目的地の学び舎は、海を見渡す丘の上に建っていた。
ひんやりとした朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。が、僕の心臓はバクバクと音をたてている。呼吸が浅くなり、思わず膝に手をついて、上り坂の中腹で足を止めてしまった。
「……だめだ、緊張する」
海外の音楽学校での寮暮らし、慣れない異国語、知らない人。緊張するなという方が無茶だ。僕は音楽が好きというだけで、日本から遠いノルウェーまで来てしまった。
ピアノの音色が聞こえる。
僕はハッと顔を上げた。上り坂の先に見えてきた学校からのメロディに違いない。胸の中にじわりと熱いものが広がる。
よし、とひとりで呟き、坂道を再び歩み進めた。
ノルウェー、トロンヘイムのはずれ。黒い鉄の門扉をくぐり、敷地内に一歩足を踏み入れると、そこは絵本のような世界だった。石造りの噴水は絶え間なく水を出し続け、白い石畳を辿って歩いて行くと白くこんもりとしたバラが咲き誇り、甘い香りが鼻先をくすぐる。少しつめたい秋風に吹かれ、足元で小さな花が揺れていた。
石畳の終点は、小さな礼拝堂だった。黒づくめの男の人がぽつん、と立っている。黙っているだけなのに、静かという形容詞が似合う、不思議な人だ。
「お名前は?」
感情の読み取れない声だった。僕は反射的に拳を握りしめ、男を見上げる。長い前髪が目許にかかり、表情もよく分からない。
「……ここの教師だ。私の言葉が分からない?」
顔を横に振り、僕は慌ててお辞儀をした。
「リオです」
音楽を学ぶのに必要な言葉、コミュニケーションの会話作法は叩き込んできた。なのにやる気のないやつだなんて勘違いされたくない。
男……、先生は手元の紙にペンでチェックを入れた。
「新入生には花を挿すんです。ほら、こちらに」
無表情に、寄れと言われて僕はカチコチになりながら一歩近づく。
「それじゃ遠いだろう」
男の影に入る。外国の人、いや、音楽家の人の距離感をつかむのは難しい。先生は、パーソナルスペースの狭い人種なのだろう。
(あの人とは全然違う)
先生が飾ってくれた白いバラを見下ろしながら、僕はすれ違ったまま別れた親友を思い出した。
「あちらで入学の式と説明会が行われます。どうぞ」
「はい」
教師が指す方には赤い屋根の講堂があり僕れと同じ新入生と思われる男子生徒がそちらに向かって歩いていた。
講堂に恐る恐る入ると、天井は高く、振り返るとパイプオルガンが鎮座している。案内役の教師はおらず、先に来た順に、長椅子に座るようであった。
ここでいいのだろうか。戸惑いながら腰掛けると、年季の入った椅子はわずかにきしんだ。隣の生徒は僕に軽く頭を下げた。
十字架の後ろは採光窓になっていて、すりガラスの向こう側で木の葉が揺れていた。
黒いガウンを纏った人が前に立つ。皆、自然と視線が向かった。
「ようこそ、我が校へ。歌は人生を豊かにする。君たちには、ぜひ実りある二年間を過ごして頂きたい」
周りの教師と比べても、ひときわ目を引く、風格のあるオペラ歌手のような男性が、穏やかな声で宣言をした
「以上、学長からのご挨拶でした」
花飾りを手渡していた教師が挨拶を締める。その神経質そうな黒髪の男の名前はジンと言うらしい。
「休憩を挟んで、次はミニコンサートです」
淡々とスケジュールを言うと、教師は早々に脇へ引っ込んでいった。
「ねえ」
床板を踏み鳴らす教師の足音が去ったあと、僕の隣に座る生徒がこそこそっと声を掛けてきた。ひときわ小柄で、年下かと見間違うような男子だ。
「名前何って言うの?」
「僕?」
「うん」
「リオ。理科の理に、音楽の音で、理音」
うっかりいつものように説明をしたが、ケントはよく分かっていない様子だった。
当たり前だ。目の前の生徒はアジア系の顔立ちをしているとはいえ、ここは日本ではない。漢字なんて分かるわけがない。
改めて、異国に来てしまったのだと心細くなる。
「俺はケントっていうんだ。よろしく、リオ」
差し出された小さい手のひらをぎゅっと握り返すと、ケントは嬉しそうにぶんぶんと上下に振った。勢いの良さにびっくりし、そしてほっとした。緊張が一気に解ける。椅子の背に身を預け、僕は日本に残る家族を思った。
リオ、という名前の由来は両親だ。父親が理科の先生で、母親が日本人声楽家。分かりやすく、かつ名乗るたびに家族を感じることができる。
由来を母に教えられたときは、そうなんだ、としか思えなかった。でも今は違う。名前を胸の中で唱え、僕は深呼吸した。
母親が入れたピアノ教室で音楽に出会った。
教室に通う男子は僕含め2人しかいなかった。だから、自然とマキくん、というひとつ年上の男子と仲良くなった。
最初に会ったときは、「でか」だった。ひとつ年上といえども、その背丈が印象深かった。
母親は元より歌をやらせたかったらしく、母親同士で仲良くなっていた友人もまた、僕が歌に転向する際に同じように歌を始めるようになった。
足音が聞こえる。ピリリと変わった講堂の雰囲気に僕は思わず背筋を伸ばした。休み時間中ずっとキョロキョロとしていた隣のケントも変化に気づき、姿勢を正している。10人の在校生がステージに上がる。その中にマキがいた。
マキがいることを知って、この学校を選んだ。だから彼が現れたのは当然なのに、姿を見つけた瞬間、心臓が止まるかと思った。
指揮者なしでア・カペラで歌うようだ。ちょうど中央に立つマキがすっと右手を上げた刹那、視線が交絡した。しかし、即座に視線を逸らされ歌唱が始まった。
出だしのソロはマキだった。美しい旋律は僕の身体を射抜くようで非常に情緒的。短い曲ではあるが、明るい入学式にふさわしい歌だ。
歌い終えて一礼をする。しかし、一度重なった視線は重なることがなかった。久しぶりだというのに何故こんなにも余所余所しく振る舞われるのか。
小さな違和感の棘を覚えながらも、マキの去っていく姿をぼんやりと見送った。
ミニコンサートが終わると、ケントが興奮気味に口を開いた。
「すごい、すごいね! ずっとこの学校に憧れてたんだ。君は、リオはどうだった?」
ケントの様子に気圧される。
「僕も、同じだ」
その返事に気を良くしたケントがさらに質問を重ねる。
「ねえ、誰かあこがれの先輩とかいる?」
「ええ? 名前とか全然分からないよね」
「俺はいるよ」
誇らしげな様子でケントが言う。
「真ん中で歌ってた先輩。俺の地元にチャリティコンサートで来たときから、ずっと憧れてるんだ」
先輩が歌い出すと、コーラス全体がぱっとはなやかになるんだ。あとこの合唱団にもすごくあこがれている。ささくような歌声から、大地をうちならすカミナリのような音の洪水まで。同じ人間から出ているとは思えないいろんな顔をひめた音楽はここにしかないし、俺のお気に入りなんだ。
そう饒舌に語るケントに、僕は自然と頷きながら話を促していた。
「そのコンサートで聴いたのが、天使のかてを……なんだ」
「Panis angelicus……の?」
「そう、それ。そこで今日みたいに歌い出したのが、あの先輩。本当に、すごい」
ひんやりとした朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。が、僕の心臓はバクバクと音をたてている。呼吸が浅くなり、思わず膝に手をついて、上り坂の中腹で足を止めてしまった。
「……だめだ、緊張する」
海外の音楽学校での寮暮らし、慣れない異国語、知らない人。緊張するなという方が無茶だ。僕は音楽が好きというだけで、日本から遠いノルウェーまで来てしまった。
ピアノの音色が聞こえる。
僕はハッと顔を上げた。上り坂の先に見えてきた学校からのメロディに違いない。胸の中にじわりと熱いものが広がる。
よし、とひとりで呟き、坂道を再び歩み進めた。
ノルウェー、トロンヘイムのはずれ。黒い鉄の門扉をくぐり、敷地内に一歩足を踏み入れると、そこは絵本のような世界だった。石造りの噴水は絶え間なく水を出し続け、白い石畳を辿って歩いて行くと白くこんもりとしたバラが咲き誇り、甘い香りが鼻先をくすぐる。少しつめたい秋風に吹かれ、足元で小さな花が揺れていた。
石畳の終点は、小さな礼拝堂だった。黒づくめの男の人がぽつん、と立っている。黙っているだけなのに、静かという形容詞が似合う、不思議な人だ。
「お名前は?」
感情の読み取れない声だった。僕は反射的に拳を握りしめ、男を見上げる。長い前髪が目許にかかり、表情もよく分からない。
「……ここの教師だ。私の言葉が分からない?」
顔を横に振り、僕は慌ててお辞儀をした。
「リオです」
音楽を学ぶのに必要な言葉、コミュニケーションの会話作法は叩き込んできた。なのにやる気のないやつだなんて勘違いされたくない。
男……、先生は手元の紙にペンでチェックを入れた。
「新入生には花を挿すんです。ほら、こちらに」
無表情に、寄れと言われて僕はカチコチになりながら一歩近づく。
「それじゃ遠いだろう」
男の影に入る。外国の人、いや、音楽家の人の距離感をつかむのは難しい。先生は、パーソナルスペースの狭い人種なのだろう。
(あの人とは全然違う)
先生が飾ってくれた白いバラを見下ろしながら、僕はすれ違ったまま別れた親友を思い出した。
「あちらで入学の式と説明会が行われます。どうぞ」
「はい」
教師が指す方には赤い屋根の講堂があり僕れと同じ新入生と思われる男子生徒がそちらに向かって歩いていた。
講堂に恐る恐る入ると、天井は高く、振り返るとパイプオルガンが鎮座している。案内役の教師はおらず、先に来た順に、長椅子に座るようであった。
ここでいいのだろうか。戸惑いながら腰掛けると、年季の入った椅子はわずかにきしんだ。隣の生徒は僕に軽く頭を下げた。
十字架の後ろは採光窓になっていて、すりガラスの向こう側で木の葉が揺れていた。
黒いガウンを纏った人が前に立つ。皆、自然と視線が向かった。
「ようこそ、我が校へ。歌は人生を豊かにする。君たちには、ぜひ実りある二年間を過ごして頂きたい」
周りの教師と比べても、ひときわ目を引く、風格のあるオペラ歌手のような男性が、穏やかな声で宣言をした
「以上、学長からのご挨拶でした」
花飾りを手渡していた教師が挨拶を締める。その神経質そうな黒髪の男の名前はジンと言うらしい。
「休憩を挟んで、次はミニコンサートです」
淡々とスケジュールを言うと、教師は早々に脇へ引っ込んでいった。
「ねえ」
床板を踏み鳴らす教師の足音が去ったあと、僕の隣に座る生徒がこそこそっと声を掛けてきた。ひときわ小柄で、年下かと見間違うような男子だ。
「名前何って言うの?」
「僕?」
「うん」
「リオ。理科の理に、音楽の音で、理音」
うっかりいつものように説明をしたが、ケントはよく分かっていない様子だった。
当たり前だ。目の前の生徒はアジア系の顔立ちをしているとはいえ、ここは日本ではない。漢字なんて分かるわけがない。
改めて、異国に来てしまったのだと心細くなる。
「俺はケントっていうんだ。よろしく、リオ」
差し出された小さい手のひらをぎゅっと握り返すと、ケントは嬉しそうにぶんぶんと上下に振った。勢いの良さにびっくりし、そしてほっとした。緊張が一気に解ける。椅子の背に身を預け、僕は日本に残る家族を思った。
リオ、という名前の由来は両親だ。父親が理科の先生で、母親が日本人声楽家。分かりやすく、かつ名乗るたびに家族を感じることができる。
由来を母に教えられたときは、そうなんだ、としか思えなかった。でも今は違う。名前を胸の中で唱え、僕は深呼吸した。
母親が入れたピアノ教室で音楽に出会った。
教室に通う男子は僕含め2人しかいなかった。だから、自然とマキくん、というひとつ年上の男子と仲良くなった。
最初に会ったときは、「でか」だった。ひとつ年上といえども、その背丈が印象深かった。
母親は元より歌をやらせたかったらしく、母親同士で仲良くなっていた友人もまた、僕が歌に転向する際に同じように歌を始めるようになった。
足音が聞こえる。ピリリと変わった講堂の雰囲気に僕は思わず背筋を伸ばした。休み時間中ずっとキョロキョロとしていた隣のケントも変化に気づき、姿勢を正している。10人の在校生がステージに上がる。その中にマキがいた。
マキがいることを知って、この学校を選んだ。だから彼が現れたのは当然なのに、姿を見つけた瞬間、心臓が止まるかと思った。
指揮者なしでア・カペラで歌うようだ。ちょうど中央に立つマキがすっと右手を上げた刹那、視線が交絡した。しかし、即座に視線を逸らされ歌唱が始まった。
出だしのソロはマキだった。美しい旋律は僕の身体を射抜くようで非常に情緒的。短い曲ではあるが、明るい入学式にふさわしい歌だ。
歌い終えて一礼をする。しかし、一度重なった視線は重なることがなかった。久しぶりだというのに何故こんなにも余所余所しく振る舞われるのか。
小さな違和感の棘を覚えながらも、マキの去っていく姿をぼんやりと見送った。
ミニコンサートが終わると、ケントが興奮気味に口を開いた。
「すごい、すごいね! ずっとこの学校に憧れてたんだ。君は、リオはどうだった?」
ケントの様子に気圧される。
「僕も、同じだ」
その返事に気を良くしたケントがさらに質問を重ねる。
「ねえ、誰かあこがれの先輩とかいる?」
「ええ? 名前とか全然分からないよね」
「俺はいるよ」
誇らしげな様子でケントが言う。
「真ん中で歌ってた先輩。俺の地元にチャリティコンサートで来たときから、ずっと憧れてるんだ」
先輩が歌い出すと、コーラス全体がぱっとはなやかになるんだ。あとこの合唱団にもすごくあこがれている。ささくような歌声から、大地をうちならすカミナリのような音の洪水まで。同じ人間から出ているとは思えないいろんな顔をひめた音楽はここにしかないし、俺のお気に入りなんだ。
そう饒舌に語るケントに、僕は自然と頷きながら話を促していた。
「そのコンサートで聴いたのが、天使のかてを……なんだ」
「Panis angelicus……の?」
「そう、それ。そこで今日みたいに歌い出したのが、あの先輩。本当に、すごい」