中学校の敷地に沿ったカーブを抜けて側道に逸れる。アパートや戸建てが立ち並ぶ住宅街に入ったところで。
「どうして、一生キスすることがないかもしれないと思っていたんだ?病気が原因なのか?言いたくなかったら言わなくてもいいけど……」
 奥歯に物が挟まったような口調で質問された。
 正直、蒸し返してほしくない話題だったけど。病気のことを心配してくれていることはわかったから。
「普通にモテないからだよ。僕みたいなチビで病弱な人間に、彼女なんてできると思うか?」
 卑屈な胸の内を露呈する。
「できないことはないだろ?特進クラスで将来有望だし」
「男は勉強だけできても駄目なんだよ」
「俺みたいにできない奴からしたら、すげーなって思うよ」
 僕にとって勉強は、自己肯定感を満たすための唯一の手段だった。運動はできないし遊ぶ相手もいないから、他にすることがなかったとも言える。でも、テストでいい成績を残したところで、一時的には達成感を得られるけど、時間が経つと勉強(それ)しかない自分に落胆する。だから桐生君のように、努力では到底手に入れられないものを持っている人に無性に憧れる。
「それに、勉強だけってこともないと思う。中学の体育のとき、いつも一生懸命でいいなと思ってた。ゲームに入れねーのにパスだけ練習する意味あんのかって、最初は思ってたんだ。でも、お前はいつも一生懸命で……、サッカーでトラップができるようになったとき、すげー喜んでて、俺まで嬉しくなった。そういうところ、見てる人はいると思う」
 まさか彼が僕のことを覚えていたとは思ってもいなかった。
 一瞬言葉に詰まり、「ありがとう」と、嬉しい気持ちを素直に口にする。
 道を折れて住宅街の一角に入る。あと100メートルほどで我が家だ。
「言いたくなかったら言わなくてもいいけど……、桐生君は、どうしてサッカーをやめたの?」
 サッカーの話題が出なかったら、訊く勇気はなかっただろう。彼がサッカーを辞めたことはずっと気になっていたから、ついでを装って訊ねた。
 桐生君が黙り込む。ほぼ初めて喋ったような人間に、いきなりそんなディープな話題を話してくれるわけないか。そう諦めかけたとき。
「サッカーは好きだけど、人間関係が面倒くさくなったから」
 ぼそりと、返事が返って来た。
 続いて、昼間の残暑の残る住宅街の小道に、沈んだ声がぽつりぽつりと吐き出される。僕は相槌も打たず、普段よりゆっくりと足を進めながら、彼の話にただ耳を傾けていた。

 サッカー部でいじめがあったことは、噂通りだった。
 僕達と同じ学年で、明るくてお調子者のキャラで、一年生の頃、二年生に可愛がられていた部員がいたらしい。でも、三年生が引退して二年生が最高学年になると、パシリから始まり、しだいに、頼んだ買い物の代金を払ってもらえなくなったり、それを指摘すると暴力を受けたり、金を取られたりするようになったという。
 二年生に進級した頃にそのことを知った桐生君は、顧問の教師に報告し、先輩にもやめるように頼んだそうだ。しかし、先生は、「本人に確認したが、いじめられているという事実はなかった」とうやむやにし、先輩達は、桐生君のスパイクを盗んだり試合でパスを回さなかったりなど、桐生君にまで嫌がらせをするようになった。
 そして、いじめられていた彼への行為もエスカレートし、全裸で土下座している動画を撮られ、それを仲間内のコミュニケーションツールで拡散されたのだそうだ。
 それに怒った桐生君は先輩たちと殴り合いの喧嘩をし、打ち所が悪く一人が入院が必要になり、警察まで介入したことで、サッカー部はしばらく活動禁止となり、その年の中体連にも出られなかった。いじめられていた彼は、他の中学校へ転校したということだった。
「転校していったそいつに言われたんだ。お前が騒ぎたてなければ、そこそこ上手くやれていたのにって。先輩達だって、同じような扱いを受けてきている。みんな適当にやり過ごしていたことなのに、お前の偽善が部をめちゃくちゃにしたんだって……。そいつにそんなふうに言われたことが、一番ショックだったな……」
 当時の、桐生君のことを訊いたときのサッカー部の子達の反応を思い出した。
 「色々あったんだよ」と、詳しいことは話したがらない彼らの表情には、後ろめたさがあったように思う。きっと彼らも、先輩たちのいじめを知っていて、気づかないふりをしていたのだろう。
 先輩達は卒業したんだから。今の学校のサッカー部にはいじめはないだろうから。またサッカーやればいいだろ。
 そう言うだけなら簡単だ。
 桐生君自身も、何度もそう思おうとしたかもしれない。けれど、辛い経験とサッカーを切り離せないから、今も復帰できないでいる。
「偽善じゃ……ないよ」
 僕に言えることはそれだけだった。
「中学のとき、体育のサッカーで君にゲームに誘ってもらえたこと、僕は本当に嬉しかったんだ。一生忘れられない思い出になった。誰かのために何かをしたことは……、いい結果を残さなかったとしても……、にせものではないと思う……」
 ありがとう、と口の中で呟く声が聞こえた気がする。
 家に到着し、送ってくれた礼を言って、桐生君と別れた。
 自転車に乗った彼の後ろ姿が暗闇に溶けてなくなるまで、僕は彼を見送っていた。