恵介が軽音部へ入部届けを出しにいった翌週。帰宅部になると言っていた一晟が突然、体育委員になってしまった。
 他の委員と違って体育委員はあまり人気がなく、最終的にジャンケンで決めることになったのだが、いざ立ち上がってジャンケンをする段階になって急に一晟が手を上げた。
 いつも教室ではむすっとした顔で存在感を消している(ように見えてまったく消えてはいないのだが)一晟に一気に注目が集まる。
 
「まじで~!」「助かるわ!」「石塚かっけ~!」と口々に言われたが、一晟は嬉しそうな顔もせずただ小さく頷いただけだった。

 
* 

 
「……なんでだよ。なんであんな面倒な委員を引き受けたんだよ」

 下校時間がものの見事にばらばらになってしまい、朝の電車の中でつい恵介が一晟に文句を言うと、一晟が困った顔をした。
 あ。これ、あまり知らないで「やる」と言ったやつだ。
 すぐにそうわかった。
 
「おまえの軽音部の練習と同じくらいの時間に終わると思ったから、委員会にでも入れば一緒に帰れると思ったんだ」
 
 軽音部の練習は週三回。月、水、土。委員会活動は基本的に部活と被らないようになってるから、火か木。……そして体育祭が近いせいでその準備に追われている体育委員は、今かなりの頻度で招集がかけられ、一週間のほとんどを一緒に帰ってない。
 
「それにジャンケンをやっても負けてたかもしれないしな」
 
 それは嘘だ。
 一晟がジャンケンで負けるところを見たことがない。一晟はジャンケンの王だ。
 だから恵介は昔から絶対に一晟とはジャンケンをしないことに決めている。
 
「……まあ、考えてみれば、高校生になっても毎日一緒に帰ってる方がへんだよな」
 
 さみしい気持ちを押し殺しつつ、自分の気持ちと真逆のことを言うと、一晟が不意に真顔になった。
エアコンがかかってないはずの車内の温度が一気に下がったような気がして、ヒヤリとする。
 鋭い目つきで睨むように見られて、車内のざわめきがなぜか急に聞こえなくなった。
 
 ……え。俺、今そんな怒らすようなこと言ったか?
 
「俺はへんだと思ったことはないが」
「……いやでもさ、幼稚園からずっと一緒だから一晟もそれが当たり前みたいに感じてるかもしれないけど。高校生にもなれば、好きな子とかできて一緒に帰ったり……ってなるのがふつうだろ?」
 
 本当はちっともそんなこと思ってないくせに、なぜかそんな言葉がスラスラと口から出てくる。
 
「……ふつう」
「うん、そう。クラスでも付き合い始めた子、出てきたじゃん。一晟、気づかなかった?」
 
 何人かの名前を口にすると、一晟が眉間にぎゅっと皺を寄せた。
 
「……俺が気づくと思うか?」
「……思わないけど。まあ、だから、とりあえずは体育委員がんばれ。俺も軽音がんばるし」
 
 その時恵介の頭の中にあったのは、体育祭が終わってさえしまえばもう少し一緒に帰れるようになるんじゃないか、ということで、それ以上のことはあまり深く考えていなかった。
 だから学校が終わり、帰宅して夕飯を食べたあと、一晟から珍しく携帯に着信があったときは心底驚いた。
 
「一晟? 電話かけてくるの珍しいじゃん。どうした?」
 
 つい声が弾んでしまう。
 メールならよくやりとりしているが二人が携帯で話すことはほとんどなかった。
 朝も帰りも一緒だったから、話したいことがある時は会ってから話した。
 
 ごろんとベッドに横になりながら足をこっそりバタバタさせる。
 
『おう。……今、大丈夫か』
「へーき、へーき」
『もう家か? 夕飯は食べたか』
 
 携帯から聞こえてくる声がいつもより近い。自分より低くて耳朶をくすぐる響きにうっとりする。
 
「食べたよ。さっき」
『今日も部活、遅かったのか』
 
 おまえは俺のお父さんか、お母さんか! という過保護な一晟の質問につい噴き出して返す。
 
「まあ……いつもどおり?」
『日がのびてきたから大丈夫だと思うが、気をつけて帰れよ。不審者がいたらすぐ携帯のアラームを鳴らせ。警察にも躊躇わずに通報しろ』
 
 ……もう俺も高校生なんだけど。女の子に間違えられていた子供の頃とは違うんだけど。
 呆れてそう言いかけたが、一晟が本気で心配してくれているのがわかったから「了解」とだけ短く答えた。
 
『今は男だって狙われる時代なんだからな』
 
 まるで恵介の考えていたことを見透かされたような言葉にドキッとする。
 
「うん、ちゃんと気をつける……てか、用事ってそれ?」
『いや。……今朝、電車の中で話してたことだが……』
 
 小さく咳ばらいしたあとでおずおずと一晟が切り出した。珍しく歯切れが悪い。
 
「え、なんだっけ?」
 
 なんの話かわからくて、朝、電車の中で一晟とした会話を必死で恵介が思い出そうとしていると、一晟が急に大きな声を出した。
 
『俺にとっては全然、当たり前じゃない』
「へっ?」
『だから、……お前と一緒に学校へ行ったり帰ったりすることは、ちっとも当たり前なんかじゃない』
 
 一晟がなにを言い出したのかちっともわからなかった。
 けれど胸の奥がフワッとしてまるで遊園地でバイキングに乗ったような気分になった。
 高いところから低いところへ一瞬で落ちるときの、あの浮いたかんじ。あれにとてもよく似ている。
 
「……あ、そうなんだ?」
 
 変にかすれた声が出てしまい少し慌てた。
 
『ああ』
「……ていうか、別にそんなに気にしなくても、少し落ち着いたらまた一緒に帰れるようになるだろ。そんな毎日じゃなくても。朝は今まで通り一緒に行けるんだし。そりゃ……俺もちょっとはさみしいけどさ」
 
 本当はちょっとどころじゃない。
 でももう、拗ねた子供が駄々をこねるようなことを一晟に言いたくなかった。
 
『まあ……そうだな』
 
 一晟が携帯の向こう側で小さくため息をついたのがわかる。
「あれ?」と首を傾げる。
 一晟、なにか呆れてる? ……それとも落ち込んでる?

 「一晟?」
 
 声をひそめて恵介が訊ねると一晟がボソリと呟いた。
 
『……恵介は周りのことをよく見てるわりに、こういうことはにぶいな』
「え? どういうことだよっ」
『いい。なんでもない。いつかもっとちゃんと顔を見て言う。……おやすみ』

 おやすみ、と返して、切れた携帯を恵介は握ったまましばらくベッドの上で呆然とし、「なんだよ」と呟いた。
 
 一晟、頼むから俺にもっとよく理解できる言語で話してくれ。