「サッカー、またやってみようかと思ってる」
 気負いのない言葉で桐生君がそう言ったのは、地元の駅を出て、僕たちの母校の中学校が見えてきたときだった。
「いいんじゃないか?やりたいことは、やれるときにやっておいたほうがいい」
 人生には、「いつでも」あるものなんて何にもない。子供の頃、病院のプレイルームにあった絵本に書かれていた言葉だ。それは長年病気と連れ添ってきた僕の、座右の銘でもある。
「でも、一つだけ問題がある」
 ブランクが長すぎるとかそういうことかと思ったら。
「橘平といる時間がなくなる」
 珍しく冗談を言われたんだと思った。
「何の問題もないだろ。そもそも僕達は、追試の前までは話をしたことすらなかったんだから」
 元に戻るだけだ。少し寂しいけど。――いや。かなり寂しいかな。
「俺にとっては大問題だ」
 中学校の正門を過ぎたところで桐生君が足を止め、僕もつられて立ち止まった。
「今までは、一緒に登下校したり土日に顔を見るだけでもいいと思えていたけど、これからは絶対に橘平が足りなくなる。短い時間しか一緒にいられないんだから、一緒にいるときはずっとくっついていたいし、できればそれ以上のこともしたい。だから――」
 桐生君が一歩間合いを詰め、あと少しで爪先が触れ合うほど近くに来る。
 僕はわけがわからないままに、頭一つ分高いところにある顔を見上げた。
「俺と付き合ってほしい」
 と聞こえたけど。「俺()付き合ってほしい」の間違いだよな。でも、一体どこに?
 考え込む僕に、彼が追い打ちをかける。
「橘平が、好きだ」 
 僕は、豆鉄砲を食った鳩はこんな顔をするんじゃないかって顔をしていた。そんな顔で、真剣すぎる眼差しと、たっぷり3分は見つめ合った。
「お、大袈裟だなぁ。まるで告白みたいじゃないか」
 頬を引き攣らせ、苦笑いを浮かべる。
 眼差しに耐えられず、笑って誤魔化すしかなかったのだ。
「みたい、じゃなくて、告白してるんだよ」
「冗談だよね?」
「今のが冗談に聞こえたのか?」
 ムッとした顔から、彼の本気度が伝わってくる。
 笑ってはぐらかしてはいけない雰囲気だということは、なんとなくわかった。でも、何がどうしてそうなったのかは、記憶を遡ってみても皆目理由がわからない。
「僕、男だよ。それに勉強ができる以外、何の取り柄もない。僕でいいんなら、咲月にしたらいいだろ?あいつなら、女子だし付き合うのに何の支障もない」
 桐生君は物言いたげにしばらく僕を見下ろしていたけど、やがて。
「ハグ、してもいいか?」
 そんなことを訊ねてきた。
「何で?」
「したいから。嫌ならいい」
 きょろきょろと辺りを見回す。中学校の前のこの道は大通りからは入り込んでいて、学校に用がある車しか通らない。今日は休日なので、見える範囲には車も人もいなかった。
「嫌とかじゃないけど……」
 言った瞬間、桐生君の両腕が伸びて来て、彼の胸に倒れ込むように抱き寄せられる。熱と柔軟剤の香りに包まれ、落ち着かない気分になる。
 ハグってこんなんだったっけ?と軽くパニックになったけど、不快ではなかった。ただ、走ってもいないのに、口から出そうなほどに心臓がドキドキし顔が熱くなるのは、初めて経験する体の異変だった。
「俺は、サッカー以外の時間は、こんなふうに橘平にくっついて、元気をもらいたいんだ。橘平が嫌なら無理強いはしない。今までみたいに友達として付き合ってくれるだけでいい」
「ハグくらいならいいけど……、それ以上のことはできないぞ」
 桐生君が体を離し、少し呼吸がしやすくなる。
「できれば、キスもそれ以上のこともしたい」
「でも……、これ以上は、心臓がついていけなさそうだから」
 ハグだけでも、軽く走ったくらいの動悸がしている。それ以上のこととなると、きっと僕にとっては全力疾走レベルだ。
「それって、そういうことをすること自体は嫌じゃないってことでいいんだよな?」
「へ――?」
 確かに言われてみれば、心臓がもたなそうとは思ったが、桐生君とキスやそれ以上のことをするのが嫌だという発想は沸かなかった。
 それはすなわち、どういうことだろう。そんな懐疑的な表情で、桐生君としばし見つめ合う。
 何がおかしかったのか、桐生君がぷっと小さく噴き出し、相好を崩した。子供をあやすように、僕の頭をぽんぽんと撫でて。
「初めてなんだ。自分から好きになって、付き合いたいと思った人間は。だから時間がかかってもいいから、真剣に考えてほしい」
 その後は家に帰り着くまでお互いに一言も口をきかなかったけど、気まずさは感じなかった。
 桐生君がサッカーを始めたら、こんなふうに並んで歩くことも滅多になくなるんだろうなぁと思って。
 『人生には、「いつでも」あるものなんて何にもない』という言葉を噛みしめていた。