「はい、そこまでー」
 間延びした教師の声に、ほぅ、と小さく息を吐く。
 終わった。やっと終わった……。
 そんな達成感に浸るのは、追試に向けて猛勉強したからではない。ようやくこの格好から解放されることへの安堵からだった。
 後ろの席から回って来た答案用紙を、なるべく顔を振り向かせないようにして手だけ差し出して受け取り、自分のと重ねて前へと回す。
「不合格の人は必ず補習に参加するように。サボったりしたら留年しても文句言えんぞ」
 数学教師の池辺は軽く脅すと、束にした答案用紙を手に教室を出て行った。 
 前期の期末試験で赤点を取ったか、欠席で試験を受けられなかったなどの事情で追試験を受けたのは、一年生全体で30人ほどだった。学期末の今日は、追試のない他の生徒達は午前中で授業を終え、下校している。
 周りで次々に席を立つ音や話し声がし始める。僕も席を立つタイミングを見計らっていたら。誰かに、肩をポンと叩かれた。
 恐る恐る顔を振り向かせると、茶髪にギャル系のメイクを施した派手めの女子が立っていた。かく言う僕も、今は似たような見た目なのだが。
咲月(さつき)、何してんの?帰んないの?」
 彼女が声をかけて来ることも、言われることも予想していたので、返事は用意してある。
「私、今日風邪引いてるでしょ。うつすといけないから、先に帰って」
 マスクの下で、喉に力を入れて掠れ声を出す。コホコホとわざと咳き込んでみせると、派手め女子は一瞬だけ気の毒そうな顔をし、「じゃあ、彼ピが待ってるから先行くねー」と笑顔で帰って行った。
 彼女が教室を出たのを見て、僕も腰を上げる。鞄を胸の前に抱き猫背で歩くのは、胸の膨らみと顔を目立たなくするためだった。
 襟下に臙脂のリボンをつけた白シャツの胸元には、普段はない膨らみがある。それを意識するたびに男がブラジャーをつけているという事実も思い出し、発狂しそうになる。スカートを穿いたのも初めてで、歩くたびにひらひらと裾が揺れるのも、何とも心もとない。
 教室には、男子の4人組が残っていて、机に腰かけて雑談していた。「C組の伊藤は胸はデカいけど顔が残念」とか話しているから、女子の品評会らしい。
 くだらな……。そんなことばっか言ってるから、赤点なんか取るんだよ!
 僕にこんな格好をさせた妹への腹立たしさから、無関係な彼らにまで胸の内で毒づき、試験終了後のダレた空気の漂う教室を後にした。

 トイレには先客が一人いて、小便用の便器で用を足しているところだった。その人物が知った顔だったことに一瞬ドキッとしたけど、こちらに顔を向けたその人のほうが、何故か僕以上にギョッとしていた。
 もしかして僕のこと覚えてくれているのかな。いやでも、覚えていたとしても、トイレで会ったくらいでそんなに驚くか?
 不可解に思いつつ、人が用を足しているところをまじまじと見る趣味はないので、すぐに視線を逸らす。逸らせた先で……。手洗い場の鏡に映る自分の姿が目に入った。
 胸元まである明るい髪色は、ピンクブラウンというらしい。丸っこい大きな目はつけ睫毛のお陰で普段以上にパッチリしている。メイクってすごい。声を誤魔化すために風邪を引いている設定でマスクをつけているが、マスクを外したとしても、喋らなければ恐らくあの友人すらも騙し通せただろう。そのくらい、鏡の中の人物は、双子の妹にそっくりだった。 
 瞬きするたびにつけまつ毛による違和感を感じていたが、メイクは崩れていなかったようでよかった。――と、安堵した瞬間。気づいてしまった。
 そうだ!僕は今、咲月だった!
 彼が――桐生嘉晴(きりゅうよしはる)が驚いた顔をしたのは、僕のことを覚えていたからではない。男子トイレに女子が入って来たから、驚いたのだ。
「ヤ、ヤダー。間違えて男子トイレに入っちゃった。ごめんなさい」
 焦り過ぎて、咄嗟に出した声はそれまで使っていた掠れ声ではなく、鼻にかかったようないわゆる『オネエ声』になってしまった。もしかしたら声で男だと気づかれてしまったかもしれないけど。今は、『男子トイレに間違えて入ったうっかり女子』の設定でこの場を乗り切るしかない。
 しかし、踵を返しトイレから出ようとしたところ――。廊下のほうから足音と話し声が聞こえてきた。
「あ、俺、トイレ行きたいからちょっと待ってて」
「俺も行くー」
 声からして、さっき教室に残っていた4人組だ。まさしく『前門の虎、後門の狼』の状況だった。
 桐生君はともかく、女子の品評会をするような彼らのことだ。咲月が男子トイレに入った恥女だという噂は秋休み明けには学年全体に広まっていることだろう。
 許せ、咲月。そもそもはお前が夏休みに遊び惚けて赤点なんか取るから、こんなことになるんだ。
 覚悟を決め、トイレの入り口で彼らと対峙しようとしたとき。急に、後ろから腕を引っ張られた。