「おまえさ、さわやか王子ってあだ名がついてるの気づいてた?」
放課後のカフェテリア。軽音楽部の練習を聞きながら、パックのジュースをちゅるちゅると吸ってた葉山恵介はものの見事に吹き出した。
目の前に座っている石塚一晟がおもむろにポケットをまさぐり、ハンカチを取り出して渡してくれる。それを咳き込みながら受け取って、口元とシャツを大急ぎで拭う。
いつも飲んでるミルクコーヒーやいちごオレの方じゃなくて良かった、と思った。今日に限ってカフェテリアの自販機は、両方とも売れ切れだったのだ。仕方なくレモンティーを選んだが、もしミルクコーヒーやいちごオレだったら、シャツはもっと悲惨なことになっていただろう。……レモンティーでも、うっすら跡は残ってしまっているが。
後で母親にきっと文句を言われるだろうな、と心のなかでこっそりため息をつきながら、「王子ってなんだよ」と恵介は文句を言った。
斜め向かいに座っていた発言の主、クラスメイトの戸田が肩を揺らして笑う。
「ああ、やっぱ、全然気づいてなかったんだ。さわやか王子って、女子が葉山のこと呼んでるの」
「……それってマジ?」
「マジ、マジ。大マジ。……な、石塚も知ってるだろ? 聞いたことあるよな?」
戸田が一晟に訊ねて、すぐにしまった、という顔をした。聞いた相手が悪かった、という顔だ。
「俺はしらん」
案の定、すぐにそう答えが返ってきて戸田は口の端をヒクつかせた。
「……一晟が知ってるなら俺も知ってる」
「ああ……だよなぁ」
幼稚園から付き合いのある一晟は、恵介にとっていわゆる幼馴染というやつだ。幼稚園では同じもも組で、小学校も中学校も住んでいる家が近かったのでずっと一緒だった。クラスは違うこともあったが、朝は当たり前のように家の前で待ち合わせて学校へ行き、帰りは下駄箱の前で待ち合わせて一緒に帰った。
さすがに高校受験で離れるかと思ったが、この春、晴れて同じ高校へと入学した。
恵介はここが第一志望だったが、一晟は第一志望に落ち、仕方なく、すべり止めにしていたこの高校へ通うことになったのだ。
一晟には申し訳ないけれど、落ちてくれてよかったと恵介は密かに思っている。いまさら一晟のいない生活など考えられない。
ハンカチを一晟に返すと、一晟がそれをまた折りたたんでポケットへと入れる。濡れて少し冷たくなってしまったので申し訳ないと思ったが、あまり気にしてなさそうだった。
「……どうして俺は知らなくて当たり前、の前提なんだ?」
一晟が不服そうに会話に参加してきたので、「おっ」と戸田が前のめりになった。目をきらきらと輝かせている。
「だって、石塚はそういうのあんまり興味ないだろ? 周りのやつが今どんな噂してるかとか、自分がどう見られてるかとか」
誰と誰が仲が良くて、今はどこのグループが対立しているかとか。
「それとも興味あるのか?」と聞かれて、一晟は首を横に振る。
「……ないな」
ないどころではない。四月に入学し、もう一か月が経とうとしているが、おそらく一晟はクラスメートの名前さえおぼつかないだろう。さすがにいつも一緒にお昼を食べている戸田の名前は覚えているだろうが。
「……だが他のやつに興味なくても、恵介がなんて呼ばれているのかは知っておきたい」
――なんて爆弾発言を落とすんだ、おまえは。
べこっと手の中のパックをへこませて、恵介は真っ赤になった。
他意はないとわかっているが、あまりにも心臓に悪すぎる。
「なにやってるんだ、おまえは」
びしょびしょに濡れた恵介の手を見て、一晟は眉間に皺を寄せた。
「まだ中身が入ってるんだから、強く握ったらだめだろ」
「おまえが妙なことを言うからだ!」
「妙なこと?」
むすっとした一晟にため息をつきそうになる。
……まあ、どうせ、おまえはそんなつもりでは言ってないんだろうけど。
小学生の頃、「おんなおとこ」とからかわれていた恵介のことを一晟はまだ覚えていて、心配しているのだ。また、いじめられているのではないかと。
あの頃の恵介の見た目は今よりもっと中性的で、どちらかというと女の子に間違われてしまうことの方が多く、学校では少し浮いている存在だった。
色素薄めの栗色の目と髪。色白の肌とほっそりとした体は、若いときモデルをしていた母親譲りのものだ。母親の趣味で髪を長めにしていたのも良くなかったのかもしれない。
その後、中学に入ってからは第二次性徴期をむかえ、ぐっと身長が伸びて肩幅が広くなり筋肉の量も増えたから、もう間違えられることはなくなったけれど。
周りに関心がなかったせいで、ずっと恵介がからかいの対象になっていたことに気づかなかった一晟は、いまだにその時のことを悔やんでいる。
そのことを戸田に説明するかどうか恵介は一瞬迷ったが、どうやら戸田には必要なかったようだ。
「別に悪い意味じゃないから。ただ褒めてるだけだから!」
と不穏な空気を醸し出している一晟に気づき、肩を竦めた。
「ほら、葉山って見た目がイケてるじゃん? だからカッコいいとか、なんか憧れるとか、そういう意味でみんな騒いでるんだろ」
「……さわやか王子って?」
「そう、さわやかな王子さま」
口の中でもう一度「さわやか王子……」と繰り返した後で、一晟がぼそりと言った。
「イケてるのは認めるが、あだ名をつけるのはあまり関心しない」
わざわざあだ名なんてつけなくても、ふつうに名前を呼べばいいだろと、一晟が言うのを聞いて、恵介の胸の奥がじいんと熱くなった。
ああ、こいつのこういうところが好きなんだよなあ、などと思ってしまう。
確かにあだ名をつけるという行為は、微妙なラインだ。それがたとえいい意味であったとしても、それをジャッジするのは呼ばれた本人で、もし少しでも嫌な気分になったとしたら、それは立派ないじめ行為だ。
ふだんは心の機微に疎そうなくせして、こういうところはしっかりしている。
一晟は曖昧に流しがちなところも、はっきりと自分のものさしでノーと言える。
恵介にはできないことだ。
「まあ、そうだけど。……俺の人生では、そんなあだ名をつけられることはまずないから、羨ましいっちゃ、羨ましい……かな」
一晟がじろりと怖い目つきで睨んだので、戸田は慌てて言葉を引っ込めた。
「そろそろ帰ろうか。帰りの電車混むのも嫌だし」
戸田を助けたわけではなかったが、ジュースでべとべとになってしまった両手を早くトイレで洗ってしまいたくて、二人をそう促した。
一晟がまたハンカチを差し出してくれたけれど、今度は受け取らなかった。
おまえのポケットが悲惨なことになるだろ。
*
それにしても「さわやか王子」ってなんなんだ。みんな、誤解してる。
自分にはどこにもさわやかな要素なんてないし、どちらかというとむっつりの方があっている。
恵介は混み始めた電車の中で、肩からかけた鞄を少し前に抱えなおして隣に立っている一晟をちらりと盗み見た。
急に暑くなってきたせいでむわりとした熱気が車内にこもっている。
もうそこそろ冷房つけてもいいんじゃないの、という会社帰りのOLらしき人たちが話しているのが聞こえてきたが、いやまだいいだろ、と恵介はこっそり心の中で反論する。
いつも第一ボタンまできっちりと締めネクタイをしている一晟が、車内の熱気にやられてジャケットを脱いだ。ネクタイをするりと抜いて、ボタンを二つほど開ける。
額にわいた汗を腕のシャツで拭うまでの一連の動作を、恵介はごくりと生唾を飲みながら見ていた。
一晟は子供の頃から寒さには強いくせに、夏の暑さにはめちゃくちゃ弱い。気温が二十五度を超えてくるとアイスを毎日二個は食べ、飲み物は常にキンキンに冷やした強めの炭酸だ。
冬はきちんとした恰好をしているが、夏はとにかくゆるくなる。だらしない、の一歩手前のギリギリさまで攻め、半袖のTシャツですら暑がって、袖をくるくる捲って腕を出す。
つまり、恵介にとって最高の季節の到来だ。
自分がそういった意味で一晟を好きだということに気づいたのは、中学生になってからだった。周りがなんとなく異性を意識し始めて、「どの子がかわいい」だの「好きなタイプはだれだれ」だのとヒソヒソ言い合うのを聞いても、恵介は全くピンとこなかった。
中学男子らしく露骨な下ネタまじりで「俺は巨乳派」「俺は太ももに目がいく」などと話しているのを聞いた時に想像したのは一晟の筋肉質なからだで(あいつのがっちりした胸板は最高だ)だったし、(重いものを持ったときに盛り上がってくる腕の血管に目がいく)だった。
どうやら自分はちょっとおかしいらしい、と軽い衝撃を受けたが、一晟以外の男にはまるで興味がわかなかったので、ゲイというのとも、ちょっと違うのかもしれない。
恵介のなかで一晟だけが特別な存在だ。
昔も今も、ずっと。このいつも隣にいる幼馴染だけが。
「恵介、部活やっぱり軽音にするのか」
窓の外を眺めながら、一晟にふいに訊かれて恵介は我に返った。慌てて視線を同じように窓の外へとやってそっと息を逃す。
「……まだ迷ってる」
「そうなのか?」
毎日わざわざカフェテリアに寄って軽音部の練習に聞き耳を立ててから帰宅する恵介に、一晟はとっくに気づいていたらしい。
「でも好きだろ、ギター」
「好き……だけど」
「ならどうして迷う? ゴールデンウイークに入る前に入部希望者は入部届けを出せって、部長が新歓で説明してただろ。もうすぐだぞ」
一晟はよく恵介の家に遊びにくるので、恵介の部屋の片隅にギターが置いてあるのを知っている。
前に訊かれたときには「インテリアでただ飾ってるだけ」と言って誤魔化したのだが、帰宅するといつもすぐにいじっているのはきっともうバレている。
自分の部屋で椅子に片足をのせて外に向かって気持ちよく鳴らしていた時に、窓の外を歩いていた一晟と目が合ったことがあるからだ。その後、素知らぬ顔で部屋に入ってきたから、目が合ったと思ったのは気のせいだったと思ったが。思いたかったが。
やっぱり気のせいなんかじゃなかったか。
「……なんていうか、一人で練習してるほうが合ってる気がするんだよ」
「俺は人にたくさん聞いてもらった方が上達すると思うぞ」
「……そうかな」
「おう」
「おまえは? やっぱ体動かす系?」
話をしながらちらっと一晟を見ると、一晟は難しい顔をしていた。
太くて短い眉がぎゅっと寄っている。
一晟は小学生の頃から近所の警察署の少年剣道部に入っていた。「地域の少年少女とのふれあいを大事に」する警察署が、署内の道場を開放してくれているのだ。
もともと体格の良かった一晟はそこでさらに鍛え上げられ、今では街中を歩いていると通行人が避けて通るほど「ただものじゃない」感がすごい。長身でがっしりとした体格のうえ、顔もかなりの強面だ。やくざ役ばかりやっているなんとかっていう俳優に似ていると母親が言っていたが、恵介はそれよりシベリアンハスキーに似ていると思っている。
ムッとした時や考え事をしている時の口元なんか特にそっくりだ。
「剣道部があれば入ったんだが」
「あ~、そっか。そういやうちの学校って、運動系は野球とテニスとサッカーだけか。……一晟、運動神経いいのに、球技系はからっきしだめだもんなあ」
ここでは、一晟の特技はまるでいかせない。
滑り止めだったとはいえ、なんでこの高校を受けたんだろう。もうちょっと調べてからにすればよかったのに。
「だからたぶん俺は帰宅部だな。どうせ週に何回かは少年剣道の方に顔出す予定だったから、ちょうどいい」
そうなのか。
最寄りの駅について、ぶらぶらと家までの道を歩きながらいつもの角で別れた。
「また明日」とひらりと手を振った一晟に「俺、明日、入部届け出してくる!」と宣言すると、口の端を軽く持ち上げて笑ったので、不覚にもきゅんとしてしまった。