もし明日、地球に隕石が落ちたとしたら

      
「おまえさ、さわやか王子ってあだ名がついてるの気づいてた?」
 
 放課後のカフェテリア。軽音楽部の練習を聞きながら、パックのジュースをちゅるちゅると吸ってた葉山恵介はものの見事に吹き出した。
 目の前に座っている石塚一晟がおもむろにポケットをまさぐり、ハンカチを取り出して渡してくれる。それを咳き込みながら受け取って、口元とシャツを大急ぎで拭う。
 
 いつも飲んでるミルクコーヒーやいちごオレの方じゃなくて良かった、と思った。今日に限ってカフェテリアの自販機は、両方とも売れ切れだったのだ。仕方なくレモンティーを選んだが、もしミルクコーヒーやいちごオレだったら、シャツはもっと悲惨なことになっていただろう。……レモンティーでも、うっすら跡は残ってしまっているが。
 
 後で母親にきっと文句を言われるだろうな、と心のなかでこっそりため息をつきながら、「王子ってなんだよ」と恵介は文句を言った。
 
 斜め向かいに座っていた発言の主、クラスメイトの戸田が肩を揺らして笑う。
 
「ああ、やっぱ、全然気づいてなかったんだ。さわやか王子って、女子が葉山のこと呼んでるの」 
「……それってマジ?」
「マジ、マジ。大マジ。……な、石塚も知ってるだろ? 聞いたことあるよな?」
 
 戸田が一晟に訊ねて、すぐにしまった、という顔をした。聞いた相手が悪かった、という顔だ。
 
「俺はしらん」

 案の定、すぐにそう答えが返ってきて戸田は口の端をヒクつかせた。 
 
「……一晟が知ってるなら俺も知ってる」  
「ああ……だよなぁ」
 
 幼稚園から付き合いのある一晟は、恵介にとっていわゆる幼馴染というやつだ。幼稚園では同じもも組で、小学校も中学校も住んでいる家が近かったのでずっと一緒だった。クラスは違うこともあったが、朝は当たり前のように家の前で待ち合わせて学校へ行き、帰りは下駄箱の前で待ち合わせて一緒に帰った。
 さすがに高校受験で離れるかと思ったが、この春、晴れて同じ高校へと入学した。
 恵介はここが第一志望だったが、一晟は第一志望に落ち、仕方なく、すべり止めにしていたこの高校へ通うことになったのだ。
 一晟には申し訳ないけれど、落ちてくれてよかったと恵介は密かに思っている。いまさら一晟のいない生活など考えられない。
 
 ハンカチを一晟に返すと、一晟がそれをまた折りたたんでポケットへと入れる。濡れて少し冷たくなってしまったので申し訳ないと思ったが、あまり気にしてなさそうだった。
 
「……どうして俺は知らなくて当たり前、の前提なんだ?」
 
 一晟が不服そうに会話に参加してきたので、「おっ」と戸田が前のめりになった。目をきらきらと輝かせている。
 
「だって、石塚はそういうのあんまり興味ないだろ? 周りのやつが今どんな噂してるかとか、自分がどう見られてるかとか」
 
 誰と誰が仲が良くて、今はどこのグループが対立しているかとか。
「それとも興味あるのか?」と聞かれて、一晟は首を横に振る。
 
「……ないな」
 
 ないどころではない。四月に入学し、もう一か月が経とうとしているが、おそらく一晟はクラスメートの名前さえおぼつかないだろう。さすがにいつも一緒にお昼を食べている戸田の名前は覚えているだろうが。
 
「……だが他のやつに興味なくても、恵介がなんて呼ばれているのかは知っておきたい」
 
 ――なんて爆弾発言を落とすんだ、おまえは。
 
 べこっと手の中のパックをへこませて、恵介は真っ赤になった。
 他意はないとわかっているが、あまりにも心臓に悪すぎる。
 
「なにやってるんだ、おまえは」
 
 びしょびしょに濡れた恵介の手を見て、一晟は眉間に皺を寄せた。
 
「まだ中身が入ってるんだから、強く握ったらだめだろ」
「おまえが妙なことを言うからだ!」
「妙なこと?」
 
 むすっとした一晟にため息をつきそうになる。
 ……まあ、どうせ、おまえはそんなつもりでは言ってないんだろうけど。
 
 小学生の頃、「おんなおとこ」とからかわれていた恵介のことを一晟はまだ覚えていて、心配しているのだ。また、いじめられているのではないかと。
 あの頃の恵介の見た目は今よりもっと中性的で、どちらかというと女の子に間違われてしまうことの方が多く、学校では少し浮いている存在だった。
 色素薄めの栗色の目と髪。色白の肌とほっそりとした体は、若いときモデルをしていた母親譲りのものだ。母親の趣味で髪を長めにしていたのも良くなかったのかもしれない。
 その後、中学に入ってからは第二次性徴期をむかえ、ぐっと身長が伸びて肩幅が広くなり筋肉の量も増えたから、もう間違えられることはなくなったけれど。
 周りに関心がなかったせいで、ずっと恵介がからかいの対象になっていたことに気づかなかった一晟は、いまだにその時のことを悔やんでいる。
 
 そのことを戸田に説明するかどうか恵介は一瞬迷ったが、どうやら戸田には必要なかったようだ。
 
「別に悪い意味じゃないから。ただ褒めてるだけだから!」

 と不穏な空気を醸し出している一晟に気づき、肩を竦めた。
 
「ほら、葉山って見た目がイケてるじゃん? だからカッコいいとか、なんか憧れるとか、そういう意味でみんな騒いでるんだろ」
「……さわやか王子って?」
「そう、さわやかな王子さま」
 
 口の中でもう一度「さわやか王子……」と繰り返した後で、一晟がぼそりと言った。

「イケてるのは認めるが、あだ名をつけるのはあまり関心しない」
 
 わざわざあだ名なんてつけなくても、ふつうに名前を呼べばいいだろと、一晟が言うのを聞いて、恵介の胸の奥がじいんと熱くなった。
 ああ、こいつのこういうところが好きなんだよなあ、などと思ってしまう。
 
 確かにあだ名をつけるという行為は、微妙なラインだ。それがたとえいい意味であったとしても、それをジャッジするのは呼ばれた本人で、もし少しでも嫌な気分になったとしたら、それは立派ないじめ行為だ。
 ふだんは心の機微に疎そうなくせして、こういうところはしっかりしている。
 一晟は曖昧に流しがちなところも、はっきりと自分のものさしでノーと言える。
 恵介にはできないことだ。
 
「まあ、そうだけど。……俺の人生では、そんなあだ名をつけられることはまずないから、羨ましいっちゃ、羨ましい……かな」
 
 一晟がじろりと怖い目つきで睨んだので、戸田は慌てて言葉を引っ込めた。
 
「そろそろ帰ろうか。帰りの電車混むのも嫌だし」
 
 戸田を助けたわけではなかったが、ジュースでべとべとになってしまった両手を早くトイレで洗ってしまいたくて、二人をそう促した。
 一晟がまたハンカチを差し出してくれたけれど、今度は受け取らなかった。
 
 おまえのポケットが悲惨なことになるだろ。

 


 
 それにしても「さわやか王子」ってなんなんだ。みんな、誤解してる。
 自分にはどこにもさわやかな要素なんてないし、どちらかというとむっつりの方があっている。
 
 恵介は混み始めた電車の中で、肩からかけた鞄を少し前に抱えなおして隣に立っている一晟をちらりと盗み見た。
 
 急に暑くなってきたせいでむわりとした熱気が車内にこもっている。
 もうそこそろ冷房つけてもいいんじゃないの、という会社帰りのOLらしき人たちが話しているのが聞こえてきたが、いやまだいいだろ、と恵介はこっそり心の中で反論する。
 
 いつも第一ボタンまできっちりと締めネクタイをしている一晟が、車内の熱気にやられてジャケットを脱いだ。ネクタイをするりと抜いて、ボタンを二つほど開ける。 
 額にわいた汗を腕のシャツで拭うまでの一連の動作を、恵介はごくりと生唾を飲みながら見ていた。
 
 一晟は子供の頃から寒さには強いくせに、夏の暑さにはめちゃくちゃ弱い。気温が二十五度を超えてくるとアイスを毎日二個は食べ、飲み物は常にキンキンに冷やした強めの炭酸だ。
 冬はきちんとした恰好をしているが、夏はとにかくゆるくなる。だらしない、の一歩手前のギリギリさまで攻め、半袖のTシャツですら暑がって、袖をくるくる捲って腕を出す。
 
 つまり、恵介にとって最高の季節の到来だ。
 
 自分がそういった意味で一晟を好きだということに気づいたのは、中学生になってからだった。周りがなんとなく異性を意識し始めて、「どの子がかわいい」だの「好きなタイプはだれだれ」だのとヒソヒソ言い合うのを聞いても、恵介は全くピンとこなかった。 
 中学男子らしく露骨な下ネタまじりで「俺は巨乳派」「俺は太ももに目がいく」などと話しているのを聞いた時に想像したのは一晟の筋肉質なからだで(あいつのがっちりした胸板は最高だ)だったし、(重いものを持ったときに盛り上がってくる腕の血管に目がいく)だった。
 どうやら自分はちょっとおかしいらしい、と軽い衝撃を受けたが、一晟以外の男にはまるで興味がわかなかったので、ゲイというのとも、ちょっと違うのかもしれない。
 
 恵介のなかで一晟だけが特別な存在だ。
 昔も今も、ずっと。このいつも隣にいる幼馴染だけが。
 
「恵介、部活やっぱり軽音にするのか」
 
 窓の外を眺めながら、一晟にふいに訊かれて恵介は我に返った。慌てて視線を同じように窓の外へとやってそっと息を逃す。
 
「……まだ迷ってる」
「そうなのか?」
 
 毎日わざわざカフェテリアに寄って軽音部の練習に聞き耳を立ててから帰宅する恵介に、一晟はとっくに気づいていたらしい。
 
「でも好きだろ、ギター」
「好き……だけど」
「ならどうして迷う? ゴールデンウイークに入る前に入部希望者は入部届けを出せって、部長が新歓で説明してただろ。もうすぐだぞ」
 
 一晟はよく恵介の家に遊びにくるので、恵介の部屋の片隅にギターが置いてあるのを知っている。
 前に訊かれたときには「インテリアでただ飾ってるだけ」と言って誤魔化したのだが、帰宅するといつもすぐにいじっているのはきっともうバレている。
 
 自分の部屋で椅子に片足をのせて外に向かって気持ちよく鳴らしていた時に、窓の外を歩いていた一晟と目が合ったことがあるからだ。その後、素知らぬ顔で部屋に入ってきたから、目が合ったと思ったのは気のせいだったと思ったが。思いたかったが。  
 やっぱり気のせいなんかじゃなかったか。
 
「……なんていうか、一人で練習してるほうが合ってる気がするんだよ」
「俺は人にたくさん聞いてもらった方が上達すると思うぞ」
「……そうかな」
「おう」
「おまえは? やっぱ体動かす系?」
 
 話をしながらちらっと一晟を見ると、一晟は難しい顔をしていた。
 太くて短い眉がぎゅっと寄っている。
 
 一晟は小学生の頃から近所の警察署の少年剣道部に入っていた。「地域の少年少女とのふれあいを大事に」する警察署が、署内の道場を開放してくれているのだ。
 もともと体格の良かった一晟はそこでさらに鍛え上げられ、今では街中を歩いていると通行人が避けて通るほど「ただものじゃない」感がすごい。長身でがっしりとした体格のうえ、顔もかなりの強面だ。やくざ役ばかりやっているなんとかっていう俳優に似ていると母親が言っていたが、恵介はそれよりシベリアンハスキーに似ていると思っている。
 ムッとした時や考え事をしている時の口元なんか特にそっくりだ。
 
「剣道部があれば入ったんだが」   
「あ~、そっか。そういやうちの学校って、運動系は野球とテニスとサッカーだけか。……一晟、運動神経いいのに、球技系はからっきしだめだもんなあ」
 
 ここでは、一晟の特技はまるでいかせない。
 滑り止めだったとはいえ、なんでこの高校を受けたんだろう。もうちょっと調べてからにすればよかったのに。 
 
「だからたぶん俺は帰宅部だな。どうせ週に何回かは少年剣道の方に顔出す予定だったから、ちょうどいい」
 
 そうなのか。
 最寄りの駅について、ぶらぶらと家までの道を歩きながらいつもの角で別れた。 

 
「また明日」とひらりと手を振った一晟に「俺、明日、入部届け出してくる!」と宣言すると、口の端を軽く持ち上げて笑ったので、不覚にもきゅんとしてしまった。

 
 恵介が軽音部へ入部届けを出しにいった翌週。帰宅部になると言っていた一晟が突然、体育委員になってしまった。
 他の委員と違って体育委員はあまり人気がなく、最終的にジャンケンで決めることになったのだが、いざ立ち上がってジャンケンをする段階になって急に一晟が手を上げた。
 いつも教室ではむすっとした顔で存在感を消している(ように見えてまったく消えてはいないのだが)一晟に一気に注目が集まる。
 
「まじで~!」「助かるわ!」「石塚かっけ~!」と口々に言われたが、一晟は嬉しそうな顔もせずただ小さく頷いただけだった。

 
* 

 
「……なんでだよ。なんであんな面倒な委員を引き受けたんだよ」

 下校時間がものの見事にばらばらになってしまい、朝の電車の中でつい恵介が一晟に文句を言うと、一晟が困った顔をした。
 あ。これ、あまり知らないで「やる」と言ったやつだ。
 すぐにそうわかった。
 
「おまえの軽音部の練習と同じくらいの時間に終わると思ったから、委員会にでも入れば一緒に帰れると思ったんだ」
 
 軽音部の練習は週三回。月、水、土。委員会活動は基本的に部活と被らないようになってるから、火か木。……そして体育祭が近いせいでその準備に追われている体育委員は、今かなりの頻度で招集がかけられ、一週間のほとんどを一緒に帰ってない。
 
「それにジャンケンをやっても負けてたかもしれないしな」
 
 それは嘘だ。
 一晟がジャンケンで負けるところを見たことがない。一晟はジャンケンの王だ。
 だから恵介は昔から絶対に一晟とはジャンケンをしないことに決めている。
 
「……まあ、考えてみれば、高校生になっても毎日一緒に帰ってる方がへんだよな」
 
 さみしい気持ちを押し殺しつつ、自分の気持ちと真逆のことを言うと、一晟が不意に真顔になった。
エアコンがかかってないはずの車内の温度が一気に下がったような気がして、ヒヤリとする。
 鋭い目つきで睨むように見られて、車内のざわめきがなぜか急に聞こえなくなった。
 
 ……え。俺、今そんな怒らすようなこと言ったか?
 
「俺はへんだと思ったことはないが」
「……いやでもさ、幼稚園からずっと一緒だから一晟もそれが当たり前みたいに感じてるかもしれないけど。高校生にもなれば、好きな子とかできて一緒に帰ったり……ってなるのがふつうだろ?」
 
 本当はちっともそんなこと思ってないくせに、なぜかそんな言葉がスラスラと口から出てくる。
 
「……ふつう」
「うん、そう。クラスでも付き合い始めた子、出てきたじゃん。一晟、気づかなかった?」
 
 何人かの名前を口にすると、一晟が眉間にぎゅっと皺を寄せた。
 
「……俺が気づくと思うか?」
「……思わないけど。まあ、だから、とりあえずは体育委員がんばれ。俺も軽音がんばるし」
 
 その時恵介の頭の中にあったのは、体育祭が終わってさえしまえばもう少し一緒に帰れるようになるんじゃないか、ということで、それ以上のことはあまり深く考えていなかった。
 だから学校が終わり、帰宅して夕飯を食べたあと、一晟から珍しく携帯に着信があったときは心底驚いた。
 
「一晟? 電話かけてくるの珍しいじゃん。どうした?」
 
 つい声が弾んでしまう。
 メールならよくやりとりしているが二人が携帯で話すことはほとんどなかった。
 朝も帰りも一緒だったから、話したいことがある時は会ってから話した。
 
 ごろんとベッドに横になりながら足をこっそりバタバタさせる。
 
『おう。……今、大丈夫か』
「へーき、へーき」
『もう家か? 夕飯は食べたか』
 
 携帯から聞こえてくる声がいつもより近い。自分より低くて耳朶をくすぐる響きにうっとりする。
 
「食べたよ。さっき」
『今日も部活、遅かったのか』
 
 おまえは俺のお父さんか、お母さんか! という過保護な一晟の質問につい噴き出して返す。
 
「まあ……いつもどおり?」
『日がのびてきたから大丈夫だと思うが、気をつけて帰れよ。不審者がいたらすぐ携帯のアラームを鳴らせ。警察にも躊躇わずに通報しろ』
 
 ……もう俺も高校生なんだけど。女の子に間違えられていた子供の頃とは違うんだけど。
 呆れてそう言いかけたが、一晟が本気で心配してくれているのがわかったから「了解」とだけ短く答えた。
 
『今は男だって狙われる時代なんだからな』
 
 まるで恵介の考えていたことを見透かされたような言葉にドキッとする。
 
「うん、ちゃんと気をつける……てか、用事ってそれ?」
『いや。……今朝、電車の中で話してたことだが……』
 
 小さく咳ばらいしたあとでおずおずと一晟が切り出した。珍しく歯切れが悪い。
 
「え、なんだっけ?」
 
 なんの話かわからくて、朝、電車の中で一晟とした会話を必死で恵介が思い出そうとしていると、一晟が急に大きな声を出した。
 
『俺にとっては全然、当たり前じゃない』
「へっ?」
『だから、……お前と一緒に学校へ行ったり帰ったりすることは、ちっとも当たり前なんかじゃない』
 
 一晟がなにを言い出したのかちっともわからなかった。
 けれど胸の奥がフワッとしてまるで遊園地でバイキングに乗ったような気分になった。
 高いところから低いところへ一瞬で落ちるときの、あの浮いたかんじ。あれにとてもよく似ている。
 
「……あ、そうなんだ?」
 
 変にかすれた声が出てしまい少し慌てた。
 
『ああ』
「……ていうか、別にそんなに気にしなくても、少し落ち着いたらまた一緒に帰れるようになるだろ。そんな毎日じゃなくても。朝は今まで通り一緒に行けるんだし。そりゃ……俺もちょっとはさみしいけどさ」
 
 本当はちょっとどころじゃない。
 でももう、拗ねた子供が駄々をこねるようなことを一晟に言いたくなかった。
 
『まあ……そうだな』
 
 一晟が携帯の向こう側で小さくため息をついたのがわかる。
「あれ?」と首を傾げる。
 一晟、なにか呆れてる? ……それとも落ち込んでる?

 「一晟?」
 
 声をひそめて恵介が訊ねると一晟がボソリと呟いた。
 
『……恵介は周りのことをよく見てるわりに、こういうことはにぶいな』
「え? どういうことだよっ」
『いい。なんでもない。いつかもっとちゃんと顔を見て言う。……おやすみ』

 おやすみ、と返して、切れた携帯を恵介は握ったまましばらくベッドの上で呆然とし、「なんだよ」と呟いた。
 
 一晟、頼むから俺にもっとよく理解できる言語で話してくれ。

 
 高校に入ってからずっと浮かれていて、勉強は二の次になっていたなんて言い訳にしかならない。
 だってきちんと勉強してたやつもいるんだから。
 
 期末試験の成績上位者が廊下に貼り出され、人だかりができていた。それを遠巻きに見ながら恵介はため息をつく。
 見に行きたいけれど、自分の机の中に入っている試験の結果を思い出すとどうしても足が重くなってしまう。
 クシャクシャに丸めたそれは想像以上に悲惨で、青ざめるのを通り越して恵介は真っ白になった。漫画でいうと顔に縦線が入って、「ガーン」と後ろに効果音があるやつだ。
 
 偏差値の高い有名な進学校を目指していた一晟が、高校に入ってからも勉強の手を緩めていないことには気づいていた。むしろ、受験生だった頃よりも勉強しているような気がした。
 だから、一晟の名前はきっとあるはずだ。
 それもたぶん、かなり上のほうに。
 
 ……俺は俺。一晟は一晟だろ。幼馴染が頑張った結果を一緒に喜んでやらなくてどうする!
 
 やっとそう気持ちを切り替え、恵介がのろのろと足を前へ踏み出すと、人の輪のなかから弾けるようにクラスメイトが数人飛び出てきた。
 
「すげえ、石塚! おまえ、頭もいいのな!」
「おい、学年二位かよ! ってか体育祭の準備だって忙しかったのにいつ勉強してたんだよ!」
 
 興奮し、はしゃいだ声で結果を教えてくる。
 恵介の後ろに立っていた一晟が「二位だったか…」と残念そうにボソリと呟いたのを恵介は聞き逃さなかった。
 
「……まさか、狙ってたのは一位?」
「ああ」
 
 さすがだ。
 頭の出来が違うとしかいいようがない。

「戸田! おまえもすげえじゃん!」
「八位かよ、戸田!」
 
 マジか。
 隣にいた戸田を驚愕の眼差しで見た。
 大急ぎで確認しに行き、そこに並んでいる名前を見つけて興奮する。
 
「すげえじゃん、戸田!」
 
 バンバンと恵介が戸田の背中を叩くと、戸田はうめきながらも嬉しそうに笑った。
 
「おう、結構頑張ったんだ」
 
 そしてニカッと笑ってピースサイン。
 
「でも次はもっと頑張っちゃうぜ」
 
 まだまだ上には上がいるからな、という言葉に「がんばれ!」と返す。
 どこまでもさわやかな奴だ。なんだか応援したくなる。
 
「ありがとう!」「おう!」と二人で肩を叩き合っていると、後ろから一晟の低い声が聞こえてきた。
 
「……で、おまえはどうだったんだ。恵介」
 
 ギクリとする。
 思わず目が泳いでしまい、それを一晟は見逃さなかった。
 
「さっき渡された成績表、見せてみろ」
「え、いやだよ……」
「いいから」
 
 まるで警察官に連行される犯人のような気持ちになって自分の席につくと、しぶしぶ机の中から丸めた紙を取り出した。
 一晟に渡すと一晟が小さくため息をつき、それを丁寧に手で伸ばす。
 
「……こんなふうにするな。ちゃんと結果は結果として潔く受け止めろ」
 
 もう小学生じゃないんだから、と言われて、うん、と頷く。
 そしてそれにゆっくり視線を落とした一晟がぎょっとした。横から覗き込んできた戸田も息を呑む。
 顔が赤くなった。
 
「……ずいぶんと手を抜いたな」
 
 恵介の試験の結果はどの教科も似たようなかんじで、とりあえずなんとか二桁はいった、というような点数だ。学年順位なんか下から数えたほうが早い。
 
「……しょうがないじゃん。俺、元々そんな頭よくないし」
 
 言い訳じみた言葉がつい口を突いて出る。
 ドンマイ、と戸田が励ますように背中を叩いてくれたが、一晟は励ましてなどくれなかった。
 
 腕を組み、睨みつけるように皺だらけの紙を見つめたまま「夏休みの予定は?」と静かに聞いてくる。
 いつになく低い声で怖い。
 
「えっと……部活はあるけど。……そのくらい?」
「今年は家族旅行ないのか」
「毎年行ってるばあちゃんち? うん、なんか腰を痛めちゃったみたいで、今年は母さんが一人で顔を出してくるって言ってた」
「……よし。それなら部活がない日は毎日うちで勉強だ。夏休み中に巻き返すぞ」
「えええ!」

 そんな、悪いしいいよ、となんとか必死で断ろうとしたが、駄目だ、これは俺にとっても死活問題だ、とわけのわからないことを言われてしまった。
 
 部活のない日は朝九時に一晟の家に来るように言われて、まだ眠い眼をこすりながらリュックの中に教科書やらノートやらを詰め込む。玄関であくびを噛み殺しながら靴を履いていると、「あら、もう出るの」とリビングから顔を出した母親に声をかけられた。
 
「朝ごはんは食べて行かないの」
「いい。約束の時間に遅れる」
「帰りは何時頃? お昼ご飯はどうするの?」
「暗くなる前には帰る。昼は、一晟がそうめん茹でてくれるって」
「ええ、いっくん、料理もするの! えらいわねぇ」
 
 一晟を褒めながら慌ててキッチンから何か持って来る。大きめのスーパーの袋に入っているのは……スイカ? 昨夜食べた大玉の残り半分だろうか。今回は当たりだったね、と話しながら食べた甘いやつだ。
 
「次はもうちょっとちゃんとしたのを持たせるから。とりあえず今日はこれ持っていって!」
「一晟には気を遣わないで欲しいって言われたけど……」
「そんなこと言っても手ぶらってわけにはいかないでしょ! いっくんにわざわざ勉強みてもらうのに!」
 
 それともちゃんと家庭教師代として現金を渡した方がいいかしら、と悩んでいるので「聞いてみる」と言った。
 
「すごいわねえ。あのいっくんが第一志望に落ちちゃったって聞いた時は信じられなかったけど。やっぱり賢いのね。この間の試験、学年二位だったんでしょ?」
「なんでそれ、知ってるんだよ」 
「高校のアプリで保護者あてにきてたのよ。……っていうか、恵介の成績表、見てないけど?」

 慌ててスーパーの袋を受け取って「行ってきます!」と立ち上がる。
 玄関を閉めるまえに「次は期待してるわよ!」と大きな声で言われて「うん」と一応、返した。


    
 一晟の住む五階建てのマンションは恵介の家から歩いて五分もしない距離にある。
 それでも朝から三十度超えの今日は暑くて、歩いているうちにびっしょり汗をかいた。
 インターホンを鳴らすと一晟のぶっきらぼうな声と共に後ろから賑やかな子供の声が聞こえてきて、ついくすりと笑う。
 一晟は三人兄弟の長男で、年の離れた小学生の妹と弟がいる。一人っ子の恵介はそれがうらやましくて、一晟の家に遊びに行く時は二人に会えるのも楽しみにしている。
 
「恵介くんいらっしゃい!」
 
 玄関のドアを開けると嬉しそうに小さな姉弟が飛び出てきた。
 
「日菜ちゃん、塁くん、おはよう」
 
 両脇から腕に抱きつかれて、ついにこにこしてしまう。石塚家の兄弟はよく似ている。一晟と同じ、太くて短いキリッとした眉毛が可愛い。シベリアンハスキーの子犬が二匹、尻尾を振りながら自分に纏わりついているところをつい想像してしまう。
 
「おい、日菜、塁! 恵介はおまえたちと遊ぶために来たんじゃないぞ」
「知ってる、知ってる!」
「今日はお勉強しに来たんでしょ!」
「わかったらその手を離せ」
 
 一晟にスイカの入ったスーパーの袋を渡すと「別に気にしなくていいのに……」とやっぱり言われてしまった。
 
「一晟。お母さんは?」
「今日はパート。夕方には帰ってくる」
 
 いそいそとスイカを冷蔵庫に入れに行く背中に声をかける。

「あのさ、うちの母さんが一晟に家庭教師代を払いたいって言ってたけど、どうする?」
「そんなの悪くて受け取れない」
「……そう言うと思ったけど。母さんがちょっと気にしてるっぽい」
「お金が欲しくてやってることじゃないし、そもそもちゃんと成績があがるかどうかまだわからないしな。……もちろん努力はしてもらうが」
 
 ついでに冷たい麦茶を入れてくれたので一気に飲み干す。うまい。
 空になったグラスを一晟に渡し、ぎゅっと拳を握る。
 
「……俺、頭は悪いけど。せっかく一晟に見てもらうんだから、少しでも成績上がるように努力するよ!」
 
 一大決心で恵介がそう言うと、一晟が軽く口の端を持ち上げた。
 
「よし、その意気だ。じゃあ、早速始めるか。日菜、塁、邪魔するなよ」
「え〜、もう⁉」
「ああ。時間はいくらあっても足りない。なにか用事があったら隣の部屋からにいるから呼べ。いいな」
「は〜い」
 
 残念そうに言う二人に「ごめんね」と謝った。

 
 リビングの隣にある一晟の部屋に入るとむわりと独特な匂いがした。
 剣道の防具の匂いだ。
 
「悪い、俺の部屋臭いだろ」
 
一晟が慌てて窓を開けようとしたが、急いでそれを止めた。
 
「全然臭くない。むしろ俺、この匂いわりと好きだ」
 
 剣道の防具はどんなに手入れをしていても独特な匂いがとれない。それは防具にしみこんでしまう、汗と勝利への熱意、のせいらしい。
 がんばったぶんだけ臭くなる……と一晟と恵介の母親たちが苦笑いで話しているのを聞いたことがある。そもそも剣道の防具は、あちこち生革が使われているせいで水洗いできる場所が限られているらしいが。
 
「せっかくエアコンつけてるのに、窓なんか開けたら、冷やした空気が逃げてもったいないだろ」 
「……臭い、臭いって母さんも日菜もうるさいのに。恵介はめずらしいな」
 
 だっておまえが頑張った証の匂いだから。
 ……とはもちろん言えなかった。
 
 窓を開けるのをやめた一晟が、折りたたみのテーブルを出してくれる。向かい合って座り、リュックから教科書やノートを出す。
 テーブルの上に広げると一晟が覗き込んできて、眉間に皺を寄せた。
 
「恵介。授業ちゃんと聞いてないな」
「え、なんでわかった?」
「今どき高校生にもなって教科書の端にペラペラ漫画を描いてるやつが、授業をまともに聞いてるはずがない」
 
 深いため息と共に、じとっと睨まれた。
 
「恵介は頭が悪いんじゃない。少し要領が悪くて集中力がないんだ。要領は俺がみっちりしごいて教えてやるから、集中力は自分で根性であげろ」
「う……うすっ!」
 
 一晟の剣道の防具を見たあとだったからか、とりあえず気合いの入った返事は出来た。
 
 
 午前中はみっちり三時間。昼休憩を挟んでまた午後から開始して、初日は日が傾く前に終わりになった。
 
「ああああ~、俺の脳みそがフル回転しすぎてびっくりしてる~~」
 
 今日はここまでにしよう、と言われてすぐにテーブルに顔を突っ伏すと、一晟がノートを片手にぽんぽんと頭を撫でてくれた。ドキンと心臓が跳ねる。
 うわあ、これ、ぜったい日菜ちゃんか塁くんと間違えてるな、と思ったが、もったいないのでそのままにしておく。
 恵介の解いた答えを一つ一つ頷きながら確認していた一晟がふと顔を上げ、自分のもう片方の手の動きに気づいてしまった。
 
「あ、悪い」
 
 耳まで赤く染め、慌てて手を引っ込めようとする一晟に「もっと撫でて」とついリクエストした。
 
「恵介?」
「……だって今日の俺、けっこう頑張ったし」
 
 脳がくたびれていたせいか、つい甘えた声が出た。
 
「そうか……まあ、そうだな」
 
 一晟は驚いているようだったが、「ぽんぽん」がそのまま「なでなで」にかわり、最初は遠慮がちだった手が優しく恵介の髪をかき回し始める。
 口元がにへらとだらしなく緩む。
 大きな手が心地いい。
 ドキドキが段々とうっとりに変わり、猫ならゴロゴロと喉を鳴らしているところだろうな……と思い始めた頃、ガラッと勢いよくドアが開いた。
 
「兄ちゃん~! 母ちゃんがカルピス作ってくれた!」
 
 日菜ちゃんと塁くんだ。
 ドアの向こう側に帰宅したばかりの一晟の母親の姿も見えた。
 
「二人とも。ひと段落したなら、ドーナツ買って来たからこっちで食べない?」
 
 駅前の人気店の箱を掲げてにこりと笑っている。
 そして、あたふたと挙動不審になる恵介と一晟を見てぎゅっと眉を寄せた。
 
「どうしたの、あんたたち。……二人とも顔赤いわよ? ちゃんとエアコンつけてる? 家の中でも熱中症になるってよくニュースでもやってるんだからね!?」
「つけてる、つけてる!」
 
 一晟がエアコンのリモコンを素早くとり、ピピっと設定温度を下げてみせた。
 剣道の試合でも滅多に見せない動揺っぷりだった。  
      

 夏休みの間中、恵介は部活の練習がある日以外、本当に毎日一晟の家へ通った。はじめは苦痛でしかなかった勉強も夏休みが終わる頃にはだんだんと楽しくなっていった。
 一晟の教え方がうまかったのだろう。 
 夏休み明けの校内テストで、恵介はなんと三十位以内に滑り込んでしまった。

 
 廊下に張り出された成績上位者の中に自分の名前を見つけ、信じられなくて、恵介は何度も目を擦った。
 確かに手ごたえはあったが、まさかここまで順位を上げているとは思わなかった。
 
「い、一晟、ありがとう。おまえのおかげだ! おまえの教え方がうまかったから……」
 
 震える声で一晟の両手を握りしめる。
 
「いや、別に俺の教え方がうまかったわけじゃない。恵介が集中力を切らさずに毎日頑張ったからだ。……正直、俺も恵介がここまで頑張ると思わなかった」
 
 嫌な顔をせず、毎日せっせと一晟の家に通った恵介に一晟は驚いていた。
 そりゃそうだ。
 夏休みに毎日一晟に会えるなんて圭介にはご褒美のようなものだ。しかも一晟の部屋で二人きりで過ごすなんて。
 ……内容が勉強じゃなければもっと嬉しかったけれど、とは言いたくても言えないが。
 
 しかも時々一晟はご褒美に頭を撫でてくれた。日菜や塁と同じ扱いなんだろうな、と思うと少し複雑ではあったが、それよりも喜びのほうが勝った。
 
「うあ~、これじゃさわやか王子の人気もっと出ちゃうなあ」
 
 隣で戸田が眼鏡のブリッジをクイッと押し上げながら悔しそうに言う。
 夏休み明けから、急に眼鏡をかけはじめた戸田を見た時は驚いたが、なかなか似合っている。
 戸田いわく、「めがね王子」を目指しているらしい。視力が悪く今までずっとコンタクトをしていたのだが、夏休み中に研究して「めがねの需要に気付いた」などと言っていた。
 
「戸田もまた順位上げたじゃん」
「まあな」
 
 クク、と喉で笑う戸田のキャラ作りは完璧だ。  
 どこまでも面白いやつだ。
 
「……石塚はまた二位か。一位とは今回三点差なんだろ。一位のやつすげえな。……どんな顔してるんだろうな」
 
 戸田の言葉に一晟がぎゅっと口を引き結んだのが見えた。心底悔しい、という時にしかしない一晟の表情だ。
 
「次は絶対に負けない」
 
 まるで剣道の大会に挑む時の迫力のある顔つきで、一晟はボソリと呟いた。

 

 
 
 休み時間に前の席のやつと話しているとクラスの女子から声をかけられた。
 
「ねえ、葉山くん。葉山くんを呼んできて欲しいって言われたんだけど。……どうする?」
 
 ちらっとドアの方に視線を送ると、恵介の方を熱心に見つめている女子がいる。後ろにその女子の友達らしきひとたちもいて、恵介が見るとキャーっと声をあげた。がんばって、という声も聞こえてくる。
 
「ああ……うん。ありがとう」
「もしあれなら、私が代わりに断ってくるけど」
「いいよ。……迷惑かけらんないし」
 
 戸田の予言があたってしまった。
 今までは遠巻きで噂をするだけだった女子たちから、恵介はたびたび告白されるようになり、そのたびに「悪いけど……」と同じ言葉で断る日々だ。
 
 告白するのはとても勇気のいることだから、断るたびに申し訳ないな、と罪悪感でいっぱいになるがそれでも受けることはできない。
 
 だって自分が好きなのは一晟だから。
 それ以外の人間をすきになることは絶対にありえないから。
 
 どんなかわいい子に告白されても恵介が断ってしまうことはクラスの女子に知れ渡っていて、こうして時々気を遣ってくれることもあるが、せっかく勇気を出してくれているのに他のひと任せにするのは失礼だろう。
 
「葉山」
 
 戸田が痛ましそうな顔でこちらを見ている。
 はじめは「すげえ!」と恵介を揶揄ってきたが、告白を断るたびに、「自分のほうが断れたような傷ついた顔をしてる」らしい恵介を心配するようになった。
 
 
「葉山くん……あのね、私、ずっと葉山くんのことを前から見てて」
 
 廊下の端に行き、真っ赤な顔で震えながら必死に告白してくれる女子に「……悪いけど」と小さな声で切り出すと、「……ううん、いいの! ごめんね、聞いてくれてありがとう」と言われて「こっちこそありがとう」とぺこりと頭を下げた。
 
 俺よりもっといいやつでこの子を一途に思ってくれるひとが見つかるといいな、と思いながら。



 
「さわやか王子は告白の断り方もさわやかだって噂されてるぞ~」
 
 昼休みに屋上で、パックのジュースをちゅるちゅる吸っていると、戸田に言われた。
 
「……さわやかな断り方ってなんだよ」
 
 今日はいちごオレだ。戸田が購買でパンを買ってくるついでに買ってきてくれたので、代金を支払おうとしたら「今日はおごり」と渡されてしまった。
 
「わかんないけど。なんか告白してよかったってみんな思っちゃうらしいぜ。俺が聞いたところによると」
「えええ?」
 
 断ってるのに?
 戸田の言葉に恵介はぎょっと目を剥いた。
 
「……恵介はやさしいからな」
 
 一晟が弁当を頬張りながら呟く。
 
「石塚の断り方を見習えば、もう告白されなくてすむんじゃないか?」
 
 一晟もついこの先日、他クラスの女子から告白されたらしい。
 でもその一回きりで「武士王子」への告白はきれいさっぱりおわってしまった。
 
「一晟、なんて言って断ったんだよ」
「武士王子らしく、こう……ザクッといったんだろ」
 
 戸田が刀を振る真似をした。
 一晟の返事を待っていると「秘密だ」と顔も上げずに言う。
 ますます一晟が何と言って断ったのか知りたくなった。
 でも一晟が一度「秘密だ」と言ったあとに教えてくれることなどなかったので、仕方なく恵介は口を噤む。
 
「もう葉山はこの際だから、誰かと付き合っちゃえばいいんじゃないか。そしたら、断る必要もなくなるし」
「……なに言ってるんだよ」
「ちなみに葉山の好みってどんなかんじの子? どんな子ならオッケー出す?」
 
 興味津々に戸田に訊かれたので恵介は少しだけ考え込むふりをした。
 
「たとえば、女優とかモデルで言ったら……」
 
 女優? 思いつかない。
 モデルはもっとわからない。
 一晟に似ているのは……。
 
 ちらりと一晟を見ながら「シベリアンハスキー?」と首を傾けた。
 
「ぶはッ! なんだよ、まさかの犬? てか、疑問形だし」
「他には思いつかない」
「シベリアンハスキーって、けっこう怖い顔している犬じゃなかったっけ」
 
 携帯でさっそく検索し始めた戸田が恵介に画面を見せてくれる。
 
「おい、こんな顔した子……いるかあ?」
「なんで? 可愛いじゃん」
 
 一晟も弁当を頬張るのをやめて、興味深そうに画面を覗き込んできた。
 
「……もう顔はいいよ。んじゃ、他にはなにかないの」
「え? ……えっと、頭がいい子?」
「なんかまた疑問形だし。……へえ、でもそうか。頭がいい子かあ」
 
 いつも石塚と一緒にいるから葉山のそれはハードル高いな、そんな子はなかなか見つからないかもなあ、と戸田が残念そうにぽつりと呟いた。
 


 ところがその翌々日。それらの条件にぴったりあう子に出会ってしまった。
 昼休みに屋上でいつものように三人で弁当を食べていると、その子は突然現れた。
 
 ――なぜか腰に両手をあてた仁王立ちの恰好で。
 
「少しだけ時間くれる?」とおっかない口調で言われて、恵介は最初は戦いでも挑まれているかと怯んでしまった。 
 
(……でえええ。葉山の好みにビンゴじゃん)
 
 小さな声で戸田が呟く。
 確かに戸田の言う通りだった。
 一目その子を見た時の恵介の感想は(日菜ちゃんに似てる……?)で、ということは一晟たち兄弟と顔のパーツが似ているということだ。
 きりりとした眉と口を引き結んだ顔に恵介はつい、じっと見入ってしまった。
 日菜ちゃんが大きくなったらこんな感じかな? ……などと思っていると、ずんずんとその子が大股で歩いてきて恵介の腕を掴んだ。
 
「え、なに、なに?」
 
 思いがけず強い力で引っ張られて恵介がふらつくと、隣にいた一晟がゆらりと立ち上がる。
 
「……おい」
「ちょっとだけだから! お願いっ!」
 
 不穏な空気を醸し出す一晟の顔が怖い。
 でも、自分の腕を掴んでいるその手が小さく震えていることに気付いてしまった。
 
「だ、大丈夫。……一晟、俺、この子とちょっとだけ話してくるよ」
 鋭い目つきで睨みつけてくる一晟に落ち着くように言うと、ひとまず恵介はその子について行くことにした。 

 
 
「恵介~、無事だったか! 今のなんだった? やっぱり告白か? なんかすごい顔してたけど」
 
「ああ……そうなのかな。うん。たぶん、そう」
 
 屋上の階段で「とりあえずこれ、読んでくれればいいから! 返事は帰りに!」と言われ、一方的に渡された手紙をじっと眺める。
 勢いのある字で「葉山恵介くんへ」と書かれた封筒をひっくり返して裏を見ると「野々宮奏」と書いてある。
 
 ……なんだか見たことのある名前だ。
 野々宮奏。
 野々宮。野々宮……。
 
「あッ! それ! 一晟のこといつも負かしている学年一位の子じゃん! ええっ、女子だったんだ! てっきり男子かと思ってた。そうか、どっちにもつける名前だ!」
 
 ののみやかなで。
 それがその手紙の女子の名前だった。
 
「葉山、付き合うのか? ついに初カノジョ誕生か⁉」
「……」
 
 少しシベリアンハスキーに似た、とてもかしこい女子。
 強がっていたけれど、とても一生懸命なのは伝わってきた。
 すぐに手紙を開けて読もうかと思ったけれど、思いがけない厚みだったので後でゆっくり読むことにして、恵介は黙ってそれを尻ポケットに入れた。

 

 
   
 学年一位の野々宮奏から恵介がラブレターを渡されてしまった話は、瞬く間に広まってしまった。
 屋上の階段で恵介に手紙を渡した後、真っ赤になって立ち去る野々宮の姿を、目撃した生徒がいたらしい。
 授業が終わり、下駄箱の前で待つ恵介にちらちらと視線を送ってくる人たちがいる。かと思えば、こそこそと話しながら遠巻きに見ている女子のグループもあって、恵介はため息をつきそうになった。
 
 手紙の中で野々宮に待ち合わせとして指定されていたのは、あまりにも目立つ場所だった。
 
「戸田。一晟。先に帰っててくれる?」
「……ここで待ってちゃだめか?」
「うん」
 
 みんなのいる前であの子と話すのはなんだか嫌だった。
 何枚にもわたって手紙で一生懸命自分の気持ちを伝えてくれた野々宮を、見世物みたいにしたくない。
 
「……恵介」
「一晟。あとでメールする」
 
 一晟が何か言いたそうだっけれど「悪い」と謝ると、ぎゅっと唇を引き結び、一晟は黙って帰っていった。

 


「葉山くん。ごめん、ちょっとホームルームが長引いちゃって」
 
 息を切らせて下駄箱にやってきた野々宮が、くしゃくしゃの髪のまま謝ってくれた。
 どうやら恵介をあまり待たせたらいけないと、走って階段を下りてきたらしい。
 
「大丈夫だよ。それより髪、すごいことになってるけど」
 
 苦笑いしてあちこち跳ねた髪に触れようとすると、キャーと奇妙な悲鳴が聞こえてきた。
 近くで見ている女子たちのものだ。
 
「あ、悪い。あんまり女子にこういうのしちゃだめなんだよな」
 
 慌てて恵介が手を引っ込めると野々宮がぶんぶんと首を横に振る。
 
「私、もともとすごいくせっ毛で。……ごめん、そんなひどい?」
「わりと」
 
 真っ赤になって髪を手でなおしている野々宮に「帰りながら話さない?」と恵介は訊ねた。
 
 きょとんとする野々宮に「ちょっとここは……ひとが多すぎるから」と説明をすると、周りをぐるりと見回した野々宮が少し怒った顔になる。
 
「野々宮は電車通学? 何線使ってる?」
 
 訊ねると、ちょうど恵介の使っている路線で方向も一緒だった。
 野々宮が靴に履き変えるのを待ち、二人で並んで歩き始める。
 
「あの……手紙は読んでくれた?」
 
 おずおずと切り出した野々宮にこくりと頷いた。
 
「うん、読んだ。野々宮さん、さすが頭いいね。けっこう難しいこと書いてあるからびっくりした」
 
 どこかの国の詩人が書いたらしい美しい詩がいくつも並んでいたり、かと思えば哲学書の引用みたいな文章もあったり。
 読み解くのに少し時間がかかったけど、と素直に恵介がそう伝えると、恥ずかしそうに野々宮が笑う。
 
 でもその内容より恵介が感動したのはその手紙に何回も消しゴムで消した跡があったことだ。
 きっととても悩みながら、一生懸命書いてくれたのだろう。
 
「……それで俺の返事なんだけど」
「ごめん、でしょ?」
「え?」
「葉山くんに断られた私があまり恥ずかしくならないように気をつかって、あそこで言うのをやめてくれたんじゃない?」
 
 その通りだったけれど、全部野々宮にあてられてしまってびっくりする。 
先に言われてしまってけれど、一応自分の言葉でもちゃんと言う。
 
「ごめん。それと、あの……ありがとう」
「ううん。いいの。きっとそうだろうなってわかってたし。……でもやっぱり告白してよかった」
 
「噂、本当だったなあ」と目の縁を赤くしながら、晴れ晴れとした顔で野々宮が笑った。
 
「……野々宮、いつから俺のこと好きでいてくれたの」
「あれ、それは手紙で書いてなかったっけ」
「書いてなかった」
「ああ~、私ってば肝心なこと書き忘れてる! 葉山くんが軽音に入部する前。ちょうど入部届けを出すところをたまたま見てて。出す時はすました顔してたのに、その後、廊下でジャンプしてるから可愛いなって思ったんだよね」
 
 まさかあれを見られていたのか。
 真っ赤になってしまいながら、恵介は頭を掻いた。
 
「あれ、ってことは……?」
「私は吹奏楽部の方に出しに行ってた。入部届け出すの、ちょうど同じ教室だったでしょ?」
 
 そうだった。新入部員が軽音部か吹奏楽部のどちらを選ぶのか、同じ教室で先輩部員たちがじっと見守るという不思議なあの光景を恵介は思い出した。
 
「あれって、元々吹奏楽部にいた人たちが軽音部を立ち上げて、分裂してライバルみたいになっちゃったから、あの高校の伝統になってるんだって」
「へえ」
 
 思わぬ軽音部と吹奏楽部の歴史を知りびっくりだ。
 
 駅について電車に乗ってからも野々宮と色々話をした。
 野々宮は今まで恵介が出会った女子の中で一番話しやすく、話していて楽しかった。
 
「それからずっと私、葉山くんが気になっちゃって。本当は告白なんてするつもりはなかったんだけど。……がんばっちゃった」
 
 へへ、と笑う野々宮は最初に見た時とまるで印象が違う。きっとあの時は相当の覚悟で、気迫がみなぎっていたのだろう。
 
「どうしてするつもりじゃなかったのに、告白してくれたの」
 
「……もし明日、地球に隕石が落ちたとしたら」
 
「え?」
「ううん。隕石じゃなくてもいい。……もし突然何かが起きて、自分の中のこの気持ちを伝えないまま葉山くんに会えなくなったとしたら、とても後悔しちゃいそうで急に怖くなったの」
 

 もし明日、地球に隕石が落ちたとしたら。
 

 それは突拍子もない発想だったけれど、恵介の頭は強く殴られたようにショックを受けた。
 

 もし明日、地球に隕石が落ちたとしたら。
 もし、明日一晟に突然会えなくなったとしたら。
 いつも当たり前に続いて行くと思った毎日が、突然続かなくなってしまったら。
 
 ……どうしよう。
 
 隕石じゃなくとも、あり得なくはないその可能性を、今までもひとかけらも考えていなかった自分に愕然とする。
 地震だって。事故だって。なんだって。変わらない明日が絶対にくる約束なんて、これっぽっちもないのに。

 
「……だから、葉山くんも絶対に後悔しないように頑張ってね」
「えっ?」
 
 野々宮が下りる駅についてしまい、慌てて恵介がその意味を野々宮に聞き返そうとするとふふっと笑った。
 
「だって葉山くんがぜ~んぶ告白を断ってるのって、もう心に決めてるひとがいるからでしょ? 葉山くんが好きで好きでたまらないって、そういうひとが、実はもうとっくにいるんでしょ?」
 
 電車のドアがギーと音を立てて閉まる。
 野々宮ともう少し話したかったけれど、もう時間切れだった。
 でもそれでよかったのかもしれない。
口パクで『ばんばって!』と恵介を励ましてくれたあと、遠ざかっていくホームにうずくまって泣いている野々宮の姿が見えた。