることができない。僕の持っていた友達意識なんて、マキにとっては、独り善がりの迷惑だったのだろうか。しばらくすると、扉の向こうで足音がした。そしてポーンとピアノの音色が始まった。僕の知らない曲のかるい音取り。もうマキがこちらに慰めに来るなんてことは無いのに、僕は立ち去ることもできない。その上不幸なことにも、体重をかけてしまった右脚に鈍く、強い痛みがズキズキと現れた。
――立てない。
もう片方の脚は正常なはずなのに、壁伝いでないと身を起こすことすらできない。ひどい痛みに歯を食いしばりながら、僕は立ち上がる。何故、そんな事をするの? 忘れちゃったの? という無邪気な疑問が、罪であったことをに気づいた僕は酷い顔をしていただろう。僕の知らない曲を、僕の知らないうちに知ったマキ。そんなマキの歌が細く聞こえる。歌声を背に部屋へと足を引きずり帰った僕は、ベッドに倒れ込んだ。
 今から話すのは、記憶と呼ぶには余りにも断片的な記録だ。日本の高校に入学してすぐの、16歳の誕生日を迎えたころの話だ。
「危ない」
 ――と、叫ぶ聴き慣れた友人の声と、女性の悲鳴が聞こえた。金属がパーンと何かに当たる音と、唸るような、エンジンの音が聞こえる。ぐいと左腕が引っ張られ、倒れ込み。反動でアスファルトに身を打ち付けた。グラウンドで転ぶよりもずっと痛いはずなのに、そのすりおろす様な痛みより先に……右半身に火で炙られたような痛みが爆ぜた。全治3ヶ月。斜め後ろから暴走した車両によるひき逃げ。自動車のバンパーが斜め後ろから膝を強打したことによって、足の骨と靭帯は大きな損傷を負ってしまった。
「そう。今は痛み止めも入っていて……多少楽だとは思うけれど、後でまた手術しなくちゃいけない」
 白衣を着た医師は、僕のベッドサイドに腰を曲げて説明をする。目があった看護師さんが微笑んだ。
「1回目の手術は終わっているわ。リオくん。よく頑張ったよ」
感覚の鈍い右脚に目を遣ると、白い布で目隠しがされていて患部を見ることはできない。
「傷口は見ない方がいい。お母さんも、気をつけてください」
 素早く頷く母親の表情は、今まで見たことないほどに焦っていた。
「僕って、重症なんですか」
「そうだね」
 でも、と隣にいる母親の背中をさすりながら看護師さんが口を開く。
「若いから。リハビリを頑張れば、すぐに元気になれる」
 医師は程なくして部屋を立ち去った。
母の帰った後の病室は、ひどく退屈だった。僕の身に降りかかった膨大な情報と、麻酔の感覚鈍化に頭は回らない。交通事故に遭った、という実感が全く沸かずに記憶をたどる。しかし途中に時間の断絶があり、もう何故だか明瞭に思い出すことができない。ぼう、と痛みに耐えながら母の持ってきた楽譜を眺めていると1週間が経ち、2回目の手術を迎えた。手術室から帰ってきて、目覚めた朝。ベッドテーブルに紙袋が置かれていた。忙しそうな看護師さんを止めて訊くのも申し訳なく、僕は勝手に中身を取り出した。
「お見舞い……」
 クラスメイトからの、お見舞いの寄せ書きだった。こういうの、慣れていないんだよなと思いつつも、実際に、いつもの見慣れた個性あふれる、文字を視ていると心が穏やかに凪いでゆくのを感じた。寄せ書きをそっと紙袋に戻したその日の夜は、入院してから一番ぐっすりと眠れたのだった。

「理音。好きだ」
 真剣な表情で、隣町の制服を着たマキが僕の肩を掴んで言う。あれ、マキって前のカノジョと別れたんだっけ? 心臓がドクンドクンと大きな音を立てている。
「目、つむって」
 そのまま引き寄せられ、マキがまぶたにそっと触れる。
「危ない」
 ――と、聴き慣れたマキの叫び声が聞こえ。

目が醒めた。飛び起きた寮の部屋は静まり返り、早朝の空気がひんやりとしている。どれが正しい記憶だったか。たった1年くらい前の話のはずなのに、僕の夢とうつつの境界は曖昧だった。
「配布物があるので、帰寮後13時に第2音楽室へ集合」

 鮮やかな青色にペイントされた路面電車にガタゴト揺られていると、先生が小声で言った。
 その後ろで、とんぼがすっと飛んでいるのが目に入った。

「何だろ……」

 ケントが期待を押さえきれない様子でひとり呟く。街のアーケードで催されたコンサート。僕達1年生だけでの初舞台は、想像していたよりも緊張した。
 そんな大勢の観客はいないはずなのに、優しそうなきっとどこかのお母さんやおばあちゃん、おじいちゃんが僕達の歌に耳を傾けている様子は、ステージの上からよく見えた。
そうして僕達はいくつかの舞台と、積み重ねた練習で入学当初からは想像もできないほどに絆が深まっていた。

「クリスマスコンサートの譜面じゃないですか?」

 イースがメガネを上げながら物知り顔で言う。その言葉にケントは瞳を輝かせた。

「うっそ、そっか、……ついに!」
「当校のクリスマスコンサートは、街一番の名物……と言っても大げさじゃありません」
「僕も何度か聞いたことあるかも。駅前でやってるやつだよね」
「そう。駅のクリスマスツリー点灯のタイミング位に20名全員で出る……。私は毎年、両親と一緒に見に出かけていましたよ」
「おお……。たのしみ!!」

 学校の最寄りに着くや否や、電車から勢いよく飛び出そうになってトム先生に首根っこを押さえられているのが見えた。
 相変わらず無鉄砲だが、年相応。このクリスマスコンサートを一番楽しみにしているのはケントで間違いない。
「クリスマスの時期には、当学校もコーラス隊として多くの市民の方へ披露することになります。明日からこれをやるから、各自譜読みをしておくように。ホミー、楽譜配りを手伝ってくれ」
「はい」

 2年生の代表を務めるホミーが10人分の楽譜を引き取り、ひとりひとりに楽譜を手渡した。
 のケントのみならず、皆そわそわしている。例に漏れず、僕の胸も期待に高鳴っていた。

「リオ君。はい、頑張ってね」
「先輩。ありがとうございます」

 ホミーはずい、と顔を寄せて真剣な表情をした。

「君が、1年生を引っ張ることになると思う。だけど……気負わないで。一緒に頑張ろう」

 真剣な細い瞳が僕を見つめる。その瞳は対等に僕を見据えていた。そう――イースは、マキとの関係に気づいている。そんなことが一瞬にして理解できた。
 1年生の中で、マキと会話したことがあるのは僕だけだと思う。なら、どういう関係なのか探らないほうが野暮だろう。

「まとめるには力不足かもしれないですが……がんばります」

 脳裏をよぎった要らない思案とは逆に、口を突いて出たのは素直な言葉だった。

「歌を歌うのは、大好きですから」
「いいね。それ」

 先輩はニカっと笑いながら、今から今かと待ちわびていたケントの椅子へと移っていった。
 先生からの説明は、あらかたイースが言っていたことと同じだった。このクリスマスコンサートたちは、学校の一大イベントであり、街の人たちも先生たちも大きな期待を寄せている。毎年メンバーが異なるため、歌声の雰囲気は変わるけれど、お見せするからには高いレベルを保ってほしい。君たちならできるはずだ……と。
 膝の上にずっしりと重く重なる楽譜は、角が立ったまっさらの譜面だ。
 1年生のテナーで集まり、第4音楽室で1ページめを広げたときの紙の硬さ。そして、知った旋律の美しさ。
 今までで一番、クラスメイトの声は弾んでいたし、ああ、こんな風になっているんだ。ああ、こんな歌詞なんだ。僕自身も意外と知らない有名な曲の細部に気づくことに夢中になっていた。
 ホミーに言われたように、僕はテナーの中心でピアノを弾き、指示を出す担当にいつの間にか決まっていた。
 なにも、難しい曲を全身で弾くわけではないけれど、明らかに運指が鈍っているのを感じて一瞬冷や汗をかいた。しかし、ケントは嬉しそうに言った。

「リオ、すごい。そんなにピアノ上手だったの?」
「そんな、音取りくらいしか今はできないよ」
「いや、十分だぜ。すっげえ助かる。俺なんか右手と左手が別々に動かせねえ」

 チェンがケラケラ笑いながら言う。
クリスマスに歌う曲は、聖歌が元になったものや、民謡が元になっているものが大半のため、やたらと複雑な音もなく、その日の午後で一通りの音取りは終わった。
 疲労感と、久々に動かした10本の指の感覚にぼんやりと思いを馳せている間に、その日の僕はあっという間に眠りに落ちてしまった。

音楽学校で唄う恋

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