そのままの恰好のほうがいい、と言われて、僕はウィッグをかぶり化粧もしたまま、桐生君と一緒に学校を出た。
 僕たちが住んでいる地域から学校までは、電車とバスを乗り継いで1時間ほどの距離があり、僕も桐生君も地元の駅から電車で通学している。
 3分ほどの距離を歩いてバス停まで行き、最寄り駅まで行くバスに乗った。帰宅ラッシュの時間より早いため、車内には空いている席もある。一人分空いていた席の前に連れて行かれて、「座って」と顎で示される。「ありがとう」と彼にだけ聞こえる小声で言い、バックを胸に抱え腰を下ろした。
「優しくてイケメンの彼氏、羨ましすぎる~」
 後ろの席にいた女子たちがこちらを見て、コソコソと話す声が聞こえてくる。内容から察するに、僕たちのことをカップルと勘違いしているようだ。
 僕なんかとカップルに間違われて申し訳ない。と思いつつも、不快ではなかった。桐生君の彼女に間違われたのなら、男であってもむしろ光栄なことに思える。
 僕は体も小さくて黒縁眼鏡をかけたいかにもな地味メンで、桐生君のようなスクールカーストのトップにいる人とは真逆のところに生息している。電車や校舎内でたまに見かけても、目を合わせる勇気すらなかった。今日のトイレでのハプニングがなければ、おそらく卒業まで話をすることもなかっただろう。
 つり革に掴まって前に立つ男の顔を、僕は上目遣いでこっそり盗み見た。ぼんやりとしたその視線は、車窓の景色に向けられている。
 女の子たちが騒ぐくらい彼の顔が整っていることは、僕も異論がないが。彼女たちは、彼の本当のかっこよさを知らない。
 目にかかる長めの前髪にシャツの襟を隠す後ろ髪。たまたま今だけ伸びているのではなく、サッカーをやめてからの彼の髪は、ずっとこのくらいの長さだ。その、運動部では見かけない長めの髪が、サッカーをしないアピールのように思えて、見かけるたびに少しだけ残念に思っていた。

 僕と桐生君は同じ中学出身だけど、クラスは一緒になったことがない。でも、背が高く運動神経抜群で、一年生のときからサッカー部のレギュラーだった彼は学年内では有名人で、僕も彼の名前と顔を知っていた。
 僕は生まれたときから心臓に重い病気があり、赤ん坊の頃に大きな手術を受けている。手術してしばらくは問題なかったが、数年後の検査で肺にいく動脈が狭くなっていることが確認され、これまで三度、カテーテルで血管を広げる治療を受けた。しかし、それで完全に治癒したわけではなく、運動や呼吸器感染など酸素が必要な状況に陥ると、酸素が足りなくなる。そのため、歩行よりハードな運動は制限されていた。
 もちろん、体育はほとんど見学。最初の準備体操のみ参加し、球技は立ったままのパス練習くらいならできる。でも、野球はボールを取れずに顔面に当たり、バレーやバスケットは突き指をしたので、それすらも許可してもらえなくなった。そんな中でサッカーだけは唯一、怪我することなくパス練習に参加できていた。
 中学生の頃、体育の授業は男女別に2クラス合同で行われていた。授業でサッカーが始まり、パスとトラップだけなら空振りせずにできるようになった頃。隣のクラスだった桐生君が、急に話しかけてきた。
 「ゲームに加わりたいか?」と訊かれて、「走れないから無理だよ」とさも当然のように答えた。
「ボールを蹴ってトラップできるのなら、ゲームにも参加できるぞ。一度だけやってみたらどうだ?」
 人気者の彼にそこまで言われたら、陰キャの僕に断る勇気はない。
 桐生君は体育教師に直談判し、走らないことを条件に僕のゲームへの参加を認めさせてくれた。
 キックオフと同時に敵のゴール前に行くように言われて、ただそこに立っていた。敵のゴールキーパーがサッカー部で、ボールが来ない間、「このへんを狙ったらいい」とアドバイスをくれたけど、そのアドバイスが役に立つことはないだろうと思っていた。
 桐生君にボールが渡ると、彼の独断場だった。誰にもボールを触らせず、まるでボールが足にくっついているかのようなボールさばきで次々に敵を抜き去る。それまでの授業のサッカーでは明らかに手加減していて、なるべくパスを回したり、わざと抜かれたりしていたから意外だった。最後の一人をパスでかわし、そしてそのパスは、狙ったように僕の足元に来た。
 本当は前に敵のいない状態で味方からパスを受けると「オフサイド」という反則になるんだけど。僕だけはそのオフサイドが適用されないように桐生君が教師と相手チームに交渉してくれていた。
 僕は人生で初めて、サッカーの試合の中でパスを受け、そしてキーパーの彼が「このへんを狙え」と言っていたゴールの隅に向かって蹴り込んだ。
 パス練習ではインサイドキックという足の内側で蹴る蹴り方しか練習していなかったから、ボールの勢いは弱い。サッカー部の彼なら二、三歩足を動かすだけでボールを取れていたはずだ。けれどキーパーは、ボールを取るふりをしてボールに手が届かないところで倒れ込み、そしてコロコロコロとボールはゴールの中へと転がっていった。
 桐生君がくれたパスも、ゴールキーパーがボールを取れなかったことも、僕にゴールさせようという意図がありありだった。でも、茶番の中でしかスポーツをできない悔しさよりも、生まれて初めてサッカーの試合に参加し、ゴールできた喜びのほうが、ずっとずっと大きかった。桐生君とハイタッチをかわし、チームメイトからも敵のチームからも祝福されて、本当に泣きたいくらい嬉しかったんだ……。

 桐生君は中2のときにサッカー部をやめて、部内のいじめが原因だと噂されていた。それと関係しているのかはわからないけど、その頃、サッカー部はしばらく活動を禁止されていて、中体連にも出られなかった。
 うちの高校は文武両道をうたっていてサッカーも年によっては全国大会に出場するくらいに強い。桐生君が同じ高校と知り、僕は、サッカーに復帰するために彼はこの高校を選んだんじゃないかと秘かに喜んでいたけど、それは僕の勝手な思い込みだったようだ。