腕を引かれるままに足を動かし、気づいたらトイレの個室に入っていた。何故か、桐生君と二人で。
 彼は高校1年生にして、女子と変わらない背丈の僕からすると見上げるほどに背が高く、体は筋肉の厚みがある。
 胸の前に抱えていた荷物は、彼の体を回り込む形で便器と壁の間のスペースに収まっていて、詰め物の胸が彼のお腹にあたっていた。詰め物だとバレないか気が気でないが、回れ右することもできず、文字通り『背に腹は代えられない』状況だった。
 トイレ独特の匂いを感じなくなり、かわりに、衣服の洗剤の香りと、それに混じる桐生君の汗の匂いが、酸素の濃度を薄くする。不快なわけではないが、その匂いは、僕の心臓の動きを怖いほどに加速させた。
 4人組は結局全員がトイレに来たようで、4人分の声がする。彼らの話題は女子の品評会から、今度参加するらしい合コンのことへと移っていた。会話の声に、尿が便器に落ちる音が混じる。
 やがて声は手洗い場へと移動し、水道の音が聞こえ始めた。息を詰め、彼らの話し声が遠ざかるまで、待つこと数分。その頃には頭が冷静さを取り戻し、桐生君と二人でトイレの個室にいる理由も理解していた。
 助けてくれたんだと思う。咲月が、恥女にならなくてすむように。彼まで一緒に入る必要はなかったと思うが。やはり彼は思っていたとおりの優しい人だった。
「ありがとうございました……」
 設定を取り戻したか細い掠れ声でお礼を言う。あとは彼がいなくなってくれたら、男子の制服に着替え、妹が持たせてくれたメイク落とし用のシートで顔を拭いて、僕の任務(ミッション)は終了する。……はずだった。
 けれど、桐生君は個室から出ていくそぶりを見せず。
「お前、神楽(かぐら)の兄貴のほうだろ。何で妹のフリしてるんだ?」
 予想外の質問が、頭上に降って来た。
 僕は俯かせていた顔をガバッと上げた。
 身長差の分。僕が160cmだから、たぶん20㎝ちょっとくらいの、今まで見たこともない近さに彼の顔がある。
 僕と違って色の濃い、漆黒の黒髪と、男らしくキリリとした眉。切れ長の眼は目尻が少し上がっていて、真顔でも眼光鋭い。鼻筋も通っていて唇は薄く、僕とは真逆の、男らしく凛々しい顔立ちだ。しかし今は、その顔に見惚れている場合ではない。
「わ、私、今日は風邪を引いていて、声がおかしくて……」
 先ほどのオネエ声で見破られたのだろうと思った僕は、声がおかしい言い訳をし、咲月の友達にしたように、コホコホとマスクの下で咳き込んで見せた。
「別に声で気づいたわけじゃなくて。教室にいたときから気づいてたけど。妹はそんなにウエスト細くないし、胸もないだろ?」
 あんのバカ妹が~~~!と雄叫びをあげたい気分だった。
 家の姿見で確認したとき、僕も同じことを指摘したのだ。「お前はもう少し腰回りが太いし、胸もこんなに大きくないだろ」と。
 しかし妹は、「私のウエストがおにいより太いって言うの!?」と逆ギレし、「着痩せしてるけど、胸だって本当はこのくらいあるのよ」という謎の理由でブラの中に詰められるだけの詰め物を入れやがった。
 バレてしまった以上は、妹に代わって追試験を受けた理由を説明し、見逃してもらえるよう泣き落としするしかない。
 中学の頃から秘かに憧れていた彼と、こんな場所で、こんな格好で話をする羽目になり、本気で泣きたい気分だった。実際、ちょっと涙目になっている。
「あの……、実は咲月はここ数日、本当に風邪を引いていて……、追試の勉強も頑張っていたけど、今日は熱もあって試験を受けられそうになくて、それで、僕が代わりに……」
 実際に彼女は、ここ数日は学校でもマスクをしていたはずだし、僕に追試を代わりに受けてほしいと泣きついてきたときも、「風邪を引いて追試の勉強が手につかなかったから、無理して受けても絶対に不合格になる」と言い訳していた。しかしそれは、僕を替え玉にするための「仕込み」で、風邪が仮病であることも、双子である僕にはお見通しだった。かと言って妹の身勝手な頼み事を邪険にできないのも、子供の頃からの僕の悪習であり……。
 追試に不合格になっても、秋休みが補習で潰れるだけで、留年が決まっているわけではない。兄としては、「勉強していないのが悪いんだから、試験を受けて、不合格になったら補習を受けろ」と諭すのが正しい選択だとわかっているのだが。結局は妹の頼みを断れずに、女装までして代わりに試験を受けることになった。
 昔から勉強だけが僕の取り柄で、今も、二人とも同じ高校に通っていても、咲月は普通科、僕は成績のいい生徒ばかりが集まる特進クラスで、奨学生として入学金や授業料が免除されている。
「次の試験は絶対に勉強させて自分で受けさせるから、今回だけは見逃してもらえませんか?」
 僕を見下ろす顔が、一瞬、考え込むような表情になり。
「黙っておいてもいいけど。そのかわり、一つ頼みを聞いてもらってもいいか?」
 そう言ったのだった。