目的地の学び舎は、海を見渡す丘の上に建っていた。
 ひんやりとした朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。が、僕の心臓はバクバクと音をたてている。呼吸が浅くなり、思わず膝に手をついて、上り坂の中腹で足を止めてしまった。

「……だめだ、緊張する」

 海外の音楽学校での寮暮らし、慣れない異国語、知らない人。緊張するなという方が無茶だ。僕は音楽が好きというだけで、日本から遠いノルウェーまで来てしまった。
 ピアノの音色が聞こえる。
 僕はハッと顔を上げた。上り坂の先に見えてきた学校からのメロディに違いない。胸の中にじわりと熱いものが広がる。
 よし、とひとりで呟き、坂道を再び歩み進めた。
 ノルウェー、トロンヘイムのはずれ。黒い鉄の門扉をくぐり、敷地内に一歩足を踏み入れると、そこは絵本のような世界だった。石造りの噴水は絶え間なく水を出し続け、白い石畳を辿って歩いて行くと白くこんもりとしたバラが咲き誇り、甘い香りが鼻先をくすぐる。少しつめたい秋風に吹かれ、足元で小さな花が揺れていた。
 石畳の終点は、小さな礼拝堂だった。黒づくめの男の人がぽつん、と立っている。黙っているだけなのに、静かという形容詞が似合う、不思議な人だ。

「お名前は?」

 感情の読み取れない声だった。僕は反射的に拳を握りしめ、男を見上げる。長い前髪が目許にかかり、表情もよく分からない。

「……ここの教師だ。私の言葉が分からない?」

 顔を横に振り、僕は慌ててお辞儀をした。

「リオです」

 音楽を学ぶのに必要な言葉、コミュニケーションの会話作法は叩き込んできた。なのにやる気のないやつだなんて勘違いされたくない。
 男……、先生は手元の紙にペンでチェックを入れた。

「新入生には花を挿すんです。ほら、こちらに」

 無表情に、寄れと言われて僕はカチコチになりながら一歩近づく。

「それじゃ遠いだろう」

 男の影に入る。外国の人、いや、音楽家の人の距離感をつかむのは難しい。先生は、パーソナルスペースの狭い人種なのだろう。

(あの人とは全然違う)

 先生が飾ってくれた白いバラを見下ろしながら、僕はすれ違ったまま別れた親友を思い出した。

「あちらで入学の式と説明会が行われます。どうぞ」
「はい」

 教師が指す方には赤い屋根の講堂があり僕れと同じ新入生と思われる男子生徒がそちらに向かって歩いていた。
 講堂に恐る恐る入ると、天井は高く、振り返るとパイプオルガンが鎮座している。案内役の教師はおらず、先に来た順に、長椅子に座るようであった。
 ここでいいのだろうか。戸惑いながら腰掛けると、年季の入った椅子はわずかにきしんだ。隣の生徒は僕に軽く頭を下げた。
 十字架の後ろは採光窓になっていて、すりガラスの向こう側で木の葉が揺れていた。
 黒いガウンを纏った人が前に立つ。皆、自然と視線が向かった。

「ようこそ、我が校へ。歌は人生を豊かにする。君たちには、ぜひ実りある二年間を過ごして頂きたい」

 周りの教師と比べても、ひときわ目を引く、風格のあるオペラ歌手のような男性が、穏やかな声で宣言をした

「以上、学長からのご挨拶でした」

 花飾りを手渡していた教師が挨拶を締める。その神経質そうな黒髪の男の名前はジンと言うらしい。

「休憩を挟んで、次はミニコンサートです」

 淡々とスケジュールを言うと、教師は早々に脇へ引っ込んでいった。

「ねえ」

 床板を踏み鳴らす教師の足音が去ったあと、僕の隣に座る生徒がこそこそっと声を掛けてきた。ひときわ小柄で、年下かと見間違うような男子だ。

「名前何って言うの?」
「僕?」
「うん」
「リオ。理科の理に、音楽の音で、理音」

 うっかりいつものように説明をしたが、ケントはよく分かっていない様子だった。
 当たり前だ。目の前の生徒はアジア系の顔立ちをしているとはいえ、ここは日本ではない。漢字なんて分かるわけがない。
 改めて、異国に来てしまったのだと心細くなる。

「俺はケントっていうんだ。よろしく、リオ」

 差し出された小さい手のひらをぎゅっと握り返すと、ケントは嬉しそうにぶんぶんと上下に振った。勢いの良さにびっくりし、そしてほっとした。緊張が一気に解ける。椅子の背に身を預け、僕は日本に残る家族を思った。
 リオ、という名前の由来は両親だ。父親が理科の先生で、母親が日本人声楽家。分かりやすく、かつ名乗るたびに家族を感じることができる。
 由来を母に教えられたときは、そうなんだ、としか思えなかった。でも今は違う。名前を胸の中で唱え、僕は深呼吸した。
 母親が入れたピアノ教室で音楽に出会った。
 教室に通う男子は僕含め2人しかいなかった。だから、自然とマキくん、というひとつ年上の男子と仲良くなった。
 最初に会ったときは、「でか」だった。ひとつ年上といえども、その背丈が印象深かった。
 母親は元より歌をやらせたかったらしく、母親同士で仲良くなっていた友人もまた、僕が歌に転向する際に同じように歌を始めるようになった。
 足音が聞こえる。ピリリと変わった講堂の雰囲気に僕は思わず背筋を伸ばした。休み時間中ずっとキョロキョロとしていた隣のケントも変化に気づき、姿勢を正している。10人の在校生がステージに上がる。その中にマキがいた。
 マキがいることを知って、この学校を選んだ。だから彼が現れたのは当然なのに、姿を見つけた瞬間、心臓が止まるかと思った。
 指揮者なしでア・カペラで歌うようだ。ちょうど中央に立つマキがすっと右手を上げた刹那、視線が交絡した。しかし、即座に視線を逸らされ歌唱が始まった。
 出だしのソロはマキだった。美しい旋律は僕の身体を射抜くようで非常に情緒的。短い曲ではあるが、明るい入学式にふさわしい歌だ。
 歌い終えて一礼をする。しかし、一度重なった視線は重なることがなかった。久しぶりだというのに何故こんなにも余所余所しく振る舞われるのか。
 小さな違和感の棘を覚えながらも、マキの去っていく姿をぼんやりと見送った。


 ミニコンサートが終わると、ケントが興奮気味に口を開いた。

「すごい、すごいね! ずっとこの学校に憧れてたんだ。君は、リオはどうだった?」

 ケントの様子に気圧される。

「僕も、同じだ」

 その返事に気を良くしたケントがさらに質問を重ねる。

「ねえ、誰かあこがれの先輩とかいる?」
「ええ? 名前とか全然分からないよね」
「俺はいるよ」

 誇らしげな様子でケントが言う。

「真ん中で歌ってた先輩。俺の地元にチャリティコンサートで来たときから、ずっと憧れてるんだ」

 先輩が歌い出すと、コーラス全体がぱっとはなやかになるんだ。あとこの合唱団にもすごくあこがれている。ささくような歌声から、大地をうちならすカミナリのような音の洪水まで。同じ人間から出ているとは思えないいろんな顔をひめた音楽はここにしかないし、俺のお気に入りなんだ。
 そう饒舌に語るケントに、僕は自然と頷きながら話を促していた。

「そのコンサートで聴いたのが、天使のかてを……なんだ」
「Panis angelicus……の?」
「そう、それ。そこで今日みたいに歌い出したのが、あの先輩。本当に、すごい」
 マキが、自分の見ないうちにそんなにも合唱団の中心的存在になっていたとはまるで知らなかった。親がわざと言わないようにしていたのかもしれない。もとよりマキは優れた才能と音楽センスを持つ人だったからその結果は当然のような気がする。しかし、マキの歌声を最後に聞いたのはとうに1年以上も前だったから、今日の歌声は僕の耳に新鮮に響いた。
このあとは2年間暮らすことになる校舎と宿舎の紹介があるそうだ。講堂を出ると青い空に、緑色の葉っぱがソヨソヨと揺れている。とてもいい天気だ。ここは歌うためだけに過ごす学校だ。家柄も、年齢も関係なく、ただ歌うことが好きな少年が集まり、歌う。決して大規模な音楽学校ではない。世界中を巡るような学校でもない。
 しかし昔からひっそり、この音楽学校は合唱界隈で一定の地位を築いていた。たった2年間だが、卒業生は美しい音楽と庭と友情に触れ、心の豊かな音楽家になる……そんな学校だ。
 食堂へ向かって歩いていると、右脚に痛みが走り思わず顔をしかめた。膝を中心に鈍く響く痛みは、ケントに続いて早足で移動していたスピードを緩めなくてはならない。
「大丈夫?」
 立ち止まった僕に気づいて、ケントが心配そうに声をかける。
「ちょっとぶつけただけ」
 ほんと? と小さな口で不思議そうに尋ねるケントをなだめて、もういちどゆっくりと足を動かす。大丈夫、そんなに激しい痛みじゃない。嫌な汗が額に滲むが、かかとから響く鈍痛はケントと話すことでいくらか誤魔化せた。
「お腹空いてきた~」
 コンソメの匂いが鼻をくすぐる。ケントは食堂へ、僕の手を引いた。
 かつて友人に傷つけられたせいで、後遺症が残る右脚。僕が同期と比較して年が上なのも怪我のせいだ。病院に3か月間入院し、その後もリハビリなどで休むうちに結局1年間学校を休学して……自動的に留年。そんな代償を払ってもなお、消えない鈍痛にはほとほと困らされている。今まで右脚で踏んでいたピアノのペダルは、もう痛み無しには踏めない。しかし、痛みに耐えてなお弾きたいという訳ではなかったから、惰性で続けていたピアノ教室を辞めることに未練は無かった。ピアノを辞め、時間がぽっかりと空いた。けど、考えごとをするでもなく、唯々マンガを読んでゴロゴロしていた。そんなとき、マキが海外で有名な音楽学校に入学したという話を母親から聞いた。あれはちょうど退院して、自宅から、リハビリのために病院へ通う日々にも飽き始めたころだった。
 僕も歌をやりたいと告げると、母親は喜んで指導を始めた。結局僕は元の学校に復学すること無く、海の向こうの音楽学校へ進学することとなった。
合格を機に、嬉しそうな母親の姿を見て、安堵したのを今も鮮明に記憶している。リオはチャンス手にしたのよ、と庭の花々を手入れする母親の姿は、僕が事故に遭ってから久しく見ていない明るい表情だった。あの頃、僕は何か夢中になれるものを欲していたのだろう。絶え間なく教えられた歌の旋律に、母親とデュエットしたときの移りゆくハーモニーの美しさに、僕は胸を打たれていた。神への称賛の歌や、恋愛や友情の歌。訪れたことのない国の風景の歌。病院と自宅という狭い世界で過ごしていたとは思えないほどに広い世界を体感していた母との一年と数か月は、僕の人生にとって最大の転機であったことは間違いなかった。
 隣の教室から怒鳴り声が聞こえてクラスの生徒たちは反射的に肩をすくませた。低い声が地鳴りのように何かを言っているのが木製の壁越しにこちらまで聞こえてくる。
「マキ、いい加減にしろ」
彼のこと、だった。しかし、僕の記憶にあるマキの姿と、隣の教室で叱られている人物像が一致しない。マキという男は、そういうふうに怒られるほど不器用な人間ではなかったはずだ。無論、それは僕に見せていたマキの姿がピアノ教室での一面に過ぎなかった可能性は否定できないが、だ。器用で、快活。僕より後にピアノ教室へ入ったのに、あっという間に先生とも打ち解ける人としての明るさを持つ。職人肌というよりは、天才。僕がぐるぐると悩みながら完成させる曲の真横を、軽やかに駆けてゆく。記憶の中のマキと、学校で人づてに聞くマキが微妙に重なり合わない。僕の知らないマキに変わっていた?開け放たれていた窓から木々のざわめきが聞こえる。手元にあった音楽史の教科書が急に白けて見える。マキはもう僕の知っている、彼ではないのかもしれない。唐突に浮かんだ疑念が、僕の脳を支配していた。
「それにしても、トム先生はどこいったんだろね」
 ケントは困った顔をして言う。授業を担当していたトム先生は、用意した資料を印刷室に置き忘れてきただとかでもう10分くらい席を外している。教室の中は、先程の騒動のせいでざわつき、誰も集中できていない。同様に、僕も教科書に目を滑らせ頭の中ではマキのことに考えを巡らせていたから大概だ。
「ちょっと先生呼んできます」
 僕が立ち上がると、お調子者のチェンは「ラッキー、お願いします」と笑った。印刷室のある部屋へ向かうと、トム先生が落としたプリントを拾い歩いているところだった。白髪のまるでサンタクロースさんのような先生は、僕に気づくと「すまんねえ」と頭をかいた廊下に散らばる紙を、しゃがんで拾い集める。
「先程、隣の教室で恐らく……ジン先生が声を荒げていらっしゃったのですが、大丈夫でしょうか」
「ああ、ジン先生ね。うん、ちょっと生徒と……ね」
 先生は白いひげをもごもごと言い辛そうに動かす。
「なに、普通にしていれば、先生たちは意味もなく怒ったりしない。大丈夫だ」
 夏の盛りに合同練習が催されることになった。まだ授業で使ったことのない、大きな第一音楽室に集められた20人の生徒と、2名の教師。ここにも慣れてきたが、大半の先輩の顔と名前は一致しておらず薄っすらとした緊張が1年生の間にただよっていた。
「じゃ、皆集まったね。今から合同練習を始めるが、その前に自己紹介をしましょう。1年生から、はいよろしく」
 早口でジン先生が指示をし、僕と視線がかち合う。端の席に座っていたのが災いした。早く、とあごを動かす先生。ツイてないなあ、と思いつつも年長者の僕から行くのは妥当なのかもしれないとひとり納得し、席を立った。
「1年のリオです。パートはテナー。好きな食べ物は……食堂のクロワッサンです。よろしくお願いします」
 パチパチと好奇心に満ちた拍手が2年生の方から聞こえる。僕の近くのクラスメイトは、来る自己紹介に緊張気味なのか拍手をする手が妙にガクガクしている。
 馴染みの九人の自己紹介を改めて聞くと、なんだか面白くて笑いを堪えるのに必死だった。特にチェンとロンは双子なのに、好きな食べ物がそれぞれパンとパスタで対立しているのが可笑しい。その上、勝ち気なチェンとイースに負けず劣らず超真面目なロンは性格すら真逆と来た。なのに性別も同じで見た目もそっくりなのは神様のいたずらといったところだろう。
「皆、もう少し真面目に自己紹介をしたらどうなのかね」
 僕たちの自己紹介を聞いたジン先生がイライラした様子で苦言を呈する。貧乏ゆすりをやめてジロリと僕たちを見舐める。
「まあまあ、いい歌い手が集まった期ですよ」
 トム先生がジン先生をなだめる。そのほほえみにチラリと目線を移し、はあと大きな溜息をつく。そしてジン先生は2年生に「じゃ、先輩らしくよろしく」と自己紹介を促した。
「ホミーです。一応この期の代表やってます。よろしくね」
 人懐こい笑顔を浮かべ、ホミーは一番乗りで自己紹介を買って出た。
「何か先生に言いづらいこととか、好きな映画とか、何でも俺に聞いてね」
先生に言いづらいこと、の部分にジン先生が眉間にシワを寄せる。その様子にはは、とホミーは笑いながら隣の席に座る男の肩を叩いた。
「じゃ、次はマキ」
 叩かれた肩にびくりとし、戸惑ったように……いや、渋々とマキは立ち上がった。のそりと立つ長身が、所在なさげに肩を丸める。
 が、口を開かない。沈黙が5秒、違和感に気づいた生徒たちは視線をマキに遣り始める。ねえ、どうしたの? あれ、先輩? 心配そうなひそひそ話が湧き始める。
「――先輩、なんでしゃべらないの」
 どこからともなく聞こえた疑問符。その声にマキの眼球が動く。僕の、隣へ。ケントだ。無邪気な疑問は、誰もが声に出すことを遠慮していた内容そのもの。
 様子見をしていたホミーがたしなめるように声をかける。それに身体を少し揺らすと、マキは微かに口を開いた。
「バス」
 必要事項だけぼそりと言うと、マキは直ぐに席についてしまった。何、あの人。という雰囲気が漂う。そして、妙に大人びて見えたマキに僕はどきりとした。そのあとの先輩の自己紹介は右から左へさっぱり頭に入らず、僕は機嫌の悪いジン先生の「はい、さっさと練習始めます」の声でハっとした。
「ホミー、ピアノの先生呼んできて」
「うーっす」
 先輩は駆け足で音楽準備室の方へとドアを出る。その間に、ジン先生が手早くペアを組ませる。
「あっち、お前はこっち。そこ、無駄話すんな」
 恐らく高低でペアを組んでいるのだろう。僕はあっという間にケントと離されてしまった。
「マキ、お前リオとペア」
 よりによって。気まずい相手になってしまった。不平を言おうにも、ジン先生はさっさと振り分けをし、音楽室に戻ってきたホミーの方へと向かってしまった。
「ホミーはチェンと」
 ピアノの先生が、天板を開ける。ピアノを囲むように半円状に立つ。
「じゃあ、始めますね。いつも練習してたと思うけど、コンコーネ50番。頭から行きます」
 決して難しいメロディではないけれど、丁寧さが求められる基礎的な練習曲集であるコンコーネ。自分自身の声だけでなく、隣に立つ人の歌声にもきちんと耳を澄ませる必要がある。隣に立つマキの背丈は、僕よりも頭ひとつ高くなっていた。いつの間に、という雑念が頭をよぎる。
「1年、集中して」
 ジン先生の激が飛ぶ。その声にひやりとした。僕の頭上から響く歌声。その旋律はピッチがきちんと合っており、自分の声が上ずっていることに気づく。バスにはつらい音程であるはずなのに、マキは驚くくらい正確に音符を打ち当てている。コンコーネの悠長なメロディさえも、マキが歌うと色づいて聞こえる。言うなれば、森のような緑。ブレスのときに聞こえるその息の音さえも、崇高なものに聞こえた。
 ピアノの音が止み、一旦終了だ。
「じゃ、お互いに指摘してね。1年から」
 指示の元、音楽室は向かい合ってお互いに言う感想でざわつく。やれ、ドの音がうまく戻ってないだの、あそこの休符はブレスじゃないから吸うと良くないんじゃないかだの。
「マキは……すごく、良かったと思う」
 向き合っておずおずと感想を言うと、表情をぴくりともせずマキは小さく頷いた。じゃあ、僕に何かアドバイスを……と思い、マキからの指摘を待つ。しかし、マキは口を一向に開こうとしない。
「何か、アドバイス貰えると助かるんだけど。うん、まあでも……さっきは全然、駄目駄目だったと自分で気づいてる」
 何も言わないマキの前で、自己反省会をしているだけになっていた。
「マキ……せ、先輩は、どう思いますか」
 かつての同級生に先輩という呼称をつけるのに躊躇いを感じてどもる。しかしマキからの返事を貰う前に、指摘するための時間は終わって次の曲へと進んでしまった。 上と下に分かれて和音を歌うときに聞こえる歌声は間違いなくマキのものであるのに、マキから僕に向けた言葉を貰うことはできない。僕は、嫌われているのだろうか。しっとりとした歌声が出る口元をじいと見上げると、僕とは違う低い声が耳朶を底からじわじわと震わせる。見つめる先に引っ張られ、僕の姿勢はわずかに崩れる。
「体幹、基礎だよ、基礎。なんで今さら」
 僕の背中をパシンと叩き、ジン先生が怒りを露わにする。
「あごをあげない。高音きついなら重心は下! 相手見て歌えつったけど、見つめるな!」
 僕の姿勢がぐいぐいと矯正されるのを見下ろしながら、マキは淡々と歌い続けていた。見つめるという単語に何故か体温がぎゅうと上がる。
 マキは、僕のことを冷めた目で見ているのに、僕はマキのことを熱い目で見ていた。そのことを他人から指摘された羞恥心で、僕は平常心ではいられなかった。変わってしまったのは、間違いなくマキの方なのだけど、僕も変わってしまっているのかもしれない。そんな答えが、ふいに導き出された。書きたいことはあるのに、書いてよいことが分からない。真っ白なままの罫線を前に、僕は悶々とペンを絡ませていた。机の上のライトに薄っすらと積もっていた白い埃を指で弄ぶ。書かなくてはならないのは、今日の練習の内容と反省。つまり、合同練習についてのこととなる。僕とマキが故郷で友人だったということなど、クラスメイトの誰も知らないことだしそれを書く義務なんて全く無い。だから単純に、マキ先輩は素晴らしい歌声と技術でした。こんな風に成長したいです。と書くこともできる。でも、僕の中のわがままな欲が、他人行儀に書くべきでないとペンを止めるのだ。マキは、ひどく変わってしまっていた。それは多分成長というものではなくて、変化と言う方がより正確だ。もともと、マキはあんなに喋らない人間では無かった。普通に僕と大好きな歌について帰り道に語らい、そしてお互いの学校で起きた小さな事件について他愛もない議論をする。ルームメイトのイースが椅子をギシリと鳴らして、声を掛けてきた。
「なあリオ。例の先輩と今日ペアだったんだろう」
「ああマキのこと……」
「なに、知り合いなの?」
「ん、まあ……」
 知り合い、というか親友だったんだよ。という自己顕示欲を飲み込む。傍から見たら友人にすら見えないはずだから。喉がひどく乾く。ん、っと反射的に咳き込んでしまった。
「あの人、何も話さないらしいんです。だから、ちゃんと歌っているのか気になるんです」
「ええ?」
「なのに、学校の歴史中でも指折りのエースと言われているなんて不思議じゃないか」
 ミーハー心むき出しのイースにたじろぎながら、当たり障りのない返事をする。
「普通だったよ」
「いやいや、あの人がまずもう浮きまくり、1年生の中で格好のうわさの種ですから。普通に歌ってるって言われて、はいそうなんだへえ、って信じられませんよ」
 眉を動かし、イースは疑わしい視線を向ける。僕は思わず顔をそむけた。
「上手かったよ。さすが、先輩って感じ」
 小さな嘘のせいか、かつて痛めた右脚がずきりと痛んだ。もしかしたら、幻肢痛のようなものかもしれない。マキを感じることが増えたことで、怪我をした日の痛みが蘇っている可能性が高い。イースに気づかれないように、痛む脚をさすると幾分か痛みは和らいだ。
「うわさ話はやめよう。あのさ、イースはなんでここに入学したの? そういえば聞いてなかったなって……」
 話をどうにかそらしたい一心で、僕は不自然な話題転換をしてしまう。つまらなさそうな表情を浮かべていたイースはわざとらしい溜息をつくと、にいっと口端を上げた。
「私ですか?」
「うん」
「まあ、何と言いますか……私は、世界的にビッグな音楽家になるためにここに来たんです」
 少し鼻をかいて恥じらいながら言い出したイースだったが、最終的には胸を張って自信満々の表情で言い放った。
「ここは、小規模ですが入学時の国籍、家柄、経歴を問わず実力のみで評価してくれる実力主義の学校です。私はそこでトップを取るんです」
 だから、とイースは僕にピシリと指を指す。
「リオにも容赦しませんから」
 妙に勝ち気な様子につい笑うと、イースは少し不機嫌さを滲ませて早口で言う。
「そういう君こそ、ちょっとしたうわさですよ」
「うわさ? ええ、ちょっと困るなあ」
「あの先輩と歌った、って。マキ先輩、嫌な人が相手だと歌いすらしないらしいですよ」
「そんなことするの?」
「あくまでうわさ、ですけれどね」
「うわさうわさって、確かな情報は無いのか」
「当たり前じゃないですか。だって、クラスメイト相手にほとんど口を利かないんだから。うわさしか流れないんですよ」
 ひそひそ声で話すイースについ耳を傾けると、マキが本当に無口……寡黙な先輩としてこの学校生活を送ってきたということが分かった。かつてのマキについては触れない方が良い。そう気づいた僕は、ノートに正しいレポートを書き込み、夜は更けていった。
 チャイムが鳴った放課後の廊下は、足早に教室を飛び出る人や友人同士での雑談に興じる人など様々であった。特に用事のない僕は、自分の部屋のある宿舎へと向かっていた。その時、見覚えのある顔が向こうからだんだん近づいて来るのに気付いた。マキだ。当の本人は、僕のことなど気づいていないかのように淡々とこちら側へと進んでくる。
「ねえ」
 僕を無視して通り過ぎようとされる。しらじらしい腕を掴むと、意外にもマキは立ち止まり、僕を一瞥する。しかし何も言わない。じれったくなった僕はマキを睨み上げた。
「忘れたの? 友達だったよね」
 掴まれた腕を振り払われた。
「もう友達でいる資格なんかない。だから違う」
 口を開いたかと思ったら意味の分からないことをくぐもった声で言い出した。
「資格って、なにそれ」
 友達かどうかに資格なんて無いだろう。お互いに友人だと思っているから、そうなんじゃないか。
「お前、分かっているだろう?」
 僕の足元を見て言い放つ。思わず右脚を一歩引くと、マキは眉をしかめた。
「まだ痛むんだろ。その怪我」
「別に。もう平気。こんなの大したことじゃない」
 事故にあってからどれだけ経ったを思っているの。ピアノが満足に弾けなくなったことよりももっと辛いことがあったのに、それに当のマキは気づいてくれていない。
「大した事だろうが」
 深く溜息をつくマキは、しばらく沈黙した後で、重い口を開いた。
「反省したんだよ。お前の将来を潰した俺なりの反省……なのに、何でここに来ちまったんだよ」
 的外れな反省がこんなにも不快だとは初めて知った。噛み締めた唇の端がぴりりと切れる。相手が口数少ない故に、こちらが馬鹿みたいに怒っている風でますます苛立ちが募っていく。嫌いなんかじゃなかったはずなのに、僕の中で嫌いという感情が沸騰しそうになる。
「あのさ、放課後の練習室借りてるから…、どいてくれない?」
 火に油を注ぐとはまさにこのこと。こちらが何も返事をしないのをいいことに、僕を押しのけようとした。
「歌、聞かせてよ」
 目が合った。暗い緑色の瞳は、何を意固地になっているのか、理解しがたかった。じゃあ、と強気に提案すると、マキは嫌な表情を浮かべる。
「どうしてお前に聴かれなくちゃいけない」
「僕を避けてるから?」
「聴かれたくないんでしょ――」
 食い気味に言う。
「どけ」
 僕がマキを引き止めたのは、練習室の前だった。マキに続いて無理やり教室へ入ろうとすると小競り合いとなった。
「やめろ」
「……っやめない、って」
 体格差に押されて負けたのは、僕の方だった。バタンと閉じられた扉に僕は力が抜け、崩れる。