取り残された男二人。片方は女装で片方はびしょ濡れ。これを悪夢と言わずして何と言うのだろう。
「悪かったな」
おしぼりで顔とシャツを拭きながら、桐生君が形ばかりの謝罪の言葉を口にする。多少は反省しているのかと思えば。
「こんなところまで付き合わせて」
続いて出てきた言葉に、今度は僕の堪忍袋の緒がぶち切れた。
テーブルにあったおしぼりを彼の顔に向けて投げつける。運動神経のよい彼だから、顔には当たらずキャッチされた。くそっ。僕も水にしておけばよかった。
「謝るべきはそこじゃないだろ!」
反撃は予想していなかったようで、切れ長の眼が軽く見開かれる。
彼は考えるように、明後日の方向に視線を向けて。
「もしかして、キスのことで怒ってんのか?」
さも、いま思い至ったかのように口にした。
むしろ、何で怒ってないと思うんだよ!
「あんなんただの接触だぞ。キスのうちにも入んないだろ」
普段はもっと激しいのをしてますっていう自慢かよ!
「運動部ならノリでやるレベルだ」
君も、今は運動部じゃないだろ!
「それでも、僕は初めてだったんだぞ!」
言いたいことは山のようにあれど、一番ぶつけたい文句はそれだった。
桐生君がふてくされたように視線を逸らす。
「悪かったな」
言わされただけの、全然悪いと思っていない謝罪の言葉に、僕の怒りは収まらない。
「その『ただの接触』すら一生ないかもしれないと思っていた人間の気持ちなんて、どうせ君みたいな人間にはわからないだろ!」
言ったあとで、今のはただの僻みだったと後悔した。僕にキスする相手が一生できないかもしれないことに、桐生君は何の関係もない。
怒っているのは、本当は、その「接触」が不快だったからでも、初めてを奪われたからでもない。ただ、悔しかったのだ。桐生嘉晴がそんな人間だったことが。
彼女との間に何があったのかはわからないけど。別れるにしても、彼女のことを傷つけない、もっと別のやり方があったんじゃないかと思う。事前の承諾もなしに僕にキスしたことも、僕という人間を軽んじているとしか思えなかった。
かつての彼は、そんな人じゃなかった。そんな身勝手な偶像崇拝が、行き場のない怒りに変わっただけの話。
反省しているのかどうかはわからないが、その後の彼は、僕に対して終始神妙な態度だった。
駅の多目的トイレで男子の制服に着替え化粧を落とす頃には、僕の怒りもかなり収まっていた。そもそも僕も妹の代わりに追試を受けているのだから、人を騙している最低の人間に違いない。桐生君にどうこう言える資格はなかった。
僕の家は地元の駅から歩いて15分程のところにある。彼は少し離れていて駅からは自転車。家まで送ると言い張られて、自転車を押した彼と一緒に歩くことになった。
裾に仄かな赤みを残した群青色の空には、満月には少しだけ足りない十六夜の月が輝いている。車道に並ぶ車が帰宅ラッシュでほとんど動けない中、せわしなく歩道を歩く会社員や学生が、何度か僕たちを追い抜いて行った。
駅から自宅までの帰り道には、僕たちが通っていた母校の中学校がある。夜の帳の下りた学校は、職員室の辺りにだけ、明かりが残っていた。学校の敷地に沿ったゆるいカーブを曲がりながら。
「今日は付き合ってくれてありがとう。あと……、悪かったな」
気まずい沈黙を破り、桐生君がぼそりと言葉を発した。
ファミレスで言われたときと違って、その声からは本気の謝罪の気持ちが感じ取れる。
「もういいよ。君が言うように、ただの接触だし、初めてだったのは君の所為じゃないから。でも、次に誰かに同じことを頼むときは、ちゃんと事前に許可をもらったほうがいいと思う」
「たぶん……、ああいうことは、もうしない」
それは予想外の言葉だった。
「また水かけられるのは勘弁だからな」
茶化すように付け加えられたが、それだけが理由ではないように思える。彼なりに反省したのだと、いいように解釈することにした。
「悪かったな」
おしぼりで顔とシャツを拭きながら、桐生君が形ばかりの謝罪の言葉を口にする。多少は反省しているのかと思えば。
「こんなところまで付き合わせて」
続いて出てきた言葉に、今度は僕の堪忍袋の緒がぶち切れた。
テーブルにあったおしぼりを彼の顔に向けて投げつける。運動神経のよい彼だから、顔には当たらずキャッチされた。くそっ。僕も水にしておけばよかった。
「謝るべきはそこじゃないだろ!」
反撃は予想していなかったようで、切れ長の眼が軽く見開かれる。
彼は考えるように、明後日の方向に視線を向けて。
「もしかして、キスのことで怒ってんのか?」
さも、いま思い至ったかのように口にした。
むしろ、何で怒ってないと思うんだよ!
「あんなんただの接触だぞ。キスのうちにも入んないだろ」
普段はもっと激しいのをしてますっていう自慢かよ!
「運動部ならノリでやるレベルだ」
君も、今は運動部じゃないだろ!
「それでも、僕は初めてだったんだぞ!」
言いたいことは山のようにあれど、一番ぶつけたい文句はそれだった。
桐生君がふてくされたように視線を逸らす。
「悪かったな」
言わされただけの、全然悪いと思っていない謝罪の言葉に、僕の怒りは収まらない。
「その『ただの接触』すら一生ないかもしれないと思っていた人間の気持ちなんて、どうせ君みたいな人間にはわからないだろ!」
言ったあとで、今のはただの僻みだったと後悔した。僕にキスする相手が一生できないかもしれないことに、桐生君は何の関係もない。
怒っているのは、本当は、その「接触」が不快だったからでも、初めてを奪われたからでもない。ただ、悔しかったのだ。桐生嘉晴がそんな人間だったことが。
彼女との間に何があったのかはわからないけど。別れるにしても、彼女のことを傷つけない、もっと別のやり方があったんじゃないかと思う。事前の承諾もなしに僕にキスしたことも、僕という人間を軽んじているとしか思えなかった。
かつての彼は、そんな人じゃなかった。そんな身勝手な偶像崇拝が、行き場のない怒りに変わっただけの話。
反省しているのかどうかはわからないが、その後の彼は、僕に対して終始神妙な態度だった。
駅の多目的トイレで男子の制服に着替え化粧を落とす頃には、僕の怒りもかなり収まっていた。そもそも僕も妹の代わりに追試を受けているのだから、人を騙している最低の人間に違いない。桐生君にどうこう言える資格はなかった。
僕の家は地元の駅から歩いて15分程のところにある。彼は少し離れていて駅からは自転車。家まで送ると言い張られて、自転車を押した彼と一緒に歩くことになった。
裾に仄かな赤みを残した群青色の空には、満月には少しだけ足りない十六夜の月が輝いている。車道に並ぶ車が帰宅ラッシュでほとんど動けない中、せわしなく歩道を歩く会社員や学生が、何度か僕たちを追い抜いて行った。
駅から自宅までの帰り道には、僕たちが通っていた母校の中学校がある。夜の帳の下りた学校は、職員室の辺りにだけ、明かりが残っていた。学校の敷地に沿ったゆるいカーブを曲がりながら。
「今日は付き合ってくれてありがとう。あと……、悪かったな」
気まずい沈黙を破り、桐生君がぼそりと言葉を発した。
ファミレスで言われたときと違って、その声からは本気の謝罪の気持ちが感じ取れる。
「もういいよ。君が言うように、ただの接触だし、初めてだったのは君の所為じゃないから。でも、次に誰かに同じことを頼むときは、ちゃんと事前に許可をもらったほうがいいと思う」
「たぶん……、ああいうことは、もうしない」
それは予想外の言葉だった。
「また水かけられるのは勘弁だからな」
茶化すように付け加えられたが、それだけが理由ではないように思える。彼なりに反省したのだと、いいように解釈することにした。